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2020/03/28

三州奇談卷之四 傳燈の高麗狗

 

    傳燈の高麗狗

 瑞應山傳灯寺[やぶちゃん注:「灯」はママ。]は河北郡長屋谷にあり。臨濟宗にて日本名藍の内なり。寺格甲刹(かつさつ)の位なり。開山は恭翁運良和尙。則ち後醍醐・後小松・後柏原三院の勅願所にて、綸旨數通(すつう)あり。足利義持の御敎書、色衣(しきえ)御免、筆者諏訪若狹守長貞とあり。建武二年、勅して二條大納言師基卿國司にて下向、巡見の節此寺に登り、夕日寺(ゆふひでら)の觀音に詣で給ふ。此所七堂建立の事あり。運良に紫衣を給はる。寄附の地は小坂(こさか)の庄七鄕とぞ。此時國司師基卿の御館は、今御所村と云へり。又應永二年勅願により、則ち扶桑の内一ヶ國に安國寺を一寺宛(づつ)創業仰付けられ候時にも、

「加州には傳燈護國禪寺、越中には國泰萬年禪寺、能州には惣持護國禪寺あれば、此三州に安國寺は建つるにも及ぶまじ」

との公裁なりしとかや。塔頭二十一ヶ寺、末寺五十餘ヶ寺ありき。天正・天文の頃の一亂に中斷せしなり。初は管領方として富樫に與力し、一揆に敵せられし。されば一山の簱印(はたじるし)は大擂子木(おほすりこぎ)なり。又後ろの山に岩窟あるも、皆其頃粮米(らうまい)を隱せし軍用の爲なるべし。富樫の支族悉く此寺に自害して果ぬ【彼(かの)馬を能く畫きし晴貞と云ひしも、此時に死す。加賀秋月といふ。】世俗、富樫の寺と云ふ寺も破却せられて住人(すむひと)なく、塔頭も離散せしに、利常公の時千岳和尙と云ふを呼びこし、是を住職として寺領を附け、堂塔再興ありき。初は無本寺なりしが、近年關東下知として、今は御室妙心寺の下なり。

[やぶちゃん注:「傳燈の高麗狗」「高麗狗」は「こまいぬ」。「傳燈」は普通は、ある宗派の教義真理や伝統或いはその対象(物)を師から門弟へと伝えることを言うが、ここは以下に見る通り、寺自体の名であり、寺名は現行「でんどうじ」であるから、ここでも「でんどうのこまいぬ」と読んでおく。本書は諸本では各標題は漢字四字で示されることが多く、例えばこれも「傳燈麗狗」で、「近世奇談全集」も「傳燈の麗狗」である。しかし「麗狗」はまず「こまいぬ」と読めず、判り難い。恐らくは編者日置謙氏による配慮であろう。

「瑞應山傳灯寺」現在の金沢市傳燈寺町(でんどうじまち)にある臨済宗妙心寺派瑞応山(宝亀瑞応山とも)傳燈寺(でんどうじ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイト「寺院ナビ」のこちらによれば、開山は法燈国師法嗣恭翁運良で、開基は二条家とし、『後醍醐天皇(在位131839)・後小松院(在位13821412)・後柏原天皇(在位1500263帝の勅願所として、多くの信仰を集めていた。室町時代には十刹に淮ぜられ、加賀五山派の中心的存在となるが、3度の兵火に逢い焼失。その後、江戸時代に藩主前田利常公は、由緒ある傳燈寺の荒廃を殊の外憂い、再興にかかったが』、『不幸にも普請半ばにして』死『去してしまったため』、『再建はならなかった。そして明治4年(1871)の治世の変革ならびに廃仏棄釈の難に遭遇し、寺領等全て没収、堂塔破却の悲運に寺は衰退、以後』、『荒廃の一途を辿った。現在の本堂は、明治34年(1959)同山49世無貫和尚によって再建されたものである。昭和の初め頃から無住の寺となるが、現住職宮崎元良が入寺し、法輪を広め、歴史ある同寺の再興に日々尽し、今日に至っている』とあり、寺宝として『絹本着色恭翁運良画像(市文)室町時代/後柏原天皇綸旨/勅願寺添状 3通』等があるとある。

「河北郡長屋谷」スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四二(一九〇九)年測図・昭和六(一九三一)年修正版)の「金澤」を見ると、「傳燈寺」の一キロほど西北西に「長屋」の地名を見出せ、現在の東長江町の西端には長屋城跡を見出せる。

