フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 三州奇談卷之五 邪宗殘ㇾ妖 | トップページ | ブログ・アクセス1350000突破記念 梅崎春生 上里班長 »

2020/04/26

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 四 / 其角~了

 

        

 子規居士蕪村の句の特色の一として理想的美なるものを挙げた。これは実験的に対する言葉で、歴史を藉(か)りて古人を句中の物とし、未だ見ざる土地の風物を現すが如く、「天地八荒の中に逍遥して無碍自在(むげじざい)に美趣を求む」るを指すのである。この種の傾向は元禄の作者が全然これを欠いているわけではない。越人の『庭竈集(にわかまどしゅう)』は享保度の出版であるが、蕉門作者の歴史趣味を見る上において、最も注目すべきものであろう。けれどもその内容はいわゆる詠史であって、譬喩(ひゆ)を以て古人を評する論讃的のものが多く、古人を自在に句中の材料とした蕪村の句とは大分の径庭(けいてい)がある。其角の集中にあっても

  仏骨表

 しばらくは蠅を打けり韓退之     其角

  得斗酒

 淵明が鄰あつめや生身玉       同

[やぶちゃん注:「生身玉」は「いきみだま」。]

  魚市涼宵

 楊貴妃の夜は活たる鰹かな      同

  のり物の中に眠沈て

 年忘れ劉伯倫はおぶはれて      同

の諸句は、単に古人を藉り来ったまでで、その景情を髣髴するに足るものがない。それが

 景清が世帯見せぬや二薺       其角

[やぶちゃん注:「二薺」は「ふたなづな」。]

 景政が片目をひろふ田螺かな     同

  河州観心寺

 楠の鎧ぬがれし牡丹かな       同

  破扇の図

 惟光が後架へ持し扇かな       同

[やぶちゃん注:「破扇」は「やれあふぎ(やれおうぎ)」。「持し」は「もちし」。]

となると、俳諧一流の転化があり、特出された古人が何らかの姿となって句中に現れている。更に進んで

  春雨

 綱が立つてつなが噂の雨夜かな    其角

[やぶちゃん注:「雨夜」は「あまよ」。]

 蚊をやくや褒姒が閨の私語      同

[やぶちゃん注:「褒姒が閨の私語」は「はうじがねやのささめごと」と読む。]

 伊勢の鬼見うしなひたる躍かな    同

[やぶちゃん注:「躍」は「をどり」。]

の如きものに至れば、慥にこの材料によって或空気を描き得ているといって差支ない。勿論蕪村の「滝口に燈を呼ぶ声や春の雨」「実方の長櫃通る夏野かな」「寒月や衆徒の群議の過ぎて後」の如き画趣に乏しい憾(うらみ)はある。「射干(ともし)してさゝやく近江やはたかな」「相阿弥の宵寝起すや大文字」などの如く、身をその裡(うち)に置き、親しくその人のけはいを感ずるの思(おもい)あらしむるものに比すれば、竟(つい)に数歩を譲らねばならぬであろうが、かかる理想的の世界においても、其角が先鞭を著けているという事実は、一顧する価値があると思う。其角の特色の顕著なものとして力説するわけではない。

[やぶちゃん注:「庭竈集」越人編。享保一三(一七二八)年刊。

「仏骨表」大の仏教嫌いであった中唐の文人政治家韓愈が書いた「論佛骨表」(佛骨(ぶつこつ)を論ずるの表(ひよう))。鳳翔法門寺の真身宝塔(阿育王塔)に秘蔵され、三十年に一度の開帳の際に供養すると国家安泰を得るとされた仏舎利の伝承を信じてそれを迎えようとした皇帝憲宗に対し、諌めるために八一九年にものした上表文。四六駢儷文を排した言志の名文とされる。しかし、結果は崇仏家であった憲宗の逆鱗に触れて南方の潮州刺史(現在の広東省潮州市)(グーグル・マップ・データ)に左遷されてしまった(但し翌年、憲宗が死去して穆(ぼく)宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任ぜられた)。本句はその左遷先で無聊をかこつ彼をカリカチャアライズしたもの。

「得斗酒」「斗酒を得(う)」で「一斗樽の酒を得て」の意。六朝の詩人陶淵明は「五斗米の爲に腰を折り、郷里の小人に向かふ能はず」(たかが五斗(当時の中国の単位換算で約十リットルほどしかない)ばかりの僅かな扶持米を得るために田舎の青二才の小役人に頭を下げることなど出来ぬ)と言い放って、官職を蹴って故郷へ戻り、かの「歸去來之辭」を書いた。その「五斗」を掛け、酒好きだった淵明のように無類の酒好きの其角が、隣り近所の連中に「酒だ! 集まれ!」と号令をかけ、『肴? それ、丁度よい、「生身玉」じゃあないか!』というのであろう。「生身玉」は「生身魂」とも書き、盂蘭盆で死者の魂を祀るのに対して、その御盆前の七月十五日に行われた、生きている親に対し、生きた新鮮な魚を贈って祝う習慣を指す。「五元集」では頭書があって、「陌上の塵」(はくじやうのちり)とある。これも淵明の「雜詩」の冒頭の二句「人生無根蒂 飄如陌上塵」(人生 根蔕(こんたい)無く 飄(へう)として 陌上の塵のごとし:前句の「根蔕」は植物をしっかりと支える根や蔕(へた))を借りたもの。「路上の塵や砂埃」から転じて「飛び散って定めないこと」の喩えである。定めのない下らぬしがらみはどうでもいい! 今をこそ享楽しよう! という其角の痛快なブチ上げの実景と私は読む(無論、淵明自身を主人公とした田園の居に帰った隣人らとの交感の仮想の時代詠であっても構わぬが)。

