三州奇談續編 電子化注始動 / 卷之一 龜祭の紀譚
[やぶちゃん注:これより「三州奇談」続編(四巻五十話)の電子化注に入る。「三州奇談」については私の正編冒頭「白山の靈妙」の注を参照されたい。続編のしょっぱなということで、麦水、かなり力が入って、長い。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの日置謙校訂「三州奇談」(昭和八(一九三三)年石川県図書館協会刊)とする。但し、疑問箇所等は、同じく国立国会図書館デジタルコレクションの田山花袋・柳田国男編校訂「近世奇談全集」(明治三六(一九〇三)年博文館刊)を参考にする。こちらはかなり豊富なルビが施されてある。但し、今までの正編での一部の校合にあって、その読みの一部は到底従えないものがあるので、必ずしも私の付すそれは後者のものとは限らず、專ら正編の電子化の経験則に拠るとお考え戴きたい。仕儀・凡例は正編に準じた。大きな違いは読み易さを考え、段落を成形し、鍵括弧や中黒を挿入(中黒は一部で底本も用いている)、鍵括弧部分(直接話法・心内語等)も改行したことである。【 】は二行割注。踊り字「〱」「〲」は正字化した。]
三州奇談後編 卷 一
龜祭の紀譚
明和五年[やぶちゃん注:一七六八年。徳川家治の治世。]の夏(なつ)越中放生津(はうじやうづ)に遊びて、例(れい)の狂を發して奇事を乞ひ求む。
[やぶちゃん注:「龜祭の紀譚」「かめまつりのきたん」と読んでおく。麦水自身は「きさいのきたん」と読ませたいのであろうとは思う。
「明和五年」一七六八年。徳川家治の治世。
「放生津」(現代仮名遣「ほうじょうづ」)は富山県射水市(旧新湊市)の海岸部にあった湊町及び汽水の放生潟(ほうじょうづがた)という潟湖の名。現在の射水市放生津町(まち)周辺(今昔マップ)。放生津潟は戦後の新港計画により「伏木富山港」として港湾化されたため、潟湖としての面影・印象は殆んどない。名は同所の放生津八幡宮(グーグル・マップ・データ)で現在は十月二日に行われている放生会(本来は旧暦八月十五日に行うべき祭礼)に因む。ウィキの「放生津潟」によれば、天平の頃、越中国の国主大伴家持が(在任は天平一八(七四六)年から天平勝宝三(七五一)年)「万葉集」で「奈呉(なご)の海」「奈呉の浦」と『詠んだ潟湖で、面積は概ね1.7平方キロ、周囲約6km、水深は概ね1~1.5mであった』。『中央には弁天島という人工の島が作られていた。地元の『堀岡郷土史』によれば、湖底の泥を除く作業で多くの事故が起き、そのため明和4年(1767年)に20間[やぶちゃん注:36.36メートル。]四方の人工島を築いて海竜社(かいりゅうしゃ)が建立され』、それが『亀の甲羅状だったために「ガメ社」と呼ばれた。明和5年から6月19日を祭礼の日と定め、それ以降は事故がなくなったという。明治になって社号を少童社、ガメ島から弁天島と改称した。明治8年(1875年)からは新暦に合せて7月30日になり、「堀岡村役場資料」に明治16年(1883年)に花火打上げ許可書が残っていて、この頃から花火も打ち上がられるようになった。これが現在の「富山新港新湊まつり」に連なっている』(下線太字は私が附した)とある(先の「今昔マップ」を拡大すると、旧放生津潟の中央に「少童社」と見える)。以上の人工島の造立と「海竜社」=「ガメ(亀)社」の創建の事実が本篇の記載時とリンクしていることに注意されたい。サイト「いこまいけ高岡」の「新湊弁財天」に、『潟には龍神が棲むと伝えられ、明和4年(1767年)には放生津潟の中心部に島を築き海竜大明神が祀られました。その後、弁財天も祀られ、明治期には浦島太郎も祀られるようになりました。昭和30年代後半に富山新港の工事が始まり、完成とともに昭和42年に現在地の片口地区へ社殿が遷座しました。現在見られる高純度アルミ製の新湊弁財天(本体部分の高さ9.2メートル)は、昭和61年(1986年)8月に建立されました。たぶんアルミ製の立像は日本でここだけです』とある。新湊弁財天はここ(グーグル・マップ・データ)。「新湊歴史ヒストリア Volume 4」の「新湊 潟&港 さんぽ」(PDF)というパンフレットに、北条図潟の今昔の航空写真が載るので見られたい。放生津潟の変遷など非常に参考になる。なお、私はその西の伏木地区の二上山麓で中学・高校時代の六年を過ごした。昨年三月に潟跡を四十年振りに再訪し遊覧、弁財天立像も見た。甚だ懐かしく感じた。
