ブログアクセス1340000突破記念 梅崎春生 眼鏡の話
[やぶちゃん注:本作は昭和30(1955)年12月号『文芸春秋』に発表され、後の単行本『侵入者』(昭和32(1957)年4月角川書店刊)に所収された。因みに、梅崎春生はこの1955年2月に、前年の8月に『新潮』に発表した「ボロ家の春秋」により直木賞を受賞している。しかし彼は自身を純文学作家として自覚しており、貰うならば芥川賞と考えていたことから、辞退を考え、多くの作家仲間に相談した事実はよく知られている。それについては、『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (6)』の私の注で少しく述べたので、参照されたい。
本篇は梅崎春生自身の海軍暗号員(正確には暗号特技兵)としての戦時経歴とかなり一致している(29歳の時、昭和19(1944)年6月に海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入り、終戦まで九州各地の陸上基地を転々とした)。敗戦の年の五月に即席の下士官教育を受けて二等兵曹となっていた。但し、梅崎は戦時中の詳しい経歴を語ることを嫌っており、現在でも細かな部分は判っていない。従って本篇でイニシャルで示されるK基地なども同定はしない。この「K」イニシャル自体も実際の基地名のそれではないと考えた方がよいと私は思っている。但し、本文内で吹上浜の真正面にあるとするから、この辺り(グーグル・マップ・データ。ロケーションの一部で「幻化」でも印象的な場面に出る坊津(ぼうのつ)を含めて示した)ではある。吹上浜には海軍の特攻艇「震洋」の秘密基地が複数あった)。彼のその経歴・職種及び配属された基地や、ここに出る地名等の殆どは既に、
及び
で詳細に注してあるので、それらに出ない一部を除いて注はしない。
なお、本電子化注は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが1340000アクセスを突破した記念として公開する【2020年3月30日 藪野直史】]
眼 鏡 の 話
他人と喧嘩する時、もしその男が眼鏡をかけているなら、先ずそいつの眼鏡をたたき落せ。中学生の頃、私はそう先輩から教えられた。眼鏡をたたき落されたら、そいつは動作に自信を失って、実力が半分ぐらいがた落ちしてしまう。もうそうなれば闘わずして勝ったようなものだ。
その頃私は眼鏡をかけていなかったから、そんなものかなと思っただけだが、後年眼鏡をかけるようになって、ある程度その先輩の言を首肯した。眼鏡をなくすと、動作にいくらか自信がなくなるのは事実であるし、もしたたき落されたら、たたき落された眼鏡のことの方が気になって、喧嘩どころではなくなるだろう。踏みつぶされでもしたらことだ。眼鏡なんてそう安いものではない。
しかしこれはたたき落された場合であって、自分で外してポケットにしまい込んだ場合は別である。喧嘩の実力はそう低下するものではない。
だから私は周囲の情勢が険悪になると、すぐに眼鏡を外してしまい込む傾向がある。動作はそれでいくらか鈍くはなるが、たたき落されてうろうろするよりはましだ。
喧嘩ではなく、自分の不注意で眼鏡をこわしたような場合、次に新調するまでの期間が非常に憂欝なものである。なにしろ今まではっきり見えていた現実が、急にぼやけたり分裂したりしてしまうのだ。次の眼鏡にありつくまでの数時間、あるいは数日間というものは、生理的に不愉快で、仕事にもろくに手がつかない。
私は生れつき割に用心深いたちだが、近頃よく眼鏡をこわすようになった。昔はそんなことはなかった。学生の頃なんかほとんどこわすことがなくて、ひとつ眼鏡を数年間にわたってかけていた。
