毛利梅園「梅園介譜」 團扇蝦(ウチワエビ)
戌初夏十日倉滕尙子
送覧眞寫
團扇蝦【ウチワヱビ 西国方言 タクマヱビ 相州小田原】 千人擘 千人揑【ヒツハタキ 栗本翁説 チカラヱビ】
園曰
典籍便覧ニ載ス二千人擘一名千人揑ヲ一
蟹譜ニ※1江(ホウコウ)則千人捏以テチカラ
[やぶちゃん注:「※1」=「虫」+「手」。]
蟹トス玄達曰此者蟹ニ似テ足
無ク殻甚タ固ク刀ヲ出セリ
壓スルニ破ル事ナシ又千人擘
千人捏ト云フ蝦ニモ同クㇾ名スル
者アリトス典籍便覧ニ曰
形似ㇾ蟹大サ 如錢トアレハ格
別大ナル者ニモ非ラス兩名ニ物
アルヿ猶可考糺已
達曰千人捏ノ頭骨
ヲヲクリカンキリトスルハ譌
也サリ蟹ノ頭ニアル石ヲ
漢名蝲蛄石 (ラツコ)石ト云
此則ヲクリカンキリ也爲ㇾ眞ト
シツハタキ其活者ヲ濵
邊ニ上ルトキハ其尾ニテ
砂土石ヲハタキ飛スヿケワシ
因テ此ノ名アリ
福州府志ニ曰千人擘狀如二蝦蛄ノ 一殻堅
硬人盡ㇾ刃擘ルㇾ之不ㇾ能ㇾ開ヿ酉陽雜爼謂ㇾ之ヲ 二
千人捏一ト ○松岡玄達曰千人擘俗ニシツ
バタキト云沖津大礒ノ間ニアリ形蝦蛄ニ
似テ扁ク大也長サ尺余云〻頭僧ノ帽
ノ如两角如耳扁圓少シ稜アリ狹長
ノ二種アリ尾巻テ腹下ニアリ橫刻蛇
腹ノ如シ殻堅乄破難シ一種矮短(ヒクキ)ナル在
外科ニ用ルヲクリカンキリハ卽此頭骨也
○やぶちゃんの書き下し文
戌(いぬ)初夏十日、倉滕尙子、送れるを覧(み)て、眞寫す。
團扇蝦【「ウチワエビ」、西國方言。「タクマエビ」、相州小田原。】
千人擘 千人揑【「ヒツハタキ」栗本翁の説。「チカラヱビ」。】
園、曰はく、「典籍便覧」に『千人擘、一名、千人揑』を載す。「蟹譜(かいふ)」に、『※江(ホウコウ)、則ち、千人捏。以つて「チカラ蟹」』とす。玄達曰く、『此の者、蟹に似て、足無く、殻、甚だ固く、刀(やいば)を出せり。壓するに、破る事なし。又、「千人擘」「千人捏」と云ふ。蝦にも名を同じくする者あり。』とす。「典籍便覧」に曰く、『形、蟹に似て、大いさ、錢のごとし。』とあれば、格別、大なる者にも非らず。兩名に物あること、猶ほ、考へ糺すべきのみ。
[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「手」。]
達曰く、『「千人捏」の頭骨を「ヲクリカンキリ」とするは、譌(あやまり)なり。「ザリ蟹」の頭にある石を、漢名「蝲蛄(ラツコ)石」と云ふ。此れ、則ち、「ヲクリカンキリ」なり。眞(しん)たり。』と。「シツハタキ」は、其の活(い)きたる者を濵邊に上(あぐ)るときは、其の尾にて、砂・土・石を、はたき飛ばすこと、けわし。因りて、此の名あり。
「福州府志」に曰く、『千人擘、狀(かたち)、蝦蛄(しやこ)のごとし。殻、堅硬にして、人、刃(やいば)を盡して之れを擘(き)るに、開くこと能はず。「酉陽雜爼」に之れを謂ひて、「千人捏」』と。〇松岡玄達曰く、『千人擘、俗に「シツバタキ」とト云ふ。沖津の大礒(おほいそ)の間にあり。形、蝦蛄に似て、扁(ひらた)く、大なり。長さ尺余』と云々(うんぬん)。頭、僧の帽のごとく、两の角(つの)、耳のごとし。扁圓して、少し稜(かど)あり。狹長(せなが)の二種あり。尾、巻きて腹の下にあり。橫の刻(きざみ)、蛇腹のごとし。殻、堅くして破れ難し。一種、矮-短(ひく)きなるもの在り。外科に用ひる「ヲクリカンキリ」は、卽ち、此の頭骨なり。
[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館デジタルコレクションの毛利梅園自筆の「介譜」のこの画像をそのまま示した。和漢混淆になっており、しかも比較的解説が長いので、今までのここで仕儀と異なり、原文をまず示し、後に私が訓点に従い、さらに推定で送り仮名・読みを追加して読み易く訓読したものを示した。向後も暫くはこれでゆくことにする。
さても、
節足動物門軟甲綱十脚目イセエビ下目セミエビ科ウチワエビ亜科ウチワエビ属 Ibacus のウチワエビ類
