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2020/03/29

三州奇談卷之四 玄門の巨佛

 

     玄門の巨佛

 前段にいふ狛犬も主を得て後(のち)功をなす。武門の忠勇も又替りるまじ。佛神は殊に水波なり。わけて云べきにあらざる證據(しようこ)あり。

[やぶちゃん注:「前段」「傳燈の高麗狗」。]

 慶長十九年大坂の役[やぶちゃん注:一六一四年。十一月十五日に「大坂冬の陣」が始まる。]、金澤よりも利光公御出陣ありしが、此時事急にして乘馬不足なりしかば、與力一列には三騎に馬一疋宛(づつ)と配當に定む。

[やぶちゃん注:「慶長十九年大坂の役」一六一四年。十一月十五日(グレゴリオ暦十二月十五日)に「大坂冬の陣」が始まる。

「利光公」第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年)の初名。彼は「関ヶ原の戦い」のあった直後の慶長五(一六〇〇)年に、跡継ぎがいなかった長兄利長の養子となり、名を利光とするとともに、徳川秀忠の娘珠姫を妻に迎えた(この時、利常数え七歲、珠姫は僅か三歳であった。藩主になったのは慶長一〇(一六〇五)年六月(利長は隠居)で、諱を利光から利常と改めたのは寛永六(一六二九)年で、この時既に利常の義弟に当たる徳川家光が将軍となっており、その偏諱でもある「光」の字を下(二文字目)に置く「利光」の名を避けたものと思われる。以上はウィキの「前田利常」を参照した)。]

 爰に俣野半藏といふ人あり。

『今度の陣、治世の中(うち)亦逢ひ難し』

と思はれげれば、

『何とぞ馬を得て軍場(いくさば)に花々しき働をなしてこそ』

と、一筋に思ひ込れしが、自分に馬を得る事、此節なりがたくて、詮方なく、

「よしや此上は神佛に祈誓せんには」

と、日頃尊信せられし白山といふ長谷寺の觀音に立願(りゆうぐわん)せらしかが、或日道に於て鞍置馬(くらおきむま)一疋拾ひ得たり。其主(ぬし)尋ぬれども知れず。故に頭分(かしらぶん)へ達し、淺野川の橋上に札を立てゝ主を待ちけれども、七日に至るも終に主なし。故に公許ありて、終に俣野氏へ下されける。

[やぶちゃん注:「俣野半藏」不詳。利常に仕えた俣野六兵衛(「加能郷土辞彙」)という人物がいるが、この縁者か。

「白山といふ長谷寺の觀音」金沢市東山にある真言宗長谷山(はせざん)観音院(グーグル・マップ・データ)。本尊は十一面観世音菩薩立像。加賀藩三代藩主前田利常公の正室珠姫様が観音を篤く信仰したため、建物を寄進したとされ、代々前田家の産土神(うぶすながみ)とされた。しかし頭の「白山といふ」というのは不審。「しらやま」なら、白山比咩神社の分祀ということか? しかし「近世奇談全集」では『はくさん』とルビしている。訳が判らぬ。ネットで現在のこの寺の名と白山をフレーズで検索しても、何も掛かってこない。]

 依りて他の與力は替り替り乘けれども、半藏一人は始終馬上にて、心の儘軍場に武を輝かし、既に歸陣に及びし時、近江路の中にて此馬失せて行方知れず。

 其翌年伊勢へ代參の公用にて行かれしことありしに、神主より神馬を引いて迎へし馬、去年我(わが)乘りし馬なりしかば、大きに驚き此事を神主へ告げ尋ねしかば、

「かゝる事もあるにや。去年(こぞ)此馬ふしぎに見えず。百日許を經て歸りし」

と語られしとかや。

[やぶちゃん注:最後の部分が国書刊行会本では『と被ㇾ云(いはれ)しこそ、誠に神仏の和光利益と感嘆肝に銘じてぞ帰られしとや。』となっている。]