「楊貴妃の夜は活たる鰹かな」夕暮れの涼しい魚市場を眺めている其角が、ふと目にした活きカツオのつやつやとした肌を眺め、夜の楊貴妃のむっちりとした膚(はだえ)を幻想したものか。但し、実際にその後の夜の遊廓での遊女のそれへと繋がり、さらにはそこで出る馳走としての生き鰹の刺身のそれも想像しているかのようにも覗える。芭蕉の「鎌倉を生きて出でけん初鰹」で知られる通り、相模灘がカツオの供給地であったが、そちらから朝に漁って船便で、夜、江戸に運ばれた「夜鰹(よがつを)」は特に珍重されたからである。

「のり物の中に眠沈て」恐らくは年末の遊廓返りの舟か駕籠の中で泥酔して「眠沈(ねぶりしづみ)て」という為体(ていたらく)を、竹林の七賢の一人で無類の酒豪として知られる「劉伯倫」にカリカチャライズした。「劉伯倫」は劉伶(二二一年?~三〇〇年?)の字(あざな)。三国時代の魏及び西晋の文人。沛(はい)の人。ウィキの「劉伶」によれば、「世説新語」には身長が約百四十センチメートルと低く、手押し車に乗り、鍤(ソウ:鋤(すき))を『携えた下僕を連れて、「自分が死んだらそこに埋めろ」と言っていた。酒浸りで、素っ裸でいることもあった。ある人がそれをとがめたのに答えて言った。「私は、天地を家、部屋をふんどしと思っている。君らはどうして私のふんどしの中に入り込むのだ。」』と言ったとか、『また酒浸りなので、妻が心配して意見したところ、自分では断酒できないので、神様にお願いする」と言って、酒と肉を用意させた。そして祝詞をあげ、「女の言うことなど聞かない」と言って肉を食い、酒を飲んで酔っぱらったと伝わ』り、著書にも「酒徳頌(しょう)」がある、酔っ払いの筆頭代名人である。

「景清が世帯見せぬや二薺」高い確率で芭蕉の「景清も花見の座には七兵衞(しちびやうゑ)」(「蕉翁句集」では貞亨五(一六八八)年とするが、根拠はない)を念頭に置いたものであろう。藤原悪七兵衛景清(?~建久七(一一九六)年?)は、平安末期の平氏に属した武士。平氏と俗称されるものの、藤原秀郷の子孫伊勢藤原氏(伊藤氏)の出。平家一門の西走に従って一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦奮戦した。「平家物語」巻十一「弓流(ゆみながし)」で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引き千切ったという「錣引き」で知られる勇猛果敢な荒武者(「悪」は「強い」の意)。壇ノ浦から逃れたとされるが、その後の動静は不明。幕府方に降って後に出家したとも、伊賀に赴き、建久年間に挙兵したとも伝わる。後、謡曲「景清」や近松の「出世景清」等で脚色されて伝説化した(前者では落魄して盲人となった彼と一人娘人丸との再会悲話仕立て、後者は平家滅亡後も頼朝の命を狙う荒事で、鎌倉には捕らわれた景清が入れられたという「景清の牢」跡なるものがあるが、信じ難い。私の「鎌倉攬勝考卷之九」の「景淸牢跡」を参照されたい)。この話は「吾妻鏡」建久三 (一一九二) 年一月二十一日の条に記される景清の兄上総五郎兵衛尉忠光が鎌倉二階堂の永福寺の造営中に源頼朝を暗殺しようと土工に紛れ込むも怪しまれて捕縛されたという話(私の「鎌倉攬勝考卷之七」の「二階堂廢跡」に絵入で詳しく載る)をないまぜにしたものであろう)。この句は、人日の節句(一月七日)の作で、あくまで頼朝暗殺を図る景清が、それと知られぬよう、あたかも市井の民であって所帯(妻子)があるかのように七草粥を作らんとする風で、ナズナを二つ摘み採って行くという時代詠であろう。

「景政が片目をひろふ田螺かな」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、「追鳥狩」や「五元集」では、

 景政が片眼ひろへば田にし哉

とある。その方がよい。以下、堀切氏の評釈。『後三年の役で片目を失なった景政が、田圃でふと田螺をみつけ、自分の目かと思って拾いあげたというのである。田螺は形といい色合といい人間の眼玉をくりぬいたような趣があるので、このような奇抜で滑稽な見立てをしたのである。一説には景政の行動を想像したものではなく、たまたま田圃で拾った田螺を見て、景政の失くした目玉だと洒落たものだと解するものがある』とある。(延久元(一〇六九)年~?)は平安後期の猛勇無双の武将。ウィキの「鎌倉景政」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景正とも書く』。『父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる』。『十六歳の頃、後三年の役(一〇八三年~一〇八七年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」』(「めふき」と読む)『の地名が残されている(現在の千葉県野田市)』。『長治年間(一一〇四年~一一〇六年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久四年(一一一六年)頃伊勢神宮に寄進している』。『子の景継は、長承四年(一一三四年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和二年(一一八二年)二月八日条には、その孫として長江義景の名が記されている』。『なお明治二十八年(一八九五年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められている。ただし、実在の鎌倉景政からはその名を借りるのみであることは言うまでもない』。『「尊卑分脈」による系譜では、景政を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の四世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の三世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景政は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景政の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする』。『景政の登場する系図は三種類あり、内二種類では香川氏や大庭氏、梶原氏などは景政の兄弟もしくは従兄弟に連なる家系としており、確かなことは判らない』とする。『横浜市内の旧鎌倉郡にあたる地域(現在の栄区・戸塚区・泉区・瀬谷区)に多く存在する御霊神社は概ね景政を祀っており、そのほか各地にも景政を祀る神社がある』とある。ともかく私は荒ぶる御霊となった彼がむちゃくちゃに好きなのである。彼のことやその所縁の鎌倉の御霊神社については、さんざん書いてきたので、ここではいちいち挙げないが、敢えて示すなら、『甲子夜話卷之三 24 權五郎景正眼を射させたること、杉田玄伯が説幷景正が旧蹟』が面白かろう。読まれたい。