それが何故近頃そういうことになったかと言うと、どうも経済的なものが私の心理に影響を与えているらしいのだ。すなわち学生時代は眼鏡をこわすと、直ぐに乏しい学習に重大な影響を及ばす。だから眼鏡を大切にせざるを得ない。ところが今の私にとっては、眼鏡は学生時代ほど貴重品ではないので、つまり生命(いのち)から三番目や四番目のものでなく、十数番目あるいは数十番目のものであるので、つい取扱いがおろそかになるのだろう。このように物のこわし方について考えても、背後にちゃんとした経済的な裏付けがある。
たとえば戦時中のことを考えればすぐに判る。人々は物を大切にし、めったにこわさなかった。万一こわしたとしても、工夫して修理に修理を重ねて使用した。もっともこれは修繕出来るものに限るのであって、眼鏡などというものはその性質上、ひとたび割ってしまえば、もう修理の余地はない。
そういう貴重な眼鏡を、戦争も末期の末期、あと一箇月で終ろうという昭和二十年七月某日、私は不運にして割ってしまった。割った場所は鹿児島の片田舎で、そこらの町に出ても眼鏡屋なんかはない。あっても現物不足で開店休業の形になっている。そういう不運な状況のもとに、私はただひとつしか持たない愛用の眼鏡を割ってしまったのである。当時私は海軍の応召兵であった。
海軍に召集されて初めて判ったことだが、あの水兵服というやつに、眼鏡は絶対に調和しない。
水兵服には自からなる年齢の制限がある。水兵服が似合うのは、せいぜい二十二三どまりで、それ以上の年齢ではムリなのだ。たとえばかの勇ましい砂田長官に水兵服を着用させて見るといい。いかに勇ましいことを言っていても、似合うわけはないのである。
[やぶちゃん注:「砂田長官」自由民主党結党時の防衛庁長官砂田重政(明治17(1884)年~昭和32(1957)年)。本作が発表された年の昭和30(1955)年7月31日、第二次鳩山内閣で防衛庁長官となっていたが、実は同年11月22日に予備幹部自衛官制度の必要性を訴えたが、閣議を経ていない個人としての意見という意味合いが強く、自衛隊のあり方に慎重な世論の批判によって更迭されている。長官就任時は右派で再軍備を主張していた日本民主党であったが、更迭の七日前の11月15日に日本民主党と自由党の保守合同が実現し、自由民主党が結成されていた。従って、本初出時には既に防衛庁長官ではなかったので、実に皮肉な謂いとなったのであった。]
眼鏡が水兵服と調和しないのも、そういうことと少しは関係があるらしい。
水兵服が眼鏡をかけているということだけで、私は若い兵長などに不当にいじめられた経験がある。略服を着ている時はそうでもないのに、水兵版(第一種軍装と言う)を着用していると、いじめられ方がひどいのだ。彼等にとっては、水兵服の価値を引き下げられたように感じられたのだろう。その彼等の気持は今となっては判らないでもない。
だから私は水兵服で外出して、街のショウウィンドゥなどにうつる自分の姿を、自己嫌悪なくしては眺められなかった。こういう水兵をつくったということだけでも、帝国海軍の末路はもう見えていたようなものだ。
もっとも眼鏡を破損した二十年七月には、水兵服はもう着用していなかった。もうそんなものは返納して、防暑服という軽装になっていた。その防暑服姿でアルコール性飲料を痛飲し、泥酔して崖から辷(すべ)り落ち、そして眼鏡を割ったのである。
何故そんなものを痛飲したか? 少々ヤケになったからである。何故ヤケになったか? 転勤の命令が出たからである。何故転勤の命令が出てヤケになったか? そこの配置がとても良かったからである。
