石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 夕の海
夕 の 海
汝(な)が胸ふかくもこもれる秘密ありて、
常劫(じやうごふ)夜をなす底なる泥岩影(ひぢいはかげ)、
黑蛇(くろへみ)ねむれる鱗(うろこ)の薄靑透(ほのあをす)き、
無限の寂寞(じやくまく)墓原(はかはら)領(りやう)ずと云ふ。
さはこの夕和(ゆふなぎ)、何の意(い)、ああ海原。
遠波(とほなみ)ましら帆(ほ)入日の光うけて
華やかにもまたしづまる平和(やはらぎ)、げに
百合花(ゆりはな)添へ眠(ぬ)る少女(をとめ)の夢に似るよ。
白塗(しらぬり)かざれる墓(はか)には汚穢(けがれ)充(み)つと
神の子叫びし。外裝(よそひ)ぞはかないかな。
花夢(はなゆめ)きえては女(め)の胸罪の宿(やど)り、
夕和(ゆうなぎ)落ちては、見よ、海黑波(くろなみ)わく。
醉(よ)はむや、再び。平和(やはらぎ)、──妖(えう)の酒に
咲き浮く泡なる。沈默(しじま)の白墓(しらはか)なる。
(癸卯十二月五日夜)
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夕 の 海
汝(な)が胸ふかくもこもれる秘密ありて、
常劫夜をなす底なる泥岩影(ひぢいはかげ)、
黑蛇(くろへみ)ねむれる鱗の薄靑透(ほのあをす)き、
無限の寂寞墓原領ずと云ふ。
さはこの夕和(ゆふなぎ)、何の意、ああ海原。
遠波ましら帆入日の光うけて
華やかにもまたしづまる平和(やはらぎ)、げに
百合花(ゆりはな)添へ眠(ぬ)る少女(をとめ)の夢に似るよ。
白塗(しらぬり)かざれる墓には汚穢(けがれ)充つと
神の子叫びし。外裝(よそひ)ぞはかないかな。
花夢(はなゆめ)きえては女(め)の胸罪の宿り、
夕和(ゆうなぎ)落ちては、見よ、海黑波わく。
醉はむや、再び。平和(やはらぎ)、──妖の酒に
咲き浮く泡なる。沈默(しじま)の白墓(しらはか)なる。
(癸卯十二月五日夜)
[やぶちゃん注:表題は「ゆふのうみ」と読んでおく。初出は『帝國文學』明治三七(一九〇四)年三月号の総標題「無弦」の第三篇。
「夕和(ゆうなぎ)」の「う」はママ。筑摩版全集は『ゆふなぎ』と訂している。前の「夕和(ゆふなぎ)」に徴して考えれば、植字工の誤りであろうが、取り立てて違和感はないのでママとした。]
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