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2020/03/05

三州奇談卷之三 邪淫の業報

    邪淫の業報

 歎きにはいかなる花の咲やらん身になりてこそ思ひ知らめ、

とは最も賢き御すさび、賤(しづ)のけふの身の上に思ひ取るにはあらねども、愛執こそ物の哀(あはれ)も深し。

[やぶちゃん注:冒頭の和歌は、「平治物語」の巻之一の「院の御所仁和寺に御幸の事」の頭の部分に出る、後白河上皇の一首、私の所持する刊本は底本伝本が異なり、この歌が載らないので、国立国会図書館デジタルコレクションの「日本文学大系 校註」の第十四巻(大正一四(一九二五)年国民図書刊)を視認して以下に電子化する。会話部は改行した。〔 〕は私の付した読み。

   *

 さる程に同じき二十三日、大内〔おほうち〕の兵共〔つはものども〕六波羅より寄するとて騷ぎけれども、その儀もなし。總て十日より日々夜々に、六波羅には内裏より寄するとてひしめき、大内には六波羅より寄するとて、兵共右往左往(うわうさわう)に馳せ違ひ、源平兩家の軍兵等、京白河に往還す。年は既に暮れなんとすれども、歲末年始の營(いとな)みにも及ばず、只合戰の評定ばかりなり。

 二十六日の夜更けて、藏人右少辨成賴〔なりより〕、一本御書所〔ごしよどころ〕へ參つて、

「君は如何(いかゞ)思し召され候。世の中は今夜の明けぬ前に亂るべきにて候。經宗・惟方は申し入るゝ旨候はずや。行幸〔ぎやうかう〕も他所へ成らせ給ひぬ。又急ぎ何方へも御幸〔ごかう〕ならせおはしませ。」

と奏せられければ、上皇驚かせ給ひて、

「仁和寺の方へこそ思し召し立ため。」

とて、殿上人の體(てい)に御姿をやつさせ給ひて、紛(まぎ)れ出でさせおはします。上西門〔しやうさいもん〕の前にて、北野の方を伏し拜ませ給ひて、それより御馬に召されけり。供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)一人なければ、御馬に任(まか)せて御幸なる。未だ夜半(やはん)の事なれば、臥待(ふしまち)の月もさし出でず、北山おろしの音さえて、空かき曇り降る雪に、御幸の道も見え分かず。木草の風にそよぐを聞召しても、逆徒の追ひ奉るかと、御膽(きも)をぞ消させ給ひける。さてこそ一年、讚岐院の如意山〔によいさん〕に御幸成りける事までも、思し召し出でさせ給ひけれ。それは敗軍なれども、家弘・光弘以下候ひて、賴(たの)もしくぞ思召しける。これは然るべき武士一人も候はねば、御心細さのあまりに、一首はかくぞ思召し續けける。

  なげきにはいかなる花の咲くやらんみに成りてこそ思ひ知らるれ

   *

禁欲的に語注を附す。「二十三日」は平治元年十二月二十三日(グレゴリオ暦換算一一六〇年一月三十一日。「平治の乱」の勃発から十四日後)。「大内」は内裏。「一本の御書所」宮中の書物を管理した役所であるが、ここに後白河上皇は幽閉されていた。

 さて、この歌は、「なげき」に「嘆き」と「投げ木」(=薪(たきぎ))を掛けてあり、

――木片となった「投げ木」には一体、どんな花が咲くのだろうかと思うていたが、私自身の身が「嘆き」となって、何の花も咲きはしないのだということを思い知ることになろうとは――

の謂いであろう。]

 金澤家中玉置彥左衞門は、扶持二百石を領し、牧野小右衞門が女(むすめ)を娶りて女子三人を生(うま)し、妹背(いもせ)の中も睦じかりしが、夫彥左衞門が多藝にして、朋友多く、每夜外に遊びぬれば、物ねたみは女の習ひ、

「斯く夜每に外へ出て、引手數多(ひくてあまた)の色狂ひにや」

と打かこち、獨り袂の海と成りしが、

「我もし外に心を移す者も者もあるやと夫の心疑ふならば、宵々每(ごと)の外通ひも止りなん」

と思ひ、怪しくも去年(こぞ)の春迄召仕ひし若黨何の藤次とかや云ふ者、其頃は村氏に勤しが折々出入(いでいり)けるを幸ひに、氣色(けしき)許(ばかり)をほのめかして、心あるさまに見せけれども、夫聊(いささか)心も付(つけ)ず。猶其頃は小鳥狩(ことりがり)・謠講(うたひこかう)などゝ、内にも居ざりし。

