早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ
三 猪 の 禍 ひ
[やぶちゃん注:挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミング・補正した。今回は細部を見易くするために大判でダウン・ロードした。「猪小屋」というキャプションは前に徴するならば、「いのししごや」ではなく「ししごや」であろう。]
秋になつて稻が色づく頃には、山田を耕してゐる者は一晚でも安閑としては居られなんだ。僅か許りの冷田の作代であるが、文字通り猪の襲來が激しくて、絕えず脅かされて居たのである。收穫間近の煽られるやうな忙しい中を、日が落ちてからヤトオを幾十本となく矧いで、なんでも今夜が危ないなどゝ、暗がりを辿つて、猪の路へ立てに行つた。或時父の後から、隨いて行つた事がある。彼の峯から來ると敎へられて、眞黑に茂つた雜木山を、不安な目で仰いだものだつた。柴山から田のクロへ續く崖の下へ、矢來のやうに隙間なくヤトオを立てたものである。
[やぶちゃん注:「冷田」「ひえだ」。山間部の猫の額のような貧しい田のことか。或いは山からの流水で水温が低く、ずぶずぶの条件の悪い汁田(しるた)のような田のことかも知れない。
「作代」「さくしろ」。稲を作る田。
「ヤトオ」次の段落で詳しく解説される。そちらの私の注も参照されたい。
「矧いで」「はいで」。本来この「矧ぐ」は「鳥の羽根や鏃(やじり)を竹に付けて矢につくる」ことを言う語であるが、ここは「竹を切り削(そ)いで鋭い矢のように作る」の謂いである。
「猪の路」イノシシの獣道。
「クロ」畔。田の畦(あぜ)道。
「矢來」「やらい」。竹や丸太で造った仮囲い。竹矢来は長さ二~三メートルの竹を斜めに組合せ、交差部を棕櫚(しゅろ)縄などで結んだもの。]
ヤトオはヤトとも謂うて、矢竹の稍太い物を三尺程の長さに切揃へ、穗先を鋭く尖らせた物だつた。表の端で麥稈など焚いて、一本一本尖を炮つて、竹の脂肪氣を去つて鋭くしたのも、古くから續けて來た事らしかつた。ヤトオは本來オトシアナの中に立てゝ、陷ちた猪を突刺すための物の具であつたが、別に崖の下垣根の内等にも置いて、獲物を捕る事にも使つた。單に猪を嚇す爲めの、防禦の具に用ひたのは、せつない時の思付であつたかも知れぬ。それをつくる矢竹の茂りが、山の處々に、未だ忘れたやうに殘つてゐた。
[やぶちゃん注:「ヤトオ」漢字が想起出来ない。また、現在、この名も生き残っていないようで、小学館「日本国語大辞典」にも載らない(「やと」(後述される)「やとう」も調べたが、ない)し、ネット検索でも全く掛かってこない。以上の解説からは一見、「や」は「矢」のように思われがちであるが、「野」の可能性もあるかも知れない。「ヤトオ」がもし「ヤト」が元だとするなら(「と」の母音が長音化したもの)、本来の落とし罠の呼称で、「矢」状に鋭く尖らした竹を穴の「戸」(両壁が狭まった底部分)の部分に多数刺したもので「矢戸」かも知れないなどと夢想した。その罠を「野盜」などと呼称した可能性も考えたが、歴史的仮名遣ならば「ヤタウ」になるので分が悪い(「野刀」「矢刀」なども考えたが、同じである。但し、俗で口語発音として変化したとすれば問題はない)。識者の御教授を乞うものである。なお、「猪小屋」の上の斜面に組まれた十三基の奇妙な形をした人工物も、そうした猪に警戒させるために嚇(おど)しのための「ヤトオ」の一種と思われる。但し、挿絵の下方の田の畔に立っている七本のそれはその単純な形状から見て、後の「七 猪除けのお守り」に出るお守りであると思われる。
「表の端」家の表の敷地の端の謂いであろう。
「麥稈」「むぎわら」と訓じておく。
「焚いて」「たいて」。焼いて。
「尖」「さき」。
「炮つて」「あぶつて(あぶって)」。
「脂肪氣」「あぶらけ」。
「陷ちた」「おちた」。
「せつない時」貧しい時代、猪の害を激しく受けた時、の謂いであろう。
「別に崖の下垣根の内等にも置いて」挿絵の左手の山の大木の下辺りと、麓部分の黒い線がそれを描いたものと推定される。
「矢竹」狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica を指す。ウィキの「ヤダケ」によれば、『タケ(竹)と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため笹に分類される(大型のササ類)』。『種名は矢の材料となること』に由来し、『本州以西原産で四国・九州にも分布する』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は5~15mm。茎上部の節から各1本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである』。『夏に緑色の花が咲く』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた』。別名は「ヘラダケ」「シノベ」「ヤジノ」「シノメ」等、とある。]
