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2020/04/30

三州奇談續編 電子化注始動 / 卷之一 龜祭の紀譚

[やぶちゃん注:これより「三州奇談」続編(四巻五十話)の電子化注に入る。「三州奇談」については私の正編冒頭「白山の靈妙」の注を参照されたい。続編のしょっぱなということで、麦水、かなり力が入って、長い。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの日置謙校訂「三州奇談」(昭和八(一九三三)年石川県図書館協会刊)とする。但し、疑問箇所等は、同じく国立国会図書館デジタルコレクションの田山花袋・柳田国男編校訂「近世奇談全集」(明治三六(一九〇三)年博文館刊)を参考にする。こちらはかなり豊富なルビが施されてある。但し、今までの正編での一部の校合にあって、その読みの一部は到底従えないものがあるので、必ずしも私の付すそれは後者のものとは限らず、專ら正編の電子化の経験則に拠るとお考え戴きたい。仕儀・凡例は正編に準じた。大きな違いは読み易さを考え、段落を成形し、鍵括弧や中黒を挿入(中黒は一部で底本も用いている)、鍵括弧部分(直接話法・心内語等)も改行したことである。【 】は二行割注。踊り字「〱」「〲」は正字化した。]

 

 三州奇談後編 卷 一

 

    龜祭の紀譚

 明和五年[やぶちゃん注:一七六八年。徳川家治の治世。]の夏(なつ)越中放生津(はうじやうづ)に遊びて、例(れい)の狂を發して奇事を乞ひ求む。

[やぶちゃん注:「龜祭の紀譚」「かめまつりのきたん」と読んでおく。麦水自身は「きさいのきたん」と読ませたいのであろうとは思う。

「明和五年」一七六八年。徳川家治の治世。

「放生津」(現代仮名遣「ほうじょうづ」)は富山県射水市(旧新湊市)の海岸部にあった湊町及び汽水の放生潟(ほうじょうづがた)という潟湖の名。現在の射水市放生津町(まち)周辺(今昔マップ)。放生津潟は戦後の新港計画により「伏木富山港」として港湾化されたため、潟湖としての面影・印象は殆んどない。名は同所の放生津八幡宮(グーグル・マップ・データ)で現在は十月二日に行われている放生会(本来は旧暦八月十五日に行うべき祭礼)に因む。ウィキの「放生津潟」によれば、天平の頃、越中国の国主大伴家持が(在任は天平一八(七四六)年から天平勝宝三(七五一)年)「万葉集」で「奈呉(なご)の海」「奈呉の浦」と『詠んだ潟湖で、面積は概ね1.7平方キロ、周囲約6km、水深は概ね11.5mであった』。『中央には弁天島という人工の島が作られていた。地元の『堀岡郷土史』によれば、湖底の泥を除く作業で多くの事故が起き、そのため明和4年(1767年)に20間[やぶちゃん注:36.36メートル。]四方の人工島を築いて海竜社(かいりゅうしゃ)が建立され』、それが『亀の甲羅状だったために「ガメ社」と呼ばれた。明和5年から619日を祭礼の日と定め、それ以降は事故がなくなったという。明治になって社号を少童社、ガメ島から弁天島と改称した。明治8年(1875年)からは新暦に合せて730日になり、「堀岡村役場資料」に明治16年(1883年)に花火打上げ許可書が残っていて、この頃から花火も打ち上がられるようになった。これが現在の「富山新港新湊まつり」に連なっている』(下線太字は私が附した)とある(先の「今昔マップ」を拡大すると、旧放生津潟の中央に「少童社」と見える)。以上の人工島の造立と「海竜社」=「ガメ(亀)社」の創建の事実が本篇の記載時とリンクしていることに注意されたい。サイト「いこまいけ高岡」の「新湊弁財天」に、『潟には龍神が棲むと伝えられ、明和4年(1767年)には放生津潟の中心部に島を築き海竜大明神が祀られました。その後、弁財天も祀られ、明治期には浦島太郎も祀られるようになりました。昭和30年代後半に富山新港の工事が始まり、完成とともに昭和42年に現在地の片口地区へ社殿が遷座しました。現在見られる高純度アルミ製の新湊弁財天(本体部分の高さ9.2メートル)は、昭和61年(1986年)8月に建立されました。たぶんアルミ製の立像は日本でここだけです』とある。新湊弁財天はここ(グーグル・マップ・データ)。「新湊歴史ヒストリア Volume 4」の「新湊 潟&港 さんぽ」PDF)というパンフレットに、北条図潟の今昔の航空写真が載るので見られたい。放生津潟の変遷など非常に参考になる。なお、私はその西の伏木地区の二上山麓で中学・高校時代の六年を過ごした。昨年三月に潟跡を四十年振りに再訪し遊覧、弁財天立像も見た。甚だ懐かしく感じた。

「例(れい)の狂」怪奇談蒐集の奇体な性癖。]

 其地の人松(まつ)氏(うぢ)なる者告げて曰く、

「放生津の湖(うみ)に人を取ること多し。是は此湖中の土、田(た)每(ごと)の養ひとなるが故、十餘萬石の田地皆此土を運ぶ故に、今にしては水に入ること三四尺に及ばざれば、土を得ることなし。然るに近年其水に入りて土を取る者を、後ろより抱(いだ)きて水に沈むるものあり。拂ひ除(の)けて命を助かる者七八人、水に死する者四五人なり。此湖は一里四方ありて、赤鱏(あかえひ)の魚(うを)其主(そのぬし)といふ。形(かた)ち大いにして橋を出で得ず。海中へ行くこと能はず。折々は橋のもとに脊を顯して歸る。今土を取る者を吞むは、此魚とも云ひ、又は鼈(すつぽん)のわざとも云ふ。此頃告(つげ)ありて鼈の所爲(しわざ)の由なり。

 故に此春湖中に龜の宮を建立し、三月十七日を以て「龜祭り」の日とす。今年遊船數艘(すそう)出たりといふ。

 又一つには古城址あり。爰に千年の桑の古樹あり。是(ここ)に蛇ありて夜々(よなよな)鳴く。

 又一つには此處の龜祭の遊船に、各々網を入れて魚を得んとす。金城の上手連(じやうずれん)も來り打つ。然るに魚一つもなし。爰に於て予初めて網を入れて大鮒を得たり。是奇事なり。

 此三つを以て予に告ぐる所なり。」

といふ。

[やぶちゃん注:「松氏」不詳。三つ目の奇事で網を入れており、姓を以って紹介に代えているからには魚獲り好きの相応の格式の人物ではあろう。松一字姓の人物は調べても出てこないが、或いは松平などの伏字かも知れない。ただ、印象としては麦水の俳句仲間である可能性が高い感じはする。後で知人の「單凉(たんりやう)」なるものが出てくるが、この名はもろ俳号っぽく、また、この人物も俳句好きの人物らしい感じである(知人の「處士」(浪人)は松氏と單凉の共通の友人であろう。というか、どうも実は「單凉」自身がその「處士」である可能性が濃厚に私には感じられる。ともかくもこの三人は、孰れもかなりの知識人であることは間違いない)。

「田(た)每(ごと)の養ひ」本来の意を出すために読みを、かく分離した。一般には専ら「田毎の月」の用法で一フレーズとし、一枚一枚の田面(たのも)に月が映るさまを言うが、ここは本来のその田の地養ではなく、一つ一つの田に滋養を加えるための意を明確化するためである。

「赤鱏(あかえひ)」軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei。浅い海の砂泥底に棲息する。肉食性で貝類・頭足類・多毛類・甲殻類などの底生生物(ベントス:benthos)や底在性魚類を幅広く捕食することから、河口などの汽水域にしばしば入り込み、普通に見かけることも多い。尾が細長くしなやかな鞭状を呈し、背面に短い棘が列を成して並ぶが、その中程に数センチから10センチメートルほどの長い棘が一、二本近接して並び、この長い棘には毒腺があり、しかも鋸歯状の「返し」があり、一度刺さると抜きにくい。生態上、浅い海で知らずに踏んで刺されることもある。刺されると、激痛に襲われ、アナフィラキシー・ショック(Anaphylactic shock)で死に至ることもある。死んでも毒は消えないため、死んだ個体に刺されても危険である。但し、生体個体は意図的にちょっかいを出さなければ人を刺すことはない。これらの性質と潟底の土を採取する土民の行動から、不用意にアカエイを踏みつけて刺されて失神し、そのまま溺死するケースを推定することは極めて容易であり、すこぶる腑に落ちる真相を想起できる。寧ろ、以下で展開される妖亀真犯人説は真実としては冤罪と言えよう。

「橋を出で得ず」潟湖の中にいる間に成長し過ぎて、横幅が広くなってしまったために、橋脚が邪魔になって海へ出られなくなったというのである。

「鼈(すつぽん)」カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。最大甲長は38.5cm。ごくまれに60cmまで成長する個体もいる。通常のカメの認識と比較すると、運動性能は驚くほど速い。水中のみならず、地上でも非常に敏速に走る(「歩く」ではなく「走る」である)。各地でスッポンは妖怪視されており、人間の子供を攫ったり、血を吸ったりするとも言われた。これには彼らの知られた習性である「食いついて離さない」と言う噂に基づくと考えてよかろう。「鼈(すつぽん)人を食はんとして却つて人に食はる」という諺はスッポン食が古くから知られていたこと以外に、スッポンが人を襲うと信ぜられたことを証左でもあるのである。なお、「近世奇談全集」では「鼈」を「べつ」と音読みしているが(妖怪感を出す目的であろうが、寧ろそうすることでスッポンの造形が失われて巨大な妖亀になってしまう気がする)、私はどうも従えない。少なくとも「鼈」は中国でも本邦でも古くから個別種としてのスッポンを指す字として専ら用いられてきた経緯があるからである。

「此春湖中に龜の宮を建立し、三月十七日を以て「龜祭り」の日とす」この日付は「龜祭り」則ち文字通りの神を祀った創建の日の謂いで、先のウィキの記載と齟齬するものではない。

「古城址」恐らく、旧放生津潟の西端岸にある「射水市指定史跡 放生津城跡」であろう。現在の射水市立放生津小学校グラウンド地下二メートルの埋没している。ウィキの「放生津城」によれば、『鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中国守護所を起点とする。元弘3年(1333年)、建武の新政を迎える際の争乱(元弘の乱)では、守護であった北条時有(名越時有)最後の拠点となり、反幕府側の御家人に囲まれて落城する際の光景は『太平記』に記述されるものとなった』。『室町時代になると、守護畠山氏に代わり射水郡・婦負郡守護代神保氏が入城した。明応2年(1493年)、明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠』(ながのぶ)『は、政変で幽閉された将軍足利義材』(よしき:後に義稙(よしたね))『を迎え、上洛のための諸準備を進めた』。『永正17年(1520年)に越後国守護代長尾為景の攻撃で落城。その後神保氏により再建され、後に越中国を支配した前田氏の頃には城代も置かれたが、江戸時代初期に廃城となった。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられた』とある。個人サイト内の「射水市指定史跡 放生津城跡」現地の説明板も画像でしっかり読め、国土地理院図の地図も組み込まれてあるので見られたい。

「金城の上手連」金沢城御用のプロの漁師たちであろう。]

 予、猶、委しく聞かんことを求むれば、忽ち、傍(かたはら)に單凉(たんりやう)なる者、來りて、

「幸(さいはひ)に一處士(いちしよし)あり、此事を知りて紀譚をなす。是を書して止むべしや。」

といふ。

[やぶちゃん注:「單凉」不詳。出現の仕方が余りに唐突である。ロケーションは明確でないが、松氏の家で麦水と主人が語らっている部屋に突如現われるのだとしたら、松氏の食客ででもあるようではないか。さればこそ、私はどこかの相応の藩士であった者が流れてきたのを、松氏が迎えて養ってやっているのではないか? 單凉=「處士」説をとりたくなるのである。そう考えると、次の注で示すように、次の動作の不審も氷解するわけである。

「是を書して止むべしや」「その武士の記した綺譚録が御座れば、それを書写なさることで、ご満足戴けようか?」の謂いか。と言って、その書をぱっと出せるというのが、また、変だ。このロケ地が松氏の屋敷の外の店や料亭だったとしたら、全くおかしい。あり得ない。]

 其文に曰く、

『越(えつ)の北放生津に一處士あり、其姓氏を知らず。性(せい)惰(だ)にして三十未だ妻を迎へず。常に佚遊(いついう)に耽りて世業(せいぎやう)を廢す。書を學びて成らず。佛門又修すること能はず。終日(ひねもす)浦口湖邊(ほこうこへん)に吟行して、起臥其所を撰ばず。海鷗(かいおう)去らず蜻蜓(せいてい)常に宿る、又渠(かれ)が樂(たのし)みとする所なり。

 其の年の夏奇雲峰をなし、炎威(えんい)白砂を煮る。閭巷(りよかう)暑を苦しみて覺えず步み出で、此放生津湖の水涯(すいがい)に浴す。芦葦(ろゐ)猶延びず、萍藻(へいさう)臭香を生ずるを惡(にく)みて、終に湖中の深きに入る。圖らず一破舟(はしふ)を得たり。是に尻もたげして眠るに、暫くして晩風凉を送り、水氣肌に入りて物我(ぶつが)を忘る。

 此時吾が身舟にありや水にありや辨ずることなし。

 只心の儘に游泳を極む。

 忽ち數千の衆のおめき來(きた)るあり。處士を驚かし、

「河伯(かはく)來り給ふ、相したがへ」

と命令す。

 處士驚きて是に隨ふ。身を顧(かへりみ)るに黃鮒(きぶな)と變ず。

 然共其所以を尋ぬる心もなくて、只衆に伴ひて去る。

[やぶちゃん注:「佚遊(いついう)」気儘に好きなことをして日を過ごすこと。

「世業(せいぎやう)」本来、継ぐべき家業。

「蜻蜓(せいてい)」蜻蛉(トンボ)のこと。

「閭巷(りよかう)」村里。

「暑を苦しみてここ以下の主語は單凉一人。

「水涯」岸。

「芦葦(ろゐ)」ヨシ(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis)の異名。

「萍藻(へいさう)」浮草や浮遊性海藻など。ここは汽水湖であるから、海藻に断定は出来ない。

「終に湖中の深きに入る。圖らず一破舟(はしふ)を得たり。是に尻もたげして眠るに」ここでは、「放生津の深みへと行き、そこに沈んでいる破船に尻を乗せて居眠りをしたところが」で、既にして異空間に入っているわけである。

「物我(ぶつが)を忘る」「物我」は「外物と自己・他者と自己」で「我か彼か」則ち「夢か現(うつつ)か」の認識がなくなってしまうこと、見当識の失調・喪失を指す。

「河伯(かはく)」はもともとは中国神話や道教で黄河を支配する河の神の名である。人間の頭に魚の体の姿で黄河の水底に住んでいるが、地上に現れる際には人の姿をとるとする。二匹の龍或いは朱色の鬣の白馬に跨ったり、それら輦(れん:車)を曳かせて水上を進むとされる。本質的には古来から甚大な被害を齎す黄河の大氾濫の災厄を神格化したもので、後に海を含む広大な水域の水神に格上げになった。ここは登場の仕方も如何にも海底の龍宮から来った龍王然としている。なお、「河伯」と本邦の「河童」は一部で混用されている部分があるが(九州などで河童を河伯と書きもする)、これらは基本、平行進化したものであり、私は独立したものと考えている。本篇の「河伯」も、如何にも龍宮の龍王然とした設定である。

「黃鮒」骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属フナ亜種キンブナ Carassius buergeri subsp. 2 のことであろう。体色は黄褐色乃至赤褐色で、鱗の外縁が明るく縁どられる。光が当たると金鮒の名の通り、金色に見える。腹鰭や臀鰭は濃黄色を帯びる。ウィキの「キンブナ」には『東北地方と関東地方に分布する日本固有亜種』とあるが、富山にも棲息醫する。「富山市科学文化センター」のこちらの記事を確認した。]

 忽ち一城門に至る。樓々金光石門崢嶸(さうくわう)として、我が國の見る所にあらず。

 石階(せきかい)を登れば衣冠班(はん)をなし、縉紳(しんしん)に滿つ。

 處士大いに怪みながら、終に階傍(かいばう)に着きて衆議を聞く。

[やぶちゃん注:「崢嶸」現代仮名遣「そうこう」で、山・谷の嶮しいことを言う。

「衣冠班(はん)をなし、」底本は読点ではなく句点であるが、特異的に訂した。「衣冠」束帯し夥しい高位な人物たちがそれぞれその地位に応じて「班(はん)」(グループ)を作って集まっており、の意。

「縉紳」笏(しゃく)を紳(おおおび)に搢(はさ)む者の意で官位・身分の高い人のこと。]

 時に主人と思しき人、其身巨大にして、うら山吹の黑衣の素袍(すはう)を打廣げ着て、自ら稱して「赤兄公(あかえこう)」と云ひ、則ち向ひ進みて河伯に申して曰く、

「頃日(けいじつ)君命を蒙るといヘども出づること能はず。其謂れは、我が身長大にして水口(みなくち)の橋々甚だ狭し。就中(なかんづく)大の者は中の橋なり。此柱間四五間[やぶちゃん注:七メートル強から九メートル余り。]に過ぎず。故に我れ如何ともすべから挙。偶(たまたま)命を奉じて出づれども、橋柱に支(さ)へられて、通ること數度(すど)、我が形ちをして拙(つたな)くも里人に見せしむ。是我れは潜龍の術を授け給はざる故、此耻辱(ちじよく)を蒙る。今又水を起して橋々を流さば、幸(さいはひ)に梅雨の溢れて流すべき折(をり)も有れども、人君(じんくん)上(うへ)にあり、是又恐るべし。故に止むことを得ずして、河伯君(くん)を勞して此湖中に降臨を乞ふ。是れ我が禮を失するには非ず、君是を赦せ。」

[やぶちゃん注:「うら山吹」襲(かさね)の色目(いろめ)なら、「裏山吹」は表が黄色で、裏が濃い山吹色(やや赤味のある黄色)である。これは冬から春に着用するものであるが、まず、中国では黄色は皇帝のみの禁色であり、本邦の王朝色の代表的なものでもあり、しかも、この色は孰れもアカエイの体色に通うところがすこぶるあるのである。

「素袍(すはふ)」歴史的仮名遣は「すあを」とも。直垂 (ひたたれ) の一種。裏をつけない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸紐に革を用いる。略儀の用の服で、室町時代は庶民も日常に着用した。江戸時代には形式化して長袴をはくことが普通になり、大紋と同じように定紋をつけ、侍烏帽子に熨斗目(のしめ)小袖を併用し、平士 (ひらざむらい) や陪臣の礼服とされた。

「赤兄公(あかえこう)」読みは「近世奇談全集」に従った。アカエイである。

「頃日(けいじつ)」近日。

「人君(じんくん)上(うへ)にあり」ちょっと迷ったが、河伯を「人君」=仁「君」と採ることも考えたが、とすれば、わざわざ来て貰うというのもおかしい。とすればここはやはり――金沢藩の藩主としての優れた「人君」がおり、その方もこれまた畏れ多く、ただ海に出るでんがために大洪水を起こして橋を破壊するというのは憚られました――の意で採った。なお、この当時の加賀藩は第九代藩主前田重教(しげみち)である。]

 河伯、先づ、主人を責めて曰く、

「近年放生津湖の中、涯を田作の爲に掘り取りて、民家十餘萬石の田を養ふと。故に我れも賀して、汝が長大安身なるを免(ゆる)す。是國家に益あるが爲なり。然るに頃年(けいねん)[やぶちゃん注:近年。]泥を取ることを怒りて、汝に黨(たう)する鼈(すつぽん)を放ちて人民の命を取ること數人(すにん)に及ぶ。是何等の理(ことわり)ぞ。瓦石を運びて湖上を埋(うづ)むるとならぱ、汝波臣(はしん)水族を發して是を防ぐ、又其理ありとせん。夫(それ)さへ近く此鄕(このさと)の東、生地(いくぢ)の湖(うみ)田となりて、今幾許(いくばく)、作毛を生ず。【然共所以(ゆゑん)ありて、安永六年夏地陷りて、元の水海(みづうみ)[やぶちゃん注:「湖」に同じい。]となりしなり。】此水主(すいしゆ)、居する所なきを歎き訴ふ。其理ありと云へ共、國用又默(もだ)し難し。故に水主を海隅(かいぐう)の一方に住ましめたり。然るに汝湖水の深くなるを悅ばず、無用の世民(せいみん)を害す。其謂(いは)れ何事ぞ。湖中の泥を取りて水深きは樂みとなすべきに、却りて人命を奪ふ。是惡魚毒龍の行ひをなすなり。然らば今日より毒蛇に令(れい)して、鱗甲(りんこう)の内に鐡虱(てつじらみ)を生ぜしめて汝を苦ましめん。如何に々々。」

と。

[やぶちゃん注:「波臣」水中の世界にも君臣関係があると考えられていたところから、水を司る役。主に魚類を指す。後には水死した者を指す語ともなった。

「生地」消失した幻の地名であるが、全く不詳。「近く此鄕(このさと)の東」とあるからには、旧放生津潟の東部にあったのだろうが、「生地」の地名は現在の地図には見出せない。海辺では富山県黒部市生地(いくじ)があるが、ここはあまりに遠過ぎて、この表現に合わない。

「安永六年」一七七七年。明和の後。本書の完成は宝暦・明和の頃とされているから、この割注は麦水でない者が書写の序でに記した可能性もある。

「鱗甲」読者の諸君の中には「エイに鱗はない」と思っている方もいるやも知れぬが、現在の皮革加工や、昔の武具に見られる小さな粒状の楯鱗(じゅんりん)に覆われた皮革は「鮫革」(サメがわ)と称しているが、あれは実はアカエイの皮革なのである。]

 主人赤兄、大(おほい)に恐れ、陳謝して曰く、

「君先(まづ)怒りを止めて、鐡虱の令を下し給ふことなかれ。君は甚だ一を知りて二を知り給はず。夫(そ)れ水海の泥の田の養となるべくんば、何(いづ)れか湖中の埋(うづ)もれることあらんや。此放生湖[やぶちゃん注:ママ。]のみ泥土(でいど)田を養ふは誠に所以(ゆゑん)あり。常に我が一族共(ども)泥中に住みて、膩油(じゆ)[やぶちゃん注:脂(あぶら)のこと。]を是に染(し)む。况や餌を得れば爰に隠す。鼈又多く子を此泥中に生む。我も又折々氣を吐き、子孫の爲に英氣を滿(みた)さしむ。故に泥土に油ありて、凡(およそ)魚膓(ぎよちやう)[やぶちゃん注:魚の肝(きも)。]に等しく、人間是を知りて田に土かふ[やぶちゃん注:「培(つちか)ふ」に同じい。]故に、田作に利あれども、我が爲には甚だ不利のことなり。近年我が子・甥の魚皆是を怒り、腹下の劔(けん)を振ひて大に罵り、身を忘れて網中(あみなか)に投死(たうし)するもの少からず。故に我も此事を憂ひて、人間泥を取ることを制せんとす。然共水族皆河伯公の令に恐れて、此事を肯(がへん)ずることなし。只鼈のみ年々我が子を蹂躙(じゆうりん)せらるゝが爲に、憤りて此令を受け、人民に相(あひ)敵(てき)す。然共我れ丁寧に禁じて、

『人命を斷つことなかれ。只威(おど)して追ふべし』

とは云ひ聞かせしなる。然るに長鼈(ちやうべつ)うけがはすして、既に人民、三、四人を殺す。是、我が誤りに非ず。君、能く是を正せ。」

[やぶちゃん注:「腹下の劔(けん)を振ひて大に罵り」棘のある場所は違うが、アカエイの毒針を念頭に置いた、生態学的に正しい観察に基づく叙述であることに着目しなくてはならない。

「長鼈(ちやうべつ)」ここは「近世奇談全集」のルビに一応、従った。意味は恐らく「長(をさ)」である年経た鼈(すっぽん)であろう。]

 河伯其詞の理あるを以て、長鼈を召して人民を害せんことを難ず。

 長鼈、謝し、答へて曰く、

「我れ、湖主の令を請けて其趣をなすといへども、其時の人夫、水に習はずして[やぶちゃん注:慣れておらず。]、驚いて水の爲に死す。我が科(とが)にあらず。其後にも、我れ、後ろより抱きしことありしに、振放ちて歸りし者、多し。是を以て、人を害せざる證據となし給へ。既に此事鼈の所爲なりとて、村里に沙汰ありければ、古城に兩頭の蛇あり。日夜、樹に登りて泣く。其趣を聞くに、

『鼈の難は蛇にかゝれり。頓(やが)て人民仇(あだ)を報じて長鼈を捕ふべし。長鼈は捕ふるとも死なじ。長鼈若(も)し死せずんば、彼(か)の諸葛亮が智に習ひて、必ず古木を以て焚くべし。我が此古城は久しき古城にして、桑の木に根に古木多し。必ず是を用ふべし。此木焚き盡さば、我が住家(すみか)を失はん。』

といふを聞けり。然れば、我が死の如き恐るゝに足らず。罪湖中に及び、災ひ湖邊にも歸せん。是又悲しむべし。然共眼前日々に我が子の踏殺さるゝを見て、安閑と一日をも送り難し。我が輩をして心を慰することを免(ゆる)し給はば、巨鼈、再び人倫に害をなさじ。」

と、眼中、血を流して、是を述ぶ。

[やぶちゃん注:「諸葛亮」(一八一年~二三四年)は三国時代の蜀漢の宰相。字(あざな)は孔明。劉備に三顧の礼を受けて仕えたと伝えられ、天下三分の計を上申し、劉備の蜀漢建国を助けた。緻密な叡智を以って知られた彼であるが、唐突にここに彼の名が出てくるのは恐らく劉備との交流が「君臣水魚の交わり」と呼ばれたこと、諸葛孔明の綽名が「伏龍」「臥龍」と呼ばれたことによるものであろう。直接には本篇に龍は出てこないが、「毒蛇」や「兩頭蛇」が登場し、河伯は龍王の如きであってみれば、すこぶる親和性は強い。]

 河伯公、憐みて、

「是又、其理、あり。」

とし、

「一方を以ては制し難し、然らば、人間に告げて龜の宮を造立して、湖中に島を築き、其下を鼈の子を安んずる所として、汝が曹(さう)の心を慰すべし。主人赤鱏侯、又、罪なし、早々(はやはや)、人間に告ぐべし。」

[やぶちゃん注:「曹」一般名詞で「仲間・輩(ともがら)」のこと。]

と、あたりを顧みて、彼(か)の處士が化(くわ)せし黃鮒に命じ、

「汝、早く釣網にかゝり、魚身(ぎょしん)を脫して、人間に戾り、此事を鄕中の人に告ぐべし。」

と。

 其日の議論、終り、河伯、湖殿を下り去つて、又、水部を御(ぎよ)して、歸らる。

 黃鮒、是に依りて、

「早く鉤(はり)を吞み、網にかゝらん。」

と、ためらへども、折節、其頃、漁者、來らず。

 詮方なく日を經(ふ)る内に、長鼈は宮にならんことを悅びて、黃鮒が告ぐるを待つことを得ず。里邊(さとあたり)の人々の夢に告げて、終(つひ)に、湖中、「龜の宮」を勸請(かんじやう)する事に及び、今年三月十八日祠(ほこら)成りて、遊船出で、繁昌の事となりぬ。

 扨(さて)、黃鮒、心遲れて日を移す所に、此祭りを見て、

「こは、遲れたり。」

と、遊船近く跳り出(いづ)る。

 漁人及び金城の武士は、網に手練(てれん)を得て、八九間[やぶちゃん注:14.5416.36m。]の遠きに投出(なげいだ)す程に、あまり遠くして入ること能はず。

「如何(いかに)。」

と見合す所に、下手(しもて)、網ありて、足元に、うつ。

 黃鮒、幸に入ることを得たり。

 引上げしを見れば知る人なり。

 事を告げんとする内、庖丁の爲に兩端となる。

[やぶちゃん注:「庖丁」包丁人。料理人。

「兩端となる」頭と尾をぶち切られてしまった。]

 爰に於て遊處士、魂(たまし)ひ戾りて、元の人間となり、湖邊の舟板に正氣付きて、扨(さて)、前後の事を思ふに、夢中の告(つげ)、現然たり。

「こは、珍らし。」

と、此放生津に走り戾り、つぶさに語るといへども、早や龜の宮建ちたる跡なれば、證據の出し遲れとなりて、信ずる人一人もなし。

 されども『妙談奇話なり。』と思ふ程に、河伯の有樣、湖城の躰(てい)、所々に咄し廻れば、鄕人(さとびと)は耳を傾けて、

「夫(それ)は何とやら古き本にも聞きし咄しなり。若(もし)や『東湖(とうこ)の赤鯉(せきり/あかごひ)』の云ひ違へにや。」

と詰(つめよ)る程に、終に其實(じつ)を取揚ぐる人なく、方々にて誓文(せいもん)に鳴らせし齒(は)徒(いたづ)らに痛み、只

「狂士、々々、」

と弄(もてあそ)ばれて、時に合はず。

 處士、つくづく思ふに、

『龍宮、今に古作を信ず。あはれ河伯をして活調を得しめず、我れをして此(この)理作(りさく)を語らしむるに至る。命(めい)なる哉(かな)、命なる哉。』

と、如此(かくのごとく)記したり。』

 予、一たび是を見るに、求め向ふ所、忽ちに豁然(かつぜん)として、三奇、皆、辯ず。思ふに是(これ)、雲景(うんけい)が「未來記」より、證(しやう)、正しく、狂童の託宣より、理(ことわり)、明(あきら)かなり。僅(わづか)に地府(ぢふ)の片言(へんげん)を得てだに、斯の如し。况や、瞿曇氏(くどんし)の三世(さんぜ)の因果を知るをや。理(ことわり)幽遠に心凉しかるべし。あはれ、此(この)暑日(しよじつ)、定(じやう)を假(か)りて、暫く、工夫を凝(こら)し度(たき)ことぞ。よき傳手(つて)なきを奈何(いかん)せんや。

[やぶちゃん注:「夫は何とやら古き本にも聞きし咄しなり。若や『東湖の赤鯉』の云ひ違へにや」一読、上田秋成の「雨月物語」の「夢応の鯉魚」を想起させるものの、同書は殆ど同時代に書かれ(明和五(一七六八)年序・安永五(一七七六)年刊)であるから、そのインスパイアではない。「夢応の鯉魚」は構成としては、明末の小説家馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の書いた白話小説「醒世恒言」第二十六の 「薛錄事魚服證仙」(「龍騰世紀」内)(「薛(せつ)錄事、魚服(ぎよふく)して仙を證すること」。録事は主任書記官。「魚服」は魚に化すること)、さらに溯る明代の陸楫(りくしゅう)編の白話小説「古今說海」の「說淵」の辰巻三十五にある「魚服記」(「維基文庫」内「太平廣記」の「水族類」所収の「薛偉」(「中國哲學書電子化計劃」内)の三種を勘案して典拠としたものであり、麦水もそれらの孰れかか総てを素材としていると考えてよかろう。特にここで「東湖の赤鯉」と言っているのは実は上記の三種の原文(上記のリンク先は総て中文サイト。後の丸括弧内が当該サイト名)総てに「東潭赤鯉」の文字列で登場しているのを少しアレンジしたものであることが判然とするのである。なお、「夢応の鯉魚」を素材に英訳した小泉八雲の私の「小泉八雲 僧興義 (田部隆次訳)」をリンクさせておく。

「方々にて誓文(せいもん)に鳴らせし齒(は)徒(いたづ)らに痛み」方々でこの話を語っては、これが確かな実話であり、決して作り話ではなく、本当の話であるという誓約を強く歯を鳴らしてまで主張したが、それも無駄なことで誰も信じては呉れず。

「時に合はず」事実なのに、時流に合わぬために狂人の世迷い言(ごと)として全く問題にされなかった。

「龍宮今に古作を信ず」愚民は龍宮伝説は古い大道具と誰もが知っている展開をそのまま無批判に信じているばかりだ。

「あはれ河伯をして活調を得しめず、我れをして此(この)理作(りさく)を語らしむるに至る」「ああっ! 折角、河伯という正当なる中国の神たる河伯が出現し、活況を呈している私の話を信じようとしないのだ!? 私をしてこの論理に完全に適った実話語らせるに至った河伯の命令が、確かにあったのにも拘わらず、だ!」。

「命(めい)なる哉(かな)」「これもまた私に与えられた孤独な運命なのだなあ!」。

「豁然(かつぜん)」鮮やかに不審や疑いが晴れるさま。

「三奇皆辯ず」松氏が本篇の冒頭で提示した三つの奇妙な現象を鮮やかに紐解き、しかもそこに一貫した大いなる神託的な意味がそこに連関されて示されていることを謂う。確かにこれは「豁然」としているとは言える。

『雲景(うんけい)が「未來記」』「太平記」巻二十七に登場する「雲景未来記」。時制は貞和五(一三四九)年六月とある(この年の八月に足利尊氏は弟直義の執務を停止させ、上杉重能・畠山直宗らを越前国で処刑し、直義が出家している)。私はこの「雲景未来記」は事実を後付けして形成した似非予言として全く評価しない。従ってここで電子化する気持ちもない。但し、「太平記」を順に読んで行くと、預言書として、あたかも的を射ているように読めるという点では、よく作られてはいる。しかし、それは後の歴史的な「観応の擾乱」の痙攣状態を知っている後の世の読者には実は大したものではない。お読みになりたい方は原文と現代語訳が並置される個人サイトのこちらがよい。

「狂童」頭の少しくおかしくなった依りましの少年。

「地府」冥途或いは閻魔大王その人を指すが、ここは先の「雲景未来記」で直接話法で語る大天狗、則ち、外道の大魔王の「片言」と言う示唆である。

「瞿曇」)釈迦の出家前までの釈迦一族の姓「ゴータマ」の漢訳。転じて仏となった釈迦を指す。

「定(じやう)」心を一つの対象に集中し、心の散乱がなく、精神の定まっている三昧の状態。悟りの境地に至るための必要条件ではあるが、悟達の境地とイコールではない。だから、それをたまさかに「假りて、暫く工夫を凝し度」いが、しかし「よき傳手」(正法(しょうぼう)へ導いてくれる真正の導師)「なきを奈何せんや」と続くのであろう。

 なお、この話と次の「靈社の御蟹」をカップリングしたものをアレンジして「放生津物語」として田中貢太郎が怪談小説にしている(「日本怪談全集」(昭和九(一九三四)年改造社刊)の第四巻所収)。私は一九九五年国書刊行会刊「日本怪談大全」第五巻(新字新仮名)で読んだが、幸い、「青空文庫」のこちらで電子化されている(底本は異なるが、親本は同一)ので是非、読まれたい。]

2020/04/29

三州奇談卷之五 鹿熊の鐵龜 /「三州奇談」(正篇)~全電子化注完遂

 

     鹿熊の鐵龜

 鹿熊(しかくま)の城跡は、魚津を去ること三里、北陸中の名城の聞えあり。今年久しうしても、城跡の山猶顯然として、道羊膓(やうちやう)と曲れり。是(これ)昔(むかし)椎名・土肥・神保等の籠(こも)る所。後は皆、越後長尾景虎に隨ひて幕下となる。其後富山城主佐々内藏助成政、爰を責めて勝負互にあり。佐々は奇代の勇者、太閤秀吉も朝鮮御征伐中々はかゆかざる時、佐々が事を思し召し出され、

「彼(か)の大氣者を殺して殘念、今事を缺くぞや。此ほど生きてあらば、かくまで手間入りさせじものを」

と仰せありしとなり。能く見所の有る勇將にや有けん。されば成政に對するなれば、椎名・土肥・神保終に勝つ事を得ず。或は明(あ)け退(しりぞ)き歸降(きかう)して忽ち此城破却にぞ及びける。

[やぶちゃん注:「鹿熊の城跡」サイト「城郭放浪記」のこちらによれば、鹿熊城殿砦(じょうでんとりで)で、富山県魚津市鹿熊にある城跡であるが、詳しいことは不明。現在、山腹にある春日社の境内となっている平段一帯に築かれていたとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト主は同じ鹿熊の東にあった本篇にも後で出る松倉城と関係性があるとする。そこで松倉城の記載を見ると、『築城年代は定かではないが南北朝時代に井上俊清によって築かれたと云われる』。『戦国時代には守護畠山氏の守護代椎名氏の居城であった。椎名氏は上杉氏が越中に侵攻するとそれに降ったが、後に武田信玄と結び上杉氏に背いた。永禄12年(1569年)上杉謙信によって攻められ落城、椎名康胤は逃亡した。上杉氏は後に金山城にいた河田長親を移し拠点として重要視するが、天正10』(1582年)『年織田氏に攻められ落城した』とある。さても麦水は「城跡の山猶顯然として、道羊膓と曲れり」と書いているのだが、どう見てもそれは「鹿熊城」ではなく、うねくねっているのは松倉城の方である。位置認識に誤謬があるとしか思われない。

「椎名」前注の引用に出た。

「土肥」ウィキの「土肥氏」によれば、『建長年間(1249 - 1255年)に土肥氏の一族である土肥頼平が越中国(現・富山県)に地頭として入ったとされるが、不明な点が多い。その後、同地で勢力を伸ばし、南北朝時代から戦国時代には越中国の代表的な国人として勢威を振るった。越中国守護であった畠山氏の傘下に入り、畠山氏の家督争いでも活躍している』とある。

「神保」ウィキの「神保氏」によれば、『神保氏は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で、畠山氏の領国越中、能登、紀伊などの守護代を務め、越中国射水郡放生津に本拠を構えた』。『応仁の乱では東軍畠山政長の腹心として神保長誠が活躍、明応の政変で幽閉された将軍・足利義稙を救出し、放生津館に迎えるなど最盛期を迎えたが、長誠の後継者慶宗は主家畠山氏からの独立を目指し、一向一揆と手を結んで長尾能景を討つなどの行動をとったために主君畠山尚順(尚長)の怒りを買い、長尾・畠山連合軍による討伐を受け、永正17年(1520年)新庄の戦いで能景の子・長尾為景の軍に敗れて敗走中に慶宗が自刃し、壊滅状態となった』。『しかし天文期になり、慶宗の遺児とみられる長職が新川郡に富山城を築いて神保氏を再興し、新川郡守護代の椎名氏との抗争を経て越中一国を席巻する勢いとなったが、椎名氏の援軍要請を受けた上杉謙信(長尾為景の実子)』(本篇の「長尾景虎」に同じい)『に敗北し、上杉氏に従属する。しかしやがて武田・一向宗派と上杉派に家中が分裂し、内紛状態となって衰退し、家中の実権は親上杉派の家老小島職鎮に握られた。長職の嫡子長住は武田派であったとみられ、越中を出奔して京に上り織田信長に仕え、越中帰還の機会を待った』。『やがて天正6年(1578年)313日に越後で上杉謙信が急死すると、信長は長住に兵を与えて越中へ侵攻させ、長住は富山城に入城して神保氏の実権を取り戻した。しかし天正10年(1582年)3月、小島職鎮らが甲斐国の武田勝頼の流した虚報(武田領内に押し寄せた織田・徳川両軍を勝頼が悉く討ち果たしたとのもの)をうけて一揆を起こし、長住は富山城を奪われ幽閉された。織田勢により富山城は奪還されたが、信長はこれに怒って長住を越中から追放し、越中守護代神保氏は滅びた』とある。

「佐々内藏助成政」複数回既出既注。「妬氣成ㇾ靈」の私の注を見られたい。

「はかゆかざる」「はか」には「計」「量」「捗」の漢字を当てる。事態がどうにも上手く運ばない、はかどらない、の意。

「かくまで手間入りさせじものを」実は底本は「さぜしものを」。国書刊行会本・「加越能奇談」・「近世奇談全集」総て「させし」と清音であるが、どれも意味が通らないので、特異的に私がいじって打消・意志(推量)とした。

 其麓には角川(かどかは)といふ流れあり。其むかしは、此城を越中松倉の城といふ。其世より傳はる家の百姓、今猶此麓にすめり。一つの手取釜を持つ。三つ足あり。いづれも鐵の龜の鑄かたあり。

[やぶちゃん注:「角川」先の地図を今一度見てもらうと、早月川の右岸をほぼ並走して流れて鹿熊を松倉城をぐるりと回りこんで鹿熊城の東を貫通する角川が確認出来る。]

 元文年中[やぶちゃん注:一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。]の事にや、此主人彼(かの)手取釜を角川へ持出で洗ひける。頃しも五月雨(さみだれ)の降り晴れて、水多く草をひたし、浮草の打交(うちまじは)る許りに流水廣がりける。

 時しも何心なく此手取釜を水にひたして打忘れ、傍に蓴菜(ぬなは)の折々見えけるを、たぐり寄せたぐり寄せして、暫く立ちたりしが、此手取釜水底(みなそこ)にありながら動くやうに見へけるが儘、

「怪しや」

と引上げて見たりけるに、三つ足の鐵の龜とも動搖して這ひ步くなり。

 其中にはや一つは釜より

「こくり」

ともげ落ちて、鐵龜心よげに見返り見返り逃去(にげさ)る。

「是は」

と騷ぎ驚き、水に入りて押(おさ)へんとするに、水草の葉隱れをあちこち逃廻り、終に深き方へ馳せ行きける。

 主人大に驚き、跡をみるに、二つの龜どもゝ動搖すること止まず。

 故につよく繩を以て結はへ、嚴しく抱へて走り歸りけり。

 其後(そののち)は赤がねを以てうへを包み、「名物の釜」とて、人々深く懇望せざれば見せず。

 誠に不思議なり。狩野(かのう)が下繪なるなど沙汰も高し。

[やぶちゃん注:この話、なんか、ヘンじゃねえか? 三つ足の手取釜の一つの亀が抜け出して、淵の底へ行っちまったのなら、亀の形をした足は二つしかないはずだろ? まてまて、三ヶ所ならまだしも、二ヶ所じゃ、その釜は土間には置けねえな?

「蓴菜(ぬなは)」読みは国書刊行会本の本文『ぬなわ』を参考にした。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi

「狩野」室町中期(十五世紀)から江戸時代末期(十九世紀)まで、約四百年に亙って活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である狩野派の画家。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫が織田信長・豊臣秀吉・歴代の徳川将軍などに絵師として仕えた。日本絵画史上最大の画派。但し、参照したウィキの「狩野派」を読まれると判るが、この時期には目立った画名人は残念ながら出ていない。]

 或人曰く、

「慶長九年[やぶちゃん注:一六〇四年。]、前田利長公[やぶちゃん注:加賀藩初代藩主。]、此地巡見なされし時、早速鹿熊の城を壞(こぼ)ちて、富山の城へ引移らさせ給ひけり。其事を近臣御尋ね申上げ、

『昔より爰は名城と承り候に、如何(いかが)思召(おぼしめ)す』

と尋ね奉りしに、則ち仰られけるは、

『地は如何にも宜(よろ)しき所なれども、地中に磁石(じしやく)の氣多し。是(ここ)に城を建つる時は、刀・鎗の氣なまりて、快き合戰ならぬ地なり。捨つる方(はう)よし』

と仰せける」

と昔話しあり。是を以て思へば、元文年中の鐵釜の龜の動(うごき)し變も、是(ここ)らの磁石の氣に引(ひか)るゝ故にや。誠に名君の御眼力、數百歲の後といへども、驚く事多きものなり。

[やぶちゃん注:以上を以って「三州奇談卷之五」、いやさ、「三州奇談」正篇は総てを終わっている。]

三州奇談卷之五 接異人話

 

[やぶちゃん注:本篇「接異人話」(「異人に接する話」。リンク先は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像)は三分の二が漢文(最後に配された四字からなる十二句を除いて訓点附き)であり、返り点を打っても読みづらいだけなので、特異的に、まず、漢文部をほぼ白文(句点は残した。底本はもともと漢文部分には句点しかない。但し、底本は印刷が悪く、あるのかないのか判らぬところも多いので、国書刊行会本の区切り(こちらは読点もあるが、前者版ではそこを句点に読み換えた)を一部で参考にした)で示し、そこでは中間部の和文読みも振らずに示す(元来、底本には読みはない)こととし、その後に、漢文を訓点に従って訓読して全体に読みを推定で添えたものを示すこととした。]

 

    接異人話

我邑島佐平云者。夜行邑中。風雨月暗。油衣者四人遇街。謂佐平曰。吾需紙。爲我買得。其語氣倨焉。則買得四十紙而與。不出價取去不謝。佐平不憤別。佐平明曉出庭。有異人立。姿容氣高。鬚眉美秀。有威風可懼。佐平稽首。異人曰。汝從吾行乎。佐平唯從行。常知途百步餘。又行未見之山野五六里。而到曠野。設席二十餘人。飮宴列居。其人悉如前人。有老者。坐間曰。伴來乎。前人曰然。令座佐平於筵端。有一老者問曰。汝邑在二吏。姓名如何。佐平答以其姓名。曰。欲送書一吏宜通達。佐平諾。有一小兒。貌三四歲。有能而能事長者。老者命小兒。汝書書。小兒出筆紙而書。一紙各四字。字形巨盡十二紙。又書副書一紙。卷投。佐平諾而之懷。請辭去。老者曰。父母俟汝。疾可歸家。汝既餓焉。與乾柹子二十箇。貫萩莖。食其二持其餘。送別餞之以言曰。事父母能竭其力。祭鬼神能誠敬。能修汝之產業。一人送途五六里。到舊知之道。送者忽消其貌矣。薄暮歸家視其書。前夜所需之紙也。書不拙。雖讀不難。文義不屬。事理不可解。副書以俗辭書。法甚恭。題己名風子天宮。乃奉于吏。或曰仙乎。神乎。化人乎。狐狸乎。不可知焉。臨別送以言。訓三事者至言也。竭力言生。誠敬言死修產業言用天因地。皆不出孝。雖君子送人之言。蓋然一朝雖妖惑人戲而已。所其道善乎人者與。

我邑とは越中魚津なり。是を書する人は魚津の人にて喬如幾布。予に告ること斯くの如し。其事書中の如く、島屋左兵衞と云ふ者、明和元年の春一日去つて居らず。方々尋る所還りて我宅の後ろより出來る。卽樣子を尋ぬれば、人あり誘ひて山に到る。其所未見所なり。小兒に筆とらせて、魚津の奉行所へ書十二枚を送る。其墨跡甚だ怪し。文字皆讀むべからず。公儀へ上る所、先其地役人に預り置べしとて、其書魚津の雉仄といふ人の許にあり。其書昔貉の書ける風とは大いに替り、明人の筆意に似たり。字皆讀み易きに似て又あやし。其十二枚、前後を定むること能はず。近鄕の文字に好ける者ども、色々となして點を加ふ。其中若しや左もと思ふ物を取りて左に記す。後年若し應あらば、彌々奇ならん。語猶考ふべき人の爲に文字の形に記す。四字づゝにて、上下はいづれとも置きて試み給へ。この點も先の文章も、文字は其儘なり。文中四十紙は十四紙成べし。十二枚は本紙、一紙は副狀、一紙は上包紙なり。

  董御痛入 勸悌盛禮 故喜勒大 御懇切也

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  湘泉多圭 寧成珍華 北走美共 分局者振

 

□訓読して読みを加えたもの(訓読の一部では国書刊行会本の訓点も参考にした。一部の送り仮名は私が補った。句読点も変化させ、記号等を使用、段落も成形した)

 

    異人に接する話

   *

 我が邑(むら)に島佐平と云ふ者、夜、邑中(むらなか)を行く。風雨あつて、月、暗し。油衣(ゆえ)の者四人と街(まち)に遇ふ。佐平に謂ひて曰く、

「吾れ、紙(かみ)を需(もと)む。我が爲に買ひ得(え)せよ。」

と。其の語氣、倨(おご)れり。則ち、四十紙を買ひ得て與ふ。價(あたひ)を出ださず、取り去りて謝(しや)せざるも、佐平、憤らずして別(わか)る。

 佐平、明曉(みやうげう)、庭に出づ。異人有りて立てり。姿容(すがたかたち)氣高く、鬚・眉、美秀にして、威風有り、懼(おそ)るべし。佐平、稽首す。異人曰く、

「汝、吾に從ひて行かんや。」

と。佐平、唯だ從ひ行く。常に知れる途(みち)百步餘、又、未だ見ざるの山野を行くこと、五、六里、而して曠野(あらの)に到る。

 席を設けて二十餘人、飮宴して列居す。其人、悉く前人(ぜんじん)のごとし。老いたる者有り、坐の間(あひだ)より曰く、

「伴ひ來れるか。」

と。前人、曰く、

「然(しか)り。」

と。佐平をして筵(むしろ)の端に座せしむ。一老者(いちらうしや)有り、問ひて曰く、

「汝が邑(むら)二吏(にり)在り。姓名は如何(いかん)。」

と。佐平、答ふるに其の姓名を以つてす。曰く、

「一吏に書を送らんと欲す。宜(よろ)しく通達すべし。」

と。佐平、諾す。

 一小兒有り、貌(かたち)三、四歲、能く有りて、能く長者に事(つか)ふ。老者、小兒に命ずらく、

「汝、書(しよ)を書(しよ)せよ。」

と。小兒、筆紙を出だして書す。

 一紙、各(おのおの)四字、字形、巨(おほ)きにして、十二紙を盡くす。

 又、副書(そへがき)一紙を書す。卷きて投(たう)ず。佐平、諾して之れを懷(ふところ)にす。

 辭去せんことを請ふ。老者曰く、

「父母、汝を俟つ。疾(と)く家に歸るべし。汝、既に餓ゑたり。乾柹(ほしがき)の子(み)二十箇を與ふ。」

と。萩(をぎ)の莖(くき)に貫けり。其の二(ふたつ)を食ひ、其の餘を持ち、別れを送り、之れに餞(はなむけ)するに言(ことば)を以つてす。曰く、

「父母に事(つか)ふるに、能く其の力(ちから)を竭(つく)せ。鬼神を祭るに、能く誠敬(せいぎやう)せよ。能く汝の產業を修(をさ)めよ。」

と。一人(ひとり)、途(みち)を送ること、五、六里にして、舊知の道に到(いた)る。送れる者、忽ち、其の貌を消す。

 薄暮に家に歸りて、其の書を視るに、前夜需(もと)めし所の紙なり。書、拙ならず、讀むに難(かた)からずと雖も、文義、屬(ぞく)せず、事理、解すべからず。副書は俗辭を以つて書き、法(はう)、甚だ恭(うやうや)し。己(おのれ)が名を「風子天宮」と題す。乃(すなは)ち、吏に奉(はう)ず。

 或いは曰く、仙なるか、神なるか、化人(けにん)なるか、狐狸(こり)なるか、知るべからず。別れに臨みて送るに言を以つてす。三事(みつのこと)を訓ずるは至言なり。竭力(けつりよく)は生(せい)を言ひ、誠敬(せいぎやう)は死を言ひ、產業を修むは用天因地(ようてんいんち)を言ふ。皆、孝を出でず。君子の人に送るの言と雖も、蓋(けだ)し然(しか)らん。一朝、人を妖惑(えうわく)すと雖も、戲(たはむ)れらくのみ。其の道とする所、人に善なる者か。

   *

 「我が邑(むら)」とは越中魚津なり。是を書する人は魚津の人にて喬如幾布。予に告(つぐ)ること斯くの如し。其事書中の如く、島屋左兵衞と云ふ者、明和元年の春一日去つて居(を)らず。方々尋(たづぬ)る所還りて我(わが)宅[やぶちゃん注:自宅。]の後ろより出來(いでく)る。卽(すなはち)樣子を尋ぬれば、

「人あり誘ひて山に到る。其所(そのところ)未見所(いまだみざるところ)なり。小兒に筆とらせて、魚津の奉行所へ書十二枚を送る。」

 其墨跡甚だ怪し。文字皆讀むべからず。公儀へ上(あぐ)る所、

「先(まづ)其地役人(ぢやくにん)に預り置(おく)べし」

とて、其書魚津の雉仄(ちそく)といふ人の許にあり。

 其書(そのしよ)昔(むかし)貉(むじな)の書(かき)ける風(ふう)とは大いに替り、明人(みんじん)の筆意に似たり。字皆讀み易きに似て又あやし。其十二枚、前後を定むること能はず。近鄕の文字に好(す)ける者ども、色々となして點を加ふ。其中(そのうち)『若(も)しや左(さ)も』と思ふ物を取りて左に記す。後年若し應(わう)あらば、彌々(いよいよ)奇ならん。語(ご)猶(なほ)考ふべき人の爲に文字の形に記す。四字づゝにて、上下はいづれとも置きて試み給へ。この點も先の文章も、文字は其儘なり。文中四十紙は十四紙成(なる)べし。十二枚は本紙、一紙は副狀(そへじやう)、一紙は上包紙(うはづつみがみ)なり。

  董御痛入 勸悌盛禮 故喜勒大 御懇切也

  蜀者入守 非重大守 宿醉委曲 饗應持賞

  湘泉多圭 寧成珍華 北走美共 分局者振

 

[やぶちゃん注:「油衣」は防水のために荏油(えのあぶら/えのゆ:シソ目シソ科シソ属エゴマ Perilla frutescens)を塗った和紙を指し、それで作ったものは極めて上質の合羽(かっぱ)として大名などが着用した。読みは推定で「あぶらごろも」かも知れない。

「化人」仏・菩薩が衆生を救うために仮に人の姿となって現れたもののこと。

「用天因地」時と場合によって臨機応変に対応することか。

「喬如幾布」人の名と思われるが、不詳。読みも不詳。一応、「きょうじょきふ」(現代仮名遣)と音読みしておく。

「明和元年」一七六四年だが、春の内は未だ宝暦十四年で、六月二日(グレゴリオ暦一七六四年六月三十日に改元された。

「雉仄」不詳。如何にも俳号っぽい。

「貉(むじな)」ここは「狸」の意に代えてよい。いやいや、「化狸」だ。

「其十二枚、前後を定むること能はず」というのだから、以下の十二の文字列はランダムに並べたもので並び順さえ分からないというのである。

「文字に好(す)ける者ども」古文書や石碑の判読を好む者。

「色々となして點を加ふ」ああでもない、こうでもないと、しゃかりきになって判読しては勝手な並び順にして自分勝手な訓点を打っては、さまざまな訓読や解釈がなされてはいる。

「應あらば」何らかの信用出来る語順や読み方が提示されたならば。

「この點」この十二点の四字漢字の文字列群の意。今も使う並べた物を数える数詞。さても私もこれら十二点の四字漢字の文字列群の解読は不能である。どなたか挑戦されては、如何?]

三州奇談卷之五 異獸似ㇾ鬼

 

    異獸似ㇾ鬼

 此話の序に語るを聞けり。

……此狒々は能く風雲を起し、此中を飛行(ひぎやう)す。又能く人を投ちらし、引裂き捨つ。

[やぶちゃん注:完全に前話の「黑部の水源」の続編(狒々でダイレクトに続き、筆者が聴き取る話者も同一人)として書かれた本書中の特異点である。その語りの連続性を出すために頭に特異的にリーダを打った。表題は「異獸、鬼に似る」と訓じておく。]

 今日の衆の中、伊折(いをり)村源助と云ふ者は、伐木の徒の雇(やとひ)の中にて頭立(かしらだち)たる者なり。多力にしてよく走り、一日(いちじつ)二三人の友を得て山を獵し、獸を煮て喰はんとて山に入ることありしが、一日(いちにち)の中に猿・狸の類を七十餘疋を取り、皆(みな)刀を用ひず、拳(こぶし)を以て打殺す。かばかりの剛氣者なり。

[やぶちゃん注:「伊折村」富山県中新川郡上市町伊折(グーグル・マップ・データ)。先の注で出した剱岳の登山拠点である馬場島(ばんばじま)がある。早月川流域では最も山奥にある集落であるが、現在、世帯数はゼロである。]

 同村作兵衞と云ふ者、是も又伐木の雇人なり。井戶菊の谷といふ所へ初めて入る時に、彼(か)の風雲起り入ること能はず。人を投ちらすこと多し。人々先づ返り去る。此作兵衞、少し氣弱き者にやありけん、獸の氣にうたれて忽ち氣を失ふ。獸の氣彌增(いやま)して作兵衞を空中に摑みて引上げ、腕を取りて引裂かんず[やぶちゃん注:「むとす」の略縮形。]氣色なり。足既に地を離れ、兩手左右へ延ぶ。此時、諸木を伐る者[やぶちゃん注:国書刊行会本では『此時(このとき)、日暮にかゝりし故、もろもろの木を切(きる)者』。]、皆次の谷へ去りて知らず。源助は作兵衞が遲きを怪しみ立歸りしが、此體(このてい)をみて走來り、飛び上りて作兵衞が兩脚を摑みて引下(ひきおろ)すに、空中に襟髮(ゑりがみ)を喰(く)はへたりと見えて中々放たず。只磐石(ばんじやく)を引下すに異(こと)ならず。作兵衞は心魂脫けて生氣なきが如く、口より血を吐く事夥し。

[やぶちゃん注:「井戶菊の谷」国書刊行会本では『井戸菊水谷』となっている。国土地理院図を見ると、番場島へ南東から下る立山川の作る渓谷(早月尾根の南西直下)に「菊石」という地名を現認出来る。劔岳下方の最深部のトバ口で、この付近と考えてよかろうと思う。グーグル・マップ・データ航空写真でみると、この付近。]

 源助、下にありて大いに怒りて、

「此上の大畜生、おのれらに此作兵衞を渡すべしや。我今におのれらを一々に摑み殺さん。速(すみや)かに作兵衞を返して去るべし。」

 空中猶放たず。

 源助大聲を上げ詈(ののし)り叫びて曰く、

「我を知らずして汝等此山に住むことを欲するや。おのれを引下して微塵となさん。此分(このぶん)に守るならば、百年といへども、我は捨去らんや。此腕汝が息の根を留(とむ)るに足れり。」

[やぶちゃん注:源助の台詞の中間部「此分に守るならば、百年といへども、我は捨去らんや」がよく意味が判らない。「この状態をそのまま変えない――作兵衛を空中へ引き上げようとしていること、ひいては、山に入る人を害し続けること――とならば、たとえ百年経っても、俺は貴様(妖獣狒々)を見逃すことは決してねえから、覚えとけ!」といった意で採っておく。この辺り、浄瑠璃の義太夫節の荒事の言上げを聴くようで、すこぶる面白い。]

 されども空中猶放たず。

 此時日暮れて、同村の者共谷を隔てゝ皆知らず。[やぶちゃん注:国書刊行会本では、ここは、『……知(しら)ず、終(つひ)に半夜にいたる。彼(かの)絶壁の道なれば、夜中又歩むべからず。』とある。]源助は歸る心半點(はんてん)もなし。

[やぶちゃん注:「源助は歸る心半點もなし」「源助には作兵衛をこのまま見棄てて帰る気持ちは微塵もしなかった」の謂いであろう。]

 子の刻許りに至りて、作兵衞が目・口より血ながるゝ事隙(ひま)もなし。故に源助が一身血に染る。源助猶放たず。

 寅の刻[やぶちゃん注:午前四時。]許りに至りて怪獸去りしと覺えて、作兵衞下に落ち、源助が背中に打覆(うちおほ)ふ。

[やぶちゃん注:「打覆ふ」幸いにして枝垂れかかって背中を覆うように上手く源助のところに落ちてきたのである。]

 源助、作兵衞を呼びつけ、力を盡し守りて夜を明かす。

[やぶちゃん注:「呼びつけ」国書刊行会本では『呼生(よびい)け』で、その方が「魂呼ぶい」で、民俗社会にあっては、より正確でリアルである。]

 既に日(ひ)出でしかば、谷を隔(へだて)たる者共皆來る。

 作兵衞を介抱するに、生氣猶あり。水を飮ませ食を與へ、山小屋に折伏させて寢さす。

 五六日にして本腹す。

 源助は其日猶休まず、直(すぐ)に其谷に入りて、一番に巨樹を伐るに、又怪しみなし。

 猶源助も我に咄せり。

「是(これ)ら天狗にも山神にも非ず、皆獸共の業(わざ)なり。其中に蛇怪あり、是は又恐るべし。故に山刀(やまがたな)を背中に放たず。山刀脊中にあれば、蟒蛇(うはばみ)の飮むといふことなし。刀の類(たぐひ)なければ、四五日の内には其人必ず行く所を失す。

 此仲間に駄兵衞といふ者は、我等が中にも必(かならず)强き者なりしが、

『山刀を邪魔なり』

とて指(さ)さず。人々多く勸めてさゝせども、良(やや)もすればさゝず。或時久しく山刀をさゝぬ事ありしが、一月(ひとつき)許りは替ることなかりしが、或日しかも晝九つ時[やぶちゃん注:定時法・不定時法ともに正午。]頃の事なり。

『蛇の追ふよ』

と覺へて聲を上げて逃げ廻る。何れも皆、聲に驚き出で見るに見えず。纔(わづか)の水を隔てゝ向ひの岸を逃廻る。是を追ふ蛇を見るに見えず。只霧の如きもの隨(したが)ひつき、臭き香のすること甚だしく、風色々に吹廻す。不幸なるかな駄兵衞路(みち)を失して木に登る。樹に登るときは狼は甚だ避(さけ)得べし。蟒蛇はもと樹を我ものにすれば、

『忽ち樹にのぼるよ』

と覺えて、駄兵衞聲を連ねて大に叫び、

『梢より飛ぶよ』

と見えしが、落(おち)しもたてず、中(ちゆう)にて一吞(ひとのみ)にしたりと見えて、逆樣にまりて消失(きえうせ)ぬ。蟒蛇、寂として又見へず。只

『白霧の中にありし』

と覺えて、三尺四方許りの一かたまりの白光(しろびか)りなるもの、飛行(ひぎやう)する樣には覺えたり。是(おれ)蟒蛇の怪なり。氣を以て追ふにや。其全身の見ゆることなし。何としても敵(てき)し難し。故に山刀は暫くも放つことなし。

 其餘の山中の變、夜は來りて小屋を押動(おしうごか)すの類(たぐひ)は、皆古獸(こじう)の業(わざ)なり。是らの類(たぐひ)何の恐るべきことなし。只春日(はるひ)暖かにして獨活(うど)の生ひ出(いづ)る時は、我らが樂しみ各(おのおの)の都(みやこ)に遊び給ふよりも增(まさ)れり。一年(ひととせ)もし皆(みな)獨活あるものならば、我らが商業の如くよき物は、天下にはあらじと思ふ」

とは云ひき。

 其食とてあたふる所の物を聞くに、

「米と味噌」

のみなり。

 かゝる山中に入りて生涯を送る。而して此詞あり。是又人間の一異怪のみ。

[やぶちゃん注:いやいや! そういうコーダときたか! 参ったわ!

「獨活(うど)」セリ目ウコギ科タラノキ属ウド Aralia cordata。若葉・蕾・芽・茎の部分が食用になり、香りもよい。蕾や茎は初夏五~六月と採取出来る期間が短いが、若葉はある程度長期間に渡って採取することが可能である。私も好物だ。参照したウィキの「ウド」によれば、『根茎を独活(どくかつ)と称し』、『独活葛根湯などの各種漢方処方に配剤されるほか、根も和羌活として薬用にされる』。『秋に根を掘り取って輪切りにし天日干ししたものを用いて、煎じて服用すると、体を温めるとともに頭痛や顔のむくみに効用があるとされる』。『また、アイヌ民族はウドを「チマ・キナ」(かさぶたの草)と呼び、根をすり潰したものを打ち身の湿布薬に用いていた。アイヌにとってウドはあくまでも薬草であり、茎や葉が食用になることは知られていなかった』とある。

「其食とてあたふる所の物を聞くに」その者に山中で暮らすに必要とする所の食物は何かと訊ねたところが。]

2020/04/28

三州奇談卷之五 黑部の水源

 

     黑部の水源

 黑部川は水上一つにして、裾甚だ支流となる。里俗四十八ヶ瀨と云ふ。此川の奧測るべからず。甚しく探せば越後へ入る。思ふに黑姬山の水なり。越後は大國にして、しかも高山多し。其第一なるものは、妙高山・黑姬山なり。此二山は根もと一つにして、妙高山は高き事諸山能く及ぶ事なし。此嶺は鬼の會合する所にして、其地いづく迄連(つらな)れること測るべからず。一方は信州善光寺の上の山にして、後ろは又北陸道の親不知の上の山となる。卽ち是より此谷を出る水を姬川と云ひ、糸魚川の傍(かたはら)なり。然るに越中の地に來りても、猶此山の嶺續きにや、土人

「越中の黑姬山なり」

と敎ゆ。是終に一山なり。黑部川も其山より出づる水なり。もと黑姬川と云ふべきを、黑部川と云ふ事は、この三ヶ國の方言、「姬」を指して「べ」と云ふ。俗言爰(ここ)に起るか。爰を以て見れば、黑部は黑姬なり。

[やぶちゃん注:「黑部川」「川の名前を調べる地図」で示す。本流はこれ水系はこれウィキの「黒部川」によれば、総延長は八十五キロメートルで、『富山県と長野県の境、北アルプスの鷲羽岳(わしばだけ)に源を発し』(水源の標高は2,924 m)、『おおむね北へと流れる。川全体の8割は深い山地を穿ちながら流れ、黒部峡谷と呼ばれる。黒部峡谷中にはそのV字谷に混じって雲ノ平、高天原、薬師見平、タンボ平、内蔵助平、餓鬼ノ田圃といった平坦地が点在する。黒部市宇奈月町愛本橋付近で山地を抜け、広さ1.2haの黒部川扇状地』『を流れる。この扇状地は黒部市、入善町にかけて広がり、その地形は海中にまで広がっている。黒部川の豊富な水量でこの扇状地は湧き水が多く、黒部川扇状地湧水群として名水百選のひとつにも選ばれている。本流は河口付近では黒部市と入善町の境界となり、日本海へと注ぐ』とある。

「思ふに黑姬山の水なり」黒姫山は長野県上水内(かみみのうち)郡信濃町(しなのまち)にある標高2,053 メートルの成層火山の独立峰。長野県北信地方の主に長野盆地から望める北信五岳(妙高山・斑尾山・黒姫山・戸隠山・飯縄山)の一つとして古くから信仰の対象とされてきた。しかし……麦水、何を勘違いしている? 黒姫山は飛騨山脈の白馬連峰を越えた遙かなここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)だぜ? 全然、明後日の方向だよ~ん?

「妙高山」新潟県妙高市にある標高2,454mの成層火山。黒姫山の約九・五キロメートル北北西の直近。ウィキの「妙高山」によれば、『北部フォッサマグナの糸魚川静岡構造線のすぐ東側に位置し』、『黒姫山、飯縄山、斑尾山、新潟焼山と共に妙高火山群をな』す。『山体崩壊する以前の山頂は標高2,800 - 2,900m程度であったと推測され』、『単純なひとつの成層火山では無く、4つの独立した成層火山が積み重なっている多世代火山である』とある。また、古くは「越の中山(こしのなかやま)」と呼ばれていたが、所謂、「好字二字令(こうじにじれい)」で「名香山」(なかやま)とまず当て字され、それが「みょうこうざん」と読まれるようになり、「妙高山」の字がさらに宛てられたものである。「好字二字令」とは飛鳥・奈良の時代から朝廷が唐の制度や文化を積極的に取り入れたが、地名についても唐や朝鮮と同様に縁起の良い二字の漢字で表記することを推進、奈良初期の和銅六(七一三)年に出された法令「畿内七道諸國郡鄕着好字」に代表されるような国家による二字漢字表記への変換政策が採られたのである。

「一方は州善光寺の上の山にして、後ろは又北陸道の親不知の上の山」この一方は二峰全体の「一方」=南に善光寺、「後ろ」のそちら=南の陸の果ては「親不知の上の山」となるという意味。但し、親不知は寧ろ、一本南の飛騨山脈の端というべきだろう。……あれ?……おや?……親不知の直上の、こんなところに、別な黒姫山があるぞ!!

「姬川」「川の名前を調べる地図」で示す。長野県北安曇郡及び新潟県糸魚川市を流れ、日本海に注ぐ姫川である。水源は正しくは長野県北安曇郡白馬村の親海湿原の湧水である。

「越中の黑姬山なり」これこそ石灰岩の露天掘りで山容が変形してしまった糸魚川市の方の黒姫山(標高1,221m)と勘違いしてんじゃないの? 麦水さん!?!

「是終に一山なり」違います!

「黑部川も其山より出づる水」じゃありません!!