である(今までの電子化を見て頂ければ判る通り、言うまでもないが、本書の表題の「介」は教義の「貝」ではなく、魚を除く広範な海産無脊椎動物を含んでいる)。梅園自身も述べている通り、本邦産のウチワエビは一種ではなく、二種いる。全長は孰れも十五~二十センチメートル前後である。
ウチワエビ(団扇海老)Ibacus ciliates(頭胸甲の縁に十一個或いは十二個の棘があり、全体的に棘が小さく、数が多い。山形県と房総半島以南の他、東シナ海沿岸からオーストラリア東岸までの西太平洋の熱帯・亜熱帯域に分布する)
オオバウチワエビ(大歯団扇海老)Ibacus novemdentatus(頭胸甲の縁に棘が八個しかないため、ウチワエビとの識別は容易で、他の部位の棘も大きく、同じく数が少ない。また、ウチワエビに比すと、扁平性がより強い。能登半島と駿河湾以南の太平洋岸の他、香港・アフリカ東岸まで広く分布する)
本図は頭胸甲の辺縁棘から前者である。ウィキの「ワチワエビ属」によれば、『体は上から押しつぶされたように平たい。体の前半分が円盤形で、上から見ると和名通りうちわのような形をしている』。『体表は堅い外骨格に覆われ、縁には鋸の歯のような棘が並ぶ。体の前方中央と頭胸甲の左右に大きな切れこみがある。前方中央の切れこみにひげ状の細い第1触角があり、そのつけ根に小さな複眼(目)がある。複眼より前の円盤部分は厳密には頭胸甲ではなく第2触角で、イセエビの太く長い触角に相当する。歩脚と腹脚は短く、いっぱいに伸ばしても背中側からは見えない』。『セミエビやゾウリエビ、ウチワエビモドキなど同じセミエビ科の類似種が多いが、セミエビは体の縁に大きな棘がなく大型になること、ゾウリエビは全体のシルエットがうちわ形ではなく楕円形であること、ウチワエビモドキは複眼が体の縁に左右に分かれてつくことなどで区別できる。また、セミエビやゾウリエビは岩礁・サンゴ礁に生息する』。『水深300mまでの浅い海の砂泥底に生息する。成体に泳ぐ能力はなく、海底を歩行して生活する。食性は肉食性で、貝類や多毛類などの小動物を捕食する。敵は沿岸性のサメやエイ、タコなどで、敵に出会うと尾を使って素早く後ろに飛び退く動作を行う』。『産卵期は秋で、卵はメスが腹脚に抱えて保護する。孵化した子供はフィロソーマ幼生』(Phyllosoma:イセエビやウチワエビなどのイセエビ下目 Achelata のエビのゾエア(zoea)段階の幼生。体は著しく扁平でクモのような外観でガラスのように透明。しばしば数か月に及ぶ長期の浮遊生活を送り数cmの大きさにまで成長してから、第三期のメガロパ((megalopa))段階の「ガラスエビ」とも呼ばれるプエルルス幼生(Puerulus)に変態する)『の形態で、外洋を漂いながら成長する。幼生は「ジェリーフィッシュ・ライダー」とも呼ばれ、クラゲ類に騎乗してそれを餌にすることで成長し、分布域を広げていくという特性を持つ』。『充分に成長した幼生は着底した後に変態し、エビの姿となる』とある。
「戌初夏十日」本自筆本一帖は天保一〇(一八三九)年序であるから、戊戌(つちのえいぬ)は天保九年でその旧暦初夏四月の十日はグレゴリオ暦で五月二十三日に当たる。
「倉滕尙子」これは先の「鸚鵡螺」に出た多くの物品を梅園に提供して呉れた同僚の幕臣倉橋尚勝のことであろう。
「タクマエビ」私の「栗氏千蟲譜 巻十(全)」に、
*
タクマエビ 相州小田原方言 シツパタキ 其活者ヲ濵ニ上ル時ハ其尾ニテ沙石ヲハタキ飛事數尺ナリ因テ此名得ルト云 西国方言 ウチワエビ
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とある。「宅間蝦」とは思われるが、恐らく人名であろうが、由来は確定出来ない。知られた人物では相模と縁の深い人物は、鎌倉時代に鎌倉に住んだ仏師として知られた宅間法眼がおり、南北朝期では関東管領上杉憲能が鎌倉宅間谷に住んで宅間姓を名乗っている。
「千人擘」「せんにんばく」か。「擘」は「裂く・つんざく」であるから、千人で掛からないと裂けないほど堅いという謂いであろう。
「千人揑」「せんにんでつ」か。「捏」は「こねる・作る・ひねる」で、前と同じで解体・調理の困難を謂うのであろう。
