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2020/03/17

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十七 代々の猪擊

 

     十七 代々の猪擊

 人品骨柄は或はどうだつたか知らないが、伊那街道と鳳來寺道の追分に、代々旅人宿を營んで居た某の家の主人なども、猪狩にかけては、平澤禰宜に勝るとも劣らぬほどの剛の者であつた。シデの大木を七廻りしたなどの、華やかな逸話こそ無かつたが、代々引續いた猪狩の名うてであつた。力は飽く迄强く、剛情一點張のがむしやらで、鐵砲は敢て上手と言ふ程でなかつたが、狩場へ行つても好んで難場に當つた。何でも人並以上の事を爲ないでは物足りぬ性分だつたと謂ふ。時折思ひ出して耕作の手傳ひなどをしても、力が餘つて、鍬を叩き毀す[やぶちゃん注:「こはす」。]方が多かつたさうである。

[やぶちゃん注:「伊那街道と鳳來寺道の追分」かなりてこずったが、ある地誌研究会の講演のレジュメとネット上の諸記載を見るに、愛知県新城市玖老勢(くろぜ)この附近(グーグル・マップ・データ)と推定される。まず、海老川右岸の三差路の部分に「追分下」の地名があり、中央の玖老勢三叉路の内、富栄設楽線を南東に下ると、すぐに鳳来寺参道前に至るからこれは明らかに鳳来寺道である。さてまた玖老勢三叉路に戻って、そこを東北へちょっと行くと、Y字型の三差路にぶつかるが、この真っすぐに進む道が旧伊那街道の北に支線した一部であったらしい(延々と北上すると伊那街道本道には確かに接続はするが、現代の我々の感覚ではこれを「伊那街道」と呼ばれては嘘だと叫びたくはなる)ことが判明した。2020319日削除・追記】T氏よりメールを頂き、この「追分」は現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であると御指摘を戴いた。確かに「歴史的行政区域データセット」を見ると、この豊川添いの南北が迂遠な「伊那街道」で、この「追分」から北東に音為川(T氏によれば別名を「分垂川」で、事実、追分地区の東には「下分垂」地区がある)沿いを遡る分岐ルートは鳳来寺へ向かっているのでここである(但し、現在の「Yahoo!地図」(34.9711662,137.566130)を拡大して見ると、この豊川添いの道を「鳳来寺道」、鳳来寺の前を通って北西に走る道を「伊那街道」と呼称している。しかも実際にはこの二つの道は北へ進んでも直に交差はしておらず、ここ(35.0448773,137.527978)で国道257号によって繋がっている)。

「平澤禰宜」「十六 手負猪に追はれて」に登場している。]

 先代は、更に輪を掛けたがむしやらだつたさうである。冬の夜など屋敷近くで山犬が吠えたりすると、如何な深夜でもムツクリ起きて、マセン棒を把つて[やぶちゃん注:「とつて」。]、暗がりを追ひかけた程の無法者であつた。その血を享けた男だけに、物に恐れる等の心持は微塵も無かつたと謂ふ。手負猪を谷底へ突飛ばして、殺した話がある程だから、大抵は想像された。いまでも當時を知つて居る者は悉くさう言うた。村の宮淵の橋普請の折、二丈幾尺の巨大な橋桁が崖に落ちかゝつて、危ない危ないと大混亂の最中、上から鳶口を一ツ打込んで、俺一人で押へて居るから全部下へ廻つて足場を組めと頑張つた。其時ばかりは、馬鹿とも無法者とも言ひやうは無かつたという。然しながら近鄕の狩人達が、手剛い[やぶちゃん注:「てごわい」。]猪に出遇つた度、酒を買つて山の神を祀る一方、必ず此男の許へ應援を賴みに行つたと言ふから、見掛倒しの剛勇ではなかつたのである。

  亡なくなつたのは未だ昔でもない明治初年で、働き盛りの年だつたと言うた。山が生んだ最後の人とでも言ふやうな、特異な性格が煩ひして、晚年の家庭は實を言ふと悲慘であつた。ふとした氣紛れから、子供迄あつた女房を去らせてしまつた。そしてどこやらの町から馴染の女を身請して連れて來たが、それが又無類の惡女だつたさうである。每日酒を煽つて寢て居る事と、子どもを折檻する外には能がなかつた。而も後になつて、明日の命も知れぬ夫を、空屋同然になつた家に殘して、跡を昏ましたさうである。其時ばかりは遉が剛情我慢な男も、口惜し淚を流して過ちを悔いたと言ふ。

[やぶちゃん注:「明治初年」明治元年は一八六八年十月二十三日から。

「煩ひして」そうは訓じないが「わざはひして」と読んでいるのであろう。

「氣紛れ」「きまぐれ」。

「昏ました」「くらました」。

「遉が」「さすが」。複数回既出既注。もう注は附さないので覚えて頂きたい。

「我慢」ここは「わがまま」の意。]

 二人の男の子があつて、何れも父の血を繼いで、臂力は恐ろしく强かつた。只幼い頃からひどい艱難の中に育つた所爲か、背は少しも伸びなんだ。兄の方は先祖の後を繼いで、以前の屋敷跡に、名ばかりの家を構へて居たのも悲しかつた。弟は物心つく頃から、村の寺へ弟子に遣られたさうである。その間に何かの事から生みの親の居所を耳にして、僅か數へ年の十二だつたと言ふに、沙彌の着る衣一枚着たまゝ寺を拔け出して、何處をどう聞いて行つたか、三河から甲斐の鰍澤へ、母を慕つて行つたさうである。それからえらい艱難に遇つた話も聞いた。

[やぶちゃん注:「臂力」は「ひりよく」で腕力のこと。

「鰍澤」山梨県南巨摩郡の旧鰍沢町(かじかざわちょう)。現在は南巨摩郡富士川町鰍沢。玖老勢からでは実測徒歩で百五十キロ以上はある。]

 これが猪狩りの名うての家の末路と思ふと情けなかつた。今ではもう夢のやうな昔語りになつてしまつた。當年のいたいけな兄の方も、早頭に霜を戴く程になつた。さうして自分の知る限りでは、いまに昔ながらの山刀を、持傳へて居る。

[やぶちゃん注:「當年」本書は大正一五(一九二六)年刊。]

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