通信自動車という名称だったか、一応装甲された大型車で、屋根にアンテナを立てている。内部には無線機械や暗号書入れの金庫などがあり、乗員は運転手の外(ほか)、電信員が二人、暗号員が一人ということになっていた。その暗号員というのが私である。私は鹿児島近郊の谷山基地からK基地に派遣され、そのK基地で志願して通信車の暗号員となったのだ。通信車の任務は、あちこちに移動して、各基地との連絡通信にあたる。先ず私たちの通信車はK基地を出発して、山道をあえぎあえぎ数時間走り、坊津(ぼうのつ)を眼下に見おろす峠に着いた。早速電信員は電鍵をカチャカチャとたたき、K基地に只今安着の報告をした。もちろん暗号文でだ。そのために私が同乗している。電文はすぐに通じた。
そこまでは良かったけれども、第一報を送ったとたんに無線機の調子が悪くなったらしく、いくら電信員が呼んでもK基地が出て来なくなったのだ。通信車といっても、まだ試作程度のものだったらしく、性能が全然良くないのである。通信が出来なければ、通信車の任務は果たせない。それでも電信員は、K基地を呼び出さんものと、いろいろ苦心しているようだったが、どうしても応答がないので、呼出し時間は朝夕二回ときめ、あとの時間は公然とさぼり出した。電信がそういう状態であるから、したがって私の仕事、暗号作製暗号翻訳にも力のふるいようがないので、開店休業のかたちとなる。指令がないから、(あってもキャッチ出来ないから)車は峠に居坐ったまま動かない。だから運転手も力のふるいようがない。運転手は四十年配の応召の兵長だったが、これさいわいと釣竿をつくり、毎日峠を降りて魚釣りに行ってしまう。あの坊津というのは実に美しい港で、魚も割によく釣れた。
こうしてここが、朝から晩まで何もすることがない、何もしないでいい、という絶好の配置になったわけだ。それまで一年有余、応召以来、朝から晩まで怒鳴(どな)られ、たたかれ、追いまくられて来た果てに、こんなに静かな颱風(たいふう)の眼のような生活が、ポカッと私の前に立ちあらわれた。こんなに毎日が貴重に思われたことは、私の生涯を通じてもあまりないことだろう。
この通信車を絶好の配置と言ったが、それは大いに暇だという理由だけではなかった。別にもあった。なにしろあの頃は米軍上陸の時期が近づいていて、その上陸地点も宮崎海岸か、薩摩(さつま)半島の吹上浜と予想されていた。もし吹上浜に上陸したらどうなるか。K基地なんかその真正面だからひとたまりもない。洞窟陣地に入ったまま全滅するにきまっている。K基地所属の私ももろともだ。
ところが、こうして通信車の所属になれば、もし敵が上陸した場合、その機動力を利用して、いち早く安全地帯に逃げのびることが出来る。通信車というのは、戦闘に従事するのではなくて、通信が任務である。安全地帯に退避するのは、卑怯でも何でもなく、当然の処置なのだ。そういう意味でも絶好の配置であった。それは私が内心ひそかにそう考えていたのではなく、たとえば運転手の兵長なども、
「敵さんが上陸してきたら、腕によりをかけて逃げるよ。決してあんたたちに犬死にはさせないよ」
いつもそう言っていたくらいだ。
しかし今考えると、もし敵が上陸したら、通信車は大型だし、よたよたしていてあまり速力も出ないので、戦闘機あたりのいい餌食(えじき)になり、全員壮烈な戦死ということになっていたに違いない。
そういう具合の日々が一週間もつづいたある夕方、電信員がカチャカチャと連絡をとっていると、ふっとK基地が出てきたのである。そして向うから直ちに暗号電報を送ってきた。晴号は「勇」である。「勇」とは人事関係に使用する暗号だ。さっそく「勇」晴号書をめくつて、翻訳にとりかかって、私はびっくりした。最初に私の名前が出て来たからだ。
「‥‥‥転勤ニ付至急谷山本部ニ帰投セヨ」
私は愕然(がくぜん)として暗号書を取り落した。絶好の配置の夢も、わずか一週間でくずれてしまったわけだ。