「例(れい)の狂」怪奇談蒐集の奇体な性癖。]
其地の人松(まつ)氏(うぢ)なる者告げて曰く、
「放生津の湖(うみ)に人を取ること多し。是は此湖中の土、田(た)每(ごと)の養ひとなるが故、十餘萬石の田地皆此土を運ぶ故に、今にしては水に入ること三四尺に及ばざれば、土を得ることなし。然るに近年其水に入りて土を取る者を、後ろより抱(いだ)きて水に沈むるものあり。拂ひ除(の)けて命を助かる者七八人、水に死する者四五人なり。此湖は一里四方ありて、赤鱏(あかえひ)の魚(うを)其主(そのぬし)といふ。形(かた)ち大いにして橋を出で得ず。海中へ行くこと能はず。折々は橋のもとに脊を顯して歸る。今土を取る者を吞むは、此魚とも云ひ、又は鼈(すつぽん)のわざとも云ふ。此頃告(つげ)ありて鼈の所爲(しわざ)の由なり。
故に此春湖中に龜の宮を建立し、三月十七日を以て「龜祭り」の日とす。今年遊船數艘(すそう)出たりといふ。
又一つには古城址あり。爰に千年の桑の古樹あり。是(ここ)に蛇ありて夜々(よなよな)鳴く。
又一つには此處の龜祭の遊船に、各々網を入れて魚を得んとす。金城の上手連(じやうずれん)も來り打つ。然るに魚一つもなし。爰に於て予初めて網を入れて大鮒を得たり。是奇事なり。
此三つを以て予に告ぐる所なり。」
といふ。
[やぶちゃん注:「松氏」不詳。三つ目の奇事で網を入れており、姓を以って紹介に代えているからには魚獲り好きの相応の格式の人物ではあろう。松一字姓の人物は調べても出てこないが、或いは松平などの伏字かも知れない。ただ、印象としては麦水の俳句仲間である可能性が高い感じはする。後で知人の「單凉(たんりやう)」なるものが出てくるが、この名はもろ俳号っぽく、また、この人物も俳句好きの人物らしい感じである(知人の「處士」(浪人)は松氏と單凉の共通の友人であろう。というか、どうも実は「單凉」自身がその「處士」である可能性が濃厚に私には感じられる。ともかくもこの三人は、孰れもかなりの知識人であることは間違いない)。
「田(た)每(ごと)の養ひ」本来の意を出すために読みを、かく分離した。一般には専ら「田毎の月」の用法で一フレーズとし、一枚一枚の田面(たのも)に月が映るさまを言うが、ここは本来のその田の地養ではなく、一つ一つの田に滋養を加えるための意を明確化するためである。
「赤鱏(あかえひ)」軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei。浅い海の砂泥底に棲息する。肉食性で貝類・頭足類・多毛類・甲殻類などの底生生物(ベントス:benthos)や底在性魚類を幅広く捕食することから、河口などの汽水域にしばしば入り込み、普通に見かけることも多い。尾が細長くしなやかな鞭状を呈し、背面に短い棘が列を成して並ぶが、その中程に数センチから10センチメートルほどの長い棘が一、二本近接して並び、この長い棘には毒腺があり、しかも鋸歯状の「返し」があり、一度刺さると抜きにくい。生態上、浅い海で知らずに踏んで刺されることもある。刺されると、激痛に襲われ、アナフィラキシー・ショック(Anaphylactic shock)で死に至ることもある。死んでも毒は消えないため、死んだ個体に刺されても危険である。但し、生体個体は意図的にちょっかいを出さなければ人を刺すことはない。これらの性質と潟底の土を採取する土民の行動から、不用意にアカエイを踏みつけて刺されて失神し、そのまま溺死するケースを推定することは極めて容易であり、すこぶる腑に落ちる真相を想起できる。寧ろ、以下で展開される妖亀真犯人説は真実としては冤罪と言えよう。
