石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 山彥
山 彥
花草(はなぐさ)啣(ふく)みて五月(さつき)の杜(もり)の木蔭(こかげ)
囀(てん)ずる小鳥に和(あは)せて歌ひ居れば、
伴奏(ともない)仄(ほの)かに、夕野の陽炎(かげろふ)なし、
『夢なる谷』より山彥(やまひこ)ただよひ來る。──
春日(はるび)の小車(をぐるま)沈(しづ)める轍(わだち)の音(ね)か、
はた彼(か)の幼時(えうじ)の追憶(おもひで)聲と添ふか。──
綠の柔息(やはいき)深くも胸に吸(す)ひて、
默(もだ)せば、猶且つ無聲(むせい)にひびき渡る。
ああ汝(なれ)、天部(てんぶ)にどよみて、再(ま)た落ち來(こ)し
愛歌(あいか)の遺韻(ゐいん)よ。 さらずば地(つち)の心(しん)の
琅玕(ろうかん)無垢(むく)なる虛洞(うつろ)のかへす聲よ。
山彥!今我れ淸らに心明(あ)けて
ただよふ光の見えざる影によれば、
我が歌却(かえ)りて汝(な)が響(ね)の名殘(なごり)傳ふ。
(甲辰二月十七日)
*
山 彥
花草(はなぐさ)啣(ふく)みて五月(さつき)の杜の木蔭
囀(てん)ずる小鳥に和(あは)せて歌ひ居れば、
伴奏(ともない)仄かに、夕野の陽炎なし、
『夢なる谷』より山彥(やまひこ)ただよひ來る。──
春日(はるび)の小車(をぐるま)沈める轍の音(ね)か、
はた彼の幼時の追憶(おもひで)聲と添ふか。──
綠の柔息(やはいき)深くも胸に吸ひて、
默(もだ)せば、猶且つ無聲にひびき渡る。
ああ汝(なれ)、天部にどよみて、再(ま)た落ち來(こ)し
愛歌の遺韻よ。 さらずば地(つち)の心(しん)の
琅玕無垢なる虛洞(うつろ)のかへす聲よ。
山彥!今我れ淸らに心明けて
ただよふ光の見えざる影によれば、
我が歌却(かえ)りて汝(な)が響(ね)の名殘傳ふ。
(甲辰二月十七日)
[やぶちゃん注:表題は本文に従い、「やまひこ」と清音で読んでおく。但し、初出(明治三七(一九〇四)年三月号『明星』。それは「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらから読むことが出来る)本文では「やまびこ」とルビしている。但し、この手の雑誌のルビは作者の意志と無関係に、編集者や校正係によって振られた場合がかなり多いので、それに従う必要は必ずしもないから、ここは底本通りママとする。筑摩版全集も清音である。ただ、第一連六行目の「追憶(おもひで)聲と添ふか」の「おもひで」は「追憶聲」の三字に添えられてあるが、初出と筑摩版全集により、これは明らかにルビの誤植と断じ、特異的に訂した。第二連二行目の句点の後の字空けや、四行目の「!」の後に字空けがないのは見た目を再現したものである(筑摩版全集は前者は字空けがなく、後者は字空けを施している)。
「琅玕」は透明度の高い翡翠石のこと。但し、ここは山彦の音響を響き返す空間を翡翠色の空洞として仮想して換喩したもの。]