これには運転手兵長以下が気の毒がって、その晩私のために送別会を開いて呉れた。場所は峠のそばの草原、サカナは兵長が釣ってきた雑魚(ざこ)、飲料はアルコールを水に割ったもの。峠の近くの松林の中に、海軍航空用一号アルコールが、ドラム罐で百本はかりごろごろころがっている。そこから持ってくるのだからアルコールは無尽蔵と言っていい。飲み方は先ず、食器に一号アルコールを入れて、マッチで火をつけるぼうぼうと燃える。いい加減なところで火を消して水を割る。火をつけるのは、毒が上澄みになっているという兵長の説で、その説を信頼して私たちはずいぶん飲んだ。一号アルコールがメチルであるかどうか、私は今もって知らないが、あまり良い酔い方をしなかったのは事実である。宴果てて、通信車に戻る途中、放尿しようとして崖の鼻に立ったまでは憶(おぼ)えているが、次に気がついた時私は崖下に横になってたおれていた。まっくらで何も判らない。眼鏡も飛んでいる。探しようもない。手さぐりで崖を這い登ると、右の瞼(まぶた)が痛かつた。切れて血が出ているらしく、ぬるぬるする。兵長以下は私を見捨てて、先に行ってしまった。これは彼等が不人情なわけではなくて、かえりみる余裕がないほど彼等も酔っていたのである。
[やぶちゃん注:「海軍航空用一号アルコール」『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (7)』では、『航空用ガソリンの不足を補うために開発された代用燃料であるが詳細は不詳。後の飲用の場面から見ると、サツマイモから作られたエチル・アルコールに飲用を防止するためにガソリンや灯油などを混ぜたものかと思われる。高校時代に戦争経験のある社会科の先生(バタン半島死の行進の話が大好きな先生であった)から聴いた記憶がある。識者の御教授を乞う』と注したが、その後もよく判らない。但し、戦時経験者の懐古録によると、正式な海軍航空機用燃料としてのアルコールは毒性の強いメチル・アルコールであったとある。]
眼鏡は翌朝、崖下を探して見付かった。縁は原型をとどめていたし、左の玉もちゃんとしていたが、右の玉はめちゃくちゃにこわれて散乱していた。その破片のひとつが私の右瞼を傷つけたものらしい。
眼鏡というものは、右左とも度が合ってこそ役に立つものであるが、片方だけが合っていてもう一方が素通しだというのは、実に具合が悪い。全然かけない方がまだしもなのである。私は絶望した。こんな時期に眼鏡をこわしては、また次のやつが手に入るかどうかも計りがたい。もし手に入らねば、私は眼鏡なしで軍務に服さねばならぬ。眼鏡をかけていても動作鈍重、へまばかりをやっている私が、眼鏡がないとなるとどういうことになるのだろう。
しかしくやんでいても仕方がない。
右瞼にかんたんな治療を加え、私は兵長たちに別れを告げ、そして峠を降りた。眼鏡はかけないで、ポケットにしまったままである。徒歩で枕崎に出て、汽車に乗り、途中の小さな町で降りた。その小さな町で、私は眼鏡をかけていなかったために、ついうっかりして、町角に立っている三人の海軍士官に対して敬礼をおこたった。夕方ではあるし、よく見えなかったのである。
「おい。貴様!」
通り過ぎようとする私を、その一人が険(けわ)しい声で呼びとめた。
「貴様、生意気に、欠礼する気か!」
私はびっくりして立ち止り、あわてて挙手の敬礼をした。見ると三人とも少尉で、一人はアゴの張ったの、一人はオデコで、もう一人はヘチマみたいに顔が長かった。私を呼びとめたのはそのヘチマである。私は敬礼の姿勢のまま、眼鏡を割ったので見えなかったのだ、という弁解をした。するとヘチマが怒鳴りつけた。
「弁解するな。こっちへ来い!」
私は口をつぐんでヘチマの前に進み出た。その時オデコが横から口を出した。
「じゃそのこわれたという眼鏡を出して見ろ」