「橋を出で得ず」潟湖の中にいる間に成長し過ぎて、横幅が広くなってしまったために、橋脚が邪魔になって海へ出られなくなったというのである。
「鼈(すつぽん)」カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。最大甲長は38.5cm。ごくまれに60cmまで成長する個体もいる。通常のカメの認識と比較すると、運動性能は驚くほど速い。水中のみならず、地上でも非常に敏速に走る(「歩く」ではなく「走る」である)。各地でスッポンは妖怪視されており、人間の子供を攫ったり、血を吸ったりするとも言われた。これには彼らの知られた習性である「食いついて離さない」と言う噂に基づくと考えてよかろう。「鼈(すつぽん)人を食はんとして却つて人に食はる」という諺はスッポン食が古くから知られていたこと以外に、スッポンが人を襲うと信ぜられたことを証左でもあるのである。なお、「近世奇談全集」では「鼈」を「べつ」と音読みしているが(妖怪感を出す目的であろうが、寧ろそうすることでスッポンの造形が失われて巨大な妖亀になってしまう気がする)、私はどうも従えない。少なくとも「鼈」は中国でも本邦でも古くから個別種としてのスッポンを指す字として専ら用いられてきた経緯があるからである。
「此春湖中に龜の宮を建立し、三月十七日を以て「龜祭り」の日とす」この日付は「龜祭り」則ち文字通りの神を祀った創建の日の謂いで、先のウィキの記載と齟齬するものではない。
「古城址」恐らく、旧放生津潟の西端岸にある「射水市指定史跡 放生津城跡」であろう。現在の射水市立放生津小学校グラウンド地下二メートルの埋没している。ウィキの「放生津城」によれば、『鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中国守護所を起点とする。元弘3年(1333年)、建武の新政を迎える際の争乱(元弘の乱)では、守護であった北条時有(名越時有)最後の拠点となり、反幕府側の御家人に囲まれて落城する際の光景は『太平記』に記述されるものとなった』。『室町時代になると、守護畠山氏に代わり射水郡・婦負郡守護代神保氏が入城した。明応2年(1493年)、明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠』(ながのぶ)『は、政変で幽閉された将軍足利義材』(よしき:後に義稙(よしたね))『を迎え、上洛のための諸準備を進めた』。『永正17年(1520年)に越後国守護代長尾為景の攻撃で落城。その後神保氏により再建され、後に越中国を支配した前田氏の頃には城代も置かれたが、江戸時代初期に廃城となった。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられた』とある。個人サイト内の「射水市指定史跡 放生津城跡」が現地の説明板も画像でしっかり読め、国土地理院図の地図も組み込まれてあるので見られたい。
「金城の上手連」金沢城御用のプロの漁師たちであろう。]
予、猶、委しく聞かんことを求むれば、忽ち、傍(かたはら)に單凉(たんりやう)なる者、來りて、
「幸(さいはひ)に一處士(いちしよし)あり、此事を知りて紀譚をなす。是を書して止むべしや。」
といふ。
[やぶちゃん注:「單凉」不詳。出現の仕方が余りに唐突である。ロケーションは明確でないが、松氏の家で麦水と主人が語らっている部屋に突如現われるのだとしたら、松氏の食客ででもあるようではないか。さればこそ、私はどこかの相応の藩士であった者が流れてきたのを、松氏が迎えて養ってやっているのではないか? 單凉=「處士」説をとりたくなるのである。そう考えると、次の注で示すように、次の動作の不審も氷解するわけである。
「是を書して止むべしや」「その武士の記した綺譚録が御座れば、それを書写なさることで、ご満足戴けようか?」の謂いか。と言って、その書をぱっと出せるというのが、また、変だ。このロケ地が松氏の屋敷の外の店や料亭だったとしたら、全くおかしい。あり得ない。]
其文に曰く、
