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2020/03/14

三州奇談卷之三 諫死現ㇾ神

 

     諫死現ㇾ神

 橄攬(かんらん)、一名を忠果とも云ひ、其味ひ始は苦くして、久(ひさし)うして甘し。唐の王維も之を「忠言耳に逆(さから)ふ」に比す。「世亂(せいらん)久うして之を思ふが故に」と云ふ。

[やぶちゃん注:「諫死現ㇾ神」「諫死(かんし)、神(しん)を現はす」で「神」は生きた人間の知恵では測り知れない不思議な力を意味する。

「橄欖」ムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album はカンラン科の常緑高木。東南アジア原産。果実は食用にされ、種子からは油が採れるため、東南アジアや華南で栽培される。見かけや利用方法がオリーブに似ているため、オリーブ(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea)の訳語として専ら「橄欖」が用いられるが、これは語訳のレベルで、分類上は関係が全くない。但し、当時の日本にはオリーブは勿論のこと、この真正のカンランも存在しなかった(孰れも本邦に渡来したのは明治以降である。平賀源内がオリーブ栽培に挑戦しているが、実際には彼が「オリーブ」だと思ったのはカタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属ホルトノキ変種ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris var. ellipticus で、誤認であった上、しかも失敗している)。

「忠果」中国語で橄欖の別名である。「忠義果敢」の短縮形があるが、これは本来は橄欖とは関係ないと思われ、「後漢書」巻八十の「文苑傳上」の「夏恭傳」に基づくものである。

「王維」不審。彼の詩句にはないのではないかと思われ、「忠言耳に逆ふ」は「孔子家語」の「六本」が出典。「孔子曰、良藥苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行。」(孔子曰く、「良藥口に苦けれども、病ひに利あり。忠言耳に逆へども、行ふに利あり。」と。)であり、「世亂久うして之を思ふが故に」は出所が判らない。因みに、国書刊行会本では「王維」ではなく、「王元」とするが、唐代の知られた「王元」は知らない。]

 本藩金岩(かないは)平助善房は、其元祖荒子譜代の家にして、廉直他を羨まず。忠義且溫和にして、家僕といへども是を守るに、一人の僕久八とて、久しく召仕はれて、是又家風に馴れし者なり。

[やぶちゃん注:「荒子譜代の家」藩祖前田利家が尾張国荒子城を領有していた頃(永禄一二(一五六九)年~天正三(一五七五)年)の直参譜代の従臣たちを「荒子衆」(あらこしゅう)と呼び、山森吉兵衛・奥村次右衛門・吉田長蔵・姉崎勘右衛門・三輪作蔵・山森久次・金岩与次之助の七臣が中心であったという。この最後の金岩与次之助が先祖ということであろう(詳細事蹟は不詳)。]

 元文[やぶちゃん注:一七三六年~一七四一年。]の初、平助老死して子息三郞左衞門良善家相續して、久八も舊恩を忘れず、薪水(しんすい)の勞を助け、晝夜心を盡す。然るに三郞左衞門若氣の至り、夜遊びに耽りて、每(つね)も家に在らず。剩(あまつさ)へ惡しき友ありて風聞よからざれば、久八傳へ聞き、

「親御の遺言といひ、此家内に我ならで諫(いさめ)を申す者もなければ」

とて、折每(をりごと)につよく諫けれども、主人曾て用ひざれば、旦暮に是を歎き、或日又强く諫めけるに、主人此程は酒狂(しゆきやう)も交(まぢ)りければ、殊の外腹立ち、其後よりは詞も懸けず、只生(しやう)を隔(へだて)たる者の如し。され共聊(いささか)是を恨みず、主人行跡(ぎやうせき)の直らん事をのみ思ひけるが、詮方やなかりけん、或日、我(わが)部屋へ入り、自殺してぞ死しける。

[やぶちゃん注:「三郞左衞門良善」名前の読み不詳。「よしよし」或いは「あきよし」か。

「薪水の勞薪」薪(たきぎ)を採ったり、水を汲んだりする毎日の炊事の苦労を指すが、本邦では概ね「骨身を惜しまず人のために尽くす」の意で使われる。出典は「南史」の「陶潛傳」。

「生(しやう)を隔(へだて)たる者の如し」主人が現世と冥界とのように全く関係がないように久八を完全に無視したことを指す。]

 家内驚き、主人も立寄りて見るに書置あり。

「我れ主人の不行跡を諫むれども御用(おんもち)ひなし。されば幼少より手しほに懸けて育て參らせ、御親父樣御遺言にも我ら御意見申候はでは叶はぬ儀なれども[やぶちゃん注:底本は「叶はね」であるが、国書刊行会本で特異的に訂した。]、下郞の身を悔みて自殺仕候(つかまつりさふらふ)。只々御身持御直し、惡しき交りの無き樣に」