「河州観心寺」「河州」は三河国。大阪府河内長野(かわちながの)市寺元にある真言宗檜尾山(ひのおざん)観心寺(グーグル・マップ・データ)。楠木氏の菩提寺で、楠木正成及び南朝所縁の寺として知られる。建武元(一三三四)年頃、後醍醐天皇により楠木正成を奉行として金堂の外陣造営の勅が出され、正平年間(一三四六年~一三七〇年)に完成した。同寺公式サイトのこちらによれば、『正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願され』たとあり、延元元(一三三六)年、神戸の湊川で討死後、正成の首級はこの寺に送り届けられ、首塚として祀られている』(こちらで写真が見られる)。『その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になって』しまったとある。夏にここを訪れた其角が、美しく咲く牡丹に正成の一時の寛ぎを幻視した懐古詠である。

「破扇の図」の「図」というのは絵ではなく、破れたひどく古い扇を「見て詠めるもの」の意であろう。「惟光が後架へ持し扇かな」の「惟光」(これみつ)は言わずもがな、光源氏の一の従者である彼。宵曲の挙げたのは「五元集」のそれで、「かくれ里」(片海編で宝永五(一七〇八)、六年頃の刊)では「後架」(こうか)は「厠」(かはや)となっており、また実際には「惟光」は「維光」と誤っているらしい。堀切氏は前掲書で、『この古びた扇は』、惟光が『蚊を追い払うために厠に持っていった扇でもあろうかと興じたのである』。「源氏物語」の『「夕顔」の巻の冒頭部の、惟光が夕顔の家の女童』(めのわらわ)『から香をたきこめた白い扇を受けとって源氏に渡す場面の〝雅〟を、「厠に持し」の〝俗〟に反転させた滑稽句である』とある。堀切氏の指示する「源氏物語」のそのシークエンスは、

   *

 切り掛けだつ物[やぶちゃん注:羽目板の一種。横板を羽重ねに張った塀。]に、いと靑やかなる葛(かづら)の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑(ゑ)みの眉(まゆ)開けたる。

「遠方人(をちかたひと)にもの申す。」

[やぶちゃん注:光は古今和歌集の旋頭歌(一〇〇七番)「うちわたす をち方人に もの申す我(われ) そのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも」の上句を以って問いに代えたのである。]

と獨りごち給ふを、御隋身、ついゐて、

「かの白く咲けるをなむ、夕顏と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲き侍りける。」

と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒(のき)のつまなどに這ひまつはれたるを、

「口惜(くちを)しの花の契りや。一房(ひとふさ)折りて參れ。」

とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。

 さすがに、されたる遣戶口(やりどぐち)に、黃なる生絹(すずし)の單袴(ひとへばかま)、長く着なしたる童の、をかしげなる出で來て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを[やぶちゃん注:香を強く焚きしめたために色づいている白い扇を。]、

「これに置きて參らせよ。枝(えだ)も情けなげなめる花を。」

とて取らせたれば、門(かど)開けて惟光の朝臣(あそん)出で來たるして、奉らす。

   *

である。ああ、懐かしいねぇ。

「綱が立つてつなが噂の雨夜かな」乾裕幸氏編著「蝸牛 俳句文庫1 榎本其角」(一九九二年蝸牛社刊)によれば、『四月上旬』に『西上する嵐雪への餞別吟。渡辺綱が鬼退治をすべく』羅城門に『向かって発ち、その場に残った人々が綱のうわさ話をする。雨の降る暗い夜である』という『物語風の一句、雨夜が効いている。出典』(除風編「青莚」元禄一三(一七〇〇)年刊)『に「雑の句」として挙げる』とある。

「蚊をやくや褒姒が閨の私語」は、遊廓での自身を西周の幽王(紀元前七五一年~紀元前七七一年)に、相手の遊女を彼の二番目の后で笑わぬ美女、文字通り、傾城の褒姒(ほうじ)に擬えたもの。私の好きな話であるが、ウィキの「褒姒」から引いておこう。「史記」の「周本紀」に『記された彼女の物語は、以下のようなものである』。『夏の時代、宮中の庭に神龍が出現した。夏の帝は龍に漦』(ぎ)『(口の泡)を貰い、箱に納めた。やがて夏王朝は亡び、この箱は殷王朝に伝わる。さらに殷が亡び、箱は周の王家に伝わったが、その数百年の間に、一度も開けられることがなかった』。『周の厲王』(れいおう)『の世になり、この箱を開いたところ、中から泡が発して庭じゅうに溢れだした。やがて泡は一尾の蜥蜴と為り、後宮に入り、七歳の童女に遭った。やがて次代の宣王の時代、この童女が十五歳になったとき、男も無くひとりの女児を産んだ。人は恐れ、この子を捨てた』。『そのころ』、『巷間に』「檿弧萁箙 實亡周國」(檿弧(えんこ)萁箙(きふく) 実(げ)に周の國を亡(ほろ)ぼさん:山桑で作った弓に箕(木の一種の名)で出来た箙(えびら:矢筒) きっとそれが周の国を亡ぼすぞ」という童謡が流行った。『宣王が調査させると』、『確かに山桑の弓と萁の矢筒を売っている夫婦がいたので、捕えて殺そうとした。この夫婦は逃亡したが、途中で道ばたで泣いている捨子を見つけ、哀れに思って拾いあげ、ともに褒国に逃げた。その後、褒の者に罪があり、育ったこの捨子の少女を宮中に差し出して許しを乞うた。そこでこの褒国から来た少女を、褒姒と呼んだのである』。『幽王三年』(紀元前七八三年)、『王は後宮で褒姒を見て愛するようになり、やがて子の伯服が生まれた。周の太史(記録官)伯陽は「禍成れり。周は滅びん」と言った』。『褒姒は、笑ったことがなかった。幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした。ある日、幽王は(緊急事態の知らせの)烽火』(のろし)『を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。諸将はさっそく駆けつけたが、来てみると何ごとも無い。右往左往する諸将を見た褒姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。喜んだ幽王は、そののちたびたび烽火を上げさせたので、次第に諸将は烽火の合図を信用しなくなった。また王は佞臣の虢石父』(かくせきふ)『を登用して政治をまかせたので、人民は悪政に苦しみ、王を怨むようになった』。『王はとうとう当時の王后だった申后と太子宜臼(後の平王)を廃し、褒姒を王后にして伯服を太子にした。怒った申后の父の申侯は反乱して、蛮族の犬戎の軍勢と連合して幽王を攻めた。王は烽火を上げさせたが、応じて集まる兵はなかった。反乱軍は驪山で幽王を殺し、褒姒を捕え、周の財宝をことごとく略奪して去った。この乱で、西周は滅びたのであ』ったとある。一句は蚊遣りの煙から烽火を、次いで褒姒を大胆に連想させて、江戸の遊廓を皇帝の後宮と模様替えさせというアクロバチックな手法を見せる面白い艶句である。なお、実際には其角は「褒姒」を「褒似」と誤って書いている。