『越(えつ)の北放生津に一處士あり、其姓氏を知らず。性(せい)惰(だ)にして三十未だ妻を迎へず。常に佚遊(いついう)に耽りて世業(せいぎやう)を廢す。書を學びて成らず。佛門又修すること能はず。終日(ひねもす)浦口湖邊(ほこうこへん)に吟行して、起臥其所を撰ばず。海鷗(かいおう)去らず蜻蜓(せいてい)常に宿る、又渠(かれ)が樂(たのし)みとする所なり。
其の年の夏奇雲峰をなし、炎威(えんい)白砂を煮る。閭巷(りよかう)暑を苦しみて覺えず步み出で、此放生津湖の水涯(すいがい)に浴す。芦葦(ろゐ)猶延びず、萍藻(へいさう)臭香を生ずるを惡(にく)みて、終に湖中の深きに入る。圖らず一破舟(はしふ)を得たり。是に尻もたげして眠るに、暫くして晩風凉を送り、水氣肌に入りて物我(ぶつが)を忘る。
此時吾が身舟にありや水にありや辨ずることなし。
只心の儘に游泳を極む。
忽ち數千の衆のおめき來(きた)るあり。處士を驚かし、
「河伯(かはく)來り給ふ、相したがへ」
と命令す。
處士驚きて是に隨ふ。身を顧(かへりみ)るに黃鮒(きぶな)と變ず。
然共其所以を尋ぬる心もなくて、只衆に伴ひて去る。
[やぶちゃん注:「佚遊(いついう)」気儘に好きなことをして日を過ごすこと。
「世業(せいぎやう)」本来、継ぐべき家業。
「蜻蜓(せいてい)」蜻蛉(トンボ)のこと。
「閭巷(りよかう)」村里。
「暑を苦しみてここ以下の主語は單凉一人。
「水涯」岸。
「芦葦(ろゐ)」ヨシ(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis)の異名。
「萍藻(へいさう)」浮草や浮遊性海藻など。ここは汽水湖であるから、海藻に断定は出来ない。
「終に湖中の深きに入る。圖らず一破舟(はしふ)を得たり。是に尻もたげして眠るに」ここでは、「放生津の深みへと行き、そこに沈んでいる破船に尻を乗せて居眠りをしたところが」で、既にして異空間に入っているわけである。
「物我(ぶつが)を忘る」「物我」は「外物と自己・他者と自己」で「我か彼か」則ち「夢か現(うつつ)か」の認識がなくなってしまうこと、見当識の失調・喪失を指す。
「河伯(かはく)」はもともとは中国神話や道教で黄河を支配する河の神の名である。人間の頭に魚の体の姿で黄河の水底に住んでいるが、地上に現れる際には人の姿をとるとする。二匹の龍或いは朱色の鬣の白馬に跨ったり、それら輦(れん:車)を曳かせて水上を進むとされる。本質的には古来から甚大な被害を齎す黄河の大氾濫の災厄を神格化したもので、後に海を含む広大な水域の水神に格上げになった。ここは登場の仕方も如何にも海底の龍宮から来った龍王然としている。なお、「河伯」と本邦の「河童」は一部で混用されている部分があるが(九州などで河童を河伯と書きもする)、これらは基本、平行進化したものであり、私は独立したものと考えている。本篇の「河伯」も、如何にも龍宮の龍王然とした設定である。
「黃鮒」骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属フナ亜種キンブナ Carassius buergeri subsp. 2 のことであろう。体色は黄褐色乃至赤褐色で、鱗の外縁が明るく縁どられる。光が当たると金鮒の名の通り、金色に見える。腹鰭や臀鰭は濃黄色を帯びる。ウィキの「キンブナ」には『東北地方と関東地方に分布する日本固有亜種』とあるが、富山にも棲息醫する。「富山市科学文化センター」のこちらの記事を確認した。]
忽ち一城門に至る。樓々金光石門崢嶸(さうくわう)として、我が國の見る所にあらず。
石階(せきかい)を登れば衣冠班(はん)をなし、縉紳(しんしん)に滿つ。
處士大いに怪みながら、終に階傍(かいばう)に着きて衆議を聞く。
[やぶちゃん注:「崢嶸」現代仮名遣「そうこう」で、山・谷の嶮しいことを言う。
「衣冠班(はん)をなし、」底本は読点ではなく句点であるが、特異的に訂した。「衣冠」束帯し夥しい高位な人物たちがそれぞれその地位に応じて「班(はん)」(グループ)を作って集まっており、の意。
「縉紳」笏(しゃく)を紳(おおおび)に搢(はさ)む者の意で官位・身分の高い人のこと。]
