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2020/03/01

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 歌集本文(その二)

 

[やぶちゃん注:本書誌及び底本・凡例その他は「石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

   *

 

年明(としあ)けてゆるめる心(こころ)!

うつとりと

來(こ)し方(かた)をすべて忘(わす)れしごとし。

 

 年明けてゆるめる心!

 うつとりと

 來し方をすべて忘れしごとし。

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、実際には初出が『創作』明治四四(一九一一)年一月号であることから、明治四十三年『年内の作』とある。ここから十首目まで総ての初出が同じであるので、七首目までの新年を詠んだそれらは、総て実は年内作となる。但し、これらは、この年以前の年初の感懐に基づくものとすればよく、普遍的な新年の想いとして殆んどの読者に共有共感されるものが殆んどであるから、それを虚構だの創作だのと言うとしたら、詩の何たるかを理解しない検討違いの批判となることは言うまでもない。]

 

   *

 

昨日(きのふ)まで朝(あさ)から晚(ばん)まで張(は)りつめし

あのこころもち

忘(わす)れじと思(おも)へど。

 

 昨日まで朝から晚まで張りつめし

 あのこころもち

 忘れじと思へど。

 

   *

 

戶(と)の面(も)には羽子(はね)突(つ)く音(をと)す。

笑(わら)ふ聲(こゑ)す。

去年(きよねん)の正月(しやうがつ)にかへれるごとし。

 

 戶の面には羽子突く音す。

 笑ふ聲す。

 去年の正月にかへれるごとし。

 

   *

 

何(なん)となく、

今年(ことし)はよい事(こと)あるごとし。

元日(がんじつ)の朝(あさ)、晴(は)れて風(かぜ)無(な)し。

 

 何となく、

 今年はよい事あるごとし。

 元日の朝、晴れて風無し。

 

   *

 

腹(はら)の底(そこ)より欠伸(あくび)もよほし

ながながと欠伸(あくび)してみぬ、

今年(ことし)の元日(ぐわんじつ)。

 

 腹の底より欠伸もよほし

 ながながと欠伸してみぬ、

 今年の元日。

 

   *

 

いつの年(とし)も、

似(に)たよな歌(うた)を二つ三つ

年賀(ねんが)の文(ふみ)に書(か)いてよこす友(とも)。

 

 いつの年も、

 似たよな歌を二つ三つ

 年賀の文に書いてよこす友。

 

   *

 

正月(しやうぐわつ)の四日(か)になりて、

あの人(ひと)の

年(ねん)に一度(ど)の葉書(はがき)も來(き)にけり。

 

 正月の四日になりて、

 あの人の

 年に一度の葉書も來にけり。

 

   *

 

世(よ)におこなひがたき事(こと)のみ考(かんが)へる

われの頭(あたま)よ!

今年(ことし)もしかるか。

 

 世におこなひがたき事のみ考へる

 われの頭よ!

 今年もしかるか。

 

   *

 

人(ひと)がみな

同(おな)じ方角(はうがく)に向(む)いて行(ゆ)く。

それを橫(よ)より見(み)てゐる心(こころ)。

 

 人がみな

 同じ方角に向いて行く。

 それを橫より見てゐる心。

[やぶちゃん注:「はうがく」のルビは次の歌の「か」「が」のルビと比較対照しても明らかに「が」ではなく『はうかく』であるが、おかしいので特異的に筑摩版全集によって濁点を補って示した。

 

   *

 

いつまでか、

この見飽(みあ)きたる懸額(かけがく)を

このまま懸(か)けておくことやらむ。

 

 いつまでか、

 この見飽きたる懸額を

 このまま懸けておくことやらむ。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、ここまでが『創作』四四(一九一一)年一月号初出分。]

 

   *

 

ぢりぢりと、

蠟燭の燃えつくるごとく、

夜となりたる大晦日かな。

 

 ぢりぢりと、

 蠟燭の燃えつくるごとく、

 夜となりたる大晦日かな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は四四(一九一一)年一月八日附『東京朝日新聞』。]

 

   *

 

靑塗(あをぬり)の瀨戶(せと)の火鉢(ひばち)によりかかり、

眼(め)閉(と)ぢ、眼(め)を開(あ)け、

時(とき)を惜(をし)めり。

 