『もと黑姬川と云ふべきを、黑部川と云ふ事は、この三ヶ國の方言、「姬」を指して「べ」と云ふ。俗言爰(ここ)に起るか』私は富山に六年間いたが、「姫」のことを「べ」と呼称するというのは体験にない。「言海」にも小学館「日本国語大辞典」にもそのような方言としての「べ」は載らない。促音を伴って親愛の情を込める接尾語に「次郎っぺ」などの用法はあるが、これは「姫」の意ではないし、方言でもない。石川・富山・新潟と姫と「べ」で複数のフレーズで検索したが、それらしいものは見当たらない。記紀の女神の接尾辞である「ひめ」は「びめ」とも濁るケースはあるが、それが「べ」と変じたケースは聴かない。但し、訛り方によっては「びめ」は「べ」に転じないこともないかも知れない。しかし、そうした複数の事例が示されない限りは、これも安易にあり得るとは言えず、到底、「爰を以て見れば、黑部は黑姬なり」などとは口が裂けても言えない。なお、ウィキの「黒部川」の「名称の由来」によれば、大まかに三説あり、①『このあたりは古くはアイヌ民族の祖先の一部が住んでおり、縄文語(後のアイヌ語と類似)の「クンネ・ペッ」(kunne-pet、黒い川)という言葉が変化したものという説』、②『同じくアイヌ語の「クル・ペッ」(kur-pet、魔の川)という言葉が変化したものという説』、③『黒部の山奥にはネズコと呼ばれる木が生えており、それの別名は黒檜(クロヒ・クロベ)と言われていたためという説がある』そうである。]

 近事杉の材木を伐出(きいだ)す。多くは此黑部川又片貝川に流れ出づ。

[やぶちゃん注:「片貝川」黒部川の南、主に魚津市を流れる(黒部川とは河口で6.6キロ、中上流でも97キロほどで尾根を隔てて並走する)。ここ(国土地理院図)。富山県魚津市の南東にある毛勝三山の猫又山(標高2,378m)に源を発し(黒部川の中流の南から西)、東又谷・南又谷・別又谷の水を集め、北西に流れ、下流で布施川と合流して富山湾へ注ぐ。河口は魚津市と黒部市の境界。水源となる2,000m級の山々からわずか27kmほどで海に流れ込む日本屈指の急流(平均勾配8.5%)の一つ。名は「片峡」(かたかい)、片側だけの峡谷という意味からなるとされる。]

 此木を伐りの人語りしは、

「川道岨(そば)の絕壁甚だ過ぎ難し。立山の室堂(むらだう)迄六里、雪中といへども常に過ぐ。絕壁雪に埋(うず)んで寒中は立山登りよし。故に室堂に泊る日を一の上宿(じやうやど)とすと云ふ。其餘の艱難(かんなん)察すべし。凡そ切樹の谷迄は二十里に及ぶ。多くは斷岸の、一步石を辷る時は千仭の底に落つる故に、通例の人は行到るべからず。强ひて用有りて行く人には、繩を以て結はへて、前後三十人許連ねて後(のち)進むべし。深淵の上を過ぐる所などは、目眩(くら)めき股(もも)震ひ、正しく立つ者は稀なり。滑川(なめりかは)河瀨屋何某、此伐木のことを司(つかさど)る。故に我そこにありて、よく伐木の事を聞けり。山怪多は獸に依ることを聞き得たり。常に言ふ、先(まづ)一(ひとつ)山向ひて初めて斧を入るゝ時は、俄に山谷鳴動して風雲忽ちに起り、又怪しき風吹落(ふきお)ちてすさまじ。然共、斧を揃へて切入(きりい)れば、此風雲止む谷もあり。又剛(つよ)き獸の居る谷は、風雲の起るのみか、人を取つて空中を投出(なげいだ)し、木を登る人を摑みて大地へ投下(なげおろ)し、甚だしく防ぎて谷へ入れず。此時は、其人數(にんず)の中(うち)、頭(かしら)立ちたる者十露盤(そろばん)[やぶちゃん注:算盤(そろばん)。]を以て此谷に向ひ、

『今年每に金何百兩を公納とす、山を切出(きりいだ)す人夫の雜用是々なり。若し此谷を切ずして、此公用濟むべき道やある。此谷を切盡しても猶足らざることかくかく』

と、大いに十露盤を鳴らし利害を說けば、其夜愁々として聲あり、風の初めて起るが如く、雨のしぐれて來るが如く、曉に至りて寂然たり。其翌日、斧を入るゝに、何の別條なし。凡そ山谷(さんこく)風を起し雲を起すは、皆古獸(こじう)のなす所なり。神靈・山神(やまのかみ)には非ず、狒々(ひひ)と云ふ。」

「狒々は猿に似て能く笑ふ。口びるそりて人の血を吸ふと聞く。」

是を以て尋ぬるに、皆合はず。此人の云ふ狒々はさるものにあらず。

「只狸(たぬき)に似て大なり。熊に似て黑からず。風雲を起すを以て見れば、虎の氣(き)あるものにや。曾て聞、去年正月【寶曆十四年の事なり。】松倉村の者、座主坊(ざしゆうばう)【里俗「座(ざ)すん坊(ばう)」と云ふ。】と云ふ所にて此狒々を捕へぬ。毛色茶にして斑紋あり。毛甚だ長く、尾(を)又(また)長うして身と等し。殺して長さを量るに一丈七尺あり。只風雲を覆ふが如き勢(いきほひ)あり。其頃繪に寫して其邊を賣り步行(あり)きしことあり、此ものなり。輙(たやす)くは殺すこと能はず。早くして電(いなづま)の如し」

と語りぬ。

[やぶちゃん注:「川道岨(そば)」川沿いの断崖。この場合は、表題に従うなら、黒部川に戻って、その上流となるが、しかし、黒部川沿いに室堂となると、上流から回り込んで、現在の雲切新道、或いはその先の現在の下廊下(しものろうか)から西に剱沢を詰める過酷なルートしか考えられない。しかしそれでは恐らく初日のアプローチで室堂には到底つけないし、黒部下流から測定すると「六里」どころか、八里は有にある。さすれば、この「川道岨」を「片側が崖になっている」という意で捉えて、後者の片貝川沿いだと考えると、水源である猫又山まで詰めてから、尾根伝いにブラクラ谷を下って馬場島(ばんばじま)に下り、そこから早月尾根を登って劔岳の直下を過ぎ、南西に室堂へ下ればよい(このコースの南半分は私も一度やっている)。このコースなら一日かければ室堂に着けるし、片貝川の下流付近から計測して「六里」は腑に落ちる距離である。サイト「YAMAKEI ONLINE」のこちらの地図でルートとコースが視認出来る。

「雪中といへども常に過ぐ」雪の季節であっても常にこのルートを採る。何故なら、寧ろ「絕壁」が「雪」で「埋んで」寧ろ「寒中」の方が「立山」は「登り」易いからだ、というのである。ここを伐採作業へ出発する際の基点としているらしい。

「切樹の谷迄は二十里に及ぶ」室堂を拠点にするとすれば、現在の黒部湖を挟んだ東西及びその黒部川の西南上流(現在の上廊下(かみのろうか))南北の谷辺りが目指す伐採樹林帯であったと考えてよかろう。

「滑川」富山県滑川市(グーグル・マップ・データ)。

「山へ向ひて初めて斧を入るゝ時は、俄に山谷鳴動して風雲忽ちに起り、又怪しき風吹落(ふきお)ちてすさまじ。然共、斧を揃へて切入れば、此風雲止む谷もあり」前者は各人がめいめい勝手に斧を入れると、必ずという条件であり、後者はそれぞれが各人の伐採しようとする木に対して、皆で一斉に合わせて斧を揮う時はという謂いであろう。

「十露盤」算盤(そろばん)。

「山神(やまのかみ)」狭義のそれではなく、広い意味の山にまします神・鬼神。

「狒々」中日の想像上の人型妖獣。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「狒狒(ひゝ)」には明の博物学者李時珍の「本草綱目」から以下のように引いている。 

   * 

「本綱」に、『狒狒は西南夷に出づ。狀、人のごとく、髮を被(かぶ)り、迅(とく)走りて人を食ふ。黑身、毛有り。人面にして、長き唇びる、反踵(はんしよう)。人を見れば、則ち、笑ふ。其の笑ふに、則ち、上唇、目を掩ふ。其の大なる者は、長(た)け、丈餘。宋、獠人(らうひと)、雌雄二頭を進む。其の面、人に似たりて、紅赤色。毛は獮猴に似て、尾、有り。人言を能(よ)くす。鳥の聲のごとし。善(よ)く生死を知り、力、千鈞(きん)[やぶちゃん注:「鈞」は目方の単位。1鈞=30 斤で、明代の1斤≒596.8gであるから、実に約17.9t!]を負ふ。踵(きびす)を反(そ)らし、膝無く、睡むる時は、則ち、物に倚(よ)りかゝる。人を獲り、則ち、先づ笑ひて、後、之を食ふ。獵人、因つて、竹筒を以つて臂を貫き、之れを誘ひて、其の笑ふ時を候(うか)がひ、手を抽(ひ)きいだし、錐(きり)を以つて其の唇を釘(う)つ。額に著け、死を候(うか)がひて、之れを取る。髮、極めて長し。頭髮(かもじ)に爲(つく)るべし。血は、靴及び緋を染むるに堪へたり。之を飮めば、人をして鬼を見せしむ。帝、乃ち工に命じて之を圖す。

   *

とある。図もあるので見られたい。また、私の訳注「耳囊 卷之九 奇頭の事」の私の注「狒猅」(ひひ)も参照されたい。 後にその正真の捕獲された形態が記されるが、実在を肯定する余地はおろか、モデルを考える気も起らぬ。なお、ここでは以下の「皆合はず」とか「此人の云ふ」が話し手の台詞のままではおかしな言い回しになるので、「狒々は猿に似て能く笑ふ。口びるそりて人の血を吸ふと聞く。」を筆者麦水の問いかけのブレイクとして入れ、「是を以て尋ぬるに、狒々はさるものにあらず」を地の文とした。

「寶曆十四年」一七六四年。

「松倉村」現在の当該地名は富山県中新川郡立山町松倉(グーグル・マップ・データ)。

「座主坊【里俗「座すん坊」と云ふ。】」現在は松倉地区の西南に立山町座主坊(ざしゅうぼう)(グーグル・マップ・データ)と独立してある。

「毛甚だ長く、尾又長うして身と等し。殺して長さを量るに一丈七尺あり」「一丈七尺」は5.15m。国書刊行会本では『毛甚(はなは)だ長く、尾又長ふして身とひとし。殺して長さをはかるに、長き事九尺、尾をのべて惣尺をはかるに一丈七尺となる』とある。「九尺」は272mで、尾と身が等しいは、まあ、誤差の範囲内である。

「風雲を覆ふが如き勢あり」たあ、どんなもんじゃい? その絵とやらを添えて欲しかったねぇ。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 嵐雪 一

 

     嵐  雪

         

 蕉門の高弟を談ずる者は、何人も先ず其角、嵐雪に指を屈する。後世の評価がそうなっているばかりではない。当時の相場もやはり同様であったらしい模様である。だから其角を書いた以上は嵐雪を書かなければならぬというわけもないが、ついでを以て少しく観察を試みることにしたい。

[やぶちゃん注:服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)本名は初め孫之丞、次いで彦兵衛と改めた。治助は名乗り。別号に嵐亭治助・雪中庵など。服部家は淡路出身の下級武士で、嵐雪は江戸湯島生まれ。元服後の凡そ三十年間は転々と主を替えながら、武家奉公を続けた。芭蕉への入門は延宝三(一六七五)年頃で、元禄元(一六八八)年一月には仕官をやめ、宗匠として立机、宝井其角(五歳年下)とともに江戸蕉門の重鎮となった。前章冒頭で宵曲が述べた通り、芭蕉は同五年三月三日、其角と嵐雪を、

 兩の手に桃と櫻や草の餅

と称えてはいるが、嵐雪は、芭蕉が晩年に説いた「軽(かる)み」の風体に共鳴せず、晩年の芭蕉とは殆んど一座していない。但し、師の訃報に接し、西上して義仲寺の墓前に跪き、一周忌には『芭蕉一周忌』を編んで追悼の意を表わすなど、師に対する敬慕の念は厚かった。青壮年期に放蕩生活を送り、最初は湯女を、後には遊女を妻としたが、晩年は俳諧に対して不即不離の態度を保ちつつ、専ら禅を修めたことからも窺われるように、内省的な人柄であり、それが句にも表われ、質実な作品が多い。嵐雪の門からは優れた俳人が輩出し、中でも大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)の時代になって嵐雪系(雪門)の勢力は著しく増大した(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 嵐雪はいろいろな意味において、其角と相似た径路を辿(たど)っているというべきであろう。蕉門に入る順序からいっても、其角におくるること数年に過ぎず、共に『延宝二十歌仙』に加わっているのを手はじめに、蕉門俳諧発達の過程たる『武蔵曲(むさしぶり)』『虚栗(みなしぐり)』『続虚栗』等の諸集、いずれも相率いて員に備っている。蕉門初期以来の作家としては、なお他に杉風(さんぷう)、嵐蘭(らんらん)その他の名を算え得るが、其角、嵐雪はその間にあって自ら重きをなしていたと見える。備前の兀峰(こっぽう)が「両の手に桃と桜や草の餅」の句を『桃の実』の巻首に置き、「かゝる翁の句にあへるは人々のほまれならずや」云々と附記したのも、二子の声望を羨んだのでなしに、むしろ当然の栄誉とした結果でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「延宝二十歌仙」正しくは「桃青門弟 独吟二十歌仙」。延宝八(一六八〇)年刊。

「武蔵曲」千春編。天和二(一六八二)年。

「虚栗」其角編。天和三年。

「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。

「員に備っている」「員(いん)に備(そな)わる」は「ある限定員数の人数の中に加わっている」ことを言う。

「杉風」杉山杉風(正保四(一六四七)年~享保一七(一七三二)年)。)、江戸日本橋小田原町の魚問屋杉山賢永の長男。家業は幕府御用を務めた富商で、屋号は鯉屋と称した。芭蕉のパトロン的存在で、多くの経済的援助や日常生活の世話をみている。門十哲の一人であるが、本書では採り上げられていない。元禄七(一六九四)年に芭蕉の発句「紫陽花や藪を小庭の別座舗」を巻頭にした、江戸蕉門の「軽み」の実践句を編んだ子珊編「別座鋪」の編集に協力したが、「軽み」を認めない嵐雪は「別座鋪」を批判、これによって嵐雪とは仲違いし、芭蕉没後、両派の対立は決定的となった。

「嵐蘭」松倉嵐蘭(正保四(一六四七)年~元禄六(一六九三)年)は芭蕉最古参の門人。名は盛教。板倉侯に仕えた三百石取りの武士であったが、晩年の元禄四(一六九一)年四十四歳の時には官を辞し、浅草に住んで俳諧一筋の生活に入った。延宝期(一六七三年~一六八一年)以来の蕉門俳人で(芭蕉が江戸で桃青を名乗って立机したのは延宝六(一六七八)年)、「桃青門弟独吟廿歌仙」以後諸書に入集、元禄五年に自ら判者となった句合せ「罌粟合(けしあわせ)」を刊行したが、翌年に没した。芭蕉は「悼嵐蘭詞」を書いて剛直清廉の士であったことを称し、これを悼んでいる(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「兀峰」桜井兀峯(寛文二(一六六二)年~享保七(一七二二)年)は近江生まれで、備前岡山藩士。旧姓は堀金、名は夫右衛門。元禄五(一六九二)年に江戸勤番となった折り、芭蕉に師事し、其角・服部嵐雪らと交わり、翌元禄六年、編著「桃の実」を出版した。]

 子規居士はかつて『日本人』に掲げた論文の中で、「高浜虚子は少にして碧梧桐と友たり、その郷里にあるも京都にあるも仙台にあるも学校を同うし学科を同うし下宿を同うす。その高等中学を退きて再び東京に来るもまた二人の共に謀り共に決行せし所なり。この間虚子は碧梧桐に誘はれて俳句を作る。その俳句もまた相似るなきを得んや。二人の句初よりやや似たる所あり。今日においてなほその然るを認む。しかしてその初に似たる所は必ずしも後に似たる所にあらざるなり。けだし初に似たるは虚子が碧梧桐を学びたる所少からず。後に似たるは共に琢磨し共に批評し共に進歩したるがためなり。しかれどもその相似たるは境遇を同うし修練をともにしたるの結果に外ならず。二人が天授の性質の相異は俳句の上にも相異なくして可ならんや」と述べたことがあった。今この説を藉り来って、直に元禄の其角、嵐雪の上に当嵌めようとするわけではない。ただ嵐雪が其角と同じく江戸に生活し、ややおくれて蕉門に入り、共に元禄俳諧の建設に与(あずか)った点からいえば、多少この説の如きものがありそうに思われる。

 嵐雪は宝永四年、其角と同じ年に五十四で亡くなった。其角より七歳の年長である。生前歿後にわたり比較的多くの門葉を有し、現にその形式的伝統を存すること、句集が殆ど同じ頃に旨原(しげん)の手によって刊行されたこと、菜窻荘丹(さいそうそうたん)なる者あってその句の撮解(さっかい)を作っていること、両者の相似点は本人の知らざる後代にまで及んでいる。その他小さな類似を算えたら、まだいくらも見つかることと思うが、其角、嵐雪が常に並称される所以のものは必ずしも両者相似の点にあるのではない。蕉門故参の弟子というためばかりでもなさそうである。他人の中に置けばよく似ているという兄弟でも、比較対照すると存外似ていないところの方が多い。其角、嵐雪の類似点を見るのも一の問題であり、相異点を見るのもまた一の問題であろう。

[やぶちゃん注:「旨原」小栗旨原(享保一〇(一七二五)年~安永七(一七七八)年)は江戸生まれで江戸座の清水超波の門人で、百万坊・伽羅庵などと号した。嵐雪の句を纏めた「玄峰集」や、其角の付句を集大成した「続五元集」などを編集している。句集に「風月集」(安永六年刊)。

「菜窻荘丹」鈴木荘丹(享保一七(一七三二)年~文化一二(一八一五)年)は江戸の商家の生まれで、名は伊良、俳号は菜窓・荘郎・能静・石菖など。門人二千人に及んだと伝えられる嵐雪門の雪中庵三世大島蓼太の高弟。和漢に通じ、蓼太も一目置くほどの人物であった。寛政年間(一七八九年~一八〇一年)初頭に与野(現在の埼玉県さいたま市内)へ移り住み、定住してからは、川田谷(桶川市)との間を往復する事が多くなり、中間地点の平方でも門人が多くおり、そこに滞在することも多かった、と「上尾(あげお)市」公式サイト内のこちらにあった。

「撮解」幾つかを選び取って解釈することか。能静荘丹述・菜牕菜英校(嵐雪門人)・西村源六板とある「嵐雪句解」(内題「嵐雪發句撮解」)(一冊)という文化三(一八〇六)年の版本を古本屋のサイトで現認出来た。これだろう。]

 『延宝二十歌仙』は単に独吟の歌仙を集めただけのものだから姑(しばら)く措(お)くとして、『武蔵曲』以下数種の書において両者の句を比較して見ると、『武蔵曲』は其角の七に対する嵐雪二、『虚栗』は其角の句四十を越ゆるに対し、嵐雪の句は二十に足らず、『続虚栗』に至っては其角の句六十に近く、嵐雪は僅に十三句を算うるに過ぎぬ。蕉門の句が平淡雅馴に帰した『曠野(あらの)』においても、其角の句十四、嵐雪の句三という勘定である。爾後『猿蓑』が二十五に対する四、『炭俵』が十五に対する十、『続猿蓑』が十三に対する三、いずれにおいても其角は全く嵐雪を圧倒している。このうち『虚栗』『続虚栗』の二集は、其角中心の撰集であるから、特に其角の句を収録することが多いので、嵐雪の撰集たる『其袋』を把って見れば、反対に嵐雪の句五十四、其角の句十七という数字を示している。これらは論外とすべきであろうが、そういう関係を離れた代表的撰集について見ても、両者の差は右の如く著しいのである。

[やぶちゃん注:「曠野」荷兮編。元禄二(一六八九)年刊。俳諧七部集の一つ。

「猿蓑」去来・凡兆編。芭蕉監修。元禄四(一六九一)年刊。俳諧七部集のみならず、蕉門の最高峰の句集とされる。

「炭俵」野坡・孤屋利牛編。元禄七(一六九四)年。俳諧七部集の一つ。

「続猿蓑」沾圃(せんぽ)撰。芭蕉・支考加筆。元禄一一(一六九八)年刊。俳諧七部集の掉尾。「炭俵」とともに、嵐雪の嫌った「軽み」を体現した撰集であるから、彼の句数が少ないのは当然と言えば当然。]

 けれども俳句はスポーツとは違う。単なる句数を以て優劣を争うわけには行かない。嵐雪の句が其角に比し、数において常に劣っているということは、直にその価値を決定する理由にはならぬであろう。ただここで注意したいのは『虚栗』や『続虚栗』における其角は、その集中においてめざましい活動を示しているのみならず、常に蕉門の主流に立っていることである。佶屈(きっくつ)なる漢語を縦横に駆使した「虚栗調」なるものは、談林の余習を脱して蕉門の新風を樹立する重要な過程であって、其角は実にその中心人物となっている。この場合における嵐雪は、所詮一箇のワキもしくはツレたる位置に甘んじなくてはなるまい。

 『虚栗』に一年先んじて出た『武蔵曲』は大体において『虚栗』と同傾向の句を集めたものであるが、その中に次のような嵐雪の句がある。

  信濃催馬楽

 君こずば寐粉にせんしなのゝ真そば初真そば 嵐雪

[やぶちゃん注:「催馬楽」は「さいばら」、「寐粉」は「ねこ」。「初真そば」は「はつまそば」。催馬楽は平安時代に隆盛した古代歌謡で、各地の古くから存在していた民謡や風俗歌に、外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡を指し、多くの場合は遊宴・祝宴・娯楽の唄い物として演ぜられた。語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などがあるが、定かではない。されば、この「信濃催馬楽」という前書は、信濃の古い唄があったとして、それを催馬楽にしてみようという趣向であろう。「寐粉」(ねこ)は各種の実用・食用の粉粒物にあって古くなって使えなくなった粉の謂いである。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、『もしあなたが来ないのなら、あなたのために大事にとっておいた信濃名物の』蕎麦『粉も、寝粉になって食べられなくなってしまうことになりますよ、と信濃催馬楽風の文句で問いかけた句である』とされる。長(なが)のご無沙汰の相手を誘う相聞歌である。]

 こういう調子は『虚栗』よりも、むしろ延宝末年に出た『田舎句合』(其角)『常盤屋句合(ときわやのかわせ)』(杉風)などに接続するものであろう。ただ十七字を全く破却しているにかかわらず、内容にも調子にも、両句合の如き自由奔放な点が乏しい。妙に整っている。鬼貫(おにつら)が自ら旋頭句(せどうく)と称した「烏帽子(えぼし)の顔ほのほのと何の花そもとしの花」の句などと相通ずる点があるかと思う。

[やぶちゃん注:「田舎句合」「いなかのくあわせ」と読む。延宝八(一六八〇)年序。延宝は九年まで。

「常盤屋句合」同八年跋。

「鬼貫」上島鬼貫(うえじまおにつら 万治四(一六六一)年~元文三(一七三八)年)は摂津伊丹(兵庫県)の有数の酒造業者上島宗次(屋号は油谷)の三男として生まれた。十三歳で松江重頼に入門し、次いで西山宗因に学んだ。禅の影響を受けた素朴な俳風を特色とした。小西来山の他、蕉門の各務支考や広瀬惟然らとも交わりがあり、「東の芭蕉、西の鬼貫」と並び称せられた元禄期の俳人。著作「独りごと」の「まことの外に俳諧なし」の名言で知られる。芭蕉より十七年下。

「旋頭句」記紀や「万葉集」にすでに見られる旋頭歌(五・七・七・五・七・七の六句を定型とする歌で片歌(かたうた)の唱和から起こったとされる)に倣って鬼貫が新たに発案した新句体で、七・五・七・五の四句を定型とするもの。

「烏帽子(えぼし)の顔ほのほのと何の花そもとしの花」享保三(一七一八)年の鬼貫五十八歳の歳旦吟。前書きがあり、濁音化してよく、

  試筆 人麿の尊像にむかひて
   旋頭句

 烏帽子(えぼし)の顔ほのぼのと何の花ぞもとしの花

である。この「ほのぼのと」は「古今和歌集」の「巻第九 羇旅歌」で「題しらず よみ人しらず」で載りながら、後書で「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」とする(四〇九番歌)、

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隱れゆく舟をしぞ思ふ

を意識したもので、「何の花ぞも」は同じく「古今和歌集」の「巻第十九 雑躰」の「旋頭歌」で「題しらず よみ人しらず」で巻頭に載る(一〇〇七番歌)、

 うちわたす遠方人(をちかたびと)にもの申すわれ  そのそこに白く咲けるはなにの花ぞも

に拠る。而して則ち、「其角 四」で見た通り、全体は「源氏物語」の「夕顔」のかのシークエンスで、光が随身に訊ねるその景を再現して興趣を添えたものに過ぎないことが判る。]

 『虚栗』の中について見てもそうである。

 とゝははやす女は声若しなつみ哥   嵐雪

[やぶちゃん注:「女」は「め」、「哥」は「うた」。]

 柳にはふかでおのれあらしの夕燕   同

  女にかはりて

 なれも恋猫に伽羅焼てうかれけり   同

[やぶちゃん注:「伽羅」は「きやら(きゃら)」、「焼て」は「たいて」であろう。]

 汐干くれて蠏が裾引なごりかな    同

[やぶちゃん注:「汐干」は「しほひ」、「蠏」は「蟹」と同字で「かに」、「裾引」は「すそひく」。]

 殿は狩ツ妾餅うる桜茶屋       同

[やぶちゃん注:「殿」は「との」。「狩ツ」は「かりつ」。「妾」は「めかけ」。]

 錦帳の鶉世を草の戸や郭公      同

[やぶちゃん注:「錦帳」は「きんちやう(きんちょう)」。「鶉」は「うづら」、「郭公」は「ほととぎす」。]

  時鳥の二声三声おとづれければ

 五月雨の端居古き平家ヲうなりけり  同

[やぶちゃん注:「時鳥」は「ほととぎす」。「五月雨」は「さみだれ」。「端居」は「はしゐ」。]

 山茱萸のかざしや重きふじ颪     同

[やぶちゃん注:「山茱萸」は「やまぐみ」。「ふじ颪」は「ふじおろし」。]

  竹婦はなれて抱よけれ共
  こと人やねたまん涼しく
  てひとりねんには

 汗に朽ば風すゝぐべし竹襦袢     同

[やぶちゃん注:「竹婦」は「ちくふ」。「抱よけれ共」は「だきよけれども」。「朽ば」は「くちば」、「竹襦袢」は「たけじゆばん(たけじゅばん)」。]

  梶の葉に小うたかくとて

 我や来ぬひと夜よし原天川      同

[やぶちゃん注:「来ぬ」は「きぬ」、「天川」は「あまのがは」。]

  定家

 舟炙るとま屋の秋の夕かな      同

[やぶちゃん注:「炙る」は「あぶる」。]

 松風の里は籾するしぐれかな     同

 はぜつるや水村山郭酒旗風      同

  十月ノ蟋

 きりぎりす鼠の巣にて鳴終リヌ    同

[やぶちゃん注:「蟋」は「きりぎりす」と読む。「鳴終リヌ」は「なきをはりぬ」。]

 軒の柊梅を探るにおぼつかなし    同

[やぶちゃん注:「柊」は「ひひらぎ(ひいらぎ)」。]

 神楽舟澪の灯の御火白くたけ     同

[やぶちゃん注:「かぐらぶね みをのあかりの ぎよか(ぎょか)しろくたけ」。]

後の句に比すればいずれも多少佶屈であり、生硬でもある。ただ『虚栗』の顕著なる特色と見るべき漢語癖はあまり甚しくない。勿論「十月ノ蟋」の『詩経』によっているが如き、「はぜつるや」の句が杜牧の「千里鶯啼緑映ㇾ紅。水村山廓酒旗風。南朝四百八十寺。多少楼台煙雨中」の一句をそのまま用いているが如き例はある。けれども杜牧の詩句は俳諧一流の転化が行われているために、他のいわゆる虚栗調の如く、漢語がさまで眼に入って来ない。同じく『虚栗』にある其角の「酒ノ瀑布(たき)冷麦の九天ヨリ落ルナラン」も、李白の「飛流直下三千丈。疑フラクハ銀河ルカト九天ヨリ」を俳諧化したものであるが、この方は『虚栗』的色彩が著しく感ぜられる。

[やぶちゃん注:「とゝははやす女は声若しなつみ哥」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、「とゝ」は『夫。一説に父』、「女」(め)は『妻。一説に娘』とし、『夫の囃子によって妻が菜摘歌をうたう。その妻の声が思わずはっとするほど若々しく花やいで聞こえるというのである。やや年の入った妻の声も明るい春の日ざしの中で、いかにも若やいで聞こえるというところに興がある』と評しておられる。

「柳にはふかでおのれあらしの夕燕」「柳にはふかで/おのれあらしの/夕燕(ゆふつばめ)」で、燕に呼びかける中七は面白いと思うが、同前で堀切氏は『柳には全く風が吹かないで』葉も枝も、一向、動かずに『いるのに、燕よ、お前はまるで嵐のような勢いで飛んでいることよ、といった意味であろう。柳の〝静〟に燕の激しい〝動〟を対比したところに着眼があるが、『虚栗』調らしくやや理にはまってしまっている』とされる。

「なれも恋猫に伽羅焼てうかれけり」意味としては、「戀猫」であろうが、「なれも戀(こひ)/猫に伽羅(きやら)燒(たい)て/うかれけり」と切って詠んでおく。「伽羅」は香木の一種(伽羅はサンスクリット語の「黒」の漢訳。一説には香気のすぐれたものは黒色であるということからこの名がつけられたともいう)で、別に催淫効果があるともされた。「女にかはりて」とあるから、「なれ」は好いた男への誘いの呼びかけであるが、「なれ」は「馴れ」を掛けてあって、『あんたもさんざん「戀」に「馴れ」たと思うておいでだったけれど、あたいが嗅がせた色香にやられて、すっかりさかりのついた牡猫と同じで、めろめろね』といった謂いか。

「汐干くれて蠏が裾引なごりかな」潮干狩りで一日遊び通して、もう、日が暮れた。さても帰ろう、と、あたかも蟹が「あら! もうお帰り?」と私の衣の裾を鋏で挟む、かのような、そんな名残を惜しみつつ帰るのであった――という意であろう。

「殿は狩ツ妾餅うる桜茶屋」堀切氏は前掲書で、『大名などの庭遊びのさまであろう。殿様は桜狩の方に熱中し、妾の方は』この桜の遊園のために特に呼び迎えて、しつらえさせた『茶店で餅を売っているのである。「殿」「桜」といった〝雅〟なるものに、「妾」「餅」といった〝俗〟なるものを対比したところにおかしみがある。一説には、「殿」は女の方からその関係ある男』(=殿方)『を呼ぶ称』で、『「妾」は卑下した女の自称であり、「山村の民の分れ分れ業[やぶちゃん注:「なりはひ(なりわい)」と訓じておく。]を営んで居るさまを、女の口から云ふ風に擬したものか」(寒川鼠骨『芭蕉十哲俳句評釈』に付記されや内藤鳴雪の解)とする』とある。しかし鳴雪のそれなら「メカケ」(「虚栗」のはかくルビがある)ではなく、「わらは」でないとおかしい気がするし、嵐雪なら前の句のように前書に「女にかはりて」と附すであろうとも思う。

「錦帳の鶉世を草の戸や郭公」堀切氏は前掲書で、「郭公」が季題で夏、「錦帳」は『ここ』で『は錦帳』(錦 (にしき) で織った垂れ布)『を用いた美しい』鳥『籠のこと』とされる。則ち、鶉(キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica)を飼っている籠なのである。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見て戴きたいが、そこでもウィキの「ウズラ」から引用したように、日本では古くから鳴き声を楽しむペットとして飼育されてきた。室町時代には既に籠を用いて本種を飼育されていたとされ、「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)に記載があり、『江戸時代には武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長』(一五九六年~一六一五年)『から寛永』(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)『をピークに大正時代まで行われた』。『一方で』、『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「御吉兆」などがあり、珍重されることもあった』とある。ダウン・ロード再生方式であるが、自然にいる独特のウズラの声を採った、「サントリー世界愛鳥基金」公式サイト内のウズラをリンクさせておく。堀切氏も『グワックルルル』と高くひびくその鳴き声がよろこばれ』、『江戸時代には各藩の「鳴き鶉」が競われ、金銀をちりばめた豪華な籠に入れて飼うことが流行した』。但し、『「鶉」そのものは秋の季語』であると語注されておられ、『きらびやかな鳥籠の中に飼われる鶉には所詮』、『自由がない。それにひきかえ、わびしい住処(すみか)に生息する郭公』(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)『は思うままにふるまって、好きなときに鳴くというのである。郭公の境涯には嵐雪自身の投影があろう。なお、「錦帳――、草の戸――」は白楽天の「蘭省の花の時の錦帳の下(もと)、廬山の雨の夜の草庵の中(うち)」(「廬山草堂雨独宿牛二李七庾三十二員外」)(『白氏文集』巻十七・『和漢朗詠集』巻下)をふまえたものである』とある。白居易の七律は以下。

 廬山草堂夜雨獨宿寄牛二李七庾三十二員外

丹霄攜手三君子

白髮垂頭一病翁

蘭省花時錦帳下

廬山雨夜草庵中

終身膠漆心應在

半路雲泥迹不同

唯有無生三昧觀

榮枯一照兩成空

  廬山草堂に、夜雨、獨り宿し、牛二(ぎうじ)・
  李七・庾(ゆ)三十二員外(いんがい)に寄す

 丹霄(たんせう)に手を攜(たづさ)ふ 三君子

 白髪 頭(かうべ)に垂る 一病翁

 蘭省(らんしやう)の花の時 錦帳の下(もと)

 廬山の雨の夜(よ) 草庵の中(うち)

 終身 膠漆(かうしつ) 心 應(まさ)に在るべし

 半路 雲泥 迹(あと) 同じからず

 唯(ただ) 無生三昧(むしやうざんまい)の觀 有り

 榮枯 一照(いつせう)にして 兩(ふた)つながら 空(くう)と成る 

江州司馬に左遷させられていた八一七年から翌年にかけて、作者四十六、七歳頃の作で、かの知られた七律「香爐峯下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」(香爐峰下、新たに山居を卜し、草堂初めて成り、偶(たまたま)東壁に題す」と同時期の作。廬山の草堂に雨の一夜の感懐を長安の旧友に寄せたもの。「員外」は「員外郎」の略で役職の一つ。「蘭省」は尚書省のこと。少府(皇帝の私的財産を扱う部署)に属し、上奏を取り扱った。本邦の太政官相当。「膠漆」膠(にかわ)と漆(うるし)。両者を混ぜると強靭な接着力を示す。そこから転じて変らぬ友情の喩えに用いる。水垣久氏のブログ「雁の玉梓―やまとうたblog―」の「白氏文集卷十七 廬山草堂、夜雨獨宿、寄牛二・李七・庾三十二員外」で語釈や現代語訳が読める。「和漢朗詠集」では。下巻の「山家(さんか)」の二条目にあり(古活字本で五五五番、通行本で五四五番。それぞれの末尾にある白居易を意味する「白」の前に「同」じの「同」は除去した)、

   *

蘭省(らんせい)の花の時の錦帳の下(もと) 廬山の雨の夜(よ)の草庵の中(うち) 白

 蘭省花時錦帳下 廬山雨夜草庵中

   *

「五月雨の端居」(はしゐ)「古き平家ヲうなりけり」無論、ホトトギスの声に興じて平曲を口ずさんだのは嵐雪自身である。堀切氏は前掲書で、『「時鳥」は黄泉の国からくる鳥ともいわれるので、そこから生者必滅の平家哀史を想ひ起したものか』とされる。「八洲学園大学」公式ブログの中田雅敏氏の「研究室便り」の「ホトトギスと郭公」によれば、

   《引用開始》

 このように明るい夏の鳥として好まれるホトトギスであるが、一方では「冥途の鳥」「魂迎えの鳥」などとも呼ばれ、あの世とこの世を行き来する鳥、死者の便りをもたらす鳥ともみなされている。江戸時代に日本各地を遊歴した菅江真澄は「はかない子供の物語」が多いとして、話を書き残している。

 ある日五、六歳の子供がホトトギスの鳴き声を聞いて「父へ母へ」と鳴いていると言ったので皆で笑ったが、間もなくその子は麻疹を患って亡くなった。その子はホトトギスの声であの世から「早く来い、早く来い」と父母を呼ぶ、ホトトギスは口から血の涙を流して呼ぶので、その子の父母は悲しみに耳をふさいだということがある。

 こうした民話からホトトギスは死者の魂、あの世からの死者の声を伝える鳥とされてきた。ホトトギスを便所で聞くと不吉で便座からあの世に呼び込まれるという言い伝えもある。

 弟が自分は芋の蔓ばかり食べながら、盲目の兄に芋のうまいところを食べされるのだが兄は弟が自分の盲目をよいことに、いいものうまいものばかり食べているのではないかと疑う。兄の疑いを知った弟が自分の腹を裂いて見せ、兄がその腹を調べると芋の蔓ばかり出てくる。兄は弟を死なせたことを後悔するうちにホトトギスの姿になり「弟恋し」「おとうと来たか」と鳴き続けているのだそうだ。

 この民話は青森から鹿児島まで広く伝承されている。「時鳥の兄弟」という小鳥前生譚である。

   《引用終了》

とある。私はホトトギスと冥界は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で引用で示した、中国古代の伝承である古蜀の王望帝杜宇が死んで霊魂となった話や(「杜宇」はホトトギスの別称でもある)、その霊が化身となったホトトギスは、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知って嘆き悲しみ、「不如歸去」(歸り去(ゆ)くにしかず:何よりも帰るのが一番いい)と鳴きながら、血を吐くまで鳴いた、だからホトトギスの口の中は赤いという伝承辺りが根っこにあるように思っている。

[やぶちゃん注:「時鳥」は「ほととぎす」。「五月雨」は「さみだれ」。「端居」は「はしゐ」。]

「山茱萸のかざしや重きふじ颪」「山茱萸」(やまぐみ)はミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis。「かざし」は「挿頭(かざし)」で上古の日本人が神事に際し、髪や冠に挿した草花のことで、「ふじ颪」は冬晴れの日に富士山から吹き下ろす寒く乾いた北寄りの空っ風のことととれるが、巷間の可憐な娘が山茱萸の赤い実(これ自体は秋の季題)の生った枝を折り取って、慰みに髪に挿しているところを嘱目した一句か。

「竹婦」竹夫人(ちくふじん)。籐(とう)や竹製の筒状の「抱き枕」の称。夏の暑い夜にこれを抱いたり、或いは腕や足をこれに乗せて寝ることで涼をとるもので、アジアに広く見られ、嘗ては本邦でも広く使われていた。夏の季題。

「竹婦はなれて」「竹婦は馴れて」。すっかりお気入りとなって。

「こと人」「異人」。別なある人。妻のこと。

「涼しくてひとりねんには」前の「ねたまん」で一回、切れている。妻が妬むと諧謔した上で、「涼しくてひとりねんには」「汗に朽(くち)ば風すゝぐべし竹襦袢(たけじゆばん)」と句に直接に続くのである。「竹襦袢」(「じゅばん」はポルトガル語の「肌着・シャツ」を意味する「gibão」(ジバゥン)に漢字を当てたもの) は汗が衣服にしみるのを防ぐために、シノダケやアシの類を薄く短く切って中に糸を通し、菱形などに編んで作った通気性がよく速乾性の肌ジュバンのこと。堀切氏は前掲書の本句の語注で『ひとりねんには』涼しくて『竹襦袢にしかじ、の意』とされ、句の通釈では、『汗にぐっしょり濡れたなら、水で洗う、までもなく、風に吹かせて乾かしておけば済(す)む竹襦袢(たけじゅばん)はなんとも気楽でいいものだ、という意である。「汗に朽ば」とか「風すゝぐべし」といった誇張したり、やや奇を衒』(てら)『ったような表現に特色がある』とされる。

「梶の葉に小うたかくとて」「梶」はバラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera。七夕にこの梶の葉に和歌を書いて手向けると願いが叶うとする風習が嘗てはあった。例えば、「後拾遺和歌集」(応徳三(一〇八六)年)のは上総乳母の一首(二四二番歌)、

  七月七日、梶の葉に書き付け侍りける

 天の川とわたる舟のかぢの葉に思ふ事ことをも書き付くるかな

がそれで、「梶」(かぢ)の音が舟の「楫」(かぢ)に音通することから、天の川に届くと信じられたようである。

「我や来ぬひと夜よし原天川」堀切氏は前掲書で、『天の川の冴えわたる七夕の夜、天上の二星と同じように、私も紋日』(もんび:花柳界用語で「物日(ものび)」の転。官許の遊郭で五節句などの特に定めた日を指す。この日遊女は客をとらねばならず、客も揚げ代を割増してはずむ習慣であった。普通は正月三ヶ日及び各種の一般祭日、月の朔日(ついたち)や十五日・晦日(つごもり)等が紋日に当てられたが、但しそれらの紋日には大・中・小の別があつて、花代の割増にも差などがあった)『で賑わう吉原にやって来て、一夜の逢う瀬を楽しむことになった、まことに結構な晩である、といったところであろう。若き日の嵐雪の放縦な享楽生活の一端を示しているが、名高い古歌二首の句調を巧みにふまえた洒落風の句でもある。『虚栗』所収歌仙の発句として詠まれたものであり、脇は其角の「名とりの衣のおもて見よ葛」であった』と通釈されている(ただ、この其角の脇の意味がよく判らない。まず、浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の「葛の葉子別れ」の段の和歌「戀しくば尋ね來て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」を裁ち入れたものではあろう。だから「うらみ」をひっくり返して「おもて見よ」となったのだ。さらに「葛」と「おもて見よ」とあるからには、襲(かさね)の色目と関係があるとするなら、「葛」は通年の襲の名でもあり、それは表が「青」(本邦のそれは濃い紺)で裏は「淡青」(同前で薄緑)を指すが、夏の襲で表が「青」いのは虫襖(むしあお)で表が青、裏が二藍である。何に転じて芸事の「名取」と出したかが判然とせぬのでそこから先が私の中では進まない)。堀切氏は『其角は青楼の遊女にでも墨をすらせて書いたのであろう』とされる。なお、ここで堀切氏が言っている『名高い古歌二首』というのは語注に従うと、上五「我や來ぬ」が、「伊勢物語」の六十九段及び「古今和歌集」の「巻第十三 恋」の「読み人知らず」で出る(六四五番歌。そちらのみ示す)、

  業平朝臣の伊勢國にまかりたりけるとき、
  齋宮なりける人にいとみそかに逢ひて、
  又の朝(あした)に、人やるすべなくて
  思ひ居りける間(あひだ)に、女のもと
  より遣(お)こせたりける

 君や來し我やゆきけん思ほえず夢か現(うつつ)か寢てかさめてか

に拠るもので(但し、「伊勢物語」では逢ったものの、何も語り合わぬうちに女は帰ってしまってこの歌を贈ってくるのだが、こちらの前書は斎宮に密かに逢った女に後朝(きぬぎぬ)の文を渡すすべがなく悩んでいる所に、その女がよこした歌という流れでシチュエーションに微妙な異同がある)、今一つは、中七の頭の「ひと夜よし原」のところで、「夜よし」と「吉原」が掛詞になっているが、ここは同じく「古今和歌集」の「巻十四 恋」の「読み人知らず」の一首(六九二番歌)、

 月夜よし夜(よ)よしと人に告げやらばこてふに似たり待たずしもあらず

を踏まえるとする。「こてふに」はこの「來(こ)」は「來(こ)よ」の意であって、「てふ」は「といふ」の略であるから「來(こ)といふに」(「いらして下さい」と言いかけるのに)の意である。また、堀切氏は「天川」に語注され、これも「伊勢物語」の第八十二段の所謂、惟喬親王の水無瀬の〈渚の院〉訪問の際の、

 狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の川原に我は來にけり

を踏まえたものかとされる。「たなばたつめ」は織女星。「天の川」には地名の水無瀬と御殿の呼び名「渚の院」が掛けてある。]

 「舟灸る」の句はいわゆる三夕の歌の一、「見わたせば花も紅葉も無かりけり浦のとまやの秋の夕暮」の俳諧化である。宗因の「秋はこの法師すがたの夕かな」(西行)、其角の「和歌の骨(こつ)槙(まき)たつ山の夕かな」(寂蓮)と併せて三夕を成すのであるが、宗因は西行その人に即(つ)き過ぎて、鴫立沢(しぎたつさわ)の歌とは殆ど相関するところがない。其角は「和歌の骨(こつ)」という妙なところに力を入れたため、肝腎の「槙立つ山の秋の夕暮」は一向眼に浮んで来ない。ひとり嵐雪は不即不離の間に立って、定家の歌以外の景致を展開している。「舟灸る」の五字は、それによって浦の景色たることを現すと同時に、蕭条たる秋暮の浜辺に火を焚いて舟を灸る様がよく現れている。この句は固より三夕の歌を背景として存在すべきものであるが、強いて奇を弄せず、一幅の画景雲を点出している点においては、この場合嵐雪を推さなければならぬ。

[やぶちゃん注:「三夕の歌」知られた「新古今和歌集」に載る以下(三六一~三六三番歌)。

  第知らず

 さびしさはその色としもなかりけり

    槇立つ山の秋の夕暮   寂蓮法師

 こゝろなき身にも哀(あはれ)は知られけり

    鴫立つ澤の秋の夕暮   西行法師

  西行法師すゝめて百首歌よませ侍りけるに

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

    浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家

定家の浦辺の苫葺(とまぶき:菅(すげ)・茅(ちがや)などの草を編んで薦(こも)のように造ったもので雨露を防ぐために小屋の屋根を葺いたり、船の上部を覆ったりするのに用いた)の小屋の荒涼たる「静」の水墨画のような点景に、「舟灸る」(富士壺(甲殻亜門六幼生綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚下(フジツボ)綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha)・舟喰虫(斧足(二枚貝)綱異歯亜綱ニオガイ上科フナクイムシ科 Teredinidae。多く見られるのはテレド属 Teredo)・牡蠣類(斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目 Pectinina・イタボガキ亜目 Ostreina)及び海藻類などが船底に付着すると、船足が鈍るだけでなく、底材が腐蝕するため、それらを焼いてこそぎ落すのである。底材は水分を含んでいるため焼けない)という火炎の一色に、煙を加え、「動」の〈俗〉のリアリズムを添え、申し分なく見事である。]

 「松風の」の句はここに挙げた嵐雪の句のみならず、『虚栗』集中にあっても自然の趣を得たものの一であろう。その表現には多少この時代らしいところがあり、後のものほど敢然としてはおらぬが、この材料なり心持なりは元禄度の句とさして異っていない。『虚栗』における其角の句は、力量からいっても、才気からいっても、実にめざましいものがあるが、自然の一点にかけると、かえってこの句に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)せねばならぬかと思う。それは才気の崇(たたり)だといってもいいかも知れない。けれども『虚栗』は未だ元禄俳諧の萌芽に属するので、芭蕉をはじめ真の自然に対する眼は開けていないのである。『虚栗』の色彩が顕著であればあるだけ、自然の趣に遠ざかるのは当然の結果といわなければならぬ。『虚栗』の中心人物であり、この時代の代表作家たる其角よりも、嵐雪の方に自然の趣を得たものがあるということは、この意味において怪しむに足らぬ事実であろう。但これを以て嵐雪の方が一歩早く自然に近づいたものと解するのは早計である。嵐雪の句が必ずしも自然の趣を得たものでないことは、前に列記した句が明(あきらか)に証している。たまたま『虚栗』的色彩の稀薄な方角において、「松風」の句の如きものを得たに過ぎぬ。この種の句が後の雅馴な句風に繫(つなが)るのは事実であるが、それだからといって妄(みだり)に嵐雪の先著の功を称すべきではない。

[やぶちゃん注:「松風の里は籾するしぐれかな」「籾する」は「籾擂る」で、籾殻と玄米を分けるために臼で擂ることを指す。これは秋の季題であるから、「しぐれ」(時雨)は秋の末のそれである。

「はぜつるや水村山郭酒旗の風」鯊釣りは江戸の秋の彼岸(旧暦では八月一日~八月三十日。新暦は九月二十三日頃)の風物詩であった。「鯊」は条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei に属する多様な種及び、それに体形や生態の似た魚を含み、海産・淡水産孰れもいる。東京湾で盛んに釣られたのは、内湾や汽水域に広く棲息するハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae マハゼ属マハゼ Acanthogobius flavimanus である。より詳しくは私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「彈塗魚 はぜ」の項の私の注を参照されたい。「水村山郭酒旗の風」は大胆に晩唐の杜牧の名詩「江南春」(表題は正確には「江南春絕句」であるが、この詩は平仄上では絶句としては転句に問題がある。しばしばお世話になるサイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の本詩の解説を読まれたい。「碇豊長」は「いかり とよなが」と読む)の承句をそのまま裁ち入れてあるのは凄く、その大胆さ故に少しも違和感を私は感じない。

   *

  江南春

 千里鶯啼綠映紅

 水村山郭酒旗風

 南朝四百八十寺

 多少樓臺煙雨中

  千里 鶯啼いて 綠 紅(くれなゐ)に映ず

  水村山郭 酒旗の風

  南朝四百八十寺(しひやくはつしんじ)

  多少の樓臺(ろうだい) 煙雨の中(うち)

   *

碇氏の語注を引く。「水村」は『水辺の村。水郷』、「山郭」は『山沿いの聚落の外周の建物。山沿いの村。山に囲まれた村』、「酒旗風」は『酒屋の看板になっている旗』『に吹く風』の意。……懐かしい詩だ。高校一年の時、授業中に蟹谷徹先生から訓読を指示されて、ひどく得意になって「水村山郭 酒旗の風」に力(りき)を入れて特に詠じたのを覚えている……

「十月ノ蟋」とあるから初冬の季題。この一句は「詩経」の「国風」(巻十五)の最後にある「豳風」(ひんぷう:「豳」は伝説上の周の姫姓の祖先で農業の神として信仰されている后稷(こうしょく)の曾孫の公劉のことを指す)の中の、農業を知らぬ若き成王のために一年の農事を周公旦が教えたとされる「七月」の第五パートの、

   *

五月斯螽動股 六月莎雞振羽

七月在野 八月在宇 九月在戶

十月蟋蟀 入我牀下

穹窒熏鼠 塞向墐戶

嗟我婦子 曰爲改歲 入此室處

 五月には斯螽(ししう)

 股(こ)を動かし

 六月には莎雞(さけい)

 羽を振るふ

 七月には野に在り

 八月には宇に在り

 九月には戶に在り

 十月には蟋蟀(しつしゆ)

 我が牀下(しやうか)に入る

 穹窒(きゆうちつ)して鼠を熏(いぶ)し

 向(まど)を塞ぎ戶を墐(ぬ)る

 嗟(ああ)我が婦子よ

 曰(ここ)に改歲を爲さんとす

 此の室に入りて處(を)れ

   *

をインスパイアしたことを示す。以下、乾一夫氏(私は先生の「詩経」の講義を受けた)の「中国の名詩鑑賞 1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年明治書院刊)を参考に注する。「斯螽」と「莎雞」は別種として出すが、ともに現在のキリギリス。「股(こ)を動かし」とあるのは古くはキリギリスの一種は両の股を擦り合わせて鳴くと考えられた。実際には鳴くキリギリス♂は「羽を振るふ」が正しく、前翅の部分に発音器を持っている。「宇」は軒(のき)。「蟋蟀」(しつしゅ)がコオロギで、これは前後の「七月在野 八月在宇 九月在戶」と「入我牀下」(私の寝台の下に入って来る)の主語となっており、これはコオロギが次第に野原から家屋内へと移って来て鳴くさまを描出しているのである。「穹窒して」(きゅうちつ)は穴を塞いで、の意。「向(まど)」家の北側の高い所にある窓。夏の通気をするためにものだから、冬に備えて寒気を防ぐために「塞」ぐのである。「戶を墐(ぬ)る」乾氏によれば、『庶民は柴竹を』編んで『戸(門戸)を作ったから、冬場は』これに『泥を無って風を通さないようにした』とある。最後の三句は家族に、もう直に新年となるから、この奥の部屋に入っていなさい、と言うのである。

「柊」シソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus。我々は垣根として比較的低いものを見慣れているが、樹高は四~八メートルにも達する。和名は、葉の縁(ふち)の棘に触ると「ヒリヒリと痛む」ことから、それを表わす動詞「疼(ひひら)く」「疼(ひいら)ぐ」の連用形「疼き・疼ぎ」を名詞化ものである。それが軒端を邪魔し、しかも棘で手が出せぬので、探梅が「おぼつかなし」(うまくゆかぬ)というのである。

「神楽舟澪の灯の御火白くたけ」詠対象の具体的情報が判らないので、謂く言い難いが、「神楽舟」は提灯舟・精霊舟のことではなかろうか。その精霊流しの遠ざかって行くその舟の火が、末期に高く「長(た)け」て、「澪」、航路の後の水の筋を照らし出した瞬間を捉えたものであろうか。]

2020/04/27

ブログ・アクセス1350000突破記念 梅崎春生 ある失踪

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三五(一九六〇)年一月発行の『新潮』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻を用いた。

 登場人物の一人である「白根」は「しらね」と読んでおく。

 作品のロケーションは基地の構造から見ると、梅崎春生が終戦を迎えた桜島の海軍基地によく符合するように見えるが、冒頭、冷たい五月雨の景が出るので、桜島に転任する前の坊津(ぼうのつ:現在の鹿児島県南さつま市の坊津地区)である。彼は昭和二〇(一九四五)年五月に通信分遣隊下士官として赴任している。ここはアメリカ海軍の日本本土上陸に備えて本土最南端を防衛する震洋隊基地の一つが置かれていた。なお、彼の代表作の一篇「桜島」(昭和二一(一九四六)年九月刊の季刊雑誌『素直』創刊号初出。リンク先は私の「桜島 附やぶちゃん注(PDF縦書β版)」。但し、こちらは一括版縦書きながら、リンクが機能しないので、ブログ分割版をお勧めする)でも冒頭が『七月初、坊津(ぼうのつ)にいた』で始まり、さらに彼のエッセイ「八年振りに訪ねる――桜島――」(昭和三七(一九六二)年十月発表。初出誌未詳。リンク先は私のブログ版)でも『桜島にいたのは、敗戦の年の七月上旬から八月十六日までで、階級は海軍二等兵曹、通信科勤務である』とあるので、まず坊津と考えてよい。

 作中の「S海軍通信隊」とは佐世保海軍通信隊である。本文で主人公が語るのは梅崎春生自身の事実で、彼はそこで速成の下士官教育を受け、このまさに五月に二等兵曹となっていたのである。

 また、作中では、「志願兵」「徴募兵」に対して「応召」兵という語が用いられているが、前の二者は「梅崎春生 上里班長」の冒頭注で少し述べたが、「徴募兵」(=徴集兵)と「応召」兵の違いは何かというと、徴集兵は志願ではなく、国家権力によって現役又は補充兵役に強制的に就かせる行政処分で兵とされた者を指す。徴兵検査に合格している者の内で実際の兵とならずに待機させられていた者を現役兵又は補充兵として兵役義務に就かせる措置が「徴集」(=「徴募」)であり、「応召兵」(=召集兵)とは、既に兵籍のある帰休兵・予備兵・補充兵などを、戦時・事変・平時教育などの折りに軍隊に編入するために強制召致の措置を受けて兵となった者を指す。所謂、召集令状を受けるというのはこの場合である。召集兵の場合は兵種が現役か補充兵役かということで呼称は変化しない。則ち、補充兵は召集されても「補充兵」と呼ばれる(但し、補充兵が補欠として現役兵に繰り上げられて軍隊に召致される場合は入営という)。以上は、(渡邊勉氏の論文「誰が兵士になったのか(1):兵役におけるコーホート間の不平等」(『関西学院大学社会学部紀要』201410月発行)に拠った。

 作品内と作品末にも注を附した。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが昨日、1350000万アクセスを突破した記念として公開する。【2020年4月27日 藪野直史】] 

 

   ある失踪

 

 午後六時から九時までの暗号当直のあと、白根上等水兵の姿が見えなくなった。それを私に知らせに来たのは、同じく上等水兵の赤木という男である。

「兵曹。兵曹」

 うとうとと眠りかかっていた私を、赤木上水の手がひそかに揺り起した。

「白根の奴がいません」

「白根がいない?」

 やや不機嫌な声で私は起き直った。眠りばなであったし、また貴重な睡眠時間をさまたげられて、面白くなかった。

「いないことが、どうして判ったんだ?」

「寝台にいないのです」

 赤木は腕時計を私に突き出した。

「もう十一時になるというのに」

 とこか外にいるんじゃないか、と言おうとして、私はやめた。外ではこの一週間ばかり、毎日毎日、雨が降っている。昼も夜もやむことなく、しとしとと降り続いている。五月の雨だから、肌に当ると、まだつめたいのだ。さまよい歩くわけには行かない。

「どこかで、辷(すべ)って頭でも打って、気を失っているんじゃないか」

 鹿児島県Q基地の通信科の居住地は、海沿いの崖の下にあり、洞窟陣地で、通路に沿ってカイコ棚式の寝台がずらずらと並んでいる。私が揺り起されたのも、その寝台のひとつだ。

 仕事場の電信室暗号室は、斜面をジグザグに登って、崖の中腹にあった。昼間だと歩いて五分ぐらいの距離だが、夜は暗いから時間がかかる。月明りか星明りでもあればいいが、こんな雨夜だと光はないし、手探りで歩かねばならぬ。ことにその頃の私はビタミンAの不足か、ひどく視力が弱っていて、三十分ぐらいかかることはざらだったし、実際にぬかるみに足をとられて、斜面を、辷り落ちて、したたか足腰を打ったこともある。その経験が私にその質問をさせた。

「はあ。わたくしもそう思って、探してみたのですが?」

 自家発電のうすぐらい電燈の翳(かげ)の中で、赤木は茫漠(ぼうばく)とした表情でそう答えた。

「どこにも見つかりませんです」

 赤木は応召の老兵である。老兵といっても、志願兵徴募兵にくらべて老いているという意味で、三十二三になっていたかと思う。私は当時二十九歳だったから、私より三つ四つ年長のわけだが、実際には十ぐらい年上のような感じが私にはしていた。応召兵が一様に持つ特有の動作の鈍さと、あの茫漠たる表情のせいである。

「弱ったなあ。それは」

 寝台にあぐらをかいたまま、私は掌でぐりぐりとこめかみを揉(も)んだ。軍隊生活で、いなくなるということは、たいへんなことだ。白根上水は私の当直に属する兵隊である。

そういう点で私の責任ということになろうが、しかし私は仕事の上で彼の長だというだけで、彼個人がいなくなったことにまで責任を取る義務があるかどうか。応召以来いろいろと痛めつけられた関係上、その頃私はいつも低姿勢でいたかったし、何事にも介入したくなかった。頭を下げて身を保つ術が、もう私の身体にぴったり貼りついていた。

「どこに行ったんだろう。まさか――」

 逃げたんじゃあるまいな、という意味を含めたのだが、赤木は返事をしないで、じっと私を見詰めている。表情はない。白根がいなくなったのを悲しんでいるのか、喜んでいるのか、迷惑に思っているのか、ほとんど判らない。

「お前はどう思う?」

「何をですか」

「白根がいなくなったことをさ」

「わたくしは白根がいなくなったことを報告するだけで――」

 なまあたたかい呼気が私に近づいた。

「何も思っておりませんです」 

 忌々(いまいま)しいほどの無表情である。この頑固な仮面を剝ぎ取ってやるすべはないものか。おそらくないだろう。それは私が下士官であるからだ。私も四箇月前までは一介の兵隊だったのだから、そのことはよく知っている。

「バカなことを仕出かしたとも思わんのか」

 なんだかひどく面倒くさい気分になった。

「おれに報告したって仕方がない。先任下士官に報告したらいいだろう。先任下士官は今、晴号室だ」

「はあ。では、先任下士官に届けます」

 くずれたような敬礼をして、赤木は私の寝台から離れた。湿った黄土を踏む足音が、ぽくぽくと遠ざかって行った。あの足どりでは暗号室まで、二十分やそこらはかかるだろう。

 

 へんな話だが、四箇月前、私は一暗号兵として、S海軍通信隊で、白根上水の下で勤務していた。当時私は一等水兵で、つまり白根から見ると一階級下になるのだ。年齢は私の方が二つ三つ上だったけれども。

 二十六七で上等水兵だから、もちろん白根も応召兵で、妙にひがみっぽい男であった。軍隊というところは面白いところで、徴募兵は志願兵にひがみ、応召兵は徴募兵志願兵にひがみ、下士官並びに特務士官は学徒出の士官にひがみ、学徒出は兵学校出の士官にひがみ、といった具合で、多かれ少かれ誰も何かに対してひがんでいた。白根はその中でもひがみの傾向がいちじるしく、それは軍隊に入ってからひがみっぽくなったのではなく、生れつきひがみ根性が強かったのだろうと思う。彼は自分より年少の兵長や下士官から、こき使われたり殴られたりすることにおいて、大いにひがんでいた。しかしそのひがみを知っているのは、彼より階級の下の兵だけで、兵長や下士官は知らなかった。白根がそれを努力して知らせなかったのである。彼等におべっかを使うことによって、それを隠蔽(いんぺい)していたのだ。

「畜生め。あいつら、若造のくせしやがって、よくもこのおれ様を――」

 上級者がいなくなると、彼はとたんに愚痴っぽくなって、私たち下級者の前でぼやいたりののしったりする。私たちはただ、はあ、はあ、ごもっとも、といったような表情で、それを聞いている。異でも立てようものならたいへんだ。白根上水は上級者にはおべっかを使うくせに、下級者には冷酷で、つらく当る男だったからだ。もちろん私も彼にはつらく当られた。殴られたことだってずいぶんある。原則として、上水は下級者を殴(なぐ)る権限は持たない。殴る権限を持っているのは、兵長以上の階級で、だから白根は彼等にかくれて私たちを殴る。倉庫の裏手だとか烹炊所(ほうすいじよ)のかげに連れ出して殴る。年下の兵長から殴られて白根が口惜しいのなら、年下の白根上水から殴られて私が口惜しいのも当然の話だが、白根はそこには気を使わない。想像力が欠如しているのか、それとも知っていて知らないふりをしているのか。どうもそれは前者のように思われる。

 森鷗外のある小説にある男のことを『体じゅうが青み掛かって白い。綽号(あだな)を青大将というのだが、それを言うと怒る』というくだりがあるが、初めて白根を見た時、私はその一節を思い出した。色がへんになま白くて、顔や身体の動きが、何となく蛇を聯想(れんそう)させる。そういう男が取り入っても、上級者があまり喜ばないのも当然で、それはそうだろう、青大将のおべっかなんか私もイヤだ。青大将なら青大将らしく、鎌首をもたげてチロチロと舌を吐いたり、ぐるぐる巻きついて来たりする方が、自然であるし見ていても気持がいい。

 私は白根と班をともにして一箇月ほど経って、下士官候補の訓練を受けるために、その通信隊を出ることになった。するとその前の日、白根は私を砲術科倉庫のかげにこっそり呼び出して、一席の訓戒を垂れた。その揚句(あげく)、

「実際貴様ら一水が、どんな学校出か知らないが、二箇月やそこらの訓練だけで、一足飛びに二等兵曹になるなんて、生意気至極だぞ。こうしてやる!」

 と、私に牛殺しという体罰を加えた。牛殺しというのは、指で額を弾(はじ)くやつで、精神棒で尻をたたかれるほど痛くはないが、かなりこたえる体罰なのだ。何度もそれをやられると、額が赤くはれ上る。こちらも無念ではあるが、白根にとっても無念やるかたなかったのであろう。今まで散々いじめて来た相手が、二箇月経つと階級が逆転しようというのだから、その心情も了解出来る。

 それから二箇月経って、私は首尾よく二等兵曹になることが出来た。そしてこのQ基地の通信料に配乗ということになった。下士官として実施部隊勤務になったとたん、私に対する兵隊の表情の、ことに応召兵の表情の変化が、私には強くはっきりと感じられた。一口に言えは、それは韜晦(とうかい)の表情である。先ほど私を起しに来た赤木上水のような茫漠とした表情、感情の内部の動きを絶対にのぞかせまいとする頑固な仮面、私がぶつかったのはまずそれであった。私は彼等からしめ出されている、という感じは、しかし、悪い感じというのではなかった。私は彼等から感情的にしめ出されたのと同時に、生活的にもしめ出されたのだから。つまり私は、精神棒で尻をたたいたりたたかれたり、あの悪夢のような毎日から脱出出来たというわけであったから。

[やぶちゃん注:「配乗」(はいじょう)は海事・海軍用語で、狭義には乗り込むべき船員の割り当てや配置の意であるが、ここは海軍内でのそれに広げて用いている。

「韜晦」自分の本心や才能・地位などを包み隠すこと。]

「おれも兵隊の時分は、下士官や兵長に対して、ああいう表情をしていたんだな」

 白根上水がS通信隊からこのQ基地に転勤して来たのは、私より一箇月半後、すなわち半月前である。彼は孤影悄然(しょうぜん)といった恰好で、衣囊をかついで、単身ここにやって来た。あいさつ廻りに来て、私の前に立ち、ぎょっとした表情になった。電気をかけられた青大将みたいに硬直した。この間牛殺しを呉れたばかりの相手が、ここに上級者としていたのだから、それも当然だろう。しかし瞬間に彼は元の表情に戻り、ぎくしゃくした声で、私に官姓名の申告を済ませた。ただそれだけである。おなつかしいとか(あまりなつかしくもないが)何とか、一切彼は言わなかったし、私も口にはしなかった。その時だけでなく、それから後も私たちの間では、仕事の上で必要にして最少限の会話があるだけで、S通信隊の話は一切交されなかった。つまり私たちは暗黙の中に過去を清算して、新しい人間関係に立ったわけだ。その方が私には都合がよかったし、彼にも都合がよかったに違いない。

 しかし彼はこの基地に来て、S通信隊におけるよりも、若干陰欝な男になった。S通信隊において彼はおべっか使いだったが、ここではとたんにそうでなくなった。私から手の内を知られているので、そうそう見えすいた真似も出来なかったのだろうと思う。それにS通信隊のような大きな部隊よりも、Q基地みたいな小さな部隊の方が、訓練や私的制裁もはげしいことが多いのだ。あまり要領の良くない白根は、それで参ってしまって、憂欝になったのかも知れない。大体つらければつらいほど、人間というものは無表情になるものだ。その原則にしたがって、白根もしだいに表情の動きがなくなり、むっとしたふくれ面を保持するようになった。無表情というより、ポーカーフェイスとでもいうべきか。

 その白根が、五月雨(さみだれ)の闇の中に、忽然(こつぜん)と姿をくらましたのだ。しかしそれが今の私に、何の関係があるか。

 

 こんな雨夜に捜査隊を出すのもなんだというので、一切は翌日に持ち越すということに、先任下士官たちの相談は一決したらしい。別にさまたげられることなく、私は眠りにつくことが出来た。

 翌朝、捜査隊が出発する直前に、白根上水はずぶ濡れになって、ふらふらと居住区に戻って来た。疲労と寒さのために、がたがた震えながら、うつろな眼付で、しばらくはものも言わなかった。先任下士官から横面をひとつしたたか張られて、ふき出すように涙を流しながら、彼はどもりどもり供述した。

「……崖の道を降りて来ますと、道の横から巡邏(じゅんら)が出て来まして、わたくしにおいでおいでをするものですから……」

 鳴咽(おえつ)がしばしば白根の話を跡切(とぎ)らせた。その巡邏について行くと、どんどん山の中に入り、ふっと気がつくと巡邏の姿は見えず、自分一人になっていたと言う。地理も何も判らないから、明けがたの光を待って、へんな山小屋みたいなところで道を聞いて、やっとここに戻って来たのだと言う。先任下士官は怒鳴りつけた。

「ちえっ。こんなところに巡邏なんかがいるわけがないじゃないか。夢みたいなことを言うな。人騒がせをしやがって!」

 まあ自発的に戻って来たから、不問に付するというわけで、白根は放免された。一水たちがずぶ濡れの服を脱がせ、白根の身体をタオルでこすった。白根は震えながら、その鳴咽はいつまでもとまらなかった。

 白根のその供述を、私はその時信じたし(白根の態度や語り口から)今でも信じている。気分が妙な具合になったり、一時的な錯乱に落ちるようなことは人間には、時々あるものなのだ。

 当直に立つために、午前九時、私は崖の道を登った。雨はやんでいたが、道はじとじとと濡れていて、とりに注意しなくてはならなかった。赤木上水が私のあとについて来た。私は赤木に話しかけた。

「赤木上水。白根が戻って来てよかったな」

 返事はなかった。私は足をとめ、赤木の顔をのぞき込むようにした。

「白根が戻って来て、うれしくないのか。友達じゃないか。何とか言ったらどうだ」

「あいつはバカです」

 口をもごもごさせた揚句、赤木は果物の種でもはき出す具合に言った。そして珍らしく眼をかっと見開いた。

「ほんとにバカタレです。おめおめ戻って来るなんて!」

 おめおめ戻って来るだって? 白根にとっては、戻って来る以外に方法はないではないか。戻って来なくて、どこへ行けはいいと言うのか。それとも――それともあの巡邏(じゅんら)云々の話はつくりごとで、本当は逃亡する気で出て行って、途中であきらめて戻って来たとでも言うのか。そう私は詰め寄ろうとしたが、その人間らしい激情を瞬間に収めて元の表情に戻った赤木の顔を見たとたん、何だかひどくむなしいような、退屈に似たやり切れない感じが、胸いっぱいに磅礴(ほうはく)とひろがって来て、私は口をつぐんだ。

 

[やぶちゃん注:「森鷗外のある小説にある男のことを『体じゅうが青み掛かって白い。綽号(あだな)を青大将というのだが、それを言うと怒る』というくだりがある」これは森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(明治四二(一九〇九)年『スバル』七号初出。表題はラテン語で「性欲的生活」を意味する「vita sexualis」)の十五歳の頃の追懐の一節で、親友になった古賀鵠介(こくすけ)なる人物との係わりの中で、その古賀の友達の児島十二郎の風体を描出するシーンに出る。以下、岩波書店の「鷗外選集」(正仮名新字体)を参考に恣意的に漢字を正字化して示す(「ヰタ・セクスアリス」の全文は「青空文庫」のこちらで読めるが、新字新仮名である。正仮名正字体のテクストは残念ながらネットにはない)。

   *

折々古賀の友達で、兒島十二郞といふのが遊びに來る。その頃繪草紙屋に吊るしてあつた、錦繪の源氏の君のやうな顏をしてゐる男である。體ぢゆうが靑み掛かつて白い。綽號(あだな)を靑大將といふのだが、それを言ふと怒る。尤も此名は、兒島の體の或る部分を浴場で見て附けた名ださうだから、怒るのも無理は無い。兒島は酒量がない。言語も擧動も貴公子らしい。名高い洋學者で、敕任官になつてゐる人の弟である。十二人目の子なので、十二郞といふのださうだ。

   *

「巡邏」上陸中の海軍軍人の軍紀を維持・取締するため、市街地を巡回する海軍兵。艦隊の当番艦及び海兵団・陸上部隊から選出されるものの、取り締まりだけで陸軍の憲兵のような警察権は持っていなかった。巡邏兵は下士官が引率する屈強な兵数名から構成されており、ゲートルを付け、胴乱(弾薬入れ)を外し、帯剣で銃剣を付けた装備・服装で、左腕に腕章を巻いていた。当該兵には進級の遅い者や札付きの猛者(もさ)が揃っており、荒くれ集団だったらしく、巡邏は兵隊たちから恐れられており、「巡邏が来た!」という声を聞くと、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したという(以上はルビー氏のブログ「太平洋戦争史と心霊世界」の「巡邏(じゅんら)」に拠った)。

「磅礴と」広がり満ち溢れるさま。]

2020/04/26

ブログ・アクセス1350000突破記念 梅崎春生 上里班長

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三〇(一九五五)年十二月発行の『別冊文芸春秋』(第四十九号)に発表され、後の単行本『侵入者』(昭和三二(一九五七)年四月角川書店刊)に所収された。「上里」は「うえざと」と読んでおく。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻を用いた。

 作中出てくる、「第三乙」は徴兵検査での等級。戦前は甲種・乙種(第一乙種と第二乙種等級分けがあった)合格者でも抽籤(くじ)によって一部が常備兵役の現役兵に充てられて即時入営となったから、甲種合格でも現役兵を免れることもあったが、日中戦争のさ中の昭和一四(一九三九)年十一月に第三乙種が新設されて抽籤が廃止され、太平洋戦争末期には兵員不足から乙種・丙種でも徴兵されることとなった。丙種とは国民兵役(予備役・後備易相当の準備地位)には適するも現役には不適な者に当てられた。他に丁種(徴兵に不適格な身体・精神状態にある者)・戊種(病気療養中につき、翌年に再検査をする者)があった。また「徴募兵」という語が出てくるが、これは一緒に出てくる「志願兵」の反対語で、強制徴集兵のことである。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1350000万アクセスを突破した記念として公開する。【2020年4月26日 藪野直史】]

 

   上里班長

 

 私たちはすべておなかをすかしていた。三度三度ちゃんと食べてはいたが、それでもおなかをすかしていた。食事前にはもちろん極度に空腹だったが、食事直後も依然として空腹であった。一食の量がすくなかったせいでもあるが、それよりももっと心理的なものが作用していたらしい。一食が少量だといっても、ふつうの見方では少量でない。ふつうの生活をするには、必要にして充分なだけは確実にあった。ただ私たちは毎日はげしい軍事訓練を受けており、その消耗(しょうもう)のために、あるいは消耗したような気分のために、食べても食べても足りないような気がしていたのだ。私たちは生理的に、そしてそれ以上に心理的に、がつがつしていた。それを上里教班長はちゃんと見抜いていた。おそらく自分の体験からして、ちゃんと見抜いていた。

 私たちががつがつしていたからといって、班長の常時の食べ方がすくなく、ほとんどいつも食い余すからといって、上里班長は彼の食器の盛り方をおろそかにすることは絶対に許さなかった。

「教班長。食事用意よろしい!」

 そして上里班長がのそのそとやってくる。へんに投げやりな歩き方でやってくる。自分の食器に視線を据える。細長い木卓の、班長の席はその片方の端にあった。

「食事当番出て来い」

 食事のしつらえ方が気に食わないと、上里班長は無表情のまま、低い押えつけたような声を出す。食事当番が出て行く。私たちは緊張して眺めている。

「これで食事用意よろしいのか?」上里班長は自分の食器を指差す。「教班長というのはだな、班員の父親母親に当るんだぞ。お前たちは自分の両親に、こんなお粗末な盛り方をするのか?」

 緊張した沈黙の中を、上里班長はくるりと背を向けて、のそのそと教員室に戻って行ってしまう。その広くがっしりした背中の感じを、私は今でも忘れない。忘れられないほどたびたび見せつけられたわけだ。そして私たちはがっかり、かつ腹を立てる。がっかりしたり腹を立てたりしないで、さっさと飯を食べたらいいではないか。そういうわけには行かない。教班長抜きで食事を済ましでもしたら、総員罰直で飛んでもない目にあうだろう。両親をほったらかして、子供たちばかりで食べていいと思っているのか!