時に主人と思しき人、其身巨大にして、うら山吹の黑衣の素袍(すはう)を打廣げ着て、自ら稱して「赤兄公(あかえこう)」と云ひ、則ち向ひ進みて河伯に申して曰く、
「頃日(けいじつ)君命を蒙るといヘども出づること能はず。其謂れは、我が身長大にして水口(みなくち)の橋々甚だ狭し。就中(なかんづく)大の者は中の橋なり。此柱間四五間[やぶちゃん注:七メートル強から九メートル余り。]に過ぎず。故に我れ如何ともすべから挙。偶(たまたま)命を奉じて出づれども、橋柱に支(さ)へられて、通ること數度(すど)、我が形ちをして拙(つたな)くも里人に見せしむ。是我れは潜龍の術を授け給はざる故、此耻辱(ちじよく)を蒙る。今又水を起して橋々を流さば、幸(さいはひ)に梅雨の溢れて流すべき折(をり)も有れども、人君(じんくん)上(うへ)にあり、是又恐るべし。故に止むことを得ずして、河伯君(くん)を勞して此湖中に降臨を乞ふ。是れ我が禮を失するには非ず、君是を赦せ。」
[やぶちゃん注:「うら山吹」襲(かさね)の色目(いろめ)なら、「裏山吹」は表が黄色で、裏が濃い山吹色(やや赤味のある黄色)である。これは冬から春に着用するものであるが、まず、中国では黄色は皇帝のみの禁色であり、本邦の王朝色の代表的なものでもあり、しかも、この色は孰れもアカエイの体色に通うところがすこぶるあるのである。
「素袍(すはふ)」歴史的仮名遣は「すあを」とも。直垂 (ひたたれ) の一種。裏をつけない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸紐に革を用いる。略儀の用の服で、室町時代は庶民も日常に着用した。江戸時代には形式化して長袴をはくことが普通になり、大紋と同じように定紋をつけ、侍烏帽子に熨斗目(のしめ)小袖を併用し、平士 (ひらざむらい) や陪臣の礼服とされた。
「赤兄公(あかえこう)」読みは「近世奇談全集」に従った。アカエイである。
「頃日(けいじつ)」近日。
「人君(じんくん)上(うへ)にあり」ちょっと迷ったが、河伯を「人君」=仁「君」と採ることも考えたが、とすれば、わざわざ来て貰うというのもおかしい。とすればここはやはり――金沢藩の藩主としての優れた「人君」がおり、その方もこれまた畏れ多く、ただ海に出るでんがために大洪水を起こして橋を破壊するというのは憚られました――の意で採った。なお、この当時の加賀藩は第九代藩主前田重教(しげみち)である。]
河伯、先づ、主人を責めて曰く、
「近年放生津湖の中、涯を田作の爲に掘り取りて、民家十餘萬石の田を養ふと。故に我れも賀して、汝が長大安身なるを免(ゆる)す。是國家に益あるが爲なり。然るに頃年(けいねん)[やぶちゃん注:近年。]泥を取ることを怒りて、汝に黨(たう)する鼈(すつぽん)を放ちて人民の命を取ること數人(すにん)に及ぶ。是何等の理(ことわり)ぞ。瓦石を運びて湖上を埋(うづ)むるとならぱ、汝波臣(はしん)水族を發して是を防ぐ、又其理ありとせん。夫(それ)さへ近く此鄕(このさと)の東、生地(いくぢ)の湖(うみ)田となりて、今幾許(いくばく)、作毛を生ず。【然共所以(ゆゑん)ありて、安永六年夏地陷りて、元の水海(みづうみ)[やぶちゃん注:「湖」に同じい。]となりしなり。】此水主(すいしゆ)、居する所なきを歎き訴ふ。其理ありと云へ共、國用又默(もだ)し難し。故に水主を海隅(かいぐう)の一方に住ましめたり。然るに汝湖水の深くなるを悅ばず、無用の世民(せいみん)を害す。其謂(いは)れ何事ぞ。湖中の泥を取りて水深きは樂みとなすべきに、却りて人命を奪ふ。是惡魚毒龍の行ひをなすなり。然らば今日より毒蛇に令(れい)して、鱗甲(りんこう)の内に鐡虱(てつじらみ)を生ぜしめて汝を苦ましめん。如何に々々。」
と。
[やぶちゃん注:「波臣」水中の世界にも君臣関係があると考えられていたところから、水を司る役。主に魚類を指す。後には水死した者を指す語ともなった。