猪に荒らされた後の稻は、誠に情け容赦も無い事だつた。わけて子持猪にでも出られたが最後、目も當てられぬ狼籍であつた。喰ふ以上に泥の中へ踏みにぢつて、偶々免がれた物は、稻扱(いなこき)にでも掛けたやうに、粒が悉く毟つてあつた。猪は穗の幾ツかを、一口に咥へて引たぐるらしかつた。空穗がヒヨロヒヨロ風に吹かれて居るのを見て、思はず淚を零したとは、現に度々聞かされた事である。其上にも後の始末が、並大抵の面倒で無かつた。それと見た隣の田では、未だ靑い穗並を、ムザムザ刈取るさへあつた。燒米にしても、猪に喰はれるより增しだと言うた。思へば憎い憎い猪だつた。晚方仕事の隙をみて、そつと狩人の家へ走つたのも、よくよく遣瀨なくての事である。
[やぶちゃん注:「踏みにぢつて」ママ。歴史的仮名遣は「踏み躙(にじ)る」で「ぢ」ではない。
「稻扱(いなこき)」「いねこき」とも読む。稲の籾(もみ)を稲穂から扱(こ)き落とす農具。単純な巨大な櫛状のものやドラム型で回転させるものなど、複数のタイプがある。グーグル画像検索「稲扱」をリンクさせておく。
「毟つて」「むしつて(むしって)」。
「咥へて」「くわへて(くわえて)」。
「引たぐる」「ひつたぐる(ひったぐる)」。「引き千切る」の広範な方言。
「空穗」「うつほ」と読みたい。
「燒米」「やきごめ」。
「遣瀨なくて」「やるせなくて」。]
猪一ツ捕つてくれたら、酒の一升位出しても反つて有りがたいと、遂約束もしたのである。鳳來寺村長良(ながら)の一ツ家の話だつた。それからは狩人が猪を舁いで來て表に休む度、酒一升分の價を拂ひ拂ひしたが、屋敷廻りの猪はちつとも減らないで、狩人達が飛でもない遠方から、わざわざ廻り道をして舁いで來る事が判つて、慌てゝ約束を取り消したと言ふ。
[やぶちゃん注:「反つて」「かへつて(かえって)」。
「遂」これだと「つひ」であるが、「うっかり」の意の副詞「つい」(歴史的仮名遣も同じ)に当て字したもの。
「鳳來寺村長良(ながら)」現在の愛知県の旧南設楽郡鳳来町内。現在、新城市の一部となった。しかし、この字名を現在、確認出来ない。スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、図の北西部の「鳳來村」の中に「長樂(ナガラ)」を見出すことが出来る。この附近だろうか?
「飛でもない」「とんでもない」。]
村の某の男だつた。屋敷脇の 甘藷畑へ、每晚のやうに猪が出て片つ端から甘藷を掘る。終ひには宵の口から來て居る。それで或晚鐵砲を用意して待つて居て、中りもすまいと思つて放したのが遂擊ち殺してしまつた。夜が明けて見て遉がに當惑した。狐や兎などと異つて、三十貫もある物を、三人や四人の家内で、喰つて片附ける事も出來なんだ、ちよつと動かすにも男の手には餘る程で、賣る事は勿論、隣近所へ分けて與る事も、狩人達の思惑が案じられた。萬一警察へでも密告されたら、辛い目に遇ふに極つてゐる。現在さうした話を彼方此方で聞いて居た。散々頭痛にした果に、女房の緣故を辿つて、近間の狩人に情を明して引取つて貰つたが、それ迄二日二晚の間、猪の骸に莚を掛けて、畑の隅に匿して置いたと言ふ。でもその狩人から、幾干かの分前を貰つたが、えらい氣苦勞を考へると、滅多に猪も擊たれぬと零してゐた。
何れにしても厄介千萬な猪だつたのである。
[やぶちゃん注:「甘藷畑」「いもばたけ」。サツマイモ畑。
「終ひ」「しまひ」。
「中り」「あたり」。
「遂」前段の注と同じ。
「遉がに」既出。「さすがに」。
「三十貫」百十二・五キログラム。大袈裟ではない。ニホンイノシシ(哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax)は成獣で体重八十~百九十キログラムで、岐阜市では嘗て約二百二十キログラムもの雄個体が捕獲されたこともあるという。
「狩人達の思惑が案じられた。萬一警察へでも密告されたら、辛い目に遇ふに極つてゐる」この人物は猟銃や狩猟許可を所持していなかったということであろう。
「果」「はて」。
「骸」「むくろ」。
「幾干」「いくばく」。
「零して」「こぼして」。]