 だから私たちは、腹がぐうぐう鳴るのを押えながら、食事当番を追い立ててあやまりに行かせる。他の班ではもう食事が始まっているのだ。おいしそうにかっこんでいる。私たちだけが、班長がいないばかりに、席につくことも出来ない。

 当番たちのあやまりが劾を奏して、上里班長が機嫌を直して卓に戻ってくることもあったが、戻って来ないこともしばしばあった。戻って来なければ、食事時間が過ぎて次の課業になるから、私たちは余儀なく食事を放棄し、残飯として捨てざるを得ない。のんびりした生活をしている時なら知らず、こんな状況で一食を抜くのは、まことに惨めな気分のものであった。食事を抜いたからといって、次の訓練に手加減があるわけではない。

 上里斑長は沖縄県出身で、徴募兵上りの下士官で、色が黒くて割に口数もすくなく、二十五六の筈だが、それよりもいくらか老けて陰欝に見えた。その上里班の班員、つまり私たち二十名も、大体その位の年頃かすこし上で、学校出の応召兵ばかりが集っていた。学校出というのは、中卒以上という意味で、みんな第三乙というのだから、あまり体格のいいのはいなかった。ふつうか、ふつう以下の身体の者ばかりであった。体位も低く動作もにぶい、そして口だけは達者なその班員たちを、あるいは上里班長は憎んでいたのかも知れないと思う。

「一人前の仕事も出来ないで、メシはかり食いたがりやがって!」

 くるりと背を向けて教員室に戻る。あやまってもあやまっても戻って来ない。その場合上里班長は、自分の空腹を辛抱してまで、意地を張っているのではなかった。意地を張る気持はあっても、彼はそれはど空腹を辛抱しているのではない。常住彼はさほど腹を減らしていなかったのだ。それは日頃の彼の食べっ振りを見れば判る。

 当番がしつらえた食器に大盛りの飯、同じく別の食器にたっぷりと盛られたおかず、その量は私たちのにくらぺると、二倍やそこらはゆうにある。彼は左肱を卓につけ、箸でそれらをつつき始める。私たちのは猛然とかっこむのだが、里班長のはつつき廻すと言うのにふさわしい。いやいやながら口に運んでいるという感じなのだ。そして大盛り飯の上方一部分、おかずの中の最も旨そうなところをちょっぴり、それだけをつつき散らすと、茶をゆっくりと飲み、ぷいと立って教員室に戻って行く。

 それならそれで、何故最初から少量をよそわせないのか、私たちには上里班長の心理が不可解であった。教班長には一番いい部分をたくさん盛る。それがしきたりにはなっていたが、それは班長が食慾旺盛な場合であって、そんなにつつき散らすだけなら、それを要求することはないだろう。現に他の卓の班長で、そんなにたくさん食べられないからすくなく盛るようにと、当番に命じているのもいたくらいだから。そしてその班長は、そのことだけでもって、もの判りのいい班長とされていた。つまり一般の班長的性格は、もの判りの悪さでもって構成されていると言ってよかった。

「あれはあれで結構たのしんでいるんだよ」私たちはかげで上里班長を批評した。「大盛りの飯の上をちょっぴり食べるのは、いい気分のもんだろうからなあ」

 自分の食事だけ大盛りにさせるのは、その分だけ班員のを削るわけだから、俺たちを困らせる目的で彼はそうしているのではないか。そういう考え方をする班員もあったが、しかし班長に余計盛った分を二十人に等分しても、おそらく一口分のかけらに過ぎなかっただろう。でもそれが本気に考えられたほど、私たちは食事の分量ということに敏感になっていた。

 だからたとえば食事当番にあたると、どうしても自分の食器だけにこっそりたくさん盛るということになる。露骨にはやれない。全員均等ということになっているのだから他人のにはふわりと盛り、自分のにはぎゅうぎゅう押しつける。見た目に体積は同じようだが、実質が違うごく初歩の手なのであるが、やはりある程度の心理的抵抗を感じるものなのだ。そしてその抵抗が減少してゆくところら、軍隊に慣れるということが始まる。

 当番のそういうやり方を、上里班長は遠くから食器の中を眺めるけで、一目で見破った。彼は無表情に呟(つぶや)くように言う。

「総員立て」

 私たち立つ。

「前後席を交替」

 向い合っや同士で私たちは席を替える。そして腰をおろす。そこで当番は、ぎゅうぎゅう詰め込んだ自分の飯を他人に食べられ、他人のふわふわ飯を食べるという破目になる。

 そんな時の上里班長の語調は投げやりで、なにか漠然たる嫌悪に満ちているように響いた。当番自身もやり切れないだろうし、私たちもやり切れなかった。まだその頃は入団して一箇月たらずで、自分のいやしい食い気を知られるのはつらかったわけだ。

 それが席の交替だけで済んだのは、私たちの飯の盛りだけの問題で、上里班長の飯の盛りに関係がなかったからだろう。上里班長にはそういうところがあった。彼は外に向うより内に折れ曲っていた。そういう下士官のタイプがある。海軍においては徴募兵上りに多いのだ。志願兵上りの下士官は気分が外に開いて張り切っている。悪いこと、ずるいことも積極的にやる。徴募兵上りはそうでない。これはいやいやながら引っぱられ、自分より年少の志願兵と共にもまれているうちに、どうしても折れ曲ってくるものらしい。自分と同年の志願兵は、すでに兵長とか早いのは二等兵曹になっている。それがこちらは新兵だとくると、これは曲るまいと思っても折れ曲ってしまうものだろう。入団最初にそういう班長に当ったのは、私たちにとって幸運だったか不運だったかは判らない。もちろん軍隊に引っぱられたこと自体が最大の不運であったが、それはそれとして、その上でのことだ。

 

 で、上里班長は飯を食い残す。大盛りを要求して、その大部分を食い残す。食い残してのそのそと教員室に戻ってしまう。残された飯やおかずはどうなるか。

 初めのうち私たちは、それを残飯として捨てていた。残飯だから捨てるのは当然だが、その当然のことを各人ともいくらかずつ不本意な気持でおこなっていた。

 やがてその不本意に耐えられなくなって、食べられるものを捨てるのはもったいないと称して、班長の残飯に手をつけようとする奴が出て来る。

 かつて住んでいた社会の通念、学校出という見栄(みえ)、それが私たちの間にお互いのケンセイとして働いている。そういうケンセイを打ち破り、敢て残飯を食うという人間には、あるタイプがある。食事当番として先ず自分のにぎゅうぎゅう押し詰める方法を案出した奴、あるいは先ず敢行した奴と、それは同じタイプなのだ。そういうことをやることにおける自分の内部の心理的抵抗、人より早くそれに打ち勝てるという人間の型。生きて行くために、他と競争するために、ラクにずり落ちることが出来る人間の型。ずり落ちるより適応すると言った方がいいかも知れない。そいうタイプがそれを敢行すると、自分も耐えられなくなってそれに続く奴。追従者。そういうタイプもある。

 普通の社会ではそれほどきわ立たないそんな人間の型の差が、軍隊という集団の中では、どうしてもくっきりときわ立ってくるのだ。そういうことも上里班長はちゃんと知っていたに違いない。若いくせに見抜いていたに違いない。しかしそういう眼や智慧(ちえ)は、軍隊の中だけで育ち、おおむね軍隊の中だけしか通用しない。ふつうの社会ではあまり役に立たぬものだろう。

 自分の残した飯を班員の何人かが争って食うに至る時期を、上里班長は待っていたのか、また見抜いていたか。もちろん自分の暗い体験から得た智慧をもって。

「教班長。食事用意よろしい」

「教班長。食事用意よろしい」

 各教班長は教員室を出てくる。上里班長はきまって最後からのそのそと出てくる。自分の食器の盛りを眺め、それからにぶい眼で班員の食器をひとわたり見渡す。異常がなかったらそのまま腰をおろし、もそもそと飯を食べ始める。馬のように下顎(あご)をこすり廻すようにして、ゆっくりゆっくりと咀嚼(そしゃく)する。いい加減のところで箸をとめる。今まではそのまますっと立ち上るのに、残った飯をおかずの食器にべたりとぶちまける。更に飲み残しの茶をそれにかけ、箸でぐちゃぐちゃにかき宿す。きたならしくて食べられないような状態にまで箸でかきまぜて、それから立ち上り、のそのそと教員室に戻ってゆく。その作業中彼は無表情だ。私たちは沈黙して、その上里班長のがっしりと広い背中を見送っている。

 やがて私たちは次第に、内心ひそかに、上里班長という男を憎み始めた。残飯食いはそれが出来なくなったという故をもって、そうでないものはまた別の理由でもって、上里班長を憎み始めていた。

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 四 / 其角~了

 

        

 子規居士蕪村の句の特色の一として理想的美なるものを挙げた。これは実験的に対する言葉で、歴史を藉(か)りて古人を句中の物とし、未だ見ざる土地の風物を現すが如く、「天地八荒の中に逍遥して無碍自在(むげじざい)に美趣を求む」るを指すのである。この種の傾向は元禄の作者が全然これを欠いているわけではない。越人の『庭竈集(にわかまどしゅう)』は享保度の出版であるが、蕉門作者の歴史趣味を見る上において、最も注目すべきものであろう。けれどもその内容はいわゆる詠史であって、譬喩(ひゆ)を以て古人を評する論讃的のものが多く、古人を自在に句中の材料とした蕪村の句とは大分の径庭(けいてい)がある。其角の集中にあっても

  仏骨表

 しばらくは蠅を打けり韓退之     其角

  得斗酒

 淵明が鄰あつめや生身玉       同

[やぶちゃん注:「生身玉」は「いきみだま」。]

  魚市涼宵

 楊貴妃の夜は活たる鰹かな      同

  のり物の中に眠沈て

 年忘れ劉伯倫はおぶはれて      同

の諸句は、単に古人を藉り来ったまでで、その景情を髣髴するに足るものがない。それが

 景清が世帯見せぬや二薺       其角

[やぶちゃん注:「二薺」は「ふたなづな」。]

 景政が片目をひろふ田螺かな     同

  河州観心寺

 楠の鎧ぬがれし牡丹かな       同

  破扇の図

 惟光が後架へ持し扇かな       同

[やぶちゃん注:「破扇」は「やれあふぎ(やれおうぎ)」。「持し」は「もちし」。]

となると、俳諧一流の転化があり、特出された古人が何らかの姿となって句中に現れている。更に進んで

  春雨

 綱が立つてつなが噂の雨夜かな    其角

[やぶちゃん注:「雨夜」は「あまよ」。]

 蚊をやくや褒姒が閨の私語      同

[やぶちゃん注:「褒姒が閨の私語」は「はうじがねやのささめごと」と読む。]

 伊勢の鬼見うしなひたる躍かな    同

[やぶちゃん注:「躍」は「をどり」。]

の如きものに至れば、慥にこの材料によって或空気を描き得ているといって差支ない。勿論蕪村の「滝口に燈を呼ぶ声や春の雨」「実方の長櫃通る夏野かな」「寒月や衆徒の群議の過ぎて後」の如き画趣に乏しい憾(うらみ)はある。「射干(ともし)してさゝやく近江やはたかな」「相阿弥の宵寝起すや大文字」などの如く、身をその裡(うち)に置き、親しくその人のけはいを感ずるの思(おもい)あらしむるものに比すれば、竟(つい)に数歩を譲らねばならぬであろうが、かかる理想的の世界においても、其角が先鞭を著けているという事実は、一顧する価値があると思う。其角の特色の顕著なものとして力説するわけではない。

[やぶちゃん注:「庭竈集」越人編。享保一三(一七二八)年刊。

「仏骨表」大の仏教嫌いであった中唐の文人政治家韓愈が書いた「論佛骨表」(佛骨(ぶつこつ)を論ずるの表(ひよう))。鳳翔法門寺の真身宝塔(阿育王塔)に秘蔵され、三十年に一度の開帳の際に供養すると国家安泰を得るとされた仏舎利の伝承を信じてそれを迎えようとした皇帝憲宗に対し、諌めるために八一九年にものした上表文。四六駢儷文を排した言志の名文とされる。しかし、結果は崇仏家であった憲宗の逆鱗に触れて南方の潮州刺史(現在の広東省潮州市)(グーグル・マップ・データ)に左遷されてしまった(但し翌年、憲宗が死去して穆(ぼく)宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任ぜられた)。本句はその左遷先で無聊をかこつ彼をカリカチャアライズしたもの。

「得斗酒」「斗酒を得(う)」で「一斗樽の酒を得て」の意。六朝の詩人陶淵明は「五斗米の爲に腰を折り、郷里の小人に向かふ能はず」(たかが五斗(当時の中国の単位換算で約十リットルほどしかない)ばかりの僅かな扶持米を得るために田舎の青二才の小役人に頭を下げることなど出来ぬ)と言い放って、官職を蹴って故郷へ戻り、かの「歸去來之辭」を書いた。その「五斗」を掛け、酒好きだった淵明のように無類の酒好きの其角が、隣り近所の連中に「酒だ! 集まれ!」と号令をかけ、『肴? それ、丁度よい、「生身玉」じゃあないか!』というのであろう。「生身玉」は「生身魂」とも書き、盂蘭盆で死者の魂を祀るのに対して、その御盆前の七月十五日に行われた、生きている親に対し、生きた新鮮な魚を贈って祝う習慣を指す。「五元集」では頭書があって、「陌上の塵」(はくじやうのちり)とある。これも淵明の「雜詩」の冒頭の二句「人生無根蒂 飄如陌上塵」(人生 根蔕(こんたい)無く 飄(へう)として 陌上の塵のごとし:前句の「根蔕」は植物をしっかりと支える根や蔕(へた))を借りたもの。「路上の塵や砂埃」から転じて「飛び散って定めないこと」の喩えである。定めのない下らぬしがらみはどうでもいい! 今をこそ享楽しよう! という其角の痛快なブチ上げの実景と私は読む(無論、淵明自身を主人公とした田園の居に帰った隣人らとの交感の仮想の時代詠であっても構わぬが)。

「楊貴妃の夜は活たる鰹かな」夕暮れの涼しい魚市場を眺めている其角が、ふと目にした活きカツオのつやつやとした肌を眺め、夜の楊貴妃のむっちりとした膚(はだえ)を幻想したものか。但し、実際にその後の夜の遊廓での遊女のそれへと繋がり、さらにはそこで出る馳走としての生き鰹の刺身のそれも想像しているかのようにも覗える。芭蕉の「鎌倉を生きて出でけん初鰹」で知られる通り、相模灘がカツオの供給地であったが、そちらから朝に漁って船便で、夜、江戸に運ばれた「夜鰹(よがつを)」は特に珍重されたからである。

「のり物の中に眠沈て」恐らくは年末の遊廓返りの舟か駕籠の中で泥酔して「眠沈(ねぶりしづみ)て」という為体(ていたらく)を、竹林の七賢の一人で無類の酒豪として知られる「劉伯倫」にカリカチャライズした。「劉伯倫」は劉伶(二二一年?~三〇〇年?)の字(あざな)。三国時代の魏及び西晋の文人。沛(はい)の人。ウィキの「劉伶」によれば、「世説新語」には身長が約百四十センチメートルと低く、手押し車に乗り、鍤(ソウ:鋤(すき))を『携えた下僕を連れて、「自分が死んだらそこに埋めろ」と言っていた。酒浸りで、素っ裸でいることもあった。ある人がそれをとがめたのに答えて言った。「私は、天地を家、部屋をふんどしと思っている。君らはどうして私のふんどしの中に入り込むのだ。」』と言ったとか、『また酒浸りなので、妻が心配して意見したところ、自分では断酒できないので、神様にお願いする」と言って、酒と肉を用意させた。そして祝詞をあげ、「女の言うことなど聞かない」と言って肉を食い、酒を飲んで酔っぱらったと伝わ』り、著書にも「酒徳頌(しょう)」がある、酔っ払いの筆頭代名人である。

「景清が世帯見せぬや二薺」高い確率で芭蕉の「景清も花見の座には七兵衞(しちびやうゑ)」(「蕉翁句集」では貞亨五(一六八八)年とするが、根拠はない)を念頭に置いたものであろう。藤原悪七兵衛景清(?~建久七(一一九六)年?)は、平安末期の平氏に属した武士。平氏と俗称されるものの、藤原秀郷の子孫伊勢藤原氏(伊藤氏)の出。平家一門の西走に従って一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦奮戦した。「平家物語」巻十一「弓流(ゆみながし)」で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引き千切ったという「錣引き」で知られる勇猛果敢な荒武者(「悪」は「強い」の意)。壇ノ浦から逃れたとされるが、その後の動静は不明。幕府方に降って後に出家したとも、伊賀に赴き、建久年間に挙兵したとも伝わる。後、謡曲「景清」や近松の「出世景清」等で脚色されて伝説化した(前者では落魄して盲人となった彼と一人娘人丸との再会悲話仕立て、後者は平家滅亡後も頼朝の命を狙う荒事で、鎌倉には捕らわれた景清が入れられたという「景清の牢」跡なるものがあるが、信じ難い。私の「鎌倉攬勝考卷之九」の「景淸牢跡」を参照されたい)。この話は「吾妻鏡」建久三 (一一九二) 年一月二十一日の条に記される景清の兄上総五郎兵衛尉忠光が鎌倉二階堂の永福寺の造営中に源頼朝を暗殺しようと土工に紛れ込むも怪しまれて捕縛されたという話(私の「鎌倉攬勝考卷之七」の「二階堂廢跡」に絵入で詳しく載る)をないまぜにしたものであろう)。この句は、人日の節句(一月七日)の作で、あくまで頼朝暗殺を図る景清が、それと知られぬよう、あたかも市井の民であって所帯(妻子)があるかのように七草粥を作らんとする風で、ナズナを二つ摘み採って行くという時代詠であろう。

「景政が片目をひろふ田螺かな」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、「追鳥狩」や「五元集」では、

 景政が片眼ひろへば田にし哉

とある。その方がよい。以下、堀切氏の評釈。『後三年の役で片目を失なった景政が、田圃でふと田螺をみつけ、自分の目かと思って拾いあげたというのである。田螺は形といい色合といい人間の眼玉をくりぬいたような趣があるので、このような奇抜で滑稽な見立てをしたのである。一説には景政の行動を想像したものではなく、たまたま田圃で拾った田螺を見て、景政の失くした目玉だと洒落たものだと解するものがある』とある。(延久元(一〇六九)年~?)は平安後期の猛勇無双の武将。ウィキの「鎌倉景政」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景正とも書く』。『父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる』。『十六歳の頃、後三年の役(一〇八三年~一〇八七年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」』(「めふき」と読む)『の地名が残されている(現在の千葉県野田市)』。『長治年間(一一〇四年~一一〇六年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久四年(一一一六年)頃伊勢神宮に寄進している』。『子の景継は、長承四年(一一三四年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和二年(一一八二年)二月八日条には、その孫として長江義景の名が記されている』。『なお明治二十八年(一八九五年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められている。ただし、実在の鎌倉景政からはその名を借りるのみであることは言うまでもない』。『「尊卑分脈」による系譜では、景政を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の四世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の三世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景政は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景政の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする』。『景政の登場する系図は三種類あり、内二種類では香川氏や大庭氏、梶原氏などは景政の兄弟もしくは従兄弟に連なる家系としており、確かなことは判らない』とする。『横浜市内の旧鎌倉郡にあたる地域(現在の栄区・戸塚区・泉区・瀬谷区)に多く存在する御霊神社は概ね景政を祀っており、そのほか各地にも景政を祀る神社がある』とある。ともかく私は荒ぶる御霊となった彼がむちゃくちゃに好きなのである。彼のことやその所縁の鎌倉の御霊神社については、さんざん書いてきたので、ここではいちいち挙げないが、敢えて示すなら、『甲子夜話卷之三 24 權五郎景正眼を射させたること、杉田玄伯が説幷景正が旧蹟』が面白かろう。読まれたい。

「河州観心寺」「河州」は三河国。大阪府河内長野(かわちながの)市寺元にある真言宗檜尾山(ひのおざん)観心寺(グーグル・マップ・データ)。楠木氏の菩提寺で、楠木正成及び南朝所縁の寺として知られる。建武元(一三三四)年頃、後醍醐天皇により楠木正成を奉行として金堂の外陣造営の勅が出され、正平年間(一三四六年~一三七〇年)に完成した。同寺公式サイトのこちらによれば、『正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願され』たとあり、延元元(一三三六)年、神戸の湊川で討死後、正成の首級はこの寺に送り届けられ、首塚として祀られている』(こちらで写真が見られる)。『その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になって』しまったとある。夏にここを訪れた其角が、美しく咲く牡丹に正成の一時の寛ぎを幻視した懐古詠である。

「破扇の図」の「図」というのは絵ではなく、破れたひどく古い扇を「見て詠めるもの」の意であろう。「惟光が後架へ持し扇かな」の「惟光」(これみつ)は言わずもがな、光源氏の一の従者である彼。宵曲の挙げたのは「五元集」のそれで、「かくれ里」(片海編で宝永五(一七〇八)、六年頃の刊)では「後架」(こうか)は「厠」(かはや)となっており、また実際には「惟光」は「維光」と誤っているらしい。堀切氏は前掲書で、『この古びた扇は』、惟光が『蚊を追い払うために厠に持っていった扇でもあろうかと興じたのである』。「源氏物語」の『「夕顔」の巻の冒頭部の、惟光が夕顔の家の女童』(めのわらわ)『から香をたきこめた白い扇を受けとって源氏に渡す場面の〝雅〟を、「厠に持し」の〝俗〟に反転させた滑稽句である』とある。堀切氏の指示する「源氏物語」のそのシークエンスは、

   *

 切り掛けだつ物[やぶちゃん注:羽目板の一種。横板を羽重ねに張った塀。]に、いと靑やかなる葛(かづら)の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑(ゑ)みの眉(まゆ)開けたる。

「遠方人(をちかたひと)にもの申す。」

[やぶちゃん注:光は古今和歌集の旋頭歌(一〇〇七番)「うちわたす をち方人に もの申す我(われ) そのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも」の上句を以って問いに代えたのである。]

と獨りごち給ふを、御隋身、ついゐて、

「かの白く咲けるをなむ、夕顏と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲き侍りける。」

と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒(のき)のつまなどに這ひまつはれたるを、

「口惜(くちを)しの花の契りや。一房(ひとふさ)折りて參れ。」

とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。

 さすがに、されたる遣戶口(やりどぐち)に、黃なる生絹(すずし)の單袴(ひとへばかま)、長く着なしたる童の、をかしげなる出で來て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを[やぶちゃん注:香を強く焚きしめたために色づいている白い扇を。]、

「これに置きて參らせよ。枝(えだ)も情けなげなめる花を。」

とて取らせたれば、門(かど)開けて惟光の朝臣(あそん)出で來たるして、奉らす。

   *

である。ああ、懐かしいねぇ。

「綱が立つてつなが噂の雨夜かな」乾裕幸氏編著「蝸牛 俳句文庫1 榎本其角」(一九九二年蝸牛社刊)によれば、『四月上旬』に『西上する嵐雪への餞別吟。渡辺綱が鬼退治をすべく』羅城門に『向かって発ち、その場に残った人々が綱のうわさ話をする。雨の降る暗い夜である』という『物語風の一句、雨夜が効いている。出典』(除風編「青莚」元禄一三(一七〇〇)年刊)『に「雑の句」として挙げる』とある。

「蚊をやくや褒姒が閨の私語」は、遊廓での自身を西周の幽王(紀元前七五一年~紀元前七七一年)に、相手の遊女を彼の二番目の后で笑わぬ美女、文字通り、傾城の褒姒(ほうじ)に擬えたもの。私の好きな話であるが、ウィキの「褒姒」から引いておこう。「史記」の「周本紀」に『記された彼女の物語は、以下のようなものである』。『夏の時代、宮中の庭に神龍が出現した。夏の帝は龍に漦』(ぎ)『(口の泡)を貰い、箱に納めた。やがて夏王朝は亡び、この箱は殷王朝に伝わる。さらに殷が亡び、箱は周の王家に伝わったが、その数百年の間に、一度も開けられることがなかった』。『周の厲王』(れいおう)『の世になり、この箱を開いたところ、中から泡が発して庭じゅうに溢れだした。やがて泡は一尾の蜥蜴と為り、後宮に入り、七歳の童女に遭った。やがて次代の宣王の時代、この童女が十五歳になったとき、男も無くひとりの女児を産んだ。人は恐れ、この子を捨てた』。『そのころ』、『巷間に』「檿弧萁箙 實亡周國」(檿弧(えんこ)萁箙(きふく) 実(げ)に周の國を亡(ほろ)ぼさん:山桑で作った弓に箕(木の一種の名)で出来た箙(えびら:矢筒) きっとそれが周の国を亡ぼすぞ」という童謡が流行った。『宣王が調査させると』、『確かに山桑の弓と萁の矢筒を売っている夫婦がいたので、捕えて殺そうとした。この夫婦は逃亡したが、途中で道ばたで泣いている捨子を見つけ、哀れに思って拾いあげ、ともに褒国に逃げた。その後、褒の者に罪があり、育ったこの捨子の少女を宮中に差し出して許しを乞うた。そこでこの褒国から来た少女を、褒姒と呼んだのである』。『幽王三年』(紀元前七八三年)、『王は後宮で褒姒を見て愛するようになり、やがて子の伯服が生まれた。周の太史(記録官)伯陽は「禍成れり。周は滅びん」と言った』。『褒姒は、笑ったことがなかった。幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした。ある日、幽王は(緊急事態の知らせの)烽火』(のろし)『を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。諸将はさっそく駆けつけたが、来てみると何ごとも無い。右往左往する諸将を見た褒姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。喜んだ幽王は、そののちたびたび烽火を上げさせたので、次第に諸将は烽火の合図を信用しなくなった。また王は佞臣の虢石父』(かくせきふ)『を登用して政治をまかせたので、人民は悪政に苦しみ、王を怨むようになった』。『王はとうとう当時の王后だった申后と太子宜臼(後の平王)を廃し、褒姒を王后にして伯服を太子にした。怒った申后の父の申侯は反乱して、蛮族の犬戎の軍勢と連合して幽王を攻めた。王は烽火を上げさせたが、応じて集まる兵はなかった。反乱軍は驪山で幽王を殺し、褒姒を捕え、周の財宝をことごとく略奪して去った。この乱で、西周は滅びたのであ』ったとある。一句は蚊遣りの煙から烽火を、次いで褒姒を大胆に連想させて、江戸の遊廓を皇帝の後宮と模様替えさせというアクロバチックな手法を見せる面白い艶句である。なお、実際には其角は「褒姒」を「褒似」と誤って書いている。

「伊勢の鬼見うしなひたる躍かな」句意不詳。「伊勢の鬼」とくれば、「伊勢物語」の「芥川」であるが、「躍(をどり)」が判らぬ。以下遊びの解釈――「伊勢」を、また、別に「伊勢海老」と二重に意味させれば、それをそのまま焼く「鬼殻焼き」が連想で出て「鬼」に繋がる。そうすると「躍」は「踊り食ひ」か? 「鬼」殻焼きにしないで(「見失」って)、活き身のみを「躍」り食いとしたということか? よく判らぬ――というのはムリ。季題がなくなる。「躍」は「盆踊り」で夏のそれである。伊勢には三重県度会郡南伊勢町押渕には「鬼ヶ城」があり、鬼が棲んでいたという伝承があることを思い出した。「伊勢志摩きらり千選」の「押渕の鬼が城と滝」に写真入りで、『ここに住んでいた鬼は、田畑を荒らしたり、女子供をさらったり、恐れられていたが』、『松阪在で焼き殺されたという言い伝えがある』。『また』、『愛州の殿様に弓で射られた牛鬼は、ここの鬼だろうか』(牛鬼は同サイトのこちらを参照)とあった。さすれば、伊勢の民草は嘗て鬼がいて散々な目に遭ったことを最早忘れて盆の踊りに興じていることだ、という意か? 識者の御教授を乞うものである。

『蕪村の「滝口に燈を呼ぶ声や春の雨」』安永三(一七七四)年の作。清涼殿の庭を警護する武士は清涼殿東庭北東にある「滝口」と呼ばれた御溝水(みかわみず)の落ち口近くにある渡り廊を詰所にして宿直(とのい)した。彼らのことを「滝口の武士」この詰所を「滝口の陣」などと呼んだ。ここは後者で、春雨の降る夕暮れ、夕闇が御所の奥にひた寄せる頃おい、滝口の辺りで「早く灯をともし来たれ!」と呼ぶ声がする、という平安絵巻のワン・シーンのような時代仮想詠である。

「実方の長櫃通る夏野かな」実在する人物ながら、貴種流離譚的伝承の多い藤原実方(さねかた 天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)を夢想した蕪村の時代詠。実方は歌人として知られ、左大臣師尹(もろただ)の孫。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父済時(なりとき)の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任した後、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任したまま、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集。藤原公任・大江匡衡、また、恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、歌合せなどの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人(まいびと)としても活躍し、華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持った。奔放な性格と家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い、「歌枕見て参れ!」と言われて陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから様々に説話化された。松尾芭蕉も実方に惹かれており、「奥の細道」にも複数回登場する。例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道』を参照されたい。本句もそうした晩年の彼の北への旅の空想時代詠である。

「寒月や衆徒の群議の過ぎて後」前書もなく、具体時代や場面が判らないこと、読者がそれぞれ勝手に画面を構成せざるを得ないことから、宵曲は「画趣に乏しい憾はある」と述べているのである。所持する蕪村の評釈書では諸家は「平家物語」の俤(おもかげ)を通わすとか、比叡山をロケ地と仮定してみたりしている。モノクロームの戦前の時代劇映画のワン・シーンを想起させはするものの、やはり言い足りておらず、投げ出した遊びの句でしかない。

「射干(ともし)してさゝやく近江やはたかな」正岡子規は「俳人蕪村」(『日本』明治三〇(一八九七)年連載)で、彼の絵画的な句十四句を挙げた中にこれが入っている(そこでは「射干(ともし)して」は「照射(ともし)して」とする)。「近江やはた」(現在の近江八幡市。グーグル・マップ・データ)は京都と東国・北国との交通の要めに当たったため、天下統一を目論む戦国大名たちにとって是非とも抑えておきたかった要地であり、後の関白秀次によって城下町として発展し、江戸時代には近江商人の在郷町として栄えた。そうした者たちの謀議のさまを、揺れる燈心の火一点を描いてシルエットにした時代詠であろう。

「相阿弥の宵寝起すや大文字」安永六(一七七七)年の七~八月の作。相阿弥(そうあみ/歴史的仮名遣「さうあみ」)は足利義政に仕え、銀閣寺(臨済宗慈照寺)の庭を作った人物。銀閣寺は大文字の背後に当たるので、今の五山送り火の「大文字焼き」(現在、京都市左京区浄土寺の如意ヶ嶽大文字山(グーグル・マップ・データ。山から東北位置に慈照寺があることが判るように配した)で八月十六日に五山の内で最初(午後八時)に点火される)を見たら、さぞや、びっくりして目が醒めるだろう、と戯れたもの。蕪村の句は好きだが、どうもこれらは皆、古びて誰も見もせず、評価もしなくなってしまった雨の降るコマ送りの時代劇映画を見るようで、どれも私には面白くない。]

 其角の句の特色が主として人事的興味にあり、都会人一流の鋭敏な感覚を生命とすることは、已に記した通りである。其角集中における自然は、人寰(じんかん)を去ること遠からざるものが多い。

[やぶちゃん注:「人寰」世間。巷(ちまた)。]

 水影や鼯わたる藤の棚        其角

[やぶちゃん注:「鼯」は「むささび」。]

 暁の氷雨をさそふや郭公       同

[やぶちゃん注:「氷雨」は「ひよう(ひょう)」と読む。雹(ひょう)。]

 水うてやせみも雀もぬるゝ程     同

 夕立にひとり外みる女かな      同

 包丁の片袖くらし月の雲       同

 家こぼつ木立も寒し後の月      同

[やぶちゃん注:「後」は「のち」。]

  園城寺にて

 からびたる三井の二王や冬木立    同

[やぶちゃん注:「園城寺」は「をんじやうじ(おんじょうじ)」。]

  市中閑

 初雪や門に橋ある夕間ぐれ      同

[やぶちゃん注:「門」は「かど」。]

 冬川や筏のすわる草の原       同

[やぶちゃん注:「筏」は「いかだ」。]

 この種の句は其角の本領と見るべきものではないかも知れない。ただ最も長く価値の変らぬものであろうと思う。其角の句を以て頭から難解なものときめてかかる人は、先ずこれらの句を三誦する必要がある。

[やぶちゃん注:「水影や鼯わたる藤の棚」「鼯」(むささび)は哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista(全八種で東アジア・南アジア・東南アジアに分布)で、本邦に棲息するのは、日本産固有種ホオジロムササビ Petaurista leucogenys である。博物誌は私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 䶉(たけねずみ)・鼯鼠(むささび/のぶすま) (タケネズミ・ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。本句は実際に其角が見たそれを叙景したものであろう。見事にして何か夢幻的に美しいのは、あくまでそれを池塘の水面(すいめん)に映った景観として、カメラを終始、水面(みなも)に向けたままに描出している点にある。私の偏愛する、セルジュ・ブールギニョン(Serge Bourguignon)監督/アンリ・ドカ(Henri Decaë)撮影の一九六二年の映画「シベールの日曜日」(Cybèle ou les Dimanches de Ville d'Avray:「シベール、或いはヴィル・ダヴレィの日曜日」)の公園の池のシークエンスのように。

「暁の氷雨をさそふや郭公」堀切氏は前掲書で、『「氷雨」は「ひさめ」であるが、ここは句調からみて『続猿蓑』に』「雹」『の字が当ててあるのに準じて「ひょう」と読むべきか』ととされておられる。「続猿蓑」(芭蕉七部集の一つ。沾圃(せんぽ)が撰したものに芭蕉と支考が加筆したとされる。元禄一一(一六九八)年刊。蕉門の連句・発句が集められ、〈軽み〉」の作風が示されるものとされる)の「夏之部」の巻頭の「郭公」(ほととぎす)の巻頭に、

 暁の雹をさそふやほとゝぎす

で配されてある(「暁」の字体はママ)。

「水うてやせみも雀もぬるゝ程」これは「花摘」には『三日 巴風亭』の前書がある。堀切氏前掲書によれば、これは元禄三(一六九〇)年六月三日(グレゴリオ暦七月八日)で、巴風は『其角門の俳人』とある。

「夕立にひとり外みる女かな」其角の句の内でも私の偏愛の一句。

「包丁の片袖くらし月の雲」「包丁」(はうちやう(ほうちょう))は本来は包丁士、則ち料理人のことを指し、ここはその原義である。当時は大名家や富んだ町人は専属の料理人を抱えていた。堀切氏は、『月見の宴などのことであろう。折りから月に叢雲(むらくも)がかかって、庭前で腕をふるう料理人の片袖に、一瞬影が落ちたのをとらえたのである。その影は、宴に連なる人々の胸にも、ふと秋の夜の陰影を投げかけたのであろう。鋭い観察眼が働いている』と評しておられる。

「家こぼつ木立も寒し後の月」乾裕幸氏編著「蝸牛 俳句文庫1 榎本其角」(一九九二年蝸牛社刊)によれば、『古家をとり壊したあと、がらんとなった空地に冬木立が寒々と残って、九月十三夜の月光に照らされている。からび』た『≪景気≫を詠んだ句。人事句に長(た)けた其角には珍しい』と評しておられる。

「園城寺」滋賀県大津市園城寺町にある天台宗長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。本尊は弥勒菩薩。日本三不動の一つである黄不動で知られる。一般には「三井寺(みいでら)」として知られる。この通称は寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから、「御井(みゐ)の寺」と称されていたものが転じて「三井寺」となったと言われる。

「からびたる」古びて落ち着いた感じとなっているとか、古ぼけてはいるが、そこに枯淡な美しさがあるといったの意。

「三井の二王」ウィキの「園城寺」によれば、同寺の大門は仁王門とも呼ばれ、『入母屋造の楼門』で、『もとは近江国の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった室町時代の宝徳』四(一四五二)年に『建てられた仁王門であるが、豊臣秀吉によって伏見城に移築されていたものを慶長』六(一六〇一)年に『徳川家康が寄進したものである』とある。堀切氏は前掲書で、『冬枯れの木立の中に三井寺の山門が見える。その山門の両脇には、色彩がはげ、ひびも入って、もはやからび切った感じのする仁王像が対峙しているという情景である。本来』、『勇猛な形相で力感溢れる仁工像を、蕭条たる冬景色に配して、これを「からびたる」ととらえたところが一句の眼目であり、詩人としての其角の感性が鋭く発揮された点でもあろう。冬木立に囲まれた山門をやや遠望するところから、やがてその山門の仁王像に接近してゆくという、視点の移動のしかたも巧妙である』と素敵な評釈をなさっておられる。

「初雪や門に橋ある夕間ぐれ」これは『続(つづき)の原』(不卜編・貞享五(一六八八)年自序)の句形で、「続猿蓑」では、

 初雪や門に橋あり夕間ぐれ

で、私はその方がよいと思う。乾氏は前掲書で、『夕暮時、うっすらと初雪が積る。門前の橋にも積って美しい。友人は歓迎するが、この橋の雪を踏み荒されるのは惜しいような気もする。「門に橋あり」で、橋上に積る初雪の新鮮さを暗示しているのは巧みな措辞である』とこれまたお洒落な評釈をしておられ、同感である。

「冬川や筏のすわる草の原」この句も私の好きな一句である。]

 其角の一生には芭蕉が「たよりなき風雲に身をせめ」といったようなものは見当らない。その旅行の迹(あと)を尋ねて見ても、貞享年間に一回、元禄年間に二回、東海道を京に上ったことがあるだけで、他は箱根から江の嶋鎌倉に遊ぶ程度の遊行に過ぎぬ。京都の滞在はいつも相当長く、元禄元年の時も同七年の時も、年を越して江戸に帰っている。その間京洛を中心として、各地に遊んでいることはいうまでもない。

 閑さや二冬なれて京の夜       其角

[やぶちゃん注:「閑さや」は「しづかさや」。]

という句は、元禄七年から八年にわたる滞在の産物である。

 今其角の紀行として伝わっているのは、『新山家(しんさんが)』(貞享二年)と『甲戌(こうじゅつ)紀行』(元禄七年)との二種であるが、さのみ特色あるものではない。『新山家』の句は時代が時代だけに多少生硬を免れず、

 さみだれや湯の樋外山に煙けり    同

 岩根こす鞋に鱗あり走鮎       同

[やぶちゃん注:「いはねこす くつにひれあり はしりあゆ」。]

  円覚寺

 法の声空しき蠹の崛かな       同

[やぶちゃん注:「のりのこゑ むなしくしみの いはほかな」。]

等、いずれも其角の真面目を発揮するに足らぬものである。

[やぶちゃん注:「真面目」「しんめんぼく」。本領。真価。]

 『甲戌紀行』はまた『随縁紀行』ともいう。『句兄弟』に収めたものは他の同行者の句を併記し、『錦繡緞(きんしゅうだん)』には自身の句だけ録してある。紀行というものの地の文はなく、前書と句と相埃まって行程を辿り得るに過ぎぬ。けれどもこの旅行は時日も長く、触目の事柄も多いだけに、その句も誦すべきものが少くない。

  箱根峠にて

 杉の上に馬ぞみえ来るむら栬     其角

[やぶちゃん注:「栬」は「もみぢ」。紅葉。]

  三嶋旅中佳節

 門酒や馬屋のわきの菊を折      同

[やぶちゃん注:「門酒」は「かどざけ」、「折」は「をる」。]

  うつの山

 うら枯や馬も餅くふうつの山     同

  二股川

 打ツ櫂に鱸はねたり淵の色      同

[やぶちゃん注:「櫂」は「かい」。歴史的仮名遣は「かき」のイ音便であるから「かい」でよい。]

  雲津川にて

 花すゝき祭主の輿を送りけり     同

[やぶちゃん注:「輿」は「こし」。]

  三輪

 むらしぐれ三わの近道たづねけり   同

 僧ワキのしづかにむかふ薄かな    同

  よしのゝ山ふみす

   白雲岑(みね)に重り煙雨谷を埋み

   て山賤(やまがつ)の家所々にちひ

   さく西に木を伐(き)る音東にひゞ

   き院々の鐘の声心の底にこたふ、寒

   雲繡石といふ句に思ひよせて

 高取の城の寒さよよしの山      其角

[やぶちゃん注:「寒雲繡石」は「かんうんしうせき(かんうんしゅうせき)」。]

   住吉奉納

 蘆の葉を手より流すや冬の海     同

 句は得るに従って録したものが多いのであろう。平生の句に比すれば素直でもあり、自然でもある。これは其角に限らず、あらゆる人が旅行から得る功徳の一であるが、子細に点検すれば都会人たる其角の面目は随所に窺われるように思う。三輪における「僧ワキ」の句の如き、最もその才気を見るに足るものであろう。其角はこの旅行の時、堺から大坂に出てはじめて芭蕉が御堂前(みどうまえ)の花屋に病むことを知った。直に駈付けて最後の病牀に侍した顚末は、『枯尾花』一巻に尽きている。其角が蕉門の人々の間に重きをなしていた消息も、芭蕉臨終の折の様子を見れば、ほぼ合点が行くようである。今日のように電報や急行列車のある時代ではない芭蕉重態の報が江戸に達するにも相当の時間を要し、これを聞いて急行するにしても自(おのずか)ら時間の制限がある。平素さのみ遊行を事とするでもない其角が、たまたま関西の地にあったために、芭蕉の臨終に間に合ったということは、偶然のようであって偶然でない。蕉門第一の逸材であり、最も古い弟子でもある其角と、「夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」旅の空で最後の対面が出来たのは、芭蕉に取っても大なる満足であったに相違ない。芭蕉と其角との因縁は意外に深かったのである。

[やぶちゃん注:「たよりなき風雲に身をせめ」松尾芭蕉の俳文「幻住庵記」(元禄三(一六九〇)年四月から七月までの四ヶ月間、門人の菅沼曲水の奨めで隠棲した小庵での生活や感想を記したもの。同四年刊の「猿蓑」に所収された)の終わりに近い一節。但し、正しくは「たより」ではなく、「たどり」である(深く考えることもなく・無分別な)。

   *

一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞(らう)じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。

   *

「貞享年間に一回」貞享元(一六八四)年二月十五日(二十四歳)、江戸出立。六月五日に住吉神社での西鶴・矢数俳諧独吟興業に立ち合っている。

「元禄年間に二回」元禄元(一六八八)年(二十八歳)に上京し、九月十日に素堂亭残菊の宴へ出席の後、父東順の故郷堅田への旅に出、十一月二十二日には前年に亡くなった其角に母宗隆尼の遺骨を堅田に葬った。今一つは、元禄七(一六九四)年(三十四歳)に「句兄弟」(三巻・其角撰)の選句のために上京したが、この折りの十月十二日、芭蕉の臨終(享年五十二)に立ち逢うことができ、無論、粟津義仲寺への葬送にも付き添った。

「箱根から江の嶋鎌倉に遊ぶ」元禄四(一六九一)年八月、大山や江ノ島へ旅している。以「甲戌紀行」によってこの旅が刊行されたのと同じ元禄七(一六九四)年甲戌(きのえいぬ)年中のことであることが判る。

上の其角の事跡はサイト「詩あきんど」の「其角年譜」に拠った。

「岩根こす鞋に鱗あり走鮎」「鞋(くつ)」は滑らぬように履いた「草鞋」(沢登りでは今も草鞋を履く。私も履いた)。「鱗(ひれ)あり」はふと気が付くとその草鞋に魚の鱗が張りついて光っていた――そうか、鮎が遡上し始めたのだ――という意で採る。

「蠹(しみ)」節足動物門昆虫綱シミ目シミ科ヤマトシミ属ヤマトシミ Ctenolepisma villosa(やや褐色を呈し、日本在来の室内種)及び同属セスジシミ Ctenolepisma lineata(茶褐色で光沢に乏しく、背に縦線模様を持つ)。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)」を参照されたい。なお、この漢字は鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目(亜目) Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類を指す漢字でもあるので注意。

「崛(いはほ)」「巖」。

「錦繡緞(きんしゅうだん)」其角編「俳諧錦繡緞」(元禄一〇(一六九七)年刊)。但し、堀切氏の前掲書の「出典俳書一覧」には、本書について『この書の成立については、近年疑義がだされている』と注記がある。

「三嶋旅中佳節」乾氏前掲書に「句兄弟」と後の「随縁紀行」に載り、前者では『三嶋にて旅行の重陽を』と前書きするとある。従って、この時の旅で三島宿に泊まったのが、元禄七年の丁度、九月九日(一六九四年十月二十七日)であったから、馬を繋いだ「馬屋の」脇にこれまた偶然にも美しく咲いていた「菊を折」り採って、この旅出の幸いを祈る「門酒」(かどざけ:出立や到着の折りに予祝や無事のそれを盃(さかづき)事に込めた)に浮かべて、序でに無病息災を祈ろうではないか、というのである。重陽の節句は、古来、中国より、邪気を払って長寿を願い、丘に登っては菊の花を飾ったり、その花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったものであった。

「うつの山」静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある宇津谷(うつのや)峠。古くから歌枕として「伊勢物語」の第九段〈東下り〉や、それをモチーフとした俵屋宗達の屏風絵「蔦の細道」で知られる。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「日本の美術」の「蔦の細道図屏風:宗達の世界」がよい。「伊勢物語」の原文も引かれてある。名物「十団子(とうだんご)」が知られていた。ウィキの「十団子」(とうだんご)によれば、『和菓子の一種で、団子または類するものを紐や串でつなげたもの』とし、『現在の静岡県静岡市駿河区にある宇津ノ谷は、東海道の宇津ノ谷峠のそば』『で』、『道中の軽食に売られ』ていた。『江戸時代の紀行文や川柳からは、小さな団子を糸で貫き』、『数珠球のようにしたものと知れる。地蔵菩薩の教えで作り、子供に食べさせると』、『万病が癒えると』して『売られていた』という。彦根藩士で蕉門の許六の、元禄五(一六九二)年七月十五日頃、藩主の参勤に従って彦根から江戸へ出府する途次のここでの吟、

  宇津の山を過(すぐ)

 十團子(とおだご)も小粒になりぬ秋の風

が知られる。この「餅」も或いはこれだったか。

「うら枯」秋の末、草木の枝先や葉先が枯れてきて、それが寂しさを感じさせることを言う。

「二股川」二俣川。現在の静岡県浜松市天竜区を流れる天竜川の支流二俣川(グーグル・マップ・データ)があるが、ここはその周辺の旧地名。

「打ツ櫂に鱸はねたり淵の色」堀切氏の前掲書では、「句兄弟」のそれを引き、

  二股川、椎河脇(しいがわき)の御社(おやしろ)

  は尤(もつとも)切所(きりしよ)也

 打櫂(うつがひ)に鱸はねたり淵の色

とする。「椎河脇の御社」は現在は天竜川右岸の椎河脇神社(グーグル・マップ・データ)で、直近の下流左岸で二股川が合流する。「切所」は難所の意。「打櫂(うつがひ)」の場合は堀切氏によれば、『柄の短い櫂(かい)』で、『舟夫はこれを片手で操って水を搔き、また舵の用にも働かせる。川舟の漁師などの多く使うもの』とある。「鱸」は淡水魚である条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。淡水魚と私が書くのを不審に思われる方は、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸 (スズキ)」の注を読まれたい。其角は恐らく「平家物語」の巻一で若き清盛の熊野詣の舟に飛び込んだ鱸の瑞兆譚を意識して、言祝ぎとして、この事実を句にしたものと思う。

「雲津川」三重県を流れる雲出川(くもずがわ)(グーグル・マップ・データ)と思われる。但し、「五元集」を見ると、前に外宮・内宮を詠じた句作を認め、其角は元禄元(一六八八)年九月下旬に伊勢参宮をしているようである。

「三輪」大和国三輪山麓。現在の奈良県桜井市大字三輪(グーグル・マップ・データ)。

「僧ワキのしづかにむかふ薄かな」私の偏愛する一句。「随縁紀行」の中にあり、「句兄弟」「錦繡緞」「五元集」に所収する。「五元集」では「在原寺にて」と前書する。在原寺は廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は阿保親王と在原業平を祀る在原神社(奈良県天理市櫟本町(いしのもとちょう)。グーグル・マップ・データ)となっている。ここは御大河東碧梧桐 の「其角俳句評釈」(明三七(一九〇四)年大学館刊)から引く。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。

   *

これも甲戌紀行中の句で在原寺に詣つた句である。在原寺のことは謠曲井筒に脚色してあつて、一人の僧が在原寺を尋ねて、紀の有常の女の幽霊に邂逅する、といふ筋であるが、其角が其處へ詣つた時、直に井筒のことを思ひ出して、実際の在原寺ではあるけれども、それを謠曲中の一つの舞臺と見倣してそこに詩興を呼起したのである。大方在原寺の中には花芒が淋しげにあつたものであらう。能樂の僧脇が靜かに立向ふて居る光景を眼前に書き出して、實際生えて居る芒とそれとを結びつけて其兩々相對する淋しみを賞したのである。言はゞ一腫のパノラマのやうなもので、僧脇は畫であつて芒は實物である。が、兩者の配合調和のよい爲め、僧が畫か、芒が畫か、何れが實物か渾然として區別の出來ぬやうな趣きがある。固と[やぶちゃん注:「もと」。]能樂の僧脇といふものゝ風俗は、寸法師[やぶちゃん注:「角帽子(すみばうし)」の転。能装束の一つ。上が尖り、後ろを背中へ長く垂らす頭巾。]といふ被りものに水衣[やぶちゃん注:「みづごろも」。能装束の一つ。単 (ひとえ) の広袖で衽 (おくみ) のある上衣。]をつけ、それに單純な着流し姿であるから、其姿の古雅なること、之を草花に替へても、芒に比するの外はない位なものであるが、それを暗に對比して「靜にむかふ」と書いた處は、よく其對比の趣味を失はず、寧ろ比喩以上の味ひを存する處敬服に餘りある。淋しみ即ち消極美を歌ふた其角集中の好句に數へ入るべきものであらう。

   *

この句を読むたび、あたかも叢薄(むらすすき)に向かう無言の其角の実際の身体から、ワキ僧となった其角の分身が半透明なままに進み出でてくる錯覚を私はいつも起こす。直接に其角の琴線に触れたのは、恐らく謡曲「井筒」の、

   *

シテ〽昔男の

地〽名ばかりは 在原寺(ありはらでら)の跡古りて 在原寺の跡古りて 松も老いたる塚の草 これこそそれよ亡き跡の 一叢(ひとむら)薄(ずすき)の穗に出づるは いつの名殘りなるらん  草茫々として 露深々(しんしん)と古塚(ふるつか)の まことなるかないにしへの 跡なつかしき氣色(けしき)かな 跡なつかしき氣色かな

   *

章歌であったろう。なお、能「井筒」はサイト「第八回 淡海能」のこちらが全詞章の原文と訳に舞台衣装のイラストもあってお薦めであり、また、サイト「佐高八期会」の石井俊雄氏の『伊勢物語「筒井筒」と能「井筒」』も素材二本の原話をコンパクトに非常に判り易く纏めておられ、よい。

「よしのゝ山ふみす」「高取の城の寒さよよしの山」堀切氏の前掲書に『吉野山から高取の古城を望見したときの吟』で、『今、遥かに望む高取城の荒涼とした山容は、じつに寒々として眺められるというのである。「城の寒さよ」には、廃墟の地に南北朝の昔を偲ぶ心の寒さも託されているのであろう』と評しておられる。奈良県高市郡高取町高取にあった南朝方の要害の地であった高取城はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。南東約九キロメートル位置に吉野山はある。

「寒雲繡石」堀切氏の注では「随縁紀行」の前書が記されてあるが、それを見ると、これは「寒雲繡磐石」(かんうんしうばんせき(かんうんしゅうばんせき))となっている(堀切氏はそこに『かんうんしようばんせき』というルビを振っておられるが、この「しよう(しょう)」は「しゆう(しゅう)」の誤りであろう。なお、個人的には「かんうんしゅうばんじゃく」と読みたくはなる)。峰々から湧き出でた如何にも寒々とした重い雲と、その下に横たわる永い年月を刺繡のように刻み込んだ巨石の意としては判るが、この五字の語句の出典は見当たらない。禅語(「虚堂録」(南宋末の禅僧虚堂智愚)他)の、

 寒雲抱幽石 霜月照淸池

  寒雲 幽石を抱(いだ)き

  霜月(さうげつ) 淸池(せいち)を照す

辺りが出所か。

「住吉」大阪府大阪市住吉区住吉にある摂津國一宮住吉大社(グーグル・マップ・データ)。

「蘆の葉を手より流すや冬の海」元禄七(一六九四)年十月の吟。]

 以下の「(附記)」は底本では、本文一行空けで、表題を含めて全体が各上初行を除いて二字下げ(それぞれ各条の本文一行目は最初の『一』のみが二字目に飛び上って出ている)。]

 

    (附記)

一、其角の句を説くに当って、難解なる句の解釈に及ばぬのは、頗(すこぶ)る当を得ぬようであるが、この点に関しては往年の『其角研究』がほぼこれを尽しており、其角の手品も大方種明しが済んでいる。今『五元集』中難解の句を挙げて説こうとすれば、『其角研究』における諸先輩の説を請売するより仕方がない。これまで述べ来ったところといえども、勿論『其角研究』の御蔭を蒙っている点が多いのだから、この上難解な句を掲げて、物議めかしい解釈にわたることは差控えたいのである。多面的な其角の句は、この種の文章を以て容易に尽すべしとも思われぬ。其角の句を以て一概に奇を弄した難解なものとする以外に、多少その面目を伝え得れば本文の目的は足るのである。

一、蕪村をはじめ天明の諸作家には、明に其角の影響が認められる。蕪村が『華摘』に倣って『新華摘』を書き、几董(きとう)が『雑談集(ぞうだんしゅう)』に倣って『新雑談集』を著したというような、見やすい点ばかりではない。各家集中の作品について、其角の影響を受けた迹をいくらも指摘し得るような気がする。もう少し進んでいえば、天明諸作家の句は、本質的に芭蕉よりも其角に近いということになるかも知れない。しかしその点を明にするには、どうしても天明時代の句を改めて検討してかからねばならぬ。敢てその煩を厭うわけではないが、同一題目の下に筆を行(や)ることが存外長くなったし、其角と天明との交渉はまた出直しても遅くない問題だから、更に他日を期したいと思う。

[やぶちゃん注:『其角研究』昭和二(一九二七)年アルス刊の寒川鼠骨・林若樹編のそれであろう。

「雑談集」其角著。元禄五(一九九二)年刊。]

2020/04/24

三州奇談卷之五 邪宗殘ㇾ妖

 

    邪宗殘ㇾ妖

 蘆峅(あしくら)の姥堂(おんばだう)は、則(すなはち)立山禪定(ぜんじやう)の麓にして、諸人の知る所、衆の尊む所なり。佛說に依りていへば、事古きに似たり。暫く好事(かうず)の人のかたりしを聞くに、

「此姥堂の本尊の躰(てい)は、古への帝王のハウコと云ふ物なり。我れ南都興福寺の開帳をみるに、『神武天皇のハウコなり』とて拜ませたり。則ち此ものなり。傳へ云ふ、『皇后孕み給ふ事あれば、必ずハウコといふ物を作りて、是を祭り拜す。皇子御降誕ありて後、此物を捨つ。今小兒の翫(もてあそ)ぶ物多く是に始まる。之に依て見る時は、此(この)本尊又朝廷のもて遊び物なり』と。」

是れ實か非か、未だ尋ね沙汰することなし。今思ふに、北倭蝦夷(ほくわえぞ)の事を聞くに、必ず此事あり。「かもい」といふ像を作り、逆木(さかぎ)をけづり、是を病人の枕元に立てゝ祭り、其後病(やまひ)癒ゆる時は是を山に捨つ。日本も又上古は是にひとしき事も多かりし。像を立つること、南蠻多く是をなし、耶蘇天人華宗始めは壽像を造りて年壽を祈り、其後美人を畫(か)き愛敬(あいぎやう)を祈る。良々(やや)趣同じ。是文字等に依らざるの國は古へは皆斯くの如し。

[やぶちゃん注:表題は「邪宗(じやしゆう)、妖(えう)を殘(のこ)す」。

「蘆峅の姥堂(おんばだう)」現存しないが、現在の富山県中新川郡立山町(まち)芦峅寺(あしくらじ)のこちらに「姥堂跡」がある(グーグル・マップ・データ)。「おんばだう」の読みは、サイド・パネルにある解説版写真に従った。但し、そこでは「𪦮堂」と表記されてあり、「ウィクショナリー」の同字の解説には、『富山県中新川郡立山町の地名に用いた日本の国字。𪦮堂で「うばどう」と読む』とある。以下に画像から視認して電子化する。

   *

𪦮(おんば)堂

𪦮(おんば)堂は、江戸時代芦峅寺(あしくらじ)中宮寺の最も重要な行事である布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)の際の中心的な施設でした。布橋灌頂会とは、女性の極楽(ごくらく)往生の願望をかなえてくれる宗教儀式です。𪦮堂内には、中心となる𪦮尊像3躰を始め、全国66か国に因(ちな)んだ66躰の𪦮尊の合計69躰の𪦮尊が安置されていました。布橋を渡り、𪦮堂に導かれた女性たちは、いっとき籠(こ)もりを体験し、さらに立山の姿を仰ぐことで極楽浄土に生まれかわるというものでした。

𪦮堂は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により取り壊されました。

   *

次に、平成二八(二〇一六)年七月十四日に「とやま自遊館」で行われた、第百八十九回「河川文化を語る会」での北陸大学未来創造学部准教授福江充氏の講演「立山曼荼羅に表徴された常願寺川水系の水神信仰」という講演のレジュメPDF)を見て戴くのがよい。そこには、往時の面影を伝える「立山曼荼羅」(カラー画像)が掲げられ、その指示ナンバー「44」位置(屏風曼荼羅の最も右の最下方)に𪦮堂と𪦮尊像が描かれてある(後の「布橋灌頂会」の条以下に𪦮堂その他の美麗な拡大画像がある)。以下、「立山曼荼羅」の解説に続いて、「布橋灌頂会」の解説が載る。以下、「芦峅寺で行われた布橋潅頂会」から。

   《引用開始》

 江戸時代、越中立山は山中に地獄や浄土がある“あの世”と考えられていた。

 人々はあの世の立山に入山することで擬似的に死者となり、地獄の責め苦に見立てられた厳しい禅定登山を行うことで、自分の罪を滅ぼして下山する。こうして新たな人格・生命に再生し、現世の安穏や死後の浄土往生が約束された。

 しかし、当時の立山は女人禁制の霊場であった。そこで、江戸時代、毎年秋彼岸の中日に山麓の芦峅寺村(現、富山県中新川郡立山町)では、男性の禅定登山と同義の儀礼として、村の閻魔堂・布橋・姥堂の宗教施設を舞台に、女性の浄土往生を願って「布橋大灌頂」と称する法会が開催された。

   《引用終了》

続く「布橋濯頂会の内容」によれば、『全国から参集した女性参詣者(実際は男性参詣者も参加していた)は閻魔堂』(先の「曼荼羅図」の姥堂の左手上方に堂と閻魔像と左右に冥官(司令・司録)の像が見られる)『で懺悔の儀式を受け、次にこの世とあの世の境界の布橋』(姥堂の前に描かれてある)『を渡り、死後の世界に赴く』。『そこには立山山中に見立てられた姥堂(芦峅寺の人々の山の神を根源とする姥尊が祀られている)があり、堂内で天台系の儀式を受けた』。『こうして、すべての儀式に参加した女性は、受戒し血脈』(けちみゃく)『を授かり、男性のように死後の浄土往生が約束されたのである』とある。次に「布橋潅頂会と大蛇伝承」の条があり、『芦峅寺村の伝承では、布橋大灌頂の参加者は、白布が敷き渡された布橋を目隠しをして渡ったが、信心が薄く、邪心のある者は、布橋が細蟹(クモのこと。また、クモの細)の網糸より細く見えてうまく渡れず、橋から姥谷川に転落し、その川に棲む大蛇に巻かれて死んでしまうという』と続くのであるが、「曼荼羅図」を見ると、橋の下に川中には龍が描かれ、しかも姥堂の上方には地獄の奪衣婆が描かれており、男女の亡者の姿が描かれているのは、まさにその末路を指すであろう。以下、少し後に「芦峅寺の姥尊信仰」の条が出る。

   《引用開始》

 江戸時代、立山信仰の拠点村落である芦峅寺は加賀藩の支配下に置かれ、38軒の宿坊を構え、同藩の祈願所や立山禅定登山の基地としての役割を果たしていた。宿坊の主人は加賀藩の身分支配上は宗教者として扱われ、衆徒と称された。

 芦峅寺衆徒は実生活上は焼畑も行い半僧半俗のかたちをとっていた。同時代芦峅寺集落には、芦峅中宮寺の施設として姥堂・閻魔堂・帝釈堂・布橋・立山開山堂・講堂・拝殿・大宮・若宮・立山開山廟所などが建ち並んでいた。このうち姥堂は、江戸時代、姥谷川の左岸、閻魔堂の先の布橋を渡った所に、入母屋造、唐様の建築様式で立っていた。

 堂内には本尊3体の姥尊像が須弥壇上の厨子に祀られ、さらにその両脇壇上には、江戸時代の日本の国数にちなみ、66体の姥尊像が祀られていた。その姿は乳房を垂らした老婆で、片膝を立てて座す。容貌は髪が長く、目を見開き、中には目をカッと開けたものや般若相のものもあり、いかにも恐ろしげである。

 現存の像は、いずれも南北朝時代(現存最古の姥尊は永和元年〔1375〕に成立したものである)から江戸時代にかけて作られている。

 この異形の姥尊は、芦峅寺の人々にはもとより、越中国主佐々成政や加賀初代藩主前田利家らの武将たちにも、芦峅寺で最も重要な尊体と位置づけられ、信仰された。

 芦峅寺が立山信仰の宗教村落になる以前から、同村には猟師や柚・木挽などの山民や焼畑農民が存在しており、彼らは山の神に対する信仰をもっていたと推測される。それは縄文時代につながるものかもしれない。芦峅寺の姥尊は、まずこうした山の神を起源とするものであろう。

 姥尊は、その後、同村が宗教村落として展開していくなかで、鎌倉時代頃から日本で盛んになった外来の十王信仰の影響を受け、南北朝時代頃までには、三途の川の奪衣婆と習合した。

 江戸時代になると奪衣婆の信仰が庶民に広まり、ますます盛んになるにつれ、芦峅寺の姥尊も奪衣婆そのものになっていった。しかし、おそらく妖怪的な奪衣婆では、外部者に対して体裁が悪かったのだろう。そこで衆徒たちは姥尊の縁起を作り、それに仏教の尊格を当てた。

 まず姥尊を立山犬権現の親神とし、次に阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・不動明王などの本地を説き、それが垂述して、醜いけれども奪衣婆的な姥尊の姿で衆生を救済するのだとした。

   《引用終了》

以上が、恐らく現在知り得る最も信頼出来る𪦮堂(姥堂)の歴史的事実である。原始仏教以来、ずっと続く仏教の男尊女卑の思想である如何なる修行や布施を行っても一度男に生まれ変わらなければ極楽往生は出来ないという「変生男子(へんじょうなんし)説」については、いろいろな場面で私は指弾してきたので繰り返さないが、この𪦮堂(姥堂)信仰は女人禁制の山岳信仰の差別内ではあるものの、女性の直接の極楽往生を現世的に演出する稀有の信仰形態であることが判った。

「立山禪定」立山に籠って修行をすること。

「ハウコ」これはまず「這子(はふこ(ほうこ))」を想起させる。小学館「日本国語大辞典」の「這子(ほうこ)」(歴史的仮名遣「はふこ」)によれば、『①這うことのできる乳児』とした後、『②(「おとぎははこ」(御伽母子)の「ははこ」の変化した語か)子どものお守りの一つ。布を縫い合わせ、中に綿を入れて、幼児の這う姿に作った人形。もろもろの凶事をこれに負わして厄除けにする。天児(あまがつ)、御伽這子(おとぎぼうこ)、はいはい人形。這形人形』とする。以下、「皇后孕み給ふ事あれば、必ずハウコといふ物を作りて、是を祭り拜す。皇子御降誕ありて後、此物を捨つ。今小兒の翫(もてあそ)ぶ物多く是に始まる。之に依て見る時は、此(これ)本尊又朝廷のもて遊び物なり」という謂いからも、邪気の身代わりの依り代の人形(ひとがた)としての類感呪術的装置と私には採れる。

「南都興福寺の開帳をみるに、『神武天皇のハウコなり』とて拜ませたり」このもの自体は不詳。興福寺の宝物に神武天皇のものがあるというのは検索でも掛かってこない。御存じの方がおられれば、御教授を願う。

「かもい」「カムイ」の訛り。ウィキの「カムイ」によれば、『アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在』を指し、『カムイは、本来神々の世界であるカムイ・モシリ』『に所属しており、その本来の姿は人間と同じだという。例えば火のカムイであるアペ・フチ・カムイ』『なら赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そしてある一定の使命を帯びて人間の世界であるアイヌ・モシリ』『にやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えばキムン・カムイ』『が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば』、『我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる』。『また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば熱病をもたらす疫病神パヨカ・カムイなども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェン・カムイ』『と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカ・カムイ』『と同様に畏怖される。カムイという言葉は多くの場合にただ「神」と訳されるが、このような場合は「荒神」と訳すべき時もある。例えばカムイコタンとは「カムイの村」という意味だが、多くは地形上の難所などであり、「神の村」というより「恐ろしい荒神のいる場所」とした方が実際のイメージに近い』。『語源には説がある。江戸時代中期の国学者谷川士清が著わした国語辞典である和訓栞』(わくんのしおり)『には、古い時代に日本語の「かみ(神)」を借用したものらしいとか書かれている』とある。但し、ここでこの人物が『「かもい」といふ像を作り』と言っているのは甚だ怪しい。現在、アイヌがカムイをシンボル化するような形象像を日常的に作ったり、祭ったりすることは、私はないと思うし、過去においてもなかったと思うからである。その点に於いて、この話者の話は全体が怪しく信じ難い、と読んだ途端に感じたのである。

「逆木(さかぎ)」所謂、アイヌの祭具の一つとして知られる「イナウ」である。但し、これは神像では決してない。ウィキの「イナウ」によれば、『カムイや先祖と人間の間を取り持つもの(贈り物・メッセンジャー・神霊の依り代)とされる。強いて言えば神道における御幣に相当するが、それよりも供物としての性格が強い』。『イナウの形状は御幣に酷似しているが、一本の木の棒からすべて削り出している点が御幣との違いである。イナウの用途は、神への供物である。アイヌの人々はカムイに祈り、願う際にイナウを捧げる。それによって人間側の意図するところがカムイに伝わり、カムイの側も力や徳を増すと考えられていた。また、新しくカムイを作る際、その衣や刀や槍などの材料とするといった用途もあった』。『イナウはカムイ・モシリ (kamuy mosir 神の世界)には存在しないものとされる。このような細かい工芸品は手先の器用な人間のみが作成可能で、カムイは人間から捧げられる以外、入手方法が無いのである』。『イナウの多様性は、カムイの多様性を表している。カムイによっては定まった樹種を好む』。『典型的なイナウは、直径数センチ程度の樹木を素材とし、表面を薄く削り出した房状の「キケ」を持っている。キケは大別して長短2種があり、形や削り方でさらに細分できる』。『イナウには性別があり、キケを撚』(よ)『る(男)か散らす(女)か、根(男)と梢(女)のどちらに向かって削るか、軸の上端を水平(男)に切るか斜め(女)に切るか、など、形によって表される』。『北海道では、捧げる相手と異なる性別のイナウを捧げる方が良いとされる』。『イナウの材料は自然木である。材料となる木をイナウネニとよび、通常はスス(ヤナギ)が使われたが、ウトゥカンニ(ミズキ)やシケレペニ(キハダ)で作られたものが上等品とされていた。木肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、木肌が黄色いキハダのイナウは金に変ると信じられていたからである。イナウ作りはアイヌの男の大切な仕事のひとつとされ、重要な祭礼などを控えた日には祭礼の行われる場所に泊りがけで集い、イナウを作成したという。特にイオマンテ(熊送り)やチセノミ(新築祝い)など重要な儀式には大量のイナウが必要となるため、準備期間のかなりの時間がイナウ削りに費やされた』。『イナウをつくるには、直径が3cmほどの素性が良いヤナギやミズキの枝を採集し、大体70cmほどの長さに切る。そしてきれいに皮を剥ぎ、木肌をあらわにして乾燥させる。乾燥させるのは、木肌を薄く削る作業を容易にするためである。充分に原料の枝が乾燥したら、先に木片を刺した小刀を使い、木の端の方向に薄く削る。削る作業の繰り返しで、あたかも枝の先に木片の房が下がる形にするのである(完成)。イナウの種類によって造り方も異なるが、乾燥させた素材を小刀で削り、木片を下げさせる工程は変わりがない』。『イナウを作成する際にでた削り屑や余った材などはそのまま捨てたりせず、集めて火にくべて燃やし、カムイの世界に送る』。『削った際に出た破片一つ一つもすべてカムイになると考えられているためである』とある。私は個人的に、何故だかわからぬが、このイナウに非常に惹かれるものが、小さな頃からあるのである。

「其後病(やまひ)癒ゆる時は是を山に捨つ」誤り。上記引用の末尾にあるように、『火にくべて燃やし、カムイの世界に送る』か、或いは家の外の祭壇に祀るのであって、これは前の「ハウコ」のような一過性の依り代などではない、もっと神聖なものなのである。

「日本も又上古は是にひとしき事も多かりし」最も似て見えるものは、所謂、「削り掛け」である。木片を刃物で削りかけ(縮らせた形)の状態にした、呪術的又は信仰的な飾り物。材質にはヌルデ・ニワトコ・ヤナギなどの木質が柔らかで細工しやすく、白く美しいものを選ぶ。両手で持つ専用の「花掻き」という刃物を使う所もある。薄く長く作って垂れ下げたり、十六花(じゅうろくばな)のように一本の木の所々に削掛けを拵えたり、粟穂稗穂(あわぼひえぼ:「あぼへぼ」とも呼ぶ。小正月にヌルデの木を六本ずつ束ねて前庭や堆肥の上に立てて豊作を祈る呪法。東北地方に多い。グーグル画像検索「粟穂稗穂」をリンクさせておく)のように皮のまま削りかけたのを竹に刺したり、さまざまな形がある。一般には旧暦一月十五日前後の小正月に、農作物の豊作を予祝するためにつくる所が多く、神棚・仏壇・大黒柱・長押(なげし)・堆肥の上或いは墓などに飾る。アイヌが熊送りのときに立てるイナウと称する幣束(へいそく)も削掛けの一種である。削掛けは紙の幣束の代用若しくは古形と考えられる(私は古形説を採り、アイヌのイナウは本邦の削掛けや神道の御幣よりも恐らくは古くからあったもので、平行進化したものと考えている)。郷土玩具のなかにもこの技法を取り入れたものがある。山形県米沢市郊外の笹野彫(ささのぼり)、東京都亀戸天満宮や福岡県太宰府天満宮の「鷽(うそ)」などが著名である(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「耶蘇天人華宗」意味不明。「耶蘇・天神・法華宗」で、イエスやマリアの偶像を祀るキリスト教や、菅原道真を神格としてその偶像を祀る天神信仰、日蓮を偶像化する日蓮宗の謂いか。或いは、「南蠻多く是をなし、耶蘇・天人・華宗」とするからには、キリスト教や、ギリシャ・ローマの神話世界の「天」界の「神々」を拝するもの、及び中「華」の「宗」教の一つである老子を祀る道教のことか。よく判らぬ。

「壽像」一般には「生前に作っておくその人の像」のこと。生きているかのようにリアルな頂相(ちんそう)のことであろう。

「年壽」長生き。

「美人」尊い御姿。女性に限らない。

「愛敬」愛し敬うこと。]

 耶蘇宗は天正の頃日本に盛(さかん)になりしが、代々明主にうとまれて、悉く御禁制となり、其徒も皆追返(おひかへ)されて、國々此宗旨絕えけれども、猶所々に執着の宗門の者殘りしが、西國の方には「天草の陣」發り、北方には大久保十兵衞從類、高山南坊(なんばう)が一族、及び津田勘兵衞・豬子(ゐのこ)・橫田等の者、年々に滅せられ、事皆靜まりしが、猶魚津鈴木孫右衞門と云ふ者ありて、猶此像を隱し、密(ひそか)に邪宗を信仰す。其謂れを聞くに、孫右衞門元來は高山南坊が法弟なり。高山呂宋(るそん)國へ送らるゝ頃、密に此像ども隱し置き、「宗門ころびたり」と稱して、魚津の郡代の許(もと)にあり。

[やぶちゃん注:「天正」は二十年までで、ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から行用された)に相当する。言わずもがな、カトリック教会の修道会イエズス会のフランシスコ・ザビエルの来日した天文一八(一五四九)年が布教の始まりであるが、理解を示した織田信長(天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日没)のお蔭で、天正前中期までが最も信者が増えた時期であった。豊臣秀吉が筑前箱崎(現在の福岡県福岡市東区)において「伴天連追放令」を発したのは天正十五年六月十九日(一五八七年七月二十四日)であった。

「大久保十兵衞」大久保長安(ながやす 天文一四(一五四五)年~慶長一八(一六一三)年)は江戸初期の代官頭・財政・鉱山担当の奉行。出自は猿楽師の子であった。当初は甲斐武田氏の家臣で、同家滅亡後は徳川家康に仕えた。家康の関東入国後は伊奈忠次とともに関東領国支配の中心となり、武蔵国八王子に陣屋(小門陣屋)を構えて指揮した。彼の検地は石見検地・大久保縄などとよばれ,伊奈氏の備前縄とともに,のちの幕府検地の代表的仕法となった。「関ヶ原の戦い」以後の支配地は一説に百二十万石以上ともされ、また、石見銀山・伊豆銀山・佐渡金山を奉行して孰れに於いても採掘に成功し、初期江戸幕府の財政基盤を確立した。東海道・中山道などの宿駅制度の確立や脇街道の整備などにも尽力したが、死後、生前の不正を理由に遺子七名が切腹を命ぜられ、一族・縁故者なども多量に処罰されたが、その真相は今も不明である(ここまでは平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。本篇でここで彼が切支丹であったとする記載は、一説には彼が任された鉱業に於けるアマルガム精錬と南蛮渡来の鞴(ふいご)を用いたことがそうした風説を生んだとも言われ、謎の死後の大粛清もそうした噂に拍車を掛けたものであろうが、現在、彼が切支丹であったとか、洗礼を受けたというような事実は全く見つかっていない。

「高山南坊」キリシタン大名高山右近(天文二一(一五五二)年から翌年頃~慶長二〇(一六一五)年)の号。秀吉の「伴天連追放令」を受けて、彼は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を総て捨て、暫くは小西行長に庇護され、小豆島や肥後国などに住んだが、天正一六(一五八八)年に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで一万五千石の扶持を受けて暮らした。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも、建前上は追放処分の身のままでありながら、前田軍に属して従軍し、最も悲惨な戦いであったとされる「八王子城の戦い」にも参加した。また、金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内に於ける築城法についての知識が大きく役に立ったとも言われる。利家の嫡男前田利長からも引き続いて庇護を受け、政治・軍事など諸事に亙って相談役になったと思われる。慶長一四(一六〇九)年には利長が隠居所とした富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現在の富山県高岡市)に築かれた新城高岡城の縄張を担当したともされる。しかし、慶長一九(一六一四)年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「切支丹国外追放令」を受けて、人々が引き止める中、加賀を退去し、長崎からマニラ(現在のフィリピンの首都で北のルソン島に位置する)に向かった(同年十二月到着した)。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けたが、慣れない船旅の疲れや気候の違いから、老齢の右近はすぐに病を得、翌年一月六日(一六一五年二月三日)に逝去した。享年六十三、マニラ到着から僅か四十日後のことであった(以上はウィキの「高山右近」に拠った)。

「津田勘兵衞」前田家臣。津田重次(?~慶安二(一八五一)年)。「加能郷土辞彙」に、『大學・和泉・勘兵衞と稱した。重久の子。慶長二年前田利長に仕へて五百五十石を賜はり、次いで百石を加へ、大小將となり、八年二百石を加增され、御小將頭に陞り、十五年父の後を継ぐに及んで祿五千五百石を領し、大聖寺城の守將となり、又大坂兩役に出陣して、後役に岡山口で槍功があり、三千五百石を加へられ、後更に增して一萬石となつた。重次刑獄を理し[やぶちゃん注:整え。]、遂に家老に進んだが、寬永十八年[やぶちゃん注:一六四一年。]十月金澤城の大手に、軍次が高山南妨と共に外敎の信徒で、後に改宗したけれども内心之を放棄したものでないと書した高札を建てたものがある。是に於いて藩吏之を幕府に上申し、遂に江戶に護送したが、重次は固より禪宗の旦那で、告訴せられたる如き事實なきを以て、空しく歲月を經過し、慶安四年四月四日その地に客死した』とある。

「豬子」前田家臣。猪子九郎左衛門。「加能郷土辞彙」に、『大坂再役に祿千石を以て從軍し、街口に於いて鎗功があつた。寬永十八年[やぶちゃん注:一六三九年。]耶蘇宗門のことに就き江戶に赴いたが、その後は不明である。後加賀藩臣にこの姓の者は居ない』とある。

「橫田」不詳。

「鈴木孫右衞門」魚津郡代鈴木孫左衛門のことであろう。「加能郷土辞彙」に、『高山南坊の徒であつたが、慶長十八年[やぶちゃん注:一六一三年。]外敎禁止の際轉宗を誓うて處刑を免れた。後孫左衛門は越中魚津郡代に任ぜられ、尋いで[やぶちゃん注:「ついで」。]江戶に賦役したが、その内心眞に改悔した者でないことを密告したものがあつたから、加賀藩は之を召還し、一族上下七人を魚津に磔殺[やぶちゃん注:「たくさつ」。]した。この處刑は、三州奇談に、魚津郡代大音主馬の時にあると記されるが、主馬の郡代であったのは、寬永四年[やぶちゃん注:一六二七年。]乃至十三年[やぶちゃん注:一六三六年。]である』とある。]

 是又故あり。魚津は魚・鹽の利良く、魚の多く上る地なり。然るに天正の年、京都南蠻寺破却仰付けられし後、彼(か)の邪教の名士守紋北國に來り、此魚津に至りて手を打ちて驚き、

「此地唐の今浦、南洋のウン浦に似たり。必ず海中に蜃(おほはまぐり)ありて珠を產する所なるべし。久しく爰にありて魚腹(ぎよふく)を探さば、必ずテイカウの珠を得べし」

と云ふ。則ち其傳を密に鈴木孫右衞門に傳ふ。故、鈴木、靑山佐渡守以來、此魚津にありて、日々魚腹を探す。纔に二珠を得たり。一つを守紋が高弟大和の眼醫師へ送る。其後鈴木は妙を得て法を廣む。忽ち信心の者を得たり。澤市は(さはいち)座頭なり。此者元來魚津にありし者、十三の年魚のひれに突かれて盲となる。然るに鈴木が緣に依りて金滯武家方へ親しみ、泉町に家居(いへゐ)す。此者宗門に入る謂れは、澤市鈴木に親しみ、彼(か)の法を聞く。澤市曰く、

「我をして眼(まなこ)元の如く明らかに、本尊を拜むことを得ば宗に歸せん。」

鈴木云く、

「信を得れぱ難からず。」

終に彼祕文を敎へ、又テイカウの珠を眼上に置く。

 澤市忽ち明(あか)りを得たり。

 翌日は又本(もと)の盲(めしひ)なり。是より深く感じて此宗となる。

 四十年の間に十四度目を明くることありしなり。是れテイカウの珠の力なり。

 且つ珠吉凶を告ぐるに妙なり。然るに守紋大阪に刑せられ、大和の眼醫師其後江戶に召され、苦刑重(かさな)つて鈴木孫右衞門を指す故に、郡代大音主馬(おほねしゆめ)に命じて鈴木を捕ふ。大音則ち鈴木を呼ぶの時、鈴木家を出(いで)んとして妻に向ひて曰く、