私はポケットから眼鏡を出して、オデコに手渡した。へチマが言った。
「足を開け。少しばかり修正してやる!」
私は足を開いて踏んばった。ヘチマの右の拳固(げんこ)が私の頰に飛んだ。私はよろめいた。するとも一つの拳固が左から飛んできた。
応召以来ずいぶん殴(なぐ)られたが、街中(まちなか)で殴られるのはこれが初めてである。町の人々が立ち止って、私が殴られるのを眺めている。三人とも私より五つ六つ歳下で、もちろん学徒出陣で出てきた予備士官たちだ。皆が見ている前で殴る立場になっているのが得意らしく、ヘチマは調子をつけてたのしそうに、右から左から私を殴りつける。この野郎! と思うのだが、反抗するわけには行かない。唇の内側が切れたらしく、口腔内がべっとりとしてきた。眼界がくらくらとなる。
「おい。もういい加減にしてやれよ」
それまで黙って見ていたアゴが発言した。ヘチマは殴りやめた。ふらつく足を踏みしめて私はふたたび不動の姿勢をとった。オデコが眼鏡を投げるようにして戻した。
「片方にはチャンと玉が入っているじゃないか!」オデコが私をにらみつけた。「片方だけでもチャンとしておれば、かけて見えんわけがない。かけろ!」
私は情ない思いで眼鏡をかけた。見たところ三人とも眼鏡をかけていない。眼鏡を使用していない人間に、片欠け眼鏡のはなはだしい違和感を説明しても、判って呉れないにきまっている。眼鏡をかけた瞬間に、町の風景は濃淡の二重になって、ぐらぐらと歪(ゆが)んだ。オデコが言った。
「貴様、どこまで行くんだ?」
「谷山までです」
「丁度いいじゃないか」オデコが二人をかえりみた。「こいつにトラックを探させようじゃないか」
「その方が手早いな」ヘチマが応じて、そして私に向き直った。「今から十五分以内に、トラックを一台探し出して、ここに連れてこい。鹿児島方面行きのトラックだぞ。いいか。逃げると承知せんぞ。かけ足!」
私は両手を脇腹につけ、走り出した。片欠け眼鏡のせいで、大地が波打っていて、走りづらいことおびただしい。しかしそれよりも学校出の予備士官に、しかも街中で殴られたことの方が、きりきりと口惜しかった。十七か十八の子供のような兵長や上水に殴られるよりも、この方がずっと腹が立った。妙な心理ではあるが、こちらも学校出でしかも無理矢理に海軍に引っぱられたのに、そういう気持が働いていたのだろう。
駅通りをうろちょろと走り廻り、伊集院(いじゅういん)方面に行く軍用トラックをやっと見付け、運転手に三拝九拝して、三人の士官のいるところまで廻ってもらった。三人は相変らず同じ場所にぼそっと立っていたが、その一人のアゴが脚をくくった生きた鶏を手にさげていた。私がトラックを探しに行った間に、どこからか都合してきたものらしい。
[やぶちゃん注:「伊集院」現在の日置市伊集院地域(旧伊集院町)及び鹿児島市松元地域(旧松元町。旧伊集院地域)。この付近の広域に当たる(グーグル・マップ・データ)。この「院」は「高い垣に囲まれた大きな建造物」の意で、鎌倉から戦国にかけて薩摩国にあった古い地名であり、江戸時代は薩摩藩の外城の名称でもあった。]
三人は別に運転手にあいさつもせず、のそのそとトラック台に這い登った。運転手は下士官である。トラックの上からオデコが私に命令した。
「おい。早く乗れ。貴様も谷山方面に行くんだろ?」
トラックは古材木を積み込んでいた。三人はトラック台の前部に、運転台の屋根によりかかって坐った。私は三人から出来るだけ離れて、トラック台の最後尾に腰をおろしていた。アゴが私に命令した。
「おい。この鶏を預けるから、大切に抱いてろ。抱いてないと逃げるからな」