 結句若黨の藤次は、深く心に思ひ染(そ)み、彼もわりなくいひよりけるに、道ならぬは猶忍ばるゝ習ひ、重きが上にと思へども、さすが岩木の强からで、頓(やが)て打なびき初めしが業因なる。

 初の程こそあれ、後はいつしか思ひ堅めて、

「いか成うきめも君ならば」

と、折を伺ひ連立ち退きて、虎ふす野邊とは定めける。

[やぶちゃん注:「玉置彥左衞門」不詳。

「牧野小右衞門」不詳。藩士に牧野姓は一人確認出来る。

「小鳥狩」秋になって渡ってくる小鳥を網や鷹などを用いて捕える猟。

「謠講」好事の者たちの謡(うたい)の集まり。]

 然るに延享三年の冬、彥左衞門は朋友の前波義兵衞を伴ひ、小鳥構ふるとて、夜深く立出で、落葉の山中に諷(うた)ひ興じ居(をり)けるが、午(うま)の刻許に頻(しきり)に胸騷ぎして、心中朦々たり。

「こはいかに」

と同道の人に語るに、前波義兵衞は曰く、

「か樣のことまゝあることゝ聞く。何樣(いかさま)宿に事あるにもや」

と云ひしに心付き、取る物も取敢へず家に歸る。申の刻許なり。

 はらからの娘は、父にすがり、

「母上今朝より見え給はず。是はいかなる事にや」

と泣悲むにぞ。夫も初めて徃事(わうじ)を悔めども返らず。捨置くべき事ならねば、先(まづ)密(ひそか)に師弟の好(よし)みあれば、前田對州(たいしう)の家人栗田久之進を招き、占はしむるに、全く凶事成りしかば、速(すみやか)に足止(あしどめ)の術をなさしむ。此久之進は周易にも委しく、且つ漢の武帝に奉りし道家天帝鎭宅靈符の祕法を修し得たり。

[やぶちゃん注:まず、夜っぴいて「鳥猟」と称してうち興じ、翌日の正午頃になって胸騒ぎがしたから、午後四時頃になってやっと家に帰るというのは、とんでもない放蕩者と私はまず呆れるのだが。

「延享三年」一七四六年。

「前波義兵衞」不詳。藩士に前波姓は二人いる。

「はらからの娘」姉の方。

「徃事」(放蕩三昧の)過去のこと。

「前田對州」藩主一門の前田対馬守家(越中守山城代一万八千石)。当時は加賀藩年寄で加賀八家前田対馬守家第九代当主であった前田駿河守孝昌(享保八(一七二三)年~安永六(一七七七)年)。

「栗田久之進」不詳。藩士に栗田姓は三人いる。

「道家天帝鎭宅靈符」大阪府交野(かたの)市星田にある「星田妙見宮」の公式サイト(正式名称は小松神社であるが、神社公式サイトとは別に設けてあって非常に珍しく面白い。因みに、「大阪府神社庁」の解説ページには「星田妙見宮」のことは一切書かれていない)内の「太上神仙鎮宅七十二霊符」に、『七十二種の護符。現在の所、道蔵の『太上秘法鎮宅霊符』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられています。陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容されました。この霊符を司る神を鎮宅霊符神と言いますが、元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられています。玄天上帝は玄武を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体でありました。それ故、日本へ伝来すると』、『妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えています。星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われます』(中略)。『この神様は安倍晴明ゆかりの神でもあります。明治初期には伝空海作の鎮宅霊符神をここに安置したと言われています』とある。]

 偖(さて)又あるべきことならねば、頭(かしら)に達し、公場の沙汰となりて、方々へ追手を懸(かけ)ける。是亦嚴命なり。

[やぶちゃん注:国書刊行会本で最後の部分は『追手を懸(かけ)ける。尤(もつとも)自身にも覺(おぼへ[やぶちゃん注:ママ。])の重代、ねた刃を合(あは)して、尋(たづね)に出られける。是又(これまた)嚴命也(なり)。』となっている。この「ねた刃を合(あは)して」は「寝刃を合はす」で本来は「刀剣の刃を研(と)ぐ」ことから、転じて「ひそかに事をくわだてる」の意があるが、「嚴命」の中には既に可能性としての不義密通の場合の当然のそれが公に含まれるわけであり、彼が無礼討ちするのは公然たる事実であるからには、後者の意味は最早無効であるのでリアルな前者である。]

