石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 塔影
塔 影
眠りの大戶(おほど)に秋の日暫し凭(よ)りて
見かへる此方(こなた)に、淋しき夕の光、
劫風(ごふふう)千古(せんこ)の文(ふみ)をぞ草に染めて
金字(きんじ)の塔影(とふえい)丘邊(をかべ)に長う投げぬ。
紅爛(かうらん)朽ち果て、飛龍(ひりゆう)を彫(ゑ)れる壁の
金泥(こんでい)跡なき荒廢(すさみ)の中に立ちて、
仰(あふ)げば、亂雲(らんうん)白蛇(はくじや)の怒り凄(すご)く
見入れば幽影(ゆふえい)しじまのおごそかなる。
法鐘(はふしやう)悲音(ひおん)の敎を八十百秋(やそもゝあき)
投げ出す影にと夕每葬り來て、
亂壞(らんゑ)に驕(おご)れる古塔(こたふ)の深き胸を
照らすは銷沈(しやうちん)臨終(いまは)の『秋(あき)』の瞳(ひとみ)。
(神祕(しんぴ)よ躍(をど)れや、)ああ今、夜は下(くだ)り、
寂滅(じやくめつ)封(ふう)じて、萬有(ものみな)影と死にぬ。
(甲辰三月十八日夜)
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塔 影
眠りの大戶に秋の日暫し凭りて
見かへる此方(こなた)に、淋しき夕の光、
劫風千古の文(ふみ)をぞ草に染めて
金字の塔影丘邊に長う投げぬ。
紅爛朽ち果て、飛龍を彫れる壁の
金泥(こんでい)跡なき荒廢(すさみ)の中に立ちて、
仰げば、亂雲白蛇の怒り凄く
見入れば幽影しじまのおごそかなる。
法鐘悲音の敎を八十百秋(やそもゝあき)
投げ出す影にと夕每葬り來て、
亂壞(らんゑ)に驕れる古塔の深き胸を
照らすは銷沈臨終(いまは)の『秋』の瞳。
(神祕よ躍れや、)ああ今、夜は下(くだ)り、
寂滅封じて、萬有(ものみな)影と死にぬ。
(甲辰三月十八日夜)
[やぶちゃん注:初出は明治三七(一九〇四)年八月号『時代思潮』。]
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