「伊勢の鬼見うしなひたる躍かな」句意不詳。「伊勢の鬼」とくれば、「伊勢物語」の「芥川」であるが、「躍(をどり)」が判らぬ。以下遊びの解釈――「伊勢」を、また、別に「伊勢海老」と二重に意味させれば、それをそのまま焼く「鬼殻焼き」が連想で出て「鬼」に繋がる。そうすると「躍」は「踊り食ひ」か? 「鬼」殻焼きにしないで(「見失」って)、活き身のみを「躍」り食いとしたということか? よく判らぬ――というのはムリ。季題がなくなる。「躍」は「盆踊り」で夏のそれである。伊勢には三重県度会郡南伊勢町押渕には「鬼ヶ城」があり、鬼が棲んでいたという伝承があることを思い出した。「伊勢志摩きらり千選」の「押渕の鬼が城と滝」に写真入りで、『ここに住んでいた鬼は、田畑を荒らしたり、女子供をさらったり、恐れられていたが』、『松阪在で焼き殺されたという言い伝えがある』。『また』、『愛州の殿様に弓で射られた牛鬼は、ここの鬼だろうか』(牛鬼は同サイトのこちらを参照)とあった。さすれば、伊勢の民草は嘗て鬼がいて散々な目に遭ったことを最早忘れて盆の踊りに興じていることだ、という意か? 識者の御教授を乞うものである。

『蕪村の「滝口に燈を呼ぶ声や春の雨」』安永三(一七七四)年の作。清涼殿の庭を警護する武士は清涼殿東庭北東にある「滝口」と呼ばれた御溝水(みかわみず)の落ち口近くにある渡り廊を詰所にして宿直(とのい)した。彼らのことを「滝口の武士」この詰所を「滝口の陣」などと呼んだ。ここは後者で、春雨の降る夕暮れ、夕闇が御所の奥にひた寄せる頃おい、滝口の辺りで「早く灯をともし来たれ!」と呼ぶ声がする、という平安絵巻のワン・シーンのような時代仮想詠である。

「実方の長櫃通る夏野かな」実在する人物ながら、貴種流離譚的伝承の多い藤原実方(さねかた 天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)を夢想した蕪村の時代詠。実方は歌人として知られ、左大臣師尹(もろただ)の孫。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父済時(なりとき)の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任した後、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任したまま、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集。藤原公任・大江匡衡、また、恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、歌合せなどの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人(まいびと)としても活躍し、華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持った。奔放な性格と家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い、「歌枕見て参れ!」と言われて陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから様々に説話化された。松尾芭蕉も実方に惹かれており、「奥の細道」にも複数回登場する。例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道』を参照されたい。本句もそうした晩年の彼の北への旅の空想時代詠である。

「寒月や衆徒の群議の過ぎて後」前書もなく、具体時代や場面が判らないこと、読者がそれぞれ勝手に画面を構成せざるを得ないことから、宵曲は「画趣に乏しい憾はある」と述べているのである。所持する蕪村の評釈書では諸家は「平家物語」の俤(おもかげ)を通わすとか、比叡山をロケ地と仮定してみたりしている。モノクロームの戦前の時代劇映画のワン・シーンを想起させはするものの、やはり言い足りておらず、投げ出した遊びの句でしかない。

「射干(ともし)してさゝやく近江やはたかな」正岡子規は「俳人蕪村」(『日本』明治三〇(一八九七)年連載)で、彼の絵画的な句十四句を挙げた中にこれが入っている(そこでは「射干(ともし)して」は「照射(ともし)して」とする)。「近江やはた」(現在の近江八幡市。グーグル・マップ・データ)は京都と東国・北国との交通の要めに当たったため、天下統一を目論む戦国大名たちにとって是非とも抑えておきたかった要地であり、後の関白秀次によって城下町として発展し、江戸時代には近江商人の在郷町として栄えた。そうした者たちの謀議のさまを、揺れる燈心の火一点を描いてシルエットにした時代詠であろう。