 靑塗の瀨戶の火鉢によりかかり、

 眼閉ぢ、眼を開け、

 時を惜めり。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は四四(一九一一)年一月八日附『東京朝日新聞』で、初出形は、

 新しき瀨戶の火鉢に凭(よ)りかゝり眼閉ぢ眼を開け時を惜めり

であるとする。]

 

   *

 

何(なん)となく明日(あす)はよき事(こと)あるごとく

思(おも)ふ心(こころ)を

叱(しか)りて眠(ねむ)る。

 

 何となく明日はよき事あるごとく

 思ふ心を

 叱りて眠る。

 

   *

 

過(す)ぎゆける一年(ねん)のつかれ出(で)しものか、

元日(ぐわんじつ)といふに

うとうと眠(ねむ)し。

 

 過ぎゆける一年のつかれ出しものか、

 元日といふに

 うとうと眠し。

 

   *

 

それとなく

その由(よ)るところ悲(かな)しまる、

元日(ぐわんじつ)の午後(ごご)の眠(ねむ)たき心(こころ)。

 

 それとなく

 その由るところ悲しまる、

 元日の午後の眠たき心。

[やぶちゃん注:――年頭のハレの日たる「元日の午後」というのに、私が、何やらん、ぼんやりとした「眠た」いような憂鬱の影が射した「心」の状態にあるというのは、「それとなく」「その由るところ」のもの(原因)が、はっきりと自分には判っているということが、救い難いまでに「悲しまる」るのである。――というのである。前歌やこの次の次の一首の現実的即物的な眠気を詠じた吟に比して、朧化されている分、遙かに致命的に暗い憂愁が伝わってくる。]

 

   *

 

ぢつとして、

蜜柑(みかん)のつゆに染(そ)まりたる爪(つめ)を見(み)つむる

心(こころ)もとなさ!

 

 ぢつとして、

 蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる

 心もとなさ!

 

   *

 

手(て)を打(う)ちて

眠氣(ねむけ)の返事(へんじ)きくまでの

そのもどかしさに似(に)たるもどかしさ!

 

 手を打ちて

 眠氣の返事きくまでの

 そのもどかしさに似たるもどかしさ!

 

   *

 

やみがたき用(よう)を忘(わす)れ來(き)ぬ――

途中(とちう)にて口(くち)に入(い)れたる

ゼムのためなりし。

 

 やみがたき用を忘れ來ぬ――

 途中にて口に入れたる

 ゼムのためなりし。

[やぶちゃん注:「やみがたき用」ここは「大事な用事」の意。

「ゼム」当時、市販されていた粒状の清涼剤「Gem」。東京都日本橋区馬喰の「愛國堂」及び同支店で大阪市高麗橋の「山崎兄弟商会會」から販売されていた。ブログ「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)」の「漱石とジェム(ゼム)」に当時の広告写真と、そこに書かれた効能書きが電子化されているので参照されたい。表題にあるように、夏目漱石の「行人」(大正元(一九一二)年十二月六日から翌年十一月五日まで『朝日新聞』連載。但し、大正二年四月から九月までは漱石の三度目の胃潰瘍罹患のために中断している)で、主人公長野二郎の友人で胃を悪くしている三沢が愛用しており、漱石自身も繁用していた。個人ブログ「まちこの香箱(かおりばこ)」の「暑くなると」によれば、孫引きながら、明治四三(一九一〇)年五月二十日附『東京朝日新聞』では『ハレー彗星衝突の恐怖から逃れたいなら靈藥ゼムを飮め』という広告があったという(ハレー彗星(1P/Halley)は一九一〇年四月二十日に比較的地球に接近したが、それ以前から彗星の尾に含まれる猛毒成分によって地球上の生物は全て窒息死するという噂が広まっていた。因みに本歌の初出は『創作』明治四十四年二月号である)。因みに「愛國堂」は大正一一(一九二二)年に「山崎帝國堂」と社名を改称、現在も同社が発売しているのが、かの「毒掃丸」である。]

 

   *

 

すつぽりと薄團(ふとん)をかぶり、

足(あし)をちゞめ、

舌(した)を出してみぬ、誰(たれ)にともなしに。

 

 すつぽりと薄團をかぶり、

 足をちぢめ、

 舌を出してみぬ、誰にともなしに。

 

   *

 

いつしかに正月(しやうぐわつ)も過(す)ぎて、

わが生活(くらし)が

またもとの道(みち)にはまり來(きた)れり。

 

 いつしかに正月も過ぎて、

 わが生活が

 またもとの道にはまり來れり。

 

   *

 

神樣(かみさま)と議論(ぎろん)して泣(な)きし――

あの夢(ゆめ)よ!

