早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十八 不思議な狩人
十八 不 思 議 な 狩 人
山で狩などして居た者の中には、平地の人々の想像も及ばぬやうな、不思議な官能や經驗を有つた人物があつた。遂近頃聞いた話などもその一ツである。實は不獵續きに弱り込んだ狩人達が、何處からか聞き出して賴みこんで來たのが最初で、評判になつたと言うた。未だ四十臺の體の小締りに締まつたと言ふ外、格別見た處變つても居なかつた。只不思議な事は、山へは入つたと思ふと、猪の居る居ないがすぐ判つたさうである。
鼻で嗅ぎ出すのだらうとも言うたが、話の樣子ではそれ許りでも無いやうだ。それに就いて、自分の知つて居る狩人の一人が言うた事があつた。猪の後を求めて齒朶を分けて行く時など、いまの先き猪が通つたと言ふやうな事が、フツと胸に浮ぶが殆ど間違ひなかつたと言ふ。さうした官能の働きか、所在を知る事は驚く程的確だつたさうである。而も山を跋涉する事の自由自在で、少しも倦む事を知らぬには、一緖に狩をした者が何れも舌を捲いたと言ふ。心持上半身を前屈みにした中腰の構へで、頭を前に出して小股に步いて行く樣子が誠に尋常でなかつた。何な[やぶちゃん注:「いかな」。]茨の下ボローの中でも、忽ちくゞり拔けるには、とても眞似など出來なんだと言ふ。犬千代と渾名があると言ふから、千代何とかの名前らしいが、遇つた譯でないから詳しい事は判らない。北設樂郡カハテとかの者とだけは聞いた。獸のことや獵の方法など、何から何まで氣持のよい程知つて居たさうである。狩を濟ますと同時に、三日程居ただけで、何處かへ去つてしまつたと言ふ。お蔭で賴んだ狩人達は、思ひの外獲物があつた。何なら每年賴み度いと言うたとも聞いた。餘り珍しいから、いろいろ噂を聞いて見た。
[やぶちゃん注:「北設樂郡カハテ」北設楽(きたしたら)郡旧川手村。現在の愛知県北設楽郡豊根村坂宇場(さかうば)(グーグル・マップ・データ)の中にあった。]
生家は村でも可成りな家柄ださうである。相當敎育もあつて、村長位は出來るなどゝ言うた。只持つて生まれた病と言ふか、狩をしたり、魚を捕る事が好きな爲めに、家にも居附かれないで、方々を渡り步いて居ると云ふ。至つて仕事が嫌ひで、宿屋を泊り步いて居ても、一間に閉ぢ籠つて朝から酒ばかり飮んで居た。宿錢が溜まつた時分に、釣の道具を持つて、フイと出て行つたと思ふと、晚方にはビツクリする程、鰻を捕つて來たさうである。それで拂[やぶちゃん注:「はらひ」。]を濟ますと、又暫くは遊んで居たと言ふ。魚に不自由な、山の中の宿屋などでは重寶がつた。只長く居つかぬので困ると言ふ。鰻など一日に三貫目[やぶちゃん注:十一・二五キログラム。]も提げて來た事があつたさうだ。鯉なども、何處から提げて來るかと思ふ程、速く捕つて來たと言ふが、どうして捕るかなどゝ質問すると、フツと無口になつて、話さうとしなかつたさうである。鰻にしても鯉でも、餌で釣つて居た事は確かであつたと言ふ。何だか悉く信じられぬやうな點もある。
[やぶちゃん注:私はある山間部で鰻を食べない地域があることを知っている。或いはそういう禁忌を持つ地域を彼は知っていたのではなかろうか? 因みに通常のニホンウナギの場合は、現行で二百グラムで特大サイズであるから、この不思議な男の魚籠(びく)には実に四十四匹ぐらいはいた勘定になる。]
時とすると未だこんな人が居たのである。猪とは緣がないが、以前狂言の振付をして、村から村を廻つてゐた相模屋某と名乘る男なども、變はつた男だつた。地狂言が無くなつてからは、浄瑠璃を語つて、村々を回つて居た。勿論それだけでは生活が出來なんだので、冬は小鳥を捕り夏分は鰻を釣つて渡世にして居た。鰻など捕る事は實に巧妙だつたと言ふ。今日は何百目欲しいと註文すると、晚方にはきつとそれだけの魚を提げて來たさうである。
[やぶちゃん注:「地狂言」地方の人々によって行なわれる歌舞伎芝居のこと。地芝居・草芝居・村芝居・田舎芝居と同じ。農閑期や祭礼などの際、その土地の若者を中心に演じられてきた。古くからあったが、文化・文政期 (一八〇四年~一八三一年) に普及し、江戸末期から明治にかけて最も盛んであった。神社の境内などに恒久的な舞台を作って演じたものが多いが、臨時の掛け小屋でも行なわれた。第二次世界大戦後、新しい大衆芸能の進出によって急激に衰えた。山形県酒田市黒森・愛知県設楽町田峰 (だみね)・香川県土庄町肥土山 (ひとやま) などのものが知られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
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