「相阿弥の宵寝起すや大文字」安永六(一七七七)年の七~八月の作。相阿弥(そうあみ/歴史的仮名遣「さうあみ」)は足利義政に仕え、銀閣寺(臨済宗慈照寺)の庭を作った人物。銀閣寺は大文字の背後に当たるので、今の五山送り火の「大文字焼き」(現在、京都市左京区浄土寺の如意ヶ嶽大文字山(グーグル・マップ・データ。山から東北位置に慈照寺があることが判るように配した)で八月十六日に五山の内で最初(午後八時)に点火される)を見たら、さぞや、びっくりして目が醒めるだろう、と戯れたもの。蕪村の句は好きだが、どうもこれらは皆、古びて誰も見もせず、評価もしなくなってしまった雨の降るコマ送りの時代劇映画を見るようで、どれも私には面白くない。]

 其角の句の特色が主として人事的興味にあり、都会人一流の鋭敏な感覚を生命とすることは、已に記した通りである。其角集中における自然は、人寰(じんかん)を去ること遠からざるものが多い。

[やぶちゃん注:「人寰」世間。巷(ちまた)。]

 水影や鼯わたる藤の棚        其角

[やぶちゃん注:「鼯」は「むささび」。]

 暁の氷雨をさそふや郭公       同

[やぶちゃん注:「氷雨」は「ひよう(ひょう)」と読む。雹(ひょう)。]

 水うてやせみも雀もぬるゝ程     同

 夕立にひとり外みる女かな      同

 包丁の片袖くらし月の雲       同

 家こぼつ木立も寒し後の月      同

[やぶちゃん注:「後」は「のち」。]

  園城寺にて

 からびたる三井の二王や冬木立    同

[やぶちゃん注:「園城寺」は「をんじやうじ(おんじょうじ)」。]

  市中閑

 初雪や門に橋ある夕間ぐれ      同

[やぶちゃん注:「門」は「かど」。]

 冬川や筏のすわる草の原       同

[やぶちゃん注:「筏」は「いかだ」。]

 この種の句は其角の本領と見るべきものではないかも知れない。ただ最も長く価値の変らぬものであろうと思う。其角の句を以て頭から難解なものときめてかかる人は、先ずこれらの句を三誦する必要がある。

[やぶちゃん注:「水影や鼯わたる藤の棚」「鼯」(むささび)は哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista(全八種で東アジア・南アジア・東南アジアに分布)で、本邦に棲息するのは、日本産固有種ホオジロムササビ Petaurista leucogenys である。博物誌は私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 䶉(たけねずみ)・鼯鼠(むささび/のぶすま) (タケネズミ・ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。本句は実際に其角が見たそれを叙景したものであろう。見事にして何か夢幻的に美しいのは、あくまでそれを池塘の水面(すいめん)に映った景観として、カメラを終始、水面(みなも)に向けたままに描出している点にある。私の偏愛する、セルジュ・ブールギニョン(Serge Bourguignon)監督/アンリ・ドカ(Henri Decaë)撮影の一九六二年の映画「シベールの日曜日」(Cybèle ou les Dimanches de Ville d'Avray:「シベール、或いはヴィル・ダヴレィの日曜日」)の公園の池のシークエンスのように。

「暁の氷雨をさそふや郭公」堀切氏は前掲書で、『「氷雨」は「ひさめ」であるが、ここは句調からみて『続猿蓑』に』「雹」『の字が当ててあるのに準じて「ひょう」と読むべきか』ととされておられる。「続猿蓑」(芭蕉七部集の一つ。沾圃(せんぽ)が撰したものに芭蕉と支考が加筆したとされる。元禄一一(一六九八)年刊。蕉門の連句・発句が集められ、〈軽み〉」の作風が示されるものとされる)の「夏之部」の巻頭の「郭公」(ほととぎす)の巻頭に、

 暁の雹をさそふやほとゝぎす

で配されてある(「暁」の字体はママ)。

「水うてやせみも雀もぬるゝ程」これは「花摘」には『三日 巴風亭』の前書がある。堀切氏前掲書によれば、これは元禄三(一六九〇)年六月三日(グレゴリオ暦七月八日)で、巴風は『其角門の俳人』とある。

「夕立にひとり外みる女かな」其角の句の内でも私の偏愛の一句。

「包丁の片袖くらし月の雲」「包丁」(はうちやう(ほうちょう))は本来は包丁士、則ち料理人のことを指し、ここはその原義である。当時は大名家や富んだ町人は専属の料理人を抱えていた。堀切氏は、『月見の宴などのことであろう。折りから月に叢雲(むらくも)がかかって、庭前で腕をふるう料理人の片袖に、一瞬影が落ちたのをとらえたのである。その影は、宴に連なる人々の胸にも、ふと秋の夜の陰影を投げかけたのであろう。鋭い観察眼が働いている』と評しておられる。

「家こぼつ木立も寒し後の月」乾裕幸氏編著「蝸牛 俳句文庫1 榎本其角」(一九九二年蝸牛社刊)によれば、『古家をとり壊したあと、がらんとなった空地に冬木立が寒々と残って、九月十三夜の月光に照らされている。からび』た『≪景気≫を詠んだ句。人事句に長(た)けた其角には珍しい』と評しておられる。

「園城寺」滋賀県大津市園城寺町にある天台宗長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。本尊は弥勒菩薩。日本三不動の一つである黄不動で知られる。一般には「三井寺(みいでら)」として知られる。この通称は寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから、「御井(みゐ)の寺」と称されていたものが転じて「三井寺」となったと言われる。

