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2020/03/23

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 六 鹿の毛祀り

 

     六 鹿 の 毛 祀 り

 狩人が鹿を擊つた時は、其場で襟毛を拔いて山の神を祀つた事は、猪狩の毛祀りと何等變はつた事は無かつた。只鹿に限つての慣習として、其場で臟腑を割いて、胃袋の傍にある何やら名も知らぬ、直徑一寸長さ五六寸の眞黑い色をした物を、山の神への供へ物として、毛祀りと一緖に、串に挿し或は木の枝に掛けて祀つた。これをヤトオ祀りと言うた。ヤトオは前にも言うたが、矢張り串であつた。その眞黑い物は何であつたか、狩人の悉くが名を知らぬのも、不思議だつた。腎臟だらうと言うた人もあつたから、或はさうかも知れぬ。ずつと以前は、兩耳を切つて、ヤトオ祀りをしたと言ふが、近世では耳の毛だけを串に挾んで祀る者もあつた。然し後には臟腑を割く事をも略して、只毛祀りだけで濟ましたものもあつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「ヤトウは前にも言うた」「三 猪の禍ひ」を参照されたい。またここでの祭祀法は「十三 山の神と狩人」も参照のこと。]

 狩人としては、一度び傷を負はした獲物は、たとへ二日が三日を費しても、後をとめて倦む事をしらぬのが嗜であると言うた。某の狩人は、或時朝早く、出澤の村のコヤン窪で一頭の鹿を追出した時、鹿は驀地に峯へ向けて逃げ去つた。それを何處迄もと追縋つて、或時は山續きの谷下(やげ)の村を追い通し、更に引返して出澤の村の東に當るフジウの峯に追ひ込み、峯を越してその日の午過ぎには、瀧川の村に出た。又もや山に追込んで、それからは段々山深くは入り、日の暮方には瀧川から一里半山奧の、赤目立の林に追込み、又もや峯一ツ越えて作手(つくて)の荒原(あはら)村の手前の舟の窪で、やつと仕止たと言うた。十六の年から狩りをしたが、此の時ほどの骨折は先づ無かつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「後をとめて」「とめて」は「とむ」=「尋む・求む・覓む」で、後を追い求めて、の意。

「嗜」「たしなみ」。猟師の常に守るべき心得。絶対的な心構え。殺生を敢えてする以上、そうする以上はなるべく苦しめずに往生させるべきことへの自戒としての意識である。

「驀地に」「まつしぐら(まっしぐら)に」と読む。「驀地」の音は「バクチ」。「地」は地面の上の意ではなく、中国語で副詞を作る接尾語である。

「出澤の村」前にも注したが、「出澤」は「すざは」と読む。新城市出沢(すざわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

「コヤン窪」不詳。次の「谷下」を「山續きの」と言っているところからは、この付近(航空写真)の山中の幾つかある窪地の一つであろう。

「谷下(やげ)」現在の新城市出沢根岸谷下(ねぎしやげ)であろう。

「出澤の村の東に當るフジウの峯」改訂本では『藤生(ふじふ)』とあるが、この地名は現認出来ず、古い地図でも見当たらない。しかし、「出澤」は寒狭川(豊川)の右岸部分で東は終わる(対岸が早川孝太郎氏に故郷である横川(旧横山))から、この附近の出沢地区の東北に走る複数の尾根の孰れか(航空写真)と考えてよい。

「瀧川の村」国土地理院を見ると、出沢の北に接して寒狭川沿いに「滝川」の地名を見出せ、スタンフォードの古い地図でも「瀧川」とある。

「赤目立」「あかめだち」か。地名は不詳だが、「瀧川の村」から「山に追込んで、それからは段々山深くは入り、日の暮方には瀧川から一里半山奧の」とあるから、スタンフォードの古い地図で、「瀧川」の西の「272」ピークと、その先の「532」ピーク辺りまで追い込んだと読める。距離から見て、その先の出沢の北直近の現在の新城市布里(ふり)地区にこの「赤目立の林」はあったと考えられる。そこから南西に沢を下れば(と言ってもなかなかの深山である)、現在の新城市作手荒原(つくであわら)で、ここが「作手(つくて)の荒原(あわら)村」であるからである。

「舟の窪」不詳。ただ「窪」と言い、「荒原(あはら)村の手前」と言うところからは、国土地理院の「669」ピークに南麓、航空写真の現在の作手荒原の人家のある「寺木野」のこの辺りではないかとも思われる(但し、その北西の山中にも人家はある)。ともかくも、ここまで実働十二時間ぐらいは経過している計算になる。]

 同じ男が舟著連山の七村で、大鹿を追出した時は、その鹿が峯から谷、谷から村と、終日目まぐるしい程逃げ回るので、何處迄もと追つて行く内、行く先々で、その鹿を目がけて鐵砲を放す者があつた。大方他の狩人達も、目がけて居るとは豫期して居たが、最後に大平の奧に追詰めて斃した時、其處へ集まつて來た狩人を數へると、總勢三十六人あつた。而もその狩人連が、放した彈は全部で十三發で、その十三發が一ツ殘らず中つて居たには、呆れ返つたと言ふ。三十幾人の狩人が何の連絡も無しに、一ツの鹿を一日追通したのである。こんな馬鹿々々しい事は、昔も聞いた事が無いと、みんなして大笑ひに笑つたさうである。

[やぶちゃん注:「舟著連山の七村」改訂版では『舟着山麓に七村(なゝむら)』とある。旧「八名村」なら舟着山の南西麓に見出せるが、「七村」は見当たらない。サイト「歴史的行政区域データセット」の「愛知県八名郡七郷村(ななさとむら)」(明治三九(一九〇六)年に合併して出来た旧村)の地図を見ると、「舟着山」連山の東北の尾根の間の辺りが七郷村の下方の飛地に当たることが判る。ここか?]

 さうかと思ふと、狩人は一人で、獲物ばかりが多くて、弱つた事もあつた。或時出澤の茨窪(ばらくぼ)の人家の背戶へ一匹の鹿を追込んだ狩人は、思ひがけなく行手の木立から、雄鹿ばかり七つ、モヤモヤと角を揃へて走り出したのに、狙ひつける的に迷つて、悉く逸してしまつた事があつた。その狩人の話だつた、狩りの運は別として、雄鹿が七ツ角を揃へて駈け出した處は賑やかなもので、見た目だけでも豐樂であつたと言ふ。

 前の話もさうであるが、かうした出來事を總て山の神の手心と言うたのである。

[やぶちゃん注:「出澤の茨窪(ばらくぼ)」出沢は北辺を久保川が流れ、奥地には「大入久保」の地名や「七久保不動院」など「くぼ」に係わる名があるが(航空写真)、多量の鹿の出現はこの辺りなら相応しい気はする。]

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