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2020/03/27

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十一 一ツ家の末路

 

     十一 一家 の 末 路

 丸山某の養家であつた行者越の一ツ家は、 旅籠[やぶちゃん注:「はたご」。]渡世もしたが、實は代々の狩人であつた。養父といふ人は、狩人こそして居たが、一方、えらい劍術使ひで、由ある者の成れの果だらうとも言うた。それで家には鎗長卷の類が幾振も飾つてあつた。體は四尺幾寸しかなくて、一眼のちつとも引立たぬ構へであつたが、劍を把つては並ぶ者は無かつた。行者の又藏と言へば、遠國迄響いて居たと言ふ。

[やぶちゃん注:「十 十二歲の初狩」の続き。次の「十二 鹿の玉」にさえも枕として続いており、本書ではかくも内容が連続するのは珍しい。それだけ早川氏には魅力的な忘れ難い人物であったのであろう。

「長卷」(ながまき)は刀剣の一種で、大太刀から発展した武具。ウィキの「長巻」によれば、『研究者や資料によっては「薙刀(長刀)」と同一、もしくは同様のものとされていることもあるが、薙刀は長い柄の先に「斬る」ことに主眼を置いた刀身を持つ「長柄武器」であるのに比べ、長巻は大太刀を振るい易くすることを目的に発展した「刀」であり、刀剣のカテゴリーに分類される武器である』。『鎌倉時代になり武士が社会の主導権を握るようになると、武人として剛漢であることを誇るために、三尺(約90cm)を超える長大な刀身をもった太刀が造られるようになり、これらは「大太刀」「野太刀」と称される』『ようになった。こうした長大な太刀は腕力のある者にこぞって使われたが、たとえ腕力と体力に溢れた者であっても、長大な分非常に重く扱い辛いため、それまでの太刀の拵えと同じ形状の柄では扱いにくい』『ものであった。そのため、「野太刀」として使われるに従って柄は次第に長くなり、より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めた』『ものが作られるようになった。このように改装した野太刀は「中巻野太刀(なかまきのだち)」と呼ばれ、単に「中巻(なかまき)」とも呼ばれた。これら「中巻」は、小柄であったり非力であったりと大太刀を存分に振ることの難しい者でも用いることが出来、通常の刀よりも威力が大きく、振る、薙ぐ、突くと幅広く使える為に広く普及した』。『やがて野太刀をわざわざ改装するのではなく、最初からある程度の長さを持った刀身に長さの同じもしくは多少長い柄を付けたものが造られるようになり、長い柄に刀と同じように柄巻を施したことから「長巻拵えの野太刀」、「長巻野太刀」となり、単に「長巻」の名で呼ばれるようになった。室町時代に登場し、戦国時代に大いに使われた武器である』とある。リンク先にある画像を見られたい。]

 どうした譯で代々こんな處に住んで狩人をして居たかは聞かなんだが、家は草葺の大きな構へであつた。明治維新の折、此邊にも長州兵が幕府方の者の後を追つて入込んだ事があつた。拔身を提げた荒くれ武士が十六人、袴の股立をとつて鳳來寺道をやつて來た時は、街道筋の者は全部戶を締め切つて、隱れて居たと言ふ。その連中が行者越の家へかゝつた時、軒に吊してある草鞋を拔身で指して、幾何か[やぶちゃん注:「いくらか」。]と訊いた事から、店に坐つて居た又藏老人と喧嘩になつて、あはや十六人が飛びかゝるかと思はれた時、老人が落ちつき拂つて名を名乘ると、びつくり這ひつくばつて無禮を侘びたと言ふ。別れ際に老人が、誰やらにも行者の又藏から宜しくと言ふと、ヘヽツと丁寧に挨拶して去つたなどゝ言うた。狩人としての逸話はあまり聞かなんだが、劍術使ひとしての話は未だあつた。

[やぶちゃん注:「袴の股立をとつて」サイト「目で見て解かる時代小説用語」の「袴の股立を取る(ももだちをとる)」の画像を見られたい。そこには『「股立ち」(ももだち)とは袴の側面の下向きに切れ込んでいる所(左の写真の赤丸部分)のことで、動きやすくするために股立ちの所をつまみ上げて帯に挟み込むことを「股立ちを取る」と言う』とある。]

 或時旅の劍客と術比べをやつたが、その武士が座敷に突立つて居て、やつと言ふと天井を一回蹴つて居た。これに反して又藏の方はやつと言ふ間に、二回宛蹴つて勝つたと言ふ。又近くの者が多勢集つた席で、誰でも宜いから俺を押へて見よと言うて、疊の下を潜つて步いたが、それが速くてどうしても押へる事が出來なんだと言ふ。然しそれ程の又藏でも、たつた一度失敗した事があつたさうである。橫山の某の物持とは懇意にしてよく遊びに行つた。そして其處の下男に、隙があつたら何時でも俺を打てと約束したさうである。然しどうしてもその隙が無かつたが、或日のこと又藏が主人と畑で立話をして居た、下男は知らぬ顏で傍で麥に肥料を掛けて居た。そして肥料を掛けながら畝を步いて行つて、又藏の足元へ柄杓の先が行つた時、肥料のは入つたま儘パツと脚を打つと、遉がに避ける間がなくて着物の裾を肥料だらけにしたと言ふ。其時許りは俺に油斷があつたと云うて、閉口したさうである。

 此男の娘が、前言うた養子を迎へたのであるが、女に似氣ない[やぶちゃん注:「にげない」。]氣丈夫であつた。或時一人で留守をして居ると、深夜に門を叩く者があつて、大野から來たが一宿賴み度いと言ふ。その言葉に恠しい[やぶちゃん注:「あやしい」。]節があつたので、そつと二階に上つて外をの覗くと、黑裝束の男が九人、手に手に拔身を持つて立つて居た。女房は鐵砲を片手に握つて、只今開けますと言ひながら、開けると同時にドンと二ツ丸を放したさうである。恠しい男達はそれに驚いて、慌てゝ前の坂を駈降りて行つた。中に一人腰を拔かした奴があつた。後から又仲間が引返して來て、其奴を引摺つて行つたさうである。

[やぶちゃん注:「大野」新城市大野。「八名郡大野町」も同じ。]

 その女房は、もうとくに死んださうである。たつた一人血統を繼いだ男の子があつた。もう久しい前であるが雜誌少年世界の記者が、健氣な少年として誌上に紹介した事があつた。小學校を卒業すると間もなく八名郡大野町へ奉公に出て、その翌年かに、主人の子供が川に溺れたのを助けに飛込んで、共に溺れて死んでしまつた。昔を知る老人達の中には、ひどく惜しんで居る者もあると聞いた。然しもう何とも仕樣はなかつた。數年前その一ツ家も、引拂つてしまつたさうである。

[やぶちゃん注:「少年世界」巌谷小波を主筆として明治二八(一八九五)年一月に創刊し、昭和八(一九三三)年頃まで博文館が発行した少年向け総合雑誌。記事を確認出来ないが、これは「健氣な少年として誌上に紹介した」という謂いから見て、この亡き少年のその犠牲的な死を悼んだ記事ではなく、山中の一つ家で猟師の血統を継ぐことを義務としている「健氣」(けなげ)「な少年」の紹介記事ということであろうと私は思う。]

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