「名藍」この「藍」は「伽藍」(がらん)のそれ(「伽藍」は梵語の「僧が集まって住む修行する清浄閑静な場所」を指す語の漢音写「僧伽藍摩」の略)。名高い大きな寺院のこと。

「寺格甲刹の位なり」甲刹(かっさつ)は「諸山(しょざん)」とも称する。五山制度に於ける禅院の寺格の一つ。五山・十刹に次ぐもので、史料では、鎌倉最末期の元亨元(一三二一)年に北条高時が鎌倉の金剛崇寿寺(弁ヶ谷(べんがやつ)にあったが現存しない)を甲刹としたのが最初で、後次第に増加し、中世末には二百数十ヶ寺に及んだ。甲刹間には序列は設けられず、定員数も定められなかった。認定は、通常は将軍の御教書(みぎょうしょ:鎌倉・室町幕府の執権や管領が将軍の意を奉じて出した様式の文書)によった。官寺の住持の資格を得た僧は先ず甲刹に住んだ後、十刹・五山へと進むのが普通の昇進コースであった(以上は山川出版社「日本史小辞典」に拠りつつ、金剛崇寿寺や御教書の説明はオリジナルに挿入した)

「恭翁運良」(きょうおう うんりょう 文永四(一二六七)年~暦応四/興国二(一三四一)年)は南北朝時代の臨済宗の僧で出羽国出身。ウィキの「恭翁運良」によれば、『初め出羽国(後の羽前国)玉泉寺で出家した。紀伊国興国寺の心地覚心に学んで法を嗣いだ。京都万寿寺に南浦紹明に参禅し、南浦の鎌倉下向に同行したあと、加賀の大乗寺に入り、瑩山紹瑾の勧めで加賀国大乗寺の住持となり、あわせて道元自筆の「仏果碧厳破関撃節(一夜碧巌集)」(重要文化財)、棕櫚払子などを相伝した。しかし曹洞禅の寺院に臨済僧が入寺したために混乱が起き、勇退して元徳31330)年に加賀国伝燈寺(金沢市)を開いた。その後、越中国氷見湊に「石浮図」(石造の仏塔に灯台の用をなさせたものか?)を建立し、海上交通の目標物とするなど、勧進僧として活動している。次いで放生津に興化寺を開き、同寺で没した。塔所(墓所)である大光寺跡は、現在の射水市中央町にある「来光寺塚」に比定する説がある。弟子に至庵綱存(伝燈寺2世)、絶巌運奇(越中長慶寺開山)、桂巌運芳(建仁寺53世、万寿寺35世、越中薬勝寺勧請開山)、呑象運光(越中蓮華寺開山)がある。伝燈寺に伝えられた頂相』(ちんそう)『は金沢市指定文化財。「一夜碧巌集」は至庵綱存が継承し、綱存の弟子である蔵海無尽(加賀妙雲寺開山)が康永4年(1345)大乗寺へ贈ったため、現在同寺が所蔵する』とある。

「綸旨」蔵人所(くろうどどころ)が天皇の意を受けて発給する命令文書。

「足利義持」(元中三/至徳三(一三八六)年~正長元(一四二八)年)は室町幕府第四代将軍 (在職:一三九四年~一四二三年) 。義満の子。九歳で将軍職を継いだが、政務は義満が執った。応永九 (一四〇二) 年に従一位、同十六年には内大臣となった。同十五年、没した義満に太上法皇の称号を贈ろうとする朝議を辞したり、同二十六年には明との国交を断絶するなど、父の施政を改めた。同二十三年、関東に起った「上杉禅秀の乱」に参画した弟義嗣(よしつぐ)を二年後に殺害している。同三〇(一四二三)年には子義量(よしかず)に将軍職を譲って出家したが、二年後、義量が満十七歳で病いのため夭折すると、再び政務を執っている。

「色衣御免」「色衣」は僧服(荘厳(しょうごん)服)の中の法衣の中でも緋色・紫色・松襲(まつがさね)色・萌黄(もえぎ)色の法衣を指す。本邦では天皇の綸旨を受けて紫衣や香衣(こうえ:香木の煎汁によって染めた衣。黄衣・紅衣とも書く)を着用することをかく言った。