四日(か)ばかりも前(まへ)の朝(あさ)なりし。

 

 神樣と議論して泣きし――

 あの夢よ!

 四日ばかりも前の朝なりし。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『創作』明治四四(一九一一)年二月号で、『この夢については、「函館日日新聞」明治四十四年二月二十六日号に掲げた「郁雨に与ふ㈥」』『というエッセイに詳細な説明がある』とあったので、筑摩版全集を参考に漢字を概ね恣意的に正字化して以下に示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

 

     ㈥

 

 郁雨君足下。

 

  神樣(かみさま)と議論して泣きし

  夢を見ぬ――

  四日ばかりも前(まへ)の朝なりし。

 

 この歌は予がまだ入院しない前に作った歌の一つであつた。さうしてその夢は、予の腹の漸く膨(ふく)れ出して以來、その壓迫を蒙る内臟の不平が夜每々々に釀した無數の不思議な夢の一つであった。――何でも、大勢の巡査が突然予の家を取圍んだ。さうして予を引き立てゝ神樣の前へ伴れて行った。神樣は年とつたアイヌのやうな顏をして眞白な髯を膝のあたりまで垂れ、一段高い處に立つて、ピカピカ光る杖を揮(と)りながら、何事か予に命じた。何事を命ぜられたのかは解らない。その時誰だか側(かたは)らにゐて、「もう斯うなつたからには仕方がない。おとなしくお受けしたら可いだらう。」と言った。それは何でも予の平生親しくしてゐる友人の一人だったやうだが、誰であつたかは解らない。予はそれに答へなかつた。さうして熱い熱い淚を流しながら神樣と議論した。長い間議論した。その時神樣は、ぢつと腕組みをして予の言葉を聞いてゐたが、しまひには立つて來て、恰度小學校の時の先生のやうに、しやくり上げて理窟を揑(こ)ねる予の頭を撫でながら、「もうよしよし。」と言つてくれた。目のさめた時はグツシヨリと汗が出てゐた。さうして予が神樣に向つて何度も何度も繰返して言つた、「私の求むるものは合理的生活であります。ただ理性のみひとり命令權を有する所の生活であります。」といふ言葉だけがハツキリと心に殘つてゐた。予は不思議な夢を見たものだと思ひながら、その言葉を胸の中に復習してみて、可笑しくもあり、悲しくもあつた。

 入院以來、殊に下腹に穴をあけて水をとつて以來、夢を見ることがさう多くはなくなつた。手術をうけた日の晚とその翌晚とは確かに一つも見なかつたやうだ。長い間無理矢理に片隅に推しつけられて苦しがつてゐた内臟も、その二晚だけは多少以前の領分を囘復して、手足を投げ出してグツスリと寢込んだものと見える。その後はまたチヨイチヨイ見るやうになつた。とある木深(こぶか)い山の上の寺で、背が三丈もあらうといふ灰色の大男共が、何人も何人も代る代る[やぶちゃん注:「かはるがはる」。]出て來て鐘を撞(つ)いた夢も見た。去年の秋に生れて間もなく死んだ子供の死骸を、鄕里の寺の傍の凹地(くぼち)で見付けた夢も見た。見付けてさうして抱いて見ると、バツチリ目をあけて笑ひ出した。不思議な事には、男であつた筈の子供がその時女になつてゐた。「區役所には男と屆けた筈だし、何うしたら可いだらうか。」「さうですね。屆け直したら屹度(きつと)罰金をとられるでせうね。」「仕方がないから今度また別に女が生れた事にして屆けようか。」予と妻とは凹地の底でかういふ相談をしてゐた。

   *]

 

   *

 