「ヒツハタキ」静岡県沼津市静浦で「ヒッパタキ」の地方名が現存することが、いつもお世話になる「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のウチワエビの解説で確認出来る。
「栗本翁」医師にして本草家の博物学者栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)。朝鮮人参の普及で知られる医師にして本草学者であった田村藍水の次男。幕府医官栗本昌友の養子となり、寛政元(一七八九)年に奥医師となり、文政四(一八二一)年には法印に昇った。医学館で本草学を教授する傍ら、虫・魚・貝類などを精力的に研究した。通称、瑞見。私のサイトの「栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」の水族パートの原文+訓読+原画画像+オリジナル注)」四パートやブログ・カテゴリ「栗本丹洲」をも見られたい。
「チカラヱビ」確認出来ないが、腑に落ちる異名ではある。
「典籍便覧」明代の范泓(はんおう)撰になる本草物産名の類纂書。
「蟹譜」南宋の傅肱(ふこう)撰の蟹の博物誌であるが、複数の原本を調べたが、本記載を確認出来なかった。従って「※江(ホウコウ)」(「※」=「虫」+「手」)も「チカラ蟹」(「力蟹」であろう)不明である。
「玄達」「松岡玄達」本書の筆者毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)の前代の、儒者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)。名は玄達、通称は恕庵、字は成章、号は怡顔斎(いがんさい)、苟完居(こうかんきょ)など。門弟にかの小野蘭山がいる。一八歳で、浅井周伯の私塾養志堂に入り、東洋医学を学びながら、儒学を山崎闇斎・伊藤仁斎に学んだ。しかし中国の詩編「詩経」に出てくる動植物の名の理解に苦しみ、本草学者稲生若水の門に入り、本草学を学んだ。この時から本草学に傾倒し始め、後に自身も本草学を講じるようになった。享保元(一七一六)年に徳川吉宗が第八代目将軍就任し、「享保の改革」を敢行する中で、薬事に関する改革を始めた。この時はまだ、江戸幕府開幕後も日本の文化中心地は京都であり、本草学の中心地も、また、京都にあった。そのため、享保六(一七二一)年に、江戸の本草学発展を目して、恕庵ら、京都の本草学者が幕府からの招聘を受け、京から幕府の江戸医学館に招かれた。恕庵は、集められた本草の薬事検査をする「和薬改会所(わやくしゅあらためかいしょ)」に加わり、検査法を検討し、また、飢饉のための対策や殖産産業に寄与し、日本の本草学を発展させた。師稲生若水は中国の本草学を日本の本草学へと改良してゆく草分けとして、以後の本草学を発展させる人材を輩出したが、恕庵の本草学は、それまでの薬学に重きを置くに留まらず、積極的に、多種多様の動植物・鉱物を収集し、博物学的なものへと発展させていった。それは、門弟小野蘭山が築くところの本邦のオリジナルな本草学や、丹羽正伯の検査基準「和薬種六ヶ條」へと結実していくことになった(以上はウィキの「松岡恕庵」に拠った)。
「两名に物あること」よく意味が判らない。一種に対して二つの名があること、の意にしては、異名とすれば、それを「猶ほ、考へ糺すべきのみ」と問題にすること自身がよく判らない。或いは、松岡が、蟹だけではなく、蝦にも別なそれがいるというのは、ちょっと考証してみなくてはならない、安易に信じられない、と、ここで早くも(後述)松岡批判を始めているのかも知れない。