「我今運盡(つき)ぬ。今朝テイカウ墨(すみ)の如く見ゆ。大凶なり。老母にも覺悟を進め候ヘ」

と云ふ。

 終に禁牢(きんらう)す。

 妻老母に向ひ、

「此法(はう)元(もと)法度(はつと)を知りて侵す。上(か)みを恨むべからず。然共武士の娘如何(いかん)ぞ逃走りて捕はるべき。武器を嚴(げん)にして後(のち)死につかん。」

老母

「然り」

とす。

 老母は白絹二つ重ね、膝に長刀(なぎなた)を置く。女房は夫の鎧を床に飾り、其次に鎧を着て、大小を帶して座す。

 談笑常の如く、

「大音の討手は如何にして遲きや」

と云ふ。

 暫くして捕手(とりて)來る。

 女房曰く、

「我れ自殺を禁ぜるが故に斯(かく)のごとし、無禮すべからず」

と云ひ、淚を靜めて後(のち)皆捕はる。終に川畑川東に磔(はりつけ)となる。其塚をヲテイテイカウと云ふ。是れ唱への文と云ふ。一說には、ヲテイ・テイカウと云ふは二人の妾(めかけ)なりと云ふ。

 澤市も金澤にて捕はれ、妻出生(しゆつしやう)能美郡の者と云ふにより、我(わが)野にて夫歸磔に懸る。其後北の方には此宗旨絕えたりとぞ。耶蘇終に愛着執心の事を重うして、其毒深入(ふかくいり)し、久しうして殘る。

[やぶちゃん注:「守紋」シモン(Simon)への当て字であろう。但し、本邦に来た知られた宣教師の中にその名は見出せない。後文に「守紋」は「大阪」で「刑せられ」たとは出る。ところがここにきて、「名古屋カトリック教区」公式サイト内の殉教に係わる「七 資料編」PDF)に以下を見出すことが出来た。

   《引用開始》

□資料 20 鈴木孫左衛門の処刑

 「このころ魚津に、鈴木孫左衛門(一説には孫右衛門)という役人かいた。ひそかにマリアの像を隠し、耶蘇教を信仰していた。孫左衛門は慈門の弟子で、慈門は高山南坊の高弟である。慈門は大和国に、孫左衛門は魚津郡代のもとで役人を勤めていた。魚津の浦は漁獲の利がよく、当時南蛮寺破却後は、耶蘇教徒や名士らは、北国から魚津へ)ぞくぞくやってきた。そして手を打って驚き、『ここは唐の【今浦】南洋の【ウン浦】に似ている。必ず海中に蜃あって珠を産するだろう。永住して珠を探せば必ず得られるであろう。』と鈴木孫左衛門に伝えた。孫左衛門は日夜その珠を探すとともに、法を広めることに努力したので、たちまち多くの信者を得た。しかるに慈門が捕えられて処刑される時、孫左衛門が魚津にいることを自白したので、幕府はときの魚津郡代大音主馬厚用に命じてこれを捕えさせ、江戸に召しだして成敗した。孫左衛門の家族七人は、大音主馬の討手につかまり、吟味のうえ、ついに魚津のまちはずれ、諏訪明神の後ろ、田畑川の東の地で、悲惨な刑に処せられた。その遺骸を一つの穴に埋めて、キリシタン塚、または『オテイテイカラの塚』(妻の名をオテイテイカラといった)と称し、そこに一寺を建立したが、今は跡かたもない。」(『魚津市史』 吉野旧記)

 

□資料 21 『三壷聞書』

 『三壷聞書』には、「然るに寛永の初、鈴木孫左衛門は江戸定詰にて金沢より引越し罷越し、重ねて切支丹御吟味の時、孫左衛門内心はころばざる由加州にて訴人有之、江戸より被召寄、魚津にて上下七人御成敗仰付らる。金沢に沢都と云う座頭夫婦、鈴木左衛門懇意也。其の外十人計処々より吉利支丹とて来り、泉野に座頭夫婦磔にかけ、残る者共首をはねて獄門に掛けさせられ、夫より此の宗旨の種は加州に絶えにけり。」という記述がある。中村松太郎はこれらの文書について注意すべき読み取り方を述べている。「鈴木孫左衛門の事件の記述は、わずか数行です。具体的な事実を知るには、読む人にとって不十分です。そこで恐らく半ば無意識的に、意訳(字句にこだわらないで意のあるところを訳す)や、江戸期の文語体に翻訳も加わることでしょう。また特に伝説的記述や聞き書きなどにあっては、ことさら必然的に粉飾される事もあり得るでしょう」。伝説的なものを他の史実と付き合わせて検証し、各史料の記述の違いを読み解く必要性がある。(中村松太郎『越中魚津キリシタン塚秘話』)

   《引用終了》

この「21」の記載を見ていると、そこでの名は「守紋」ではなく「慈門」で、これは宣教師(伴天連)ではなく、洗礼名を貰った日本人のようにも見えてくる(豊臣秀吉の右筆に洗礼名「志門」(シモン)を称した安威了佐(あい りょうさ 生没年未詳:天正一四(一五八六)年の大坂城でのイエズス会準管区長コエリョと秀吉との会見の仲立ちをした)がいる)。しかし、幾ら当時の日本の名士でも、中国の「今浦」や「南洋のウン浦」に行って見たことがある人物、妖怪ならぬ妖貝である蜃気楼を起す不思議な珠を体内に作る「蜃」(大蛤)をよく知っている奴がいようはずはない。ということは、この「守紋」とは一種の三百代言のカタリ者であった可能性が高いということであろうと私は踏む。なお、「守紋」は別に多くのキリシタン大名や隠れキリシタンらが、その家紋や礼拝物等に隠し込んだ十字架紋(模様・形象)をも指す語である。

「唐の今浦」不詳。最初に想起したのは、「今」を誤字とするなら、古くから真珠の名産地である広西チワン族自治区北海市合浦(がっぽ)県である。

「南洋のウン浦」不詳。識者の御教授を乞う。

「テイカウの珠」不詳。漢字も想起出来ない。至高の聖主で「帝公」なんて真珠好きの私には厭だね。識者の御教授を乞う。

「靑山佐渡守」前田氏家臣で加賀藩青山家の祖青山吉次(よしつぐ 天文一一(一五四二)年~慶長一七(一六一二)年)。ウィキの「青山吉次」によれば、尾張国生まれで、十五歳の時に『織田信長に仕えた。その後は前田利家に仕え、寺西九兵衛と前田利昌息女との子である長寿院』『を正室に迎えた』天正三(一五七五)年、『越前府中二十一人衆の一員として功績を称えられ』千石を受け、天正一一(一五八三)年の『賤ヶ岳の戦いでは前田利長に従い功績を挙げ』、二千石を『加増された。その後も末森城の戦いや八王子合戦などに利家に従軍』、天正一三(一五八五)年、『佐々氏とそれに与力した飛騨の姉小路氏(三木氏)が富山の役で秀吉に降伏し、前田家に越中国三郡(砺波・射水・婦負)が与えられると』、城生(じょうのう)城(現在の富山市八尾町内)『の守将となる』。文禄四(一五九五)年には『利長に残る新川郡が加増され、上杉家の越中衆(土肥氏・柿崎氏・舟見氏など)から郡内の諸城を子の長正らと共に受け取る』。『文禄・慶長の役では利家に従い肥前国に行き』、慶長三(一五九八)年に『従五位下佐渡守となる』。慶長五(一六〇〇)年に『起こった大聖寺城の戦いの時』には『金沢城の守備にまわっ』ている。彼は魚津で死去しているが、それが鈴木が魚津郡代になる前のことのようにも読めるのでしっくりくるとは言えない。

「守紋が高弟大和の眼醫師」不詳。後文に「大和の眼醫師」は「其後」、「江戶に召され」て、激しい「苦刑」が「重」なって耐えきれずに、「鈴木孫右衞門を指」した(彼を名指してキリシタンであることを吐いた)とはある。転びキリシタンであったということであろう。

「澤市」先の注で引用した、彼の名が出ているのと同じ「名古屋カトリック教区」公式サイト内の「北陸地方のキリシタン史跡案内」PDF)の「5 殉教した越前・若狭・越中出身者たち」に、「魚津の座頭沢市と妻の処刑地」が、現在の金沢市泉野町三丁目十五番地十四号の泉野桜木神社(グーグル・マップ・データ)附近に同定されている。以下、解説を引用させて頂く。

   《引用開始》

 『越中魚津のキリシタン塚』に記載されている加賀藩唯一のキリシタン殉教事件である、鈴木孫佐衛門とその家族等七名の処刑とほぼ同じ時期に金沢で処刑された人たちについて記す。加賀藩の禁教政策は、寛永期の一六二四~一六四四年を通して厳しさを増していった。『三州奇談』及び『三壷聞書』によれば、一六三〇年(寛永七)に、高山右近の法弟の加賀藩士鈴木孫左衛門(知行千石)が江戸城詰として出府中に領内では宗門改めがあった。孫左衛門は内心信仰を維持しているとの訴人が出たために江戸で捕えられ、 江戸神田川のほとりで処刑され、魚津(現在の富山県魚津市)在住の孫左衛門の家族は魚津で処刑された。金沢では孫左衛門と懇意の沢市という座頭夫妻とその他十名ほどのキリシタンが捕えられ、沢市夫妻は金沢の泉野で磔刑、他の者は斬首、獄門に処せられたという。この事件は加賀藩領内での唯一の殉教事件であり、沢市夫妻が処刑された「泉野」は、藩制時代「泉野新村」と呼ばれた広大な孟宗竹の竹林に囲まれた所で、 『金沢古蹟志』によると、一六〇七年(慶長十二)頃、藩の刑場が現在の泉野町三丁目から泉村(泉野新村)の村地へ移ったとあり、その中心は泉野桜木神社辺りであった[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

とある。さても、この泉野の処刑地は「赤蛇入ㇾ亭」に出たそれである。

「郡代大音主馬(おほねしゆめ)」読みは私の根拠のない推定。彼については既注の「鈴木孫右衞門」の「加能郷土辞彙」の記載にある通り、事実にそぐわないので、注する必要を感じない。

「此法(はう)元(もと)法度(はつと)を知りて侵す」このキリストの教えを信ずること、もとより、お上の禁教令を知りながら、正しき教えと信じ、その法を犯したのであります。

「武器を嚴(げん)にして」しっかりと武具で身を固め、待ち迎えて。

「我れ自殺を禁ぜるが故に」キリスト教徒であるから、自殺は神に背く行為となるのである。

「川畑川」当然、魚津に流れる川でなくてはならないが、見当たらない。後段に再度出るので、そちらの私の注を参照されたい。

「ヲテイテイカウと云ふ。是れ唱への文と云ふ。一說には、ヲテイ・テイカウと云ふは二人の妾(めかけ)なりと云ふ」「唱への文」ならラテン語か? 妾の名というのは「ヲテイ」は「お貞」で判るが、「テイコウ」はちょっと字が浮かばぬし、女性名としては変である。

「我(わが)野」自分の生地である加賀の野という意味で採ったが、私はこれは「泉野」の誤判読ではないかと疑っている。「泉」の字は崩しようによって「我」とよく似ているものがあるからである。

 切支丹は慶長の末年皆々追返されけれども、西國には猶二十五年を過ぎて「天草・島の亂」ありしなり。人多く死して事落着す。

[やぶちゃん注:「慶長の末年」慶長は二十年の七月十三日(グレゴリオ暦一六一五年九月五日)に元和(げんな)に改元されている。

「天草・島の亂」ママ。「島原」の脱字。「島原の乱」は「島原・天草の乱」とも呼ぶ。寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発し、翌寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)を終結とする。ウィキの「島原の乱」によれば、従来は『信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面を再評価する説が出ている』とする。『鎮圧の』一『年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった』とある。]

 北國にては高山南坊を皆々慶長に追放の後、加州の宗徒絕えたりと思ふ故に、鈴木孫右衞門と云ひ初(はじめ)は「ころび衆」の中なる所、内心中々變ぜざるよし。御吟味ありて鈴木孫右衞門は江戸在番の間に捕ヘられ、終に神田の邊(あたり)にて御成敗なり。其妻子一族越中魚津に住せしを、其頃魚津郡代大音主馬仰(おほせ)を受(うけ)て、孫右衞門老母・妻妾を捕へて、田畑の邊にて磔になす。其妻妾の名にや、ヲテイテイカウと云ふ。

 大音氏の捕手向ふ時、老母長刀を膝に置きて、

「恨むべし加州の討手(うつて)遲し。我々女子の輩(やから)に何の用意も入(い)るまじきものを、捕手の遲きは後れたるにや」

など云ひて、言語自若として平日の如し。皆刑せらるゝに至つて怨言口を留めず。相貌皆恐るべし。

[やぶちゃん注:以上の部分、明らかに繰り返しで前の部分の写本の作成者による衍文としか思われない。

 渠等(かれら)が骸(むくろ)を一つの穴に埋(うづ)め込み、「切支丹塚」と云ひ、「ヲテイテイカウの塚」とも云ふ。其地は魚津の町はづれ、諏訪明神の後ろにして、田畑川の東の方(かた)なり。

[やぶちゃん注:「其地は魚津の町はづれ、諏訪明神の後ろにして、田畑川の東の方(かた)なり」やはり先の「名古屋カトリック教区」公式サイト内の「北陸地方のキリシタン史跡案内」PDF)の「5 殉教した越前・若狭・越中出身者たち」に、「越中魚津のキリシタン塚を歩く」があり、当該地を魚津市釈迦堂八一四番の『「魚津埋没林博物館」敷地付近』とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下、引用させて頂く。

   《引用開始》

地元の知人の紹介で、魚津在住のキリシタン塚の歴史に詳しい中村松太郎氏から話を聞いたところ、田畑川は現在の河川名ではなく、日本カーバイド工場の南側外周を流れる河川ではないかといわれ、それに従って現地の様子を調査した。

 魚津市の歴史民族博物館に隣接する「吉田記念郷土館」で尋ねたところ、魚津の古絵図を調査された魚津在住の紙谷信雄氏の『魚津古今記・永鑑等史料』のなかに古絵図「鰤網等目当山御絵図浦役所」があり、図中に「田畑川」の名が記されているのを教えてもらった。

 魚津に田畑川はあったのである。現在の場所は明治以降の近代化により工場建設敷地となり、魚津港拡張や河川改修工事により、また最近は「魚津埋没林博物館」の建設により塚跡は海中に歿しているとも言われ江戸期の姿は見ることができない。

 しかし博物館の屋上からかつての海岸線を望んでみると、江戸時代鰤漁の舟から湊の方角を知るために松の木と塚を目印としたとされ、往古は「八殿の塚」が並んでいた田畑川があったその場所である。旧田畑川の手前の博物館敷地の海寄りの、工事以前の地盤と思われる位置に松林があり、その中の二本の松の根本に石を円環状に並べた塚跡らしきものを見つけた。あるいは鈴木孫左衛門一族の塚跡ではないかと想像し不思議な歴史の因縁を感じた。

 キリシタン殉教者鈴木孫左衛門のさらに詳しい情報については、中村松太郎著『越中魚津キリシタン塚秘話』を参考にされたい。

   《引用終了》

とあって「田畑川」は現存しないことが判った。なお、引用元の200ページの部分に「博物館中庭にある塚跡か」とキャプションする写真があるので、是非、見られたい。]

「此邊に一寺あり」現在、その附近に寺はない。しかしこの現在の地名「釈迦堂」からは、嘗ては確かにあったと考えた方が自然である。

 さて。この一篇、国書刊行会本では「耶蘇宗は天正の頃日本に盛になりしが、……」以下の語り部分から最後までが、内容は概ね同様であるものの、前の部分が極端にカット・圧縮され、反対に最後の話が膨らませてある。「加越能三州奇談」の当該部(右ページ四行目の下方から)は同じ系統の内容であるので、それと引き比べながら、正字で煩を厭わず全文を以下に示す。一部で字を国書刊行会本の補正に従い、補填した。読みは一部で私が推定で附した部分もある。記号と改行等も私が附したものがある。カタカナの丸括弧の読みは原本のもの。

   *

    邪宗殘ㇾ妖

 蘆峅(アシクラ)の姥堂は則(すなはち)立山禪定の麓にして、諸人の知所(しるところ)、衆の尊む所なり。佛說に依(より)て云(いは)ば、事古きに似たり。暫く好事の人のかたりしを聞くに、

「此姥堂の本尊の体(てい)は、いにしへの帝王のハウコといふ物也。我、南都興福寺の開帳をみるに、『神武天皇のハウコ成(なり)』とて拜せたりし、則(すなはち)此もの也。傳へ云(いふ)、皇后孕(はらみ)給ふ事あれば、必ずハウコといふ物を作つて是を祭り拜す。皇子御降誕有(あり)て後、此物を捨つ。今小兒の翫(もてあそ)ぶ物多く是に始まる。是に依て見る時は、此本尊又朝廷のもて遊び物也」

と。

 是(これ)其(その)實か非か、未(いまだ)尋(たづね)さたする事なし。今思ふに、北倭蝦夷の事を聞(きく)に、必ず此事あり。「かもゐ」といふ像をつくり、逆木をけづり、是を病人の枕もとに立て祭り、其後(そののち)病(やまひ)いゆるときは、是を山に捨つ。日本も又上古は是にひとしき事も多かりし。像を立る事は南蠻多く是をなし、耶蘇天人華宗始めは壽像を造りて年壽を祈り、其後美人を畫(かき)て愛敬を祈る。やや趣同じ。是文字等に依らざるの國はいにしへは皆かくのごとし。

[やぶちゃん注:以下からが異なる部分。]

 耶蘇終(つひ)に愛着執心の事を重ふして、其毒深く入(いり)、久しく殘る。切支丹は慶長の末年、皆々追返(おひかへ)されたれ共(ども)、西國には猶二十五年を去(さり)て「天草・島原の亂」有し。人多く死して事落着す。北國にては高山南房等、皆々慶長に追放の後、加州の宗徒たえたりと思ふ所に、堀孫右衞門といふもの、はじめはころび衆の中なる所、内心中々變ぜざるよし御吟味有て、堀孫右衞門は江戶にて在番の間にとらへられ、終に神田の邊にて御成敗也。其妻妾(さいしやう)・子族、越中魚津に住せしを、其比(そのころ)魚津の郡代・大音主馬、仰(おほせ)をうけて孫右衞門が老母・妻妾をとらへて、田畑川の邊にて傑になす。其妻妾の名にや、ヲテイテイカラと云(いふ)。大音氏の捕手向ふ時、老母長刀をひざに置(おき)て、

「うらむべし、加州の討手(うつて)すくなし。我々女子の輩に何の用意も入(いる)まじきものを、捕手(とりて)のおそきばをくれたるにや[やぶちゃん注:「おくれ」はママ。]」

など云(いひ)、言語自若として平日の如し。皆刑せらるゝに到つて、怨言口を留めず。相貌皆恐るべし。渠等(かれら)が骸(むくろ)を一つの穴に埋みて、「切支丹塚」と云(いひ)、「ヲテイテイカラの塚」とも云ふ。其地は魚津の町はづれ諏訪明神の後ろにして、田畑川の東の方也。

 年久しうして後、此邊に一寺あり。爰(こゝ)の下男、

「地にうづむもの有(あり)」

とて、其地を掘る時、はや星霜多く重(かさな)つて、「切支丹塚」くづれて常の地にかはらず。故に誤つて此塚跡を掘入る事、凡(およそ)六尺ばかり、一團の黑氣あり、突(つき)て地中を出づ。掘る者氣を絕(ぜつ)す。黑氣東方をさして飛行(ひぎやう)すといふ。則(すなはち)江戶の方也。

 此時、江戶神田にて堀孫右衞門が塚又崩れたり。此氣(このき)相感(あひかん)ずるにや。もとより東武は十金の地、此堀孫右副門が塚も、今は繁華の街となれば、いつの比(ころ)よりか人家となる。爰(こゝ)は則(すなはち)、一社地の中也(なり)。神主何某(なにがし)が宅地の垣外(かきのそと)也。此日(このひ)、

「黑氣北方より來り此土中に入(いる)」

とさたせし夜より、神主の内室孕(はら)む事を覺へて、一人の女子をうむ。其(その)相(さう)・美色、常人に非ず。成人の後、彌々(いよいよ)妖色(えうしよく)深ふして、終に加州侯護國院殿の妻妾となる。眞如院といふ是也。其行藏(かうざう)に及(および)ては世の人よく知所(しるところ)也。眞如院、名をヲテイといふ。「ヲテイテイカラの塚」、其所謂(いはれ)有(ある)に似たり。終に恩寵深ふして惡事多く、國家をそこのふ事多かりし。是皆(これみな)別書に有(あり)。其禁獄に入(いる)の内も、執心着念の深き事、世以て諸人の口にあり。是必ず此塚の怪妖(くわいえう)ならん。今其塚跡は人彌々(いよいよ)恐れてみだりに近付(ちかづか)ず、夏草をのづから深し[やぶちゃん注:ママ。]。

   *

「加州侯護國院殿の妻妾となる。眞如院といふ是也」加賀藩五代藩主前田吉徳(元禄三(一六九〇)年~延享二(一七四五)年:戒名「護國院殿佛鑑法性大居士」)の側室真如院(宝永四(一七〇七)年~寛延二(一七四八)年)。名は貞(てい)父は江戸芝神明宮の神主鏑木政幸(又は妹とも)。加賀騒動における浄珠院(六代藩主宗辰(むねとき)生母)毒殺未遂事件の主犯とされた人物であるウィキの「真如院」によれば、『江戸の芝神明宮の神職・鏑木政幸の娘、または妹で、同じく前田吉徳の側室心鏡院(次男・重熙の生母)とは姉妹、または叔母と姪の関係』『といわれている』。『前田吉徳の側室となり』、享保一八(一七三三)年に『総姫を産んだのはじめに、利和』、『楊姫、益姫、八十五郎』(やそごろう)の二男三女を『産んだ(うち益姫は夭折)』。『吉徳が没したため、落飾し』、『真如院と称した。吉徳の跡はその長男の宗辰が継いだが、在位』一『年余りで延享』三(一七四六)年に『死去し、続いて次男の重熙』(しげひろ)『が藩主となる。寛延元年(一七四八年)、『九歳の八十五郎が藩の重臣・村井長堅の養子と決まったため、真如院は』六月二十一日に『八十五郎とともに江戸を出発し』、七月十一日、『金沢に到着した。この間の』六月二十六日と七月四日の両日、『江戸藩邸(本郷上屋敷)において、浄珠院』『を毒殺しようとしたとみられる置毒事件があり、真如院が楊姫付きの中臈浅尾に命じ』、『実行させた疑いがかけられた』。七月十二日に『飛脚が発ち』、十七日に『金沢に到着。それによって、真如院は』『軟禁された。さらに真如院の江戸藩邸の居室から、前年失脚していた吉徳の寵臣・大槻伝蔵の手紙が見付かったとして、大槻との共謀と密通の疑いもかけられた。大槻と対立していた前田土佐守直躬は事件の処分を巡って、真如院と浅尾は死刑、八十五郎は村井家との養子を解消し、江戸の利和は金沢に引っ越させ』て『幽閉、富山藩主前田利幸に嫁いだ娘の総姫は病気と称して離縁させ、秋田藩主佐竹義真と婚約中の楊姫も病気と称して解消させるほかない、との意見を述べている。藩主重熙によって、真如院の処分は死刑ではなく』、『今井屋敷に終身禁固と決められたが、病気もあってそのまま』軟禁された御殿の一室で三年後に『没した。真如院の希望により、長瀬五郎右衛門が首を絞めた』『という。享年』四十三(その後の子らについてはリンク先に詳しい)。『毒殺未遂事件の動機は、真如院が藩主重熙の養育役も務めていた浄珠院を邪魔に思い、亡き者にしようとしたためであるとされている。だが、真如院は吉徳の側室の中でも寵愛され、所生の子女は』五『人と最も多く、また当時の藩主重熙の伯母であり、重熙のすぐ下の弟である利和の生母であった。こうしたことから嫉妬を受け、江戸藩邸を出立した後を見計らって陥れられたのではないかともされる。利和に代わって重熙の仮養子となった嘉三郎(重靖)の生母・善良院と、前田直躬』(なおみ:加賀八家筆頭前田土佐守家五代当主)『が互いの利害の一致から結託して仕組んだものである、という説もある』とある。藩内の、それも藩主の血脈の直接関係者に纏わる忌まわしい内紛・事件であったことから、写本製作者の中に、後代とは言え、それを憚るべきと考えた人間がおり、かく、この部分を除去した底本系の写本が別に出来たものと考えられる。

 なお、本篇の後半のキリシタン絡みの奇譚は、田中貢太郎が「魚津物語」としてかなり強いインスパイアを加えて怪談小説にしている(「日本怪談全集」(昭和九(一九三四)年改造社刊)の第二巻所収)。私は一九九五年国書刊行会刊「日本怪談大全」第五巻(新字新仮名)で読んだ。機会があれば是非、読まれたい。]

2020/04/22

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 三

 

      

 ここでもう一度はじめに引いた蕪村の『新華摘』を開いて見る。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

其角は俳中の李青蓮と呼ばれたるもの也。それだに百千のうち、めでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ。其角が句集は聞えがたき句多けれども、読むたびにあかず覚ゆ。是(これ)角がまされるところ也。とかく句は磊落なるをよしとすべし。

 蕪村は『五元集』の刊行される以前、其角自身浄書した稿本を見ていた。本来ならば「五元集」は蕪村の版下(はんした)で世に出るはずだったところ、彼が旅行に出て三年も帰らなかったため、亀成の謄写(とうしゃ)で刊行されることになったのである。蕪村と『五元集』との因縁は尋常一様のものでない。だから『新華摘』にはもう一カ所『五元集』の批評が書いてある。

[やぶちゃん注:「聞えがたき句」一読、理解し難い句。

「亀成」山本亀成(きせい)。江戸座に於いて一大勢力を形成した馬場存義(ぞんぎ 元禄一六(一七〇三)年~天明二(一七八二)年:二代前田青峨に学び、享保一九(一七三四)年に宗匠となって一派を率いて江戸座の代表的点者として活躍した。蕪村とも交友があった)の「存義側」の門下の宗匠の一人。没年は宝暦六(一七五六)年或いは明和五(一七六八)年。

「謄写」書き写すこと。書写本。

 以下、同前。]

五元集は角が自選にして、もとより自筆に浄写して剞劂(きけつ)氏にあたへ、世にひろくせんとおもひとりたる物なれば、芟柞(さんさく)の法も厳なるべし。さるを其集も閲(けみ)するに大かた解しがたき句のみにて、よきとおもふ句はまれまれなり。それが中に世に膾炙せるは、いづれもやすらかにしてきこゆる句也。されば作者のこゝろに、これは妙にし得たりなどうちほのめくも、いとむつかしく聞えがたきは闇夜ににしき著たらん類ひにて、無益のわざなるべし。

[やぶちゃん注:「剞劂氏」人名ではなく、版木屋のこと。

「芟柞」本来は除草や剪定のことで、ここは推敲の意。]

 この二条のいうところは必ずしも同一でないが、其角の句のわかりにくいという点だけは変りがない。われわれより大分其角に近いはずの蕪村にも、『五元集』はやはり難解の書だったのである。ただ蕪村は涯落の一語を以て其角の句を肯定し、わかりにくい句は多いが、「読むたびにあかず覚ゆ」と断言している。しかも「めでたしと聞ゆるは二十句にたらず」というのであるから、其角流の句を肯定しながらも、「めでたし」という標準はかなり高いところに置いてあるのであろう。蕪村が二十句に足らずと算えたのはどんな句か、実例の示してないのが遺憾に思われる。

[やぶちゃん注:「われわれより大分其角に近いはずの蕪村」宝井其角は宝永四(一七〇七)年没で、与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれ。]

 磊落の一語は其角の神(しん)を伝えていると同時に、蕪村の趣味を現した評語である。子規居士は蕪村のいわゆる磊落を以て積極的趣味とし、「雄渾も勁抜(けいばつ)も活動も奇警も華麗も放縦も皆磊落の一部なり」といった。

[やぶちゃん注:以上の正岡子規の見解は、かの「獺祭書屋俳話」(明治二五(一八九二)年新聞『日本』初出(連載)・翌明治二十六年五月日本新聞社刊)の出版後に、不満な点や認識訂正などを記した明治二八(一八九五)年十二月の「獺祭書屋俳話正誤」として発表したものの嵐雪の論についての修正記事の冒頭の要約である(正確な引用ではない)。国立国会図書館デジタルコレクションの完本「獺祭書屋俳話」(明三五(一九〇二)年十一月弘文館刊)より当該ページを視認して引く。

   *

以下嵐雪を論ずる處甚だ誤れり。大體に於て嵐雪をやさしきものに見て總て其角の反對なりと論じたるはいたく嵐雪を取り違へたるなり。嵐雪は寧ろ其角に似たるなり。蕉門幾多の弟子中最も其角に似たる者は嵐雪なり。嵐雪の句の佶屈なる處、斬新なる處、勁抜なる處滑稽なる處、古事を使ふ處、複雜なる事物を言ひてなす處等甚だ其角に似て只一步を讓るのみ其角嵐雪が特に名を得たるは其俳句に必しも名句多しとのわけならず、寧ろ何でも彼でも言ひこなす處、卽ち兩人が多少の智識學問を具へたる處にあるなり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

もとの「獺祭書屋俳話」の嵐雪の見解はここから。また、この前が其角に対する評となっているのでそれも電子化しておく。傍点「○」は太字下線、傍点「ヽ」に代えた。

   *

      寶井其角

蕉翁の六感なるものに六弟子の長所を評するの語あり。されどもその語簡單にして未だ盡さざるのみならず往々其要を得ざるものあれば漸次にこれが略評を試みんとす。初めに其角を評して「花やかなる事其角に及ばず」といへり。其角の句固より花やかなる者少からず。例へば

   鶯の身をさかさまに初音かな

   白魚をふるひよせたる四手かな

   名月や疊の上に松の影

等の如し。然れども其角一生の本領は、決して此婉麗細膩[やぶちゃん注:「ゑんれいさいじ」。しとやかにして美しく、細かく微細に亙って念入りであること。]なる所にあらずして却りて傲兀疎宕[やぶちゃん注:「がうこつそとう」。尊大にして屈せず、荒っぽくておおまかなこと。]の處恠奇斬新の處諧謔百出の處に在りしことは五元集を一讀せしものヽ能く知る所なり。其傲兀疎宕なる者を擧ぐれば左の如し。

   鐘一ツうれぬ日はなし江戶の春

   夕凉よくぞ男に生れける

   小傾城行てなぶらん年の暮

其角は實に江戸ツ子中の江戸ツ子なり。大盃を滿引し名媛を提挈[やぶちゃん注:「ていけつ」。引き連れること。]して、紅燈綠酒の間に流連せしことも多かるべし。されば芭蕉も其大酒を誡めて「蕣[やぶちゃん注:「あさがほ」。]に我は飯喰ふ男哉」といひし程の强の者なれば、是等の句ある固より怪しむに足らず。而してこれ卽ち千古一人の達吟たる所以なり。其恠奇斬新なる者は

   世の中の榮螺も鼻をあけの春

[やぶちゃん注:このサザエは御節料理で新年早々、壺焼きにされたそれか。されば「失望する」の意の「鼻をあけ」るの意が利いてくるか。]

   枇杷の葉や取れば角なき蝸牛

   初雪に此小便は何やつぞ

等の如し。是等卽ち巧者巧を弄し智者智を逞ふする所にして、其角が一吟人を瞞着するの手段なり。されば座上の卽吟に至りては其角の敏捷一座の喝采を博すること常に芭蕉に勝れたりとかや。その諧謔百出人頤を解する[やぶちゃん注:「ひと、おとがひをかいする」。大笑いさせる。]ものまた才子の餘裕を示し英雄の人を欺むく所以なれば其角に於てこれ無かるべけんや。例へば

   こなたにも女房もたせん水祝ひ

[やぶちゃん注:「水祝ひ」婚礼の際に婚家に向かう花嫁に対し、村の若者たちが途中で待ち受けて手桶の水を柄杓で花嫁にかけて邪魔する通過儀礼の一つ。こなたは独身の其角の連れの男への呼びかけ。]

   饅頭で人を尋ねよ山ざくら

[やぶちゃん注:一種の謎かけである。向井去来の「去来抄」の「同門評」にこの句を挙げて、『許六曰、是ハなぞといふ句也。去来曰、是ハなぞにもせよ、謂不應[やぶちゃん注:「いひおほせず」。]と云句也。たとへバ灯燈[やぶちゃん注:「提燈」の誤字であろう。]で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也。是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂る事を、我一人合點したる句也。むかし聞句[やぶちゃん注:「ききく」。]といふ物あり。それハ句の切樣、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず』と徹底的に馬鹿にしている。去来は「旅寝論」でもこれを挙げ、同様に批判している。]

   みヽづくの頭巾は人に縫はせけり

[やぶちゃん注:「頭巾」は鳥刺しが小鳥を捕らえる囮として使うミミヅクに被せるための頭巾のこと。それをミミヅクを主格にして言い換えた諧謔句。]

等の如し。然れども多能なる者は必ず失す其角の句巧に失し俗に失し奇に失し豪に失する者少からず而して豪放迭宕[やぶちゃん注:「てつとう」。気性が豪気なこと。]なる者は常に暴露に過ぐるの弊あり。其角句中其骨を露はす者を擧く[やぶちゃん注:「あぐれば」の誤植か。]れば

   吐かぬ鵜のほむらに燃ゆる篝哉

   二星私憾むとなりの娘年十五

[やぶちゃん注:「にせいひそかにうらむ となりのむすめ としじふご」で破格。但し、「五元集」では「二星恨むとなりの娘年十五」と正格となっている。私は破格のこちらの方が遙かによいと思う。「二星」は牽牛・織女のこと。彼らも、今年十五になる隣りの初々しい娘には羨ましく思っているに違いないという意。白居易の絶句「鄰女」をインスパイアしたもの。]

   此秋暮文覺我を殺せかし

[やぶちゃん注:頼朝に蹶起を促した文覚(もんがく:もと北面の武士遠藤盛遠)は十九で出家しているが、「源平盛衰記」巻第十九の「文覚発心」には、従兄弟で同僚であった渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったのが、その動機とされるのを諧謔したもの。私の芥川龍之介「袈裟と盛遠」を参照。]

抔にして前に連らねし十數句とはその趣いたく變れり之を要するに其角は豪放にしてしかも奇才あり奇才ありてしかも學識あり。されば時として豪放の眞面目を現はし時として奇才を弄し學識を現はすなど機に應じ變に適して盤根錯節を斷ずること、大根牛蒡を切るが如くなれば芭蕉も之を賞し同門も之に服し終に兒童走卒をして其角の名を知らしむるに至りたり。其角はそれ一世の英傑なるかな。

   *

「神」精神。依って立つところ。

「勁抜」力強くして他に抜きん出ていること。]

 鶯の身を逆にはつねかな        其角

[やぶちゃん注:「逆に」は「さかさまに」と読む。]

 猫の子のくんづほぐれつ胡蝶かな    同

  曲終人不見

 暁の反吐はとなりか郭公        同

[やぶちゃん注:「反吐」は「へど」。嘔吐・「げろ」のこと。]

 千人が手を欄干や橋すゞみ       同

  巴江

 声かれて猿の歯白し峰の月       同

 秋の空尾上の杉をはなれたり      同

[やぶちゃん注:「尾上」は「をのへ」。山の頂き。頂上のこと。]

  三年成就の囲に入

 炉開や汝をよぶは金の事        同

[やぶちゃん注:「囲に入」は「かこひにいる」。「炉開」は「ろびらき」。]

  山行

 山犬を馬が嗅出す霜夜かな       同

 これらの諸句は難解に陥らざる範囲において、いずれも磊落の一面を発揮したものである。其角の磊落と蕪村の磊落との間には、自ら時代の相違があり、同一視するわけに行かぬようであるが、元禄第一の磊落作家として其角を推すことは、何人も異論のないところであろう。しかしながらこれを以て直に其角の本色を磊落に限ろうとするのは、いささか早計の読を免れまい。便宜のため各人に簡単なレッテルを貼って済ますことは、学界における一種の常套手段であるが、其角のような作者になると、なかなか一筋縄では行かぬのである。

[やぶちゃん注:「鶯の身を逆にはつねかな」諸家評は実景ではなく、屏風絵などの着想とするが、私は「だから何だ?!」と反問したいほど、この句はよく出来たイメージの名品と思う。

「曲終人不見」盛唐の詩人錢起の「省試湘靈鼓瑟」の末二句の前の句。

 曲終人不見

 江上數峰靑

  曲 終りて 人を見ず

  江上(こうしやう) 數峰 靑し

で、禅語として好まれる。しかし、ここは吉原遊廓の宴の明けた翌朝をそれに模し、隣りの酔客の吐く「反吐(へど)」に「郭公(ほととぎす)」の声を合わせるという大胆な取り合わせの妙を施したもの。

「千人が手を欄干や橋すゞみ」既出の「其便」所収。前書に『兩國橋上吟』とある。

「巴江」(はこう)は「巴峽」に同じで、現在の湖北省にある長江の峡谷。三峡の一つとして知られる巫峡の東下流、西陵峡の上流にある。本句「聲かれて猿の齒白し峰の月」は、その三峡の最上流の瞿塘峡を越えたところにあった白帝城から発った李白の名吟、「早發白帝城」(早(つと)に白帝城を發す)の一篇、

 朝辭白帝彩雲間

 千里江陵一日還

 兩岸猿聲啼不住

 輕舟已過萬重山

  朝(あした)に辭す 白帝 彩雲の間

  千里の江陵 一日(いちじつ)に還る

  兩岸の猿聲 啼いて住(や)まざるに

  輕舟 已に過ぐ 萬重の山

を視聴覚ともにインスパイアして見事である。

「秋の空尾上の杉をはなれたり」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」によると、これは「五元集」の句形で、志太野坡・小泉孤屋・池田利牛編の元禄七(一六九四)年刊の俳諧七部集の一つで「かるみ」をよく表わした撰集「炭俵」では中七が異なり、

 秋の空尾上の杉にはなれたり

となっているとある。堀切氏は『「杉を」の句形可とする説が多いが、これではやや説明的で平凡である。「杉に」のほうが杉の立つ勢い、空との境界線の明瞭さがよく出ているとみられる』と評しておられ、私もそれを支持するものである。「杉を」の動態的把握ではなく、「杉に」の広大なるパースペクティヴにこそがこの句の眼目である。

「三年成就の囲に入」「三年(みとせ)成就の圍(かこひ)に入る」と読んでおく。Yahantei氏のブログ「ブログ俳諧鑑賞」の「其角とその周辺・三(二十一~三十二)」の本句「炉開や汝をよぶは金の事」の評釈(「四十三」)によれば、

   《引用開始》

 「三年成就の囲(かこい)に入(いる)」との前書きがある。「この句は、かなり人口に膾炙しているが、前書のあることに気づかず、其角が炉開きをするとて門人を呼び集め、実はお前を呼んだのは金の相談だ、というようなことを露骨に言い放った如くに思われている」(今泉・前掲書[やぶちゃん注:今泉準一「元禄俳人宝井其角」(一九六九年桜楓社刊)。])。しかし、実態は、これまた、この古注にある、「諸侯方の金をかりに町人をよびし也。さればこそ汝とすゑたり」のとおり、世相風刺(当時の武家階級の露骨な町人階級への無理強いなどの風刺)の句なのであろう(今泉・前掲書)。前書きの「囲」は茶室の数寄屋と同意で、三年も日数を費やしての、贅を尽くしての「貴賓を招待」するために茶室を新築し、炉開きに招くのを口実として、実はその新築費用を町人(富豪)に出費させるという、そういうことを背景とした句なのである。さらに、これは、当時の五代将軍綱吉を迎えるための前田綱紀候などの例などが背景にあり、その茶室に其角も招かれて、この句の背景にあるようなことを実際に見聞して、「これはやりきれない」という其角の反骨の裏返しの句と理解すべきなのであろう(今泉・前掲書)。それが、よりによって、一般には、其角本人が無理強いをしたような風評が立つことは、其角にとっては、やり切れないことであったろう。

   《引用終了》

「山犬」我々が絶滅させてしまった食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax(確実な最後の生息最終確認個体は明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ)で捕獲された若いオスであった)。]

 繊細と磊落とは、全然相容れぬことはないにしても、かなり異った傾向のように見える。子規居士の語に従えば、繊細は積極趣味にあらずして消極趣味に属するのであろうが、其角は慥にこれを一身に兼有している。

 綿とりてねびまさりけり雛の顔     其角

 うつくしき顔かく雉の距かな      同

[やぶちゃん注:「距」は「けづめ」。]

 枇杷の葉やとれば角なき蝸牛      同

 五月雨や傘につる小人形        同

[やぶちゃん注:「傘」は「からかさ」、「小人形」は「こにんぎやう」。]

 きくの香や瓶よりあまる水に迄     其角

[やぶちゃん注:「瓶」は「かめ」。]

 すむ月や髭をたてたる蛬        同

[やぶちゃん注:「蛬」は「きりぎりす」。但し、これは漢字から見て現在のコオロギを指す。「蟋蟀」の「こほろぎ」の四音は俳句で使い難いので、一緒くたにして別に困らなかった「きりぎりす」のそれを用いたものと考える。但し、江戸以前の現在の「キリギリス」と「コオロギ」が種としても完全に逆転していたという十把一絡げ説には私は反対である。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」を読まれたい。学名もそちらで確認されたい。]

 螻の手に匂のこるや霜の菊       同

[やぶちゃん注:「螻」は「けら」。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」を読まれたい。]

 餅花や灯たてゝ壁の影         同

 これらの句にも其角らしい才気がほのめいていないことはない。但(ただし)如何なる才を以てしても、繊細な興味なしにこういう句を得ることは困難である。例えば第一に挙げた雛の句の如き、古来幾多の人が幾度繰返したかわからぬ経験であるが、其角はその中から永久に新なものを捉えている。しまってあった雛を出して、顔を包んだ綿を取る、その刹那に雛の顔の何となく「ねびまさり」たることを感ずるというのは、実に微妙な趣であって、蕪村の「箱を出る顔忘れめや雛二対」の句といえども、この意味においては竟(つい)に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)さなければならぬ。(「ねびまさりけり」という平安朝語が、雛の様子によく調和していることは勿論である)

[やぶちゃん注:「綿とりてねびまさりけり雛の顔」は其角の句の中でも最も私の偏愛する一句である。私は毎年、妻の子どもの頃の大雛段(御殿付きで十畳の居間の四分の一弱を占有する)を飾るのを楽しみにしている雛人形のフリークである。この「綿」には白無垢の婚礼装束にのみ被る綿帽子も通わせてあり、そうした意味でも「ねびまさりけり」の語が上手く利くようになっている。

「小人形」乾裕幸氏編著「蝸牛 俳句文庫1 榎本其角」(一九九二年蝸牛社刊)によれば、『端午の節句に、戸外に設けた柵の柱に兜を掛け、その上に飾った人馬の人形。甲冑を着せたり剣戟を侍たせたりする。木彫り、張子などがある。五月雨の折のこととて、兜の上ならぬ傘の下に小人形をつるして門に立ててある、という意』とする。また、堀切氏は元禄の頃には紙で作った冑人形が売られ、『当時』、『吉原で流行したともいう』ともあった。

「餅花や灯たてゝ壁の影」元禄四(一六九一)年序の琴風編「俳諧瓜作(うりつくり)」所収。個人的に非常に好きな其角の一句である。

「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)さなければならぬ」の「一籌を輸する」とは「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。

 其角のこういう興味は、恐らく彼が都会人として持って生れたものなのであろう。彼は慥に微妙な感覚の所有者で、それを巧に句の上に生かしている。

  四睡図

 かげろふにねても動くや虎の耳     其角

  三州小酒井村観音奉納

 如意輪や鼾もかゝず春日影       同

[やぶちゃん注:「鼾」は「いびき」。「三州小酒井村観音」不詳。識者の御教授を乞う。]

 越後屋にきぬさく音や衣更       同

 舟哥の均しを吹や夕若葉        同

[やぶちゃん注:「舟哥」は「ふなうた」、「均し」は「ならし」。]

 名月やかゞやくまゝに袖几帳      同

[やぶちゃん注:「袖几帳」は「そでぎちやう」。]

  妓子万三郎を悼て

 折釘にかつらや残る秋のせみ      同

[やぶちゃん注:「悼て」は「いたみて」。「妓子」は「ぎし」で、ここは女形の歌舞伎役者のことであろう。]

  品川泛釣

 雁の腹見送る空や舟の上        同

[やぶちゃん注:「泛釣」は「はんてう(はんちょう)」。品川沖に舟を浮かべて釣りするの意。]

 何となく冬夜鄰をきかれけり      同

[やぶちゃん注:「冬夜」は「とうや」、「鄰」は「となり」。]

 「四睡図」が寒山拾得と豊干(ぶかん)と虎とであることは贅(ぜい)するに及ぶまい。其角はその四睡図について寝入りながらも折々耳を動かすという虎を描いたのである。今と違って虎を自由に見るわけに行かぬ時代だから、恐らく猫から脱化したものであろうが、其角の才力はよく猫を以て虎に替え、虎を描いて狗(いぬ)に類するの弊を免れている。

 如意輪観音は片足を膝の上へ載せ、片肱(かたひじ)で頰杖をついている。その形を「鼾もかゝず」の一語を以て現したのは、其角一流の才気であるが、これを長閑(のどか)な春日の下に置く時は、和(なご)やかな相貌が眼前に浮ぶような気がする。前の句の「ねても動くや」、この句の「鼾もかゝず」共に一句の眼目であって、これあるが故にその画図なり仏像なりに「もののいぶき」が吹込まれるように思う。尋常の俳諧手段ではない。

 「越後屋」は今の三越の前身である。その絹裂く音を捉うるが如き、正に都会詩人得意の感覚であるが、市井趣味を十分に発揮しながら、軽佻(けいちょう)に流れざるを多(た)としなければならぬ。

[やぶちゃん注:「越後屋」現在の「三越」の前身で江戸時代の豪商。その基を開いた「三井」氏の先祖は、近江の佐々木氏の家臣と伝えられ、伊勢に移り、高俊の代(元和年間(一六一五年~一六二四年)) に松坂で酒造と質屋の営業を始め、後に父高安が越後守を称していたところから「越後殿酒屋」と呼ばれた。高俊の四男高利が延宝元 (一六七三) 年に江戸本町一丁目(後の駿河町)に呉服店を、京都に仕入れ店を開き、遂に大坂にも支店を開いて貞享四(一六八七)年には幕府呉服所となった。しかも両替商も兼業し、三都を結ぶ営業網によって発展し、元禄四(一六九一)年以降は幕府の金銀御為替用達も務め、大坂の鴻池家と並ぶ豪商となった。その発展の原因は、一つに「現金掛け値なし」「店前売り」という新しい販売方法にあり、従来の武家相手の掛売りを、店頭に商品を並べる町人相手の現金売買に改めて、実に「一日の売上げ一千両」と称される繁盛振りとなった。また、地方に製糸機業・綿織業が興ると、桐生・福島・八王子などの各地に支店や買宿を設け、直買又は前渡金による強力な問屋支配によって集荷を行い、典型的な全国的規模の商業を営んだ。幕末期になると、在地商人の台頭、諸藩の専売制実施などにより廉価仕入れが困難になったことから、三井家はその経営の重点を両替・金融に向けるようになり、呉服店経営の比重は減り、明治五(一八七二)年に「三井家」から分離して店名も「三越」と改めた。その後、明治二七(一八九六)年に三井呉服店、後に株式組織となって、以来、三越百貨店として現在に至っている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

 堀切氏の前掲書によれば、森川許六(きょりく)は「俳諧問答」(元禄一〇(一六九七)年閏二月附で去来が其角に送った書状を皮切りとして翌年にかけて許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもの)の「自明発明弁」で、『かやうの今めかしき物を取出して発句にすること以ての外の至り也』と』激しく非難している。]

 「舟哥の均し」は練習であろう。場所は何処かわからぬが、何人か揃って舟唄の稽古をしている。その辺の若葉を吹く夕風が、その舟唄の声をも吹渡るというので、一読爽快な感じを与える。林若樹氏の説によると御船唄の練習ではないかということだから、この人数は相当多いのかも知れない。初夏の夕方の空気と、若葉を吹く爽(さはやか)な風と、舟唄の稽古の声と、この微妙な調和は言葉で説明しにくいけれども、其角にあらずんば容易に捉え得ぬ趣である。

[やぶちゃん注:「林若樹」既出既注

「御船唄」「御船歌」。西岡陽子氏の論文『祭礼における「御船歌」』PDF)によれば、『幕府や藩の新造船の船下ろしや』、『領主の船出などに歌われた儀礼的な船歌を』指し、『これは幕府や諸藩のお船手の』内でも、『「歌水主(うたかこ)」などと称される「御船歌」歌唱を専門とする人々によって担われていた』もので、『近世初頭に謡曲を基調として成立したとされるが、曲目は多数あり、その性格も多様なものが含まれて、近世期に流行した各種の歌も』そこには『歌い込まれている』という。『幕藩体制の消滅とともに芸能伝承は完全に途絶しており、その詞章を記録した「御船歌」本が残るのみで芸能的側面については不明なことが多い。一方、各地で船の乗り初め、船下ろしなど船をめぐっての儀礼の場面で受容されて』おり、『また』、『海辺の神社の神輿渡御や海上渡御などにも歌われている。あるいは都市型祭礼における船型屋台に伴って伝承されている事例も少なくない』とあった。]

 「袖几帳」という言葉は『枕草子』にあったと思う。袖で顔を掩い隠すの意、飛驒の山中には今もこの語が残っていると、江戸時代の随筆に見えている。其角は勿論『枕草子』によって用いたのであろう。名月の皎々(こうこう)と照るままに面のあらわなるを恥じて袖で掩うというのは、当世よりもやはり平安朝にふさわしい趣である。其角は徒(いたずら)にこういう言葉を弄したわけではない。

[やぶちゃん注:乾氏の前掲書に、其角編の「末若葉(うらわかば)」(元禄一〇(一六九七)年刊)所収で、

   *

草のいほりたれかたづねん、とこたへ侍りしをめでゝくさの庵くさの庵とよばれしも、折にふれたる也。

   *

という前書があり、『「草のいほりたれかたづねん」は『枕草子』八十二段、頭の中将が白楽天の詩句「蘭省花時錦帳下」』(蘭省(らんしやう)の花(はな)の時(とき) 錦帳(きんちやう)の下(もと))『の末を継ぐことを求めたのに対する清少納言の返し』とある。原文は「JapaneseTextInitiative」のこちらの[80、81、82、83、84]の「頭中將そぞろなるそらごとを聞きて、いみじういひおとし……」以下を読まれたい。長いので引用する気が失せた。]

 「妓子万三郎」は村山万三郎のこと、「五元集」の他の箇所にもこの役者に関する句があった。元禄四年に麻疹で死んだのだそうである。其角のこの句は通り一遍の挨拶ではない。滲み出るような哀感が籠っている。其角は万三郎の華かな舞台の形見として、折釘に空しくかかっている鬘(かつら)を思いやったので、秋蟬は時節柄取合せたのであろうが、その声に力無いのもあわれが深い。『五元集』中秀句の一であろうと思う。

[やぶちゃん注:「村山万三郎」【2020424日改稿】当初、『不詳。私が複数の歌舞伎年表で調べ得た同名の歌舞伎役者は女形ではあるものの、宵曲のいう没年元禄四(一六九一)年よりも後の襲名者のものであった。識者の御教授を乞う』と注したが、昨日、いつも情報を戴くT氏より、

   《引用開始》

「村山万三郎」は、鳥居清信が元禄六年五月(月は推定)に出した「古今四場居百人一首」改め「古今四場居色競」に出る「村山万三郎」と思います(霞亭文庫の「古今四場居色競」の36コマ)。

同じものの複製は、国立国会図書館デジタルコレクションの稀書複製会編「古今四場居百人一首」の32コマでも見ることができます。そこに「村山万三郎」について十九(歳)でなくなったことが書かれています。

   《引用終了》

と御教授戴いた。

 まず、当該書の絵本であるが、書誌データを調べてみると、数奇な刊本で、書名は初め、「古今四場居色競百人一首」(ここんしばいいろくらべひゃくにんいっしゅ)で、童戯堂四囀(どうぎどうしてん)・恋雀亭四染(れんじゃくていしせん)作。刊行は元禄六(一六九三)年であったが、サイト「浮世絵 鳥居清信」の本書の解説(画像も総て載る)によれば、『当時人気の歌舞伎役者100人の評判記』であったが、『幕府より、歌舞伎役者ごときを小倉の撰に擬すことは不敬であるとして出版に当たり改題を申しつけられ、「古今四場居百人一首」[やぶちゃん注:ママ。本書には「古今四場異百人一首」の異名もある。]を「古今四場居色競」[やぶちゃん注:「ここんしばいいろくらべ」。]に改題したが、それでも絶版の上、版木および印刷本を没収される。このため現存する本は2冊のみとされる』とあり、絵師は鳥居清信とある。

 T氏の指摘を受け、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したところ、まず、左下方に「村山万三郎」と記し、絵は女形である。頭書を見ると、二行目から(私は仮名崩し字の判読が大の苦手であるが、自然流で判読した。比較の便を考え、原文と同じ位置で改行した)、

   *

大分はしかのはやりし年

九月にとし十九にして

菊花のいまだ末ながふ

してひらかぬつぼみをに

くきあらしの吹切て

此世の色もなさけも振

すて其身はいたつらに朽

はてにけると作者も淚

のゑだをおりてよみし

こそいとやさしくこそあれ

   *

と判読出来る(誤りがあれば御教授願えると幸いである)ので、「はしか」で亡くなったというのが、宵曲の「麻疹(はしか)で死んだ」という記載と一致し、本書の刊行年と合わせてみても問題がない。彼である。いつもながら、T氏に感謝申し上げる。なお、私も宵曲と同じく本句を哀感に富んだ名句と思うが、近代の其角の評釈書では採用されておらず(所持する二書と国立国会図書館デジタルコレクションで読める二書を見たが、所収しない)、非常に残念な気がしている。或いは万三郎なる人物が彼らには判らなかったから手控えたものかも知れぬなどと、自分を棚に上げておいて思ったりしたことを自白しておく。]

 「品川泛釣」の作者は海上に舟を泛べて釣を垂れつつある。空の雁も比較的低く飛んでいるのであろう。徐(おもむろ)に頭上を過ぐる雁の腹が白く見える。「雁の腹見送る」というのは奇抜なようで、実は自然な景色である。ここに「腹」及び「見送る」の語がなければ、どうしても雁の低く徐に飛んで行く様子が現れて来ない。そこにちょっと微妙な味があるのである。

[やぶちゃん注:「雁の腹見送る空や舟の上」この一句、「其便」では、

 厂の腹見すかす空や船の上

で、そこに並んで、既出の、

  橫江舟中

 白雲の鳥の遠さよ數は厂

が載る。堀切氏は前掲書で、『古歌「白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへみゆる秋の夜の月」について、これを「雁の影(姿)さへみゆる」と近景に捉えたときの詠み方を提示してみせたものとも解される』と評しておられるのは、非常に説得力がある見解である。標準或いは望遠と、広角レンズの二様の映像感覚がここで示されてあると私は読む。また、宵曲が挙げたのは「となみ山 浪化集下」(浪化編・元禄八(一九六五)年刊)及び「五元集」の句形で、「裸麦」(曾米編・元禄一四(一九七一)年跋)では、

 雁の腹見送(みおくる)空や船の中

と句形が微妙に変わり、其角はカメラマンとして多層的イメージをここでマルチに捉えようとしているととるべきであろう。]

 「何となく」の句は其角の作としては最も平淡な部類に属する。そこで『源氏物語』の夕顔の巻を特出して、隣の話声が耳に入ることを詠んだものだろうという説がある。其角のことだから、その位の種は伏せてあるかも知れない。しかし冬の夜に何ということもなく、隣家の物音に耳を澄しているのは、一種微妙な趣であって、同じ其角の作でも『田舎句合(いなかのくあわせ)』にある

 夢なほ寒し鄰家に蛤をかしぐ音     其角

[やぶちゃん注:「蛤」は「はまぐり」。破格である。]

の如きものではない。蕪村の「我を厭ふ鄰家寒夜に鍋を鳴らす」もやや浅露に失し、かえってこの句ほどの含蓄はないように思う。其角の句が磊落で片づかぬ所以はこういう点にある。

[やぶちゃん注:この「何となく冬夜鄰をきかれけり」の句は、其角編「続虚栗」(天和三(一六八三)年刊)では、『夜座』(やざ)という前書がある。

「田舎句合」其角編。延宝八(一六八〇)年序。この「蛤」の生々しく騒々しい炊ぐ音より、四年後の隣家向ける其角の感覚は、逆に何か詩的で幽かな静謐の中の、魂の感ずる精神の琴線に触れてくる音として、ある。

「浅露」表現や用語が浅薄で深みがない、味わいがない、含蓄がないの意。]

 以上挙げ来ったところは、其角集中にあっては比較的難解ならざるものである。蕪村が「世に膾炙せるはいづれもやすらかにしてきこゆる句也」といったのは、果してどういう句を指すのかわからぬが、右に挙げた句は必ずしも人口に膾炙したものばかりとも思われない。其角の句は比較的「やすらかにきこゆる句」の中にも、人口に膾炙する性質のものと、然らざるものとがあるのであろう。

 

2020/04/21

甲子夜話卷之六 9 林子、宮嶋に山禁を犯し瀑雨にあふ事

 

6-9 林子、宮嶋に山禁を犯し瀑雨にあふ事

林氏云。辛未年西征のとき、藝の宮嶋に舟行す。嚴嶋社の寶物を縱觀して時刻を移し、晝八半時頃に至り、彌山に登らんと云へば、藝侯より附し嚮導の者、承諾せずして云。此山に登ること晝九時を限る。それより後は人の登ることを許さず。必變ありとて、いかほど强れども肯ぜず。予姑く步して山麓に抵る。山腹より瀑流ありて淸冽なり。因て人をして嚮導者に云はしむるは、瀑源の邊まで登り見ん。嚮導に及ばざれば、こゝに休憩あるべしとて、侍臣より奴僕まで十四五人許もつれて登り、瀑源に至り着て、從者に云には、前言は詐なり。此地再遊すべきならず。折ふし好天氣、此機會を失ふことやあるべき。是より絕頂を極めんと言ふに、從者唯諾すれども、心中に畏懼の意あるものありき。扨山路を攀躋るに隨て、息喘を發するものあり、嘔噦を生ずるものあり、頭痛するものあり、故も無く氣分あしゝとて面菜色なるものあり、足軟緩して步みかぬるものあり。予笑て各路傍に留り、疾を養ふことを許す。次第に登りて山頂に至る頃ほひ、從ふもの僅に五六人なり。頂上の遠眺快甚く、折しも天朗晴にて、目中の山巒島嶼、千態萬狀を脚下に獻ず。平宗盛が納めし鐘を摩挲して、懷古の想を生じ、良久く徘徊する中に、山谷の間より縷々の雲を起す。予從者を顧みて、此膚寸の合ざる内に下山せん。いざいざと云て急ぎ山を下る。未だ半にも至らざるに、前山後峯隱顯明滅して、人皆雲中にあり。麓に近づく頃は雲烟深く鎖し、眼界浩として烟海の如し。やうやう來路を認て下る。初疾しものども、こゝの岩角かしこの辻堂より、一人二人づゝ馳付く。予笑て、敗軍の落武者殘卒の體、かくぞあるべしとて大哄す。山を下り民屋ある所まで走り行内、はや驟雨暴注して、滿身淋漓せり。遂に民屋に入り、雨を避し中の雨勢は、未曾有の大雨にて、見る内に道路泛濫に至れり。さきの嚮導者あきれはてゝ、かくあるべしと思へばこそ、止め奉りつれとて、幾度か物蔭にて從僕に言けるとぞ。やがて天乍晴、夕陽明媚、海波如ㇾ熨、乃舟に乘て玖波驛に投宿しぬ。是にて人の山に醉と云ことも、魑魅に逢と云ことも能解したり。最初に從者の疾を生じたるは、山禁を犯し刻限後れに登山すると云懼心より、我と疾を生ずるを、山に醉と云べし。又其禁と云もの徒然に非ず。天氣は晝後より多く變ずるものゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下の二ヶ所も同じ。]、剋の後るゝを禁ずるはもと理あることなり。深山は陰閉のものゆへ、常に人跡乏しき所を、人氣にて動かすときは、雲雨を起すも、亦その理なり。山路奇險にして迷ひ易く、登降も便ならず。況や數丈の溪㵎、その間にある所にて、大風雨に逢へば、失足して谷へ墜るゆへ、その下の木梢にも掛るべし。是等を魔の所爲など云にぞ有ける。纔なる海島の彌山にてさへ、山氣を盪かして雲雨を生ぜり。能時分に見切りたる計にて、何のことも無し。見切あしければ、是等の時も天狗出たるなど俗論あるべきなり。凡我心に疑無き時は、人事に障碍は無きものなり。一念の疑より己と障礙は引起すものにこそ。

■やぶちゃんの呟き

 これは非常に長く、しかも読みがなかなかに難しい。されば、私が特異的に歴史的仮名遣で読みの振れる語句や難読と思われる箇所に読みを附したものを以下に示し、後につぶやくこととする。二度手間するので、序でに読み易く、句読点・鍵括弧・記号を変更・追加し、さらにシチュエーションごとに段落を成形することとした。

   *

   林子(りんし)、宮嶋に山禁を犯し、瀑雨(ばくう)にあふ事

 林氏云(いはく)――

 辛未(かのとひつじ)年、西征(さいせい)のとき、藝(あき)の宮嶋に舟行(しふかう)す。嚴嶋社(いつくしましや)の寶物を縱觀(じゆうくわん)して時刻を移し、晝八半時(やつはんどき)頃に至り、

「彌山(みせん)に登らん。」

と云へば、藝侯(げいこう)より附(つき)し嚮導(きやうだう)の者、承諾せずして云(いはく)、

「此山に登ること、晝九時(ここのつどき)を限る。それより後は人の登ることを許さず。必(かならず)變あり。」

とて、いかほど强(しひ)れども、肯(がへん)ぜず。

 予、姑(しばら)く步(あゆみ)して山麓に抵(いた)る。山腹より瀑流ありて淸冽なり。因(より)て、人をして嚮導者に云はしむるは、

「瀑源の邊(あたり)まで登り見ん。嚮導に及ばざれば、こゝに休憩あるべし。」

とて、侍臣より奴僕まで十四、五人許(ばかり)もつれて登り、瀑源に至り着(つき)て、從者に云(いふ)には、

「前言は詐(いつはり)なり。此地、再遊すべきならず。折ふし好天氣、此機會を失ふことやあるべき。是より絕頂を極めん。」

と言ふに、從者、唯諾(ゐだく)すれども、心中に畏懼(いく)の意あるものありき。

 扨(さて)、山路を攀躋(よぢのぼ)るに隨(したがひ)て、息喘(そくぜん)を發するものあり、嘔噦(おうゑつ)を生ずるものあり、頭痛するものあり、故も無く、

「氣分あしゝ。」

とて、面(おもて)、菜色(さいしよく)なるものあり、足、軟緩(なんくわん)して步みかぬるものあり。

 予、笑(わらひ)て各(おのおの)路傍に留(とどま)り、疾(やまひ)を養ふことを許す。

 次第に登りて、山頂に至る頃ほひ、從ふもの、僅(わづか)に五、六人なり。

 頂上の遠眺、快(かい)甚(はなはだし)く、折しも、天、朗晴(らうせい)にて、目中の山巒(さんらん)・島嶼(とうしよ)、千態萬狀(ばんじやう)を脚下に獻ず。

 平宗盛が納めし鐘を摩挲(まさ)して、懷古の想(おもひ)を生じ、良(やや)久(ひさし)く徘徊する中に、山谷(さんこく)の間(かん)より縷々(るる)の雲を起す。

 予、從者を顧みて、此(この)膚寸(ふすん)の合(あは)ざる内に下山せん。いざ、いざ。」

と云(いひ)て、急ぎ、山を下る。

 未だ半(なかば)にも至らざるに、前山・後峯、隱顯・明滅して、人皆(ひとみな)、雲中にあり。

 麓に近づく頃は、雲烟、深く鎖し、眼界、浩(かう)として、烟(けむり)、海の如し。やうやう來路を認(みとめ)て下る。

 初(はじめ)、疾(やみ)しものども、こゝの岩角、かしこの辻堂より、一人、二人づゝ馳付(はせつ)く。

 予、笑(わらひ)て、

「敗軍の落武者・殘卒の體(てい)、かくぞあるべし。」

とて大哄(たいこう)す。

 山を下り、民屋ある所まで走り行(ゆく)内(うち)、はや、驟雨、暴注(ばうちゆう)して、滿身淋漓(りんり)せり。

 遂に民屋に入り、雨を避(さけ)し中(なか)の雨勢(うせい)は、未曾有(みぞう)の大雨にて、見る内に、道路、泛濫(はんらん)に至れり。

 さきの嚮導者、あきれはてゝ、

「かくあるべしと思へばこそ、止(と)め奉りつれ。」

とて、

「幾度か物蔭にて從僕に言ける。」

とぞ。

 やがて、天、乍(たちまち)晴(はれ)、夕陽、明媚(めいび)、海波、熨(のし)のごとく、乃(すなはち)舟に乘(のり)て玖波驛(くはのえき)に投宿しぬ。

 是(これ)にて、人の山に「醉(ゑふ)」と云(いふ)ことも、「魑魅(ちみ)に逢(あふ)」と云(いふ)ことも能(よく)解したり。

 最初に從者の疾(やまひ)を生じたるは、山禁を犯し、刻限後(おく)れに登山すると云ふ懼心(おそれのこころ)より、我(おのづ)と疾(やまひ)を生ずるを、「山に醉(ゑふ)」と云(いふ)べし。

 又、其禁と云(いふ)もの徒然(いたづら)に非ず。

 天氣は晝後(ちうご)より多く變ずるものゆへ、剋(とき)の後(おく)るゝを禁ずるは、もと、理(ことわり)あることなり。深山は陰閉(いんへい)のものゆへ、常に人跡(じんせき)乏(とぼ)しき所を、人氣(じんき)にて動かすときは、雲雨を起すも、亦その理なり。山路、奇險にして迷ひ易く、登降(とうこう)も便(びん)ならず。況や數丈の溪㵎(けいかん)、その間(かん)にある所にて、大風雨に逢へば、失足(しつそく)して谷へ墜(おつ)るゆへ、その下の木梢(こずゑ)にも掛るべし。是等を「魔の所爲(しよい)」など云(いふ)にぞ有(あり)ける。纔(わづか)なる海島(かいとう)の彌山(みせん)にてさへ、山氣(さんき)を盪(うご)かして雲雨を生ぜり。能(よき)時分に見切りたる計(ばかり)にて、何のことも無し。見切あしければ、是等の時も「天狗出(いで)たる」など俗論あるべきなり。

 凡(およそ)我心に疑(うたがひ)無き時は、人事に障碍(しやうがい)は無きものなり。一念の疑(うたがひ)より己(おのづ)と障礙(しやうがい)は引起すものにこそ。

   *

「宮嶋」安芸の宮島。

「瀑雨」激しい降雨。

「林氏」お馴染みの静山の年下(八つ下)の友人である江戸後期の儒者で林家第八代当主林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。冷徹な彼の面目躍如たるエピソードである。

「辛未年」文化八(一八一一)年。松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年辛丑)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の文政四(一八二一)年辛巳(かのとみ)十一月十七日甲子の夜であるが、それ以降に「辛未」はない。従って遡る直近の、この年となるのが、こうした記録類の常識である。

「西征」単に西に向かって行く、旅すること。

「嚴嶋社」厳島神社。

「晝八半時頃」午後三時頃。

「彌山」広島県廿日市市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高五百三十五メートルの弥山(みせん)(グーグル・マップ・データ航空写真)。古くから信仰の対象であった。

「藝侯」広島藩主。当時は第八代藩主浅野斉賢(なりかた)。

「嚮導の者」案内人。「嚮」(現代仮名遣「きょう」)は「向」に同じ。「向かうこと・向くkと・先にすること」。「鴻門之会」でやったじゃないか。

「晝九時(ここのつどき)」正午。

「山腹より瀑流ありて淸冽なり」白糸の滝(グーグル・マップ・データ)。

「再遊すべきならず」再び遊山することは出来ぬであろう。

「唯諾(ゐだく)」相手の言ったことをそのまま承諾すること。

「息喘」喘息。

「嘔噦(おうゑつ)」嘔吐。

「菜色(さいしよく)なる」青白くなる。蒼白になる。

「軟緩」急に足弱になって歩みがのろくなること。

「平宗盛が納めし鐘」治承元(一一七七)年に平宗盛が寄進した刻銘のある「宗盛の梵鐘」 は島の多々良潟(たたらがた。グーグル・マップ・データ。名前から推してもここで造ったことが判るが、或いは砂鉄が採れたのかも知れない)というところで宗盛が鋳造させたとされるものが、現在は山頂近くの弥山本堂(グーグル・マップ・データ)にある。

「摩挲(まさ)」手でさすること。撞いたのではない。

「縷々」細く長く途切れることなく続くさま。

「膚寸(ふすん)」「膚」(ふ)は指四本を並べた長さの意で、ほんの僅かな大きさ。特に切れぎれの雲を形容するのに用いられる。

「浩」広々としているさま。

「大哄」「おほわらひす」と読んでもいいが、儒者である彼は音読みしたろうと思う。

「暴注」激しくそそぐこと。

「淋漓」滴り落ちること。

「雨を避し中」「中」は「下山のちょうど半ば頃」の意で採る。

「泛濫(はんらん)」「氾濫」に同じい。洪水のようなありさまとなったことを指す。

「熨」平たく伸びた熨斗(のし)。

「玖波驛(くはのえき)」現在の広島県大竹市玖波(グーグル・マップ・データ)。宮島の南の陸の対岸。山陽道の宿駅であった。

「懼心(おそれのこころ)」「くしん」でもよい。

「陰閉」強い陰気の籠って充満していることであろう。

「人氣(じんき)にて動かすとき」人間が運動して、そこに陽気が発生する時。

「盪(うご)かして」「動かして」に同じ。この場合は、自然にその滞留している陰気を揺り動かす結果となり、の意。

「能(よき)時分に見切りたる計(ばかり)にて」私自身の自然現象に対する判断に誤りがなく、丁度良い時分を見計らって下山しただけのことであって。

「俗論あるべきなり」馬鹿げた巷間の噂による理由付けが行われるだけのことである。

「障碍」「障礙」障害に同じい。

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) アカシヤの蔭 / 筑摩版全集校訂本文に誤りあり

 

  アカシヤの蔭

 

たそがれ淡き搖曳(さまよひ)やはらかに、

收(をさ)まる光暫しの名殘なる

透影(すいかげ)投げし碧(みどり)の淵(ふち)の上、

我ただひとり一日(ひとひ)を漂へる

小舟(をぶね)を寄せて、アカシヤ夏の香の

木蔭(こかげ)に櫂(かひ)をとどめて休(やす)らひぬ。

 

流れて涯(はて)も知らざる大川(おほかは)の

暫しと淀(よど)む翠江(みどりえ)夢の淵!

見えざる靈の海原花岸の

ふる鄕(さと)とめて、生命(いのち)の大川に

ひねもす浮びただよふ夢の我!

夢こそ暫し宿れるこの岸に

ああ夢ならぬ香りのアカシヤや。

 

野末(のすへ)に匂ふ薄月(うすづき)しづかなる

光を帶びて、微風(そよかぜ)吹く每に、

英房(はなぶさ)ゆらぎ、眞白の波湧けば、

みなぎる薰(かほ)りあまきに蜜の蜂

群(む)るる羽音は暮れゆく野の空に

猶去りがての呟(つぶ)やき、夕(ゆふ)の曲(きよく)。

 

纜(ともづな)結(ゆ)ひて忘我(われか)の步みもて、

我は上(のぼ)りぬ、アカシヤ咲く岸に。──

春の夜櫻おぼろの月の窓

少女(をとめ)が歌にひかれて忍ぶ如。

 

ああ世の戀よ、まことに淀(よど)の上(へ)の

アカシヤ甘き匂ひに似たらずや。

いのちの川の夢なる靑淵(あをぶち)に

夢ならぬ香(か)の雫(しづく)をそそぎつつ、

幻過ぐるいのちの舟よせて、

流るる心に光の鎖(くさり)なす

にほひのつきぬ思出結ぶなる。

 

淀める水よ、音なき波の上に

沒藥(もつやく)撒(ま)くとしただるアカシヤの

その香(か)、はてなく流るる汝(な)が旅に

消ゆる日ありと誰かは知りうるぞ。

ああ我が戀よ、心の奧ふかく、

汝(なれ)が投げたる光と香りとの

(たとへ、わが舟巖(いはほ)に覆(くつが)へり、

或は暗の嵐に迷ふとも、)

沈む日ありと誰かは云ひうるぞ。

 

はた此の岸に溢るる平和(やすらぎ)の

見えざる光、不斷の風の樂(がく)、

光と樂(がく)にさまよふ幻の

それよ、我が旅はてなむ古鄕(ふるさと)の

黃金(こがね)の岸のとはなる榮光(えいくわう)と

異なるものと、誰かははかりえむ。

ああ汝(なれ)水よ、われらはふるさとの

何處なりしを知らざる旅なれば、

アカシヤの香に南の國おもひ、

戀の夢にし永遠(とは)なる世を知るも、

そは罪なりと誰かはさばきえむ。

 

ああ今、月は靜かに萬有(ものみな)を

ひろごり包み、また我心をも

光に融(と)かしつくして、我すでに

見えざる國の宮居に、アカシヤと

咲きぬるかともやはらぐ愛の岸、

無垢(むく)なる花の匂ひの幻に

神かの姿けだかき現(うつゝ)かな。

 

水も淀(よど)みぬ。アカシヤ香も增しぬ。

いざ我が長きいのちの大川に

我も宿らむ、暫しの夢の岸。──

暫しの夢のまたたき、それよげに、

とはなる脈(みやく)のひるまぬ進み搏(う)つ

まことの靈の住家(すみか)の證(あかし)なれ。

            (甲辰六月十七日)

 

   *

 

 

  アカシヤの蔭

 

たそがれ淡き搖曳(さまよひ)やはらかに、

收まる光暫しの名殘なる

透影(すいかげ)投げし碧(みどり)の淵の上、

我ただひとり一日を漂へる

小舟(をぶね)を寄せて、アカシヤ夏の香の

木蔭に櫂(かい)をとどめて休らひぬ。

 

流れて涯も知らざる大川の

暫しと淀む翠江(みどりえ)夢の淵!