家(いへ)にかへる時間(じかん)となるを、

ただ一つの待(ま)つことにして、

今日(けふ)も働(はたら)けり。

 

 家にかへる時間となるを、

 ただ一つの待つことにして、

 今日も働けり。

 

   *

 

いろいろの人(ひと)の思(おも)はく

はかりかねて、

今日(けふ)もおとなしく暮(く)らしたるかな。

 

 いろいろの人の思はく

 はかりかねて、

 今日もおとなしく暮らしたるかな。

 

   *

 

おれが若(も)しこの新聞(しんぶん)の主筆(しゆひつ)ならば、

やらむ――と思(おも)ひし

いろいろの事(こと)!

 

 おれが若しこの新聞の主筆ならば、

 やらむ――と思ひし

 いろいろの事!

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、当時の朝日新聞社主筆は池辺三山(文久四(一八六四)年~明治四五(一九一二)であったとある。ウィキの「池辺三山」によれば、『肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ』で、『父吉十郎は熊本藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、敗戦時に処刑されるという非運に見舞われた』長男であった『吉太郎が』十四『歳の時であり、これからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚の風格を長じるようになった。慶應義塾に学んだが、中退して佐賀県の役人となる』。『大阪朝日新聞、東京朝日新聞の主筆を歴任。朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり』で、『公明正大で高い識見の言論は、政治や思想、文芸など多方面に影響を与えた。陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された。二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、今日文豪と言われる作家の長編小説を新聞連載に尽力した』。心臓発作で亡くなったが、これは死の直前に母が亡くなり、その『喪に服すために肉食を断ったことで、持病の脚気を悪化させたことが原因と言われ』ている。彼は『温かい人柄で知られ、漱石をはじめ』、『多くの人に慕われた。また、明治政府首脳とたびたび面会し、ロシアとの開戦を唱える主戦論派でもあった。日露戦争開戦後は挙国一致を紙面で訴えて政府に惜しみなく協力した。しかし、ポーツマス条約の講和内容に憤慨し、一転して明治政府を非難する記事を掲載したために、政府によって新聞の長期発刊停止処分を受け』た。「新聞は商品であり、記者はその商品を作る職人」であるとか、「文章は平明で達意であるべし」といった『彼の持論は朝日新聞の編集方針となり、同社の近代化に大きな貢献を果たした』とある。本歌が発表された(『創作』明治四十四年二月号)当時は満四十七歳であった(啄木は二十五歳。三山は啄木の死に先立って同年二月に亡くなっている)。]

 

   *

 

石狩(いしかり)の空知郡(そらちごほり)の

牧場(ぼくじやう)のお嫁(よめ)さんより送(おく)り來(き)し

バタかな。

 

 石狩の空知郡の

 牧場のお嫁さんより送り來し

 バタかな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『北海道石見市郊外の牧場主北村謹に嫁いだ橘智恵子』(啄木の函館区立弥生尋常小学校に勤務していた時の同僚女教師)『を歌ったもの。啄木は人の妻にならぬ前に会いたいと、四十三』(一九一〇)『年の暮、歌集「一握の砂」を札幌村に送ったが、すでに彼女は結婚していたのである。しかし歌集のお礼に北村牧場でとれたバターを送ってきた』のであったとある。橘智恵子については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 二」の私の冒頭注及びその歌群を見られたい。リンク先パートの全二十二首は総てが恋歌であり、この橘智恵子を詠んだものであるからである。啄木の日記によれば、バターが届いたのは明治四四(一九一一)年一月十六日であった。]

 

   *

 

外套(がいとう)の襟(えり)に頤(あご)を埋(づ)め、

夜(よ)ふけに立(たち)どまりて聞(き)く。

よく似(に)た聲(こゑ)かな。

 

 外套の襟に頤を埋め、

 夜ふけに立どまりて聞く。

 よく似た聲かな。

[やぶちゃん注:これは前の歌との組写真と考えるなら、橘智恵子の「聲」に「よく似た」それと読める。]

 

 

Yといふ符牒(ふてふ)、

古日記(ふるにつき)の處處(しよしよ)にあり――

Yとはあの人(ひと)の事(こと)なりしかな。

 