「ヲクリカンキリ」漢字当て字で「於久里加牟木里」。これは現在はザリガニ類(抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目 Astacidea)の胃石(胃の中にできる病変としての結石)であったとされ、炭酸カルシウム・リン酸カルシウム及びキチン質からなり、胃酸中和剤とされ、かのジーボルト(Philipp Franz von Siebold)がよく用いた薬とされている。これについては、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰕姑(しやこ しやくなげ)」(エビ亜綱シャコ下綱シャコ目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria)で、迂遠にして詳細な考証をしてあるので是非、参照されたい。
「ザリ蟹」「ザリガニ」で、十脚目抱卵亜目ザリガニ下目 Astacidea のザリガニ類。寺島は「鰕姑(しやこ しやくなげ)」で、
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於久里加牟木里(おくりかんきり) 鰕姑頭中の小石【鮸(にべ)の頭の石のごときか。】。能く五淋を治す、小便を通ず、蠻人の秘藥なり。然れども、未だ石有る者を見ず。
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てなことを言っている。因みに「鮸の頭の石」は耳石(じせき)である(最終注参照)。
「蝲蛄(ラツコ)石」上記リンク先の私の注の考証を見られたいが、そこで示したように、これは「藥品應手錄」(ジーボルトが門人高良斎(こうりょうさい:ウィキの「高良斎」を参照されたい)に和訳させて印刷し、訪問した地での医師への手土産としたものと推測される書。ヨーロッパで常用されている薬草と、その代用品に多少の新薬を収載しているとされる)に掲載されている薬剤(生薬)名である。
「眞(しん)たり」それが本物の「ヲクリカンキリ」である、の意で訓じた。
「けわし」「嶮し」で、「激しい」の意であろうが、歴史的仮名遣では「けはし」である。
「福州府志」一五一九年に成立した明国福州府(現在の福建省福州市)一帯の地誌。
「酉陽雜爼」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。巻十七の「廣動植之二」に、
*
千人捏。形似蟹、大如錢。殼甚固、壯夫極力捏之不死。俗言千人捏不死、因名焉。
(「千人捏(せんにんでつ)」。形、蟹に似て、大いさ錢(ぜに)のごとし。殼、甚だ固く、壯夫、力を極めて之れを捏(ひ)ねるも、死なず。俗に、「千人、捏ねるも、死なず」と言ひ、因りて名づく。)
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とある。
「沖津の大礒」沿岸からやや離れた岩礁性海底。
「僧の帽」臨済宗などで被る観音帽子(かんのんもうす)や燕尾帽子(えんびもうす)は、頭の部分が尖っているが、それを横から見ると、その部分が横に広く、しかも垂れ(左右にある)が下に延びて、本種の形に似ている。因みに、心臓の僧帽弁はローマ法王や枢機卿が被るミトラ mitre と呼ばれる帽子に似ていることに由来するもので、近代の訳語である。
「狹長(せなが)の二種あり」「矮-短(ひく)きなるもの在り」「狹長」は幅が広いものと狭いものと、短いものと長いものがあり、しかも小さくてより平たいものがいる、の意と思われるが、これは前掲二種の別と、個体差を言ったものと思われる。
『外科に用ひる「ヲクリカンキリ」は、即ち、此の頭骨なり』前に述べた通り、誤り。梅園は松岡が不詳の「サク蟹」の頭骨の誤りだと言っているのを引用しておいて、最後にそれを否定し、本種の頭骨がやっぱりそれなのだ、と敢えて断定して言っていることになる。江戸の本草学ではしばしば見られる先人の部分的な貶(けな)しである(せめても梅園には「サク蟹」の今に生きる和名の一つも言って否定して欲しかったものだ)。しかし、大体が、この「頭骨」という言い方自体、外骨格である蟹類では何やらん、怪しい感じがするのである。因みに、読者の中には耳石のことではないか? と思われた方もいるかと思うが、残念ながら甲殻類には耳石は発生しないのである。]
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