「からびたる」古びて落ち着いた感じとなっているとか、古ぼけてはいるが、そこに枯淡な美しさがあるといったの意。

「三井の二王」ウィキの「園城寺」によれば、同寺の大門は仁王門とも呼ばれ、『入母屋造の楼門』で、『もとは近江国の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった室町時代の宝徳』四(一四五二)年に『建てられた仁王門であるが、豊臣秀吉によって伏見城に移築されていたものを慶長』六(一六〇一)年に『徳川家康が寄進したものである』とある。堀切氏は前掲書で、『冬枯れの木立の中に三井寺の山門が見える。その山門の両脇には、色彩がはげ、ひびも入って、もはやからび切った感じのする仁王像が対峙しているという情景である。本来』、『勇猛な形相で力感溢れる仁工像を、蕭条たる冬景色に配して、これを「からびたる」ととらえたところが一句の眼目であり、詩人としての其角の感性が鋭く発揮された点でもあろう。冬木立に囲まれた山門をやや遠望するところから、やがてその山門の仁王像に接近してゆくという、視点の移動のしかたも巧妙である』と素敵な評釈をなさっておられる。

「初雪や門に橋ある夕間ぐれ」これは『続(つづき)の原』(不卜編・貞享五(一六八八)年自序)の句形で、「続猿蓑」では、

 初雪や門に橋あり夕間ぐれ

で、私はその方がよいと思う。乾氏は前掲書で、『夕暮時、うっすらと初雪が積る。門前の橋にも積って美しい。友人は歓迎するが、この橋の雪を踏み荒されるのは惜しいような気もする。「門に橋あり」で、橋上に積る初雪の新鮮さを暗示しているのは巧みな措辞である』とこれまたお洒落な評釈をしておられ、同感である。

「冬川や筏のすわる草の原」この句も私の好きな一句である。]

 其角の一生には芭蕉が「たよりなき風雲に身をせめ」といったようなものは見当らない。その旅行の迹(あと)を尋ねて見ても、貞享年間に一回、元禄年間に二回、東海道を京に上ったことがあるだけで、他は箱根から江の嶋鎌倉に遊ぶ程度の遊行に過ぎぬ。京都の滞在はいつも相当長く、元禄元年の時も同七年の時も、年を越して江戸に帰っている。その間京洛を中心として、各地に遊んでいることはいうまでもない。

 閑さや二冬なれて京の夜       其角

[やぶちゃん注:「閑さや」は「しづかさや」。]

という句は、元禄七年から八年にわたる滞在の産物である。

 今其角の紀行として伝わっているのは、『新山家(しんさんが)』(貞享二年)と『甲戌(こうじゅつ)紀行』(元禄七年)との二種であるが、さのみ特色あるものではない。『新山家』の句は時代が時代だけに多少生硬を免れず、

 さみだれや湯の樋外山に煙けり    同

 岩根こす鞋に鱗あり走鮎       同

[やぶちゃん注:「いはねこす くつにひれあり はしりあゆ」。]

  円覚寺

 法の声空しき蠹の崛かな       同

[やぶちゃん注:「のりのこゑ むなしくしみの いはほかな」。]

等、いずれも其角の真面目を発揮するに足らぬものである。

[やぶちゃん注:「真面目」「しんめんぼく」。本領。真価。]

 『甲戌紀行』はまた『随縁紀行』ともいう。『句兄弟』に収めたものは他の同行者の句を併記し、『錦繡緞(きんしゅうだん)』には自身の句だけ録してある。紀行というものの地の文はなく、前書と句と相埃まって行程を辿り得るに過ぎぬ。けれどもこの旅行は時日も長く、触目の事柄も多いだけに、その句も誦すべきものが少くない。

  箱根峠にて

 杉の上に馬ぞみえ来るむら栬     其角

[やぶちゃん注:「栬」は「もみぢ」。紅葉。]

  三嶋旅中佳節

 門酒や馬屋のわきの菊を折      同

[やぶちゃん注:「門酒」は「かどざけ」、「折」は「をる」。]

  うつの山

 うら枯や馬も餅くふうつの山     同

  二股川

 打ツ櫂に鱸はねたり淵の色      同

[やぶちゃん注:「櫂」は「かい」。歴史的仮名遣は「かき」のイ音便であるから「かい」でよい。]

  雲津川にて

 花すゝき祭主の輿を送りけり     同

[やぶちゃん注:「輿」は「こし」。]

  三輪

 むらしぐれ三わの近道たづねけり   同

 僧ワキのしづかにむかふ薄かな    同

  よしのゝ山ふみす

   白雲岑(みね)に重り煙雨谷を埋み

   て山賤(やまがつ)の家所々にちひ

   さく西に木を伐(き)る音東にひゞ

   き院々の鐘の声心の底にこたふ、寒

   雲繡石といふ句に思ひよせて

 高取の城の寒さよよしの山      其角

[やぶちゃん注:「寒雲繡石」は「かんうんしうせき(かんうんしゅうせき)」。]

   住吉奉納

 蘆の葉を手より流すや冬の海     同

 句は得るに従って録したものが多いのであろう。平生の句に比すれば素直でもあり、自然でもある。これは其角に限らず、あらゆる人が旅行から得る功徳の一であるが、子細に点検すれば都会人たる其角の面目は随所に窺われるように思う。三輪における「僧ワキ」の句の如き、最もその才気を見るに足るものであろう。其角はこの旅行の時、堺から大坂に出てはじめて芭蕉が御堂前(みどうまえ)の花屋に病むことを知った。直に駈付けて最後の病牀に侍した顚末は、『枯尾花』一巻に尽きている。其角が蕉門の人々の間に重きをなしていた消息も、芭蕉臨終の折の様子を見れば、ほぼ合点が行くようである。今日のように電報や急行列車のある時代ではない芭蕉重態の報が江戸に達するにも相当の時間を要し、これを聞いて急行するにしても自(おのずか)ら時間の制限がある。平素さのみ遊行を事とするでもない其角が、たまたま関西の地にあったために、芭蕉の臨終に間に合ったということは、偶然のようであって偶然でない。蕉門第一の逸材であり、最も古い弟子でもある其角と、「夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」旅の空で最後の対面が出来たのは、芭蕉に取っても大なる満足であったに相違ない。芭蕉と其角との因縁は意外に深かったのである。