見えざる靈の海原花岸の

ふる鄕とめて、生命(いのち)の大川に

ひねもす浮びただよふ夢の我!

夢こそ暫し宿れるこの岸に

ああ夢ならぬ香りのアカシヤや。

 

野末(のすゑ)に匂ふ薄月しづかなる

光を帶びて、微風(そよかぜ)吹く每に、

英房(はなぶさ)ゆらぎ、眞白の波湧けば、

みなぎる薰(かを)りあまきに蜜の蜂

群るる羽音は暮れゆく野の空に

猶去りがての呟やき、夕(ゆふ)の曲。

 

纜結ひて忘我(われか)の步みもて、

我は上(のぼ)りぬ、アカシヤ咲く岸に。──

春の夜櫻おぼろの月の窓

少女(をとめ)が歌にひかれて忍ぶ如。

 

ああ世の戀よ、まことに淀の上(へ)の

アカシヤ甘き匂ひに似たらずや。

いのちの川の夢なる靑淵に

夢ならぬ香の雫をそそぎつつ、

幻過ぐるいのちの舟よせて、

流るる心に光の鎖なす

にほひのつきぬ思出結ぶなる。

 

淀める水よ、音なき波の上に

沒藥撒くとしただるアカシヤの

その香、はてなく流るる汝(な)が旅に

消ゆる日ありと誰かは知りうるぞ。

ああ我が戀よ、心の奧ふかく、

汝(なれ)が投げたる光と香りとの

(たとへ、わが舟巖に覆へり、

或は暗の嵐に迷ふとも、)

沈む日ありと誰かは云ひうるぞ。

 

はた此の岸に溢るる平和(やすらぎ)の

見えざる光、不斷の風の樂、

光と樂にさまよふ幻の

それよ、我が旅はてなむ古鄕(ふるさと)の

黃金(こがね)の岸のとはなる榮光と

異なるものと、誰かははかりえむ。

ああ汝(なれ)水よ、われらはふるさとの

何處なりしを知らざる旅なれば、

アカシヤの香に南の國おもひ、

戀の夢にし永遠(とは)なる世を知るも、

そは罪なりと誰かはさばきえむ。

 

ああ今、月は靜かに萬有(ものみな)を

ひろごり包み、また我心をも

光に融かしつくして、我すでに

見えざる國の宮居に、アカシヤと

咲きぬるかともやはらぐ愛の岸、

無垢なる花の匂ひの幻に

神かの姿けだかき現かな。

 

水も淀みぬ。アカシヤ香も增しぬ。

いざ我が長きいのちの大川に

我も宿らむ、暫しの夢の岸。──

暫しの夢のまたたき、それよげに、

とはなる脈のひるまぬ進み搏つ

まことの靈の住家の證(あかし)なれ。

            (甲辰六月十七日)

[やぶちゃん注:「櫂(かひ)」の「ひ」、「野末(のすへ)」の「へ」、「薰(かほ)り」の「ほ」はママ。読み簡略版では特異的に正しい歴史的仮名遣で示した。初出は『明星』明治三七(一九〇四)年七月号。初出形原本を「国文学研究資料館 電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」のこちらで読むことが出来る。

 さて、本篇の筑摩書房版全集(昭和五四(一九七九)年初版)は、私と同じく初版本を底本としているのにも拘わらず、致命的な誤りがあるのを発見した。第三連と第四連の切れ目を、

   *

野末(のすへ)に匂ふ薄月(うすづき)しづかなる

光を帶びて、微風(そよかぜ)吹く每に、

英房(はなぶさ)ゆらぎ、眞白の波湧けば、

みなぎる薰(かほ)りあまきに蜜の蜂

群(む)るる羽音は暮れゆく野の空に

猶去りがての呟(つぶ)やき、夕(ゆふ)の曲(きよく)。

纜(ともづな)結(ゆ)ひて忘我(われか)の步みもて、

 

我は上(のぼ)りぬ、アカシヤ咲く岸に。──

春の夜櫻おぼろの月の窓

少女(をとめ)が歌にひかれて忍ぶ如。

   *

としてしまっているのである。初版に当該部分はここここである(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のHTML画像リンク)。127」ページの最終行は明らかに一行空きであることが、透かした背後の影で判るし、本文組版の横幅を他のページと比べてもらっても、一行空いていることは明白である。しかも初出形も同じく「纜結ひて忘我(われか)の步みもて、」からが第四連となっているのである。恐らくはその後に改訂版で直しているであろうが、これは非常に痛い誤りである。

「アカシヤ」マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia に属するアカシア類。ウィキの「アカシア」では、『日本では関東以北では栽培が困難であるものが多い。比較的温暖な所で栽培されるもの』として七種を挙げているのでそちらを見られたい。

「沒藥」ムクロジ目カンラン科カンラン科 Burseraceae のコンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂を指す。ウィキの「没薬」によれば、『スーダン、ソマリア、南アフリカ、紅海沿岸の乾燥した高地に自生』し、『起源についてはアフリカであることは確実であるとされる』。『古くから香として焚いて使用されていた記録が残され』、『また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とある。]

三州奇談卷之五 靈神誤ㇾ音

 

    靈神誤ㇾ音

 新川郡森尾村神戶神社は、宮前に大いなる杉あり。明和元年五月十二日、此木の本に近鄕の百姓共休らひ居たりしが、たばこの火を取散らせしに、折惡(をりあし)く風ありて杉の木の皮に火移り、餘程燃上りし程に、

「神木なり」

とて驚き打消さんとすれども、あたりに水なし。傍らに小便を入れし桶ありし程に、是を打懸けて火を消したり。

[やぶちゃん注:「靈神誤ㇾ音」は「れい・しん、音(おん)を誤る」。最後まで読むと、意味に合点出来る。

「新川郡森尾村神戶神社」これは今までになく手強い。まず、旧「森尾村」或いは新旧の「森尾」なる地名が富山県内に見当たらない。しかも「神戶神社」(読み不詳。「がうど(ごうど)」か「かんべ」か?)も後に出る「五尾村」というのも見当たらない。国書刊行会本では『新川郡森尾村神戸の神社の宮前に、』となっているのであるが、「神戸」という地名も探したがそれもまた見当たらない。全然分からないというのは本書で初めてで、どうもそうなると癪になってくるので、調べてみたところ、中新川郡上市町森尻(「森尾」の意に近いし、或いは「尾」の崩し字を「尻」とも誤りそうである)という神度(かむと/かみわたり)神社があることが判った。さらに、「五尾」に近いものとして、旧「上新川郡」内に「五位尾村」、現在の新川郡上市町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があった。神度神社から東南東に六キロメートルほどの位置である。取り敢えず、これを私の一つの候補地として示しておく(なお、他にヒントとして「前坂」という地名が後に出るのだが、富山県内で現存する前坂は、下新川郡宇奈月町(うなづきまち)明日(あけび)の字前坂(検索で見出した)ぐらいなもので、これは北に離れ過ぎで違う)。

「明和元年五月十二日」グレゴリオ暦一七六四年六月十一日相当。但し、厳密にはまだ宝暦十四年である。宝暦十四年は翌月の六月二日(グレゴリオ暦一七六四年六月三十日)に明和に改元している。但し、通常、改元元年はその一月まで遡って新しい元号で呼ぶのが寧ろ普通であるから、ここは問題ではない。]

 其夜、森尾村の彥右衞門と云ふ者、夢に靈人(れいじん)來りて告げて曰く、

「我は此神戶の神なり。今日里人神木を汚して、我が遊ぶ所なし。我れ是に依りて此地は守らじ。早く五尾村へ移らんとす。同村豐右衞門が馬に乘りて行くべし、汝(なんぢ)供(とも)に來れ」

とありし程に、夢中に驚きて詫言(わびごと)を申し、且つ其神に隨ひ行きしに、道半里許(ばかり)して前坂と云ふ所にて、馬(むま)膝を折りて足も痛み進み得ず。神曰く、

「今宵は歸るべし」

とて馬も返ると忽ち夢覺む。

 彥右衞門翌朝とくに起て、とかくふしぎはれやらず。先づ豐右衞門が家に到りて聞くに、

「夜前、馬屋の中にて、馬膝を折りて甚(はなはだ)痛みたり」

とて、伯樂が輩(やから)騷ぎ來る。

[やぶちゃん注:「伯樂」はここでは富農と思われる豊右衛門方の馬の係りの下男であろう。]

 彥右衞門大いに驚き、爾々(しかじか)の夢を見し段云ひて歸るに、其夜の夢に神又來り給ひ、

「馬四五日程に痛(いたみ)愈ゆべし。然らば汝も連去(つれさ)らん」

となり。

 村の中にも往々夢見る者あり。吉右衞門と云ふ者も、又同じく

「供に來(きた)れ」

と夢見る。

「其餘は神慮に叶はず。跡へ祟りをなさん」

など、ありありと示現(じげん)ありけるに、里人大いに驚き、水を以て杉を洗ひ淸め、隣村二宮若狹と云ふ神主を請(しやう)じて祈禱せしむるに、其夜神又來り給ひ、

「杉の木に遊ぶべし、此里人の詫言(わびごと)も聞き捨つべからず、さらば先づ留まるべし」

と機嫌直りし躰(てい)も見へけるが、是より靈夢絕えてなし。

[やぶちゃん注:「二宮若狹」不詳。神主の名前じゃなくて、村の名前を載せて欲しかったなぁ!

「杉の木に遊ぶべし」この「べし」は意志。去らずにこの杉の木にやすらおう。]

 又同郡日岩村日置社と云ふは、大山祇命(おほやまづみのみこと)・菊理姬命(きくりひめのみこと)を相殿に勸請す。此社地、初めは甚だ廣し。村の者神地を賣りて、一向宗の寺を建て、地を狹うすといへども、今猶三十町四方、大いなる石壇を上る事一町餘なり。此社地に栗茸(くりたけ)多く生ず。昔より取馴れし者、此村に二人あり。然るに今年村中の人多く入りて取りぬ。是又同じ明和元年なり。此村の肝煎(きもいり)を平三郞と云ふ。是が元へ出入する甚右衞門と云ふ甚だ正直の者あり。此者隣村に姊ありしが、此日爰に來りし程に、甚右衞門

「もてなす物なし」

とて、此社地に入て栗茸を取來りて、母と我姊と三人煮て喰ふ。

[やぶちゃん注:「日岩村日置社」日岩村は不詳だが、中新川郡立山町(まち)利田(りた)日置(ひおき)にある日置神社。別にそこから東北東六キロメートル弱の同立山町日中(にっちゅう)にも同名の日置神社があるが、稗田阿礼氏のサイト「神社と古事記」の「日置神社 富山県中新川郡立山町利田」に、後者の存在を示しつつも、この利田の日置神社の『社域は往時、広大で、粟茸が多く生えていた。村人はそれを盗んで食べていた。村一番の正直者である甚右衛門も、粟茸を盗んだ』。『すると、御神霊が甚右衛門に乗り移り、その言行から、村人は改心し、二度と盗むことがなくなったという』という本伝承が記されてあることから、利田の日置神社を採った。しかし、祭神が合わない。同サイトの記載では利田のそれは、『天太玉命』(あまのふとだまんみこと)に『天照大神を配祀する。ただし、資料によっては、祭神不詳』、或いは『大山守命』(おおやまもりのみこと)・『高魂命』(たかむびのみこと)『などとなっている』とする(因みに、日中の方の祭神を見ておくと、天押日命(あめのおしひのみこと:天忍日命)とする)。

「大山祇命」「おほやまつみのみこと」。「神産み」に於いて伊耶那岐命と伊耶那美命との間に生まれた一柱。後の草と野の神である鹿屋野比売神(かやのひめがみ)との間に四対八柱の神を生んでいる。名前からは山の神であるから、同定した日置神社の大山守命と通底性が強いとは言えよう。

「菊理姬命」「くくりひめのみこと/きくりひめのみこと)は加賀白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。

「三十町四方」約三キロ二百七十三メートル四方。しかしその大きさの大きな石製の壇というのはとんでもなく目立って広過ぎである。国書刊行会本では『三丁四方』で、「加越能三州奇談」でも同じで、「一町」は百九メートルであるから、三百二十七メートル四方でこの方が自然である。

「一向宗の寺」利田の日置神社に現在近いのは、北六百メートルほどの位置にある浄土真宗宝栄寺であるが、創建等判らぬのでこれかどうかは不詳。

「栗茸」菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ハラタケ目モエギタケ科モエギタケ亜科クリタケ属クリタケ Hypholoma sublateritiumウィキの「クリタケ」によれば、『主に炒め物、天ぷら、カレーライス、まぜご飯などにして食されている。ただし、近年有毒成分が見つかり、海外では有毒とされている。過食は厳禁であり、注意を要する。毒成分はネマトリン、ネマトロン、ハイフォロミンA,B』とする。『口あたりは多少ボソボソするが、よいダシが出る上、収量が多くしばしば大量発生するため』、『キノコ狩りの対象として古くから知られている』とある。

「明和元年」一七六四年。

「肝煎」名主・庄屋の異名。]

 其夜神人來り、大いに怒り、布袋(ぬのぶくろ)を投付けたりと覺へて、袋を手に据ゑて忽ち亂心となり、母と姊は打臥して人心地(ひとごこち)なし。是に依りて近隣皆打寄りて靜むれども、甚右衞門袋をうやうやしく持ちて、

「此上(このうへ)に白衣の神人います、汝等は頭高し」

と甚だ狂ふ。

 組頭甚太郞・四郞兵衞と云ふ者、日頃は這(はひ)つくばひし甚右衞門なるに、只彼が云ふ事神人の如し。

「庄屋が方に白木(しらき)の臺(だい)あるべし、取來(とりきた)れ。若し我詞(わがことば)を背かば、此里を燒捨(やきすて)ん」

と罵(ののし)る處に、驚きて取來(とりきた)る。

 是を臺として袋を其上に置き、

「汝等前後に行列せよ」

とて、人々をつれて社地に至り、里人を皆下に平伏させて、

「我が詞を聞くべし。試(こころみ)に神靈を見よや」

と、一町許の石の壇を一つ一つ取りて、手玉の如く投げ散らす故、諸人驚き震(ふる)ふ。

[やぶちゃん注:「神人」「かみびと」と訓じておく。人形(ひとがた)に示現した神。

「組頭」名主を補佐して村の事務を執った村役人。年寄。長百姓(おさびゃくしょう)。

「試(こころみ)に」「加越能三州奇談」も「近世奇談全集」も同じであるが、国書刊行会本では『誠に』である。私は「誠(まこと)に」の方がいい気がする。]

 甚右衞門曰く、

「此社は初めは大社にて、社人も多かりし。然共、神の誤(あやまり)によりて、今斯く僅かに社地のみ殘る。此社地茸(きのこ)を生じて兩人に與ふるものは、彼(か)れは元此社の神主にて、甚だ神忠の者なり。其子孫故、既に今かばかりの惠みを與ふ。然るに、村の者欲心深く、押して茸を奪ひ取る。又社地を賣るべからず。我れ若し神の赦しを請け、心の儘にはからふ日は、此村を以て一番に災(わざはひ)を下すべく、憎しにくし」

と打叫ぶ。

[やぶちゃん注:「社地を賣るべからず」強い禁止で「社地を決して売ってはならぬのだ!」であろう。]

 村中甚だ迷惑し、此社他の預り滑川(なめりかは)の吉見但馬守と云ふを請じて湯の花を捧げ、祓(はらひ)をなせしに、甚右衞門則ち曰く、

「然らば先づ今度は免(ゆる)すべし。松明(たいまつ)を三つともして我を送り家に返すべし」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「滑川」現在の富山県滑川市はここ

「吉見但馬守」不詳。

「湯の花を捧げ」神前で湯を沸かして神に供えるとともに、神主が榊の葉でその湯を村人らに浴びせ掛けて潔斎するか、或いはそこで祈誓を立てる神事を指すものと思われる。]

 諸人其詞の如く前後を圍み家に來りければ、甚右衞門我が家にて

「袋々(たいたい)」

と云ふ。然るに奧の間に白木の臺に据ゑし上より、物ありて家の中の土より一尺許(ばかり)上を懸け出でける。しかと見屆くべからずといへども、大いなる鯛(たひ)を見付けたる者もあり。又は小兒の翫(もてあそ)ぶ紙にて張りたる鯛の下に、車の臺付きたる物と見たるもあり。何にしても、形(かたち)鯛なるもの出去(いでさ)りたり。

 是より甚右衞門狂氣覺(さ)め、母・姊も病癒えて本の如し。

 是等正しく其變を見たり。

 袋(たい)・鯛(たひ)、聞きを誤れるにや。神意辨(わきま)ふるにかたきこと甚(はなはだ)し。

[やぶちゃん注:最後のシークエンスの神人は、暗に鯛を左脇に抱える本邦で唯一のオリジナルな福神である恵比寿神(神話に結び付ける解釈では伊邪那美・伊耶那美が最初に産む奇形児蛭子命(ひるこのみこと)であるとか、大国主命(大黒)の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)とされることが多い)か、同じ七福神の布袋(こちらは中国由来)のイメージが重ねられているようには思われる。しかし、後の話は「袋」の「たい」と「鯛」の「たひ」をその神が誤って聴き取って変事を惹起させたとでも言うかのように作話されてあるものの、何だかその最後の変事――鯛らしきものが出ては消える――のを目撃したというのも「何じゃ? こりゃあ?!?」って感じで、半可通である。かく題を附すなら、前の話もそうした「音」違いがなくてはならぬと思うのだが、何度読んでもそれらしい箇所は見当たらない。但し、「三州奇談」は、今まで見てくると、前振りの部分が表題や後の怪奇談と何ら密接な関係を持たない話柄も多かった。さすれば、実はその地の産土神が、愚民のあまりの仕打ちや好き勝手放題にキレて、別な土地に移るとか言い出し、その土地に災いを齎すぞという脅迫をしたことだけで繋がった話なのかも知れない。

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 二

 

       

 半井卜養(なからいぼくよう)の狂歌は、狂歌としては大したものではないが、当時の流行物を取入れた歌が多いので、考証の材料としては一種の価値があるといわれている。貞門や談林の俳諧にしても、そういう意味においては固より閑却しがたいものがあるに相違ない。けれどもこれらの価値は、いずれも文学的標準を姑(しばら)く第二に置いた場合のものである。其角が人事的興味を縦横に駆使して、当時の事象を捉えたことは、已に述べた通りであるが、彼の句は時代考証の資料として重きをなすという程度のものではない。少くともその成功したものにあっては、時代的興味と文学的価値とを兼ね備えている。ただ其角の集中からこの種の句を列挙することは、その煩に堪えぬから、ここには少許(しょうきょ)の例を挙ぐるに止める。其角の面目ここに尽く、というようなわけでは勿論ない。

[やぶちゃん注:「半井卜養」(慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七九)年)は江戸前期の医師で狂歌作者にして俳人。本姓は和気(わけ)で名は慶友。堺出身。寛永一三(一六三六)年前後に幕府の医師として江戸に招かれて法眼となり、後に典薬頭(てんやくのかみ)となった。一方で文事を好み、若くして俳諧・狂歌に遊び、京では松永貞徳らと一座し、二十七歳の頃には、既に堺俳壇の第一人者となっていた。江戸では斎藤徳元・石田未得らと交わり、江戸俳壇の草分けとなり、貞門の五俳哲の一人に称された。慶安元(一六四八)年には姫路城主松平忠次の家医となった。承応二(一六五三)年、将軍に見参を許され、鉄砲洲に居宅を賜った。このころより狂歌活動が盛んになり、朽木稙綱・酒井忠能ら諸大名と贈答を行っている。その狂歌は「卜養狂歌集」に見られるように措辞・格調よりも即興性に妙がある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「貞門」俳諧の一派。松永貞徳を祖とし、寛永(一六二四年~一六四四年)初期から約半世紀にわたって盛行。安原貞室・山本西武・北村季吟(芭蕉の師)などを代表とし知識層を中心に普及。発句は言語遊戯を、付合は詞付を主とする。古風。

「談林」俳諧の一派。西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中(いちゅう)らが集まり、延宝年間(一六七三年~一六八一年)に隆盛をみた。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化を図り、奇抜な着想や見立てと軽妙な言い回しを特色とした。蕉風の発生とともに衰退したが、宗因立机前後の芭蕉に強い影響を与えている。飛体(とびてい)。]

 桐の花新渡の鸚鵡不言  其角

 この句には「長崎屋源左衛門家に紅毛(こうもう)来貢の品々奇なりとして」という前言がついている。長崎屋は本町にあったオランダ宿だそうである。紅毛人来貢の珍しい品物がいろいろ並べてある中に、舶来の鸚鵡のいるのが目についた。遥々海を越えて東海の浜に著いた鸚鵡は、黙りこくって何もいわない。(「不言」は「モノイワズ」と読むのである)其角はその様子を直(ただち)に捉えて句中のものとしたので、桐の花は長崎屋の庭にでも咲いていたのであろう。当時における新渡の鸚鵡の珍しさは、今日のわれわれが熱帯魚やペンギン鳥を見るようなものではない。こういうハシリの材料を持って来るのは、其角の其角たる所以であるが、われわれがこの句に感心するのは、単にハシリの材料を捉えたというに止らず、句としても成功している点にある。桐の花に配された無言の鸚鵡は慥(たしか)に画中の趣である。われわれはこの句を誦する毎に、其角の抱いた新なる感興をまざまざと感じ得るような気がする。「新渡」の「新」にだけかかる新しさならば、そう長い生命を有するはずがない。

 其角は当時における新材料を捉えると共に、それ以外の何者かを把握し得たのである。

[やぶちゃん注:「桐の花新渡の鸚鵡不言」歴史的仮名遣で示すと、

 桐(きり)の花(はな)新渡(しんと)の鸚鵡(わうむ)不言(ものいはず)

と読む。句は「五元集」から。「桐」はシソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。夏の季題。四月中旬から五月にかけて円錐花序に淡い大きな紫色の花を円錐状に咲かせる。この花の色や形も、似たような形の鸚鵡の嘴(くちばし)とモンタージュされると、どこか奇体なる異国情緒を感じさせるから不思議である。人真似をするはずの鸚鵡が「もの言は」ぬというのも、今にも人間そのものの言葉を発するかも知れぬ不気味さを漂わせてよい。そう感じた時、まさに知らず知らずに読む者は其角の遊ぶ危所、宵曲の言う「新奇」「新機軸」の時空間(それはまさに映画的な画像上のモンタージュである)に立ち入っていると言えるのである。

「長崎屋源左衛門」とあるのは、江戸本石町三丁目(現在の中央区日本橋室町四丁目二番地)にあった薬種商・貿易商で外国人向けの宿泊施設を提供していた長崎屋であろう。ウィキの「長崎屋源右衛門」によれば、『江戸幕府御用達の薬種問屋で』、『幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた』。『この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた。カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の』一『つとなっていた。身分は町人であるため江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった』。『カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白』『などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている』。『幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢の訪問客と会うことができた。商館員たちはあまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、行動が大きく制限されていた彼らにとって、この商家は外部の人間と接触できる貴重な場の』一『つであった。商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる』。『カピタンの江戸参府は年』一『回行われるのが通例であった』とある。]

 時鳥あかつき傘を買せけり  其角

 『五元集』には「傾廓」という前書がついている。其角というと直に紀文(きぶん)、吉原、というような連鎖を辿って一個の幇間(ほうかん)的人物を作り上げるのが最も簡単な一般的見解のようであるが、この句は慥に吉原風景の一である。当時の吉原には雨の時に傘や木履(ぼくり)を売歩くということがあったらしい。『類柑(るいこうじ)文集』にも「あかつき傘」という文章があって、この句を記した後に「傘うりの暁ばかり来るものかは」ということが書いてある。元禄時代にあっては容易にこの間(かん)の消息を解し得たのであろうが、時を隔てては解し得ぬ虞(おそれ)があるため、特に「傾廓」の二字を置いたものかも知れない。遊里にふさわしい洒脱な句風である。

[やぶちゃん注:「時鳥あかつき傘を買せけり」須賀川(福島)の等躬(とうきゅう)編の俳諧集「伊達衣」(元禄一二(一八七五)年自序)では、以下の前書がある。

   荵摺(しのぶづり)の追加撰(えらば)れしと
   聞(きき)て、深切の輩かたらひ、卽興の一卷
   を贈る

  時鳥(ほととぎす)曉傘を買(かは)せけり

「荵摺」は元禄二(一八六五)年刊の等躬(とうきゅう)編の俳諧集で、その「追加」が「伊達衣」なのである。「一卷」とは本句を発句とした其角以下からなる五吟歌仙を指す。

「類柑文集」其角の遺稿集。貴志沾洲(せんしゅう)らの編になり、其角の遺稿を整理・補訂したものに「晋子終焉記」や追悼句などを附す。没したその年(宝永四(一七〇七)年)に刊行している。]

 妹が子や薑とけて餅の番  其角

[やぶちゃん注:「薑」は「はじかみ」。生姜(しょうが)のこと。]

 この句はこれだけでは何の事かわからない。「震威流火しづまりて」という『五元集』の前書を見ても、なお十分にわからぬようであるが、林若樹氏の説によると、元禄十六年十一月十四日、江戸大震の時の句ではないかということである。地震のあとの火事が漸くしずまったので餅を焼いて食おうとする、寒さにかじかんで利かなくなっていた手が、餅を焼く番をしている間に、次第に暖まって動くようになったのだ、という解釈であるが、そう解するより外あるまいと思う。恐しく複雑なことを簡単にいってのけたもので、右の如き解釈によって僅に意味を髣髴出来るようなものの、漫然この十七字に対したのでは到底見当がつきそうもない。

 震災大火というような出来事が俳句になりにくいのは一半はその出来事の性質により、一半は俳句の性質によるのである。(どんな事柄でも正面から俳句になると考えるのは、伝統的な風雅以外に俳句の材料はないと考えると同じく、一種の謬見(びゅうけん)に過ぎない)其角は震災による火事がややしずまったところに、こういう小景を見出した。地震を逃れて戸外に夜を明すような場合であろう。方々に起った火の手も次第におさまって、今までの恐怖が薄らぐと同時に、俄(にわか)に寒さを感じ空腹を感ずる。そこであり合せの餅を焼いて食おうということになる。この句はそういうホッとした場合を現したので、餅の番をする手のかじかみが取れるにつれ、凍えたような心にも或寛(くつろ)ぎを覚えたに相違ない。

 われわれはこの句を以て直に成功したものと見るのに躊躇する。少くとも上来述べた如き解釈を下すには、文字の表現が不十分だと思われる。但(ただし)大震火災の漸くしずまらんとする空気の一角を鋭く摑んであるために、この十七字から右のような連想を起すことが出来るのである。これも名人は危所に遊ぶ一例と見るべきかも知れない。(この句の難解な一理由は、突如とし「薑」が出て来るところにある。手という字が上にあれば、生薑手(しょうがで)を想像することは比較的容易であろうと思う)

[やぶちゃん注:「林若樹」(はやしわかき 明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)はかなり名の知られた骨董収集家・考証家。本名は若吉。ウィキの「林若樹」によれば、東京市麹町区生まれ。早くに両親を失い、叔父に養われた。『祖父の林洞海から最初の教育を受け、病弱であったため』、『旧制第一高等学校を中退するが、その頃から遠戚にあたる東京帝国大学教授・坪井正五郎の研究所に出入りして考古学を修めた。遺産があったため』、『定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古し、狂歌・俳諧・書画をたしなみ、かたわら』、『古書に限らず雑多な考古物を蒐集した』。明治二九(一八九六)年には『同好の有志と「集古会」を結成し、幹事となり雑誌『集古』の編纂を担当した。次いで、人形や玩具の知識を交換し合うため』、明治四二(一九〇九)年には『「大供会」をも結成し、「集古会」「大供会」「其角研究」など、定期的ではあるが』、『自由な集まりを通じて、大槻如電・大槻文彦・西澤仙湖・根岸武香・山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・久留島武彦・清水晴風・竹内久一・三田村鳶魚・内田魯庵・岡田紫男(村雄)・寒川鼠骨・三村竹清・森銑三・柴田宵曲といった人々と交流を重ね、自らの収集品を展覧に任せた』。『死後、雑誌『集古』『彗星』『日本及日本人』『浮世絵』『新小説』『同方会報告』『ホトトギス』などに発表された論文を集めた』「集古随筆」(昭和一七(一九四二)年大東出版社刊)がある。

「元禄十六年十一月十四日、江戸大震」元禄大地震であるが、クレジットが誤り。元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)が正しい。同日未明の午前2時頃に関東地方を襲った巨大地震で、震源は相模トラフ沿いの房総半島南端千葉県野島崎付近と推定され、マグニチュードは7.98.5と推定されている。なお、ここで宵曲が「大震火災」と書いているのもやや語弊がある。実はこの「大震災」と「火災」は江戸に関して言えば、時期に六日ものズレがあり、直接の地震による類焼などではないからである。ウィキの「元禄地震」によれば、『江戸では』この地震による被害は『比較的』『軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは建物倒壊による被害が出た』程度であった。但し、『平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら』、『一面泥水が溜っていたなどの記録がある。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名』で、『東海道の諸宿場でも家屋が倒壊し、川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。元禄地震では、地震動は箱根を境に東国で甚だしく西側は緩くなり、宝永地震では逆に箱根を境に西側で甚だしく関東は緩かったという』。『上総国をはじめ、関東全体で12か所から出火、被災者約37,000人と推定される』。ところが江戸では、『地震7日後の1129日酉下刻(18-19時頃)、小石川の水戸宰相御殿屋敷内長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失した』。『この火災は地震後の悪環境下における二次災害とみられないこともないと』も『される』。ある記録では、『1129日の火災による被災者も併せて、地震火事による死者は』二十一万千七百十三人と『公儀之御帳に記されたとあり』、『他に地震火事による犠牲者数として』「鸚鵡籠中記」には二十二万六千人、「基熈公記」には二十六万三千七百人余のよし、『風聞に御座候とある』とある。

「生薑手」狭義には先天性の奇形や事故による怪我などで、指が欠損・損傷し、生薑のような形をした手を指すが(別に「字の下手なこと」をも指す)、ここはごつごつとした節くれ立った手のことである。]

 起てきけ此時鳥市兵衛記  其角

 当時の社会種を句にしたものである。『市兵衛記』というものは荻原(おぎわら)近江守が林信篤に命じて書かしめたというのであるが、その内容がどんなものであるかは、『其角研究』にも載っていない。『徂徠(そらい)文集』の記載によると、市兵衛なる者は上総の義奴である。その主人次郎兵衛が罪を得て大嶋に流された後、自己のあらゆる生活を犠牲にして、その老父と遺児とを奉養すること十一年、江戸に出ては官庁に訴え、身を以て主人の罪に代らんことを請うた。官遂にその忠誠に感じ、次郎兵衛の田宅を以て市兵衛に賜うの旨を伝えたが、市兵衛は肯(あえ)てその命を奉ぜず、旧主の子万五郎に賜わらんことを願って許された。宝永二年[やぶちゃん注:一七〇五年。]三月の事だというから、其角の歿する二年前の話で、「姉ケ崎の野夫忠功孝心をきこしめされて禄を給はりたる事世にきこえ侍るを」という『五元集』の前書は右の事実を指すのである。

 忠僕義奴の話は日本に少からずある。人情紙の如しという今の世の中でも、感心な雇人というものが時々肖像入(いり)で新聞に出ているように思う。が、世上流布するところの忠僕譚に比すると、徂徠の伝えた市兵衛の行状は、文章の簡潔なせいもあるかも知れぬが、頗る沈痛で、真(まこと)に懦夫(だふ)をして起(た)たしむるの概(がい)がある。其角が「起てきけ」と喝破(かっぱ)したのも、やはりその沈痛な意気に感じてのことであろう。吉原と紀文で其角を説こうとする標準では、どうしてもこういう句は割切れぬ勘定になる。

 明治以後の俳人の中には、新聞社などにいた関係から余儀なく時事俳句を作った人がいくらもあった。けれどもその多くはその場その場の責塞(せめふさ)ぎで、時の興味を離れて存在し得るものは極めて少い。其角のこの句はその場限りの時事俳句とも思われぬ。やはり自分の感興に基いて、この種の材料をも句中に取入れたのであろう。こういう試みもまた俳諧における易行道でないことは明(あきらか)である。

[やぶちゃん注:ネットを調べたところ、この市兵衛の子孫である姉崎氏の篤志家で市議会議も務められた員斎藤孝三氏が書かれたものを、一九九六年に著者の奥さまが発行された第二版「姉崎郷土史 忠僕市兵衛物語」というパンフレットがあり、それがこちらで完全に電子化されており、そこに驚くべき細かい事件の詳細とその後の経緯が記されてあるのを発見した。それによれば、「深城村鉄砲事件」が元であるとある。以下、引用させて戴く。『今から約二百八十年前、元禄八年』(一六九五年)『と云えば彼の有名な赤穂義士の討入りが行われた数年前のことである』。この『年の九月、上総の国(今の千葉県市原市)姉崎村の出来ごとである』(千葉県市原市姉ヶ崎。グーグル・マップ・データ)。『当時の姉崎村は隣接小部落を入れて七ケ村各部落に小名主があって姉崎村総名主が統轄していた』。『姉崎村総名主、本名斎藤次郎兵衛(屋号内出)当時三十六才、極めて円満な人柄で知られる素封家の主だった』。『或る日、その次郎兵衛方に駆け込んで来たのが深城村の名主半兵衛であった』。『話の内容は斯うであった』。『深城村では当時猪が出没して畑の作物を荒らして困るので、お上からお預かりの鉄砲で猪退治をやって居たが、或る日猟師の惣兵衛と云う者が畑の中でゴソゴソ動いていた動物を見付けて一発ドカンとやった処、ギャッと云う声に驚いて近寄って見たら、猪かと思ったのが豈に計らんや同じ深城村の百姓久左衛門の女房お竹であった』。『傷ついたお竹を慌てゝ抱き起してみたものの、弾が急所に当ったと見えて、お竹は既に死んでいたと云う』。『惣兵衛の報告を聞いて半兵衛も一緒に相談したが、如何して良いやら判らない。それと云うのも当時は今と違って刑罰が極めて厳しかったから誤ちであろうとなかろうと人を殺した者は死罪と相場が決まっていた』。『いまから考えると無茶な話であるが、此がお上に知れれば死罪打ち首は免がれない。惣兵衛と云う人物がお人好しで真面目な人間だっただけに、深城村の名主半兵衛もさて如何したものかと迷った挙句、総名主次郎兵衛の所へ相談に駆け込んだというわけであった』。『責任上』、『次郎兵衛も一緒になって相談したが、何と云っても良い知恵が湧いてこない。代官所へ訴え出なければ後のお咎めは酷しいし、そうかと云って惣兵衛の命も助けてやりたいし、ホトホト困り抜いた次郎兵衛は姉崎村の名主全員を集めて協議した結果、次郎兵衛の裁決に依ってお上に内密にして事件を済ませようという事にした』。『惣兵衛とその女房が感涙に咽んだのは当然であった。被害者がお竹の亭主久左衛門には示談金として相当の金を与える事によって事件は一応』、『落着した。村人には極力口を封ずるよう厳命したので、お上には知れずに済むであろうと判断したのだったが』、『その考えはやゝ甘かった』。『秘密は意外な事からお上の知る所となったのである』。『お竹の亭主久左衛門が酒の上のことから、つい示談金の金が少ないなどと』、『近所の人に喋言った事が、ふとした事からお上の手先に聞こえてしまったのである』。『また、一説には旅館丁子屋』(ちょうじや)『の風呂たきが酒を呑んで、うっかり喋言ってしまったとも云われている』。『兎も角、驚いた代官所では早速取調べを開始した。その日のうちに次郎兵衛以下名主等は、芋づる式に代官所へ引き立てられて行った』。『簡単な調べのあと二、三日たって江戸の奉行所へ送られたが、ロクな裁判も行われず、判決は直に申し渡された』。『犯人の惣兵衛は打首になったのは仕方ないとしても、可哀想なのは被害者お竹の亭主久左衛門で、金を貰って内々に済ますとは、以ての外と云うかどでこれ又打首となってしまった』。『一方の名主等は』、『いづれも家屋敷、田地田畑悉ごとく没収、身柄は遠島という重刑に処せられる事になった。遠島と云えば』、終身、『島で過ごさねばならず、考えように依っては死刑以上に重い刑であった』。『何故斯んな重い刑を科せられたかを考えてみると、当時お上が一番恐れたのは民百姓たちが不平不満を爆発させはしないかという事であった』。『封建時代の日本では、武士階級だけが特権を持ち』、『安閑とした生活を営なみ、無知蒙昧な百姓町民は只黙々としてお上の命令に従うだけで、決してそれに批判や反発は許されていなかった。従って彼等が内密に集会を開くという事を極度に警戒して居たのである。而かも今回はお上を無いがしろにしたような行動を執ったという事で、誠に怪しからんというのが』、この『厳罰となった原因であった。当時の為政者が保身の為に作った苦肉の策であった』。『遠島は昔から鳥も通わぬ八丈島と相場が決っていたが、次郎兵衛だけは家』格を『認められて罪一等を減じ、一人だけ伊豆の大島へ流される事になった。時に元禄八年暮れの十二月のことである』。『昨日の栄華に変る今日次郎兵衛の姿、深編笠に両手を縛られて、流人船は波荒い大島へと走って行った』。『さて』、『本題の主人公市兵衛というのは』、この時、その『名主次郎兵衛の家に作男として住み込んでいた奉公人、所謂』、『身分卑しい下僕であった。地位も名誉も財産もなく只働くだけで他に何の取り柄もない愚直そのものゝような男、人呼んで姉崎市兵衛、当時三十三才の』男であった。『島流しになった次郎兵衛には遺族として父』『(七十三才)』、『妻おきい、娘お蝶(六才)』、『倅萬五郎(三才)があったが、臨月であった妻おきいは』、この『事件にショックを受けたと見え、早産すると同時に呆気なく頓死してしまった』。『悪い時には尚悪い事が続くもので、父』『は驚きと悲しみから、ばったり病の床に就くようになり、而も財産という財産は悉く没収された為に、住む家無く、食うに物無く、無一文の一家は乳呑児を抱えて只死を待つばかりの哀れな状態に放り出されたのである』。『悲哀のどん底に陥った一家の窮状を目の前にして下僕市兵衛は茲に奮起一番、主人一家を救うべく、一大決心を以って立ち上がった』。『先づ』、『女房のおのぶと相談し、娘(八才)を隣村の豪家に十年々期八両で子守奉公に出し、その金で田畑を買い、そこへ堀立小屋を建てゝ一家を住まわせる事とし、自分達は土間に藁を敷いて寝たと云う。しかも律儀な市兵衛はその後十年以上の長い間、依然として宛かも旧主人に仕える如く、朝に夕に上げ膳据え膳を以って仕え、自分は一歩退って座したと云う。常人の到底為し得ない忠義そのものであった』。『また主家族一同の悲嘆を見るにつけても、心に深く期する所がある如く、市兵衛は暇さへあれば』、『五井の代官所へ出頭して遺族の窮状を述べると共に、主人次郎兵衛の赦免を再三再四に亘って願い出たのである。然し何度行っても代官所では、軽いあしらい程度で追い返されるばかり、市兵衛の顔は次第に憂鬱に打ち沈んでいった』。明くる『翌元禄九年の春、市兵衛は遂に意を決して単身江戸奉行所へ訴え出る覚悟を決めた。訴状には具(つぶ)さに家族の窮状を認め、主人を慕う者の切々たる情が文面に溢れ出ていた』。『江戸と云っても今なら電車でほんの一時間余りの所、然し当時としては草鞋を履いてテクテク歩いて十六里(六十キロ)、ラクな旅路ではなかった。然し』、『市兵衛の一心にとってはそんな事は問題ではなかった。背中に赤ん坊を背負い』、『道中差を差し、取替えのわらじと握り飯を持って市兵衛は黙々と歩いて行った』。『朝(あした)に星を戴いて姉崎村を出発したものの、江戸に到着するのは』、はや『陽もとっぷり暮れた夜おそくであった。途中で何度か狼に襲われた事もあったほどひどい道中だった』。『江戸に着くと豫ねてから知り合いの日本橋小網町の米問屋、姉崎屋四郎右衛門宅に身を寄せてその世話になった。四郎右衛門は姉崎出身者なので市兵衛の来訪を快く迎え、その話を聞いて非常に感激し、涙を流し乍ら市兵衛の手を握って出来る限りの協力を誓った』。『意を強くした市兵衛は喜び勇んで、早速四郎右衛門に連れられて江戸町奉行所へ出向いて訴状を差し出し、願い筋を申し入れた』。『時の奉行は萩原』(「荻原」の誤字)『近江守重秀だった。重秀は訴状に目を通すと非常に感銘した様子だったが然し、国法の手前如何とも致し難し、という理由で市兵衛には目通り』さえ『許されず』、『引き払いを命ぜられたのである』。『諦めるに諦め切れぬき持ちで、再び十六里の道を故郷に帰る市兵衛の足はさすがに重かった。口惜しさに涙が溢れて、眠れぬ日が幾日も続いた』。『やがて半年がたった同年九月、もう一度と云う希望に燃えて市兵衛は、再び江戸の土を踏んだ。然し奉行所の返事は前と何の変りも無いものだった』。『けれど市兵衛の決心はそんな事で決して砕けるものではなかった。不倒不屈の精神の持主、市兵衛の心には次第に執念の鬼と化して行った。爾来毎年二回乃至三回、足繁く江戸に通って奉行所へ執拗に訴え出たのである』。『或る時は次郎兵衛の娘お蝶を背負って行き、泣き落としの手を使った事もあれば、又或る時は白洲に座り込んで、役人を手古ずらす作戦も取った。四年五年と之が続く内、役人とも次第に顔馴染みとなり、時には弁当や茶を出される事も有るようになった。奉行も内心市兵衛に好感を持っていたので、次第に向き合って話すようになり、出来る事なら何とかしてやりたいという気になって来た』。『十年という歳月がその間に流れ去って行った。いつの間にか市兵衛の頭も真白になっていた。今や市兵衛は最後の手段を取る外ないと覚悟を決めた』。訴状には「市兵衛一身を抛打(うっちゃ)って主人次郎兵衛の身に代らせて頂き度く」と『記して白洲に平(へい)』『つく張った。そうして』「今度という今度ばかりは、お願いの筋が通らなきゃ、わしは二度と姉崎の土は踏まねえ決心をして参りました」と述べたという。『そう云う市兵衛の目から涙が放り落ちるのを近江守は見落さなかった。着物の下着に白装束を用意している市兵衛を見て、近江守は遂に意を決して、幕府への直言を心に決めたので』あった。『当時としては幕府が一旦決めた事に対して、減刑して欲しいと意見を申し出る事は、奉行といえども余程の覚悟が無ければ出来ない事であった』。『星移り、年替って宝永二年』(一七〇五年)『正月十八日、遂に市兵衛積年の苦労が報われる日がやって来た』。『幕府老中方は、奉行萩原』(「萩原」の誤り)『近江守の報告を聞いて大いに動揺した。老中筆頭本多』(ほんだ)『伯耆守正永を始め、秋元喬朝』(たかとも:秋知の書名)、『土屋正直、小笠原長重、稲葉正通』(正往とも書き「まさみち」と読む)『孰れも、市兵衛の忠節は武士以上の所業なりと判断した。当時』、『幕府御用頭として老中以上の実力を持っていた柳沢吉保に到っては、訴状を読み終えるや否や』、『暫し無言の儘』、首を『うなだれていたが、ハラハラと落ちる涙拭いもあえず、バッタとばかり膝を叩いて『でかした市兵衛とやら。一身を顧みる事なく主人次郎兵衛に代って罪に服したいとはよくよく健気な者である。人は、斯くありたいもの、市兵衛に褒美を与えよ。』と云われた。早速』、『奉行所から市兵衛のもとに田畑六町歩お下げ渡しのお墨付きが手渡された』。『然し市兵衛は自己の褒美などは眼中に無かったので』、『之を堅く固辞して受けず、飽く迄、主人次郎兵衛の赦免を願って止まなかった』。『翌十九日、更に幕府評定所に出頭して只管』(ひたすら)『嘆願を続けたのである』。『至誠天に通ずとでも云おうか、鬼神も哭かしむる市兵衛の超人的努力は、遂に幕府老中方を完全に納得させる事となった。お上と雖ども』、『人情に変りは無い。老中に異存が無かったので』、『時の将軍綱吉公の決裁する所となり、遂に市兵衛の願意は悉ごとく許されることになった』。『市兵衛の喜びは如何ばかりであったろうか、察するに余りあるであろう』。『市兵衛の善行に感激した幕府の至命は、ただ次郎兵衛一人に止まらず、同じく罪人として八丈島に流された者達迄、悉ごとく赦免されて故郷に帰る身となったのである』とある。そうして、その終りの方にも『時の儒者荻生徂徠は『上総義民 市兵衛記』の撰文を将軍家に献上してその偉業を讃えた。また林大学守信篤も』、『市兵衛礼讃の一文を草して世の識者に啓蒙した。人生の喜びも悲しみも、そのどん底から頂上迄』、『すべてを味わいつくして来た市兵衛は、晩年は倖せそのものに過ごしたと云われ、享保十九年』(一七三四年)『春七十二才を以ってその波乱多き生涯を終わった』と記されてある。長々と引いてしまった。しかし、宵曲が事件の経緯は判らないと言い、其角が意気に感じたというそれは、どうしてもここに具体に示さずにはいられぬものと考えたことを、ご理解頂きたい。

「荻原近江守」旗本で勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られる荻原重秀(万治元(一六五八)年~正徳三(一七一三)年)。官位は従五位下・近江守。参照したウィキの「荻原重秀」を読まれたいが、彼の経済政策は当時としては画期的で概ね正当なものであったが、対立した新井白石に激しく憎まれ、遂には勘定奉行を罷免されるに至った。重秀追い落に成功した新井白石は「折たく柴の記」でも「荻原は二十六万両の賄賂を受けていた」などと繰り返し記した結果、一方的な悪評が定着してしまったとある。なお、上記電子化では「萩原」と誤っているので注意されたい。

「林信篤」号を林鳳岡(はやしほうこう 正保元(一六四四)年~享保一七(一七三二)年)と称した幕府儒官。林鵞峰の子。信篤は名。幕府儒官林家 (りんけ) を継ぎ、元禄四(一六九一)年に林家の家塾が湯島に移って昌平黌となると、その大学頭となった。また儒者が士籍に入ることを主張して、これを成功させている。将軍綱吉・吉宗の信頼が厚く、門下からは幕府及び諸藩に仕える者が輩出した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。将軍家宣は二人の側用人を解任し、大学頭であった信篤をも抑えさせて、新井白石にその職責の大半を代行させたため、信篤は反白石派であった。

「其角研究」寒川鼠骨・林若樹(既注)編。昭和二(一九二七)年アルス刊。

「徂徠文集」成立年未詳だが、荻生徂徠が徳川綱吉の死去と柳沢吉保の失脚に遭って、柳沢邸を出、現在の茅場町内に蘐園塾(けんえんじゅく)を開いたが、そこには隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句を残しており、其角とも縁があったのである。其角の当時の旧居はここ(グーグル・マップ・データ)。

「義奴」「ぎど」。義侠心を持った下僕。]

 其角の一身を繞(めぐ)る逸話の中で、最も人口に膾炙しているのは、三囲(みめぐり)で雨乞する者に代って詠んだ

 夕立や田を見めぐりの神ならば  其角

の句と、赤穂義士関係の話であろう。雨乞の方は其角自身「翌日雨ふる」と書いているのだから、本人のいうところに従うより仕方がないが、赤穂義士に至っては、講談、浪花節をはじめ、大分いい加減な材料が行渡っているので、どうしても其角の書いたものを見る必要がある。

[やぶちゃん注:「夕立や」の句は、淡々編の「其角十七回」(享保八(一七二三)年奥書)には、

   *

一、晋子船遊びに出て、人々暑をはらひかね「宗匠の句にて雨ふらせたまへ」とたはぶれければ、其角ふと肝にこたへ、「一大事の申事哉(まうしごとかな)」と正色赤眼心をとぢて、「ゆふだちや田も三巡りの神ならば」いひもはてず、雲墨(すみ)を飛(とば)し、雨聲盆をくつがへす計(ばかり)、船をかたぶけける事まのあたりにありけり。一氣の請(うく)るところ、真の發(おこ)るところ、欺くまじきは此道の感なり。

   *

と記されている、と一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈にある(記載を参考に漢字を正字化して示した)。その解説によれば、これは隅田川の東岸、現在の墨田区向島にある三囲神社(グーグル・マップ・データ)で詠まれたものである。ウィキの「三囲神社」によれば、『創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧』『が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを』三度、『回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという』とあり、元禄六(一六九三)年の旱魃の折り、『俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地[やぶちゃん注:「ゆふだちや」。]や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀した』と本句を出す。また、『三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の』「囲」『の文字に三井の』「井」の字が『入っているため、「三井を守る」と考えられたため』とあるから、この神社の「井」の字にあやかって雨乞いの場となったことも推察出来よう。また、堀切氏はこの各句の頭を拾うと「ゆ」「た」「か」となり、『折句仕立てにもなっている』と指摘される。目から鱗である。]

 『五元集』の中にある左の句は、其角と義士との交渉を尋ねる上において、最も簡明な資料であろう。

  故赤穂城主浅野少府監長矩之旧臣、
  大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ
  報亡君之讐今玆二月四日
  官裁下シム一時シテㇾ刃シク一ㇾ
  万世のさへづり黄舌をひるがへし
  肺肝をつらぬく

 うぐひすに此芥子酢はなみだかな  其角

  富森春帆、大高子葉、神崎竹平(ちくへい)
  これらが名は焦尾琴にも残り聞えける也

[やぶちゃん注:引用は底本では五時下げで、句の前後の添文は底本ではポイント落ち。]

 前書の文章も俳句に劣らず難解であるが、大体の意味はわかっている。其角は四十七士の中に大高、富森、神崎らの知人を有していたのだから、これを悼むの情も自ら他に異るものがあったのであろう。その人たちの句が自分の撰集たる『焦尾琴(しょうびきん)』に載っていると附記したのを見ると、あるいは多少得意に感ずるところがあったのかも知れぬ。

 更に『類柑文集』にある「松の塵」という文章を見ると、

文月(ふづき)十三日、上行寺の盆にまふでてかへるさに、いさらごの坂をくだり、泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとおもふより、子葉、春帆、竹平等が俤(おもかげ)、まのあたり来りむかへるやうに覚えて、そゞろに心頭にかゝれば、花水とりてとおもへど、墓所参詣をゆるさず。草の丈(た)ケおひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたる事を手向草(たむけぐさ)になして、亡魂聖霊、ゆゝしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。

[やぶちゃん注:以上の引用は底本では全体が二字下げ。]

 これは四十七士の新盆たる元禄十六年のことであろう。後には見物の名所になっている泉岳寺が、墓所の参詣を許さず、草が生い茂っているという有様も、当年の事実として面白いが、門を覗くにつけても子葉、春帆、竹平等の俤がまざまざと浮んで来るというのは、其角としては如何にもそうであったろうと思われる。われわれは疑問の余地ある有名な話よりも、こういう断片的な記載の中に多くの真実を感ずる。其角の扱った社会種の中でも、赤穂義士の一挙の如きは大きな出来事に属するが、以上のような関係から、客観的に離れて見るわけに行かなかったのであろう。俳諧手段として用いた芥子酢の裏に、其角の涙が裹(つつ)まれていることは勿論である。

[やぶちゃん注:「其角と義士との交渉」この話はかなり知られているが、水を差すようで悪いが、例えば、赤穂浪士四十七士の一人で、通称を源五・源吾(げんご)と称し、湖月堂子葉の号で俳諧にも熱心であった大高忠雄(おおたかただお 寛文一二(一六七二)年~元禄十六年二月四日(一七〇三年三月二十日)のとの邂逅については、ウィキの「大高忠雄」に、『忠雄は俳人宝井其角とも交流があったとされ、討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた忠雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした忠雄に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対し、忠雄は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残るが、それを裏付けるものがなく後世のフィクションである。明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられた』と一蹴しており、「義士新聞社」のサイト「忠臣蔵新聞」の元禄一五(一七〇二)年十二月十二日(第二百三号)「大高源五さんと宝井其角さん 両国橋の出会はフィクション?」には、其角の残した義士に係わる書状には不審や疑問点が多く、信じ難い旨の細かな考証が載る。但し、彼は宝井其角とともに当時の江戸俳壇の中心人物の一人で蕉風に属し、其角とも親しかった水間沾徳(みずませんとく)の門下であった(水間は其角没後に江戸の俳諧諸派を束ねる大宗匠となった)から、其角と知り合いであったことは確かであり生粋の江戸っ子の「危所」に遊ぶを旨とした其角にして、誰よりも義士への強い共感と思い入れがあると自負していたことも疑いようはない。

「少府監」「せうふのかん(しょうふのかみ)」は「内匠(たくみ)の頭(かみ)」の唐名。浅野長矩は従五位下・内匠頭であった。

「同志異体」「異體同心」(身体は別々でも心は同一であること)に掛けた謂い。

「報亡君之讐」「亡君の讐(かたき)に報ゆ」。

「今玆」「こんじ」と読む。今年。本年。

「二月四日」元禄十五年十二月十四日(一七〇三年一月三十日)寅の上刻(午前四時頃)に義士一行は討入に出立、吉良邸での闘争は二時間ほどであった。その後、各大名家にお預けとなった彼らに幕府が切腹の処分を決した(「官裁」)のが、元禄十六年二月四日 (一七〇三年三月二十日)で、同日、全員が切腹した。

「令シム一時シテㇾ刃シク一ㇾ」「一時(いちじ)に刃(やいば)に伏(ふく)して屍(かばね)を斉(ひと)しくせしむ」。

「万世のさへづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく」ここは「文選」にある三国時代の魏の文学者曹植の「三良詩」の以下の末尾の二句に基づく。

   *

 黃鳥爲悲鳴

 哀哉傷肺肝

  黃鳥(くわうてう) 爲(ため)に悲鳴し

  哀しきかな 肺肝(はいかん)を傷ましむ

   *

詩全篇及び訓読・評釈・現代語訳は強力な紀頌之氏のブログ「漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩・唐詩・詩詞 解釈」のこちらを見られたいが、それによれば、この詩は、『功名は天の差配によるもので自分だけで為せるものではない。忠義こそは私の心のよりどころとするところであるのだ。かつて秦の穆公が世を去るにあたって,三臣の良臣は皆自害して後を追ったのである。かれらは生きている時には主君と栄楽を共に等しくしていた,死んでからは憂患を同じものとしたのである』という内容であり、この二句は、『樹木で囀るウグイスは三人の良臣を悲しみの声で鳴いている。ああ、哀しいことか!』『心もこの身も傷つけてしまうばかりのことである』とある。其角はその悲嘆を「万世(ばんせい)」永遠に続くものと謂ふのである。堀切氏は前掲書では、実際に其角がその場で『食べている芥子酢が利き過ぎて、ぽろぽろ涙が流れ落ちる』という映像としつつ、勿論、その涙には『自刃の報らせが、あまりに衝撃的で、人心を強烈に刺戟したことが寓せられているわけであ』り、『またそうした幕府の処断が、あたかも鶯に芥子酢を与えるような残酷さであることの意を託しているようにもみられよう』と評釈された上で、『宗因の「からし酢にふるは泪(なみだ)か桜鯛」(『小町踊』)を踏まえ、またその句を介して「春さめのふるは涙かさくら花ちるを惜ししまぬ人しなければ」(『古今集』巻二・春、大伴黒主か)の歌の、下の句の心を生かした句作である』とされる。

「うぐひすに此芥子酢はなみだかな」サイト「詩あきんど」の「其角発句10」の本句を挙げられ、『一連の赤穂事件について、其角がどうのような考えを持っていたかというと、この発句にあるように、この顛末は、鶯に摺餌を与えるところを、間違えて芥子酢を食わせたような酷さだと云う意味になる』とされ、「三良詩」が前書のベースであるとされ、その『後註を読めば、赤穂事件により切腹させられた富森春帆、大高子葉、神崎竹平の三人を「三良」に擬しているのが分かるだろう。これら三人は其角の編集した俳諧集『焦尾琴』にも載る俳人だったわけであり、三良の詩や故事が載る『詩経』や『左伝』を読んだ事のある者なら、其角が、殉死、敵討ちといった行為そのものを哀しみ、義士、忠臣などの言葉を用いていない事に気づく』。『こうした其角の高度な考えは、世間一般のレベルには分かり難いものだったであろう。そこで、戯作作家らは其角の知名度を利用して俗なるエピソードを拵えあげて行った』のである、と評釈しておられる。

「富森春帆」「とみのもりしゅんぱん」は赤穂義士の一人富森正因(まさより)の俳号。通称、助右衛門(すけえもん)。ウィキの「富森正因」によれば、彼は俳諧をたしなみ』、『宝井其角に師事し、春帆と号した』とあり(太字下線は私が附した)、討入の際には、『母から贈られた女小袖を肌につけ、姓名を記した合符の裏に「寒しほに身はむしらる丶行衛哉」と書いていた』という。享年三十四。

「神崎竹平」「かんざきちくへい」は赤穂藩士神崎則休(のりやす)の俳号。通称、与五郎。ウィキの「神崎則休」によれば、『大高忠雄・萱野重実』(かやのしげざね:討入前に忠孝の狭間で苦悩の末に自刃した悲劇の人物としてよく知られる。ウィキの「萱野重実」を参照されたい)『と並んで浅野家中きっての俳人として知られた』。享年三十八。思文閣「美術人名辞」によれば、其角に学んだ桑岡貞佐(ていさ)の門人であり、宝井其角とも親しかったとある。

「焦尾琴」元禄一四(一七〇一)年自序。なお、この書名は琴の異称であるが、もとは後漢の蔡邕(さいよう)が、呉人の桐を焼く音を聴き、その良材であることを知って、その桐材で尾部の焦げたままの琴の名器を作ったという故事に基づき、本来は中国の琴(きん)の名器の名である。

「文月(ふづき)十三日」宵曲はこれを「四十七士の新盆たる元禄十六年のことであろう」としているので、元禄十六年七月十三日(グレゴリオ暦一六九九年八月八日)のこととなる。

「上行寺」芝高輪、現在の東京都港区高輪一丁目二十七番(グーグル・マップ・データ)にあった日蓮宗上行寺。泉岳寺の南西裏手直近に当たる。昭和三八(一九六三)年に上行寺は伊勢原市へ移転したため、現在、其角の墓は神奈川県伊勢原市上粕屋の上行寺(グーグル・マップ・データ)内にある。

「いさらごの坂」東京都港区三田四丁目と高輪二丁目の間に現存する伊皿子坂(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「伊皿子坂」によれば、『江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた』とあり、その名の由来は、凡そ一六〇〇(慶長五)年『頃に、来日した明人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる』とある。]

2020/04/20

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 一

 

     其  角

 

        

 蕪村の『新華摘(しんはなつみ)』の中に「其角は俳中の李青蓮と呼れたるもの也」ということがある。こういう譬喩的な言葉は、往々にして誤解を生じやすい。気の早い読者は「俳中」という肩書を離れて、直(ただち)に李白と其角との比較を試みるからである。「碧虚(へききょ)は子規門の顔曾(がんそう)なり」といったのは横山健堂氏だったかと思うが、これなども「子規門」ということに重きを置いて考えないと、比倫を失するとか何とかいう非難が起るであろう。近松を日本の沙翁(さおう)と称することは一時の通語であった。しかるに後年全集が出る時になると、黙阿弥も南北も皆日本の沙翁という看板になっていたから、正直な読者は真贋に迷わざるを得ない。其角の李青蓮は以上の例と全然同じではないにしても、多少この辺に留意して見る必要があろうと思う。

[やぶちゃん注:「其角」宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)の本名は竹下侃憲(ただのり)。別号に晋子(しんし)など。ウィキの「宝井其角」によれば、『江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた』。『はじめ、母方の榎下姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める。なお、姓を榎本とする表記が見られるが誤りとされる』とある。

「新華摘」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の俳書。月渓画・跋。一冊。寛政九 (一七九七) 年刊。蕪村は安永六(一七七七)年夏に其角の『花摘』に倣い、恐らくは亡母追善のために、一日十句を作る夏行 (げぎょう) を思い立ち、十六日間で百二十八句まで実行したが、後は所労のため、七句を追加しただけで中絶した。その後、落ち着いてから、これに京都定住以前の回想談、則ち其角の「五元集」に関する話及び骨董論と、五つの狐狸談、其角の手紙の話などを加えた。それは蕪村没の翌年天明四(一七八四)年、冊子であった自筆草稿を巻子本にする際、月渓の挿絵と跋文を加えて、さらに 十三年経ってから原本を模刻して出版したものである。発句と俳文とが調和した蕪村の傑作とされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「李青蓮」李白の号。青蓮は水蓮のこと。

「碧虚」正岡子規の二大高弟河東碧梧桐と高濱虚子。

「顔曾」孔子の高弟で孔門十哲の徳行第一の顔回(顔淵)と、曾子(曾参(そうしん))。後者は十哲には含まれないが、後代孟子を重んじた朱子学が正統とされると、顔回・曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。

「横山健堂」(明治四(一八七一)年~昭和一八(一九四三)年)は史論家・評論家・ジャーナリスト。山口県阿武郡萩(現在の萩市)生まれ。本名は達三。東京帝国大学文科大学国史科明治三一(一八九八)年卒。中学教諭・読売新聞社・大阪毎日新聞社を経て、国学院大学教授。その一方で「新人国記」を『読売新聞』に連載。同時に人物評論を『中央公論』に連載するなどして活躍、「人国記の黒頭巾」として知られた。著書は幅広く「日本教育史」「現代人物競」「新人国記」「旧藩と新人物」「人物研究と史論」「大将乃木」「大西郷」「高杉晋作」など多数(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「比倫」比類。同じような存在。]

 其角がはじめて芭蕉の門に入ったのは、延宝二年だということになっている。時に芭蕉三十一歳、其角は十四歳であった。教育制度の固定せぬ昔にあっては、この程度の夙成(しゅくせい)は異とするに足らぬかも知れぬが、正風(しょうふう)確立以前の芭蕉の下に馳せ参じ、新風の興起に与(あずか)る振出しが、今日にしたら中学一、二年生の年齢であるのは、いささか注目に値する。芭蕉が

  草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪有

 両の手に桃とさくらや草の餅   芭蕉

と詠んだのが、元禄五年とすると、芭蕉四十九歳、其角三十二歳、その推重(すいちょう)の度を知るべきである。最も早い弟子の一人で逸脱性に富んでいた其角が終始一貫して芭蕉の傍を離れなかったこと、其角の如き逸材を久しきにわたって包容し得たことは、何よりも芭蕉の人物の大を語るものであるが、同時に両者契合(けいごう)の深かったことも認めなければならぬ。其角は芭蕉の下において、安んじてその才分を発揮し得たのである。

[やぶちゃん注:「延宝二年」一六七三年。

「夙成」幼時から学業などが既に出来上がり、大人びること。早熟。早成。

「正風」特に確立後の松尾芭蕉及びその門流の俳風を言う語。「蕉風」に掛けたものであるが。本来は戦国時代の伊勢神宮祠官で連歌師であった荒木田守武が、天文九(一五四〇)年の秋に俳諧式目の制定とともに初めて名付けた俳諧に於ける純正で中庸を得た風体という謂いとして示した概念である。

「両の手に桃とさくらや草の餅」元禄五(一六九二)年三月三日の作とされる。兀峰編の「桃の実」(元禄六年刊)に載り、前書には頭書があって、『富花月(くわげつにとむ)』とある。後の「未来記」(蓼太編・明和二(一七六五)年刊)には、この句を立句として、当日のももの節句に招いたとして嵐雪と其角の三吟歌仙を納める。そこでは、

 兩の手に桃とさくらや草の餠         芭蕉

   翁に馴(なれ)し蝶鳥(てふとり)の兒  嵐雪

 野屋敷の火繩もゆるすかげろふに       其角

と脇句と第三を付けている。但し、この其角の第三は「火繩も許す陽炎に」であろうが、どうも句意が読めない。蝶よ鳥よとなずんでいた「兒」ちごも今は一人前の猟師となって、野中にある掘立小屋の中、今まさにそこに潜んで獣を撃たんとしている。彼の銃の火繩がめらめらと燃えている、そして猟師の照準の彼方には陽炎が、火繩の齎すゆらめきを許すかのように同じようにめらめらと立っている、とでも言うのであろうか?]