 Yといふ符牒、

 古日記の處處にあり――

 Yとはあの人の事なりしかな。

 

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『この歌は橘智恵子を詠める二首に続いているので「あの人」は橘智恵子を歌ったものであろう。この場合「Y」は「弥生(弥生小学校)の橘智恵君」つまり「YAYOIの君」の符号であると考えられる』とされつつ、橘智恵子ではないとするなら、『釧路の芸者小奴が有力である』とされ、『彼女は釧路時代小奴の「ヤッコ」の頭字をとって「ヤッチャン」と呼ばれていた』とあり、さらに『啄木が上京後』、『文通のあった筑紫の菅原芳子(よしこ)も候補の一人』とされる。]

 

   *

 

百姓(ひやくしやう)の多(おほ)くは酒(さけ)をやめしといふ。

もつと困(こま)らば、

何(なに)をやめるらむ。

 

 百姓の多くは酒をやめしといふ。

 もつと困らば、

 何をやめるらむ。

 

   *

 

目(め)さまして直(す)ぐの心(こころ)よ!

年(とし)よりの家出(いへで)の記事(きじ)にも

淚(なみだ)出(い)でたり。

 

 目さまして直ぐの心よ!

 年よりの家出の記事にも

 淚出でたり。

[やぶちゃん注:啄木の父一禎は、まず、渋民での住職罷免後、啄木も一緒になって行った復帰運動が上手くゆかずに家出をしている(明治四〇(一九〇七)年三月五日)。本歌の初出は明治四四(一九一一)年二月号『創作』であるが、この年の後の九月三日にも『一家の窮状と感情的不和』(筑摩版全集岩城之徳氏年譜)から家出している。]

 

   *

 

人(ひと)とともに事(こと)をはかるに

適(てき)せざる、

わが性格(せいかく)を思(おも)ふ寢覺(ねざめ)かな。

 

 人とともに事をはかるに

 適せざる、

 わが性格を思ふ寢覺かな。

 

   *

 

何(なん)となく、

案外(あんぐわい)に多(おほ)き氣(き)もせらる、

自分(じぶん)と同(おな)じこと思(おも)ふ人(ひと)。

 

 何となく、

 案外に多き氣もせらる、

 自分と同じこと思ふ人。

 

   *

 

自分(じぶん)より年若(としわか)き人(ひと)に、

半日(はんにち)も氣焰(きえん)を吐(は)きて、

つかれし心(こころ)!

 

 自分より年若き人に、

 半日も氣焰を吐きて、

 つかれし心!

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『創作』明治四四(一九一一)年二月号で、『同年一月十七日の作』とある。啄木は明治一九(一八八六)年二月二十日生まれであるから(但し、一説では前年の十月二十七日ともされる)、作歌時は満二十四歳であった。『啄木はこの日の午後』、『友人の白田が連れてきた、九州生まれで』東京『市内』の『芝公園に住む高橋光蔵という代議士の書生をしている文学青年の花田百太郎と、「明日」という話題について遅くまで気焔をあげた。そして二人が帰ってしまうと急に疲労を感じ九時ごろまで行火(あんか)に寝ていたが』、『起き出して歌を作った、そのうちの一首』であるとされる。次の歌の注も参照されたい。]

 

   *

 

珍(めづ)らしく、今日(けふ)は、

議會(ぎかい)を罵(ののし)りつつ淚出(なみだい)でたり。

うれしと思(おも)ふ。

 

 珍らしく、今日は、

 議會を罵りつつ淚出でたり。

 うれしと思ふ。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四四(一九一一)年二月号『創作』で、前年末の『十二月二十日に召集された第二十七』回『議会で大逆事件』(実は前の歌が作られたその翌日一月十八日に幸徳秋水らに対する特別裁判の判決が下され(死刑二十四名・有期刑二名の判決)、処刑は一月中に即時執行された)、『南北正閏(せいじゅん)論』(昔からあった南朝と北朝の対立についてどちらを正統とするかに就いての論争。この年、国定教科書の両朝並立の記述が批判され、右翼と政府の圧力により、教科書編纂官喜田貞吉が休職処分となり、南朝を正統とする教科書に改訂される事件が起こっていた)『などの重要問題に対する政府問責案、野党である国民党』からの、『塩専売法、通行税法、砂糖消費税法の三税法配し建議案などをめぐって、当然』、『大波瀾が予想されたにもかかわらず、無力な議会は桂太郎内閣によって押し切られた』。『啄木は』そうしたことを『不満に思ってこのように歌ったのである』と評されておられる。。]