[やぶちゃん注:「たよりなき風雲に身をせめ」松尾芭蕉の俳文「幻住庵記」(元禄三(一六九〇)年四月から七月までの四ヶ月間、門人の菅沼曲水の奨めで隠棲した小庵での生活や感想を記したもの。同四年刊の「猿蓑」に所収された)の終わりに近い一節。但し、正しくは「たより」ではなく、「たどり」である(深く考えることもなく・無分別な)。

   *

一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞(らう)じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。

   *

「貞享年間に一回」貞享元(一六八四)年二月十五日(二十四歳)、江戸出立。六月五日に住吉神社での西鶴・矢数俳諧独吟興業に立ち合っている。

「元禄年間に二回」元禄元(一六八八)年(二十八歳)に上京し、九月十日に素堂亭残菊の宴へ出席の後、父東順の故郷堅田への旅に出、十一月二十二日には前年に亡くなった其角に母宗隆尼の遺骨を堅田に葬った。今一つは、元禄七(一六九四)年(三十四歳)に「句兄弟」(三巻・其角撰)の選句のために上京したが、この折りの十月十二日、芭蕉の臨終(享年五十二)に立ち逢うことができ、無論、粟津義仲寺への葬送にも付き添った。

「箱根から江の嶋鎌倉に遊ぶ」元禄四(一六九一)年八月、大山や江ノ島へ旅している。以「甲戌紀行」によってこの旅が刊行されたのと同じ元禄七(一六九四)年甲戌(きのえいぬ)年中のことであることが判る。

上の其角の事跡はサイト「詩あきんど」の「其角年譜」に拠った。

「岩根こす鞋に鱗あり走鮎」「鞋(くつ)」は滑らぬように履いた「草鞋」(沢登りでは今も草鞋を履く。私も履いた)。「鱗(ひれ)あり」はふと気が付くとその草鞋に魚の鱗が張りついて光っていた――そうか、鮎が遡上し始めたのだ――という意で採る。

「蠹(しみ)」節足動物門昆虫綱シミ目シミ科ヤマトシミ属ヤマトシミ Ctenolepisma villosa(やや褐色を呈し、日本在来の室内種)及び同属セスジシミ Ctenolepisma lineata(茶褐色で光沢に乏しく、背に縦線模様を持つ)。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)」を参照されたい。なお、この漢字は鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目(亜目) Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類を指す漢字でもあるので注意。

「崛(いはほ)」「巖」。

「錦繡緞(きんしゅうだん)」其角編「俳諧錦繡緞」(元禄一〇(一六九七)年刊)。但し、堀切氏の前掲書の「出典俳書一覧」には、本書について『この書の成立については、近年疑義がだされている』と注記がある。

「三嶋旅中佳節」乾氏前掲書に「句兄弟」と後の「随縁紀行」に載り、前者では『三嶋にて旅行の重陽を』と前書きするとある。従って、この時の旅で三島宿に泊まったのが、元禄七年の丁度、九月九日(一六九四年十月二十七日)であったから、馬を繋いだ「馬屋の」脇にこれまた偶然にも美しく咲いていた「菊を折」り採って、この旅出の幸いを祈る「門酒」(かどざけ:出立や到着の折りに予祝や無事のそれを盃(さかづき)事に込めた)に浮かべて、序でに無病息災を祈ろうではないか、というのである。重陽の節句は、古来、中国より、邪気を払って長寿を願い、丘に登っては菊の花を飾ったり、その花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったものであった。

「うつの山」静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある宇津谷(うつのや)峠。古くから歌枕として「伊勢物語」の第九段〈東下り〉や、それをモチーフとした俵屋宗達の屏風絵「蔦の細道」で知られる。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「日本の美術」の「蔦の細道図屏風:宗達の世界」がよい。「伊勢物語」の原文も引かれてある。名物「十団子(とうだんご)」が知られていた。ウィキの「十団子」(とうだんご)によれば、『和菓子の一種で、団子または類するものを紐や串でつなげたもの』とし、『現在の静岡県静岡市駿河区にある宇津ノ谷は、東海道の宇津ノ谷峠のそば』『で』、『道中の軽食に売られ』ていた。『江戸時代の紀行文や川柳からは、小さな団子を糸で貫き』、『数珠球のようにしたものと知れる。地蔵菩薩の教えで作り、子供に食べさせると』、『万病が癒えると』して『売られていた』という。彦根藩士で蕉門の許六の、元禄五(一六九二)年七月十五日頃、藩主の参勤に従って彦根から江戸へ出府する途次のここでの吟、

  宇津の山を過(すぐ)

 十團子(とおだご)も小粒になりぬ秋の風

が知られる。この「餅」も或いはこれだったか。

「うら枯」秋の末、草木の枝先や葉先が枯れてきて、それが寂しさを感じさせることを言う。

「二股川」二俣川。現在の静岡県浜松市天竜区を流れる天竜川の支流二俣川(グーグル・マップ・データ)があるが、ここはその周辺の旧地名。

「打ツ櫂に鱸はねたり淵の色」堀切氏の前掲書では、「句兄弟」のそれを引き、

  二股川、椎河脇(しいがわき)の御社(おやしろ)