 芭蕉は晩年の弟子たる許六(きょりく)に俳諧を説いて、「名人は危所に遊ぶ」といった。仕損ずまじということに捉われるのは下手の心であって、上手の腸(はら)ではない、芭蕉自身も仕損じは毎句あるというのである。許六はこれによって忽ち大悟し、「人先(ひとさき)に医者の袷(あわせ)やころもがへ」の句を得た、と自ら『青根が峯』の中に記している。野球の投手でも名人といわれるほどの者は、真直にプレートの上を通す球ばかり投げるものではない。或年代以後の芭蕉は徒(いたずら)に奇を好むような弊はなかったげれども、よく名人の心理を解していたから、「当時諸門弟並他門ともに、俳諧慥(たしか)にして畳の上に坐し、釘鋸(くぎかすがい)をもつてかたくしめたるが如き」傾向に慊(あきた)らず、許六に授くるに危所に遊ぶことを以てしたのであろう。

[やぶちゃん注:「許六」(明暦二(一六五六)年~正徳五(一七一五)年)は名は百仲(ももなか)。彦根藩士。俳諧は初め、季吟の風体を学び、のち常矩(つねのり)に入門したというが,その間の俳歴は明らかではない。当初は漢詩や狩野派の絵画に心を専らにしていたが,元禄二(一六八九)年頃から俳諧に力を入れるようになった。蕉門では尚白らの指導を受けたが、撰集を通して芭蕉の精神を探り、入門を願いながら、官務のためになかなか機を得ず、数年を経、遂に元禄九(一六九二)年の出府の折りに芭蕉に対面し、本懐を果たした。宝永三(一七〇六)年に俳文集「風俗文選」(初版では「本朝文選」)は芭蕉の遺志を継ぐものとして優れる。

「青根が峯」元禄十年刊の許六の俳文集。]

 けれども許六の句は大体において、危きに遊ぶことの甚しいものではなさそうである。第一大悟して得たという「人先に」の句にしても、尋常句案の徒のよくするところでないかも知れぬが、「おそらくは向後、予が句仕損じの場所ならでは一句も有るまじ」と高言を吐いたほどのものとは思われない。そこへ行くとそういう手前味噌を上げていないにかかわらず、危きに遊ぶ大家は其角である。辰野隆(たつのゆたか)氏の説によると、「凡そ詩歌の危きに遊ぶこと、近代仏蘭西の象徴詩人に如くものはない。就中(なかんずく)ステファアヌ・マラルメはその尤なるものである」というのであるが、其角を把ってマラルメに比するのは、少くともマラルメを知らざるわれわれにとって、危険の甚しきものであろう。われわれはそれほど危きに遊ぶ料簡はない。但マラルメには本当にわかる人が三人しかない、という面倒な詩があったはずである。其角の句集について、どの頁からどんな句を持出されても、必ずわかると答え得る人は、何人といったらいいか、あるいは絶無なのではないかとも思われる。

[やぶちゃん注:「辰野隆」(明治二一(一八八八)年~昭和三九(一九六四)年)はフランス文学者で随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。初めて本格的にフランス文学を日本に紹介した人物して知られる。以下の引用元は不詳。

「ステファアヌ・マラルメ」(Stéphane Mallarmé 一八四二年~一八九八年)はランボーと並ぶ十九世紀フランス象徴派の代表的詩人。]

 其角の句が難解であるについては、いろいろな理由が挙げられている。彼は都会詩人の通有性として、悠久な自然よりも、うつろいやすい人事の上に興味を持っていたため、その句にも人事を材としたものが多い。当時なら容易にわかる事柄でも、時代を隔てればわからなくなる、というのもその一である。これは何時の時代でも免れぬところであろう。小説戯曲の如きものは、時代に沿うた人事の消長を叙することが多いから、後世になると部分的にわからぬところが出来て来る。一葉女史の小説などにも東京人でないとわからぬ箇所の少からずあるのは、早く斎藤緑雨が書いた通りである。但普通の散文では前後の関係でほぼ推測出来るものもあり、一々わからずとも大勢に関係ないものもあるが、俳句のような短いものになると、なかなかそう行かない。一の事柄がわからぬために全体の意味を捕捉し得ぬ虞(おそれ)がある。

 其角は俳人一流の雑学で、和歌といわず、漢詩といわず、物語といわず、謡曲狂言といわず、手に任せて自家薬籠中のものとしているから、その典拠を突止めないと解釈し得ぬものが多い。由来人の読んだ本の出所というものは見当のつけにくいものである。其角が縦横に駆使した材料を調べるには、どうしても其角以上の博識者に俟たなければならぬ。作者は一人、後世の読者は無数だから、各方面から次第に種が挙って来るようなものの、其角はその種を使用するに当って、必ずしも尋常一様の手段を用いていない。その種を巧に伏せて、すました顔をしているということも、彼の句を難解ならしむる一理由となっている。

 以上の二点のみを以てするも、其角の句の解釈は容易でない。しかも更に難物なのは、彼が蕉門随一の名人として好んで危きに遊ぶことである。其角が天稟(てんぴん)の才を擅(ほしいまま)にして危きに遊ぶ時、当時の風俗も、書中の典拠も、一種の光を生じ来ることは事実であるが、同時にその句を益難解ならしむるのは、固(もと)より当然のところであろう。彼のピッチングは変化自在(へんげじざい)である。直球的写生句にのみ馴れた今の人々が、彼を向うに廻しては、その球に翻弄されて、打ちこなし得ないにきまっている。

[やぶちゃん注:「天稟」天から授かった資質。生まれつき備わっている優れた才能。天賦。

「生じ来る」「しょうじきたる」。]

 其角の危きに遊ぶ消息については、どうしてもその句を挙げなければならぬ。一、二の例はこれを悉(つく)すべしとも思われぬが、さし当り先ず芭蕉の遺語に現れたところを挙げて置こう。

 きられたる夢はまことか蚤の跡  其角

去来師に対して、其角は殊に作者にて侍る、わづかに蚤の喰付たることを誰か斯くは云ひ尽さんと云ふ。師曰しかり、かれは定家の卿なり、さしてもなき事をことごとしく云つらね侍ると聞えし評詳(つまびらか)なるに似たり。

 この句は其角が母の喪に籠っていた元禄三年六月十六日の作で、「怖夢を見て」という前書がある。『五元集』の前書に「いきげさにずでんどうとうちはなされたるがさめて後」とあるのは、自らその夢の内容を詳にしたのであろう。実際のところは悪夢から覚めて後、身体に蚤の食った跡を見た、というまでで、生袈裟(いきげさ)に斬放(きりはな)された夢と、蚤の跡とは直接何の関係もあるわけではあるまい。ただ平凡に甘んぜざる具角は、悪夢を見、また蚤の跡を見るという小さな事実を、頭から打おろすような調子で、この一句に仕立てたのである。去来が「わづかに蚤の喰付たることを誰か斯くは云ひ尽さん」といい、芭蕉が「さしてもなき事をことぐしく云つらね侍る」と評したのは、いずれもこの点において其角の力量を認めたものと思われる。この句の危きに遊ぶ程度は、勿論人先に袷を著た許六の医者の如きものではない。

[やぶちゃん注:引用部の句の後の文章は底本では全体が二字下げ。踊り字「〲」は正字化した。以上は向井去来の「去来抄」の「先師評」からの引用。以下に原文(古梓堂文庫蔵古写本底本の岩波文庫版)を示す。

   *

 切れたるゆめハまことかのみのあと 其角

去來曰、其角ハ誠に作者にて侍る。わづかにのみの喰つきたる事、たれかかくハ謂つくさん。先師曰、しかり、かれハ定家の卿也。さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍るときこへし。評詳に似たり。

   *

其角のこの句は彼が二十七の時に亡くなった母妙務尼四回忌の追善句日記である「花摘」(元禄三(一六九〇)年刊)に載るもので、前書に「十六日、怖(ヲソロシキ)夢を見て」(「ヲ」はママ)とある。彼の母は貞享四(一六八七)年四月八日に亡くなっている。季題は「蚤」で夏。

「五元集」其角自撰の句集。小栗旨原(しげん)が編して其角死から四十年後の延享四(一七四七)年刊。其角自撰の千余句の発句集「五元集」に、句合わせ「をのが音鶏合(ねとりあわせ)」を加え、最後に旨原編になる「五元集拾遺」が附されてある。表題の「五元集」とは延宝・天和・貞享・元禄・宝永の五つの元号期に亙る発句集の意。]

翁一とせ伊賀の西麓庵におはして、続猿みの撰集ありしに、武城の人々より発句を贈れり。其中に其角も三四章有りて、秋風辞(しゅうふうのじ)をたち入たる句に

 しら雲に鳥の遠さよ飛(とぶ)は鴈(かり)

と云を我も人も感吟して、これらの手づまの及びがたき事をいへば、翁は例のほめながら、普子が此ほどの俳諧をきけば、玉振金声の作をもとめて天下の人を驚さんとす。是より五年の変化をはからず二作をかさねば平話をうしなひ、三作を重ねば俳諧は尽きて、其時は自己をうしなふべしとなり。

 『続猿蓑』にこの句は見えぬようであるが、『うら若葉』には下五字が「は雁」とあり、『五元集』には「の遠さよ数は雁」となっている。「秋風辞をたち入たる」というのは、漢武帝の「秋風辞」に「秋風起ツテ兮白雲飛。草木黄落シテ兮雁南」とあるのを指したものであろう。しかし白雲と雁の取合(とりあわせ)だけならば、必ずしも「秋風辞」に限ったわけではない。「数は雁」とあるのから考えると、『古今集』の「白雲にはねうちかはしとぶ雁の数さへみゆる秋の夜の月」なども利かしてあるかも知れぬ。いずれにせよ、そういう材料から脱化して、眼前別個の光景をなしている点に其角の「手づまの及びがたき」ところはあるので、芭蕉がこれを認めながら多少の危険を感じているのも、またその点に外ならぬのである。この句は表面に現れたところでは、前の「きられたる」の句ほど甚しくはないように見えるが、内面にはやはり一筋縄で行かぬ点がある。危きに遊ぶことは同じでも、その手段は常に一様ではない。其角のピッチングの変化自在を極める所以である。

[やぶちゃん注:以上の引用は底本では全体が二字下げ。各務支考の「十論為弁抄」(じゅうろんいべんしょう)の第八段からであるが、しかし、問題があって、今泉準一氏の論文「其角年譜試稿(七)」PDF)によれば、『ただし、其角の発句「白雲に」の下五文字が誤って記載され、またその誤りに基づいての解釈が載り、従ってこれに基づく芭蕉の論評にも疑義があるが、これに近い事実があったであろう推測は可能である』と注されておられる。句は元禄七(一六九〇)年刊の泥足編「其便(そのたより)」では、

  橫江舟中(わうこうしふちゆう)

 白雲に鳥の遠さよ數は厂(かり)

で載る。他に「末若葉」・「伊達衣」及び其角の「五元集」所収。但し、「五元集」では、中七が異なり、

 白雲に聲の遠さよ數は雁

である。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、下五に至って、遙かな「鳥」が「雁」であり、それが「数」多い列を成しているという『一句のイメージが明瞭となるといった構成が、この句の技巧であり、しかも「数は雁」といった破格の表現をとるところに思い切った作意が感じられる』とされ、宵曲が指摘するように、『この句は同時に、古歌「白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへみゆる秋の夜の月」』(「古今和歌集」「巻第四 秋上」・題知らず・詠み人知らず・一九一番)『をふんでいる。この歌の下の句については、古来「数さへみゆる」とよむ説と、「影さえへみゆる」とよむ説とがあったが、定家は『僻案抄』において「数」とすべきことを論定している。其角の句は、その定家の説に対し、「数」と決めて出てくる景は、このように遠く雁を見やった場合こそふさわしいのだとということを暗に示したものとも読めるのである、其角一流の洒落をこめた句ということになろう』と目から鱗の見解を示しておられる。

「秋風起ツテ兮白雲飛。草木黄落シテ兮雁南」は訓読を示すと、「秋風 起こつて 白雲 飛び 草木(さうもく)黄落(わうらく)して 雁南に帰る」。漢の武帝劉徹(紀元前一五六年~紀元前八七年)の知られた楽府「秋風辞」の第一句目。彼が現在の山西省万栄県に行幸し、后土(土地神)を祭って、群臣とともに汾河(ここ(グーグル・マップ・データ))に船を浮かべて行楽した折り、四十四歳の時の作。全文は碇豐長氏の漢詩サイトのこちらがよい。

「続猿蓑」芭蕉七部集の一つ。沾圃(せんぽ)が撰したものに芭蕉と支考が加筆したとされる。元禄一一(一六九八)年刊。蕉門の連句・発句が集められ、〈軽み〉」の作風が示されるものとされる。

「うら若葉」「末若葉(うらわかば)」。其角編で元禄四(一九九一)年の序。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 電子化注始動 / はしがき・目次

 

[やぶちゃん注:私は既に本ブログのカテゴリ「柴田宵曲」で彼の「妖異博物館」・「續妖異博物館」・「虫の句若干」・「ねずみの句」・「俳諧漫筆 菊」・「俳諧漫筆其の七 蒲公英」・「俳諧漫筆(十)」(金魚に関わる俳諧随想)・「俳諧漫筆 コスモス」・「猫」・「俳諧博物誌」・「子規居士」(「評伝 正岡子規」原題)の電子化注をしてきた。二〇一八年にそれらを終えて後、ずっとどうしてもやっておきたいと感じたのは「蕉門の人々」である。そこでの柴田の九人の蕉門俳人に対する半端ない鋭い剔抉には非常な敬意を払い続けてきたからである。では、何故、この仕儀に躊躇してきたかと言えば、そこで宵曲が挙げるそれぞれの俳人の句意をお前は理解出来ているのかという反問が常に自分の中にあったからである。年齢を重ねてみて初めて腑に落ちた句の数も増えてはきた。未だ十全とは言えないが、しかし、ここでこれを行って宵曲には一区切りをつけたいと考えた。

 書誌学者で俳人・随筆家としても知られた柴田宵曲(明治三〇(一八九七)年~昭和四一(一九六六)年は、本名、泰助、東京生まれ。開成中学中退(家庭の自己都合)。新聞社の臨時校正係から、大正七(一九一八)年、俳句好きだったことから、『ホトトギス』社編集員となる。亡き子規の同郷の門弟俳人であった寒川鼠骨に好かれて師事し、第一次「子規全集」編纂に尽力、三田村鳶魚の口述筆記と著作編集にも従事した。昭和六(一九三一)年からは政教社に勤務、『日本及日本人』の編集に携わったりした、博覧強記の文人である。

 本篇の初出は冒頭の宵曲の「はしがき」にある通り、昭和一一(一九三六)年七月から昭和一五(一九四〇)年まで、雑誌『桐の葉』に「俳諧遠眼鏡」という表題で連載されたものである。底本は初版原本に従いたいところであったが、国立国会図書館デジタルコレクションその他の電子化もされておらず、遂に今まで入手出来ていない。されば、新字新仮名であるが、一九八六年岩波文庫刊の「俳諧随筆 蕉門の人々」を使用する(親本は昭和一五(一九四〇)年十二月三省堂刊「俳諧随筆蕉門の人々」)。読みは、岩波が勝手に附した可能性が高いこと、引用の発句や古文に対してさえ現代仮名遣で振っていることから、必要と判断したもののみ採用した。その表記に際しては拗音等の手を加えてある。句の読みは現代仮名遣では話にならないので、必要と思われる場合は、基本、句の直後に別に歴史的仮名遣で注した(私の注でのそれは中に入れ込んである)。引用される発句等は三字下げで字空けが施されてあるが、やはり不具合を考えて字空けせずに、一字下げで示した。前書もそれに合わせてある。底本ではそれら、句の前書はポイント落ちであるが、同ポイントとした。署名の位置もブラウザの不具合を考えて引き上げてあり、字空けも無視して詰めた。傍点「○」は太字下線とした。踊り字「〱」「〲」は注引用も含めて正字化した。

 注は私が若い読者を想定して必要と感じたもののみに禁欲的に附す。なお、私が判らない諸家の句には正直に句意の不詳の旨を記すこととする。識者の御教授を戴けれならば、恩幸これに過ぎたるはない。] 

 

     は し が き

 

 本書の内容は昭和十一年七月以来、野村泊月氏の主宰する雑誌『桐の葉』に連載したものである。もともと何の計画もなしに書きはじめた仕事なので、爾来漫然今日に及んでいるが、どこまで進行しなげればならぬという性質のものでもないから、さし当りこれだけを一冊として纏めることにした。

 純然たる研究でもなければ考証でもない。近頃よく耳にする評伝とか、鑑賞とかいう言葉もぴったり当嵌らぬようである。ただ作品を通して直接その人の面目を窺おうという、おぼつかない試の一に過ぎぬ。『桐の葉』に連載するに当って「俳諧遠眼鏡」という標題を用いたのも、奇を好んだのでも何でもない、何と名づくべきかに窮した結果であった。いずれにせよ、話は「蕉門の人々」の上を離れぬのだから、これを本書の名としても、格別差支はあるまいと思う。

 本書に取上げた人々は、皆俳諧史上にいわゆる元禄期の作家である。従って本文中に用いた元禄という言葉は、必ずしも厳密な意味における元禄年間という意味ではない。時に天和、貞享(じょうきょう)に遡ることがあるかと思うと、宝永、正徳(しょうとく)を降ることもある。在来の慣例に従い、芭蕉を中心とする俳諧大成期を一括して、元禄時代と称するまでの話である。その点は予め読者の諒察を乞わなければならぬ。

 野村泊月氏からは『桐の葉』連載中、絶えず鞭撻を受けた。同氏の鞭撻がなかったら、自分のような無精者は疾(とっ)くに中途で筆を抛(なげう)っていたかも知れない。本書がともかくも一部を成すに至ったのは、全く同氏の御蔭である。また本書の補訂を行うに当り、安井小洒(しょうしゃ)氏の『蕉門名家句集』によって少からざる便宜を得た。併せ附記して感謝の意を表する。

  昭和十五年九月

               著   者

[やぶちゃん注:最後の「著者」という署名は下インデント三字上げポイント上げであるが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。

「野村泊月」(明治一五(一八八二)年~昭和三六(一九六一)年)兵庫県生まれ。本名、野村勇(旧姓西山)。明治三八(一九〇五)年東京専門学校(早稲田大学の前身)英文科卒。上海に渡って東亜同文書院に学び、また、アメリカに渡った。帰国後、大阪にて日英学館を経営する一方、出版社花鳥堂を創建した。高浜虚子に俳句を学び、大正一一(一九二二)年に仲間と立ち上げた俳誌『山茶花』の雑詠選者となり、昭和四(一九二九)年には『ホトトギス』同人となった。昭和一一(一九三六)年、『山茶花』を辞し、俳誌『桐の葉』を創刊して主宰となった。豪放磊落にして酒豪であった。句集に「比叡」「旅」「雪溪」など(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠った)。泊月の句は単一句集からのものであるが、岸本尚毅氏の「野村泊月『比叡』」PDF)で読める。また、俳句ウェブマガジン「スピカ」の泊月の妻くに女の句「塵捨てに出て山吹を手折りたる  野村くに女」の解説に彼のことが非常に詳しく載る。

「差支」「さしつかえ」。

「元禄」年号としては一六八八年から一七〇四年まで。

「天和」一六八一年~一六八四年。松尾芭蕉が江戸で桃青を名乗って立机(りっき:宗匠となって職業的俳諧師となること)したのは天和の前の延宝六(一六七八)年のことである。

「貞享」一六八四年~一六八八年。

「宝永」一七〇四年~一七一一年。

「正徳」一七一一年~一七一六年。

「安井小洒」(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年)は俳人で蕉門を中心とした俳文学研究家にして兵庫の「なつめや書荘」店主。本名、知之。「蕉門名家句集」は昭和一一(一九三六)年に自社から刊行したもの。

 以下、目次。リーダとページ数は排除した。なお、最後に掲げられる恐らく三省堂親本に付随する森銑三氏の解説「『蕉門の人々』を読む」は森氏の著作権が継続しているので電子化しない。

 

    目  次

 

 はしがき

其  角

嵐  雪

惟  然

凡  兆

去  来

丈  辨

史  邦

木  導

一  笑

『蕉門の人々』を読む(森銑三)

 

2020/04/19

三州奇談卷之五 武家の怪例

 

    武家の怪例

 富山家中瀧川左膳屋敷には、燒味噌を禁ず。若(も)し下々の者にても失念して味噌を燒く事あれば、必(かならず)怪しき人出で座敷に座し、久しく去らず。其故如何なることゝ云ふを聞かず。

 又古市伊織屋敷には、結直(ゆひなほ)す事のならざる竹垣あり。若し此垣に障(さは)る時は、屋敷の内忽ちあやまちする人あり。是例なり。其謂(いは)れを聞きしに、遠き事に非ず、享保の初年[やぶちゃん注:享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年に相当する。]、此家に變事あり。元來古市伊織といふ人は、俠士にて剛力を以て世に鳴る。されば好むには集るのならひにや、此家士に訴藏と云ふ者あり。是又無双の武術者なり。或夜、主人の命ありて、夜更て使(つかひ)に出づ。其頃、此近隣に椎(しい)の大樹ありて、此所を過ぐる者は必ず老婆に逢ふ。赤子を抱きて往來の人に投げ與へて是をおどす。人必ず赤子を切る。是れ石なり。終に老婆が爲に肝を失ひ逃歸る。故に其邊(そのあたり)夜更て通る者なし。此古市氏の家士にも、前に此老婆におどされし者ありて、則ち新藏に、

「心付け、用心して通れよ」

といふ。新藏あざ笑ひて出で行きけるに、案の如く此古樹の本にして妖婆に逢ふ。則ち恐しげなる赤子を投げ與ふ。新藏抱き付き、[やぶちゃん注:国書刊行会本では『新藏抱き付く』で読点なしで続く。その方がよい。]赤子を少しも構はず、跳り懸りて樹下の老婆を拔打に切るに、

「わつ」

と一聲して消え失せぬ。赤子も又なし。新藏刀を納めて使を務め、家に歸りて主人に申し、傍輩に語る。人々老婆を切留めざるは殘念と云ふ。新藏曰く、

「我が切込みし者如何ぞ遁(にがさ)ん」

諸人依りて其刀を拔き見るに、物打(ものうち)より切先迄朱になり、骨引疵(ほねひききず)付いて、心の儘に打込みたりと見えたり。主人も感じて、夜明けて其跡を求(もとむ)るに、則(すなはち)古市氏屋敷後ろの植込の中に大いなる穴あり。此所へ血つたひける程に、土をかへして見るに、彼の垣の下と覺しきに、古貉(ふるむじな)死して居たり。

[やぶちゃん注:「物打」実際に刀で斬りつける際に刃としてメインで使う部分のこと。刀身の刃の部分の中央から切先(きっさき)の手前まで。

「貉」ここは敢えて穴熊(ニホンアナグマ)に同定する必要はなく、狸と同義でとってよかろう。両種の違い(全然違います)や博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな)(アナグマ)」を参照されたい。]

 是より新藏を諸人譽むる。此事國主へも聞えて、

「新藏を出(いだ)し候はゞ召抱へらるべき」

とありしかども、古市伊織おしみて出さず。

「譜代の者なり」

とて樣々に拵へて、公義へ召出されぬ樣に云ひなして家に置けり。新藏傳へ聞て大いに怒つて、是より心だけだけしくなりて、日頃の新藏にあらず。又外へ去る心あり。

 其後、主人外に遊ぶ事あり。新藏、奴(やつこ)を具して迎(むかへ)に行く時、

「早し」

とて待つべき由なり。

「さらば暫く行き來(きた)るべし」

とて、奴を具して近隣の妓館(いろやど)に立入りて酒を吞む。終に沈醉して主人の歸りにはづれぬ。新藏奴に對して曰く、

「今は詮方なし、主人日頃の氣質を知れば必ず只置(ただおく)べしとは思はれず。我先づ屋敷に歸りて、汝が着類・雜具を出し與ふべし。汝は夜中に缺落(かけおち)すべし。我は獨り屋敷に殘らん」

と云ひて、七尺の高塀(たかべい)を苦もなく跳(おど)り越して入り、奴僕(ぬぼく)が雜具を塀を越して出(いだ)し與ふ。奴云ふ、

「君も必ず一所に缺落し給へ、夜明けなば命危し。」

新藏笑ひて、

「我が手の中(うち)百人の味方あり。主人一家を盡して取卷くとも、白晝に切拔けて立去ること大路の如くならん」

と云ふ。奴悲しんで去らず。

「君壯氣ありといへども、主從は天地なり。白晝に立去る時は、主人の家祿永く絕えん。我今君と主とを思ふ、又去べからず。」

新藏すかして

「我も跡よりさらん」

と云ひて、奴を先へ去らしめ、屋敷へ立歸りて、安然として高鼾(たかいびき)して臥せり。

 夜明けて主人夜中の事を聞きて彌々(いよいよ)怒り、新藏を座敷へ廻して[やぶちゃん注:国書刊行会本では『新蔵を座敷の庭に廻して』とある。その方が躓かない。]手打にせんとす。新藏一言も詫(わび)ず。

「命(めい)の儘なるべし、然共(しかれども)主從の緣を切給へ、快く敵となりて術を盡さん」

と云ふ。主人免(ゆる)さずして、拔打に切るに、露地下駄を取りて刀を支へ、猶

「主從の緣を切らんことを」

求む。其後刀を拔きて切結びしが、主の威(い)敵(てき)すべからず、退き立つて地末(ぢすゑ)の垣のもとに至り、後ろざまに垣を飛ぶに、新藏が袴の裾(すそ)竹垣に懸りて逆樣になる。主人透かさず打込む太刀に、太股よりひばらに掛けて切込みたり。新藏大音上げて曰く、

「伊織伊織我が運既に盡ぬ、引上げてとゞめを剌すべし。此まゝ切らば武を汚すなるべし」

と云ひ、齒たゝきする音、雷の如し。さしも剛力の伊織近付くこと能はず、亂鎗に殺して事靜(ことしづま)る。是より伊織面目を家中に失へり。

[やぶちゃん注:「妓館(いろやど)」読みは国書刊行会本の原本カタカナ書き読みに従った。

露地下駄」(ろぢげた)は雨天や雪の際に露地を歩くときに履く下駄。柾目の赤杉材に竹の皮を撚った鼻緒を付けたもの。

「ひばら」「脾腹」。脇腹。

「亂鎗」「らんさう(らんそう)」と読むしかあるまい。滅多矢鱈に闇雲に突き刺すこと。]

 然るに新藏が飛び兼ねたりし竹垣、日頃はかばかりの高さのものゝ數ともせず。されども此時袴のすそ掛りて、いかに引破(ひきやぶ)れども離れず。又只(ただ)常事(つねのこと)に非ざるに似たり。則ち彼(か)の昔日(せきじつ)の古貉の穴の上なれば、世人

「古貉の氣、仇(あだ)を報ずる」

と云ふ。是より此垣彌々靈ありて、人猥(みだ)りに寄らずと。坑(あな)や垣を改(あらたむ)る時は、必ず凶事ありと聞えし。

 

甲子夜話卷之六 6-8 相州大山の怪異の事

6-8 相州大山の怪異の事

山嶽は靈あるもの也。嘗我内の一小吏、人と共に相州の大山に登り、麓の旅店に憩ゐたるに、又二人づれにて來るものあり。此時巳に夕七つに過ぐ。二人山に陟らんとして、阪を步むこと常ならず。足逶迤として不ㇾ進。かくすること兩三度なり。店主及諸人の曰。暮に及んで山に入こと有べからず。必ず異事あらんと。二人曰、今夕山半に宿し、明日頂上に登ん爲なりとて、遂に陟る。其あとにて人皆言ふ。彼必ず變を招かん。察するに人を害する者にして、登山に託して遁るゝならんと云しに、山行四五町も上らんと思ふ頃ひに、俄に雷鳴あつて、大雨盆を傾るが如し。暫時にして天晴る。時已に黃昏に過ぐ。皆言ふ。これ直事ならず迚、明朝山に陟り行に、半途に至らざる中、前日二人の著せしおゆづりと云もの、山樹の枝に懸り有て、二人は在らず。皆云、果て山靈の爲に失はれしならんと。是小吏諸人と同伴して目擊せし所なり。彼二人の内、一人は女なりしと云き。如ㇾ是なれば、壽菴が芙嶽に陟れるに、魚肉を携へ笛を弄しても、其身不善事なきときは、山靈の怒を惹ことなきか。

■やぶちゃんの呟き

「嘗」「かつて」。

「相州の大山」神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高千二百五十二メートルの山。古くから山岳信仰の対象とされ、山頂に大山石尊大権現と称し、巨大な岩石を磐座(いわくらとして祀った阿夫利神社上社があり、中腹に阿夫利神社下社と大山寺が建つ。江戸中期からは大山御師(おし)の布教活動により「大山講」が組織され、庶民は盛んに「大山参り」を行い、山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えた。また、同山では天狗信仰も盛んで、阿夫利神社には大天狗・小天狗の祠があり、日本の八天狗に数えられたという「大山伯耆(ほうき)坊」の伝承が伝わる。

「夕七つに過ぐ」夏場と仮定すると、不定時法だと、午後五時を有意に回った頃(そこから午後八時までの間となるが、後で「黃昏」と出る)。定時法なら、午後五時前後。

「陟らん」「のぼらん」。

「阪」坂。

「逶迤」「いい」。これは「斜めに行くさま」・「曲がりくねって続くさま」・「不正なさま」を言う語。ふらふらとして如何にも心もとない足運びであることを指す。

「不ㇾ進」「すすまず」。

「兩三度」二、三度試みようとしていること。

「曰」「いはく」。

「今夕」「こんゆう」。

「山半」「やまなかば」。

「登ん」「のぼらん」。

「陟る」「のぼる」。

「人を害する者にして」人に何らかの危害を加えた咎人であって。

「託して」かこつけて。言い訳にして。

「遁るゝならん」「のがるるならん」。

「山行」「さんかう」。

「四五町」四百三十七~五百四十五メートル。二人の後ろ影が仄かに見えていたのであろう。

「頃ひ」「ころほひ」。

「傾る」「かたむくる」。

「黃昏」「たそがれ」。

「直事」「ただごと」。

「迚」「とて」。

「陟り行に」「のぼりゆくに」。

「彼」は三人称ではなく、あの二人ずれがこの時間に登るという仕儀全体を指す。

「半途」「はんと」。登り行く道の途中。頂上までの行程の半ば。

「中」「うち」。

「著せし」「ちやくせし」。

「おゆづり」不詳。識者の御教授を乞う。

「果て」「はたして」。

「山靈」「さんれい」と読んでおく。

「如ㇾ是」「かくのごとく」。

「壽菴」江戸後期の医師で奇行で知られた静山とは同時代人の川村寿庵(?~文化一二(一八一五)年)。「5-21 又林氏の說川村壽庵の事 / 5-22 壽庵が事蹟 / 5-23 又、芙岳を好む事」を参照。

「芙嶽」富嶽。富士山。

「不善事なき」「善(よ)からざる事なき」。

「怒」「いかり」。

「惹ことなきか」「惹(ひく)ことなきか」。

甲子夜話卷之六 7 前載、交暈の遺事

6-7 前載、交暈の遺事

前册に云たる正月廿一日交暈のことは、人々の所見異なり。予が上邸より他へ使者に出たるもの、四つ時頃常盤橋の外にて見たるは、司天官の圖の如くなりしと。其始は二暈虹の如くにして、日輪は常に不ㇾ異。還塗豐嶋町に至る頃は、暈の色總じて白く、雨曇の交りたる處、色日出の輝けるが如しと。又九つ頃、同邸の一夫が猿屋町の邊にて見しは、我が頂上に當りて、相撲のかたやほどなる圓形の白き雲あり【卽暈なり】。其圓中は蒼々色なり。此外に淺草御門の上に當り、虹の如きもの輪をなし半ば見へたり。又別に本所竪川の上に當り、同く虹の如きものあり。靑紅色にて、少く色薄し。其後本所の地に行たるに、これを見れば、かの暈も分散してもとの形に非ず。此時八つ時過なるべしと云。

■やぶちゃんの呟き

「前册に云たる正月廿一日交暈のこと」巻第五の二番目の「文政五年春、日に交暈ある事圖」。文政五年正月二十一日(グレゴリオ暦一八二二年二月十二日)に発生した「交暈」(かううん(こううん))、暈(かさ)現象のこと。原理はウィキの「暈」を見られたい。

「予が上邸」平戸松浦藩家上屋敷。現在の東京都台東区浅草橋にある都立忍岡(しのぶがおか)高等学校(グーグル・マップ・データ)やその南の柳北公園等のある一帯にあった(蓬莱園という名園で知られた)。「古地図 MapFanで秋葉原駅を探し、そこを拡大して東北東にずらして行くと、忍岡高・柳北公園を見出したら、そこを中央にして隠すと、下方の切絵図に逆さまに「松浦壱岐守平戸藩上屋敷」の文字が見えてくる。

「四つ時頃」午前十時前後。

「常盤橋」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。日本銀行の前。右上部に忍岡高校を配した。

「司天官の圖」「文政五年春、日に交暈ある事圖」で私が作成し直した図を再掲しておく。

 

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「不ㇾ異」「ことならず」

「還塗」「くわんと」。帰り道。静山の使者が使いを済ませて帰る途中。

「豐嶋町」これは現在の今の東神田附近の内で、都立一橋高等学校(グーグル・マップ・データ)北西部外の、神田川沿いの旧町名である。「古地図 MapFanで一橋高校を探し、それを中央で隠すと、現在の「美倉橋」が「新(あたらし)シ橋」となり、その南詰から神田川に沿って六区画の「豊島町」を確認出来る。

「雨曇」「あまぐも」。

「交りたる」「まじはりたる」。

「九つ頃」正午前後。

「猿屋町」浅草猿屋町であろう。現在の台東区浅草橋二・三丁目(グーグル・マップ・データ)。平戸藩上屋敷の南東三百メートルの直近。

「相撲のかたや」「相撲の方屋」。相撲の土俵場。

「卽」「すなはち」。

「蒼々色なり」「さうさうたるいろなり」と訓じておく。青みを帯びた色であった。

「淺草御門」現在の浅草橋の南詰(グーグル・マップ・データ)にあった。

「見へたり」ママ。

「竪川」「たてかは」。現在の首都高速七号小松川線の真下を流れる運河である竪川(グーグル・マップ・データ)。江戸城から見て本所を縦(東西)に貫通して流れることから、この名となった。

「八つ時過」午後二時過ぎ。

2020/04/18

譚海 卷之三 應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事

 

應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事

○應仁一亂後戰國に入(いり)て、京師住居數度兵火の災にかゝり、(住居(すみゐ)成(なり)がたきにより、)諸公卿大半緣に付(つき)て諸國へ寄食せられしかば、禁中參仕の人少く、朝廷衰微極り、殘り留(とどま)る公卿朝夕の煙を立(たて)かね、色紙短册等を書寫し、ついぢの上にかけて、行路の人に賣(うり)あたへ、漸々(やうやう)衣食せられける事也。和歌の道も亂世に隨(したがひ)て衰へ、ただ連歌のみ盛(さかん)にもて興ずる事とせしは、時勢のいそがはしきにつるゝ風俗成(なる)べし。依(より)て撰集の沙汰は止(やみ)て連歌の撰起り、「新つくば集」などと云(いふ)もの出來(いでき)たり。紹巴法橋(ぜうはほつきやう)など云もの、筑紫より連歌をもて京師に來り、終に志を得て名を傳ふる事に成たり。當時の諸將武人連歌を嗜(たしな)まざる人なく、松永彈正(だんじやう)人の許(もと)にて連歌せしに、「薄(すすき)にまじる蘆(あし)の一むら」と云(いふ)句に付(つけ)わづらひて、沈思(ちんし)したる折(をり)しも、二三度宿所(しゆくしよ)より來りて密事(みつじ)にさゝやく事ありしが、猶案じ入(いり)て「古池の淺きかたより野と成(なり)て」と付(つけ)て、やがて「火急の事出來(いでき)ぬ」とて立歸るに、「何事にや」と傍(かたはら)の人尋(たづね)しかば、「以前より宿所へ野伏蜂起してよせ來るよししらせ侍り、急ぎ罷向(まかりむかひ)て追(おひ)ちらし侍らん」とて歸りけるよし。さるにてもかくはげしき中(なか)にて、かくまで連歌をすけるも、一時の風俗なりけりと人のかたりし。

○紹巴法橋一とせ松島一見に仙臺へ下りし比(ころ)、紹巴が名を傳へ聞(きき)て、こゝかしこにて招き、數會の一座ありけり。政宗卿一日(いちじつ)城中にて片倉小十郞と閑話の序(ついで)申されけるは、「此比(このごろ)京都より紹巴下りて連歌殊に盛に翫(もてあそ)ぶと聞(きけ)り、紹巴をめして我も連歌して見ん」とて呼(よば)れければ、やがて紹巴來りて謁しける。折しもほととぎす鳴(なき)ければ、政宗卿、「なけきかふ身が領分の郭公(ほとぎす)」と發句(ほつく)せられけるに、小十郞傍にありてあぐらかきて居ながら、「脇(わき)仕(つか)ふまつりたり」とて、「なかずばだまつて行けほとゝぎす」といひければ、紹巴をかしくや思ひけん第三に、「どふ成(なれ)と御意(ぎよい)にしたがへ時烏(ほととぎす)」と付(つけ)たる由、誠に三句迄「ほとゝぎす」をつゞけたる、をかしき事に覺(おぼえ)れど、「身が領分の時鳥」とある詞(ことば)、誠に一國の主(あるじ)の句成(なる)べし。「だまつてゆけ時鳥」といへるも、社稷(しやしよく)の臣の心顯れて、主人たりとも放埒ならば其まゝにをくまじと覺ゆる志(こころざし)、句の上にあらはれたり。紹巴は此二句の「時鳥」を重ねたるを弄(ろう)して、「どふ成と御意に隨へ」といへる詞を付たるなれども、さすがに連歌に身をよせて食を人に乞ふ志、下(しも)に顯(あらはれ)て哀也(あはれなり)と人のかたりし。

[やぶちゃん注:今回は直接話法が多いので、読み易さを狙って、特異的に鍵括弧を施した。

「應仁亂後」「応仁の乱」は応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年に一応の決着を見た。ここでも津村が明言しているように、「応仁の乱」が室町幕府の権力が崩壊し、戦国時代が始まったという古くからの説が一般的であるが、近年では幕府の権威は「明応の政変」(明応二(一四九三)年四月に細川政元が管領となり、将軍が足利義材(よしき・後の義稙(よしたね))から足利義遐(よしとお。後の義澄)へと代えられ、以後、将軍家が義稙流と義澄流に二分された)頃まで一応保たれていたという見解もあり、「明応の政変」以降を戦国時代の始まりとする説もある。但し、「応仁の乱」以降、身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない(以上はウィキの「応仁の乱」他に拠った)。

「紹巴」(大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)は室町末期の連歌師。奈良生まれ。父は松井姓で、興福寺一乗院の小者とも、湯屋を生業(なりわい)としていたともされる。後に師里村昌休(さとむらしょうきゅう)より姓を受けたので「里村紹巴」(さとむらじょうは)と呼ばれることが多い。号は臨江斎。十二歳で父を失い、興福寺明王院の喝食(かっしき:寺院に入って雑用を務めた少年)となり、その頃から連歌を学んだ。十九歳の時、奈良に来た連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は昌休に師事、三条西公条(きんえだ)に和歌や物語を学んだ。天文二〇(一五五一)年頃より、独立した連歌師として活動を始め、昌休の兄弟子であった宗養(そうよう)没後は第一人者としての地位を保った。三好長慶・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らの戦国武将をはじめ公家・高僧らとも交渉があり、ともに連歌を詠むと同時に政治的にも活躍し、「本能寺の変」直前に光秀と連歌を詠み(「愛宕(あたご)百韻」)、変の後には、秀吉に句の吟味を受けたことはよく知られる。秀吉の側近として外交・人事などにも関わったが、文禄四(一五九五)年の秀次の切腹事件に連座して失脚し、失意のうちに没した。彼は連歌の社会的機能を重視し、連歌会の円滑な運営を中心としたため、作風や理論に新しみが少なく、連歌をマンネリ化させたとする評価も一部でなされているが、連歌を広く普及させた功績も大きく、優れた句もまま見られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ついぢ」築地。柱を立てて板を芯とし、両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀。公家方は屋敷の周囲にこれを巡らすのが通例であったことから、公卿方の代名詞ともなった。「新つくば集」室町後期の準勅撰連歌集「新撰菟玖波集」。南北朝時代の正平一一/文和五(一三五六)年に関白二条良基が救済(ぐさい)の協力を得て撰した堂上方の準勅撰連歌集「菟玖波集」(全二十巻)に擬して作られた。飯尾宗祇を中心に兼載・肖柏・宗長らが参加した。全二十巻。明応四(一四九五)年成立。一条冬良(ふゆら)の「仮名序」がある。永享以後約六十年間の二千句余を集め、作者は心敬・宗砌(そうぜい)・専順・大内政弘・智蘊(ちうん)・宗祇・兼載・宗伊・能阿・行助・三条西実隆・肖柏ら二百五十名余に及ぶ。宗祇時代の連歌を代表し、「菟玖波集」とともに連歌史上、重要な集である。大内政弘の奏請により、勅撰に準じた。

「法橋」法橋上人位の略。律師の僧綱(そうごう)に授けられる僧位で、法印・法眼とともに貞観六(八六四)年に制定された。後に一般の僧にも授けられるようになり、人数も次第に増加し、さらに仏師や絵師にも叙任されるに至った。

「筑紫より連歌をもて京師に來り」不審。出羽国の大名で最上氏第十一代当主にして出羽山形藩初代藩主で、伊達政宗の伯父に当たる最上義光(よしあき)の家臣の兵法家としてしられた堀喜吽(きうん ?~慶長五(一六〇〇)年)という御伽衆がおり、彼は筑前生まれで「筑紫喜吽」とも称し、連歌にも長じて、紹巴とも同座しているので、混同したものか? 彼は慶長の「出羽合戦」の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃したところを、上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死している。

「松永彈正」戦国大名松永久秀(永正五(一五〇八)年~天正五(一五七七)年)。連歌を好んだ。

「政宗」仙台藩藩祖伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。やはり連歌を好んだ。

「片倉小十郞」伊達家家臣で伊達政宗の近習であった片倉景綱(弘治三(一五五七)年~元和元(一六一五)年)の通称。後に軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏初代。

「社稷の臣」元来は古代中国で天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)で、そこから転じて「国」の意。

「をく」ママ。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 金甌の歌

 

   金 甌 の 歌

 

あけぼの光纒(まと)へる靑雲(あをぐも)の、

ときはかきはに眠と暗となき、

幻、律(しら)べ、さまよふ聖宇(みや)の中、

新たに匂ふいのちのほのぼのと

我は生(うま)れき。 大日(おほひ)の灼(かゞ)やきに

玉膸(ぎよくずゐ)湛(たゝ)ふ黃金の花瓶を

靑摺綾(あをずりあや)のたもとに抱きつつ。

 

羅(うすもの)かへし、しづかに白龍(はくりゆう)の

石階(きざはし)踏めば、星皆あつまりて、

裳裾(もすそ)を縫(ぬ)へる綠のエメラルド。

步み動けば、小櫛(をぐし)の弦(げん)の月、

白銀(しろがね)うるむ兜(かぶと)の前(まへ)の星(ほし)。

暾下(みをろ)すかなた、仄(ほの)かに讃頌(さんしよう)の

夜の聲夢の下界をどよもしぬ。

 

白晝(まひる)の日射(ひざし)めぐれる苑(その)の夏、

かほる檸檬(れもん)の樹影(こかげ)に休らへば、

鬩(せめ)ぎたたかふ浮世の市(いち)超(こ)えて、

見わたすかなた、靑波鳴る海の

自然の樂(がく)のひびきの起伏(をきふし)に

流るゝ光、それ我が金甌(きんわう)の

みなぎる匂ひ漂ふ影なりき。

 

靑垣(あをがき)遶(めぐ)り、天突(あめつ)く大山(おほやま)の

いただきそそる巖に佇めば、

世は夜(よる)ながら、光の隈(くま)もなく、

無韻のしらべ、朝(あした)の鐘の如、

胸に起りて千里の空を走せ、

山、河、鄕(さと)も、舟路(ふなぢ)もおしなべて

投げたる影にみながら包まれぬ。

 

野川(のがは)氾濫(あふ)れて岸邊の雛菊の

小花泥水(ひみづ)になやめる姿見て、

あまりに痛き運命(さだめ)を我泣くや、

水にうつれる小花のおもかげに、

幻ふかく湛(たゝ)ふる金甌の

底にかがやく生火(いくひ)の文字(もじ)にして、

いのちの主(ぬし)の淚ぞ宿れりき。

 

想ひの翼ひまなく、梭(をさ)の如、

あこがれ、嘆き、勇みの經緯(たてぬき)に、

見ゆる、見えざるいのちの機織(はたを)れば、

天地(あめつち)つつみひろごる帕(きぬ)の中、

わが金甌(きんわう)のおもてに、榮光の

七燭(しちしよく)いてる不老(ふらう)の天の樂(がく)、

ほのかに浮びただよふ影を見ぬ。

 

海には破船(はせん)、山には魔の叫び、

陸(くが)なる罪の館(やかた)に災禍(わざはひ)の

交々(こもごも)起る嵐の夜半(よは)の窓、

戰慄(をののぎ)せまるまなこを閉(と)ぢぬれば、

あでなるさまや、胸なる金甌の

おもてまろらに光の香はみちて、

たえざる天(あめ)の糧(かて)をば湛えたる。

 

ああ人知るや、わが抱く金甌ぞ、

(そよわがいのち)尊とき神の影、

生(い)きたる道(ことば)、生きたる天の樂(がく)、

いのちの光、ひめたる『我』なりき。

涯(はて)なく限りなきこの天地(あめつち)の

力(ちから)を力(ちから)とぞする『彼』よ、げに

我が金甌の生火(いくひ)の髓(ずゐ)の水。

 

されば我がゆく路には、ものみなの

戰ひ、愁ひ、よろこび、怒り、皆

我と守れる心の閃(ひら)めきに

融(と)けて唯一(ひとつ)の生命(いのち)にかへるなる。

ああ我が世界、すなはち、人の、また

み神の愛と力(ちから)の世界にて、

眠(ねむり)と富(とみ)の入るべき國ならず。

 

天地(あめつち)知ろす源(みなもと)、創造の

聖宇(みや)の光に生れし我なれば、

わが聲、淚、おのづと古鄕(ふるさと)の

缺(か)くる事なきいのちと愛の音(ね)に、

見よや、天(あめ)なる眞名井(まなゐ)の水の如、

玉髓あふれつきせぬ金甌の

雫(しづく)流れて凝(こ)りなす詩の珠。

            (甲辰六月十五日)

 

   *

 

   金 甌 の 歌

 

あけぼの光纒(まと)へる靑雲(あをぐも)の、

ときはかきはに眠と暗となき、

幻、律(しら)べ、さまよふ聖宇(みや)の中、

新たに匂ふいのちのほのぼのと

我は生れき。 大日(おほひ)の灼(かゞ)やきに

玉膸湛ふ黃金の花瓶を

靑摺綾のたもとに抱きつつ。

 

羅かへし、しづかに白龍の

石階(きざはし)踏めば、星皆あつまりて、

裳裾を縫へる綠のエメラルド。

步み動けば、小櫛(をぐし)の弦(げん)の月、

白銀(しろがね)うるむ兜の前の星。

暾下(みをろ)すかなた、仄かに讃頌(さんしよう)の

夜の聲夢の下界をどよもしぬ。

 

白晝(まひる)の日射(ひざし)めぐれる苑の夏、

かほる檸檬の樹影(こかげ)に休らへば、

鬩(せめ)ぎたたかふ浮世の市(いち)超えて、

見わたすかなた、靑波鳴る海の

自然の樂のひびきの起伏(をきふし)に

流るゝ光、それ我が金甌(きんわう)の

みなぎる匂ひ漂ふ影なりき。

 

靑垣遶(めぐ)り、天突(あめつ)く大山(おほやま)の

いただきそそる巖に佇めば、

世は夜(よる)ながら、光の隈もなく、

無韻のしらべ、朝(あした)の鐘の如、

胸に起りて千里の空を走せ、

山、河、鄕(さと)も、舟路(ふなぢ)もおしなべて

投げたる影にみながら包まれぬ。

 

野川氾濫(あふ)れて岸邊の雛菊の

小花泥水(ひみづ)になやめる姿見て、

あまりに痛き運命(さだめ)を我泣くや、

水にうつれる小花のおもかげに、

幻ふかく湛ふる金甌の

底にかがやく生火(いくひ)の文字にして、

いのちの主(ぬし)の淚ぞ宿れりき。

 

想ひの翼ひまなく、梭(をさ)の如、

あこがれ、嘆き、勇みの經緯(たてぬき)に、

見ゆる、見えざるいのちの機織(はたを)れば、

天地(あめつち)つつみひろごる帕(きぬ)の中、

わが金甌のおもてに、榮光の

七燭(しちしよく)いてる不老の天の樂、

ほのかに浮びただよふ影を見ぬ。

 

海には破船、山には魔の叫び、

陸(くが)なる罪の館(やかた)に災禍(わざはひ)の

交々(こもごも)起る嵐の夜半(よは)の窓、

戰慄(をののぎ)せまるまなこを閉ぢぬれば、

あでなるさまや、胸なる金甌の

おもてまろらに光の香はみちて、

たえざる天(あめ)の糧(かて)をば湛えたる。

 

ああ人知るや、わが抱く金甌ぞ、

(そよわがいのち)尊とき神の影、

生きたる道(ことば)、生きたる天の樂、

いのちの光、ひめたる『我』なりき。

涯なく限りなきこの天地(あめつち)の

力を力とぞする『彼』よ、げに

我が金甌の生火(いくひ)の髓の水。

 

されば我がゆく路には、ものみなの

戰ひ、愁ひ、よろこび、怒り、皆

我と守れる心の閃めきに

融けて唯一(ひとつ)の生命(いのち)にかへるなる。

ああ我が世界、すなはち、人の、また

み神の愛と力の世界にて、

眠(ねむり)と富(とみ)の入るべき國ならず。

 

天地(あめつち)知ろす源、創造の

聖宇(みや)の光に生れし我なれば、

わが聲、淚、おのづと古鄕(ふるさと)の

缺くる事なきいのちと愛の音(ね)に、

見よや、天(あめ)なる眞名井の水の如、

玉髓あふれつきせぬ金甌の

雫流れて凝りなす詩の珠。

            (甲辰六月十五日)

[やぶちゃん注:第七連の「戰慄(をののぎ)」のルビの「ぎ」、第八連の「道(ことば)」のルビ、第七連末の「湛えたる」はママ。初出(明治三七(一九〇四)年七月号『白百合』)では前二つは同じであるが、「湛えたる」は正しく「湛へたる」となっている。第一連五行目の句点の後の字空けは見ためを再現した。

「金甌」黄金で造った甕(かめ)。専ら、「金甌無欠」(きんおうむけつ)の四字熟語で用いられる。それは「物事が完全で欠点がないこと」の譬えで、特に外国からの侵略を受けたことがなく、安泰で堅固な国家や高貴にして理想的な天子或いはその地位の比喩に用いられる。訓読すると、「金甌(きんおう)欠くる無し」となる。出典は「南史」の「朱异伝(しゅいでん)」。

「ときはかきはに」漢字表記は「常磐堅磐に」(現代仮名遣「ときわかきわ」)で形容動詞ナリ活用の連用形。物事が永久不変であるさま。永久(とこし)えに。

「眠と暗となき」「ねむりとやみとなき」。初出のルビによる。

「聖宇(みや)」ルビは無論、「宮」の当て読み。

「玉膸(ぎよくずゐ)」初出は「玉髄」。石英の非常に細かい結晶が網目状に集まり、緻密に固まった鉱物の変種であるカルセドニー(Chalcedony)の中でも特に美しい宝石。

「靑摺綾(あをずりあや)」山藍(やまあい)の葉などで模様を青く斜めに摺り出した衣。「あをずり」は既に「古事記」にも出る語。後世では、賀茂の臨時の祭会に奉仕する舞いを担当する者が着用する、白い闕腋(けってき)の袍(ほう)の、青摺にしたものを指す。

「靑波鳴る海の」「あをなみなるうみの」。初出に拠る読み。

「小花」「をばな」。初出に拠る読み。

「經緯(たてぬき)」織機の経(たて)糸と緯(よこ)糸。ここは前後と同じく隠喩。

「眞名井(まなゐ)」高天原(たかまのはら)にあり、神々が用いるとされる聖なる井戸。]

三州奇談卷之五 北條の舊地

 

    北條の舊地

 富山の城中に「舊集錄」といふ書あり。町に「先達錄」と云ふ者あり。何れも富山の事跡を書きたる書なりき。「此中にあり」とて或人の語られし。

[やぶちゃん注:「舊集錄」不詳。識者の御教授を乞う。

「先達錄」婦負郡若林家の伝本で享保一六(一七三一)年の成立と見られる、富山藩御前物書役野崎伝助が著わした越中の神代からの歴史・説話・伝承を扱った「喚起泉達録」があり(但し、原本は失われ、不完全な写本のみが残るという)、また、その八十年後の文化一二(一八一五)年に伝助の孫の野崎雅明が著した「肯搆泉達録」という書もあるそうである。本「三州奇談」の成立は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるから、前者を指すか。学術的な書籍から、この二書は富山ではタブー視される傾向があるとするネット記載までもある。]

 越中の次郞兵衞は五十嵐氏にして、其塚今に富山稻荷町の末にあり。又宥照寺といふ寺には、明智光秀が塚あり。宥照寺の世代の内に、明智左馬助が兄此寺を持ちしことあり。故に今爰に光秀が塚ありと云ふ。又北條早雲も元來越中の產なり。新川郡黑瀨村伊勢町に其家跡あり。

[やぶちゃん注:「越中の」「五十嵐」「次郞兵衞」「平家物語」で「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられた名将平盛嗣(?~建久五(一一九四)年)。平盛俊の次男で、父同様、平家の郎党として勇名を馳せた人物。ウィキの「平盛嗣」によれば、『源氏との数々の戦に参戦し』、「水島の戦い」では『源義清を討ち取り、「屋島の戦い」では『源義経の郎党である伊勢義盛との詞戦』(ことばだたかい:『嘲笑合戦)の逸話を残している』(「平家物語」巻第十一の「言葉だたかひ」。後掲する)。寿永四(一一八五)年の「壇ノ浦の戦い」で、『盛嗣は自害を快く思わず』、『京の都に落ち延び、その後』、『但馬国で潜伏生活へ入った。盛嗣は城崎郡気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われている。その後、盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っている。しかし鎌倉方は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が』「平家物語」(延慶本)にもある。建久五(一一九四)年、『盛嗣は源氏方に捕縛され、鎌倉に送られることとなった(捕縛された状況には諸説ある)。盛嗣は頼朝の面前に引き出された際に「今は運尽きてかように搦め召し候上は、力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と自説を述べ、ついに由比ヶ浜にて斬首された』。『京都府福知山市大江町北原には盛嗣ら平家の郎党らが落ち延びた伝説があり、盛嗣の末裔として現在でも福知山市や周辺市町村に「越中」姓が現存しているが』、『一部の子孫は改名している者もいる』とある。「平家物語」の「言葉だたかひ」は面白いので以下に引く(角川文庫・高橋禎一校注・昭和四七(一九七二)年刊を参考に漢字を恣意的に正字化した)。伊勢が、「大将軍は誰だ?」という盛嗣の呼びかけに「義経」と答えると、

   *

盛嗣、聞いて、

「さる事あり。去(いん)ぬる平治の合戰に、父討たれて孤子(みなしご)にてありしが、鞍馬の兒(ちご)して、後には金商人(こがねあきんど)の所從(しよじう」[やぶちゃん注:下男。]となり、粮料(らうれう)背負うて、奧の方へ落ち下りし、その小冠者(こくわんじや)めが事か」

とぞ言ひける。義盛、步ませ寄つて、

「舌の柔かなる儘に、君(きみ)の御事な申しそ。さ言ふわ人(ひと)どもこそ礪波山の軍(いくさ)に打負け、辛き命生きつつ、北陸道にさまよひ、乞食(こつじき)して上つたりし、その人か」

とぞ云ひける。盛嗣、重ねて、

「君の御恩に飽き滿ちて、何の不足さあつてか、乞食をばすべき。さいふわ人どもこそ、伊勢國鈴鹿山にて山だち[やぶちゃん注:山賊。]し、妻子をも育み、わが身も所從も、過ぎけるとは聞きしか」

といひければ、金子十郞、進み出でて、

「詮ない殿ばらの雜言(ざふごん)かな。われも人も虛言(そらごと)云ひけ、雜言せんに、誰(たれ)かは劣るべき。去年(こぞ)の春、攝津國一谷にて、武藏・相模の若殿ばらの、手なみの程をば見てんものを」

といふ所に、弟の與一、傍(そば)にありけるが、謂はせも果てず、十二束三(じふにそくみつ)ぶせ取つて番(つが)ひ、よつぴいて、ひやうど放つ。次郞兵衞が鎧の胸板に裏かく程にぞ立つたりける。さてこそ互(たがひ)の詞戰(ことばだたかひ)は止みにけれ。

   *

「富山稻荷町」現在の富山市稲荷町はここ(グーグル・マップ・データ)。南町域外に接して越中稲荷神社があるが、公式サイトを見ても、越中次郎兵衛盛嗣とは関係がないようである。

「宥照寺」現存しない。しかし、富山の「桂書房」公式サイト内のこちらに(改行を除去した)、『桂書房では『越中怪談紀行』を編纂中です。ベースになっているのが大正の頃の「高岡新報」の越中怪談という連載記事。富山県内の色々な話が纏められています。その記事の中に富山市辰巳町にあった宥照寺に明智光秀の塚があったと書いてありました。出典は『越中奇談集』。光秀の兄が宥照寺住職であったとあります。光厳寺の東側、鼬川に沿って寺がありました。今は、寺はありませんが気になりますね』とあって、明治四三(一九一〇)年の二万分一地図にある寺のあった場所が示されてある(クリックで拡大出来る)。現在の辰巳町一丁目三である。見たかったなあ! 「明智光秀が塚」!

「北條早雲も元來越中の產なり」これは聞いたことがない。ウィキの「北条早雲」(康正二(一四五六)年~永正一六(一五一九)年 伊勢宗瑞(いせそうずい):北条早雲は後代の呼称で、彼自身はこう名乗ったことはない)を見られたいが、そんな説はカケラも載らない。彼は備中国(現在の岡山県西部)生まれとされる。

「新川郡黑瀨村伊勢町」富山市黒瀬(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、「富山県立図書館」公式サイト内の「御領分新川郡神通川ヨリ東ノ分村絵図」(江戸末期)で調べたが(3ページ目の83/108図)、村内に「伊勢」の地名は見当たらないし、そもそもが「村」の中に「町」というのはちょっと解せぬ気がした。しかし、ここでハタ! と膝を打ったのだ! なるほど! それでか?! 現在、北条早雲の出自としては室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流なのである。但し、富山県内には「伊勢領」という地名が複数あるが(例えば、旧新川郡内では富山市水橋伊勢領がある)、では、そこでさえも伊勢氏の領地だったかどうかは定かではないらしいのである。「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『室町幕府の「政所伊勢氏」と越中砺波郡の「伊勢領」・「小伊勢領」⇒「伊勢神宮領」か、「伊勢氏領」か?』を見られたい。まんず、私の力ではここまでだ。]

 此里に鄕士三人ありしが、皆々大志あり。三人は所謂日置逸角・伊奈三十郞・伊勢新九郞なり。是等同道して、關東へかせぎに出づる。則ち蜷川新左衞門が狀を持ちて、先づ品川東海寺七世一休和尙の許へ行く。蜷川新左衞門は新川郡の人にて、越中にて終る。今蜷川最勝寺は新左衞門開基にして、遺寶品々あり。當時江戶御旗本蜷川八右衞門より、年每に使者來ると云ふ。されば蜷川は一休の知己なれば、彼三人の者先づ東海寺に至りて、其後方々へ身の上ありつきに出づる。伊勢新九郞は太田道灌に奉公して、武術能く熟すと云ふ。此伊勢新九郞、北條を名乘りしことは、初め鎌倉の代の時、最明寺時賴入道天下を修行して越中に來(きた)る時、新川郡法相宗の寺に安養寺と云ふありしに一宿し給ふ。其夜安養寺へ盜賊入りて、寺寶を多く奪ひ、最明寺殿の頭陀をも取去りし。此頭陀の中に鱗形(いろこがた)の系圖ありしが、不思議多かりし程に、盜人共驚き安養寺へ返し入れける。年久しうして、伊勢町新九郞此寺の和尙に念頃にして、終に其鱗形の系圖を得たり。故に事思ふ儘にして、後に關東を領する事を得たるも、此系圖の奇特なり。去るに依りて後に北條早雲とは名乘りけると云ふ。是は里人の話の儘なれば、其眞僞を知らず。今の安養寺は地昔の所に非ず。最明寺の宿りし安養寺の跡は、今田となりて、常願寺川の支流來(きた)る所なり。此寺跡の川にすむ杜父魚(かじか)、必ず頭(かしら)に三つの鱗紋あり。其色黑うして兩眼の間に顯然と斑紋すわる。此杜父魚を懷孕(くわいよう)の人好みて喰(く)へば、產(うま)るゝ子必ず英雄の志あり。又或は變じて大惡の盜賊ともなる。女子を產めば、多淫にして必ず罪を負ふの人となる。故に今は人此寺跡の川魚を食せず。若(もし)戰國ならんには、斯(かく)の如き英雄の志ある者を求めても可なるべし。琉球の所謂「中山花敎」に云ふ、『英雄を育つる法ありと云ふ』とは、かゝる物を喰はせて人を求むることあるにそ、其道なきにはあらじと覺えたり。

[やぶちゃん注:……堀麦水よ、何で、こんなあり得ない馬鹿話を、真面目に書いたのかねえ?……

「日置逸角」不詳。読みも不詳。「日置」は「へき」と読むことがあるからである。

「伊奈三十郞」不詳。

「伊勢新九郞」これぞ北条早雲が伊勢宗瑞とともに実際に名乗っていた名である。

「蜷川新左衞門」先の黒瀬村は現在の広域地名である蜷川地区(旧蜷川郡)の中にある。ウィキの「蜷川氏」によれば、『元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏』(みやじし)で、越中国新川郡蜷川庄を所領として、そこの地名を名乗った。『祖は蜷川親直』。『室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて』三『代目の蜷川親当(後の智蘊)の頃より政所代を世襲することとなった。室町時代末期、主君である将軍足利義輝を失った蜷川親世は零落し、出羽国村山郡で没した。嫡子蜷川親長を始めとする一族の多くは、土佐国の長宗我部元親のもとへ落ちのびた(元親室石谷氏が親長の従兄弟。石谷氏は、明智光秀重臣の斎藤利三の妹)』。『足利義昭に仕えた蜷川親貞は、義昭が毛利氏を頼った後に家臣化し、蜷川秋秀、蜷川元親、蜷川元勝と続き、長州藩士として続いた』。『また、蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる』。『長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。その後蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る』。所領は『南丹市園部町高屋地区』の『寺谷口』。『室町・戦国時代の蜷川氏の所領』で『蜷川城(菩提寺である蟠根寺に因み蟠根寺城、地区に因み高屋城とも)があった』。また、『蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っている』とある。左じゃないのが怪しいとも思われるだろうが、実は草書の「左」「右」は下手な崩し方をされると、誤判読し易い。

先に紹介した「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『室町幕府の「政所伊勢氏」と越中砺波郡の「伊勢領」・「小伊勢領」⇒「伊勢神宮領」か、「伊勢氏領」か?』には、『「三代将軍足利義満」は、母方の縁者の「越中蜷川氏」を重用して、「蜷川氏」と「伊勢氏」は婚姻して 、「政所 伊勢氏」、「政所代 蜷川氏」として幕府の実権を握った』とあって、伊勢氏と蜷川氏が繋がり、さらにこの富山の地名ともリンクしてくるから、まんざら本篇も根拠のない空言でもない気がしてはくるのだが……

「品川東海寺七世一休和尙」なんじゃこりゃ?! やっぱ、駄目だ! 品川にある臨済宗万松山東海寺は寛永一六(一六三九)年に徳川家光が但馬国の沢庵宗彭を招聘して創建した寺だぜ? 一休(明徳五(一三九四)年~文明一三(一四八一)年)だあ? 注する気、全く失せたわ!

「蜷川最勝寺」富山市蜷川にある曹洞宗瑞龍山最勝寺公式サイトを見ると、建久八(一一九七)年に二代目蜷川親綱が父宮道(蜷川)親直を弔うために一寺を建立したのが始まりであるとあり、『以後、蜷川氏代々の菩提寺としてはじめは臨済宗で』、『幕府の要職を歴任していた蜷川氏と』親交の深かった一休禅師も当時をよく訪れたと伝わるとある。以下の歴史はリンク先を読まれたい。

「江戶御旗本蜷川八右衞門」親直の後裔で江戸幕府奥御右筆頭として実在する。

「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)は武蔵守護代で扇谷上杉家家宰。江戸城を築城したことで知られる。ウィキの「太田道灌」によれば、文明五(一四七三)年、『山内家家宰・長尾景信が死去し』、『跡を子・長尾景春が継いだが、山内顕定は家宰職を景春ではなく景信の弟・長尾忠景に与えてしまい、これを景春は深く恨んだ』。文明八(一四七六)年二月、『駿河守護・今川義忠が遠江国で討ち死にし、家督をめぐって遺児の龍王丸』(後の駿河今川家第九代当主。北条早雲の甥、今川義元の父)『と従兄の小鹿範満が争い』、『内紛状態となった。小鹿範満は堀越公方の執事・犬懸上杉政憲の娘を母としており、道灌は小鹿範満を家督とするべく、犬懸政憲とともに兵を率いて駿河に入った』。『この今川氏の家督争いは、龍王丸の叔父の伊勢新九郎(後の北条早雲)が仲介に入って、小鹿範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすることで和談を成立させ、駐留していた道灌と犬懸政憲も撤兵した。『別本今川記』によると、この際に道灌と伊勢新九郎が会談して、伊勢新九郎の提示する調停案を道灌が了承したとある。従来、伊勢新九郎は道灌と同じ』永享四(一四三二)年『生まれとされ、主家に尽くした忠臣道灌と下克上の梟雄早雲とのタイプの異なる同年齢の名将が会談したエピソードとして有名であるが、近年の研究によって伊勢新九郎は素浪人ではなく』、『将軍直臣の名門伊勢氏の一族であり、年齢も』二十四『歳若い』康正二(一四五六)年生まれとするのが定説であるとする。さて、道灌は主君扇谷定正によって定正の糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市)に招かれた折り、暗殺されたが(『道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である』)、『雑説だが』、『江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている』とあり、『道灌暗殺により、道灌の子・資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになり、翌長享元年』(一四八七年)、『山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになった。やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭』し、『早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになり、上杉の家系は駆逐される』こととなり、道灌の死に際の予言は的中したのであった。無論、北条早雲は「太田道灌に奉公」などしていない

「最明寺時賴入道天下を修行して越中に來る時」「鉢の木」伝承で知られる北条時頼廻国伝説であるが、「吾妻鏡」を丁寧に読み解けば、狸爺時頼がそんなことをしている事実は微塵も見つからない。この徹底的な作話がお好きな向きには私の「北條九代記 卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵」を読まれたい。

「新川郡法相宗の寺に安養寺」富山市に安養寺という地名はあるが、寺はない。富山県富山市犬島(神通川河口右岸)に浄土真宗の安養寺はある(サイト「葬儀本.com」)が、以下の叙述から違う。「今の安養寺は地昔の所に非ず」というのは前者の地名を指しているか。後で本文でも既に「寺跡」としており、早くに廃寺となったようだ。まあ、トンデモ話だから、どうでもええわ!

「安養寺へ盜賊入りて、寺寶を多く奪ひ、最明寺殿の頭陀をも取去りし。此頭陀の中に鱗形(いろこがた)の系圖ありしが、不思議多かりし程に、盜人共驚き安養寺へ返し入れける」「いろこがた」の読みは国書刊行会本に拠った。「鱗形」は北条氏の家紋である「三つ鱗」の家紋。後北条も使用した(但し、早雲ではなく、二代目氏綱以降)。だらんま! 今度は「十訓抄」の「安養の尼の小袖」の変形譚け? もう、何でもありやがね! たまらんちゃ!(富山弁)

「去るに依りて後に北條早雲とは名乘りけると云ふ」本人は名乗ってないっつうの!

「是は里人の話の儘なれば、其眞僞を知らず」ハイハイ!!! 馬鹿でも判りますて!!!

「最明寺の宿りし安養寺の跡は、今田となりて、常願寺川の支流來(きた)る所なり」常願寺川はここ。支流と言われてもねえ……絶滅危惧種のカジカの棲息地だから知りたいけど……

「杜父魚(かじか)」読みは国書刊行会本の原本のカタカナ読みに従った。条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux。書きたいことはさわにあるが、「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の私の注を読んでいただければ、それでよい。

「必ず頭(かしら)に三つの鱗紋あり。其色黑うして兩眼の間に顯然と斑紋すわる」シミュラクラですね。

「懷孕(くわいよう)の人」妊婦。

『琉球の所謂「中山花敎」』「ちゆうざんくわきやう」と読んでおくが、不詳。琉球最初の正式な歴史書で、和文で書かれた「中山世鑑」(ちゅうざんせいかん)か、それに続く正史で、漢文で書かれた「中山世譜」(せいふ)のことか?]

2020/04/17

三州奇談卷之五 神通の巨川

 

    神通の巨川

 神通(じんつう)は舟橋川(ふなはしがは)にして、北陸第三の大川なり。急流驚濤、人をして見るに寒からしむ。一名は有磯川(ありそがは)。此水上は飛州に入りて、水源測るべからず。立山の劍峯(つるぎがみね)に對して流れ下る。此水源一之宮と云ふ所に至りて、水なき所二里ばかりあり。流れ地中を行くにや。上は石のみ多くありて川原(かはら)の如し。傳へ云ふ、昔眞人(しんじん)ありて山中に經を讀み、水聲喧(かまびす)しきを惡(にく)みて、龍王をめして水聲(みづおと)を止めしむる故、水音なうして地中を行く。是に依りて神通の名ありと云ふ。

[やぶちゃん注:「神通(じんつう)」「じんづう」でもよい。ウィキの「神通川」によれば、『岐阜県高山市の川上岳(かおれだけ)』(ここ。グーグル・マップ・データ)『に源を発し、飛騨高地の中を北に流れる。富山県境付近の神通峡あたりで高原川を合わせ、富山市笹津付近で富山平野に出る。平野部では直線的に北流し、富山湾に注ぐ』。『上・中流部は急流で、支流の高原川の水源地域が多雨地帯であるため、昔から水害の生じやすい川として知られている』とある。総延長百二十キロメートル。

「舟橋川」「舟橋」とは富山城の北西に当たる七間町と当時の神通川対岸の船頭町(現在の舟橋北町内)に架かっていた、六十四艘を流れに平行に横へ並べ、舟を連結してその上に板を置いて橋としていたものを指す。しかもこれは常設の橋である。詳しい経緯はウィキの「舟橋(富山市)」を読まれたいが、そこにあるポイントだけを抜き出すと、『橋は両岸に鎖杭という太さ4尺(約1.21m)、地上部分の長さ15尺(約4.55m)もある欅の柱をそれぞれ2本立て、太い鉄鎖(一つ長さ約25cm)を両岸より渡し、その鎖に長さ6間余(約10.91m)、幅62寸(約1.88m)、深さ175分(約53.0cm)の舟を64艘浮かべ繋ぐ。鎖は中央で鍵で繋ぎ』、『碇をつけて川底に固定した。舟の上には長さ52尺(約9.45m)、幅12寸以上(約36.4cm)、厚さ3寸(約9.1cm)の板を4列で32枚を掛け、大水のときには規定水位を超えると』、『鍵を外して橋を切り離し』、『流失を防いだ』。その間、『再び繋ぐまでは渡し船を出していた。なお後に、板は7列に、鎖は1649年(慶安2年)以降、雄雌2条の鎖に変更されている』とある。「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」の絶景をリンクさせておく。他にも、「富山市郷土博物館」公式サイト内の「博物館だより」のこちらと、こちらも豊富な画像を添えて詳しく書かれてある。それらを参考に探してみると、当時の神通川は現在の神通川河口付近の支流である松川の流域に大きく東に蛇行して富山城の北側直下に廻り込んでいたことが判り、その当時の右岸の、現在の(α)七間町の東の端の松川に架かる橋の南詰(舟橋南町交差点を南下して松川を渡ったところ(グーグル・マップ・データ。次も同じ)から、そこを(β)渡って右側を4ブロック行った「富山県森林水産会館」(富山県舟橋分庁舎)の手前の交差点までの、二百二十五メートル弱に架橋されていたことが判った。則ち、当時の(α)通川右岸の常夜灯(β)左岸の常夜灯が、当時、あったままのほぼ同じ位置に何れもちゃんと保存されているからである(それぞれグーグル・ストリート・ビューで確認した常夜灯の画像をリンクしてある)。上記「博物館だより」によれば、一艘の舟の長さは「六間余」(約11メートル)、幅は「六尺二寸」(約1.9メートル)、船自体の内形の(推定)深さは「一尺七寸五分」(約53センチメートル)で、鎖で船の先を繋げ(錘(おもり)の役目もしていたと考えられる)、板は船の上に横へ並べた(一枚の長さは「五間二尺」(約10メートル)、幅は「一尺二寸以上」(約36センチメートル)、厚さは「三寸」(約10センチメートル。枚数は初期は34枚で後に7枚まで増やされた)とある。なお、言うまでもないが、舟橋では舟は舳先を川上に向けて配置する。

「有磯川」現行では神通川にこの異名はない。一般には現在、私が住んだ富山県高岡市伏木地区より、北西の氷見に向かう海岸一帯を「有磯海」と称して歌枕とするので、ここに登場するには相応しくない。単に岩礁性海岸という意なら、文句はない。但し、後で「有裾川」の転訛とする本文が出る。しかし、これも後注で私が指摘するように神通川ではないので、当てにならぬ。

「飛州」飛驒国。

「劍峯」剱岳(つるぎだけ)。私は昔、夏に登攀したが、荒々しい山だが、好きである。

「一ノ之宮」神通川は上流の岐阜県内では支流である高原川との合流点より上流を宮川(みやがわ)と称する。分岐(もう一本は高原川)はここ。而して宮川を遡るならば、岐阜県高山市一之宮町で、この最南に位置する川上岳を公にも神通川の源流とするので正しい。

「水なき所二里ばかりあり。流れ地中を行くにや。上は石のみ多くありて川原(かはら)の如し」確認は出来ないが、あったとしても言う通り、時期によって伏流水となるのは全く不思議ではない。

「眞人」老荘思想や道教に於いて人間の理想像とされる存在をかく呼称するが、まあ、ここは単に仙人の意を強く含んだ道家的謂いである。「經」という語は必ずしも仏典とは限らないから問題ない。

「是に依りて神通の名ありと云ふ」ウィキの「神通川」によれば、『神通川という名前の由来については大まかに』二説あり、一つは『川を挟んで鵜坂神社(旧婦中町)の神と多久比禮志神社(塩宮、旧大沢野町)の神が交遊されていたので、「神が通られた川」という意味から神通川と呼ばれた』で、また、『太古の昔、神々が飛騨の船津(旧神岡町)から乗船し、越中の笹津(旧大沢野町)に着船されたことから神通川と呼ばれた』とあり、ここにあるような『神通力に由来するという説があるが、確実なものではない』とする。『一方、岐阜県内の「宮川」という名前はこの川の源流付近に飛騨国の一宮である水無神社があることに由来する』とある。]

 此岨(そば)の上に人を行き難き一鄕あり。有峰といふ。此村は加州松雲相公の世、初めて此里あることを知ると云ふ。其里人、さかやきを剃らず、總髮(そうがみ)にして男女共に總模樣の縫(ぬひ)の服を着す。此者市に出で、物を賣買(うりか)ふ。初めの程は、越中富山にては飛驒の者と稱し、飛驒高山にては越中の者と稱す。十村(とむら)何某、其人がらを怪しみ、折々に考へて、終に其人の跡を慕ひ入りて、此有峰の里あること見出し、今加州侯の御領となり、熊の皮を貢(みつぎ)とす。其俗今に此風あり。里中(さとなか)の古老皆云ふ、

「我は平家の支族の後なり」

と。實(げ)にも左あるべきこと多し。

[やぶちゃん注:「岨」「そば」。岩が重畳して険しいことを指す。但し、「そば」と濁音化したのは近世以降で、それ以前は「そは」。

「有峰」地名としては神通川の東方の峰を越えた常願寺川上流の、黒部ダム南の飛驒山脈の幾つかの主峰を含む一帯としてある(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在、人口六十四名、世帯数四十戸。

「加州松雲相公」加賀藩の第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。法名は松雲院殿徳翁一斎大居士であり、彼は参議であったが、「相公」(しょうこう)は参議の唐名である。

「さかやき」「月代」。江戸時代、男子が額から頭の中ほどにかけて頭髪を剃ったその髪型を指す。

「總髮」月代を剃らず、前髪を後ろに撫でつけて、髪を後ろで引き結ぶか、髷(まげ)を作った髪型を指す。室町時代までは男性の一般的な髪型で、江戸前期からは男性の神官・学者・医師の髪型として結われ始め、江戸後期には武士の間でも流行した。

「總模樣の縫の服」着物全体に模様が施されてあること。当時の男子の衣服としては珍しい。

「十村何某」「十村」は江戸時代から明治の廃藩置県まで富山藩の十村役(とむらやく)を務めた旧家を指す。十村役は、数十ヵ村の農政実務を担当する農民身分の最高職で、新田開発や災害への対処、地域の治安維持などに主導的役割を果たした。十村制は加賀藩第三代藩主前田利常が制定した農政制度で、地方の有力な農民を「十村」として懐柔し、謂わば、現場監督としての権限を与える一方、それを利用して農民を末端までを掌握し、農村全体を中間管理で監督させ、徴税を円滑に進めるための制度であった。これは富山藩・大聖寺藩にも適用されて、十村制はその業務範囲を広げ、農政の実務機関としての役割を極めて効率的に果たした。富山藩領では特に知られたのは竹島家であった(ここはウィキの「十村制」等に拠った)。]

 下つて麓の原を有原と云ふ。立山を開基せる佐伯有原右衞門と云ふは、此有原の人なればなり。

[やぶちゃん注:「有原」不詳。前の有峰を下ってということだと、位置的には立山登山のトバ口となる富山市原がそれらしくは見える。

「佐伯有原右衞門」飛鳥から奈良にかけての人物で「立山開山縁起」に登場する越中国司・佐伯(宿禰)有若の息子とされる佐伯有頼(さえきのありより 天武天皇五(六七六)年頃~天平宝字三(七五九)年?)という人物らしい。ウィキの「佐伯有頼」によれば、『霊示を受け、神仏習合の一大霊場である立山を開山したという。出家して慈興と号したと伝えられる』。『文武天皇の夢の中で「騒乱の越中国を佐伯宿禰(有若)に治めさせよ」との神のお告げがあ』り、その『越中国司に任ぜられた有若が加越国境の倶利伽羅山にさしかかったとき、一羽の美しい白鷹が舞い下り、有若はこれを国を治める象徴として善政を行った。有若にはなかなか子供ができず祈り続けていたところ、ようやく神のお告げの』通り、『男子が誕生したので、有頼と名付けた』。十六『歳になった有頼が父の大切な白鷹を無断で持ち出し狩をしに出かけたところ、白鷹は急に舞い上がり飛び去ってしまった。あちこち探し回り、道に迷いながらもさらに行くと、ようやく一本の大松に止まっている白鷹をみつけた。白鷹が有頼の手にとまろうとした一瞬』竹藪から『一頭の熊が現れた。鷹は驚いて再び大空に舞い上がってしまう。有頼が矢で熊を射ると、熊は血を流しながら逃げていった。血の跡を追って山に分け入ると、三人の老婆に出くわし、「白鷹は東峰の山上にいるが、川あり坂ありの至難の道であり、勇猛心と忍耐心が必要である。嫌なら早々に立ち去るがよい。」と諭された。それでも勇気をふりしぼって』、『さらに何日も進んでいくと、ようやくこの世のものとは思えない美しい山上の高原にたどり着いた。ふと見れば白鷹は天を翔け、熊は地を走り、ともにそろって岩屋へと入っていった。中に入ってみると、なんと』、『そこは光り輝き』、『極楽の雰囲気が漂っており、奥に不動明王と』、『矢を射立てられ』、『血を流している阿弥陀如来とが立ち並んでいた。有頼は驚き、己の罪の恐ろしさに嘆き悲しみ、腹をかき切ろうとしたところ、阿弥陀如来は、「乱れた世を救おうと、ずっと前からこの山で待っていた。お前の父をこの国の国司にしたのも、お前をこの世に生み出したのも、動物の姿となってお前をこの場所に導いたのも私である。切腹などせず、この山を開き、鎮護国家、衆生済度の霊山を築け」と告げた。立山の為に生涯を尽くすことを誓った有頼は』、『直ちに下山し』、『父にこの事を告げ、父とともに上京して朝廷に奏上した。文武天皇は深く感激し、勅命により立山を霊域とした。有頼は出家して名を慈興に改め、立山開山の為に尽力した』。『没後、雄山神社立山若宮に神として祀られる。古文書には立山町宮路に墓が記されたものもある』。『立山・剱岳方面の山小屋経営者や山岳ガイドには、有頼の末裔の家系伝承を持つ佐伯姓の人物が多い』ともある。]

 川の岸に至りては有裾(ありそ)と云ふ。故に有裾川なること故實なり。此川の流れ出づるは、岩瀨の海へ落つる故に、「有そ海」と云ふは此(この)略語なり。

[やぶちゃん注:「有裾(ありそ)」不詳。しかしこれ、先の「原」の上流、富山市粟巣野(あわすの)という地名と発音が似通っている(「ありすそ」≒「あはすの」)。だが、さっきから言っている通り、ここは常願寺川上流で、神通川ではないから、私がそう推理しても結果は無効なのである。

「岩瀨」神通川の話なら正しい。神通川河口の両岸の地名は現在も極めて広域で「岩瀬」の名を含む(グーグル・マップ・データのこの全面の各地名や施設名を見られたい)。

 此川の水怪、一二を以て語るべからず。

 此地鮎(あゆ)大(おほき)にして味又美なり。時として鵜の千羽狩(せんばがり)といふことあり。鵜夥しく川下より群(むらが)りて鮎を追ふ。鮎皆水を離れて川原へ跳(おど)り上り、里人只拾ふに、荷(にな)ひ餘りて捨ること多しと云ふ。

[やぶちゃん注:「鵜の千羽狩」不詳。私の父は鮎釣りのプロフェッショナルだが、聴いたことがない。なおこの記述からでは、本種が鳥綱カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus であるか、ウ属カワウ Phalacrocorax carbo であるかは識別出来ない。本邦で鵜飼に使用されるのは大型のウミウ(中国はカワウ)であるが、ここは鵜自身の自立的な摂餌行動だからである。但し、神通川河口付近の古地図の地形を見るに、砂浜海岸であるから、カワウである可能性が極めて高い。ウミウは断崖に営巣するからである。]

 舟橋の上に淵あり。淵の主は川鰈(かはがれひ)と云ひ、一たび此鰈表を飜(ひるがへ)せば、水中の白光天目に輝き、舟橋の上の人目眩(くらめ)き、水へ落ちて惡魚の爲に喰はる。此淵富山の城中本丸の下迄廻り入ると云ふ。

[やぶちゃん注:「川鰈」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科ヌマガレイ属ヌマガレイ Platichthys stellatus。主に東北・北海道の沿岸や汽水域に生息するが、時に河川の中流域まで遡上することから、「川鰈」の別名がある。ウィキの「ヌマガレイ」によれば、『体長は40cm。大きい物は90㎝になる。一般的にカレイ類は体の右側に眼をもつ右側眼であるが、本種は目の向きの奇形が多く、カリフォルニア沿岸で約50%、アラスカ沿岸で約70%、日本近海はほぼ100%が左に目があり、正常型のほうが少ないという状況になっている(視神経の走り方からするとヌマガレイも通常のカレイ同様に右に目があるのが正規である)』。『背びれ、しりびれ、尾びれには黒色の帯模様がある』。『湖沼や河川の中流域など汽水・淡水に生息する。河川の上流域などでも稀に見る事ができるが、一生淡水で過ごすわけではなく、一時的に淡水へ侵入する。産卵期になると海へ下る』産卵時期は二~三月とある。「富山県民生涯学習カレッジ」公式サイトの廣瀬誠氏の「川は暮らしを支える 越中の川と文化」の「川にまつわる伝承」に、『神通川舟橋の下に大カレイが生息していて、体をひるがえして日光を反射させ』、『目のくらんで川に落ちる人を食ったという。富山城主前田正甫』(まさとし:富山藩第二代藩主。初代藩主前田利次の次男。富山藩繁栄の名君とされ、地場産業である製薬業の興隆の祖ともされる。ここに出る武勇伝は以下、次の段の本文にも出る)『が短刀をくわえて川に躍りこみ妖怪を退治したともいう。黒部川愛本の渕の主もカレイで、愛本の茶店の娘は代々渕の主のカレイに嫁ぐしきたりであったと『稿本越の下草』(天明頃、1718頃)に記されている』とある。カレイの妖怪というのはなかなか珍しい。