「諏訪若狹守長貞」不詳。

「建武二年」一三三五年。

「二條大納言師基卿」二条師基(もろもと 正安三(一三〇一)年~正平二〇/貞治四(一三六五)年)は鎌倉末期から南北朝時代にかけての公卿。関白二条兼基の子。官位は従一位関白(南朝)。ウィキの「二条師基」によれば、『南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった』。「加能郷土辞彙」の彼の記載を読まれたいが、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した建武二(一三三五)年六月当時、彼はなったばかりの加賀国国守であったのである。

「夕日寺の觀音」金沢市夕日寺町(ゆうひでらまち)はあるが、寺は現存しない。「加能郷土辞彙」の「夕日寺」には、『河北郡小坂庄に屬する部落。龜尾記に、この村に觀音堂があり、その觀音は同郡觀法寺のものと同作で、長け五尺あると記する』として「興禪寺」への見よ見出しするので見ると、夕日寺は不明だが、この興禅寺(傳燈寺の隣りの民が開山である運良のために建てたとするものも所在不明)が夕日寺ではないかというわけの判らぬループになっているだけで期待外れも甚だしい。

「寄附の地は小坂の庄七鄕」先に引用した通り、夕日寺は旧河北郡小坂庄に属した部落名とあった。

「御所村」金沢市御所町(ごしょまち)。国司二条諸基が屋敷をここに構えたことに由来する名である。

「應永二年」一三九五年。

「勅願」当時は後小松天皇。

「安國寺」「安國禪寺」。延元三(一三三八)年に天下を平定して征夷大将軍となった足利尊氏が名僧夢窓国師の勧めに応じて、鎌倉幕府殲滅以来の戦乱によって死傷した人々の菩提を弔うと同時に、足利幕府の威信を示して民心を束ねる目的で京に天龍寺を建立したが、その後、興国六/康永四 (一三四五)年二月に、幕府は光厳上皇に奏請し、全国六十六ヶ国に一寺一塔を造立したのが安国禅寺である。

「國泰萬年禪寺」現在の富山県高岡市にある臨済宗摩頂山国泰寺。因みに私はこの南東の伏木で中高時代を過ごした。

「惣持護國禪寺」石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗諸嶽山 ( しょがくざん ) 大本山總持寺祖院

「天正・天文」元号が前後していておかしい。「天文」は一五三二年から一五五五年で先、「天正」はユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年で後である。間に弘治・永禄・元亀が挟まる。或いは「天文」は「天正」の後の「文祿」(一五九三年から一五九六年)の誤記かも知れないとも思ったが、天文から天正は戦国から安土桃山時代初期で、まさに「一亂」とあるのと一致するから、「天文・天正」と読み換えてよかろう。

「管領方」妙な使い方だが、ここは室町幕府方の意。当時は第九代将軍足利義尚。どうしても管領に拘るなら、細川政元。

「富樫」富樫政親。複数回既出既注

「一揆」一向一揆。

「されば一山の簱印は大擂子木(おほすりこぎ)なり」何故「されば」なのか私は意味不明。識者の御教授を乞う。

「粮米(らうまい)」兵粮(ひょうろう)米。

「【彼(かの)馬を能く畫きし晴貞と云ひしも、此時に死す。加賀秋月といふ。】」国書刊行会本では、この割注は

〔彼(かの)馬をよく画(かき)し加賀人と云ひしも、此時に死して富樫家滅す。加賀人は藤原重房也(なり)。世俗、富樫の馬と云(いひ)、加賀秋月といふ。〕

となっているが、「藤原重房」は不詳。

「千岳和尙」千岳宗仭(そうじん)。「加能郷土辞彙」の「千岳宗仭」を読まれたい。但し、それを読むと、ここでは第二代藩主「利常公」とあるが、実際に傳燈寺再興を命じたのは第四代藩主前田綱紀である。但し、利常の代に既に千岳はこの地に来ており、利常・利高両前藩主の尊崇が厚かったから、利常にそうした意志があったことは想像に難くない。

「無本寺」本山を持たない単立寺院のことであろう。]