「生地」消失した幻の地名であるが、全く不詳。「近く此鄕(このさと)の東」とあるからには、旧放生津潟の東部にあったのだろうが、「生地」の地名は現在の地図には見出せない。海辺では富山県黒部市生地(いくじ)があるが、ここはあまりに遠過ぎて、この表現に合わない。
「安永六年」一七七七年。明和の後。本書の完成は宝暦・明和の頃とされているから、この割注は麦水でない者が書写の序でに記した可能性もある。
「鱗甲」読者の諸君の中には「エイに鱗はない」と思っている方もいるやも知れぬが、現在の皮革加工や、昔の武具に見られる小さな粒状の楯鱗(じゅんりん)に覆われた皮革は「鮫革」(サメがわ)と称しているが、あれは実はアカエイの皮革なのである。]
主人赤兄、大(おほい)に恐れ、陳謝して曰く、
「君先(まづ)怒りを止めて、鐡虱の令を下し給ふことなかれ。君は甚だ一を知りて二を知り給はず。夫(そ)れ水海の泥の田の養となるべくんば、何(いづ)れか湖中の埋(うづ)もれることあらんや。此放生湖[やぶちゃん注:ママ。]のみ泥土(でいど)田を養ふは誠に所以(ゆゑん)あり。常に我が一族共(ども)泥中に住みて、膩油(じゆ)[やぶちゃん注:脂(あぶら)のこと。]を是に染(し)む。况や餌を得れば爰に隠す。鼈又多く子を此泥中に生む。我も又折々氣を吐き、子孫の爲に英氣を滿(みた)さしむ。故に泥土に油ありて、凡(およそ)魚膓(ぎよちやう)[やぶちゃん注:魚の肝(きも)。]に等しく、人間是を知りて田に土かふ[やぶちゃん注:「培(つちか)ふ」に同じい。]故に、田作に利あれども、我が爲には甚だ不利のことなり。近年我が子・甥の魚皆是を怒り、腹下の劔(けん)を振ひて大に罵り、身を忘れて網中(あみなか)に投死(たうし)するもの少からず。故に我も此事を憂ひて、人間泥を取ることを制せんとす。然共水族皆河伯公の令に恐れて、此事を肯(がへん)ずることなし。只鼈のみ年々我が子を蹂躙(じゆうりん)せらるゝが爲に、憤りて此令を受け、人民に相(あひ)敵(てき)す。然共我れ丁寧に禁じて、
『人命を斷つことなかれ。只威(おど)して追ふべし』
とは云ひ聞かせしなる。然るに長鼈(ちやうべつ)うけがはすして、既に人民、三、四人を殺す。是、我が誤りに非ず。君、能く是を正せ。」
[やぶちゃん注:「腹下の劔(けん)を振ひて大に罵り」棘のある場所は違うが、アカエイの毒針を念頭に置いた、生態学的に正しい観察に基づく叙述であることに着目しなくてはならない。
「長鼈(ちやうべつ)」ここは「近世奇談全集」のルビに一応、従った。意味は恐らく「長(をさ)」である年経た鼈(すっぽん)であろう。]
河伯其詞の理あるを以て、長鼈を召して人民を害せんことを難ず。
長鼈、謝し、答へて曰く、
「我れ、湖主の令を請けて其趣をなすといへども、其時の人夫、水に習はずして[やぶちゃん注:慣れておらず。]、驚いて水の爲に死す。我が科(とが)にあらず。其後にも、我れ、後ろより抱きしことありしに、振放ちて歸りし者、多し。是を以て、人を害せざる證據となし給へ。既に此事鼈の所爲なりとて、村里に沙汰ありければ、古城に兩頭の蛇あり。日夜、樹に登りて泣く。其趣を聞くに、
『鼈の難は蛇にかゝれり。頓(やが)て人民仇(あだ)を報じて長鼈を捕ふべし。長鼈は捕ふるとも死なじ。長鼈若(も)し死せずんば、彼(か)の諸葛亮が智に習ひて、必ず古木を以て焚くべし。我が此古城は久しき古城にして、桑の木に根に古木多し。必ず是を用ふべし。此木焚き盡さば、我が住家(すみか)を失はん。』
といふを聞けり。然れば、我が死の如き恐るゝに足らず。罪湖中に及び、災ひ湖邊にも歸せん。是又悲しむべし。然共眼前日々に我が子の踏殺さるゝを見て、安閑と一日をも送り難し。我が輩をして心を慰することを免(ゆる)し給はば、巨鼈、再び人倫に害をなさじ。」
と、眼中、血を流して、是を述ぶ。
[やぶちゃん注:「諸葛亮」(一八一年~二三四年)は三国時代の蜀漢の宰相。字(あざな)は孔明。劉備に三顧の礼を受けて仕えたと伝えられ、天下三分の計を上申し、劉備の蜀漢建国を助けた。緻密な叡智を以って知られた彼であるが、唐突にここに彼の名が出てくるのは恐らく劉備との交流が「君臣水魚の交わり」と呼ばれたこと、諸葛孔明の綽名が「伏龍」「臥龍」と呼ばれたことによるものであろう。直接には本篇に龍は出てこないが、「毒蛇」や「兩頭蛇」が登場し、河伯は龍王の如きであってみれば、すこぶる親和性は強い。]
