早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 七 猪除けのお守
七 猪除けのお守
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。 キャプション「猪よけの守札を立てる處」。]
或る雨のそぼ降る晚だつたと言うた。猪の番小屋のすぐ傍で、なにやらボソリと變な音を聞いてふしぎに思つた男が、ソツと垂莚の中から覗くと、畔に沿つた井溝の傍に、何だか眞黑いものが昵と[やぶちゃん注:「じつと」。]してゐる。初めは狩人でもあるかと思つたが、よくよく透して見ると、それが大きな猪だつたと言ふ。
[やぶちゃん注:「井溝」二字で「みぞ」と読んでおく。音読みで「セイコウ」と読み、「田の畝の間にある通水路又は村落の間にある通水路」の意の不動産規則の法律用語があるが、硬過ぎる。]
如何に番をしてゐても、ちよつと油斷をすれば、猪が出たのである。或家では人手が無い爲に、夜通しカンテラを田の中に點して置いてそれでも喰はれたが、その隣りの田では、作主[やぶちゃん注:「つくりぬし」。]が忙しいまゝに、どうでもなれと覺悟を決めて、幾日もほつて置いたが、一向寄付もせなんだと謂ふ。或は不運の者に限つて荒らされるなどゝ信じられた。さうかと思ふと、たゞの一晚、風邪氣[やぶちゃん注:「かぜつけ(かぜっけ)」。風邪気味。]で番小屋行きを休んだばつかりに、ひどく稻を喰はれたりした。かうなると、屋敷にゐる鼠かなぞのやうに、そつと其處いらから此方の内證話を聞いてゐるやうにも思へたのである。あの人も運が惡いのんなどゝ、猪に出られた作主を女同志が陰で囁いて居るのを、現に耳にしたものであつた。
[やぶちゃん注:「のん」は近世古語の感動の終助詞「のう」(「なう」の転訛)の音変化であろう。]
早昔話になつた山住(やまずみ)さんの猪除けの御守りを、一人が思ひ出して迎へて來ると、初めは嘲つて見ても、何だか不安になつて、吾も吾もと迎へに行つて、畔每に立てた。山住さんは山犬を祀ると謂ふ神であつた。つい三四年前の事で、刈取を終つた後迄も、畔から畔へ、矢串に挿した白い紙札が、夥しく立つてゐた。中には迎へに行つた時、果して猪が出ぬかなどゝ駄目を押して、お札で心許なくば[やぶちゃん注:「こころもとなくば」。]お姿をお伴れ申すかと、取次の男に嚇されて、いやそれには及びませぬと、早々還つたなどの話もあつた。然し奇妙に其年一年だけは、猪が出なんださうである。さうは言つても、翌年は一人も迎へに行つた者は無かつたと言ふから、村の人々の心持も、猪以上判らなんだ。
[やぶちゃん注:「山住さん」ロケーションから見て、静岡県浜松市天竜区水窪町(みずくぼちょう)山住山の山住神社と思われる。同神社の主祭神は大山積命などであるが、この地域にあった山犬(=狼)信仰の神社であり、狛犬も山犬(狼)となっている。遁走した家康を狼が吠えて守った伝承でも知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該の御札は堀田研究室のブログ「フィールドノート(民俗野帖)」の「山住神社」の、こちらで、鮮明にして大きな画像で見られる。]
山住さんのお姿を借りて來れば、猪でも鹿でも田へ近づくものは片端から喰殺して、其場へ轉がしてあると謂ふ。又その期間中は、田圃近くの草の葉蔭や石の上に、見えるともなく凄いお姿が顯はれるとも謂うた。現に村の空寺[やぶちゃん注:「あきでら」。]へ住持になつて來た山住一派の坊さんは、疑ふなら、食ひ殺してお目にかけやうかと、恐ろしい事を言うたさうである。
[やぶちゃん注:「山住一派の坊さん」神仏習合時代の社僧の末裔であろう。]
自分も一度その坊さんを訪ねて見たが、生憎不在で會へなんだ。留守の婆さんにいろいろ訊ねて歸つたが、須彌壇[やぶちゃん注:「しゆみだん」。]の本尊と並んで、 榊[やぶちゃん注:「さかき」。]を立て注連繩[やぶちゃん注:「しめなは」。]を張り、白い幕が下つて山住さんが祀つてあつた。中に方五寸ばかりの眞黑い箱があつて、お姿が納まつてゐると謂うた。たしか箱の表に右の字が一字記してあつた。中が拜見したいと圖々しく賴んで見たら、雜作は無いが後で納めるのが六かしい[やぶちゃん注:「むつかしい」。]から、何なら住持の居る節にしてくれと、尤もらしい言譯であつた。箱から出すと一緖に荒ばれて[やぶちゃん注:「あばれて」。]困るのださうである。さう言ふ間にも、婆さんの陰慘な顏付と右の字を書いた箱の神祕に魅せられるやうに思つたが、後で聞いた話では、村でも心ある者は、住持の遣方に困つてゐるとの事だつた。一方坊さんには、山住さんがどうしても離れぬのださうである。その後寺の後の山へ、新しく祠[やぶちゃん注:「ほこら」。]を立てゝ祠つたと聞いたが、手近に山住の一派が來られても、猪は未だ盛に出るので、番小屋泊りも休まれぬさうである。
[やぶちゃん注:「右の字」大修館書店「廣漢和辭典」によれば、「右」の字の解字は、「口」は「祈りの言葉」の意、又は「右手」の意で、「祐」の字の初体字で、「神の助け」を意味するとあった。]