 元祿の初活道和尙在住の比、狼多く出で田畠を荒し、又人を喰ふ。老若多く害せられ、近鄕愁傷限りなし。

 或日門前の老父、疵付(きづつき)たる七八歲許の子を負ひ來りて、和尙に向ひ歎きて云ふ、

「昨夜、狼壁を穿ち入りて、我が一人の孫を喰ひて去んとす。大勢出合ひ、漸々(やうやう)に追落(おひおと)しぬ。然共狼の疵付たるは、再び數狼を誘ひ來りて必ず殺すものと聞けり。他日いかゞして荒家(あばらや)の中に防ぎ申すべきや。願くば和尙助け給へ」

と云ふ。

 活道不便(ふびん)に思ひ、彼(かの)小兒を鎭守堂に隱し、和尙も同じく座具を敷き、香を焚き座禪してぞおはしける。

 暮過(くれすぐ)る頃より、狼の聲夥しく、且(かつ)犬のかみあふ聲頻りなりしに、寺へは何の事もなく夜明けしかば、和尙は小兒を出(いだ)し、老父を待給ふに、頓(やが)て老人村人を誘ひて走り來り、

「先(まづ)小兒恙なきは御影にて、ふしぎの事の候。昨夜狼殊に多く出で、村人は戶を閉ぢ守りし所、御寺より白狗(しろいぬ)ニつ走り出で、多くの狼を嚙殺し候程に、衆狼怖ぢ恐れて逃げ去り候」

と云ふ。

 和尙もふしぎに思ひ、

「先(まづ)鎭守堂に拜(おがみ)あられよ」

とて、皆々詣で見廻りしに、鎭守堂の二つ狗(いぬ)、手足悉く土にまみれ、口脇に血流れければ、

「扨は夕べ出でし白狗(しろいぬ)は、此高麗狗(こまいぬ)にてありけり」

と人々奇異の思ひをなしけり。

 其中一人の老翁ありしが、語りて云ふ。

「我(わが)先祖は大場村の者なり。昔行基菩薩此鄕(さと)へ來(きたり)て、二尊の觀世音を彫刻し、其木を以て二つの狛犬を作り、越中朝日の觀世音に對し、爰に夕日寺を建立し、二尊を安置し、鎭守堂には白山宮(しらやまのみや)を勸請して此兩狗(りやうく)を据ゑ置き給ふ。我(わが)先人觀音を渴仰し、

 朝な夕な惠む光のかけまくも忝(かたじけ)なしや越の海山

と詠じ、加越朝夕の觀音堂に法樂せし事を聞けり。其後夕日寺は廢壞し、二尊は村の名に殘りて幽かなる辻堂にありき。狗もひとつに打入れてありしが、天正の頃此邊(このあたり)に猪の多く出でゝ、田畑をあらし、民俗[やぶちゃん注:民草。]歎きけるに、こま犬里人の夢に告げて云ふ、

『我が主は今傳燈寺の境内にあり。我をかしこへ連行(つれゆき)なば、神に告げて忽ち猪を退治すべし』

と正しく見たるにより、二つの狗犬(こまいぬ)を此鎭守堂へ送りしかば、其後猪一疋も出でずと聞傳へたり。今の狼を退(しぞ)けし躰(てい)、疑ひもなき此狛犬の神靈なり」

と云ふに、皆人感嘆してぞ退散しける。

[やぶちゃん注:「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「活道和尙」不詳。

「大場村」金沢市大場町(おおばまち)か。

「行基菩薩」(天智天皇七(六六八)年~天平二一(七四九)年)は法相宗の僧。彼は難民救済・民間布教・土木事業などを進めたが、朝廷から下される僧の資格を得ずに行ったために弾圧された。しかし、後に民衆の支持を背景に、東大寺大仏建立への協力を要請され、大僧正の位を受けた。

「越中朝日の觀世音」富山県氷見市朝日本町の朝日山上日寺(じょうにちじ)であろう。本尊は千手観世音菩薩である。

「白山宮(しらやまのみや)」複数回出て既注の石川県白山市三宮町にあり、現行では白山比咩(はくさんひめ)神社と表記するそれであろう。加賀国一の宮。白山(はくさん)山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る。

を勸請して此兩狗(りやうく)を据ゑ置き給ふ。我(わが)先人觀音を渴仰し、

「かけまくも」万葉以来の連語。「心にかけて思うことも」或いは「言葉に出して言うことも」で、「心に懸(か)けて思うことも言い表わしようがなく」「忝(かたじけ)なしや」(=恐れ多くありがたいことであるよ)の意。動詞「かく」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形である「ま」+接尾語「く」+係助詞「も」。]

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