「此淵富山の城中本丸の下迄廻り入ると云ふ」これは富山城本丸を囲む堀割のことを指していよう。次段参照。]

 曾て聞く。富山大内藏(おほくら)卿は剛力無双にして、水練を得給へり。苗加次郞左衞門と云(いふ)十村は、一日に六升の飯を喰ふ故に、此者を親しみ愛し給ひて、常に此川の水中に入りて、戶板を水底に突き立て、急流を遡ることをなして慰み給ふと云ふ。或日、大内藏卿、城中本丸の下ノ淵まで探し見給ふに、水怪皆逃れ散りて、只一つの米搗臼(こめつきうす)を殘すのみ。是又水妖なるものなり。

[やぶちゃん注:「富山大内藏卿」先の引用に私が注した前田正甫(慶安二(一六四九)年~宝永三(一七〇六)年)。彼の官位は従四位下・大蔵大輔(おおくらのたいふ)であった。

「水怪皆逃れ散りて、只一つの米搗臼(こめつきうす)を殘すのみ」怪異として丸投げ。或いは、水怪が引き込んだ人間をこの臼の下に挟み込んで食らったとか、臼で搗き殺して食ったとでも言うのであろうか。だったら、辺りに人骨累々とか添えればよいのにと思ったりした。]

 此川水滿ちし時は、富山城下多くは水中に居(きよ)す。旅籠町(はたごまち)の遊女舟に乘(じやう)じて江口の君の思ひをなすこと、年每に一兩度なり。此川の水先き支ふるにも非ず。川岸高からざるにも非ず。只他の川とは水勢の變る所あるが故なり。斯(かか)る時は船橋の舟を切つて流す。眞中の數艘に取り乘つて、兩方の鎖を切つて流す。真中の數艘に取り乘りて、兩方の鎖を切流す。さしも大鎖(おほぐさり)なれども、水勢に打たれて只一打(ひとうち)に切れ離る。此時は中なる舟、鎖を切る勢ひにて依りて、急流を押分けて水上(すいじやう)ヘ押上ること一町[やぶちゃん注:百九メートル。]許り、一廻りして後流れに下る。此舟の上る理(ことわり)は、平日陸にありて量るとは大いに變れり。此舟を見ざれば知るべからず。此水に逢はざれば計るべからず。是を以て思ふに、座談の理(ことわり)は理の理なるものには非ず。皆人多く死理(しり)を理とおもへり。故に事に臨んで違(たが)ふこと多しとは思はる。

[やぶちゃん注:「水中に居(きよ)す」浸水して水浸しの中で生活せねばならなかった。

「旅籠町」一般名詞で町名ではないようである。

「江口の君」元来は、平安末期から鎌倉時代にかけて、摂津国江口にいた遊女の総称。後、謡曲「江口」による特定の遊女、妙(たえ)を指す。さらに「撰集抄」などの西行絡みの江口の尼の話とも混同された。

「一兩度」一度か二度。

「水先き支(ささ)ふるにも非ず」この「支ふる」は「妨げる」の意。流れが何かに邪魔されて溢れてしまうわけでもない、の意。

「此時は中なる舟、鎖を切る勢ひにて依りて、急流を押分けて水上ヘ押上ること一町許り、一廻りして後流れに下る」その切り離しを行った人の乗った中央の舟は、洪水に押し上げられて、その大きな波の上で上百メートル余りも持ち上げられ、そこで三百六十度回転した後に、川面に下る、の謂いか? もんどりうって一回転の方がシチュエーションとしてはアクロバティクでスリリングだが、それでは載っている者が振り落とされてしまう。しかし、以下で麦水が、「この舟が上に押し上げられられる理屈は、平常時、陸にあって推測出来るような生半可なものではない。この舟の有様を見ないものには判らない。この恐るべき洪水に実際に遭ったことがある者でなくては到底、理解できないものである」と言っているから、ここで私が説明することも容易には出来ぬ恐るべき常識では想像出来ない現象なのだ、と言っている限りは、これまでにしておこう。]

2020/04/16

三州奇談卷之五 妬氣成ㇾ靈

 

    妬氣成ㇾ靈

 越中婦負(ねひ)郡吳服村【今は五福村と云へり。】吳羽(くれは)の宮は、神名婦倉媛命(あねくらひめのみこと)と云ひ、能登の國の能登彥神の婦なり。一日(いちじつ)婦倉媛、織をなすとて、此「くれは村」に飛び給ふ。能登彥の神、其隙を窺ひて、能登媛の神を迎へて後妻となす。婦倉媛怒りて、越中新川郡上野村に出で、能登彥の社地に向て石を投げ、終に

「石を投げ盡せり」

とて、上野村一鄕今に石なし。其神今は同郡の内(うち)舟藏村に鎭(ちん)し給ふ。織を業(なりはひ)となす者、皆此社に詣するに、祈るに時に必(かならず)驗(しる)しあり。「さいみ布」を切りて團子を包みて祭禮をなす。土俗「ひへこ祭」と云ふ。「あんねん坊」の下吳服村にも此祭あり。兩社式相似たりとぞ。此等は神の妬氣(とき)なるべし。吳服村は則ち富山神通川の邊り、「あんねん坊」の麓なり。

[やぶちゃん注:表題は「妬氣(とき)、靈(れい)と成る」。

「越中婦負郡吳服村【今は五福村と云へり。】吳羽(くれは)の宮」「吳服村」富山県富山市呉羽姫本に姉倉比売神社(呉羽)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。富山市五福はその南東直近の神通川左岸である(但し、ここにある旧「吳服村」はこれで「くらはむら」と読んだという資料もある)。ウィキの「姉倉比売神社」によれば、富山市内には同名の神社が二社あり、今一つは富山市(旧大沢野町)舟倉であるが、こちらが後の「其神今は同郡の内(うち)舟藏村に鎭(ちん)し給ふ」というのと一致する。孰れも姉倉比売神(あねくらひめのかみ)を祀る。『両社の社伝を総合すると、姉倉比売神は一帯の賊を征伐して、船倉山に居を構えて統治し、地元民に農耕、養蚕、機織などを広めた。「泉達録」では、姉倉比売神は能登の伊須流伎比古神』(いするぎひこがみ:伊須流岐比古神社(石川県鹿島郡中能登町にある)の祭神)『と夫婦であったが、伊須流伎比古神は仙木山の能登比咩神』(のとひめのかみ)『(能登比咩神社の祭神)と契りを交わしてしまった。怒った姉倉比売神は船倉山の石を投げつくして能登比咩神を攻撃し、姉倉比売神の妹の布倉比売神』(ぬのくらひめがみ)『もそれに加勢し、高志国』(こしのくに:「古事記」の標字。「日本書紀」は「越」。本来は現在の福井県から新潟県・山形県の辺りまで広がる広大な地域の通称であったが、後に富山の呼称となった)『は大乱となった。出雲の大己貴命』(おおなむちのみこと:大国主の別名)『が高御産巣日神』(たかみむすびのかみ)『の命によって高志国に赴き、集まった五柱の神々と共にその乱を鎮圧した。姉倉比売神は混乱を引き起こした罰として、領地を没収されて呉羽小竹』(姉倉比売神社(呉羽)直近の旧地名)『に流され、土地の女性たちに機織を教えるよう命じられたという。布倉比売神も同様の罰を負った。また、大己貴命達は残った二神を攻め上げ、最後は伊須流伎比古神と能登比咩神を浜辺で処罰した』とあり、旧郡名『「婦負郡」』(ねいぐん)『という地名は姉倉比売神にちなむものであり、「呉羽」の地名も機織に関係のあるものである』とする。【2020年7月4日追記】「呉羽観光協会」の「呉羽丘陵とその周辺 ぶらりみどころ」(PDF)の『「呉羽」の地名の起こり』によれば(段落を繋げた)、『江戸時代に書かれた『越中志徴』には、呉羽山の山名は機織業を伝えた渡来人クレハトリに由来すると書かれている。呉羽駅(旧 JR 北陸本線呉羽駅、平成27年3月14日より北陸新幹線 長野・金沢間の開業に伴い「あいの風とやま鉄道」へ移行)の南方に姉倉比賣神社が鎮座するが、祭神の姉倉比賣は機織の神でクレハトリ伝承とかかわりがあるとされている。『源平盛衰記』巻28に、寿永2年(1183)木曽義仲の武将今井兼平の軍勢が「御服山」に陣取ったとある。この場合、クレハトリに呉服の字があてられ、これが音読されてゴフクとなり、さらに御服、五福などの字が宛てられるようになったと考えられる。天明3年(1783)以前に書かれた堀麦水の『三州奇談』に「くれはの宮」と記されているのがクレハでの文献初出である』とあった。

「越中新川郡上野村」富山市上野。二社のほぼ中間点に当たる。

「上野村一鄕今に石なし」本当にそうかどうかは私の関知するところではない。

「さいみ布」「さよみぬの」の音変化。もとはシナノキ(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica。「科の木」「級の木」「榀の木」と表記する日本特産種。長野県の古名の信濃は、古くは「科野」と記したが、それはこのシナノキを多く産出したからだともされる)の皮を細く紡いで織った布を指し、古くは調として上納された。後に織り目の粗い麻布を指すようになり、夏衣や蚊帳などに用いた。

「ひへこ祭」不詳。国書刊行会本と「加越能三州奇談」では『ひへご祭』とする。両姉倉比売神社の公式サイトや記載を見ても、この名の祭りは記されていない。識者の御教授を乞う。

「あんねん坊」先に示した富山市五福の北西部は呉羽山丘陵で、そこを越えたところに呉羽の姉倉比売神社はあるが、よく見ると、五福地区から呉羽丘陵の東側一帯に「安養坊」(グーグル・マップ・データ航空写真)という地名が見出せる。]

 此邊りに、「ぶらり火」といふ燐火あり。此謂(いは)れを聞くに、是も妬氣の靈なりとかや。往昔佐々内藏助成政、此富山に守護たるの時、一人の愛妾あり、名を「さゆり」と云ふ[やぶちゃん注:国書刊行会本では「さゆり」を『さより』とし、ここに割注して『早百合(サユリ)成(なる)べし』とある。]。或年懷孕(くわいよう)す[やぶちゃん注:妊娠した。]。別妾の嫉妬より、

「小扈從(ここしやう)竹澤某と密通して產ましむる所なり」

と讒言する故に、内藏助成政大(おほい)に怒る。

 是又由緣あり。

 過ぎし年、佐々成政、織田信雄公に同意して、天下を謀らんと思ひ立ち、義氣盛んにして、北國雪風の烈しきを少しも恐れず、有合(ありあ)ふ所の近習五六十人を引いて、立山の傍を無理に押通り、道もなき山路を凌(しの)ぎて越ゆと云ふ[やぶちゃん注:国書刊行会本では『路もなき山路を凌(しの)ぎて駿河に至り、終(つひ)に志を物して帰る。世に是を「佐々がさらさら越」と云(いふ)。』とある。]。此時しも小扈從組の中(うち)竹澤某一人は

「病氣なり」

とて隨はず。故に詞には云ひ出さずといへども、佐々常に疑ふ。

 是に依りて此讒言を、

「大いに誠なり」

とし、其事實を匡(ただ)すにも至らず、竹澤某を庭前に呼出(よびい)だし、自ら佩(は)ける三尺二寸[やぶちゃん注:ほぼ九十七センチメートル。非常に長い。]の「靑江の刀」を取りて、一打(ひとうち)に切殺し、直(すぐ)に廣式(ひろしき)に駈け入り、「さゆり」が長(た)けなる髮を手に卷きて引さげ出で、此神通川の河側(かはぞひ)に駈け出で、「さゆり」が髮を逆手に取て、中(なか)に引さげ、さげ切りに切つて落し、川そばに柳の枝のたれ下(さが)りたりしに黑髮結びて首をくゝりさげ、其傍らに於て、「さゆり」が一類十八人を悉く獄門に爲す。一類皆無實の事を怒り、詈(ののし)りて死す。「さゆり」も又大に恨み、齒を嚙み碎きて終に死につく。

 是より成政が威風又振はず。總(すべ)て神通川を越え、アンネン坊を越ゆる軍(いくさ)には一度も利あることなし。末森の城責(しろぜめ)などは、佐々久しく練りたる謀(はかりごと)なれば、城の二つ三つはいかなりとも落すべきことなるに、何の仕出したることもなく、加州の先君利家公並に村井・奥村が鉾先(ほこさき)に追ひ崩され、すごすごと歸城す。

 是れ全く彼(かの)「さゆり」が一念障碍をなすが爲なりと云ふ。

 佐々なすこと皆時を得ず、終に家亡ぶ。

 佐々聚樂[やぶちゃん注:聚楽第。]にて黑百合が爲に讒(ざん)を請け、尼ヶ崎に死す。皆此靈なり。

 其後年久しうして、富山は加州侯の屬地となりて、猶「さゆり」が執念此川の邊(あた)りに殘る。

 時として天氣朦々(まうまう)たる[やぶちゃん注:霧・煙・埃などが立ちこめるさま。]の時は、此あたりに獄門の首多く並ぶを見ると云ふ。

 又暗夜に此地にて、

「さゆりさゆり」

と呼ぶ時は、必ず女の首顯(あらは)れ出づと云ふ。

 今は年久しうして、其事甚だ少なしといへども、「ぶらり火」に至りては今も夜々に出づ。其形(かた)ち女の首を髮を取りて引さげたる有樣に似たり。

 此川下を百塚と云ふ。上古墳墓の地なり。故に妖怪も又多かりしが、今は國君の菩提所となりて、千萬の石燈籠光り赫々(かくかく)として空・山に滿ち、朝暮讀經の聲絕えず、上求菩提(じやうぐぼだい)の道明らかなれば、妖怪の事は頓(と)みに去りて、淸淨の靈場と變じたりしとぞ。

[やぶちゃん注:『「ぶらり火」といふ燐火』ウィキの「ぶらり火」の「類話」パートは本話の伝承をメインにして記されてある。『ふらり火の類話として、富山県富山市磯部町の神通川流域の磯部堤で明治初期まで現れていた「ぶらり火」の伝説がある』。『天正年間』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年)、『富山城主の佐々成政に早百合という妾がいた。早百合は大変美しく、成政から寵愛をうけていたため、奥女中たちから疎まれていた。あるとき、奥女中たちは早百合が成政以外の男と密通していると讒言した。成政はこれを真に受け、愛憎のあまり早百合を殺し、磯部堤で木に吊り下げてバラバラに切り裂いた。さらには早百合の一族までも同罪として処刑されることになった。無実の罪で殺されることになった一族計』十八『人は、成政を呪いつつ死んでいった』。『以来、毎晩のようにこの地には「ぶらり火」または「早百合火」と呼ばれる怪火が現れ、「早百合、早百合」と声をかけると、女の生首が髪を振り乱しながら怨めしそうに現れたという』。『また佐々氏は後に豊臣秀吉に敗れるが、これも早百合の怨霊の仕業と伝えられている』とある。ここに出る富山市磯部町はここで、先の五福地区に近い(対岸の少し上流)。

「佐々内藏助成政」(さっさ くらのすけ なりまさ 天文五(一五三六)年(天文八(一五三九)年説もあり)~天正一六(一五八八)年)は安土桃山時代の武将。成宗(盛政)の第五子。通称は与左衛門・内蔵助・陸奥守。尾張国出身で織田信長に仕えた。信長が弟信行を攻めた「稲生合戦」や「桶狭間の戦い」・「美濃経略」などに於いて戦功を挙げ、永禄一〇(一五六七)年には黒母衣(くろほろ)衆筆頭となる(馬廻衆から選抜された信長直属の使番(親衛隊)で「黒母衣衆」と「赤母衣衆」があった)。天正元(一五七三)年には朝倉義景攻めの先陣を務め、同三年五月の「長篠の戦い」ではかの鉄砲隊を指揮した。同八月、越前一向一揆平定の功により、越前府中上二郡を与えられる。同八年、越中に入国して守山城に拠る。翌九年越中新川・礪波両郡三万石を与えられ、同十年には神保長住を追放して富山城に入り、越中一国を支配するに至った。その頃には越前の柴田勝家の与力であったため、「本能寺の変」後は反豊臣秀吉陣営に組したが、同十一年の「賤ケ岳の戦い」の後、秀吉に降伏し、秀吉よりやはり越中一国を安堵され、同十二月には従五位下陸奥守に叙任された。しかし、間もなく織田信雄・徳川家康に接近して、同十二年の「小牧・長久手の戦い」に際しては、秀吉との和議を不満とし、家康に会うため、ここに出る通り、富山から立山連峰「更更越(さらさらごえ)」で浜松に赴いた(但し、ウィキの「佐々成政」の注によれば、「更々越え」の『ルートを巡っては、上杉景勝の家臣から密かに助力を得て越後を通過したことを示唆する書状も存在』し、『た、当時の成政が若くても』四十九『歳ほどの年齢であったことや、文献、史料などから、実際には立山連峰を超えたのではなく、別の安全な道を通ったとする意見を唱える者もいる』とある)。しかしその後、同十三年八月に秀吉の征討を受け、降伏、再び臣従を誓った。同十四年、従四位下侍従に叙任。同十五年には秀吉の九州征討に従軍し、戦後に肥後一国を与えられ、宇土城、次いで隈本城に入ったが、国人一揆の蜂起により、失政の咎を受け、翌年、摂津尼崎で切腹した(ここまでの主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「佐々成政」の「黒百合伝説」には、彼には『「早百合(さゆり)」と言う美しい側室がいたとされる。成政はこの早百合を深く寵愛してはばからず、早百合は懐妊する。それが嫉妬を呼んだか、ある時』、『成政が城を留守にした時に、「早百合が密通している。お腹の中にいる子どもは成政様の子ではない」と言う噂が流れた。帰城した成政はこれを聞いて烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿いまで引きずり、髪を逆手に取り宙に引き上げ、殺してしまった。それだけでなく、早百合の一族』十八『人全ての首をはね、獄門に磔にしてしまう。早百合は死ぬとき、「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」(『絵本太閤記』)と叫んだ。また、早百合姫は「立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡する」と呪いの言葉を残して死んだとも言う(黒百合伝説)。佐々瑞雄(成政の甥である佐々直勝の子孫)によると、母に「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません」と言われていたという』。『早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといい、それを「ぶらり火」と言った。その他にも無念の死を遂げた早百合にまつわる話は数多く残されている。この話以外にも、数多の真偽不明な逸話が残されている。また、成政失脚の一端となったと言われる黒ユリ伝説がある。秀吉の正室・北ノ政所は珍花とされる黒ユリを成政から贈られ、披露のため茶会を開くと、淀君は大量の黒ユリを急遽取り寄せ、珍しくもなんともないと言わ言わんばかりに飾ってみせ、北ノ政所は恥をかかされたと成政を憎んだという(司馬遼太郎は時代的に見て淀君の下りはのちに付け足されたものだろうとしている)』とある。同ウィキの『佐々成政の愛妾・早百合姫がその下で斬られたと伝わる「磯部の一本榎」跡(富山県富山市磯部町)』というキャプションの写真をリンクさせておく。

「靑江の刀」「靑江」は備中国青江(現在の岡山県倉敷市)の日本刀刀工一派。平安末期に始まり、鎌倉・南北朝時代に栄えたが、室町時代には衰退した。

「廣式」武家の奥向きの称。

「長(た)けなる」長い。

「黑髮結びて首をくゝりさげ」の時点で小百合の首は斬られている。されば、直後の『「さゆり」も又大に恨み、齒を嚙み碎きて終に死につく』というのは、斬った生首がそうしたということになる。事実としての不審よりも遙かに怪談として慄然としていい。

「末森の城責」天正一二(一五八四)年の夏頃に佐々が秀吉を裏切り、徳川家康・織田信雄方に組して、秀吉方に立った利家の末森城を攻撃した「末森城の戦い」。ウィキの「末森城の戦い」によれば、天正十二年九月九日(一五八四年十月十二日)に発生した、能登国末森城(現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ほうだつしみずちょう))で行われた攻城戦。同年、『羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が小牧長久手の地で対峙した。それに呼応し、織田・徳川連合軍に味方した越中国の佐々成政は』、八月二十八日に『羽柴方の前田利家の朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)を急襲』したが、『前田家家臣の』村井長頼が『これを撃退する』。九月九日、『成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断をはかるべく、宝達山を越えて坪山砦に布陣し、総勢』一万五千(或いは一万二千)の兵で『末森城を包囲』し、『利家の増援軍を警戒し、神保氏張を北川尻に置いて警戒にあたらせた』。九月十日、『戦闘が始まると城将』奥村永福(ながとみ)や『千秋範昌らの』千五百名の兵が籠城戦を展開した。当初、『戦況は佐々軍が有利であり、前田方の城代土肥次茂(土肥親真の弟)が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれ』た。『金沢城にて急報を聞いた前田利家は兵』二千五百を『率いて出陣。高松村(かほく市)の農民桜井三郎左衛門の案内により、佐々軍の手薄な海岸路に沿いながら北川尻を越えて今浜まで進軍』、翌十一日の『明け方には末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃し、これを破った。両軍ともに』七百五十『人余りの死者が出たとされる』。『佐々成政は越中国に向けて退却するが、途中で無人であった鳥越城(石川県河北郡津幡町七黒)を占領し』たものの、『以降、成政は守備を固めて守勢に転じた。前田利家は領国の防衛に成功し』、「小牧・長久手の戦い」で『政治的勝利を収めた羽柴秀吉と協力し』、『攻勢を強めていく』ことになる。

「村井・奥村」前注の太字傍線参照。

「百塚」富山市百塚。縄文後期後半から晩期に栄えた集落で、発掘調査では縄文晩期(約二千七百年前)の遺構(土坑)が五基、弥生から古墳時代の墳墓を二十五基検出している。サイト「富山市の遺跡を訪ねてみませんか?」の「百塚遺跡」に拠った。実は、姉倉比売神社(呉羽)自体が古墳の上に建てられてあるのである。

「今は國君の菩提所」百塚の南西直近に曹洞宗長岡山御廟真国寺があり、この寺は延宝三(一六七五)年、富山藩主前田公の廟所である長岡御廟の「守り役」として建立されたものである。「真国寺」公式サイトの「長岡御廟」によれば、この御廟はその前年延宝二で、『反魂丹(はんごんたん)で有名な越中売薬の始祖、富山藩二代藩主前田正甫(まさとし)が父の初代藩主利次の霊をここに弔ったのが始まり』であったとして、以下、その詳しい経緯が記されてあり『富山藩は』『後、明治維新まで十三代二百二十一年間にわたって続いたが、廟所には初代利次公の墓を囲むようにして、正甫、利興、利隆、利幸、利與、利久、利謙、利幹、利保、利友、利聲、の十二人の藩主、それに子供や側室方ら一族の墓がつぎつぎつくられた。藩主の埋葬のつど、家老をはじめ藩の重役たちが、墓のまわりに』燈籠『を奉納』、『その数、実に五百三十七』基とある。

「上求菩提」菩薩が自身の完全な仏の境界を求めること。反対語は「下化衆生」(げけしゅじょう)で、生を受けたもの総てを教化(きょうげ)し、救済すること。菩薩が利他の行として行なうもので「下化冥暗」(げけめいあん)とも呼ぶ。

 なお、この話、本「三州奇談」続編の中の「龜祭の紀譚」と「靈社の御蟹」をカップリングしたものをアレンジした田中貢太郎の怪談小説「放生津物語」(「日本怪談全集」(昭和九(一九三四)年改造社刊)の第四巻所収)の冒頭に枕として使われている。私は一九九五年国書刊行会刊「日本怪談大全」第五巻(新字新仮名)で読んだが、幸い、「青空文庫」のこちらで電子化されている(底本は異なるが、親本は同一)ので是非、読まれたい。]

2020/04/15

三州奇談卷之五 井波松風

 

     井波松風

 越中井波の地は、加越の上流、里俗「川上」といふ。飛驒の境五箇(ごか)に接して水潔(きよ)く土淸(きよ)し。境内には高瀨の神社、八乙女山(やをとめやま)。庭鳥塚(にはとりづか)には元日に八聲(やごゑ)を告(つぐ)ると云ひ、「馬見井(むまみのゐ)」に井筒の胴に「臼浪水(きうらうすい)」の文字あり。元來此所「ムマミ」なるよし、今轉じて井波と云ふ。是より庄川に出(いづ)る間を「ぽんぽん野」と云ふ。蹈むに必ず皷(つづみ)の如き音あり。庄川は北陸第四の大川、水上(みなかみ)凡(およそ)四十里急流を下る。此所の境を靑島といふ。深峽の中を出で、初めて田野(でんや)に流れ、谷の氣此所に開く故、風の荒きこと他宿に十倍す。「井波の私風(わたくしかぜ)」と云ふは東南の暴風なり。時に非ずして起る故に、人家皆柱を堅くし、梁(うつばり)を太くす。屋の上には大なる石を置き、破風口(はふぐち)には皆網を懸けて巨木をまろばし橫たへ下(おろ)す。藁葺の家居(いへゐ)などは、猶更に用意逞しくして、見るもいぶせきに至る。只是れ人家のみにも非ず、天然の氣しかるにや、此地の草木も皆用意して生ず。必ず西北に枝をふり、根指し・樹莖甚だ逞まし。其上の半腹に「風穴(かざあな)」と云ふあり。大風は必ず此穴より出づると云ふ。試に石を落すに、忽ち吹返す。然共、是を考ふるに、此穴のみにも限らず、都(すべ)て岩の間・樹木の下、皆風を出ださゞるはなし。八乙女山は庄川を隔てゝ屛風の如し。故に土氣(どき)ぬけ、石只すはりて粕(かす)の如し。是れ爰にては、庄川の水氣(すゐき)ぬけ出(いづ)る所なるにや。「私風」の發する事、其謂れあり。されば夏のみにもあらざるにや、雨も又怪ありき。

[やぶちゃん注:「越中井波」現在の富山県南砺(なんと)市井波(グーグル・マップ・データ)附近の。

「五箇」富山県の南西端にある南砺市の旧平村・旧上平村・旧利賀村を合わせた地域を現在、「五箇山(ごかやま)」と呼んでいる。リンクは「歴史的行政区域データセット」のそれぞれの旧砺波郡内の村域で示した。全体としてはこの中央の南北に長い一帯(グーグル・マップ・データ)と考えて戴ければよろしい。隠田集落村で平家の落武者伝説がある。

「水潔(きよ)く土淸(きよ)し」「近世奇談全集」は前を『(いさぎよ)く』と訓じているが、私は採らない。寧ろ、漢字を変えてそれぞれの対象の質の違いを現わした以上、訓で変えるのは逆に対句にリズムを壊すと考えるからである。俳人である麦水は私の意見に肯じて呉れると思う。

「高瀨の神社」富山県南砺市高瀬にある高瀬神社(グーグル・マップ・データ)。越中国一宮。但し、越中国一宮を名乗る神社は他に気多神社(私の住んだ高岡市伏木にある)・射水神社(高岡市古城公園内にある)・雄山神社(立山を神体とする)がある。戦国時代には戦乱で荒廃したが、江戸時代になって加賀藩主前田氏の崇敬を受け、手厚く保護された。祭神は大己貴命(大国主命)。

「八乙女山」南砺市大谷にある八乙女山(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高七百五十六メートル。山頂近く(南へ約五百メートル入ったところ)に、大に風神堂(不吹(ふかん)堂)があり、その下に「風穴(かざあな)」があって(次の引用や後の注も必ず参照されたい)、里人はここからこの土地特有の「井波の私風」が噴き出ると信じていたのであった。毎年六月に、風を鎮め、豊作を祈願する「八乙女山風神堂祭典」が行われる。

「庭鳥塚」八乙女山山頂から直線で約六百六十二メートル南の尾根の途中に八乙女山鶏塚として現存する(グーグル・マップ・データ地形図)。二つの塚から成っているらしいが、画像が見当たらない(複数の登攀記録を見たが、どうも雑草が伸び放題で塚が孰れも隠れてしまって見えないらしい)。その南砺市教育委員会の「八乙女山鶏塚(やおとめとりづか)と風穴(かざあな)」という解説版をグーグル・マップ・データのサイド・パネルの写真から起こす。

   *

 井波地区は風が強く、人々は風穴から大風が吹き出すものと信じ、風神堂(不吹堂(ふかんどう))を建てて風神を祀ってきました。

 奈良時代に越前の僧、泰澄大師が八乙女山山麓に止観寺を建立した時、大風に悩む人々のために、風神堂を建てて風神を鎮めました。しかし数百年後、福光城主の石黒氏が試しに祠のしめ縄を切ったところ、たちまち大風が吹き始め、それ以来、毎年暴風が吹いて人々を苦しめました。瑞泉寺を開いた綽如上人は、人々の懇願によりお堂を再建してお経を納め、風の神を鎮めました。しかし上人の死後、落雷でお堂が消失したので再び暴風が吹くようになったと言います。

 風穴の近くに、円形の塚があります。この塚は元旦の朝に鶏[やぶちゃん注:「にわとり」。]の鳴き声がすることから、鶏塚と呼ばれるようになったと伝えています。芭蕉の弟子でもあった瑞泉寺11代目住職の浪化上人は『鶏塚の記』に、八乙女山に登り、風穴と鶏塚を訪れ、俳句を詠んだことを記しています。

 「鶏塚に 耳あててきく いとどかな」 浪化

   *

最後の句は表示板では『いとど(コオロギ)』となっているが、あまりに無粋(教育委員会の仕儀とも思われない)なので、丸括弧のそれを除去した。ここに出る綽如(しゃくにょ)は、南北朝時代の浄土真宗の僧で浄土真宗本願寺派第五世宗主・真宗大谷派第五代門首である。また、サイト「南砺市郷土Wiki」の院瀬見(井波)の前川正夫氏の「八乙女山の風穴と鶏塚」PDF)が読めるので、それも参照されたいが、それによると、泰澄がここへ来たのは養老元(七一七)年とあるが、南砺市志観寺(グーグル・マップ・データ航空写真)という地名は山麓にあるものの、今は寺(「止」と「志」の異同がある)はない。また、並んである鶏塚の大きさが書かれてあり、高さは二十七・二七メートル、周囲二十三・六三メートルの『島形の土盛り』とあり、これは相当でかい。前川氏は『逸話』として『大晦日になると鶏の鳴き声を聞こうと里人が大勢登ったという。この鶏塚に』は『黄金の雄鶏と雌鶏が埋められていて、やがて十二時』(午前零時)『を告げる麓の寺の鐘が鳴ると、鶏塚の何処からともなく「コケコッコー」と三声きこえてきた』ものであったと言い、人々は『これで今年も家内安全、お金がまた』、『たまると喜んで帰路に着いたといわれている』とあった。

「八聲」「八聲(やごゑ)の鳥(とり)」のこと。「八」は単に「多い」ことで、これで既に夜の明け方にしばしば何度も鳴く鶏(にわとり)のことを指す。

『「馬見井(むまみのゐ)」に井筒の胴に「臼浪水」の文字あり。元來此所「ムマミ」なるよし、今轉じて井波と云ふ』南砺市松島にある井波八幡宮(グーグル・マップ・データ)。瑞泉寺の東隣り。ご夫妻のサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「井波八幡宮」によれば、『この神社は井波城本丸跡に鎮座しています。井波城は「礪波城」「瑞泉寺城」ともいい、八乙女山の裾(標高143m)に築かれた平山城です。普通のお城と異なるのは、ここが越中一向一揆の総本山・瑞泉寺が築いた一向一揆宗徒の拠点となった城郭伽藍だったという点です』。『瑞泉寺3代蓮乗(本願寺8世蓮如の次男)の時代は、土豪や武士団との抗争が激しく、文明16年(1484)頃、本願寺は護法のため瑞泉寺の旧地に塁濠を築き、越中一向一揆の拠点とする城廊を構え井波城と称しました。天正9年(1581)、瑞泉寺7代顕秀のときに富山城主・佐々成政と戦い、堂舎・町屋ことごとく兵火に罹り落城しました。佐々成政は、井波城を大改修して家臣・前野小兵衛勝長を守将としましたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による越中・佐々征伐のとき、金沢城主・前田利家に攻められ』、『落城しました。井波城は前田氏の持城となり、やがて廃城となりました』。『現在、再建された瑞泉寺の東側にある井波八幡宮が本丸跡、その東側庭園のある臼浪水があり、更にその東側の招魂社の社殿が建つ古城公園が二の丸跡で』あるとあって、下方に写真とともに、「臼浪水」(きゅうろうすい)について、『臼浪水は、明徳元年(1390)そのころ杉谷の山里に住んでいた綽如上人が、京都へ向かう途中、乗っていた馬が足で地面をかいたところ、そこから清水が湧きでた跡と伝えられています。綽如上人は、この不思議さに感激し』、『この場所にお寺を建てました。後の瑞泉寺です。臼浪水は「馬見井」ともいわれています』とある。そこにある説明板を電子化しておく(ルビは一部を除いて省略した)。

   *

 この臼浪水は、瑞泉寺発祥の機縁となった霊水で、 本願寺五世綽如上人の勧進状に「此地に霊水あり、故に瑞泉寺と称す」とある。

 南北朝の頃、越中に真宗の拠点を求めて、この地を訪れていた綽如(しゃくにょ)上人に朝廷から上洛の要請があった。その上洛の途中、乗っていた馬の蹄先(ひづめさき)から清水がわき出した。これを寺院建立の趣意とした上人は、勧進状をしたため、人々の寄進で、この地に瑞泉寺を建立されたという。

 一向一揆の頃には、寺域一帯に土塁が築かれて要害の地となった。天保年間には、小庵と庭園が整えられた。

 ゆかりの臼浪水と、周辺の四季を通じての風情を尋ねて、多くの文人墨客が足跡を残した。安永の頃に訪れた伊勢の俳人三浦樗良(みうらちちょら)もその一人である。

  世に古りし すすきが中の 泉かな 樗良

   *

現在、井戸はあるが、井筒はない。

『是より庄川に出(いづ)る間を「ぽんぽん野」と云ふ。蹈むに必ず皷(つづみ)の如き音あり』井波八幡宮から庄川に出るには、砺波市庄川町(しょうがわまち)金屋(かなや)を通る(グーグル・マップ・データ)。サイト「砺波正倉」(となみしょうそう)のブログ「正倉日記」の「ぶらり庄川散歩シリーズ1」に、「ポンポン野」とあり、『庄川町から井波町へ続く道沿いに水田が広がっているところを「ポンポン野」といいます。瓜裂清水の眼下に広がる水田地帯のことです。なんとも可愛い響きの地名ですね』。『ポンポン野という地名は珍しいですし、その由来が知りたくなったので榎木淳一著『村々のおこりと地名』を紐解きました』。『ポンポン野は「鼓野」とも書くそうです』。『由来については「宝暦14年(1764)の『調書』に、「ぽんぽん野、金屋岩黒村領なり。何故に呼候や知れ申さず。」とあ』るされ、以下、「三州奇談」の本篇のこの部分を引かれておられる。『また、『東山見村史料』には「このところを一つに鼓野ともいわれ、もと川原であった。石などを落すと、ポンポンと鼓のような音を出すので、俗にポンポン野と呼ばれたものである。」と、かなり断定的に書かれています』。『はたして今、石を落してポンポンと鳴るでしょうか』? と擱筆されておられる。また、驚くべきことに、ごく最近まで正式な字名として生きていたことが判った! 平成 二五(二〇一三)年一月二十二日号外の『富山県報』PDF)の「都市計画の変更案の縦覧」の「2 都市計画を変更する土地の区域」の「変更する部分」に、『庄川町示野字ポンポン野』とあるのである。加賀藩治要資料にも、ここのことが『金屋岩黒村「ほんほん野」』と記されてあることが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらで判った。そうしてこれは私は「以前にTVで見た四国の太鼓坂と同じような現象ではないか?」と思ったのである。太鼓坂は四国の遍路道の一つで、かなり知られたもので、「阿波市観光協会」公式サイトの「太鼓坂」に、『地面をたたきつけるように踏むと「ドンドン」という太鼓をたたくような音がする太鼓坂。降り積もった火山灰と粘土層の間に水の通るすき間(空洞)があり、振動によって音がします』とあり、『【太鼓坂をうまく鳴らすコツ!】』として、『なるべく落ち葉がない場所を選ぶ』こと、『スニーカーなどの運動靴をはく』こと、『そして何より大事なのが』、『太鼓坂と共鳴すること』とある(地図もあり)。画像選択で地質学的な説明板も読めるので参照されたい。

「水上凡四十里」百五十七キロメートル。現在の庄川の延長距離は百十五キロメートル。

「靑島」富山県砺波市庄川町青島(グーグル・マップ・データ航空写真)。先の金屋の北西隣りで、まさに庄川が砺波平野にかかるトバ口に当たる。

「井波の私風(わたくしかぜ)」「わたしかぜ」でもよい。「井波風」「八乙女颪(おろし)」とも称されるという。二〇〇〇年一月発行の『歴史地理学』に載った大浦瑞代氏の論文「富山県南砺地域の不吹堂(ふかんどう)祭祀にみる局地風の認知」PDF)が素晴らしい。本篇も資料の一つとして紹介されてある。それによれば、「井波風」は局地性を持ったこの土地特有のものであること、それが「私風」という呼称に表わされてあるということが判り(コンマを読点に代えた)、「井波町史」では、『井波町を中心に八乙女山地の山麓沿い約6km・幅約3kmの範囲で特に「井波風」が強いとしており、駒澤大学による聞き取り調査』『でも、ほぼ同様の結果が示されている。「井波風」は「八乙女颪」とも称される。これは、井波町の住民が、町の南にそびえる八乙女山の方向から風が吹き下ろすと共通に認知したことにより付けられたものであろう』とあり、『「井波風」発生のメカニズムは、現在でこそ』地形や気象現象としての局地風発生として『明らかだが、かつては八乙女山山頂近くにある風穴から吹き出すとされていた』。『元禄期(1688~1704)に記されたという』「鶏塚の記」には『「八乙女山にのほりかつ風穴にいたる」とあり、この時期には既に風穴の存在が知られていたことがわかる』とあって、以下、「不吹堂(ふかんどう)」の祭祀が実に広範囲に行われていたことが立証されてゆくのである。

「破風口(はふぐち)には皆網を懸けて巨木をまろばし橫たへ下(おろ)す」ここは破風口(「梁(うつばり)」=棟木を風雨から守り、柱が露出して見えるのを隠すために普通はここに破風板という板をつけるが、その最も風雨の要めとなる部分に防護用の大きな網を掛け、それをずっと下まで垂らして、それがまた煽られてしまわないようにするため、下の地面に巨木を転がしてきて横たえ、それに網の下方の端を乗せて結わえて頑丈に固定することを言っているのであろう。

「根指し」根の生え方。

「土氣」「水氣」これは五行のそれを言っているように初めは思ったが、五行相克では「土剋水(どこくすい)」だから、合わない。ここは文字通り、庄川の「水(みず)」の気が、一気に狭い谷から、平地へと力強く噴き出すところであるが故に、「土」石が摩耗し、石は糟のようにつるつるにされ、粉にされてしまうのだと言っているように読める。]

 寶曆甲子の年七月下の七日[やぶちゃん注:七月二十七日。]、此地忽ち大雨ありて、盆を傾くる類ひには非ず、空に鳴戶(なると)の波を下(くだ)すが如し。其强き事譬ふるに物なし。板屋も薄き所は打破り、傘笠の類(たぐひ)只一打に破らる。此日は外々(ほかほか)は殊に晴天にして、空瑠璃の如し。井波のみ大雨なり。又大水出づ。此事近村へ告ぐるといへども、只(ただ)誠(まこと)とする所なし。福野・中田の邊(あたり)より是を望み見れば、此(この)八乙女山眞白にして、卯の花の暮、雪後のあしたの如く、此中に行通(ゆきかよ)ふ人音(ひとおと)・風聲、只「吳門(ごもん)の匹練(ひつれん)」とも云ひつべし。井波には俄に大水出で奔流となり、家は多く流れ、藏廩(ざうりん)はあばけ倒れ、溺沒する人數を知らず。然れども、數町流れ出づれば、靑天の所へ出で、田の疇(うね)・道の土手に流留(ながれとど)まり、皆々陸地に立つて、死に至る人は一人(いちにん)もなし。兒女は只黃泉(くわうせん)の思ひをなすが故に、近鄕の水難を訪(おとな)ふ人一笑せずといふ事なし。是等は谷氣(こくき)の含む所にや、其變(そのへん)計るべからざるもの多し。

[やぶちゃん注:「寶曆甲子のとし」おかしい。宝暦年間に甲子(きのえね)の年はない。宝暦四年甲戌(きのといぬ)(一七五四年)か、宝暦六年丙子(ひのえね)(一七五六年)か、或いは最後の宝暦十四年甲申(きのとさる)(一七六四年)か。但し、最後のそれは限りなくあり得ないと私は思う。何故なら、宝暦十四年六月二日(グレゴリオ暦一七六四年六月三十日)に――則ちこの日付以前に――既に明和に改元されてしまっているからである。孰れにせよ、干支を誤るのは致命的で、信憑性を台無しにし、実録怪談を成す筆者麦水としては、至って痛い誤謬である。

「福野」南砺市福野(グーグル・マップ・データ)。

「中田」高岡市中田か(同前)。八乙女山からは北北東に十五キロメートルほど離れるが、地図上を見ると、庄川沿いに遠望することは可能と思われる。

「行通ふ人音」四方八方へ逃げ惑う人々の立てる音。

「あした」翌朝。

「吳門の匹練」「匹練」は「一疋(布の二反分の長さ)の練(ね)り絹」というところまでは判ったが、不学にして全体が判らず、あれこれ検索して、やっとそれらしい意味を迂遠に見出した。まずは「國譯漢文大成 續 文學部第六册」(国民文庫刊行会編・昭和三年~同六年(一九二八年~一九三一年)刊・国立国会図書館デジタルコレクション)の「李太白集」の五言古詩「贈武十七諤幷序」(武十七諤(がく)に贈る 幷びに 序)の最初の二句を見て貰おう(久保天随氏の訳解)。

 馬如一匹練

 明日過吳門

  馬は一匹練(いつひつれん)のごとく

  明日は吳門を過ぐ

次のページをめくると、語釈と訳が出るが、『君の乘れる馬は、一匹の練絹(ねりぎぬ)の如く、その馳せて行く樣は、目に留まらぬ位で、明日は、吳門の地を過ぎ、次第に、北に向かって行く。』と訳されてあり、子を救って連れて帰ってほしい李白の意を汲んだ武諤が意気に感じていっさんに北に向けて馬を走らせることへの、恐るべきスピード感(想像であるが)をこの二句は現わしていることが判る。而して語釈では「馬如一匹練」に注して、『藝文類聚に「韓詩外傳に曰く顏囘、吳門を望み、一匹練を見る。孔子曰く、馬なりと。然らば、馬の光景は一匹の長さのみ、故に後人馬を呼んで一匹となす」とある』ことから完全に氷解した。――駿馬の走るのは恰も一条に延びた練り絹のように見せるほどの速さだ――というのである。されば、ここは、人々の騒ぎ立てる音声や風の音は、驚くべき旋風の中、稲光りのように奔(はし)ってはあっという間に消えてゆくというのであろう。

「藏廩」土蔵や米蔵(こめぐら)。

「あばけ倒れ」手のつけようがないほどに潰れたり、倒れたりし。

「數町」一町は百九メートルだから、六掛けで六百五十五メートル前後。

「黃泉の思ひ」あの世に行って帰ってきたような思いの意か。

「訪ふ人」井波地区外の近隣の者で見舞いに来た人々。

「谷氣」ここは谷間の潜む妖しい気、或いは魑魅(すだま)の類い。]

 金谷村より庄川に遡り行けば、マキと云ふ所に出づ。怪巖流れに橫はりて、水勢「巴(は)」の字をなす。是より上にも小マキと云ふあり。皆飛州[やぶちゃん注:飛驒國。]より伐下(きりおろ)す杉・檜の類(たぐひ)を爰にて留(とど)め、是より數(かず)を改め、筏(いかだ)に作りて、川口・六渡寺(ろくとじ)と云ふ迄九里の道を下す。猶此上には仙納原(せんなふはら)といふ「はね橋」あり。此上の山は則ち城端(じやうはな)の里に對し、赤治山と云ふ。此谷樹葉を結はへて打ちこめば、久しからずして石と變ず。

「是れ妙なり」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「金谷村」既出の砺波市庄川町金屋(かなや)

「マキ」『怪巖流れに橫はりて、水勢「巴(は)」の字をなす』「是より上にも小マキと云ふあり」現在の庄川町小牧地区内である(国土地理院図)。地形が叙述とよく一致する。

「川口」庄川右岸の射水市川口(グーグル・マップ・データ)であろう。

「六渡寺」射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称。現地の駅名標などでは「ろくどうじ」(現代仮名遣)が正しい。庄川河口である。昨年の春、私はここを訪れている。

「九里」庄川河口までは現在の庄川町小牧からは三十キロメートル以上は確かにある。

「仙納原といふはね橋あり」後身のそれが、利賀大橋(仙納原大橋)跡(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。「Stanford Digital Repository」の「八尾」の左下方に「仙納原」の地名が見える。現況写真や実地探査は個人サイト「山さ行かねが」のこちらがよい。往時の所謂「猿橋」型の古い画像は前に出した「砺波正倉」のこれがよい。なお、ここで言っている「刎橋」とは、両岸の岩盤に穴を開け、刎ね木を斜めに差込んで、中空に突き出させ、さらにその上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も繰り返し重ねて、中空に向けて遠くへ刎ね出し行って、足場に双方から連結した上部構造を組み上げた上で橋板を敷き、橋を冠せさせる、橋脚を立てずに架橋した橋を指す。ゴッホの刎ね橋とは違うのでご注意あれ。

「城端」南砺市城端(グーグル・マップ・データ)。

「赤治山」不詳。国書刊行会本では『赤渋山』。こちらの城端の「句碑巡り」PDF)に「城端十景」として「山」ではないが、「赤渋柴石(あかしぶしばいし)」が名数として挙げられおり、東西原赤祖父社(ひがしにしはらあかそぶしゃ)にそれがあるとある(グーグル・マップ・データ)。サイト「とやまの文化遺産」に「赤祖父石灰華生成地」があり、『東西原集落を流れる赤祖父川の上流に湧き出ている炭酸水のところにある。この水は、口に含むとすっぱく、湧き出ているところには灰白色または赤褐色の石灰華が沈んでいる。これは、白山火山に関係あると思われる炭酸ガスを含んだ地下水が、地中で石灰岩に出合って、少しずつ石灰を溶かし、やがて地表に湧き出ると、溶けていた炭酸ガスが逃げ出すために、溶けていた炭酸石灰が川底に沈んだものである。また、これが川に落ち、闊葉樹の葉やコケなどについて、その型を印したものは「木の葉石」と呼んでいる。近くには、この他に小さな洞窟や炭酸ガスが音をたてて、さかんに噴き出しているところもある。このような石灰華をつくる一連の現象を、貴重な資料として指定されたものである』とあった。これで奇怪な叙述である『此谷樹葉を結はへて打ちこめば、久しからずして石と變ず』という現象も科学的に理解出来た。さすれば、これは赤祖父山(グーグル・マップ・データ航空写真)の異名かも知れない。国書刊行会本の「赤渋山」を「あかしぶやま」と読むと、「あかそぶやま」と発音が酷似するからである。]

 山畔に繩池(なはがいけ)と云ふあり。指渡(さしわた)し二里許り。山は斜(ななめ)に登り坂なるに、此池二里が間、何れにても水は必ず岸をひたす。此(この)理(ことわり)解すべからず。人は云ふ、

「此地は俵藤太秀鄕近江より隨ひ來(きた)れる龍女を、此地に繩を圓(まる)く張り、其中に置かれしに、陷(おちい)りて池と成り、今猶龍女住みて、水渴することなし」

と云ふ。若(も)し鐵器の類(たぐひ)を池に投入るれば、忽ち國中黑闇(こくあん)となり、大風(たいふう)雨十餘日を經て止まず、田作・畑作微塵となる故に、里人大(おほい)に禁じて、猥(みだり)に池の邊(ほとり)へ人を入れず。强慾の商人は、米穀(べいこく)買置(かひおき)けるが爲に、此池にせんくづなど打込みて、大風雨を待つといふ。今猶靈驗顯然たり。是小矢部川(おやべがは)の水源なり。此地は五箇村の地に屬す。此村の中谷屋と云ふ人は、則ち俵藤太秀鄕の子孫と云ふ。此地へ下られしこと由緖あるにや。其證跡の眞實なる書き物、今に所持すと云ふ。

[やぶちゃん注:「繩池」南砺市北野の山中にある池。標高が千メートルに満たないのに(ここは八百メートル)ミズバショウに自生地であることで富みに知られる。私は高校時代に理科部生物班の生物観察(特に両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ科サンショウウオ属クロサンショウウオ Hynobius nigrescens)のために行ったことがある(演劇部と掛け持ちであった)。ウィキの「縄ヶ池」によれば、『平安朝の昔、俵藤太秀郷という武勇の誉れ高い武将がいた。ある時、近江国、勢田の橋に60メートルほどもある大蛇が横たわり、往来を妨げていた。そこへ通りかかった藤太は少しも恐れずに、大蛇を踏んで橋を渡った』。『その日の夜、美しい女がやってきて、「私は琵琶湖に住む竜神の化身です。今日あなたにお目にかかり、その豪胆さを見込んで、お願いに伺いました。三上山のムカデが、私の仲間を次々に食べてしまうので困っています。どうか退治してください」と話した。藤太は竜神の頼みを快く引き受け、すぐさま山に赴いて、五人張りの弓でムカデを射殺した。お礼にどんな願いでも叶えるという竜神の申し出に、藤太は城端の里を水不足から救うため、竜の子を貰うことにした』。『里に戻った藤太が、山中に掘った小さな穴に竜の子を入れ、縄を張りめぐらして祈ったところ、一夜のうちに池が湧き出し、その池が縄ヶ池であるという』とある。

「若(も)し鐵器の類(たぐひ)を池に投入るれば、忽ち國中黑闇(こくあん)となり、大風(たいふう)雨十餘日を經て止まず、田作・畑作微塵となる故に、里人大(おほい)に禁じて、猥(みだり)に池の邊(ほとり)へ人を入れず。强慾の商人は、米穀買置けるが爲に、此池にせんくずなど打込みて、大風雨を待つといふ」「せんくづ」は「銑屑」で鉄の削り屑のこと。この話、先の「風穴」と絡めて「譚海 卷之二 越中風俗の事」(私の電子化注)に出る。……しかしこれ、どこかの政治家が、今、現に自分の国にやっていることと全く同じだという気が私はしてする。

 五箇村といふは、加賀藩の罪人を謫居(たくきよ)せらるゝの地にして、西方は白山の麓に迫り、地獄谷に境ひし、東北長き事二十里餘、地飛越(とびこし)に挾まれり。五十七ヶ村あり。里々の間、皆多く籠の渡しなり。何れも消魂(せうこん)せずといふことなし。往古は此地諸州に屬せず。中昔小松黃門利常公、初めて十村を置きて我が郡に屬隸(ぞくれい)す。飛驒高山を御預りし後、彌々(いよいよ)五箇庄(ごかのしやう)我が郡に屬せり。山中の怪巖・巨木、誠に胡地(こち)の看(かん)をなすこと多しと云ふ。

[やぶちゃん注:「五箇村といふは、加賀藩の罪人を謫居せらるゝの地」五箇山は第二代藩主利常の後の、第四代藩主前田綱紀の治世であった、元禄三(一六九〇)年から加賀藩の正式な流刑地となっている。「中日新聞」公式サイト内の「遺構 罪人の歴史語る 五箇山の流刑小屋」という記事に、『不正を働いた武士や政治犯など、一六六七年から廃藩となる明治維新までの約二百年間で計百五十人がいくつかの集落に流された。特に罪の重い者は、この田向の流刑小屋に投獄された』とあり、復元された流刑小屋の写真が見られる。なお、裏で加賀藩は、この五箇山で鉄砲用の塩硝や黒色火薬を精製し調達していた。これはあまり知られえていないと思われるので附記しておく。

「地獄谷」サイト「YamaReco」の「白山(地獄谷から)で位置が確認出来る。白水湖の西の谷である(但し、標高は千五百メートルもある)。

「籠の渡し」所謂、「野猿(やえん」」のこと。川の相応の高さの両岸から張られた繩にぶら下がり(ここにあるような「籠」や小屋型の乗り物の場合もある)、自力で引き綱を手繰り寄せて進み、川を渡る原始的で危険な渡渉装置。

「消魂(せうこん)せずといふことなし」(野猿の渡しの恐るべき危うさを初めて見る人は)魂消(たまげ)ることがないことはあり得ない。

「胡地」未開の地。野蛮な民の土地。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) マカロフ提督追悼の詩 附・初出形

 

   マカロフ提督追悼の詩

   (明治三十七年四月十三日、我が
   東鄕大提督の艦隊大擧して旅順港口に迫るや、
   敵將マカロフ提督之を迎擊せむとし、
   愴惶令を下して
   其旗艦ぺトロバフロスクを港外に進めしが、
   武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に觸れて、
   巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ。)

 

嵐よ默(もだ)せ、暗打つその翼、

夜の叫びも荒磯(ありそ)の黑潮(くろしほ)も、

潮にみなぎる鬼哭(きこく)の啾々(しうしう)も、

暫し唸(うな)りを鎭(しづ)めよ。 萬軍の

敵も味方も汝(な)が矛(ほこ)地に伏せて、

今、大水(おほみづ)の響に我が呼ばふ

マカロフが名に暫しは鎭まれよ。

彼を沈めて、千古の浪狂ふ、

弦月(げんげつ)遠きかなたの旅順口。

ものみな聲を潜めて、極冬(ごくたう)の

落日の威に無人の大砂漠

劫風絕ゆる不動の滅の如、

鳴りをしづめて、ああ今あめつちに

こもる無言の叫びを聞けよかし。

きけよ、──敗者(はいしや)の怨みか、暗濤の

世をくつがへす憤怒(ふんぬ)か、ああ、あらず、──

血汐を呑みてむなしく敗艦と

共に沒(かく)れし旅順の黑漚裡(こくわうり)、

彼が最後の瞳にかがやける

偉靈のちから鋭どき生(せい)の歌。

ああ偉(おほ)いなる敗者よ、君が名は

マカロフなりき。 非常の死の波に

最後のちからふるへる人の名は

マカロフなりき。 胡天の孤英雄、

君を憶(おも)へば、身はこれ敵國の

東海遠き日本の一詩人、

敵(かたき)乍らに、苦しき聲あげて

高く叫ぶよ、(鬼神も跼(ひざま)づけ、

敵も味方も汝(な)が矛地に伏せて、

マカロフが名に暫しは鎭まれよ。)

ああ偉(おほ)いなる敗將、軍神の

撰びに入れる露西亞の孤英雄、

無情の風はまことに君が身に

まこと無情の翼をひろげき、と。

 

東亞の空にはびこる暗雲の

亂れそめては、黃海波荒く、

殘艦哀れ旅順の水寒き

影もさびしき故國の運命に、

君は起(た)ちにき、み神の名を呼びて、──

亡びの暗の叫びの見かへりや、

我と我が威に輝やく落日の

雲路(うんろ)しばしの勇みを負ふ如く。

壯なるかなや、故國の運命を

擔(にな)ふて勇む胡天の君が意氣。

君は立てたり、旅順の狂風に

檣頭高く日を射(さ)す提督旗(ていとくき)。──

その旗、かなし、波間に捲きこまれ、

見る見る君が故國の運命と、

世界を撫(な)づるちからも海底に

沈むものとは、ああ神、人知らず。

 

四月十有三日、日は照らず、

空はくもりて、亂雲すさまじく

故天にかへる邊土の朝の海、

(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、

敵も味方も汝(な)が鋒地に伏せて、

マカマフが名に暫しは跼づけ。)

萬雷波に躍りて、大軸を

碎くとひびく刹那に、名にしおふ

黃海の王者(わうじや)、世界の大艦も

くづれ傾むく天地の黑漚裡(こくわうり)、

血汐を浴びて、腕(うで)をば拱(こまね)ぎて、

無限の憤怒(ふんぬ)、怒濤のかちどきの

渦卷く海に瞳を凝らしつつ、

大提督は靜かに沈みけり。

 

ああ運命の大海、とこしへの

憤怒の頭(かしら)擡(もた)ぐる死の波よ、

ひと日、旅順にすさみて、千秋の

うらみ遺(のこ)せる秘密の黑潮よ、

ああ汝(なれ)、かくてこの世の九億劫、

生と希望と意力(ちから)を呑み去りて

幽暗不知の界(さかひ)に閉ぢこめて、

如何に、如何なる證(あかし)を『永遠の

生の光』に理(ことはり)示(しめ)すぞや。

汝(な)が迫害にもろくも沈み行く

この世この生、まことに汝(なれ)が目に

映(うつ)るが如く値(あたひ)のなきものか。

 

ああ休(や)んぬかな。 歷史の文字(もじ)は皆

すでに千古の淚にうるほひぬ。

うるほひけりな、今また、マカロフが

おほいなる名も我身の熱淚に。──

彼は沈みぬ、無間の海の底。

偉靈のちからこもれる其胸に

永劫たえぬ悲痛の傷(きず)うけて、

その重傷(おもきず)に世界を泣かしめて。

 

我はた惑ふ、地上の永滅は、

力(ちから)を仰(あふ)ぐ有情(うじやう)の淚にぞ、

仰ぐちからに不斷の永生の

流轉(るてん)現(げん)ずる尊ときひらめきか。

ああよしさらば、我が友マカロフよ、

詩人の淚あつきに、君が名の

叫びにこもる力(ちから)に、願くは

君が名、我が詩、不滅の信(まこと)とも

なぐさみて、我この世にたたかはむ。

 

水無月(みなづき)くらき夜半(やはん)の窓に凭り、

燭にそむきて、靜かに君が名を

思へば、我や、音なき狂瀾裡、

したしく君が渦卷く死の波を

制す最後の姿を覩(み)るが如、

頭(かうべ)は垂(た)れて、熱淚せきあへず。

君はや逝(ゆ)きぬ。逝きても猶逝かぬ

その偉いなる心はとこしへに

偉靈を仰ぐ心に絕えざらむ。

ああ、夜の嵐、荒磯(ありそ)のくろ潮も、

敵も味方もその額(ぬか)地に伏せて

火熖(ほのほ)の聲をあげてぞ我が呼ばふ

マカロフが名に暫しは鎭まれよ。

彼(かれ)を沈めて千古の浪狂ふ

弦月遠きかなたの旅順口。  (甲辰六月十三日)

 

   *

 

   マカロフ提督追悼の詩

   (明治三十七年四月十三日、我が
   東鄕大提督の艦隊大擧して旅順港口に迫るや、
   敵將マカロフ提督之を迎擊せむとし、
   愴惶令を下して
   其旗艦ぺトロバフロスクを港外に進めしが、
   武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に觸れて、
   巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ。)

 

嵐よ默(もだ)せ、暗打つその翼、

夜の叫びも荒磯(ありそ)の黑潮も、

潮にみなぎる鬼哭の啾々も、

暫し唸りを鎭めよ。 萬軍の

敵も味方も汝(な)が矛地に伏せて、

今、大水(おほみづ)の響に我が呼ばふ

マカロフが名に暫しは鎭まれよ。

彼を沈めて、千古の浪狂ふ、

弦月(げんげつ)遠きかなたの旅順口。

ものみな聲を潜めて、極冬(ごくたう)の

落日の威に無人の大砂漠

劫風絕ゆる不動の滅の如、

鳴りをしづめて、ああ今あめつちに

こもる無言の叫びを聞けよかし。

きけよ、──敗者の怨みか、暗濤の

世をくつがへす憤怒か、ああ、あらず、──

血汐を呑みてむなしく敗艦と

共に沒(かく)れし旅順の黑漚裡(こくわうり)、

彼が最後の瞳にかがやける

偉靈のちから鋭どき生の歌。

ああ偉(おほ)いなる敗者よ、君が名は

マカロフなりき。 非常の死の波に

最後のちからふるへる人の名は

マカロフなりき。 胡天の孤英雄、

君を憶へば、身はこれ敵國の

東海遠き日本の一詩人、

敵(かたき)乍らに、苦しき聲あげて

高く叫ぶよ、(鬼神も跼(ひざま)づけ、

敵も味方も汝が矛地に伏せて、

マカロフが名に暫しは鎭まれよ。)

ああ偉いなる敗將、軍神の

撰びに入れる露西亞の孤英雄、

無情の風はまことに君が身に

まこと無情の翼をひろげき、と。

 

東亞の空にはびこる暗雲の

亂れそめては、黃海波荒く、

殘艦哀れ旅順の水寒き

影もさびしき故國の運命に、

君は起ちにき、み神の名を呼びて、──

亡びの暗の叫びの見かへりや、

我と我が威に輝やく落日の

雲路(うんろ)しばしの勇みを負ふ如く。

壯なるかなや、故國の運命を

擔ふて勇む胡天の君が意氣。

君は立てたり、旅順の狂風に

檣頭高く日を射す提督旗。──

その旗、かなし、波間に捲きこまれ、

見る見る君が故國の運命と、

世界を撫づるちからも海底に

沈むものとは、ああ神、人知らず。

 

四月十有三日、日は照らず、

空はくもりて、亂雲すさまじく

故天にかへる邊土の朝の海、

(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、

敵も味方も汝が鋒地に伏せて、

マカマフが名に暫しは跼づけ。)

萬雷波に躍りて、大軸を

碎くとひびく刹那に、名にしおふ

黃海の王者、世界の大艦も

くづれ傾むく天地の黑漚裡、

血汐を浴びて、腕をば拱ぎて、

無限の憤怒、怒濤のかちどきの

渦卷く海に瞳を凝らしつつ、

大提督は靜かに沈みけり。

 

ああ運命の大海、とこしへの

憤怒の頭(かしら)擡(もた)ぐる死の波よ、

ひと日、旅順にすさみて、千秋の

うらみ遺せる秘密の黑潮よ、

ああ汝(なれ)、かくてこの世の九億劫、

生と希望と意力(ちから)を呑み去りて

幽暗不知の界(さかひ)に閉ぢこめて、

如何に、如何なる證(あかし)を『永遠の

生の光』に理(ことはり)示すぞや。

汝(な)が迫害にもろくも沈み行く

この世この生、まことに汝(なれ)が目に

映るが如く値のなきものか。

 

ああ休(や)んぬかな。 歷史の文字は皆

すでに千古の淚にうるほひぬ。

うるほひけりな、今また、マカロフが

おほいなる名も我身の熱淚に。──

彼は沈みぬ、無間の海の底。

偉靈のちからこもれる其胸に

永劫たえぬ悲痛の傷うけて、

その重傷(おもきず)に世界を泣かしめて。

 

我はた惑ふ、地上の永滅は、

力を仰ぐ有情の淚にぞ、

仰ぐちからに不斷の永生の

流轉現ずる尊ときひらめきか。

ああよしさらば、我が友マカロフよ、

詩人の淚あつきに、君が名の

叫びにこもる力に、願くは

君が名、我が詩、不滅の信(まこと)とも

なぐさみて、我この世にたたかはむ。

 

水無月くらき夜半(やはん)の窓に凭り、

燭にそむきて、靜かに君が名を

思へば、我や、音なき狂瀾裡、

したしく君が渦卷く死の波を

制す最後の姿を覩(み)るが如、

頭(かうべ)は垂れて、熱淚せきあへず。

君はや逝きぬ。逝きても猶逝かぬ

その偉いなる心はとこしへに

偉靈を仰ぐ心に絕えざらむ。

ああ、夜の嵐、荒磯のくろ潮も、

敵も味方もその額(ぬか)地に伏せて

火熖(ほのほ)の聲をあげてぞ我が呼ばふ

マカロフが名に暫しは鎭まれよ。

彼を沈めて千古の浪狂ふ

弦月遠きかなたの旅順口。  (甲辰六月十三日)

[やぶちゃん注:最終行冒頭の「弦月」は底本では「弦目」であるが、明らかに誤植であるので、特異的に訂した。初出も以下で見る通り、「弦月」となっており、筑摩版全集も特異的に『弦月』と訂してある。最後のクレジットが今までと異なり、最終行三字下げで入っているのはママ。これは単にその行でその「118」ページが終わっている(底本の「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の本初版本の当該画像)ことから、編集者がかく配慮したものと推定される。前の添え書きは下まで続いて改行して二行であるが、ブラウザの不具合と、リズムを壊さないように配慮して不揃いで改行した。一部の句点の後の字空けは見た目を再現した。初出は明治三七(一九〇四)年八月号『太陽』であるが、ここにある前の添え書きは初出には存在せず、最後のクレジットもない。初出は表題が「マカロフ提督追悼」で、連構成が異なり、かなりの語句に異同(推定誤植含む。例えば二行目「車」は「轟」(ひびき)ではなかろうか?)があるので、初出を以下に示す(筑摩版全集を参考に漢字を恣意的に正字化した)。初出はルビなしである。

   *

 

   マカロフ提督追悼

 

嵐に默せ暗搏つ其翼、

夜の車も荒磯の黑潮も、

潮にみなぎる鬼哭の啾々も

暫し唸りを鎭めよ、萬軍の

敵も味方も汝が矛地に伏せて、

今大水の響きに我が呼ばふ

マカロフが名に暫しは鎭まれよ、

彼を沈めて千古の浪狂ふ

弦月遠きかなたの旅順口。

 

萬有聲を潜めて、極冬の

落日の威に無人の大砂漠

劫風絕ゆる不動の滅の如、

鳴りをしづめて、ああ今天地に

こもる無言の叫びを聞けよかし。

聞けよ、──敗者の怨恨か、暗濤の

世を覆へす憤怒か、嗚呼あらず──

血汐を呑みて空しく敗艦と

共に沒れし旅順の黑漚裡、

彼が最後の瞳に輝ける

偉靈の力するどき生の歌。

 

ああ偉いなる敗者よ、君が名は

マカロフなりき。非常の死の波に

最後の權威ふるへる人の名は

マカロフなりき。胡天の孤英雄、

君を憶へば、身はこれ敵國の

東海遠き日本の一詩人、

敵ながらに苦しき聲あげて

高く叫ぶよ、(鬼神も跪づけ、

敵も味方も汝が矛地に伏せて

マカロフが名に暫しは鎭まれよ)

ああ偉いなる敗將、軍神の

撰びに入れる露西亞の孤英雄、

無情の風はまことに君が身に

まこと無情の翼を擴げき、と。

東亞の空にはびこる暗雲の

亂れそめては、黃海波荒らく、

殘艦哀れ旅順の水寒き

影も淋しき故國の運命に、

君は起ちにき、御神の名を呼びて、──

ほろびの暗の戰呼をかへり見て

我と我威に輝やく落日の

雲路しばしの勇みを負ふ如く。――

壯なるかなや、故國の運命を

擔ふて勇む胡天の君が意氣。

君は立てたり、旅順の狂風に

檣頭高く日を射す提督旗。──

その旗、悲し、波間に捲き込まれ、

見る見る君が故國の運命と

世界を撫づる力も海底に

沈む者とは、ああ神、人知らず。――

 

四月十有三日、日は照らず、

空は曇りて、亂雲凄まじく

故天にかへる邊土の朝の海、

海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、

敵も味方も汝が矛地に伏せて

マカマフが名に暫しは跪づ、)

萬雷濤に躍りて大軸を

碎くとひびく刹那に、名にしおふ

旅順の王者、世界の大艦も

崩れかたむく天地の黑漚裡、

血汐を浴びて、腕をば拱ぎて、

無限の憤怒、怒濤の鬨の

渦卷く海に瞳を凝らしつつ、

老將軍は靜かに沈みけり。

 

ああ運命の大海、とこしへの

憤怒の頭擡ぐる死の波よ、

ひと日旅順に荒みて千秋の

うらみ遺せる秘密の黑潮よ、

ああ汝かくてこの世の九億劫、

生と希望と意力を呑み去りて

幽暗不知の境に閉ぢ込めて、

如何に如何なる證を『永遠の

生の光』に理示すぞや。

汝が迫害に脆くも沈み行く

この世この生、眞に汝が眼に

映るが如く値の無きものか。

 

ああ休んぬ哉、歷史の文字は皆

既に千古の淚に濕ほひぬ。

うるほひけりな、今またマカロフが

偉いなる名も我身の熱淚に。──

彼は沈みぬ、無間の海の底、

偉靈のちからこもれるその胸に

永劫たへぬ悲痛の傷受けて、

その重傷に世界を泣かしめて。――

 

我はた惑ふ、地上の永滅は、

力を仰ぐ有情の淚にぞ、

仰ぐ力に不斷の永生の

流轉現ずる尊とき閃きか。

ああよしさらば、我友マカロフよ、

詩人の淚熱きに、君が名の

叫びにこもる力に、願くは、

君が名、我が詩、不滅の信とも

慰めて我れこの世に戰はむ。

 

水無月くらき夜半の窓に凭り、

燭に背きて、靜かに君が名を

思へば、我や、音なき狂瀾裡、

親しく、君が渦卷く死の海を

制す最後の姿を覩るが如、

火影も凍る默肅の思ひかな。

君はや逝きぬ、――逝きて猶逝かぬ

その偉いなる心はとこしへに

偉靈を仰ぐ心に絕えざらむ。――

ああ夜の嵐、荒磯の黑潮も、

敵も味方もその額地に下げて、

火熖の聲をあげてぞ我が呼ばふ

マカロフが名に暫しは跼づけ、

彼を沈めて千古の浪狂ふ

弦月遠きかなたの旅順口。

 

   *

最終連の六行目は大きく改変されてある。

「マカロフ提督」ロシア帝国海軍軍人にして海洋学者(ロシア帝国科学アカデミー会員)でロシア帝国海軍中将であったスチパーン・オースィパヴィチュ・マカーラフ(Степан Осипович Макаров/ラテン文字転写:Stepan Osipovich Makarov ユリウス暦一八四八年十二月二十七日(グレゴリオ暦一八四九年一月八日)~同前一九〇四年三月三十一日(同年四月十三日))。ウクライナ出身。海軍准士官の子。ウィキの「ステパン・マカロフ」によれば、一八六五年、ニコラエフスク航海士学校航海士学校を『首席で卒業したが、父の希望により航海士ではなく、海軍士官候補生となる』。彼は『ロシア海軍における水雷艇運用・戦術論に関する第一人者のひとりであり』、一八七七年の『露土戦争において、自分の水雷艇戦術理論を実践に移した』。同年一月十六日、『オスマン帝国の警備船「インティバフ」に対して魚雷による世界最初の対艦攻撃を行っ』ている。一八八〇年から翌年にかけては『中央アジア探検隊に参加』し、諸艦船の艦長を務め、一八八六年にはコルベット』(Corvette:軍艦艦種の一つ。一層の砲甲板を持ち、フリゲート艦よりも小さい)『「ヴィーチャシ」の艦長に就任し』、一八八六年から一八八九年、及び、一八九四年から一八九六年の二回に亙って『世界一周航海に出ている』。この二度の『航海では、総合的な海洋調査を実施し、研究の成果を『ヴィーチャシ号と太平洋』にまとめて発表した。また』、『海軍戦術論の大家としても世界的に知られ、著書である『海軍戦術論』は世界各国で翻訳され、邦訳された物は東郷平八郎や秋山真之のほか』、『日本海軍の将兵が必ず精読するような名著であり、東郷は自ら筆写したものを戦艦三笠の私室に備えていたという』。一八九〇年、『少将に昇進し、バルト艦隊最年少の提督となり』、翌『年、海軍砲術主任監察官となる』。一八九四年、戦艦「ニコライ1世」に座乗し』、翌『年、極東に赴任、艦隊司令長官に就任する』。一八九九年と一九〇一年には二度の『北極探検を実施し、この時』、『砕氷船を構想し、世界最初の砕氷船「イェルマーク」の建造を命じている。また砕氷船をバイカル湖にも導入、フェリー「バイカル」と貨客船「アンガラ」を就航させた』。一九〇四年に日露戦争が起こると、『第四次旅順攻撃で日本海軍の奇襲を許し』てしまって『その責任を追及され』『解任されたオスカル・スタルク司令長官の後任として、マカロフは』三月八日、『ロシア太平洋艦隊司令長官に就任した。攻撃精神に富むとともに計画性・最先端技術への理解が深く』、『ロシア海軍屈指の名将との評価も高いマカロフの着任は、その相手となる日本の連合艦隊にとっては非常な脅威であり、太平洋艦隊の士気も大いに上がった』。『旅順着任直後に日本海軍による第四次旅順攻撃を受けるが、マカロフは自軍の水雷艇ステレグーシチイが猛攻を受けていると知り、自ら巡洋艦ノーウィックに座乗して出撃した。結局』、『ステレグーシチイは救えなかったが、このようなマカロフの常に陣頭指揮を行う行動や』、『飾らない人柄は部下将兵に好意的に受け入れられ、「マカロフ爺さん」と呼ばれ』て『親しまれるようになってい』った。『マカロフは士気が低下していた将兵の意識改善や体制改革に取り組み、常に部下の士官や下士官と会話を交わしつつ、ロシア太平洋艦隊の現状掌握に努めた。また損害を受けない範囲で可能な限り自艦隊を港外に出して練度の向上を図り、日本艦隊との交戦も辞さなかった』。『一方、第二回旅順口閉塞作戦に失敗した連合艦隊は、旅順口攻撃の一環として旅順の封鎖を機雷敷設によって行うようになる』。一九〇四年四月十三日、『機雷敷設中の連合艦隊の駆逐艦』四『隻が、偵察を行っていたロシア艦隊の駆逐艦』一『隻と遭遇し』、『戦闘が開始される。ロシア艦隊の駆逐艦はたちまち撃沈されるが、その情報を知ったマカロフは旗艦である戦艦「ペトロパブロフスク」』(Петропавловск:一八九二年起工。排水量(満載)一万千五百トン。全長百十四・六メートル。全幅二十一・三三メートル。吃水七・九メートル)に座乗、戦艦五隻と巡洋艦四隻を『率いて生存者の救援と日本艦隊の攻撃に向か』った。『日本の主力艦隊を認めると』、『旅順港に引き返』したが、『座乗していた旗艦ペトロパブロフスクが日本軍の敷設した機雷に触雷し』、『爆沈。マカロフは避難しようとしたが』、『間に合わず、将兵』五百名とともに『戦死した。一説には秋山真之が過去の出撃パターンから予測されるロシア艦隊の航路を割り出し、予め』、『そのエリアに機雷を散布していたと言われる』。『日本では、マカロフ戦死の報を受けて、都市部で戦勝を祝う提灯行列などが行われた』。『マカロフの戦死はロシア太平洋艦隊の将兵に衝撃を与えたと伝えられる』。以下、啄木の本篇を挙げ、彼が哀悼の意を示したことを記す。『また、戦争中にアメリカに特使として派遣され』、『広報外交を行っていた金子堅太郎は、演説の中でマカロフへの哀悼のコメントを発し、アメリカ世論からの支持を取り付けることに成功した』という。因みに、亡くなった当時、「マカロフ爺さん」は未だ五十五歲であった。