河伯公、憐みて、
「是又、其理、あり。」
とし、
「一方を以ては制し難し、然らば、人間に告げて龜の宮を造立して、湖中に島を築き、其下を鼈の子を安んずる所として、汝が曹(さう)の心を慰すべし。主人赤鱏侯、又、罪なし、早々(はやはや)、人間に告ぐべし。」
[やぶちゃん注:「曹」一般名詞で「仲間・輩(ともがら)」のこと。]
と、あたりを顧みて、彼(か)の處士が化(くわ)せし黃鮒に命じ、
「汝、早く釣網にかゝり、魚身(ぎょしん)を脫して、人間に戾り、此事を鄕中の人に告ぐべし。」
と。
其日の議論、終り、河伯、湖殿を下り去つて、又、水部を御(ぎよ)して、歸らる。
黃鮒、是に依りて、
「早く鉤(はり)を吞み、網にかゝらん。」
と、ためらへども、折節、其頃、漁者、來らず。
詮方なく日を經(ふ)る内に、長鼈は宮にならんことを悅びて、黃鮒が告ぐるを待つことを得ず。里邊(さとあたり)の人々の夢に告げて、終(つひ)に、湖中、「龜の宮」を勸請(かんじやう)する事に及び、今年三月十八日祠(ほこら)成りて、遊船出で、繁昌の事となりぬ。
扨(さて)、黃鮒、心遲れて日を移す所に、此祭りを見て、
「こは、遲れたり。」
と、遊船近く跳り出(いづ)る。
漁人及び金城の武士は、網に手練(てれん)を得て、八九間[やぶちゃん注:14.54~16.36m。]の遠きに投出(なげいだ)す程に、あまり遠くして入ること能はず。
「如何(いかに)。」
と見合す所に、下手(しもて)、網ありて、足元に、うつ。
黃鮒、幸に入ることを得たり。
引上げしを見れば知る人なり。
事を告げんとする内、庖丁の爲に兩端となる。
[やぶちゃん注:「庖丁」包丁人。料理人。
「兩端となる」頭と尾をぶち切られてしまった。]
爰に於て遊處士、魂(たまし)ひ戾りて、元の人間となり、湖邊の舟板に正氣付きて、扨(さて)、前後の事を思ふに、夢中の告(つげ)、現然たり。
「こは、珍らし。」
と、此放生津に走り戾り、つぶさに語るといへども、早や龜の宮建ちたる跡なれば、證據の出し遲れとなりて、信ずる人一人もなし。
されども『妙談奇話なり。』と思ふ程に、河伯の有樣、湖城の躰(てい)、所々に咄し廻れば、鄕人(さとびと)は耳を傾けて、
「夫(それ)は何とやら古き本にも聞きし咄しなり。若(もし)や『東湖(とうこ)の赤鯉(せきり/あかごひ)』の云ひ違へにや。」
と詰(つめよ)る程に、終に其實(じつ)を取揚ぐる人なく、方々にて誓文(せいもん)に鳴らせし齒(は)徒(いたづ)らに痛み、只
「狂士、々々、」
と弄(もてあそ)ばれて、時に合はず。
處士、つくづく思ふに、
『龍宮、今に古作を信ず。あはれ河伯をして活調を得しめず、我れをして此(この)理作(りさく)を語らしむるに至る。命(めい)なる哉(かな)、命なる哉。』
と、如此(かくのごとく)記したり。』
予、一たび是を見るに、求め向ふ所、忽ちに豁然(かつぜん)として、三奇、皆、辯ず。思ふに是(これ)、雲景(うんけい)が「未來記」より、證(しやう)、正しく、狂童の託宣より、理(ことわり)、明(あきら)かなり。僅(わづか)に地府(ぢふ)の片言(へんげん)を得てだに、斯の如し。况や、瞿曇氏(くどんし)の三世(さんぜ)の因果を知るをや。理(ことわり)幽遠に心凉しかるべし。あはれ、此(この)暑日(しよじつ)、定(じやう)を假(か)りて、暫く、工夫を凝(こら)し度(たき)ことぞ。よき傳手(つて)なきを奈何(いかん)せんや。
