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2020/03/16

三州奇談卷之四 瀨領得ㇾ甕

 

     瀨領得ㇾ甕

 瀨領(せりやう)は金澤の東西の山入の小村なり。此里より出でたる人に、金澤折違橋(すぢかひばし)の地の邊りに八右衞門と云ふ男あり。今金澤中に月頭を配りて錢を取るは此人なり。

[やぶちゃん注:表題は「甕(かめ)を得(う)」と読んでおく。

「瀨領」現在の金沢市瀬領町(せりょうまち。グーグル・マップ・データ航空写真)。湯涌温泉の南西に尾根を隔てた山間部である。

「折違橋」旧折違町は現在の金沢駅南西直近の昭和町及び折違町であるが、橋は現認出来ない。但し、筆者も「地」と言っているので、問題はない。武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『三構橋から木揚場まで≪鞍月用水⑦≫』に、『旧絵図や現在藩政期には、今の六枚町交差点辺りに「折違橋(すじかいばし)」があり、道路が曲がっていたので橋を”すじかい(斜め)“に架かっていたので折違橋と呼ばれ、その辺りの町の名前も、始め折違橋町といい後に折違町としました。現在ある折違橋は、場所も違い昭和53年(1983)に大隅橋の上流の橋として架けられたもので、昔の折違橋町に由緒する橋とは別のものです』(写真あり)とあったので現存しないことが判明した。

「月頭」「げつとう」或いは「つきがしら」。金沢で配布された一年の旧暦の暦(こよみ)である「月頭暦(げっとうれき/つきがしらごよみ)」のこと。サイト「日本の暦」のこちらに、『金沢で発行された半紙1枚摺りの略暦で、創始の年代は不明ですが、明和年間(1764-72)の月頭暦が残されています。通常の暦の暦首(暦の始め)部分と毎月の大小、朔日(さくじつ 月の始め)の干支をまとめ主要な暦注を加えたもので、月の始めをまとめた形から、月頭(つきがしら)と呼ばれています。月頭暦は売暦(販売する暦)で、版元は毎年不定ですが、津幡屋、川後(尻)屋、松浦の名が多く見られます』。『特に幕末のものには、右上にその年の十二支の絵が入るのが特色の一つです。ただし、大経師と院御経師の名があるものには、絵はありませんでした』とあり、弘化五・嘉永元(一八四八)年板行(版元は津幡屋仁左衛門・川後屋信太郎とある)の月頭暦の画像が載る。]

 元祿の頃[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]、勢領の里に一つの甕を掘出(いだ)す。水をたゝへて愛翫すべき物故に、金澤へ賣りに出す。則(すなはち)此八右衞門は勢領に緣あれば、彼方(かれがかた)へ先づ來りて、其後方々望(のぞむ)人を聞合せけるに、藥だに悉くはたりしかば、望む人少かりしが、菊池秋涯公御求め有て庭に居ゑ水をたゝへられしに、其持主右八右衞門成(なる)事を聞えしかば、

「渠(かれ)は月がしらを配る非田地の類(たぐひ)にこそ。左(さ)あれば此甕も汚(けがら)はし」

とて、捨られし事あり。

[やぶちゃん注:「菊池秋涯公」加賀藩人持組の名家に菊池十六郎家(三千二百石)があり、これ佐々成政の家臣で阿尾城主であった菊池武勝が初代で、利家の調略で前田家の家臣となったもので、サイト「茶道宗和流」のこちらに、加賀藩の門人として菊池十六郎を挙げ、『号秋(涯の右側) 三千二百石 弥八郎』とあるのが、当該人物かと思われる。「加能郷土辞彙」のここに出る、菊池氏の内、没年から見て、菊池武康で間違いないと思われる。そこには『幼名彌八郞、後十六郞。實は淺井源右衞門一政の二子で』、菊池『武直の養子となつたもの。初め實父の配地三百石を得て』、第五代藩主『前田綱紀に仕へ、萬治元年大小將組に列し、寬文・延寶の間大小將番頭・先筒頭に累遷し、用人を兼ねた。延寶八年武直の二千五百石を襲ぎ、自分知を併せて二千八百石(内五百石與力知)を領し、人持組に列し、天和二円年武直の致仕料五百石を受け、元祿余年四百石を增し、次いで御算用場奉行、公事場奉行。・江戶御留守居を經て、十二年世子の傅となり、十六年之を免ぜられ、正德三年十二月退老して秋厓または秋涯と號し、隱居料五百石を受けた。享保三年』(一七一八年)『五月十七日歿、享年八十二』とあるからである。

