三州奇談卷之三 程乘の古宅 / 三州奇談卷之三~了
程乘の古宅
金澤御城内に後藤程乘屋敷とてあり。利常卿の御代、後藤程乘每年京都より下りて、御用御好みを相勤めし故、爰に此屋敷跡有と云ふ。
[やぶちゃん注:「加能郷土辞彙」のこちらに、『ゴトウテイジヨウ 後藤程乘 京都の』下後藤(しもごとう)『顯乘の子で、通稱を理兵衞、諱を光昌と稱し、白銀師を業として、前田綱紀[やぶちゃん注:加賀藩第四代藩主。先代の父光高が正保二(一六四五)年に三十一歳で死去したため、綱紀が僅か三歳で家督・遺領を相続、藩政は先々代の祖父利常(寛永一六(一六三九)年に家督を光高に譲って小松に隠居していた)が後見した。利常は万治元(一六五八)年に没したが、綱紀は長生きで享保八(一七二三)年に家督を四男の吉徳に譲って隠居し、翌年に八十二歳で死去した。江戸前期の名君の一人に数えられる人物であった。]の時寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]前後』上後藤家(後注参照)『と隔年金澤に來り、彫金に從ひ、又公の譚伴』(「たんばん」か。話し相手)『程乘の來る時は蓮池苑内の貸座敷に居り、その遺址を後世程乘屋敷というた』とある。リンク先のページとその前にも彼の一門の人物が載る。
「後藤程乘屋敷」前注の記載から、これは現在の兼六園の前身・原型であると考えられる。ウィキの「兼六園」によれば、延宝四(一六七六)年に藩主綱紀が、『金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建てて』、『その周りを庭園化したのが兼六園の始まりで』、『庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたが、宝暦九(一七五九)年四月に『発生した宝暦の大火で焼失した』とあるからである。位置的には現在の名だけが残る「蓮池門」口附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったことは間違いないだろう。]
抑(そもそも)此後藤が先祖は、京都將軍義晴公に出仕して、彫物の細工に名譽ありしが、其後衰微しける。既に覺乘が代に當りて、屋敷の内に白狐一ツ死して居たり。其夜敷百の狐集り、其屍(しかばね)を棺に入れ葬送を取行ふ。其躰(そのてい)希代の壯觀なり。覺乘深く感じて、其跡に祠(ほこら)を立て、稻荷の社司を賴み、祭禮を營み每年祭りけるが、東照宮御治世の折節再び登用せられ、殊に放鷹(はうよう)の術に委(くは)しとて御祕藏あり。[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『国々駅馬御免あり。』とある。]乘輿して供も三百餘人にて步行しける。平常鷹師二十許を連れて、諸大名へ放鷹の指南をなしける。其の屋敷は京都一條にて、管領細川家代々の住所の舊地を拜領し、小松黃門利常公より、書院御建て遣はされし。露地は小堀遠州公の差圖にて、御靈の前の中川といへる流を泉水に取入れ、甚だ絕景なりし故、或時東照宮にも御入來のことありし。是に依りて以來名高き亭となりける。加賀にては三萬石の代官を仰付けられし故、次第に富裕の身となりける。大谷刑部は狐の葬を憎みて凶を得、是は畜類を崇めて富を得し。
[やぶちゃん注:「京都將軍義晴公」(永正八(一五一一)年~天文一九(一五五〇)年)は室町幕府第十二代将軍。義澄の次男。永正一八(一五二一)年三月に管領細川高国と対立した養父で第十将軍であった義稙が京都を出奔したことで高国に擁立されて将軍となった。高国は義晴を厚遇したものの、既に当時の将軍には殆んど実権がなかった。高国が細川晴元軍に敗れると、義晴は近江に亡命、各所を流寓することとなり、高国の敗死後は晴元と和睦して将軍の権限を回復しようとしたが、その後も入京と逃亡を繰り返す羽目に陥ることとなった。天文一五(一五四六)年、嗣子義藤(義輝)に将軍職を譲ったが、三年後の同十八年には三好長慶に京を追われ、近江穴太(あのう)で客死、遂に京を回復することは出来なかった。
「覺乘」後藤覚乗(天正一七(一五八九)年~明暦二(一六五六)年)は江戸前期の金工家。ウィキの「後藤覚乗」によれば、金工の後藤勘兵衛家(上後藤家)初代。後藤宗家五代後藤徳乗の甥。後藤長乗(光栄)の次男で『後藤立乗の弟。諱は光信、通称は勘兵衛』。『後藤家は室町幕府に御用達金工(彫金)師として仕え、その作品は「御家彫」といわれた。織田信長・豊臣秀吉の刀剣装身具、大判鋳造の御用達も務め、また』、『大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請負った。江戸期の後藤宗家(四郎兵衛家)の家業は、彫金・大判座・分銅座であり、俗に「後藤家の三家業」といわれ、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に「京都の三長者」に数えられた。ちなみに、小判鋳造を手がけたのは江戸の金座(小判座)・庄三郎家である』『覚乗の伯父で後藤宗家の徳乗は関ヶ原の戦いで石田三成に属したが、父長乗が徳川家康についたため、後藤家は改易を免れた。長乗は家康より寵愛を受け、「禁裏御所御宝剣彫物所」の看板を掲げ、公儀の役以外に外国との往復文書作成にも関わった。