 

   *

 

ひと晚(ばん)に咲(さ)かせてみむと、

梅(うめ)の鉢(はち)を火(ひ)に焙(あぶ)りしが、

咲(さ)かざりしかな。

 

 ひと晚に咲かせてみむと、

 梅の鉢を火に焙りしが、

 咲かざりしかな。

 

   *

 

あやまちて茶碗(ちやわん)をこはし、

物(もの)をこはす氣持(きもち)のよさを

今朝(けさ)も思(おも)へる。

 

 あやまちて茶碗をこはし、

 物をこはす氣持のよさを

 今朝も思へる。

 

   *

 

猫(ねこ)の耳(みみ)を引(ひ)つぱりてみて、

にやと啼(な)けば、

びつくりして喜(よろこ)ぶ子供(こども)の顏(かほ)かな。

 

 猫の耳を引つぱりてみて、

 にやと啼けば、

 びつくりして喜ぶ子供の顏かな。

 

   *

 

何故(なぜ)かうかとなさけなくなり、

弱(よわ)い心(こころ)を何度(なんど)も叱(しか)り、

金(かね)かりに行(ゆ)く。

 

 何故かうかとなさけなくなり、

 弱い心を何度も叱り、

 金かりに行く。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、親友宮崎郁雨の「函館の砂―啄木の歌と私と」(昭和三五(一九六〇)年東峰書院刊)に借金のメモ帳が現存し、それは明治四二(一九〇九)年六月十六日、『啄木が函館より家族を迎えて本郷区弓町二丁目に移る直前に書かれたもので、その総計は千三百七十二円五十銭である』とある。当時の一円を現在の二万円ほどとするこちらの見解(「野村ホールディングス」と「日本経済新聞社」の運営しているサイト「man@bow」内)に従えば、凡そ二千七百四十四万円に相当する。]

 

   *

 

待(ま)てど待(ま)てど、

來(く)る筈()はず)の人(ひと)の來(こ)ぬ日(ひ)なりき、

机(つくえ)の位置(いち)を此處(ここ)に變(か)へしは。

 

 待てど待てど、

 來る筈の人の來ぬ日なりき、

 机の位置を此處に變へしは。

 

   *

 

古新聞(ふるしんぶん)!

おやここにおれの歌(うた)の事(こと)を賞(ほ)めて書(か)いてあり、

二三行なれど。

 

 古新聞!

 おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、

 二三行(ぎやう)なれど。

 

   *

 

引越(ひつこ)しの朝(あさ)の足(あし)もとに落(お)ちてゐぬ、

女(をんな)の寫眞(しやしん)!

忘(わす)れゐし寫眞(しやしん)!

 

 引越しの朝の足もとに落ちてゐぬ、

 女の寫眞!

 忘れゐし寫眞!

[やぶちゃん注:私は高校時代に好きな詩文の断片を小さなノートに何冊も書き写していたが、啄木の歌で最初に記したのはこの一首であったことを鮮明に覚えている。]

 

   *

 

その頃(ころ)は氣(き)もつかざりし

假名(かな)ちがひの多(おほ)きことかな、

昔(むかし)の戀文(こひぶみ)!

 

 その頃は氣もつかざりし

 假名ちがひの多きことかな、

 昔の戀文!

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、同年の妻節子と十四の時に交わしたラヴ・レターとされる(啄木の「渋民日記」の明治三九(一九〇六)年十二月二十六日の条によれば、その量(節子からの来信)は『百幾十通』と記している)。しかし『現在は一通も残っていない』そうである。]

 

   *

 

八年前(ねんぜん)の

今(いま)のわが妻(つま)の手紙(てがみ)の束(たば)!

何處(どこ)に藏(しま)ひしかと氣にかかるかな。

 

 八年前の

 今のわが妻の手紙の束!

 何處に藏ひしかと氣にかかるかな。

[やぶちゃん注:前歌注を参照。]

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