 されば佛場(ぶつじやう)に至りて現世の利益も又珍しからぬ事ながら、此長谷寺の麓に玄門寺と云へる淨土宗の梵院あり。此和尙、寶曆の頃[やぶちゃん注:一七五一年~一七六四年。]聊さか惱み給ひしが、病根次第に深く、諸醫匕(さじ)を捨て、今は寂滅を待たるゝ許りなるに、此寺に順生(じゆんせい)と云ふ道心者ありて、此程爰に丈六の佛像をいとなみけるが、其御前に端座して、一向(ひたすら)に和尙の病患平愈を祈ること一日一夜、翌朝見奉るに、丈六の尊像汗を流し給ふ。諸人聞傳へて見る者市のごとし。皆奇異の思ひをなしぬ。程なく和尙の病氣快復ありし。誠に彼が丹誠を感じ給へるにや。

 抑(よくよく)順生坊が事は、越中小杉の產にて、若き頃六十六部をなし、能登の國深谷の明泉寺(みやうせんじ)に古佛の缺損したる物數多(あまた)あり。何れも尊き作佛なれば、その御首を一つ乞(こひ)求めて普く國中を勸進し、丈六の大佛を建立せんと欲す。扨故鄕の師匠寺へ行きて、正しく佛像出來しなば、此御寺に建(たて)置き度(た)き旨を願ひけるにぞ。

 和尙曰く、

「昔越後の謙信と云ふ人あり。越中へ亂入せし時、軍兵ども此寺へ來つて、丈六の霊佛ありしを散々に破却す。主人是を見て、

『あな浅まし。我(われ)以來此國を手に入れなば、先(まづ)佛躰を修補すべし。若(もし)不幸短命ならば、後來(こうらい)此御佛を再立(さいりふ)するもの、我(わが)後身と知べし』

との事、伝記にあり。左(さ)あれば、汝が所願、正しく謙信の前言を續ぐ[やぶちゃん注:「つぐ」。]者なれば、後身疑ひなし」

とて領掌せられしに、此村の旦那ども聞き付けて、

「中々左樣の大佛を造立し、後々迄も修復調はず、村の厄介となりて、終には廢壞(はいくわい)の基(もと)なるべし。必ず爰に安置せんこと叶ひがたし」

と衆口一致して云ひけるに、和尙も順生も詮方なく、夫(それ)よりも金沢へ出で、此玄門寺に九間四面の副堂を立て、其内に安置し奉る。

 壯嚴ことごとしく、永代修補の祠堂(しだう)金を納め、不斷念佛の法燈をかゝげぬ。

 然るに近年此邊(このあたり)の度々の回祿にも、土蔵造りなるが故に、今に恙なくして金城の一壯觀となる。順生坊無智の道心者にして、檀越(だんおつ)の荷擔(かたん)もなく、凡(およそ)三十年の間に數千金の費用を勸進し、如此(かくのごとく)事を創業しける。誠に長尾謙信の後身にや。伝へ聞く、時正と云ふ道心者は、後身北條時政となりて、九代の權威を振ひし。越後の英雄は後身道心者と生れて佛恩を營む。幽冥の損益、具眼の者知るべし。

[やぶちゃん注:「玄門寺」石川県金沢市東山にある浄土宗狐峯山玄門寺(グーグル・マップ・データ)。長谷山観音院の北北西五百メートル弱の位置にある。虚空写真に切り替えると、この観音院を含む東側は卯辰山に連なる丘陵地となっていることが判り、「麓」という言いが腑に落ちる。玄門寺はもとは武田武士の流れを汲む甲斐の僧玄門直釣(「ちょくちょう」と読んでおく)が寛永一〇(一六三三)年に創建し、万冶三(一六六〇)年、内藤善斎が前田利常公から、現在地を拝領し、移転したとされる。本尊阿弥陀如来立像は寄木造りで一丈六尺(四・八メートル)の大仏で、宝暦八(一七五八)年にここに出る僧順生の発願(ほつがん)によって安置されたという。武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の「玄門寺さんの“大仏さん”」で画像が見られる。