 然るに第九日目に、大衆免(たいじゆめ)石屋が小路(しやうじ)と云ふ所にて、久之進是を尋付(たづねつけ)ける。十三四許の女童(めのわらは)が、二才許の小兒を負うて、風呂敷を着せて打はおりたれども、風のあげる隙(ひま)には艷(あでや)かしき小袖見えけるが、賤しき小家へ入けるを、

「必ず是ならん」

と跡より續いて入りければ、隱れ方なきわら屋なれば、袖覆ひながらも彥左衞門が妻と彼(かの)若黨もあり合ひし、兩人はあきれて物も云はざりしに、久之進笑ひを含み、

「此程の事ほのかに承りぬ。先づは小兒を携へ給へ。此嚴冬に堪へなんこと見るも中々痛はしく候。爰はあまりに淺間なれば、人の見る目も苦しきに、先々(まづまづ)我方へ來り給へ。我(われ)斯くて御かくまひ申す上は、別事あらじ」

と云ひしに、妻は泪にくれ、

「夫には少し恨(うらみ)ありて立出(たちいで)候ひしに、此藤次の身に懸けて世話ありしも、此程藤次は足の筋違ひて一足も引難く、是には居侍る」

とありしを、

「神妙に候。藤次も此一大事は、先度(せんど)見屆られんにこそ。一所に御かくまひ申さめ」

と色々すかし、言葉を巧にし我宅へ伴ひ、此旨を彥左衞門に告(つげ)ければ、頓(やが)て馳來(はせきた)り、兩人を駕籠に乘せ引連來(ひきつれきた)り、偖(さて)一門不ㇾ殘(のこらず)集め、色々詮義に及ぶ所、頭(かしら)原九右衞門より

「急ぎ殺害すべし」

とのことにて、妻女に覺悟を勸めければ、流石(さすが)武門の娘、小兒を婢(はしため)に渡し、身拵(みごしら)へして題目十邊許唱へて心よく討れけり。

 彥左衞門、夫より表へ出で、藤次を呼出し、爾々(しかじか)の意趣を云ひ聞かせて、只一打に切(きつ)て捨て、則(すなはち)此旨江府(がうふ)[やぶちゃん注:江戸。江戸加賀藩藩邸。]言上ありしかば、

「平生家内の始末宜しからず、不心得」

とありて禁足仰付けられ、其後赦免ありし。

[やぶちゃん注:「大衆免石屋が小路」現在の金沢市武蔵町(グーグル・マップ・データ)。「大衆免」とは神宮寺の大衆(だいしゅ:僧侶)の田地であって税が免除されていたことに由来するもの、金沢の旧地名にはこれを冠するところが多くあった。

「十三四許の女童」そうした年齢の少女の着る粗末な変装を妻はしていたのである。

「淺間」見るもひどいところ。

「先度」先頃。既に。或いは「とっくに」という副詞的用法かも知れぬ。

「見屆られんにこそ」「二人のことは人に見られておられたのであろうぞ」の謂いか。事実はそうではなかった。久之進だけが道術を以って見抜いていたのである。しかし、既に藩にも知られて追手も出されており、彼らを動揺させてここで逃がすわけにも行かぬから、かく懐柔したのであろう。

「原九右衞門」「頭」であるから玉置彦左衛門の属した役職の上司。原姓は藩士に複数いるが、頭役になれる人持組に一人いる。]

 彥左衞門は日蓮宗本光寺の檀那なり。亡妻の追福念頃に弔らはれしが、法會の節、兩人の者いかにも靑ざめたるうれい[やぶちゃん注:ママ。]顏して、壇上に顯れける。一周忌・三年・七年・十三年、忌度每に此二人の姿顯れしとぞ。誠に邪婬の罪業、未來永々の惡趣となり、生死(しやうじ)の苦海に漂泊して、永劫も浮ぶことあらじと淺まし。