「非田地」百姓のように耕作地を持たず、しかも工業者や商人のように日々の決まった商いをしていないことを指すようである。則ち、士農工商から外れた当時の被差別者として八右衛門を認識しているのである。これについては、decencies氏のサイト「異形の郷土史」の「陰暦に舞う者」でまず本篇を電子化され(但し、新字新仮名)た上で、実に七回に亙って何故に彼が被差別者とされたかが解析されている。是非、読まれたいが、結論だけを言うと、八右衛門は農民ではあるものの、耕作をせず、加賀藩中にあって暦を売り歩いては唄を歌い、舞いを踊ったりして金銭を得ていた「舞々三太夫」という差別された芸能者の一人であったと推定されるのである。明治の郷土史家森田柿園(しえん)の「金沢古蹟誌」のこちらこちら(「第十編」の卷二十六の「池小路舞々大夫傳」)によれば、『年頭・五節句等の佳節には、金澤市中武士・町方共に每戶へ來り、祝儀を貰ひ行きけり。大身の武士にては舞も舞ひたる由。其の体』(てい:新字はママ)『實に乞食の如し。藤江村の人別なれども、田地も持たず。所詮頭振の百姓にて、僅に祝儀を貰ひ渡世するのみなりし故、今に至り藤江村に居住すれど、貧窮にせまれりとぞ』とある。ここに出た「頭振」は「あたまふり」と読み、加賀藩領で無高 (むだか) の農民のことを指した語で、同藩では高持百姓の分割相続が限定されていたため、その子弟は小作その他の雑業で生計を立てなければならなかった。従って租税負担も軽く、社会的地位も低かったのでこう呼ばれた(また、行政上、農村とされた宿場や在郷町の無高町人も同じように頭振と呼ばれた)と「ブリタニカ国際大百科事典」にある。

 是に依りて、此八右衞門の謂(いは)れを悉く尋ねけるに、曾て人々の沙汰するとは大に變れり。

 にも云ふ如く、昔佐久間盛政尾山の城を攻めしに、城中よく防ぎ手强く戰ひしに、其頃瀨領村の者ども、小立野(こだつの)より術計をなして手痛く責め立てしほどに、城忽ち落ぬ。

[やぶちゃん注:「前段」「三州奇談卷之四 大乘垂ㇾ戒」。以下の「佐久間盛政」や「尾山の城」についてもそちらの私の注を参照されたい。ここでは改めては附さない。

「其頃領村の者ども、」国書刊行会本では、ここに『陣中へ胼山のいもなど売(うり)に出てゐたりしが、此者ども小立野口より術計をなして……』と続けてある。「胼山」は「たこやま」か。不詳。

「小立野」現在の金沢市小立野。]

 盛政則(すなはち)此村の者に

「褒美を望め」

と云しに、

「以來、尾山の城下へ物を賣る頭(かしら)にせさせ給へ」

と云けるに、盛政相違あらざる一筆を渡せし。今も此書物(このかきもの)瀨領村何某が持傳へると云ふ。

 其故を以て、今後に月頭を配る事を免(ゆる)せしも、其遺風なりと云ふ。

 又、年每の萬歲も、越前雛が嶽の麓より來(きた)る。是も筋あしき樣(やう)に云ふ。越前にても村々緣組もせざる樣に聞きし。

[やぶちゃん注:「越前雛が嶽」福井県越前市萱谷町にある日野山(ひのさん。グーグル・マップ・データ)。標高七百九十四・八メートル。養老二(七一八)年に泰澄によって開山され、古くからの山岳信仰の霊山。]

 或る老翁の云けるは、

「是も只常の百姓なり。元和(げんな)元年[やぶちゃん注:一六一五年。三月十五日に「大坂夏の陣」、七月には「武家諸法度」及び「禁中並公家諸法度」が制定された。]世靜謐になる時、三河の者共

「家康公の御下(ぎよか)の百姓なり」

とて、江戸へ出て賀儀を申上げ、田舍謠ひ・幸若を云ひて御引出を貰ひ來(きた)る。是三河萬歲の初めなり。是を聞きて、越前府中にも、雛が嶽の下の者共、

「加賀利家公の御下の百姓なり」

とて、金澤へ行きて賀儀を申上、御酒飯など下さる上にて、里踊(さとをどり)・小舞(こまひ)せしより事始まり、終に當世別筋の者の樣になれり。狂言に『丹波國の御百姓の名を何と申すぞ』といふ類(たぐひ)、是なり。諸本には色々の說あれども、皆附會の說なり」と云ふ。

[やぶちゃん注:「幸若」室町時代に流行した曲舞(くせまい)系統の簡単な舞を伴う語り物。南北朝時代の武将桃井直常の孫幸若丸直詮が始めたと伝える。題材は軍記物が多く、戦国武将が愛好した。実は先に出た「舞々」もこれを指す。

「終に當世別筋の者の樣になれり」国書刊行会本では、この後に割注で『〔此(この)城一向宗のやしき猶(なほ)有(あり)て六条万歳第一也(なり)〕。』とある。「六條万歳」(ろくじょうまんざい)は「尾張万歳」の型の一つで、親鸞の生涯や同宗の本願寺の荘厳さを歌ったもので、名は本願寺のある京の通りが六条であったことに拠る。浄土真宗の家で門付として行われるものである。

末尾には国書刊行会本では『万歳皆常の百姓なり』という一文が附く。この一文を見ても判る通り、この一篇はかなり特異である。まず、怪奇談ではない点で特異点であること、しかもここでは、当時、明らかに不当に差別されていた「ほかいびと」としての芸能者の存在を、決して穢れた存在でないということを示唆するような内容となっている点ですこぶる興味深いのである。

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