早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 十五 鹿の胎兒
十五 鹿 の 胎 兒
肢腰[やぶちゃん注:「あしこし」。]が未だ不完全で、山の岨[やぶちゃん注:「そは」或いは「そば」。けわしいそばだった斜面。]からすべり落ちるやうな子鹿は、親鹿一ツ捕へる囮にもろくろくならなんだが、それが未だ親の胎内にある間は、狩人にとつては別に一匹の鹿を捕るよりも利得になつたのである。
[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年文一路社刊の改訂版では、標題の「胎兒」に『はらご』のルビを振っている。されば、次の段落の冒頭もそう読むべきであろう。]
鹿の胎兒をサゴと謂うて、その黑燒は婦人の血の道の妙藥として珍重したのである。また鹿の胎籠(はらごも)りとも言うて、產後の肥立の惡い者などには、此上の妙藥は無いとした。今日ではさう見かけ無くなつたが、以前は何處の村へ行つても眞蒼い[やぶちゃん注:「まつさあをい」。]血の氣のない顏をした女が、一人二人はきつとあつた程で、從つて需要も多かつたのである。
[やぶちゃん注:「サゴ」小学館「日本国語大辞典」に「さご」として『(産後、産子の変化した語か)鹿、猿の胎児。黒焼きにして服用すると、婦人科の疾患にきくといわれる。鹿子(かご)』とあり、以下、方言として『鹿の胎児』を挙げ、静岡県磐田郡・愛知県北設楽郡を採取地とする。
「血の道」月経・妊娠・出産・産後・更年期などの女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安や苛立ちなどの精神神経症状及び身体症状を包括する、江戸時代から用いられてきた漢方医学の用語。詳しくは参照したウィキの「血の道症」を読まれたい。]
明治初年[やぶちゃん注:一八六八年。]頃、普通の鹿一頭が五十錢か七十錢程度の時に、サゴ一つが七十五錢から一圓にも賣れたというから、狩人が何を捨てゝも孕み鹿に目をつけたのは無理もなかつた。その爲め一年に一ツしか增へぬ[やぶちゃん注:ママ。]鹿の命數を、縮める事など考へる餘裕はなかつたのである。
[やぶちゃん注:「明治初年」明治元年は一八六八年。
「五十錢か七十錢程度」明治初期の一円は凡そ現在の二万円相当とされるから、一万円~一万四千円相当。
「七十五錢から一圓」同前で一万五千円から二万円。
「一年に一ツしか增へぬ」鹿の妊娠期間は二百十日から二百三十日間(七ヶ月程度)で出産時期は五月下旬から七月で、六月がピークであるが、年一回で一頭しか生まない(双子の頻度は極めて低い)。♀は環境が良ければ一歳から妊娠し、ほぼ毎年産む(信森林研究所・東北支所の堀野眞一氏の「シカの生態と被害対策」(PDF)のデータ等を参考にした)。]
サゴは春三月、親鹿が肢に脛巾を穿いた時期が、もつとも效驗があると言うた。脛巾を穿くとは鹿の毛替りを形容した言葉であつた。鹿は春先き木の芽の吹き初める頃から、冬の間の黑味を帶んだ[やぶちゃん注:「おんだ」。帯びた。]毛が拔け初めて、初夏田植の盛り頃には、すつかり赤毛に替つて、眞白い斑[やぶちゃん注:「まだら」。]が現はれた。この時期を、五月(さつき)の中鹿(ちうじか[やぶちゃん注:ママ。])と言うて、鹿が鹿の子[やぶちゃん注:「かのこ」。]を着たと言うたのである。毛替りは肢の蹄の附根から初まつて、段々上へ及ぼして來るので、膝迄替つた時が、卽ち脛巾を穿いた時だつた。此時期に遠くから見ると、如何にも柿色の脛巾を着けたやうに見えたさうである。月で言ふと、その時サゴは五月目であつた。鼠より心持ち大きかつたが、肌には早美しい鹿の子の斑が見えた。
[やぶちゃん注:「春三月」旧暦である。改訂版で『舊曆の春三月』と補正しておられる。そうすれば、前に注した鹿の出産期と齟齬しない。
「親鹿が肢」(あし)「に脛巾」(これで「はばき」と読む)「を穿いた時期」。♀鹿の蹄の先の方から毛が抜け替わって、それが膝に及ぶ時期を指す。以上はウィキの「鹿のさご」によったが、そこには、この『時期が薬用として最も効力がつよいという』とあった。また、他にも三~四月頃、『シカのさごは、ネズミよりもおおきく成長し、その皮膚には鹿の子(かのこ。皮膚の斑点)があらわれようという時期で』、この頃に採り出し、『黒焼きなどにし、薬用とする。殊に山民のなかでは女性の血の道の妙薬として珍重された』とある。
「五月(さつき)の中鹿」当然、これも旧暦となる。]
別に、サゴの最も効驗ある時期を、親鹿の腹を割いて取出した時、掌に載せて眺める程度が宜いとも謂うた。
晚春花が散り盡くした頃は、サゴは早ネコほどに成長して、もう生まれるに間もなかつた。さうなると効驗が薄いと言うて高くは賣れなかつた。其處で猜い[やぶちゃん注:「ずるい」。]狩人などは、今一度皮を剝いで形を小さくした。眞赤な肉の塊のやうな物を、遉がに氣が咎めるか、遠い見知らぬ土地へ持出して賣つたさうである。
鹿の肉も又血の道の藥だと言うたが、角も又熱浮し[やぶちゃん注:「ねつさまし」。]になると言うて、少しづゝ削つて用ひる者があつた。