早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 四 猪垣の事
四 猪垣の事
猪の出る路をウツと謂うた。猪は田や畑へ出るにも、必ずウツを通つたので、オトシアナはウツを目がけて設けたのである。自分が子どもの頃には、畑續きの木立の中に、半ば崩れかけたのが、未だ幾ヶ所も殘つてゐた。多く畑から數間もしくは十數間ぐらい入込んだ所で、穴の直徑六尺ぐらいで、深さは二間もあつた。朋輩の一人が過つて落ちて弱つた事がある。
[やぶちゃん注:「猪垣」「ししがき」。ウィキの「しし垣」によれば、『害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に築かれた垣根や石垣、土塁のこと。漢字では「猪垣」「鹿垣」「猪鹿垣」などと表記する。北関東から沖縄県に多く見られ、沖縄ではサンゴを材料とした。害獣のうちイノシシ(猪)は積雪地を苦手とするため、東北地方や北陸地方、山陰地方には少ない』。『北海道のものは知られていない』。『鎌倉時代から文献に記され、現存するのは主に江戸時代に築かれた。高さは平均1~2メートル。長さ10キロメートルを超えるしし垣もあり、小豆島では総延長120キロメートルにも及んだ』。『他にも九州の長崎、中国地方、近畿地方、瀬戸内地方の島々で多く作られた。ただし熊本県、鹿児島県、高知県にはほとんどない。これは、鉄砲を扱う郷士が農村に住み、狩猟を行っていたためと推測される』。『あたかも万里の長城のように土を焼いて作ったものを並べて築いたものもある。囲いで土地を全く塞いでしまうのではなく、人が通るための木戸をつけたりもした。木戸以外から侵入する動物をとらえるための落とし穴も付けられていた』とある。
「ウツ」現在もこの呼称は広義の「けものみち」の呼称として生きている。「民教協」(テレビ朝日内・公益財団法人民間放送教育協会)公式サイト内の「日本のチカラ」の「ジビエの極意 ~マルチハンター片桐邦雄の世界~」を参照されたい。小学館「日本大百科全書」の「獣道」にも(下線太字は私が附した)、『野生獣の休息地と採食地などの間にできた通路をいう。野生の獣類では、休息場や隠れ場と採食地との間など、その行動圏内の通路が定まっていて、同じコースを移動することが多い。森林中や草原ではこの通路がかき分けられ、地面が踏み固められているし、ドブネズミやクマネズミでは足跡で汚れている。これらはいずれも獣道とよばれ、猟師、とくにわな猟師はこの通路を読み取って猟場を定めるし、ネズミの駆除でもこの通路に毒餌(どくじ)を置くのが効果的である。狩猟用語や古語では、ウジ、ウツ、ワリ、カヨイなどともよばれる。イノシシやシカのよく使う通路には、ハイカーが登山路と間違って入り込み、迷うことがある。こういう道はシシ道、シカ道ともいわれる』とある。また、本篇のみをPDFで電子化され、注釈や画像が加えられた方のこちらに、『猪の通り道(ウツ)』に注されて、『猪は必ずボロ』(後に出る「ボロー」と同じで叢や藪のこと)『から田圃への最短距離を通る。ボロの中を覗くと、下草が分れていて、猪の体の大きさのトンネルになっている』。『私の子供の頃にも、畑の奥の裏山にオトシアナが掘ってあった。ただ子供が落ちると危ないと言って、穴の中にヤトの類いはなかったと思う』とあった。
「數間もしくは十數間」十一メートル若しくは二十九メートル。
「六尺」一メートル八十一センチ。
「二間」三メートル六十四センチ弱。
「過つて」「あやまつて」。]
オトシアナは猪を防ぐ爲に設けたのであつたが、一方それで猪を捕る狩人もあつた。上に細い橫木を渡して、萱薄[やぶちゃん注:「かや」・「すすき」。]などを敷いて置き、底にはヤトを一面に立てゝ置いた。老人の話に據ると、同じ狩人の中でも腕に自慢の者がやる事では無かつた。捕れた獲物も多くは子猪[やぶちゃん注:「こじし」。]ばかりで、親猪は滅多に掛からなんだと言ふ。子猪のことを別にウリンボウと云うたが、ウリンボウがヤトに旨く掛つた處は、盆の精靈送りに、瓜に麻稈[やぶちゃん注:「あさわら」或いは「あさから」。]を通した其儘であつたと言ふ。之は祖母から聞いた話であつた。或時隣家のオトシアナへ、巨猪[やぶちゃん注:「おほじし」と訓じておく。]が落ちてヤトを三本も負ひながら、旺んに[やぶちゃん注:「さかんに」。]荒れて居て困つた事があつた。近所の者が集まつて石撲にしてやつと斃したと謂ふ。どこの家でも屋敷の後には、きまつてオトシアナが設けてあつたのである。