と吳々(くれぐれ)書納めける。

 検使には是を隱し、亂心の躰(てい)にして、終に葬りとらせ、夫より三郞左衞門も少しは戶外も止めけるが、又いつしか例の友に交(まぢは)りける。

[やぶちゃん注:「検使には是を隱し、亂心の躰にして」諌死ということになると、藩から主人良善は詮議を受けることになり、下手をすると、知行取り上げなどの処罰を受けるから、乱心と偽ったのである。]

 又村上源右衞門義鄕は三郞左衞門舅(しうと)成りしが、或夜獨り燈下に書を披(ひら)き居たりしに、次の間の襖を開きて、金岩が僕久八、ありし姿に替らず、靜(しづか)に來りて手をつかへて、一封の物を指置き、頭を疊に付くると思ひしが、消えて見えざりける。

 村上驚き爰(ここ)かしこ尋(たづぬ)る。家内の者にも尋(たづね)て後、彼(かの)一封の書を披き見られしに、其文久八が手跡と覺しくて、

「私儀、故金岩平助樣の高恩を受居申候。然る所、當三郞左衞門樣御身持宜しからず、每度御異見申上候へども、御用ひ是なく、責(せめ)て相果候はゞ不便(ふびん)と思召し御諫にもなるべくと存じ、自殺仕候へども、今以て御不行跡相止み申さず候。其上御友達惡しく、近き内には御家にも祟(たたり)申(まうす)程の惡事も必ず之れあるべく候。依りて貴公樣ならで御意見なさるべき御親類無御座候間(ござなくさふらふあひだ)、御意見可ㇾ下候(くだされさふら)へ」

との儀、あと先くどくどと書き認(したた)めありしかば、村上驚き、

「希代のふしぎなり」

と、先(まづ)金岩三郞左衞門を呼び寄せ、悉く語りければ、是も希有の思ひをなし、渠(かれ)が書置の事どもを語り出し、兩人共に感淚して

「かゝる奇特を聞きながら若(も)し改めずんば、我ながら獸心なり」

と、誓ひて心を改め誓狀を村上に書き與へて、惡(あし)き友の交りを斷ちけり。

 彼(かの)僕、淨土宗にてありけれども、常々一向宗を信じけるにより、京都本願寺へも永代香奠を上げ、其跡を弔ひし。法名は鐵果道敬居士、元文三年[やぶちゃん注:一七八三年。]三月七日、四十五歲なり。石碑は野町大蓮寺にあり。彼(かの)久八が捧げし狀は、今猶村上氏の珍奇とせり。

 其後金岩氏は深く先非を悔み、忠勤を勵みけるが、其頃水魚の交りありし友に多羅尾八平治舍弟淸太夫といふ者、不行跡の事にて改易にぞ仰付けられける。此久八幽靈が諫なかりせば、危き事も多かりしとにや。

「諫死して神(しん)を現はすは、獨り近代根津宇右衞門と聞きしに、かゝる奴僕にも至忠の者はありける」

とて、金岩氏自分(みづから)此事を語られしなり。

[やぶちゃん注:お気づきになられたと思うが、村上の読むそれは、実際に自死直前に認めたそれとは異なっており、死後の久八の霊が書き換えた内容となっている点で摩訶不思議なのである。これは確かに江戸の怪奇談集の中でも出色の特異点と思うのである。

「野町大蓮寺」金沢市野町にある浄土真宗宝池山大蓮寺(グーグル・マップ・データ)。前田利家四女で宇喜多秀家の正室である豪姫の位牌所・菩提寺として知られる。

「根津宇右衞門」第三代将軍家光の第三子で甲府藩主となった徳川綱重(正保元年(一六四四)年~延宝六(一六七八)年)の家臣根津宇右衛門。文京区本郷にあるかの根津権現は彼の霊を祀るともされるらしい。個人ブログ「Sanction サカナクション」の「忠臣根津宇右衛門」によれば、『俗書の説であるが、『護国女太平記』に』は、『綱重』が『宇右衛門を御手討』に『ならせられ、其後』、彼の『霊魂』が『度々』、『御諫言申上げるゆへ御心あらため、堅く御禁酒遊ばされける』『とある。家宣』『の父、将軍職につけない綱重は』『部屋住みの不満を酒色にまぎらわせていた。そしてそれを諫』『める忠臣根津宇右衛門を手討ちにしたため、宇右衛門は幽霊になってまで何度となく諫言』『した。ついに綱重が心を入替え』、『禁酒すると』、『宇右衛門の霊がまた現れてそれを祝し、子孫長久の守護を誓って消えた。そこで綱重は前非を悔い、子孫でもあれば過分に取り立てるべきところ』、『宇右衛門は独身だったので』、『邸内に社を築き』、『宇右衛門を祀った。それを根津権現の起こりであるとする』という。但し、「文京区史」では、『相模から武蔵にかけて作神をネと称し、収穫も終わった旧九月の子』(ね)『の日頃を祭日として』おり、『根津の宮も駒込あたりの農民に信仰されたネの神ではないかとする』とあり、この人物であろう。]

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