また、放鷹術に長け、鷹師』二十『人を引き連れ』、『諸大名の放鷹の指南をした。そして、旧細川満元邸の広大な庭を拝領し、それは後に擁翠園といわれ、仙洞御所と東本願寺の渉成園とともに「林泉広大洛中ノ三庭」(洛中の三庭)の一つに数えられる庭となった。長乗は絵画・詩歌も嗜んだ文化人でもあり』、『本阿弥光悦とも親しかった。なお、覚乗の甥に狩野探幽の養子で江戸幕府の御用絵師となった狩野益信(洞雲)がいる』。父長乗が元和二(一六一六)年に『死去すると、土地は立乗、覚乗、乗円、昌乗の四人の兄弟に分配された。覚乗は分家であったが』、『一家をなすほど金工の技に優れ、主に鍔(つば)・目貫(めぬき)・笄(こうがい)・小柄(こづか)などの刀装具を制作した。寛永年間より、工芸を奨励した加賀金沢藩主前田利常に招かれ、現米』百五十『石をもって仕え、前田家の装剣用具の製作ほか金沢藩風聞報告役、また金銀財政面の用達を行った。従兄の後藤顕乗(理兵衛家、下後藤家)と交替で隔年に金沢に滞在して京都と金沢を往復し、「加賀後藤」とよばれる流派の基礎を築いた。利常は覚乗の彫金技術の高さを認め、いつも敬意を払っていたという』。『覚乗は大力の持ち主で相撲を好み、弓馬・兵法・砲術の達人であった』。また、『日蓮宗を信仰し、妙覚寺の日奥聖人に帰依した。また、俳諧・茶の湯にも優れた。前田利常に資金援助をしてもらい、小堀遠州』(小堀政一 天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年:大名・茶人・建築家・作庭家。備中松山城主・近江国小室藩初代藩主)『の設計で、父長乗が造営した庭園を補作したほか、上段を設けた書院や「十三窓席」といわれた』十三『の窓を持つ小間茶室「擁翠亭」を作った』。『蓮台寺石蔵坊に葬られた』とある。
「稻荷の社司」近くの稲荷神社の神主。
「其の屋敷は京都一條にて、管領細川家代々の住所の舊地を拜領し」「御靈の前の中川といへる流を泉水に取入れ」これらの条件に合う場所は、まず細川邸跡は一条の北の現在の京都市上京区挽木町(ひきぎちょう)にあったこと、「御靈」というのはその東北方の上京区上御霊竪町(かみごりょうたてまち)にある御靈神社(上御霊神社)のことではないかと考えられること(中川という河川名は現在は確認出来ない)から私は、この附近(中央に挽木町を配した)ではないかと推理した。
「大谷刑部」豊臣秀吉の家臣で越前敦賀城主であった大谷吉継(永禄八(一五六五)年或いは永禄二(一五五九)年?~慶長五(一六〇〇)年)。官は刑部少輔で大谷刑部の通称でも知られる。業病(ハンセン病とも末期梅毒とも)を患い、眼疾のために失明し、「関ヶ原の戦い」では輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗北、家臣湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。彼と狐のエピソードは私は知らない。発見したら、追記する。]
思ふに此類の事、世に又多き事なり。
近き頃聞きし一件は、越中滑川[やぶちゃん注:富山県滑川市。]に八兵衞といへる百姓の、作り倒れて所を立退き、二人の男子を携へ、乞食となり、江戶の方へ赳く道筋、越後路にしてとある古社の軒下に寢たりし夜、同じ緣の下に狐の子をうむ躰(てい)なり。是を哀れに思ひて、晝の中(うち)貰ひためし[やぶちゃん注:「もらひ貯めし」。]燒飯抔(など)澤山に與へて、夜明け其所を立去る。
終に江戶に近き鴻の巢[やぶちゃん注:武蔵国鴻巣(こうのす)宿。現在の埼玉県鴻巣市。]の茶店に立より、水など貰ひて休らひける所へ、老(おい)たる道心者一人來りて、八兵衞が子共に餅を買ひてとらせ、
「いくらもくらへ」
とて過ぎ行きける。茶店の亭主、八兵衞に問ひけるは、
「あの道心者は知る人なりや」
と云ふに、
「知らず」
と答ふ。亭主云ひけるは、
「今の道心者は此邊(このあたり)に在りて數年[やぶちゃん注:国書刊行会本では『数百年』。]を經ると云へり。住所も知らず、往來に物を乞ひて世を過ぐるなり。所の者共昔より『狐の變化なり』と云ひて、渠(かれ)に物を貰へば其身殊の外仕合(しあはせ)よしと云ひ傳へたり。汝今渠が恩志に預ること、福裕(ふくいう)のきざしなり。何方(いづかた)の者ぞ」
と問ひける故、越中の產にて、乞食しに江戶へ出(いづ)るよし答へければ、亭主鳥目をとらせ、
「我も故にあやかるべきなれば、少くは取持ちとらせん」
とて、知者の方へ狀を添へて、日雇の仲間へいれ、稼ぎをなさしめ、二人の子は相應に奉公を勤(つとめ)させにける。此茶屋は肝煎(きもいり)にて、よき所にありつき、次第に仕合せ能(よ)く、二人の子供成人の後、終に屋敷を買求めて、よき商人になりけり。夫より次第に家富み榮えて、正德年中[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]故鄕滑川へ來りて、昔の旦那寺の專長寺といへる御堂を再興し、尙更住持の位階迄昇進させ、過分の金子を捧げて東武へ歸りける。頃年大名方の取替銀をして暮しけるが、先祖の故鄕とて、今度加賀屋敷の御用を承りて、段々首尾能く、今般二十人扶特下されける。越中屋太郞兵衞といふは、則(すなはち)此八兵衞が孫なりとぞ。
[やぶちゃん注:「專長寺」富山県滑川市寺家町に現存する。浄土真宗。以上を以って「三州奇談卷之三」は終わっている。]