私は鶏を受取った。三人の中ではアゴが一番思いやりのある性格のようだった。思いやりがあるというより、無関心という方に近い。言葉つきも変になげやりだった。鶏は脚をそろえてくくられ、恐怖でぼったりとふくらんでいた。飛んで逃げるだけの気力はなさそうだったが、命令通りに私は抱いていた。抱かれた鶏は半眼のまま、私の膝に濁った色のゆるい糞(ふん)を垂れた。裸の膝にそれはべとりとくっついた。
トラックははげしく揺れながら、凸凹の田舎道を進みに進んだ。私の場所は最後尾だから、ことに揺れる。材木の角が尻を突き上げてくる。風が強く顔や手にあたって、その点では快適だったが、揺り上げられるのはつらかった。つらいと言えば半欠け眼鏡もそうだった。揺れる上に左右の眼がつり合っていないから、風景が二重になってぎしぎしすれ合うのだ。これではとてもやって行けない。このまま谷山に直行しても、谷山に眼鏡屋はない。鹿児島市にはあるだろうが、ずいぶん爆撃されたという話だから、残っているかどうか。それに谷山から鹿児島市へ外出する機会があるかどうかも怪しい。
私はしだいに腹立たしく、また惨(みじ)めになってきた。私は右の眼をつむり、長期的にウィンクしたまま、飛び移る風景を眺めていた。三人にはそっぽ向いたままだ。顔を向ける気にもならない。無関心が一番ありがたいというのは何ということだろう。味方同士でそんな人間関係があっていいのか。
やがて日が暮れてきた。あたりは薄暗くなった。私は三人の様子をうかがいながら眼鏡を外し、ポケットにしまった。もう大丈夫だろう。三人は運転台の屋根によりかかって、何か声高(こわだか)に話し合っている。ヘチマのきんきん声が一番よくひびく。三人とも戦闘部隊の関係者ではなく、主計科か何かの士官らしい。ウィスキーの廻し飲みをやっている様子だ。携帯糧食をひらき、それをサカナにして、ウィスキーのがぶ飲みをやっている。私は朝食べただけだから、その気配を感じただけで、おなかが鳴り出してくる。トラックに乗るということは、たいへんはげしい労働で、たちまちおなかがすいてしまうものだ。それをごまかすために、私は風に向ってしきりに口笛を吹いた。思いうかぶ歌を次々口笛に乗せる。しかしトラックの上で吹く口笛は、すぐに散り散りになって、何とも惨めな感じがする。
[やぶちゃん注:最後の一文中の「トラック」は底本は「トラッ」であるが、誤植と断じ、特異的に訂した。
「主計科」海軍内の衣糧・会計を管理する部署。兵科に対して地味である。]
夜中、十二時近くになって、トラックが停車した。くらい田舎道だ。伊集院にはまだまだ遠いらしい。運転台から下士官がごそごそと這い出してきた。懐中電燈の光の輪が地面に揺れる。
「はあ。故障らしいです」
アゴの質問に下士官が答えている。慣れていると見え、のんびりした声だ。三人はごそごそと何か相談している。ここで夜明しするかどうかというようなことだ。鶏は眠ってしまったのか、それとも気絶したのか、私の膝の上で身動きもしない。
「口笛をやめろ!」突然いらいらしたオデコの声が私に飛んできた。私は口笛を吹きやめる。
「貴様ちょっと降りて、そこらに宿屋があるかどうか、探してこい!」
鶏を材木の上にころがせ放しにして、私はトラックから飛び降りた。下士官が私を呼びとめて、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ほど行くと小さな町があると教えて呉れた。なるほどそちらの方に煙がちらちらしている。眼鏡を通してでないから、燈色はべたりと滲んでいる。
「鶏は材木の上に置いときました」私は歩き出しながら車上に報告した。「相当に弱っているようですから、逃げることはないと思います」