「愴惶」(さうくわう(そうこう))は「慌ただしく」の意。

「沈設水雷」水中に敷設する機雷。ウィキの「機雷」に、浮遊機雷・係維機雷・短係止機雷・沈底機雷の種別の図が載り、解説もある。

「黑漚裡(こくわうり)」「漚」(現代仮名遣「おう」)は「水の泡」(動詞としては「浸す」の意がある)。撃沈され、冷たい旅順港の黒々とした海中に、加えて黒々と油を流しつつ黒々とした泡を吹き上げては沈んで行くさまをイメージした。

「狂瀾裡」荒れ狂う大波の中。]

石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) ほととぎす

 

   ほととぎす

   (甲辰六月九日、
   夏の小雨の凉けき禪房の窓に、
   白蘋の花など浮べたる水鉢を置きつつ、
   岩野泡鳴兄へ文を認めぬ。 時に聲あり、
   彷彿として愁心一味の調を傳へ來る。 屋
   後の森に杜鵑の啼く也。 乃ち
   匆々として文の中に記し送りける。)

 

若き身ひとり靜かに凭る窓の

細雨(ほそあめ)、夢の樹影(こかげ)の雫(しづく)やも。

雫にぬれて今啼(な)く、古(いにし)への

ながきほろびの夢呼(よ)ぶほととぎす。

おお我が小鳥、ひねもす汝(な)が歌ふ

哀歌(あいか)にこもれ、いのちの高き聲。──

そよ、我がわかき嘆きと矜(たか)ぶりの

つきぬ源、勇みとたたかひの

糧(かて)にしあれば、汝(な)が歌、我が叫び、

これよ、相似る『愁(うれい)』の兄弟(はらから)ぞ。

愁ひの力(ちから)、(おもへば、わがいのち)

黃金(こがね)の歌の鎖(くさり)とたえせねば、

ほろべる夢も詩人の嘆きには

あらたに生(い)きぬ。愁よ驕(ほこ)りなる。

 

   *

 

   ほととぎす

   (甲辰六月九日、
   夏の小雨の凉けき禪房の窓に、
   白蘋の花など浮べたる水鉢を置きつつ、
   岩野泡鳴兄へ文を認めぬ。 時に聲あり、
   彷彿として愁心一味の調を傳へ來る。 屋
   後の森に杜鵑の啼く也。 乃ち
   匆々として文の中に記し送りける。)

 

若き身ひとり靜かに凭る窓の

細雨(ほそあめ)、夢の樹影(こかげ)の雫やも。

雫にぬれて今啼く、古への

ながきほろびの夢呼ぶほととぎす。

おお我が小鳥、ひねもす汝(な)が歌ふ

哀歌にこもれ、いのちの高き聲。──

そよ、我がわかき嘆きと矜(たか)ぶりの

つきぬ源、勇みとたたかひの

糧にしあれば、汝が歌、我が叫び、

これよ、相似る『愁(うれい)』の兄弟(はらから)ぞ。

愁ひの力、(おもへば、わがいのち)

黃金(こがね)の歌の鎖とたえせねば、

ほろべる夢も詩人の嘆きには

あらたに生きぬ。愁よ驕(ほこ)りなる。

[やぶちゃん注:添え書きは下まで続いて改行して二行であるが、ブラウザの不具合と、句点の後の字空けの見た目を再現することを考慮して、かく不揃いで改行した。「うれい」はママ。本篇は本詩集が初出である。

「甲辰」(きのえたつ)は明治三七(一九〇四)年。

「禪房」啄木が育った、父一禎が住職であった渋民村の曹洞宗宝徳寺(父が宗費百三十円余の滞納のために曹洞宗宗務院より住職罷免処分を受けるのはこの年の年末の十二月二十六日のことである)。

「白蘋」これは本来は池沼や水田などに生える多年草の水生シダ植物(水生のそれは非常に稀である)である田字草(でんじそう:シダ植物門シダ綱デンジソウ目デンジソウ科デンジソウ属デンジソウ Marsilea quadrifolia(マルシリア・クゥアドリフォリア))の異名である(和名は四枚の葉が放射状に広がる形を「田」の字に見立てたことに由り、英名は文字通りウォーター・クローバー(water clover)である)が、本種はシダ植物で花は咲かないから、啄木の言っている「白蘋」はデンジソウではない近藤典彦氏のブログ「啄木の息」の『啄木の雅号「白蘋(はくひん)」』によれば、『石川一は「啄木」の前に「白蘋(はくひん)」という雅号を用いていました。盛岡中学四年生終わりの満十六歳から、天才詩人として鉄幹・晶子の雑誌「明星」(190312月)にデビューするまでの約一年八カ月です』。『さてこの「白蘋」がどんな花なのか。実はよく分かりません。手許の漢和辞典によると、「蘋」は浮き草・水草のたぐいです』。『しかし啄木は、宝徳寺近くの用水池の堤に咲く白い夏の花だと言います。それは「堤」に咲くのだから浮き草・水草のたぐいつまり「蘋」ではないでしょう』と述べておられる。六月初めに開花しており、しかも夏まで咲き続ける、水鉢に浮かべて賞翫するに足る相応に大きな花を咲かせる水生植物となると、限られてくる。私の好きな菱(フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica)は花は白いが、小さ過ぎて浮かべるに適さない。蓮(ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera)が真っ先に浮かぶが、時期が早過ぎるし、白色の蓮の花なら「白蓮」と書くだろう。とすれば、私は一種しかないと思う。則ち、本邦に自生するただ一種の「睡蓮」であるスイレン目スイレン科スイレン属ヒツジグサ Nymphaea tetragona である。花の大きさは3cmから4cmで、萼片は4枚、花弁が10枚ほどの白い花を咲かせる。花期は6月から11月までと啄木の語る条件を総てカバーする。『「睡蓮」なら「睡蓮」と呼ぶはずだ』とするなら、単子葉植物綱オモダカ目トチカガミ科トチカガミ属トチカガミ Hydrocharis dubia がある。実は中文サイトを見ると、本種を「白蘋」と記す記事が見られるのである。但し、本種の白花の開花期は8月から10月で、花も小さく、水鉢に浮かべるには私は難があると思う。近藤氏の「用水池の堤」という表現も「堤」を池の「堤」部分と採らず、屋上屋ではあるが「用水用の溜池」の意とすれば、何ら問題ない。私は「~の堤」と言うと、池沼の堤防部ではなく、池沼全体を指すのに用いるし、私が中高時代を過ごした富山では、誰もが中小型のそれは「池」と呼ばず、「~の堤」と呼んでいるからである。

「岩野泡鳴」(明治四(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)は兵庫の淡路島生まれの詩人・小説家・評論家。本名は美衛(よしえ)。浪漫詩人として詩集「悲恋悲歌」(明治三八(一九〇五)年)などを出したが、明治三九(一九〇六)年に代表的評論「神秘的半獣主義」を発表し、田山花袋の〈平面描写論〉に対して〈一元描写論〉を主張し、小説に転じ、明治四二(一九〇九)年の小説「耽溺」を以って自然主義作家として認められた。代表作は長編五部作「放浪」・「断橋」・「発展」・「毒薬を飲む女」・「憑物」。この当時は東京「の大倉商業学校で英語を教えつつ『明星』などに詩を発表、この後の明治三十七年十二月に第二詩集「夕潮」を刊行している。当時、三十一歲(啄木は十九)。 なお、この書簡は全集には所収せず、現存しないようである。]

2020/04/14

三州奇談卷之五 倶利伽羅

 

    倶利伽羅

 右にいふ倶利伽羅山長樂寺は、眞言の靈場國君の祈願所にして、靈異筆にて述べ難し。

[やぶちゃん注:このような前項(「縮地氣妖」)に直に続く書き出しは、本書ではかなり珍しい。

「倶利伽羅山長樂寺」明治の廃仏毀釈で廃寺となって現存しない。「加能郷土辞彙」に、

   *

チョウラクジ 長禦樂寺 河北郡倶利伽羅の手向神社の別當であつた。眞言宗に屬し、山號は倶利伽羅山。三州紀聞[やぶちゃん注:全五巻。成立年も作者も未詳]に、『長樂寺、百十一石五斗八升五合、外五石七斗山手米。倶利伽羅村。眞言。不動尊也。寺の向、村家の後に古池あり。是より不動尊出現といふ。』とある。

   *

として、手向神社への「見よ見出し」を附す。同書の当該神社の記載には、

   *

タムケジンジヤ 手向神社 河北側倶利伽羅山上の倶梨伽羅(部落名)に鎭座する。萬葉集に刀奈美山手向の神[やぶちゃん注:「となみやまたむけのかみ」。]といひ、三代實錄元慶二年[やぶちゃん注:八七二年。]五月八日越中國正六位上手向神に従五位下を授くとあつて、もとは越中礪波郡[やぶちゃん注:「となみのこほり」。]の式外の社であったが、國界の變遷によつて加賀に屬することになつた。前田氏の世に及び、慶長六年[やぶちゃん注:一六〇一年。]本殿以下の諸堂宇及び別當長樂寺を再營し、草高[やぶちゃん注:「くさだか」とは江戸時代の領内の土地から産出する米の収穫総高。]百十一石五斗八升八合を寄進し、事ある每に白山比咩神社[やぶちゃん注:「しらやまひめじんじや」。]と共に祈禱を命ぜられた。天保七年[やぶちゃん注:一八三五年。]十一月四日門前の民屋から出火して、長樂寺以外皆燒亡し、神體を假殿に遷座せしめ、明治元年[やぶちゃん注:一八六八年。]神佛混淆禁止の後、本地倶利伽羅不動明王を廢して素盞嗚社[やぶちゃん注:「すさのをしや」。]と號し、別當長樂寺を復飾奉仕せしめて社號を素盞嗚社と改め、五年七月更に手向社と呼ぶことにした。

   *

とある。「津端町役場」公式サイト内のこちらの解説によれば、『津幡町の倶利迦羅不動寺山頂本堂には、高さ1.1メートルの木像「阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)」が安置されています。作者は浄土真宗七高僧の第六番目に崇められている源信(げんしん)和尚(恵心僧都=えしんそうず)といわれています。この像は倶利伽羅の長楽寺(ちょうらくじ)が所蔵していましたが、明治の神仏分離によって廃寺となり、1877年(明治10年)ごろ当時の倉見の有力者が津幡町笠谷地区の倉見区の専修庵へ納めたと伝えられています』。『2013年(平成25年)96日、1865年(慶応元年)に建てられた専修庵の取り壊しが決まり、町文化財の阿弥陀如来像が、かつて安置されていた倶利伽羅山に約130年ぶりに戻りました』とある。この真言宗高野山倶利迦羅不動寺は昭和二四(一九四九)年に長楽寺の跡に堂宇を再建・復興したもので、新しいものなので注意されたい。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 本尊は則(すなはち)「くりから不動」にして、山燈(さんとう)・龍燈(りゆうとう)の靈驗あり。彼(かの)壽永の年、木曾の冠者爰に威を輝かして平家を谷に落しゝ「火牛の謀(はかりごと)」この所なり。「一騎打」は巨岩路(みち)を挾みて春風猶寒く、「埴生(はにふ)の八幡」は太夫坊覺明が自書の願書を留めて秋色依然たり。「日の宮林」の跡、「巴御前(ともゑごぜん)の塚」・「卯の花山」には、白(はく)・立(たつ)二山の雪に對し、「源氏が峰」には猶夏雲の奇峯立ちて、爰にては古俗「信濃太郞」といふ。此日の木曾の白旗を稱(たた)へそめたる勢ひあり。もと禹餘粮石(うよらうせき)を產す。其外も奇種の水晶多し。

[やぶちゃん注:「山燈・龍燈」全国的に怪火の一種の名。一般には山中から飛来する怪火を前者、海から生じて陸へ飛来するそれを後者で呼ぶ。後者は海中の燐光が灯火のように連なって現れる現象、所謂、「不知火(しらぬい)」を指すが、その火が陸に上がって木に登って掛かるなどという伝説もある。水中から上がることから龍神が神仏に捧げる灯火とも言う。石川県では、羽咋郡気多(けた)神社や鳳至郡穴水町の一本木諏訪神社など、この伝承がかなり多い。

『壽永の年、木曾の冠者爰に威を輝かして平家を谷に落しゝ「火牛の謀(はかりごと)」この所なり』寿永二年五月十一日(ユリウス暦一一八三年六月二日)に木曽義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で起こった「倶利伽羅峠の戦い」(「砺波山の戦い」とも呼ぶ)。ウィキの「倶利伽羅峠の戦い」によれば、『平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った』。『この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた』のであった。「源平盛衰記」には、『この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである』とあり、私も後者のシークエンスは完全な創作と考えている。

「一騎打」これは倶梨伽羅合戦の戦跡というよりも、ここにある通り、「巨岩」が「路(みち)を挾」んで非常に狭くなっていて、正に一騎打ちをするしかないような狭隘な山道を指しているようである。「津端町役場」公式サイト内の、後の加賀藩が設置した「道番人屋敷跡」の解説によれば、『津幡町竹橋(たけのはし)から倶利伽羅峠に伸びる歴史国道「北陸道」を挟んで、龍ヶ峰(りゅうがみね)城址公園の向かい側に「道番人(みちばんにん)屋敷跡」が残っています。現在、2戸の屋敷跡は龍ヶ峰城址公園の駐車場となっていますが、ほぼ原型で保存されています』。『加賀藩は参勤交代(さんきんこうたい)の街道の整備、管理をする「道番人」という制度を設けました。1665(寛文5)年5月より道番人を1里(約4キロ)ごとに2人置き、給銀70目、居屋敷50坪を与えて、街道の掃き掃除、砂入れ、水落とし、雪割、並木の手入れなどをさせました。『河北郡史』には、1720(享保5)年に竹橋宿から倶利伽羅峠までの街道を、その途中「一騎討ち」と呼ばれる狭まった場所で二分し、龍ヶ峰(通称「城ヶ峰」)南麓の上藤又村から出た長助、茂兵衛の両家が担当したという記録が残っています』とあるからである。この付近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「埴生(はにふ)の八幡」富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)のこと。源義仲が戦勝を祈願したことで知られ、現在、馬上の人物像としては日本最大級の源義仲騎馬像が建立されてある。これ(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの同義仲騎馬像の画像)。

「太夫坊覺明」大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう・かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した。元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られる。木曽義仲の右筆で、寿永二年五月十一日、現在の先の埴生護国八幡宮(八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。

『「日の宮林」の跡』国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地名辞書 中巻 二版」の「礪波山」の条に、『按に盛衰記「平家は倶利加伽羅が峰を押越て、坂を下に東へ步せつつ、遙に東を見渡せば、日宮林に白旗四五十旒[やぶちゃん注:「りゆう」。「流」に同じい。]打立たり」、とあるをば長門本平語[やぶちゃん注:「平家物語」の略。]「礪波山の東の麓なる、大宮林の高木の末に、白旗一流ゆひたてたり」と綴りたり、この日宮又は大宮は埴生八幡に同じかるべし』とあるので、先の現在の埴生護国八幡宮の鎮守の森の跡のことである。

「巴御前の塚」義仲の愛妾で女丈夫として知られた彼女の墓。富山の方の個人ブログ「山いろいろ」の「源平古戦場・倶梨伽羅むかし道」(山歩き 50代以上のblog 登山倶梨伽羅峠)「倶利伽羅峠散策案内マップ」があるので、それを見られたいが(但し、南北が反転している地図なので注意)、富山県小矢部市石坂のここ(グーグル・マップ・データ)である。サイド・パネルの画像もいい。なお、彼女はここで亡くなったのではなく、後に埋葬されたと伝承するものである。また、グーグル・マップで判る通り、この周辺は古墳群(一号古墳は富山県内最大にして最古級の前方後円墳である)がある場所でもある。さて、ウィキの「巴午前」によれば、『最も古態を示すと言われる『延慶本』では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされる。京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという。粟津の戦いにて粟津に着いたときには義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなくなったとされている』。『『源平盛衰記』では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされている(『長門本』にも同様の記述がある)。宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ』。『和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られる』とあり、また、個人サイト「北村さんちの遺跡めぐり」のことらには、碑文を電子化され、『巴は義仲に従い源平砺波山の戦の武将となる。晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」』とあり、その「由来」として、『源平合戦の後、和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが、その後未亡人となり、後生を福光城主の石黒氏に託した。石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平軍を攻めた親しい間柄であった。尼となり』、『兼生』(けんしょう)『と称し』、『宝治元年十月二十二日没し、石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている』とある。すぐ奥には義仲のやはり愛妾で、この「倶梨伽羅合戦」で亡くなった葵の塚もあり、碑文は『葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す。屍を此の地に埋め墳を築かしむ』とあり、「由来」は『葵は義仲の武将となり、倶利伽羅の戦に討死したので屍をこの地に埋め、弔ったと伝えられている』とある。巴は葵のそばに自らの墓を建てることを自ら望んだのであろう。私はこの巴御前や平家方の城資国の娘板額御前(はんがくごぜん)の大ファンである。私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」なども是非、読まれたい。

「卯の花山」本来は卯の花の咲いている山の意で、固有名詞ではないが、後世、漠然とした越中の歌枕となった。但し、私は旧富山県西砺波郡砺中(とちゅう)町(現在は小矢部市)にある標高二百六十三メートルの砺波山(となみやま)(グーグル・マップ・データ航空写真)の異称ととってよいと考えている(旧称を源氏山とも称するが、後の「源氏が峰」とは別である)。倶利伽羅峠直近にある。木曽義仲の倶利伽羅合戦に於ける陣所であった。芭蕉の偏愛する義仲であるから、「奥の細道」にもしっかり登場する。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を見られたい。芭蕉の「卯の花山」は明らかに砺波山を指している。

「白・立二山」白山と立山。

「源氏が峰」富山県小矢部市松永の標高二百四十五メートルの源氏ヶ峰(グーグル・マップ・データ航空写真)。砺波山の五百六十五メートル南南東のピークである。

『夏雲の奇峯立ちて、爰にては古俗「信濃太郞」といふ』注意深く読めば判るが、これは源氏ヶ峰の異名ではなく、積乱雲のここらでの俗称である。ブログ「Project Works 知恵袋」の「雲の峰」に『「積乱雲」は、雷の多い地方では、別名があり、雷の男性的なイメージに重ね合わせて、地名に太郎などの男子の名前が付けられ、例えば、江戸では「坂東太郎」、大阪では、「丹波太郎」、越前では「信濃太郎」、九州では「比古太郎」、讃岐地方では、「阿波太郎」などと呼ばれております』とある。

「禹餘粮石」「鈴石(すずいし)」或いは「鳴石(なるいし/なりいし)」のこと。鉱物標本名では「針鉄鉱」「褐鉄鉱」と呼ぶ。サイト「奇石博物館」のこちらの解説(現物写真あり)によれば、『日本では、中の乾燥した粘土が遊離し、 耳元で振るとコトコト音がするので「鳴石」もしくは「鈴石」などと呼ばれています』。『一方、中国では古代中国の伝説から「禹余粮」という名称が付きました。それはこんな伝説です』。『古代中国伝説の国「夏」の国王で仁政の王として伝わってい』る禹が、『治水工事を行った時』、『余った食糧(粮)を会稽山(かいけいざん)に残したものが』、『後にこの石になったと云われ、禹余粮の名称が付きました』。『後漢末3世紀頃の「神農本草経」という中国で一番古い薬の本にこの名が出てきます』とあり、標本画像の産地として、『奈良県生駒郡平群町産(割れ口の見える2個)』、『京都府相良郡和束町産(割れてない1個)』とある。]

 不動堂・大門の額は佐々木志津摩(しづま)が一生の筆意を殘し、門前の餅は來世閻魔王の咎めを塞(ふさ)ぐ。都(すべ)て死する者必ず此坂を越ざるなしと聞けり。故に金城にも何某の玄蕃(げんば)なる人、

「此所にて鬼に逢ひし」

とて物語人口にあり。其後、「鬼玄蕃」と云ふとぞ聞えけり。されば思ふに怪異も其平日の躰(てい)に依りて發す。是も彼(かの)「魚鱗は波に似て、鳥の毛は葉のごとく、獸毛は草に等し」と云へる造化の中を、鬼といへども遁(のが)るゝ事なしや。

[やぶちゃん注:「佐々木志津摩」「加能郷土辞彙」に、

   *

ササキシズマ 佐々木志頭磨 一に志頭摩に作る。初名七兵衞。書を加茂祠令藤木甲斐敦直

に學び、松竹堂と號した。加賀藩に仕へて二十人扶持を受け、組外御書物役に班したが、晩年致仕して京に歸り、剃髮して専念翁と稱した。元祿八年[やぶちゃん注:一六九五年。]正月十九日歿する時年七十三。

   *

とある。

「門前の兵餅」同一物かどうかは判らないが、現在の「倶梨伽羅不動寺」公式サイトの「念仏赤餅つき」に、『念仏赤餅は、お不動さまの霊験あらたかな「厄除けのお餅」とされ』、『今日に受継がれています。このお餅には、次のようなお話が伝えられています』。『昔、倶利伽羅山頂で悪さをする猿たちにそこを通る旅人達はほとほと困っていました。ある日、和尚さんにお不動さまからのお告げがあり、赤く塗った餅を猿たちに与えたところ、それをおいしそうに食べ、それからというもの二度と悪さをしなくなったそうです』とある。……しかし……お不動さまも閻魔大王も……Coronavirus disease 2019(COVID-19)には勝てず……『今年は、念仏赤餅つき・赤餅の販売は、中止になりました』とある……宗教も政治も科学技術も……遂には人を救うことは……ないのである…………

「何某の玄蕃なる人」「鬼玄蕃」筆者は姓を伏せて匿名にしているが、これは「大乘垂ㇾ戒」で既出既注の佐久間盛政のことであろう。織田氏の家臣にして大聖寺城主・初代金沢城主であった彼は官途及び通称が「玄蕃允」で、その勇猛さから「鬼玄蕃」と称された。その凄絶な最期はウィキの「佐久間盛政」を読まれたいが、それは鬼をも黙らせるものである。]

 一日(いちじつ)細雨の空くらく、林葉(りんえふ)霧こめてくらかりし日、此峠を越中の方より越え來りしに、峠にすさまじき男二人、生木(なまき)の棒なるをつきて立はだかり、山の下を見おろして立ちたり。我れ是が前を通るに、すさまじげなる男ども聲懸けて、

「此麓より二十歲(はたち)許りなる女房來るべし。『早く來(きた)れよ』と云ひてたべ」

と云ふほどに、

『昔語りにも聞ける面影なるもの哉(かな)』

と、麓の方(かた)へ下りけるが、道十町[やぶちゃん注:約一・〇九一キロメートル。]許を過ぎて、果して一人の女に逢ひたり。其色靑ざめ、物思へること深しと覺えて打ちかたぶき、猶又足さへ蹈損(ふみそこな)ひぬらん、細き杖に縋りてよろよろと來(きた)る。

 我、

「是ならん」

と知りて、則ち詞を懸けて、

「此嶺に二人の男あり、『早く來り給へ』と言傳(いひづて)ありし」

と云ひけるに、女は

「有難し」

とのみ答へて、又うつぶき去る。我(われ)立休(たちやす)らへども、其謂(いは)れを語るにも非ず。餘り求め兼て女を呼返し、

「若(も)し袖にてもなしや」

と尋ねければ、女いと打歎き、

「袖にさへ二番違ひにて侍りし」

と答へては去りし。

 此程富突(とみつき)の大(おほい)に流行せしかば、彼らにもあたらで力落したるものとは見えてけり。

 是もし幽靈ならんには、故人の糟粕(さうかう)なるべし。

 されば怪異も平日あることを以て、其儘其妖あり。是も思夢(しむ)の類ひならんか。

[やぶちゃん注:「昔語りにも聞ける面影なるもの哉」その二人の男の顔が昔物語に聴くような人間離れしたまさに「鬼」のような面構えであるよ、と思ったのである。「伊勢物語」の第六段の知られた「芥川の段」を洒落たのである。

「我立休らへども、其謂れを語るにも非ず。餘り求め兼て女を呼返し」私(筆者)はそこで立ち止まって暫く彼女の後姿を見守っていたが、かの女は何も――今の自分の病み衰えた様なさまや男たちとの関係について――語るわけでもなく、そのまま過ぎ行こうとしたので、余りに思い余って気に懸かり、女を呼び返して。

「若(も)し袖にてもなしや」「もしや……お女中……富突きの……袖さえも、これ、当たらなんだか?……」。江戸時代の富籤の当たり籤の前後の番号を「袖」と呼んだ。本籤(ほんくじ)に対して、これも当たりの今で言う「前後賞」として少額の賞金が出ることがあった。

「是もし幽靈ならんには、故人の糟粕(さうかう)なるべし」「……この女……「幽霊であろう」……と誰かが名指すなら……それは幽霊というよりは――死んだようになった者の哀れな魂(たましい)の滓(かす)のようなもの――とでも称すべきものであろう。」という謂いか。この部分のミソは、筆者が越中から倶利伽羅峠を越えて来たことにあろう。女は越中へ下って行くのである。そこに「鬼」(如何にも人間離れした顔であると言うのは牛頭・馬頭らしい)が遅しと待っているのである。その先には――立山の地獄谷の熱湯の中で煮られる現在地獄が待っているのである。この女は富籤に全財産を使い果たして自ら命を絶ったものでもあったのかも知れぬという匂わせである。但し、これは筆者堀麦水が実際に体験した事実に基づいて、創作を加えたものであろう。無論、女は生身の人間である。彼女は富籤に溺れて破産した結果、「鬼」のような「女衒(ぜげん)」に売られて、越中に身売りをする途中だったのではなかったか? いやさ、それもそれ――女郎の苦界(くがい)に墮ちる現在地獄――と謂うべきではあろう。そもそも本書は怪奇談を語ることを旨としている訳で、実際に麦水が地獄の鬼二人と霊の女に逢ったとなら、その恐怖を保存して描くだけの力量を彼は持っている。さればこそ、ここは特異的な諧謔によるコーダなのだと私は思うのである。なお、「そんな諧謔なんて」と鼻白む方は私の十返舎一九の「箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 芦の湯 木賀」を読まれるといい(天保四(一八三三)年板行)。そこで旅人はトンデモなく滑稽な諧謔を語るのだ。「この山にも地獄があるが、わしが前方(まへかた)、越中の立山へ參詣した時、立山の地獄では、しんだものにあふといふにちがひなく、わしがひさしくなじんだ女郞で、しんだのがあつたが、その女郞の幽靈に、立山であったから、『これはめづらしい。そなた今はどこにどうしてゐる』ときいたら、その女のいふには、『妾(わし)は今、畜生道(ちくせうどう)へおちてゐますが、妾(わし)が今の亭主は、顏は人間、體は馬(むま)でござりますが、人が世話(せわ)して、妾(わし)は今そこへかたづきました。世間の譬(たとへ)にも、馬にはのってみよ、人にはそふて見よといふ事がござりますが、わしはどうぞ馬にそふて見たいものだと思ひました。念がとどひて、とうとう馬の女房になつております。地獄の賽の河原町におりますから、御前(おまへ)も、はやふしんで、たづねてきてくださりませ』とぬかしたから、大笑ひだ。」……お後が宜しいようで……

「思夢の類ひ」泡沫(みなわ)のごとき如何にも儚い哀れなるものへの執心の末路の類い、といった意味か。]

2020/04/13

三州奇談卷之五 縮地氣妖

 

    縮地氣妖

 山は高きにあらざれども、佛あれば靈妙あり。此卯辰山觀音院の後ろの山には、初め縮地(しゆくち)の怪あり。縮地は「南島變(なんとうへん)」にも記すが如く、物の間(あひだ)近く見ゆる怪なり。

[やぶちゃん注:「縮地」本来は道教の仙術の名で、呪法によって土地を縮めて距離を短くすることを言う。後漢の費長房が地脈を縮めて千里先の土地を眼前に見せ現させたという「神仙伝」の巻五「壺公」などに見える故事に由る。

「卯辰山觀音院」前の「祭禮申樂」参照。

「南島變」「寬永南島變」。何のことはない、本書の筆者堀麦水の宝暦一四(一七六四)年成立と見られる「天草の乱」を中心とした実録物。]

 然る所に元祿十二年臘月下(しも)の三日、此山崩れ、泥水城下の町を漂(ただよ)はし、ほら貝ありて此泥水に乘じ、淺野川を下りに粟崎(あはがさき)・大野の大海(たいかい)に下り向ひ去る[やぶちゃん注:ここは何か衍字っぽい感じがする。寧ろ国書刊行会本では『浅野川をくだり大野・粟ヶ崎の大海に向ひ去る』となっていて、すんなり読める。]。此後は卯辰山を「崩れ山」と云ひ、又縮地の怪なし。

[やぶちゃん注:この部分の叙述に従うなら、少なくとも卯辰山の怪奇な縮地現象は、この妖怪ならぬ妖貝の法螺貝が生じさせていたものと結論づけていることが判る。

「元祿十二年臘月下(しも)の三日」元禄十二年十二月二十三日。グレゴリオ暦一七〇〇年二月十一日。

「ほら貝」あの海産の巨大な巻き貝である腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis である。民俗伝承を御存じない多くの読者は「何故ここに法螺貝?」とお思いになるであろうが、地震と鯰の関係と同じと考えて戴ければ判りがよい。地面の下に大鯰が隠れていて、それが地震(ない)を起すと考えたと同じく、山中や陸の土中に法螺貝がいて、それが時に動くことで山崩れや地割れが起こると考えたのである。これは鯰ほどでないにしても、各地に見られる結構、メジャーな伝承なのである。例えば、宝永七(一七〇九)年完成の貝原益軒の「大和本草」の「卷之十四 水蟲 介類 梵貝(ホラガイ)」(私の電子化注)には、

   *

○今、按ずるに、俗に「ほらの貝」と云ふ。大螺なり。佛書に法螺(ほうら)と云ふ、是なり。海中、或いは山土の内にあり。大雨ふり、山くづれて、出(いづ)る事あり。大に鳴れりと云ふ。本邦、昔より軍陣に用(もちひ)て之を吹く。「源平盛衰記」に見ゑたり。佛書「賢愚經」にも、軍に貝を吹(ふく)こと、あり。亦、本邦の山伏、これを、ふく。

○後土御門院明應八年六月十日、大風雨の夜、遠州橋本の陸地より、法螺の貝、多く出て、濵名の湖との間の陸地、俄(にはか)にきれて、湖水とつゞきて、入海(いりうみ)となる。今の荒江と前坂の間、「今切」の入海、是なり。故に今は濵名の湖は、なし。濱名の橋は、湖より海に流るゝ川にかけし橋なり。今は、川、なければ、橋、なし。「遠江(とほたふみ)」と名づけしも、此湖ありて都に遠きゆへ、「遠江」と名づく。「遠江」とは「とをつあはうみ」なり。「淡海(あはうみ)」とは「しほうみ」にあらず、「水海(みづうみ)」のこと也。「遠江」とは「近江(あふみ)」に對せる名也。

   *

とあり、正徳二(一七一二)年頃の完成した寺島良安の百科事典「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」(リンク先は私の古い電子化注)の「寶螺(ほらのかひ)」にも、

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凡そ、地震に非ずして、山岳、暴(にはか)に崩(くづ)れ裂(さ)くる者(こと)有り。相ひ傳へて云ふ、「寶螺、跳り出でて然り」と。遠州〔=遠江〕荒井の今切のごとき者の處處に、大小の之れ有り。龍か螺か、未だ其の實を知らず。

   *

と記している。そこで私は、『俗信として修験者の用いた法螺貝が長年、深山幽谷に埋もれ、それが精気を得て、再び海中に戻り入る時、山崩れが起きるという俗信があるようである』と述べた。また、かの柳田國男もこちら(私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47) 「光月の輪」(2)』)で、

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「ほら」と云ふ動物が地中に住むと云ふは、甚だ當てにならぬ話なり。法螺(ほら)と云ふはもと樂器なれど、之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔(ほらぬい)けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり。此くのごとき思想は疑ひも無く、蟄蟲(ちつちゆう)より起りしならんが、大鯰(おほなまづ)・白田螺(しろつぶ)の類ひの、元來、水底に在るべき物、地中に入りて住む、と云ひし例、少なからず。

   *

と述べている。そこで私は注して、

   *

ここに書かれた崩落や地震が法螺貝が起こすという話は、一般の方は非常に奇異に感じられるであろうが(地震と地下の「大鯰」伝承はご存じでも)、民俗伝承上ではかなり知られたものなのである。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や同書の「法螺貝の出しを見る事」を参照されたい。これはホラガイが熱帯性で生体のホラガイを見た日本人が殆んどいなかったこと、修験者・山伏がこれを持って深山を駆けたこと等から、法螺貝は山に住むと誤認し、その音の異様な轟きが、山崩れや地震と共感呪術的に共鳴したものとして古人に認識されたためと私は考えている。

   *

と記した。「佐渡怪談藻鹽草」は、驚くべきその具体的実例とするものである。ホラガイが数千年を経て龍となったとする話はウィキの「出世螺」にも詳しいが、以上は、皆、私のオリジナルな電子テクストで、しかも重なるものはないことからも、この怪奇な陸の法螺貝の妖異が、実は、かなりよく知られていたことの証しとなろう。学術論文でないと気の済まないアカデミズム妄信の面倒臭い読者向けには、斎藤純氏の論文「法螺抜け伝承の考察――法螺と呪宝――」PDF)がお薦めである。

「粟崎・大野」「今昔マップ」がよい。浅野川は古くは現在位置よりも遙か北で河北潟に流れ下り、そこから河北潟南端を大野川となって流れ、右カーブをして日本海に注いでいるのだが、その右岸一帯が旧粟ヶ崎村であり、カーブした左岸が大野町であったのである。]

 此山續きを東にゆけば「池が原」と云ふ山あり。尙加州河北郡なり。此池が原の池[やぶちゃん注:この「池」は国書刊行会本では『地』である。その方がいい。]、寶曆二年[やぶちゃん注:一七五二年。]の春の頃より地面音無くして上下する事やまず。或はかしこ高くなり、爰は低くなり、爰(ここ)落入ればかしこもり上るが如く、後には每日每日にして、地のうねうねする事、只波瀾の船中に座するが如く、何の業(わざ)と云ふことを知らず。人民皆

「只今にも泥海にやなりなん。傳へ聞く、越中礪波(となみ)木船(きふね)の城は、地境(ちさかひ)石動(いするぎ)に遠からず。土中へ落入りて上下人民皆死せしと。爰も左あらんにや」

と、家を明け寺を廢して、近鄕の知音(ちいん)知音に引退(ひきの)かし、其後(そののち)は多く見物に行く人ありしが、甚しく地の上下する時に至りては、人正しく眺むること能はず、逃走りては是を見る。斯くの如き事凡(およそ)七八十日にして、地靜(しづま)りて何の替りもなし。されども地の高低は大いに替り、家半分は高きあり半分は谷のごとき所もあり。二つの軒一つは嶺にあり一つは川に入るなどあり。誠に怪(あやし)むべし。是等地中に物ありて斯くの如くなるにや。

[やぶちゃん注:「池が原」「加能郷土辞彙」には『イケガハラ 池ヶ原 河北郡英田鄕に屬する部落』として、出典を本篇とするのだが、これは以前に出た旧石川県河北郡英田(あがた)村(歴史的行政区域データセット)内で、これは現在の河北郡津幡町字池ケ原(グーグル・マップ・データ)しかないのだ。しかしここは、逆立ちしても、卯辰山から「此山續きを東にゆけば」なんどとはゼッタイ! 言えない! 十八キロも東北で、途中で峰は切れてるっうの!!! 今、地区内に池は二つ現認出来る(如何にも農業用水地然とした新しいもの)が、池が上下するのではおかしいので、私はやはり「地」の誤りとしたい。

「越中礪波(となみ)木船の城」富山県高岡市福岡町木舟にあった木舟城。詳しい事跡はウィキの「木舟城」を見られたいが、この城、あった当時は三重の堀に囲まれていた上、周囲は湿地帯であったとあるから、そりゃ、ズブズブ! 沈んだり浮いたり、するわな! しかし、そんな怪異があったってどこに記載があるねん!?!

「石動」小矢部市城山町白馬山(標高百八十六メートル)にあった今石動(いまいするぎ)城(グーグル・マップ・データ)。実際の石動山(同前)とは全く位置が異なるので注意されたい。ウィキの「今石動城」によれば、『白馬山頂には元々能登・越中国境にある石動山(せきどうさん)山頂に在った伊須流岐比古(いするぎひこ)神社から勧請した伊須流伎比古神社があり、白馬山に築城するに』当たって、その神社名に因み、『「新しい石動(いするぎ)」=「今石動」と名付けたと云われているが』、一方で天正一〇(一五八二)年、『前田利家が石動山天平寺を攻めた折、天平寺の衆徒は和睦の人質として本地仏の木造虚空蔵菩薩像を差し出し、その後城を築くにあたり、これを城の守護尊として愛宕神社に祀ったため、石動山から多くの衆徒が集まり「今石動」と呼ばれるようになったという話もある(ただし、利家は石動山を焼き尽くし、宗徒らにも撫で斬りに近い対応をもって臨んでいる)』というのが名前の由来とする。木船城からここは西に五キロほど、池ヶ原はここから直線で七・六キロほどで、足すと十三キロ近くあって、地続きとするに足るものではない気がするが? これもわざわざ今石動城を挟んで言わなきゃならないところに、何か妙なものを感ずる。『「石動」という地名に、この怪奇の地面の変動を掛けたかっただけじゃないの?』と勘繰りたくなった。

 此續は地妖も又多し。此末加賀・越中の境、倶利加羅山には、嶺に靈驗の不動堂あり。是を下れば「猿ケ馬場」と云ふ。此邊は嶺傳ひ、只馬の背上の如くなる道を廻りて下る。諸山を見下し、向ふ雲烟の間(かん)には立山の劍峰(つるぎのみね)突々と立てり。右に顧れば、飛驒境五箇の山々羅列し、左に顧れば能州地堺の山々畦(あぜ)の如く見下す。只倶利伽羅の道、兩方谷にして上に立てば鞍上(くらのうへ)の心地するなり。是に依りて思へば、「くりから」の梵音(ぼんおん)其謂(いはれ)ありといへども、和名に依て起る所は、「鞍」によるなるべし。昔は「からくら」「くりくら」など「鞍」の古名なれば、此轉語(てんご)とぞ思はる。山少し下りて三廻り下る所を「天池」と云ふ。茶店三つ四つあり。此上の山を「三つ子山」と云ふ。此邊より山へ入る道の間に、彼(かの)縮地の怪今猶顯然とあり。年ごとに必ず一兩度逢ふ者ありと云ふ。

[やぶちゃん注:「倶利加羅山」この中央が倶利伽羅峠(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。今までのロケーションが画面内に入るように選んだ。

「不動堂」倶利迦羅不動寺

「猿ケ馬場」峠の東側。倶利伽羅峠古戦場にして平家軍本陣跡。富山県小矢部市石坂のここ

「立山の劍峰」剱岳。真東位置

「飛驒境五箇の山々」富山県南砺市相倉五箇山

「能州地堺の山々」この上部附近が旧国境

「梵音其謂(いはれ)ありといへども」「一聴、梵語(サンスクリット語)の深遠なるありがたい意味があるように思われるかも知れぬが」の意。あるネット記載によれば、「くりから」の語源はサンスクリット語で「黒い龍」を意味し、不動明王の化身の一つでもあるとされる。「倶利伽羅剣」「利迦羅剣」は不動明王の立像が右手に持つ剣の名とされ、三昧耶形では不動明王の象徴そのものであり、貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣とされる。剣は倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって巻き纏っていることからこの名がある、とウィキの「倶利伽羅剣」にはある。

「からくら」は「唐鞍」で「からぐら」とも読み、飾り鞍の中でも朝儀の出行列の際に用いられた正式の馬具を指す。銀面・頸総(くびぶさ)・雲珠(うず)・杏葉(ぎょうよう)などの特殊な飾りがあり、外国使節の接待・御禊(ごけい)・供奉(ぐぶ)の公卿や賀茂の使いなどが使用した。

「くりから」一木から「刳り」抜いた一体の「鞍」の謂いか。

「轉語」訛(なまり)。

「天池」個人サイト「歴史街道旧北陸道」のこちらに、その「天池」(の名残か)が画像で見られる。また、「小矢部市歴史散策マップ」PDF)に「峠(天池)茶屋跡」を見出せる。恐らくこの中央附近である(グーグル・マップ・データ航空写真)。『昭和の初め頃まで茶屋のあったところ』とあるので、「茶店三つ四つあり」という叙述と一致する。国土地理地院図のこの附近である。

『此上の山を「三つ子山」と云ふ』前の国土地理院図の北の百六十四メートルのピークと、南の矢立山(二百五・六メートル)とその間にある無名の峰を合わせたものか?]

 其所謂(いはれ)を尋ぬるに、此邊の樵夫(きこり)ども山々に入りて木を伐り、枝を集めなどするに、各五七里も手を分て山に行く。常は煙霞打隔たりて見分くべくもなし。山さへ慥(たしか)には知得(しりう)べからず。然るに時ありては日光朗(ほがら)かにして、樹木ありありと近く、彼五七里も隔て分け入し友人も、目のあたり向ふの山にあり。然共(しかれども)聲をかくるに屆くことなし。只手を以て眞似する時は、彼も手を振りて答へ、手を以て告ぐ。されども怪妖何共(なんとも)分くべきかたもなく、心元なき故、多くは頭を振り、手を以て麓を指さして歸り去るべき殊を示すに、こなたも又うなづきて、多くは日中に業(ぎやう)を止めて、山を下り去る。偖(さて)麓に下れば、其山遠く成り、遙かの道を經て歸り合ひて、共にふしぎを語りあふこと年每なりといへども、山中心安からず、其日は必ず業を捨てゝ歸りしと云ふ。凡五七里[やぶちゃん注:二十弱から二十三半キロメートル。]許の所を二三町[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]程に縮めて見すること、此山の妙なり。多くは此天地「三つ子山」の上なり。地氣立つと覺えたり。是靈異か、是寶氣(はうき)か、又魔魅か知るべからず。

[やぶちゃん注:この条件は何かおかしい。「三つ子山」から「五七里」も離れた場所に、一緒な場所から山入りするということ自体があり得ないことだからだ! ここから北は氷見市の山中の熊無だぜ?(ここは私の旧友が住んでいたところだからよく知っている。とんでもない北方だぞ?) 南なら卯辰山の東の奥卯辰だぜ?!

 卯辰山觀音山の縮地の程は、斯くの如くなりしとはいへども、其事久しうして今は知者なし。倶利伽羅の縮地は、日を費し月を重ねて是を待てば、今日にても其怪には逢るゝ事なり。其證顯然たること斯くの如し。

 或人曰く、

「是法螺貝の氣なり。法螺は山鳥の卵より生ず。初め山鳥子を產む所、草間に置くときは山鳥となり、誤りて谷水へ落す物は化して法螺と成る。故にほら貝山鳥の斑(まだら)あり。聲又山を拔く響あり。夫(それ)山鳥の人を迷はすや、其形(かた)ち、手元にありて人を引く。是縮地の怪に理(ことはり)は同じ。雉海中に入る時は、化して蜃(しん/おほはまぐり)となり、蜃氣(しんき)を吐(はき)て城廓山林の形(かた)ちを現す。則ち此(この)向ひの那古(なご)の海尤も又一奇觀なり。蜃の玉を吐移(はきうつす)と云ふ」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「那古の海」「奈吳の海」。現在の富山県新湊市から高岡市伏木及び雨晴(あまはらし)の西部海岸広域一帯の古称。この地に赴任した大伴家持の歌で有名になった歌枕。私はここで中高時代を過ごした。]

「蜃は龍に似て鱗逆につけり。其氣味・功能甚だ奇なり」

と聞く。

 或人、

「『中山花敎』にありて見たり」

とて語りしは、

「蜃の肉を取りて瓶に納め、地に埋(うづ)むること三年すれば、一變して白砂のごとし。是に米に交へて以て酒を造れば、十餘年にして白光(びやくかう)ありて香(か)うるはしき醇酒(じゆんしゆ)となる。味も甚だ美なり。一盃の酒一斗に當る。酌みて盡(つき)ざるがごとし。此酒を多く飮みて醉(ゑひ)に至れば、千日の内は醉(ゑひ)の醒(さむ)ることなし。其間又食を思はず。天地日月をして目前を徘徊せしめ、他の玉樓金殿を將(ま)つて我家の思ひをなさしめ、一身樂しみを盡し、志を恣(ほしい)まゝにするに足れり。若(も)し此醉を急に醒(さま)さんと欲する時は、靑竹を伐りて是に打またがり、其竹瀝(ちくれき)を吸ふ時は、忽ち醒めて元の如し」

とへ云へり。

 若し此事なし得て其實(じつ)を得るならば、壺公(ここう)が縮地は必ず此事にして、費長房は其術中にありて解せざるものゝごとし。是等(これら)理か非か、未だ分つべからず[やぶちゃん注:底本は「す」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]。蜃氣(しんき)は山鳥に同じくして、物を移し近かしむるの妙あること顯然たり。此螺貝(ほらがひ)多く海また蜃多し。是れ則(すなはち)寶氣を生ずるの地なること顯然たる物か。蜃氣樓の論に至りては、後卷に委しければ、爰には略す。

[やぶちゃん注:「中山花敎」書名としか思われないが、不詳。識者の御教授を乞う。

「竹瀝」節を抜いた生の淡竹(はちく)を火で炙り、切り口から出た液を集めたもの。生の生姜(生姜)とともに喘息・肺炎などに民間薬として用いられた。

「壺公」日蓮宗の関連サイトらしい「仏教説話」のこちらから引用する。『唐の長安に常に薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は薬を相手の言い値で売っていた。この老人がどういう人なのか、知る人はいなかった』。『そのとき、汝南(しょなん)の費長房』(前注した人物と同じ)『という人が町の奉行に就任した。彼が楼の上に立って町を見回していると、翁は一つの壺を持っていて、日暮れ時になると人に知られずにこの壺の中に躍り入った。長房はこれをたびたび目撃して、この翁はただ人でないと知り訪ねて行き、敬って食物などをすすめると翁は非常に喜んだ』。『かくして何年か経たって、翁が長房に「君には金骨の相がある。仙道を学ぶことができよう。日が暮れて人のいない時分に来なさい」と告げた。言われたとおり日暮れに行くと、翁は「我(われ)に続いて壺の中に躍り入れ」と言って、先に翁が躍り入り、長房がそれに続いた』。『壺の中には天地、日月があり、宮殿、楼閣は見事であった。侍者は数千人いて老翁を助け敬っていた。長房は快楽に浸ひたりながらも、なお故郷を忘れることができなかった。老翁はそのような長房の気持ちを察して「もし君が帰りたいと思っているなら、これに乗って行きなさい」と、一つの竹の竿(さお)を与えた。長房はこの竹の竿に乗って長安に帰ってきたのである』。『この竿を葛陂(かっぴ)という所の水の中に投げ捨てると、竿はすぐに青い竜となって天に登り去った』。『この話は『神仙伝』の「壺公」と題する中にあって、憂世うきよの命や名はただ夢の中にあるだけで、はかないものであるということを述べているのである』。『作者は深山に幽栖ゆうせいしていたので、壺中の世界を世上の無常の世界に充てたのである』とある。所謂、壺中天(こちゅうてん)伝承である。こういう現世利益を求めたが故に費長房は仙化するのに、最低の尸解仙(しかいせん:一度、人として死んで遺骸となって仙人になる最下級クラスの登仙法である)としてしか羽化登仙出来なかったのである。「費長房は其術中にありて解せざるものゝごとし」とは、それ(戦術としては不完全であること)を言っているものと私は思う。まあ、私は大凡夫仙人として費長房が大好きだがね…………

「蜃氣樓の論に至りては、後卷に委し」私は本書の続篇以降を読んでいない。電子化途中で、もし、あって判ったなら、追記する。]

三州奇談卷之五 祭禮申樂

 

 三 州 奇 談 卷五

 

    祭禮申樂

 人民政事は諸侯の寶、土地開け上下和し、誠に喜びを加ふる都會なり。殊に卯辰山(うだつやま)觀音院は、本城の東の岡に對し、靈驗と云ひ致景と云ひ、金城の貴賤日夜參詣し、昇平を樂しむ所なり。

[やぶちゃん注:表題は「さいれいさるがく」と読む。能(謡曲)は江戸時代までは「申楽」「猿楽」と呼ばれた。「狂言」とともに「能楽」と総称されるようになるのは明治以降のことである。

「卯辰山觀音院」卯辰山西麓にある真言宗長谷山(はせざん)観音院(グーグル・マップ・データ)。サイト「北陸三十三ヵ所観音霊場」の解説によれば、『卯辰山入口にある当寺は、本尊観音菩薩をまつり、金沢の発詳にちなむ歴史的由緒をもっています。すなわち、聖武天皇の天平年間(七四〇年ごろ)加賀国野々市の里に藤五郎という善人が居り、芋を掘って暮らしていたので、芋掘藤五郎と呼ばれていました。芋と共に砂金を見つけ、金洗沢で洗ったので「金沢」の地名がおこり、藤五郎は長者になりました。藤五郎夫婦は観音の信仰あつく、行基菩薩に願い、大和の長谷観音の同木で十一面観音を彫刻していただき、当寺を創建したところ、益々家運が栄えました。一族は七村となりその氏神として、大和、鎌倉と並び、加賀の長谷観音とうたわれました』。『その後、火災で焼失したのを、慶長六年(一六〇一)前田利長公により卯辰山に移築、毎年四月一・二日には神事能が催されました』(太字下線は私が附した)。『芋掘藤五郎の伝説は金沢の起源にちなむと共に、大昔の当地の様子を伝え、また一向一揆にほろぼされた富樫家をしのぶ言い伝えとも考えられます』。『富樫家は今の金沢郊外・野々市町あたりを中心に加賀国守として六百年にわたり栄えた名門で、特に源義経と弁慶一行を安宅の関で見破りながら逃した富樫泰家の話は有名で、二四代政親のとき高尾城にて一揆の勢力に敗れて一門の歴史を閉じました』。『当寺には仏像・仏画も多数伝わり、中でも藤五郎の寄進と伝えられる十一面観音は霊像として前田家にも厚く崇められたものです』とある。

「昇平」世の中が平和でよく治まっていること。]

 時は國初より第三主則ち微妙院殿の御二男千勝君と申すは御守殿天德院殿の御腹にて、上下の敬ひ殊に重かりし。時に元和(げんな)三年十一月朔日(ついたち)、此千勝君卯辰山觀音院の境内山王權現ありしに御宮參りあり。本堂觀音の堂の緣に御上りなされ、御休なされしに、其頃御年四歲とかや。後富山侯と成給ふ是なり。

[やぶちゃん注:「國初」藩祖前田利家(彼を初代とする考え方もあるが、私は別格として数えない)。

「第三主則ち微妙院殿」加賀藩第二代藩主で加賀前田家第三代当主前田利常。藩祖利家の庶子で四男。嗣子がいなかった加賀藩初代藩主で利家の長男であった異母兄利長の養子となった。微妙院殿は彼の戒名。

「御二男千勝君」前田利次。ここにある通り、後の越中富山藩十万石の初代藩主となった。

「御守殿天德院殿」跡の院殿は徳川秀忠の次女珠姫の戒名。頭の「御守殿」は江戸時代に於いて三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘に対する敬称。利常は婚姻後の寛永三(一六二六)年に従三位権中納言となっている。

「元和三年十一月朔日」一六一七年。但し、この年月日と年齢「御年四歲」はおかしい。利次はこの元和三年四月二十九日生まれで、未だ生後六ヶ月だからである。「御年四歲」なら、元和六年である。

「山王權現」この社には隠された秘密がある。現在の卯辰山にある豊国神社であるが、実はこれは豊臣秀吉を主祭神とするもので、それに前田利常を併祀したものである。近くの卯辰神社(天満宮)・愛宕神社とともに卯辰山三社と呼ばれるが、これは元和二(一六一六)年に第二代藩主利常が藩祖前田利家の遺志に基づいて、卯辰山の卯辰山観音院に密かに秀吉の像を祀ったことに始まる。但し、徳川幕府に憚って「山王社」と称していた。歴代藩主が産土神として篤く崇敬し、祭礼は金沢の総祭りとして賑った、とウィキの「豊国神社(金沢市)」にある。なお、武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『金沢・観音町復活②昔の観音町と卯辰山王と観音院!!』を見ると、『観音院は、開祖祐慶が卯辰山愛宕社の別当明王院の』二『世で、隠居して観音山へ移り、観音堂と隠居所を建立し』て『観音院と号し』、『卯辰山山王の別当となります。宗派は高野山真言宗、山号は卯辰山(長谷山)。元々石浦山王社を勧請したもので』、『本尊十一面観音菩薩像は行基菩薩の御作で大和国長谷観音の末木で作られたと伝えられたものですが』、『愛宕明王院の祐慶が石浦山王から借り受けたものでした』とある。]

 其砌(みぎり)町方よりも多く參詣もありしに、觀音堂にて見やり給うて、殊に御機嫌よく、御伽(おんとぎ)に御傍へ出で、謠(うたひ)などうたひし子供もありしとかや。

[やぶちゃん注:「御伽」御傍(おそば)に仕って御慰みのお相手をし申し上げることを指す。]

 御悅(およろこび)にて御歸館ありしを、觀音院を初め町中にも殊の外有難き事に覺えて、則ち翌二日・三日兩日に、此祝(このいはひ)として町人等(ら)寄り集り、囃子(はやし)を興行せしに、御城よりも、

「此儀、御滿足。」

とて、餠米二十俵・小豆三俵下さる。是觀音院能の格の始(はじめ)なり。翌四年より[やぶちゃん注:国書刊行会本では『同八年より』となっており、これなら不自然でない。]四月朔日・二日と定(さだま)り、「觀音御能」と稱し、諸事町役となりて、國中へ見物仰付けられ、本町棧敷(さじき)渡りて、兩家の能太夫を定め給ふ。波吉(なみよし)・諸橋(もろはし)是なり。

[やぶちゃん注:「本町」金沢には複数あった。町の中でも最も格付けの高い町で、地子銀(じしぎん)と呼ばれる銀で納められる土地税が免除された町という。

「兩家の能太夫」孰れも宝生流。加賀藩ではこの二人が神事能や勧進能を行ったことがADEAC「石川県史」の検索で判る。]

 其外、町中より是に堪能(たんのう)の者共、御扶持を蒙りて觀音御役者と稱(とな)ふ。されば此能國家の守り專一なるにや。故障ありて延びる時は、必ず國君凶事あり。不例はひとつひとつ言ふべからず。能は兩日とも、翁三番叟(おきなさんばさう)なり。

[やぶちゃん注:「翁三番叟」「翁」は能楽の演目の一つで別格に扱われる祝言曲。最初に翁を演じる正式な番組立てを「翁付」と称し、正月初会や祝賀能などで演じられる。翁・千歳・三番叟の三人の歌舞からなり、翁役は白色尉(はくしきじょう)、三番叟役は黒色尉という面をつける。原則として翁に続いて同じシテ・地謡・囃子方で脇能を演じる。]

 此翁の面に奇特あり。是も又靑木が原の波間より現はれ出し不思議を聞けば、其頃慶長の初め、能登國諸橋村に正直の父母一人の娘を持ち、彼も又孝順なり。且つ白雉山(はくちざん)明泉寺(みやうせんじ)の觀世音を信じ、步を常に運びしに、其頃此海邊の沖に夜な夜な光る者あり。或夜彼夫婦の者に、此の本尊枕上に立ちてのたまはく、

「汝等、比國の始めを知まじ。」

とて、彼(かの)比叡山開闢(かいびやく)の由來を懇(ねんごろ)に示し給ひ、且(かつ)、

「此寺の藥師如來は行基菩薩の造る所なり。汝が娘此像に前生(ぜんしやう)の因緣あり。是を娘に與ふべし。今より五年にして悅(よろこび)あらん。八年にして男子あらん。後五十年を經て、大きに幸(さいはひ)を得べし。且つ此ほど波上の光り物は、白髭明神此(この)淨瑠璃(じやうるり)世界の主に逢はんと來れるなり。汝早く娘を伴なひ、尊像を抱きて海邊に至り、誠心に是を拜せば必ず奇特あるべし。」

と見て、夢は覺めたり。

[やぶちゃん注:「靑木が原」国書刊行会本では『樒が原』(しきみがはら)とあるが、意味不明。或いはここで演ずる際には翁が、樒(アウストロバイレヤ目 Austrobaileyales マツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum。神仏の祭事に用いられる)或いは青い木の葉を飾った祭壇(それはこの叙述からは海を表象するようである)から出現するものか。通常の「翁」では舞台に祭壇は作るが、翁は橋掛かりから出る。

「慶長」一五九六年~一六一五年。

「能登國諸橋村」旧石川県鳳至郡諸橋村(歴史的行政区域データセット)。現在の石川県鳳珠郡穴水町(まち)の東方部分。

「白雉山明泉寺」石川県鳳珠郡穴水町字明千寺(みょうせんじ)にある真言宗白雉山明泉寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は千手千眼観世音菩薩。白雉三(六五二)年に創建された古刹。開山は不明。因みに境内には、弘法大師がこの地で修行した折、空から降って来て夜を照らしたと言われる明星石があるとある。

「淨瑠璃世界」東方にあるとされる薬師如来の浄土。瑠璃を大地として、建物・用具は総て七宝造りで、多くの菩薩が住むとされる。]

 父子是を語り合ひて大いに驚き、頓(やが)て示現(じげん)に任せて曉早く海岸に下り、遙に沖を拜しけるに、例の光物間近く來りて、一つの岩に留まり、光明赫々(かくかく)として、微妙の音を發し謠(うた)ふ聲あり。

 父子、波にひたり近づき見れば、一の翁の面なり。

「是、必ず、靈夢の賜物なり。」

と、感淚と共に納めて家路に歸り、明泉寺へも詣でゝ是を感嘆す。

 其後、泉州堺の富家小西次郞兵衞と云ふ者、遠く藥種を尋ねて爰に來り、彼(かの)家に宿りけるに、宿緣の故にや、年每に此夫婦が家を定宿(ぢやうやど)として懇に因(ちな)みける。

 其頃、娘は十七歲、もとより美麗にして容姿も珍らし。[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『次郎兵衛も青年の人、互に相捨(あひすて)ざる心より、終(つひ)にかぞいろ[やぶちゃん注:父母]につたへて』とある。]婦妻に貰ひて金澤に歸り、尾張町に家居して高岡屋次郞兵衞と名乘る是なり。父母も示現の詞(ことば)を合せたる如くなれば、大いに悅び、彼藥師の像と「溜息の面」を以て聟引出(むこひきで)とはなしたり。

[やぶちゃん注:「溜息の面」意味不明であるが、翁の面を指していよう。「溜息の」出るほどに優れた面ということか?

「聟引出」婿への引き出物とすること。]

 其後次郞兵衞に、一人の男子を生じ、成人の後(のち)世を讓りて、夫婦共に法躰(ほつたい)して、父は「道善」と云ひ、母は「妙音尼」と云ふ。共に長生して大往生を遂げたり。二代の次郞兵衞、又嗣子に世を讓りて「宗齋」と云ふ。此時國主の惠(めぐみ)を蒙ること深く、次第に家榮えて巨萬の富を得たりしかば、大守の國恩を報ぜんとて、彼(かの)溜息の面を献じ奉る。國守是を甚だ奇とし給ひ、感悅斜(なのめな)らず、宗齋に、

「何によらず、願ふべし。」

との君命有りかたく、

「日頃の願望は家に傳ふる所の靈佛、恐らくは汚穢(をゑ)不淨の家、其所を得ざるかなれば、父母追善のため、一寺を建立せんこと。」

を願ひけるに、是又、國主の御感(ぎよかん)に預り、則(すなはち)、卯辰山の邊にして寺地三千步を下され、其望を許されければ、宗齋、大いに悅び、頓(やが)て一寺を建立し、直に洛陽淸淨慶院(しやうじやうけいゐん)に參り、寺號および開山と成るべき師を下し給はらんことを望みけるに、院主も是を嘆じ、則(すなはち)父の法名を直に用ひて「善導寺」とし、母の號を取りて「妙音山」と稱し、彼(かの)藥師佛を永く此寺の鎭守とす。此趣を公(おほやけ)に聞えければ、天氣殊に御快(おこころよ)く、忝(かたじけな)くも勅裁をなして寺號・山號共に額を下されければ、日頃の望(のぞみ)爰に足り、彼(かの)一寺に父母の影像を安置して、寺名四方にはびこれり。

[やぶちゃん注:「淸淨慶院」不詳。京都市上京区に清浄華院(しょうじょうけいん)があるが、この寺は浄土宗であるから違う。

「公」天皇。後陽成天皇か後水尾天皇であろう。

「天氣」天皇の御気分。]

 彼(かの)面は其後此能太夫波吉某に預けさせ給ひければ、彌々崇敬他に殊にして、其名を「諸橋小西」と號(とな)ふるなり。

[やぶちゃん注:「諸橋小西」「小西」はもとの旧蔵者の本姓。国書刊行会本では『諸橋小面』(もろはしこおもて)であるが、「小面」はあどけなさを残した最も若い可憐な若い女の能面を指すのでおかしい。]

 卯辰山の號は金城の東に當る故、初め「東山」と云ひけれども、

「寺院、多くして、洛陽に紛らはし。」

とて、其當る方(かた)に依りて「卯辰山」と云ひならはせしとなり。

[やぶちゃん注:「卯辰」南南東。金沢城から卯辰山は東北東であるが、そこから卯辰連峰は南に伸びている。]

 「尾山八町」と云ふ號も、佐久間盛政が頃の舊名なり。其數は西町・堤町(つつみまち)・南町・金谷(かなや)町・松原町・安江(やすえ)町・材木町・近江(おうみ)町なり。尾張町は天正十一年[やぶちゃん注:一五八三年。]、大納言利家公尾州荒子(あらこ)より附添し御家人を置るゝ故、前田家よりの所號なり。他鄕の者爰に家居せし。則(すなはち)小西次郞兵衞も此尾張町に宅地せり。次第に他鄕の人多く爰に住居する程に、居餘り、新町と云ふも今町と云ふも、皆尾張町より出でたる號なり。

「かゝる佛場(ぶつじやう)の榮華も、偏へに觀音妙智力(くわんのんみやうちりき)によるとはいへども、國君の恩澤より起るにこそ。」

と、諸人、普(あまね)く是を稱嘆す。

[やぶちゃん注:「尾山八町」「尾山」は金沢市の旧地名。戦国時代の金沢城跡と、その周辺の呼称である。加賀一向一揆の拠点となった金沢御堂(みどう)(尾山御坊)を、佐久間盛政(複数回既出既注。「大乘垂ㇾ戒」の私の注を見られたい)が落とし、金沢を一時期、「尾山」と称した。その後、御坊跡地は金沢城となり、寺内(じない)町を受け継いで西町・南町・堤町・松原町・近江町・安江町・金屋(かなや)町・材木町の城下町が形成され、「尾山八町」と称した。これらの町名は位置は違うものもあるが、現在も残っている。現在、城跡西部を統合して「尾山町」(グーグル・マップ・データ)という(ここは小学館「日本大百科全書」を参照した)。本篇を読解するのに、必要がないと思われるので、以上の旧町域の指示はしない。

「尾張町」石川県金沢市尾張町(グーグル・マップ・データ)。金沢城跡の北の浅野川に近い位置にある。

「尾州荒子」前田利家は尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子(グーグル・マップ・データ))の荒子城主前田利春の四男であった。]

2020/04/12

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 跋 + 目次 / 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 全電子化注~了 

 

   

 えて冬に有がちな天候であつた。夏分にあるアブラ日と云ふのとも異つて、ドンヨリ落付いて、晴とも曇とも、境目の判らぬやうな空合である。かうした日に限つて、物の隈がはつきり浮いて、遠くの山の木の葉も、一枚一枚算へられる。大小樣々の恰好をした山のツルネに圍まれた中は、丸で水の底のやうな靜けさを保つて、次の瞬間に、何事か待ち受けてゞも居さうな一刻である。

[やぶちゃん注:「えて」「得て」。「得てして」の意。ある様態になりそうな傾向のあるさま。ややもすると。ともすると。

「アブラ日」油を流したように風のない日のことか。

「空合」「そらあひ」。空模様。

「ツルネ」所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」によれば、『連峰のこと。山』の脊梁『線が著しい高低なしに続いている地形』で、『峰、連峰、峰から峰へ続く脊梁、ツンネとも尾根ともいう』とあり、使用地域の中に愛知を挙げている。]

 かうした折であつた。體中の血も暫く流れを止めたやうに、懶くて、肉體が表面から段々ぼかされて溶けて、まわりの空氣から土の中へ沁み込んででもゆくやうである。何處か斯う、地の果からでも湧いて來るらしい、幽かな喧燥が、次々に漂つて來た、それが一度、肉體の何處かに觸れたと思ふと、忽ち異常な緊張が蘇つて來る。それが何であるか說明は出來ぬが、アツ何處かで猪を追(ほ)つて居る、と口の端へはもう出て來たのである。凝と耳を澄すと、如何にも何處かでホイホイと掛聲がする、キヤンキヤンと細い犬の鳴聲も聽へる。成程猪追ひらしい、軈てそれ等の響が、次第に近づいてはつきりして來る。風が峯を渡つて來るやうだ。

[やぶちゃん注:「懶くて」「ものうくて」。

「まわり」ママ。

「猪」「しし」。以下でもそう読んで貰いたい。

「追(ほ)つて居る」「猪 一 狩人を尋ねて」に「猪追(しゝぼ)ひ」で既出既注であるが、再掲する。矢ヶ﨑孝雄氏の論文「岐阜県下白山東・南麓における猪害防除」(『石川県白山自然保護センター研究報告』第二十四集・PDF)を読むに、少なくとも中部地方では「猪」或いは「猪狩り」を「ししぼい」と呼んでいることが判る。サイト「横手/方言散歩」のこちらに拠れば、「広辞苑」には「ぼう」で「追ふ」として「追(お)う」に同じとし、「ぼいだす」(追ひ出す)で「追い出す」・「たたき出す」、「ぼいまくる」(追ひまくる)とある。しかも、角川書店版「古語辞典」には「ぼいだす」を「たたきだす」、「ぼいまくる」(ぼい捲くる)で「追いまくる・追い払う」として、「ぼふ」「ぼひ」は方言ではなく、ちゃんとした古語であること認定している。秋田県でも「ぼう」は全県で「おふ(追ふ)」の意であるという。]

 狩人が猪を追つて、山を越えて近づきつゝあるのだ。鐵砲の音がした、矢聲が續けさまに響く、猪追ひは今まさに酣であつた。畑に働いて居る者も、路を步いて居た者も、もう昵として居られぬやうな氣がした。何處だらうと、仕事の手を休めただけでは濟まされない。思はず宛もなく走り出す者もあつた。人々の胸には、猪の走つてゆく姿が、明らかに眼に映つて居たのである。

[やぶちゃん注:「矢聲」射手が放った際に大声を揚げること。ここはでは鉄砲の射手の声。

「酣」「たけなは」。]

 村の人々にとつては、猪追ひそのものが、單なる興味ばかりでなかつた。別に何物か劇しく心をひかれるものが、體の何れかに、未だひそんで居たのである。

 かうした村の人々が、獸の話に興味を抱き、好んでそれを物語つたり聽かうとしたのも、實は由來が遠かつたのである。狩の話が面白くて忙しい仕事も忘れて、畑の隅に踞んだまゝ、半日潰してしまつたなどの事も、ちつとも無理ではなかつたのである。

 

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 猪・鹿・狸と、山の獸の名が麗々と竝んで居ながら、獸そのものゝ話が、至つて尠かつた事は、語る者としても誠に遺憾である。獸の話が尠い理由は、實は別にあつたのであるが、話の内容としては、此話の全部が、本來「三州橫山話」と一緖に語るべき性質であつた。從つて話の範圍も、橫山の村を中心とした、僅か數里に亘る地方より以外には、殆ど及んで居なかつた。悉く其處で生れて、成長したものである。そこで「橫山話」とは絕えず觸合つて居ながら、どちらか一方に纏めて、筋目立てる事の出來なんだのは、誠に齒痒い限りである。

[やぶちゃん注:「三州橫山話」早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川氏の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集。サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」PDFで総てが読める。]

 自分にとつては、橫山は祖先以來の地で、生まれて十數年間は、殆ど一步も外の地を踏まずに、育くまれて來た因緣の土地である。境遇も感情も、只の村人に成り切つて居たであらう、もともと普通の百姓家に生れて、村一般の仕來り[やぶちゃん注:「しきたり」。]の中で育つたのだから、これは當り前のことである。話にしても、村の人が興味を持つて語る事を、そのまゝ素直に享け入れたまでである。餘り村の人そのまゝである事に、今でも驚いて居る位である。然し假にこの物語の内容に、村の人らしくない、心持に隔りがあつたとすれば、それはこの話をする現在である。東京に十幾年暮らして居た爲である。その爲なまじい都會人らしい常識が混つて來たとしたら、話そのものゝ爲には、本意ない譯合である。然しその事はどうとも致方ない。どうやら橫山に咲いて、小さいながらも、實を結んだのが、東京だつたとするより詮ないことである。

 

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 獸の話が少なかつた理由は、第一には蒐集が未だ充分で無かつたことにも據るが、それよりも、本來を言ふと、橫山附近の土地が、渠等[やぶちゃん注:「かれら」。]獸にとつて、既に足跡の餘り濃い地方では無かつたかと考へられる。地勢から言うても、附近の狀況から見ても、さうではないかと思ふ。假に足跡が濃厚だつたとしても、もう久しい以前のことで、近世では、渠等の爲に一箇所取遺された場所に過なかつた。そんな風に考へられるのである。斯う言ふと、話の内容と、大分矛盾する點もあるが、渠等が土地から姿を匿したのは、村の人々が信じて居た如く、三十年四十程度のもので無くて、その間に、もつと隔りがあるのではないか。實は話にしても、事實にしても、正に盡きんとする爐の榾火[やぶちゃん注:「ほだび」。]が、炭に變る時の、最後の輝きを見せられて居たので、例へば話の一ツ一ツを克明に辿つて見ても、どうもそれ以前に、大分影が淡くなつて居たらしい形蹟が認められる。

 勿論程度の問題であるが、例へば明治三十年[やぶちゃん注:一八九七年。]頃の、段戶山中に現れた夥しい鹿の群なども、實は久しい言傳への幻影であつて、事實は嘗てある時代に、峯から峯を越えて、霧の如く消え去つたもののやうに考へられる。假に此判斷が誤つて居たとしても、四周[やぶちゃん注:「まはり」と当て訓しておく。]の狀況から見て、何處迄も話の儘を事實として言張れない氣がする。

 今一つの理由は橫山の地勢であつた。山地とは言ひ條、一方外界との交涉がはげしくて、靜かに話を繰返して居るには、あまりに忙しすぎた。早くから汽車の笛を聞くやうになつた事が、獸以上に、早く話を亡びさせてしまつた原因の一つであつた。

 

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 橫山は東三河を縱貫した豐川の上流で、遠江國境には、三四里の路程にある一寒村である。村から言ふと、西南方卽ち豐川の下流地方と、北東山地との境界に當つて居た。東海道筋からは入つて、豐川の流れに沿つた七里の路は、稍平坦な丘陵を縫うて走つて居たが、此處から急に山が高くなつて、路は山又山の間を、信濃に向つて辿つて居たのである。其間は所謂北三河の山地で、現今の北設樂郡で、昔の振草の里であつた。段戶山を初め、月(つき)の御殿山(ごてんやま)、三ツ瀨の明神山など、代表的深山で、其處は未だ文明の光も透さぬ、天狗山男の世界の如く永い事信じられて來たのである。山稼ぎを職とする杣木樵[やぶちゃん注:「そま・きこり」。]の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]も多く入り込んでいた。その連中が、珍しい物語を運んで來て流布したのである。自分などもそれを好んで聽いて信じたものであつた。猪鹿[やぶちゃん注:「しし・しか」。]を初め多くの獸の本據も又其處にあつて、村が山續きに續いて居る如く、獸も又其處と連絡して居ると信じて居た。恰度表口と背戶のやうに、一方東海道筋の明るい交涉を受けながら、背戶口は依然として、昔の儘の山の影響が深かつたと云ふのが、橫山の實際だつたのである。

[やぶちゃん注:「振草の里」愛知県北設楽(きたしたら)郡東栄町(とうえいちょう)大字振草(ふるくさ)(グーグル・マップ・データ)。

「段戶山」「だんどざん」。北設楽郡設楽町田峯の鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称(グーグル・マップ・データ)。

「月(つき)の御殿山(ごてんやま)」北設楽郡東栄町大字中設楽にある御殿山(ごてんざん)。標高七百八十九メートル(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「三ツ瀨の明神山」北設楽郡東栄町大字本郷にある明神山(国土地理院図)。標高千十六・三メートル。「三ツ瀨」の集落は東の谷間にある。]

 然しながら、村の者が、獸の本據の如く考へて居た山の實際も、今日では話その物と大分の隔りが出來た。今年の正月、北から南へ振草の里を越して見ると、自分が步いた範圍では、猪鹿の類もとくに姿を消して了つて、もう二十年も經つて居た。猪などは反つて、吾が在所の方が本據のやうに思はれた。實は以前から信じて居た、山續きの交涉は、いつか斷たれて居たのである。して見れば橫山の猪なども全く孤立した山陰に取遺された集團の一つに過ぎなかつた。それも、僅かな數であつた。一個の猪の影を、地を代へ人を代へて、幾つにも見た程度のものである。

[やぶちゃん注:「今年の正月」本書は大正一五(一九二六)年十一月刊。]

 こゝに集まつた話が恰度それであつた。山陰に取遺されたもので、とくに消えて居た筈のものである。それだけに、内容の無い、影の淡い話ばかりだつた。其上にも話の一つ一つが、何年前の事、何處の出來事と、その折々に孤々の聲を擧げたものばかりでなく、話が生れると同時に