[やぶちゃん注:「夫は何とやら古き本にも聞きし咄しなり。若や『東湖の赤鯉』の云ひ違へにや」一読、上田秋成の「雨月物語」の「夢応の鯉魚」を想起させるものの、同書は殆ど同時代に書かれ(明和五(一七六八)年序・安永五(一七七六)年刊)であるから、そのインスパイアではない。「夢応の鯉魚」は構成としては、明末の小説家馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の書いた白話小説「醒世恒言」第二十六の 「薛錄事魚服證仙」(「龍騰世紀」内)(「薛(せつ)錄事、魚服(ぎよふく)して仙を證すること」。録事は主任書記官。「魚服」は魚に化すること)、さらに溯る明代の陸楫(りくしゅう)編の白話小説「古今說海」の「說淵」の辰巻三十五にある「魚服記」(「維基文庫」内)、「太平廣記」の「水族類」所収の「薛偉」(「中國哲學書電子化計劃」内)の三種を勘案して典拠としたものであり、麦水もそれらの孰れかか総てを素材としていると考えてよかろう。特にここで「東湖の赤鯉」と言っているのは実は上記の三種の原文(上記のリンク先は総て中文サイト。後の丸括弧内が当該サイト名)総てに「東潭赤鯉」の文字列で登場しているのを少しアレンジしたものであることが判然とするのである。なお、「夢応の鯉魚」を素材に英訳した小泉八雲の私の「小泉八雲 僧興義 (田部隆次訳)」をリンクさせておく。
「方々にて誓文(せいもん)に鳴らせし齒(は)徒(いたづ)らに痛み」方々でこの話を語っては、これが確かな実話であり、決して作り話ではなく、本当の話であるという誓約を強く歯を鳴らしてまで主張したが、それも無駄なことで誰も信じては呉れず。
「時に合はず」事実なのに、時流に合わぬために狂人の世迷い言(ごと)として全く問題にされなかった。
「龍宮今に古作を信ず」愚民は龍宮伝説は古い大道具と誰もが知っている展開をそのまま無批判に信じているばかりだ。
「あはれ河伯をして活調を得しめず、我れをして此(この)理作(りさく)を語らしむるに至る」「ああっ! 折角、河伯という正当なる中国の神たる河伯が出現し、活況を呈している私の話を信じようとしないのだ!? 私をしてこの論理に完全に適った実話語らせるに至った河伯の命令が、確かにあったのにも拘わらず、だ!」。
「命(めい)なる哉(かな)」「これもまた私に与えられた孤独な運命なのだなあ!」。
「豁然(かつぜん)」鮮やかに不審や疑いが晴れるさま。
「三奇皆辯ず」松氏が本篇の冒頭で提示した三つの奇妙な現象を鮮やかに紐解き、しかもそこに一貫した大いなる神託的な意味がそこに連関されて示されていることを謂う。確かにこれは「豁然」としているとは言える。
『雲景(うんけい)が「未來記」』「太平記」巻二十七に登場する「雲景未来記」。時制は貞和五(一三四九)年六月とある(この年の八月に足利尊氏は弟直義の執務を停止させ、上杉重能・畠山直宗らを越前国で処刑し、直義が出家している)。私はこの「雲景未来記」は事実を後付けして形成した似非予言として全く評価しない。従ってここで電子化する気持ちもない。但し、「太平記」を順に読んで行くと、預言書として、あたかも的を射ているように読めるという点では、よく作られてはいる。しかし、それは後の歴史的な「観応の擾乱」の痙攣状態を知っている後の世の読者には実は大したものではない。お読みになりたい方は原文と現代語訳が並置される個人サイトのこちらがよい。
「狂童」頭の少しくおかしくなった依りましの少年。
「地府」冥途或いは閻魔大王その人を指すが、ここは先の「雲景未来記」で直接話法で語る大天狗、則ち、外道の大魔王の「片言」と言う示唆である。
「瞿曇」)釈迦の出家前までの釈迦一族の姓「ゴータマ」の漢訳。転じて仏となった釈迦を指す。
「定(じやう)」心を一つの対象に集中し、心の散乱がなく、精神の定まっている三昧の状態。悟りの境地に至るための必要条件ではあるが、悟達の境地とイコールではない。だから、それをたまさかに「假りて、暫く工夫を凝し度」いが、しかし「よき傳手」(正法(しょうぼう)へ導いてくれる真正の導師)「なきを奈何せんや」と続くのであろう。
なお、この話と次の「靈社の御蟹」をカップリングしたものをアレンジして「放生津物語」として田中貢太郎が怪談小説にしている(「日本怪談全集」(昭和九(一九三四)年改造社刊)の第四巻所収)。私は一九九五年国書刊行会刊「日本怪談大全」第五巻(新字新仮名)で読んだが、幸い、「青空文庫」のこちらで電子化されている(底本は異なるが、親本は同一)ので是非、読まれたい。]