「順生」詳細事蹟不詳。

「越中小杉」現在の富山県富山市小杉附近(グーグル・マップ・データ)。

「六十六部」正しくは日本回国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)と称したが、江戸時代には貶められて六十六部又は六部の略称で呼ばれた回国聖のこと。現在も各地にこの回国供養碑を見ることが出来る。江戸時代には単なる回国聖又は遊行(ゆぎょう)聖になってしまったが、中世には法華経六十六部を如法(にょほう:決められた法式通りにすること)に写経し、これを日本全国の霊仏霊社に納経するために回国した。西国三十三所観音霊場の巡礼納経に倣って、六十六部納経したとも考えられるが、日本全国六十六ヵ国を巡ることによって、より大きな功徳を積もうとしたものと考えられる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「能登の國深谷の明泉寺」石川県鳳珠郡穴水町にある古刹で真言宗白雉山明泉寺(グーグル・マップ・データ)。白雉三(六五二)年の開創とされる。

「師匠寺」最初に出家して修行した寺。

「出來しなば」「できしなば」と訓じておく。

「謙信」上杉謙信。ウィキの「上杉謙信」によれば、永禄一一(一五六八)年に『新しく将軍となった足利義昭からも』自称していた『関東管領に任命された。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束し、武田氏は駿河今川領国への侵攻から三河徳川氏との対決に推移し、上杉氏との関係は同じく武田氏と手切となった相模北条氏や武田氏と友好関係をもつ将軍義昭・織田信長らとの関係で推移する』。永禄一一(一五六八)年三月、『越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)』、七『月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃した』が、『時を同じくして』、五『月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。反乱を鎮めるため輝虎』(謙信の前名)『はまず、繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させた。その上で』十一『月に繁長の居城・本庄城に攻撃を加え、謀反を鎮圧』したとある。

「九間」十六メートル強。

「回祿」火災。

「荷擔(かたん)」助力。

「時正と云ふ道心者は、後身北條時政となりて、九代の權威を振ひし」「太平記」の「卷第五」の「時政榎島(えのしま)に參籠の事」(「榎島」は現在の藤沢市の江ノ島のこと)に、

   *

今相摸入道の一家、天下を保つ事、すでに九代に及ぶ。この事ゆゑ有り。昔、鎌倉草創のはじめ、北條四郞時政榎島に參籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七日(さんひちにち)[やぶちゃん注:二十一日。]に當たりける夜、赤き袴に柳裏[やぶちゃん注:表が白で裏が青の襲(かさね)の色目(いろめ)のこと。]の衣(きぬ)着たる女房の、端嚴美麗なるが、忽然として時政が前まへに來たつて、告げていはく、

「汝なんぢが前生は箱根法師(はこねぼふし)[やぶちゃん注:箱根権現に仕える社僧。]なり。六十六部の法華經を書寫して、六十六箇國の靈地に奉納したりし善根に依つて、再びこの土に生るる事を得たり。されば子孫永く日本の主と成つて、榮華に誇るべし。ただしその振舞ひ違(たが)ふ所あらば、七代を過ぐべからず。わが言ふ所不審あらば、國々に納めし[やぶちゃん注:法華経が目的格。]所の靈地を見よ。」

と言ひ捨てて歸かへりたまふ。その姿を見ければ、さしもいつくしかりつる女房、忽ちに伏長(ふしたけ)二十丈[やぶちゃん注:二十一メートル弱。]ばかりの大蛇と成つて海中に入りにけり。その跡を見るに、大きなる鱗(いろこ)を三つ落せり。時政

「所願成就しぬ。」

と喜びて、すなはちかの鱗を取つて旗の紋にぞ押したりける。今の三鱗形(みついろこがた)の紋これなり。その後辨才天の御示現にまかせて、國々の靈地へ人を遣はして、法華經奉納の所を見せけるに、俗名(ぞうくみやう)の時政を法師の名に替へて、奉納筒(ばこ)の上に「大法師時政(じせい)」と書きたるこそ不思議なれ。されば今相摸入道七代に過ぎて、一天下を保ちけるも、榎島の辨才天の御利生(ごりしやう)、または過去の善因に感じてげるゆゑなり。今の高時禪門、すでに七代を過ぎ九代に及べり。されば亡ぶべき時刻到來して、かかる不思議の振舞ひをもせられけるか、とぞ覺えける。

   *

とあるのに基づくが、「時正」は不審。]

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