慢性的なビタミンAか何かの不足で、私は人よりも夜目が利(き)かない。夜目が利かないということで、私は兵隊としてたいへん苦労した。それにその夜は眼鏡もないし、月がなく星明りだけだったから、その小さな町まで往復するのにも相当時間がかかった。時間がかかったということだけでも三人は、ことにヘチマは、極度にいらいらしたらしい。暗いトラック台の上からはげしい声が落ちてきた。それはもうこちらを人間だと思っていない、はっきりと人間以下にしか考えていない、露骨な声であつた。
「なにい。ダメだったあ?」ヘチマの金属的な声だった。
「一体どこをほっついてやがったんだ!」
一年前か二年前か知らないが、こいつがどういう顔をして、学生として学校に通っていたのか。私はむかむかしてくるのを我慢しながら、元宿屋が一軒あるが現在は廃業して、布団も何もないこと、第一に宿屋としての余分の食糧を持っていないことを、私は説明した。表戸をどんどんたたくと、出て来たのは五十前後の善良そうなお内儀(かみ)で、その言葉にウソはなさそうだった。ドサッと地べたに飛び降りた。ヘチマだ。つづいてオデコ、最後にすこし間を置いて、鶏を抱いたアゴがどさっと降りてきた。オデコの手が私の肩をがくんとこづいた。
「貴様、また眼鏡を外(はず)しとるな!」
私はあわててポケットから取り出して眼鏡をかけた。今度はヘチマが私の背中を小突いた。
「どこの宿屋だ。案内しろ!」
お前も来ないか、とアゴが下士官をさそった。下士官が答えている。
「いや、わしは運転台に寝ますわい」
私は小突かれて歩き出した。昨夜眼鏡をこわしたばかりなのに、もう今日だけでもいろいろとつらい目にあつた。行く先を考えると眼の前がまっくらになるような気がする。おなかも極度にすいていることゆえ、私の足音には力がない。三人のはウィスキーが入っているから、元気があってあらあらしい。その対比がますます私の気持を滅(め)入らせた。
ふたたび元宿屋について裏戸をどんどんたたいた。寝巻姿であたふたと出て来たお内儀に、先ずがなり立てたのはヘチマである。俺たちは国のために身を捨てて働いている。銃後のお前たちが安心して暮せるのは、俺たちのためでないか。その俺たちの宿泊を謝絶するとは何ごとか!
ヘチマは黄色い声でそういうことをがなり立てながら、内儀をつきとばすようにして、上(あが)り框(かまち)に足をかけて靴を脱いだ。内儀はもう慄え上ってまっさおになっている。ヘチマは靴を脱ぎ終って部屋に上った。七つか八つの子が二人、布団の中に眠っている。ヘチマはそれをまたぎ越えて、奥の方に入って行った。同じく上り框で靴を脱いでいたアゴが、なにか虫でも見るような眼付で私を見て、
「貴様はどうする? 泊りたけりゃ泊ってもいいんだぞ」
気のないような声でそう言った。
さいわいそれから一箇月足らずで戦争が済み、復員してやっと眼鏡の玉を入れることが出来たが、その一箇月足らずの期間も、私は視力をうばわれたことによってたくさんのヘマをしでかした。戦さがあれから一年も二年もつづいたら、どういうことになったかと思う。
学徒兵についても、戦後いろいろの談義もあり、たいへんなギセイ者のように受取られているが、もちろんギセイ者にはちがいないが、ああいう環境に放り込まれて、人間のもっとも悪質な部分を露呈したものも、相当にいた筈だと思う。私の体験からでもそれははっきり言える。今ふり返ってみても、たとえば農村出身の兵士の持つエゴイズムよりも、インテリのエゴイズム、いや、インテリというより学校出、学校教育を受けた者のエゴイズム、権威へのよりかかり方や利用のしかた、その方がずっと厭らしく、あさましい感じがしている。私も学校出であつたから、なおのことやり切れなく感じられるのかも知れない。
« 石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 塔影 | トップページ | 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十七 大蛇と鹿 »