[やぶちゃん注:「萱薄」「かや」・「すすき」。
「ヤト」既出既注。
「子猪」「こじし」。
「ウリンボウ」ご存じの通り、イノシシの子は体形や毛色がギンセンマクワウリ(スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa の品種の一つ)に似ているところからの呼称。
「麻稈」「あさわら」或いは「あさから」。
「巨猪」「おほじし」と訓じておく。
「旺んに」「さかんに」。
「石撲」「いしうち」。]
オトシアナへは猪の他に、勿論他の獸も掛つたが、とくに山犬の陷ちた話が殘つて居る。もう四十五六年も前であるが、鳳來寺山麓の吉田屋某の裏手の穴へ陷ちた事があつた。村の者が多數集まつて藤蔓の畚(もつこ)を作つて、其四隅に長い綱を附けて穴の中へ下げてやると、山犬がそれに乘つたと謂ふ。それで早速引揚げて遁がしてやつた。翌日その穴へ大鹿が落し込んであつたのは、言ふ迄もなくお禮心であつた。山犬がオトシアナへ陷ちた時は、中で盛んに吠えたと謂ふ。自分の家の地類である某の男は、豪膽で聞えた狩人だつた。或時屋敷裏のオトシアナヘ山犬が掛つた時、中へ梯子を下して降りて行つて、山犬を片手に抱いて上がつて來た。そのまま放してやると、犬は嬉しさうに尾を振つて其場を去つたが、並居る村の者も某の豪膽には魂消げたという。山犬が少しも抵抗せなんだのは、最初ムズを含めた爲だと言ふが、ムズの事は判然と知らぬ。或は抵抗せぬ爲の呪ともい謂うた。明治になる少し前の事で、翌日大鹿が投込んであつた事は、前の話と同じである。
[やぶちゃん注:「山犬」野犬の可能性もないとは言えぬが、以上の話柄は総て民俗社会上は「狼信仰」で霊験を持つとも考えられたニホンオオカミ(食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax:確実な最後の生息最終確認個体は明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ))で捕獲された若いオスである。本書の刊行は大正一五(一九二六)年である)であると考えてよい。
「鳳來寺山」ここ。
「畚(もつこ)」竹や藁などを編んで作った容れ物。
「魂消げた」「たまげた」。
「ムズ」不詳だが、以下の早川氏の聴き記した通り、「抵抗せぬ爲の呪」(まじなひ)であろう。]
話の枝が餘計な方向へ伸びてしまつたが、オトシアナとは別に、田や畑を繞つて、深い堀が穿つてあつた。猪除けが目的であつた事は言ふ迄もない。段々埋められて、今に殘つてゐるのは極く稀であつた。たゞホリンボーなどゝ呼んだが、或は別の名稱があつたかと思ふ。其外側には、髙い垣根が築いてあつた。多く石で積上げたもので、猪除けの垣根と言ふが、或は又ワチとも謂うた。然し一般にワチと呼んでゐたのは、燒畑に繞らした垣の謂であつた。二本宛杭を打つて、それを骨組として、橫木を互ひちがひに組んで行つたものである。又燒畑でなく共、山村の畑には、多くワチが繞らしてあつた。この方は燒畑とは異つて、頑丈な杭を隙間なく打つた半永久的な栅で、材料は栗の木を割つた角であつた。破れた處から杭を補つてゆくので、所々色が變つてゐたりした。多くは山のサガ畑で、街道などから望むと、遙かな山の半面に、年をへて眞白に晒らされたワチの中に、靑い麥の畝が段々に續いてゐたりして、一種なつかしい物であつた。
[やぶちゃん注:「ホリンボー」現行では死語のようである。
「ワチ」先にも掲げた本篇のみをPDFで電子化され、注釈や画像が加えられた方のこちらに、「ワチ」の図が載るので是非見られたい。
「燒畑」「やけばた」「やきばた」。原野を伐採後に焼き払って、その灰を鋤(す)き込んで、数年間、無肥料で耕作を続け、地力が消耗すると、放棄して地力の自然回復を待ち、再び焼き払って耕地とする農法。粗放で生産力は低い。嘗ては本邦でも行われていた。
「サガ畑」「険畑」か。傾斜のきついところを切り開いた畑。]