石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 海の怒り
海 の 怒 り
一日(ひとひ)のつかれを眠りに葬(はふ)らむとて、
日の神天(あめ)より降(お)り立つ海中(うなか)の玉座(みざ)、
照り映(は)ふ黃金(こがね)の早くも沈み行けば、
さてこそ落ち來し黑影(くろかげ)、海を山を
領(りやう)ずる沈默(しゞま)に、こはまた、恐怖(おそれ)吹きて、
眞暗(まやみ)にさめたる海神(わだつみ)いかる如く、
巖鳴り碎けて、地を嚙(か)む叫號(さけび)の聲、
矢潮(やじほ)をかまけて、狂瀾(きやうらん)陸(くが)を呪ふ。
寄するは夜の胞盾(たて)どる秘密の敵(てき)。──
墮落(おち)てはこの世に、暗なき遠き昔(かみ)の
信(まこと)のおとづれ囁(さゝ)やく波もあらで、
ああ人、眠れる汝等(なれら)の額(ぬか)に、罪の
記徵(しるし)を刻むと、かくこそ潮狂ふに、
月なき荒磯邊(ありそべ)、身ひとり怖れ惑ふ。
(癸卯十二月一日)
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海 の 怒 り
一日(ひとひ)のつかれを眠りに葬らむとて、
日の神天(あめ)より降(お)り立つ海中(うなか)の玉座(みざ)、
照り映ふ黃金(こがね)の早くも沈み行けば、
さてこそ落ち來し黑影、海を山を
領ずる沈默(しゞま)に、こはまた、恐怖(おそれ)吹きて、
眞暗(まやみ)にさめたる海神(わだつみ)いかる如く、
巖鳴り碎けて、地を嚙む叫號(さけび)の聲、
矢潮(やじほ)をかまけて、狂瀾陸(くが)を呪ふ。
寄するは夜の胞盾(たて)どる秘密の敵。──
墮落(おち)てはこの世に、暗なき遠き昔(かみ)の
信(まこと)のおとづれ囁やく波もあらで、
ああ人、眠れる汝等(なれら)の額(ぬか)に、罪の
記徵(しるし)を刻むと、かくこそ潮狂ふに、
月なき荒磯邊(ありそべ)、身ひとり怖れ惑ふ。
(癸卯十二月一日)
[やぶちゃん注:「夜の胞」は「よのえな」か。但し、本篇には初出があり(『帝國文學』明治三七(一九〇七)年三月号。総標題「無弦」の第二篇)ではこれを『夜の胸』とする。現在流布している「あこがれ」の「海の怒り」のテクストの幾つかは「胸」となっているのである(例えば国立国会図書館デジタルコレクションの大正一四(一九二五)年弘文社書店刊「啄木詩集」のここ)。初版本「あこがれ」の誤植か改稿かは定かではないが、誤植の可能性は濃厚ではある。何故なら、当然、啄木が「えな」のつもりならば、「胞衣」とするか、「胞(えな)」とルビを振るであろうからである。但し、筑摩版全集は『胞』である。これには事情があって、岩城之徳氏の筑摩版全集解題によれば、現在の「あこがれ」には、もと二種の啄木自筆の書き入れ本があり、新潮社版「啄木全集」(大正八(一九一九)年から翌年刊)はその一本に従った校訂版である(但し、その新潮社が拠った書き入れ本の方は全集刊行後に紛失、今から実に百年も前に行方不明となっている)。ところが、現存するもう一冊の書き入れ本と新潮社版を校合すると、『著しい異同が目立ち、問題があることがわかる』ことから、筑摩版は敢えて初版本に拠っているからである。ともかくも、初出形を以下に示して読者の参考に供することとする。筑摩版を参考に漢字を恣意的に正字化した。
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海の怒り
つかれし一日(ひとひ)のを『眠』にわかたむとて、
日の神天(あめ)より下(お)り立つ海中(うなか)の玉座(みざ)、
照り映(は)ふ黃金(こがね)の早くも沈み行けば、
さてこそ落ち來し黑影(くろかげ)、海を山を
領(りやう)ずる沈默(しゞま)に、こはまた恐怖(おそれ)吹きて、
眞暗(まやみ)に醒(さ)めたる海神(わだつみ)いかる如く、
巖(いは)鳴り碎けて、地(ち)を嚙(か)む叫號(さけび)の聲、
矢潮(やじほ)をかまけて、狂瀾(きやうらん)陸(くが)を呪ふ。
寄するは夜の胸盾(たて)どる祕密の敵(てき)、
墮(お)ちてはこの世に、暗なき遠き昔(かみ)の
信(まこと)の福音(おとづれ)囁く波もあらで、
あゝ人、眠れる汝等(なれら)の額(ぬか)に、罪惡(つみ)の
記徵(しるし)を刻むと、かくこそ潮(しほ)狂ふに、
月なき荒磯邊(ありそべ)、身一人(ひとり)怖れ惑(まど)ふ。
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「癸卯」(みづのえう)は明治三六(一九〇三)年。向後は年が変わるまで、この注は略す。]