[やぶちゃん注:「兩人の者」言わずもがな、玉置彦左衛門の妻と藤次の亡霊である。しかし、何か、この二人はどうにもやり切れず哀れである。]

 是はさもなし。只一通りの事ながら、同じ家中成田何某は祿四百石なり。一年(ひととせ)、是も所は大衆免(たいじゆめ)にて、いさゝ河竹の色を媚び、多くの人に情を懸けし小妻と云ひし者、故ありて所を拂はれ、小松と云ふに立退きしが、うたかたのよるべさそふ水のよすがありて、此成田氏の妾(めかけ)となりしが、年重なり寵にほこり、本妻に情なく當りぬ。奴婢(ぬひ)をもあらく遣ひしが、因果忽ち𢌞(めぐ)り、膈(かく)といふ病を受けて、數月苦痛して終に寶曆寅の秋空しくなり、頓(やが)て郊外一片の烟となせしが、其夜より此者の部屋の内何となく物騷がしく、襖戶の明立(あけた)てし、或は日頃手馴し櫛・鏡臺など取ちらす音して、終夜髮けづる如き時もありし。此家の下部(しもべ)などは、怖れて晝も彼(かの)一間には近付ざりしが、種々弔ひをなしければ、日を重ねて其妖は止みぬ。

 只々恐るべきは執着の道、

「劍の枝のたはむ迄いかに此の身のなれる果ぞや」

とは、邪淫の罪を怖れたる式部が戒(いましめ)。

「男女淫樂は互に臭骸を抱く」

とは、東坡が金言。婬聲美色は斷生(だんしやう)の斧なり。早く世人靈燭をかゞやかして迷悟を照し、慧劍(えけん)を磨(ま)して愛慾をたつべき事なり。

[やぶちゃん注:「成田何某」五百石の成田姓の藩士が一人いる。

「いさゝ河竹の色を媚び」「いささかはたけ」(「万葉集」の大伴家持の名歌「わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかもいささ村竹」(四二九一番)のそれに、細い小川の意の歌語「いささがは」を掛けて)をパロって「いささか」「たけ」(長け)た「色」気と洒落ものであろう。ちょっとばかり人より色気があるのを得意としてモーションをかけては。

「膈」は食物が少し胸の辺りでつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされ、ここはそれらしい感じが強くする。

「寶曆寅」宝暦八年戊寅(つちのえとら)。一七五八年。

「劍の枝のたはむ迄いかに此の身のなれる果ぞや」和泉式部の一首だが一部が異なる。「金葉和歌集」には(六四四番)、

   *

   地獄繪に劍(つるぎ)の枝に

   人の貫かれたるを見てよめる

 あさましや劔の枝のたわむまでこは何(なに)の身のなれるなるらん

   *

と載る。彼女が見た地獄絵は衆合(しゅごう)地獄の中の刀葉林(とうようりん)である。「身の成れる」と「実の生(な)れる」が掛けてある。

「男女淫樂は互に臭骸を抱く」かの蘇東坡(署名は「東坡居士」)が「九相図絵巻」に寄せて作ったとされる「九相詩並序」(但し、これは偽作であろう)の序の冒頭に基づくもの。序は以下。

   *

紅粉翠黛、唯綵白皮。男女婬樂、互抱臭骸。身冷魂去、棄之荒原、雨灌日曝、須臾爛壞。卽爲灰焉、見昔質理亦爲土、誰知汩交、爲之惜名、其名冷於谷響、爲之求利、其利空於春夢。順我以爲恩愛、逆己忽作雔敵、順逆二門、豈不忘緣,皆是執無我之我、計無常之常。四種顛倒、眼前迷亂、世人猶可恥、況於釋氏乎。

   *

詩篇は中国の鄭阿財氏の論文『敦煌寫本「九想觀」詩歌新探』(中国語・『普門學報』第十二 期・二〇〇二年十一月発行・PDF)で読まれるのがよかろう。「紅粉翠黛、唯綵白皮。男女婬樂、互抱臭骸。」(紅粉の翠黛は、唯だ白き皮を綵る。男女の婬樂は、互ひに臭き骸(むくろ)を抱くのみ。)である。ただ、言っておくと、この一篇、私は激しく嫌悪する。クソのような雅文趣味の下手飾りがまるで効かずに、筆者の傍観者としての最下劣姓な蔑視観が垣間見えるからである。

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