  は尤(もつとも)切所(きりしよ)也

 打櫂(うつがひ)に鱸はねたり淵の色

とする。「椎河脇の御社」は現在は天竜川右岸の椎河脇神社(グーグル・マップ・データ)で、直近の下流左岸で二股川が合流する。「切所」は難所の意。「打櫂(うつがひ)」の場合は堀切氏によれば、『柄の短い櫂(かい)』で、『舟夫はこれを片手で操って水を搔き、また舵の用にも働かせる。川舟の漁師などの多く使うもの』とある。「鱸」は淡水魚である条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。淡水魚と私が書くのを不審に思われる方は、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸 (スズキ)」の注を読まれたい。其角は恐らく「平家物語」の巻一で若き清盛の熊野詣の舟に飛び込んだ鱸の瑞兆譚を意識して、言祝ぎとして、この事実を句にしたものと思う。

「雲津川」三重県を流れる雲出川(くもずがわ)(グーグル・マップ・データ)と思われる。但し、「五元集」を見ると、前に外宮・内宮を詠じた句作を認め、其角は元禄元(一六八八)年九月下旬に伊勢参宮をしているようである。

「三輪」大和国三輪山麓。現在の奈良県桜井市大字三輪(グーグル・マップ・データ)。

「僧ワキのしづかにむかふ薄かな」私の偏愛する一句。「随縁紀行」の中にあり、「句兄弟」「錦繡緞」「五元集」に所収する。「五元集」では「在原寺にて」と前書する。在原寺は廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は阿保親王と在原業平を祀る在原神社(奈良県天理市櫟本町(いしのもとちょう)。グーグル・マップ・データ)となっている。ここは御大河東碧梧桐 の「其角俳句評釈」(明三七(一九〇四)年大学館刊)から引く。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。

   *

これも甲戌紀行中の句で在原寺に詣つた句である。在原寺のことは謠曲井筒に脚色してあつて、一人の僧が在原寺を尋ねて、紀の有常の女の幽霊に邂逅する、といふ筋であるが、其角が其處へ詣つた時、直に井筒のことを思ひ出して、実際の在原寺ではあるけれども、それを謠曲中の一つの舞臺と見倣してそこに詩興を呼起したのである。大方在原寺の中には花芒が淋しげにあつたものであらう。能樂の僧脇が靜かに立向ふて居る光景を眼前に書き出して、實際生えて居る芒とそれとを結びつけて其兩々相對する淋しみを賞したのである。言はゞ一腫のパノラマのやうなもので、僧脇は畫であつて芒は實物である。が、兩者の配合調和のよい爲め、僧が畫か、芒が畫か、何れが實物か渾然として區別の出來ぬやうな趣きがある。固と[やぶちゃん注:「もと」。]能樂の僧脇といふものゝ風俗は、寸法師[やぶちゃん注:「角帽子(すみばうし)」の転。能装束の一つ。上が尖り、後ろを背中へ長く垂らす頭巾。]といふ被りものに水衣[やぶちゃん注:「みづごろも」。能装束の一つ。単 (ひとえ) の広袖で衽 (おくみ) のある上衣。]をつけ、それに單純な着流し姿であるから、其姿の古雅なること、之を草花に替へても、芒に比するの外はない位なものであるが、それを暗に對比して「靜にむかふ」と書いた處は、よく其對比の趣味を失はず、寧ろ比喩以上の味ひを存する處敬服に餘りある。淋しみ即ち消極美を歌ふた其角集中の好句に數へ入るべきものであらう。

   *

この句を読むたび、あたかも叢薄(むらすすき)に向かう無言の其角の実際の身体から、ワキ僧となった其角の分身が半透明なままに進み出でてくる錯覚を私はいつも起こす。直接に其角の琴線に触れたのは、恐らく謡曲「井筒」の、

   *

シテ〽昔男の

地〽名ばかりは 在原寺(ありはらでら)の跡古りて 在原寺の跡古りて 松も老いたる塚の草 これこそそれよ亡き跡の 一叢(ひとむら)薄(ずすき)の穗に出づるは いつの名殘りなるらん  草茫々として 露深々(しんしん)と古塚(ふるつか)の まことなるかないにしへの 跡なつかしき氣色(けしき)かな 跡なつかしき氣色かな

   *

章歌であったろう。なお、能「井筒」はサイト「第八回 淡海能」のこちらが全詞章の原文と訳に舞台衣装のイラストもあってお薦めであり、また、サイト「佐高八期会」の石井俊雄氏の『伊勢物語「筒井筒」と能「井筒」』も素材二本の原話をコンパクトに非常に判り易く纏めておられ、よい。

「よしのゝ山ふみす」「高取の城の寒さよよしの山」堀切氏の前掲書に『吉野山から高取の古城を望見したときの吟』で、『今、遥かに望む高取城の荒涼とした山容は、じつに寒々として眺められるというのである。「城の寒さよ」には、廃墟の地に南北朝の昔を偲ぶ心の寒さも託されているのであろう』と評しておられる。奈良県高市郡高取町高取にあった南朝方の要害の地であった高取城はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。南東約九キロメートル位置に吉野山はある。

「寒雲繡石」堀切氏の注では「随縁紀行」の前書が記されてあるが、それを見ると、これは「寒雲繡磐石」(かんうんしうばんせき(かんうんしゅうばんせき))となっている(堀切氏はそこに『かんうんしようばんせき』というルビを振っておられるが、この「しよう(しょう)」は「しゆう(しゅう)」の誤りであろう。なお、個人的には「かんうんしゅうばんじゃく」と読みたくはなる)。峰々から湧き出でた如何にも寒々とした重い雲と、その下に横たわる永い年月を刺繡のように刻み込んだ巨石の意としては判るが、この五字の語句の出典は見当たらない。禅語(「虚堂録」(南宋末の禅僧虚堂智愚)他)の、

 寒雲抱幽石 霜月照淸池

  寒雲 幽石を抱(いだ)き

  霜月(さうげつ) 淸池(せいち)を照す

辺りが出所か。

「住吉」大阪府大阪市住吉区住吉にある摂津國一宮住吉大社(グーグル・マップ・データ)。

「蘆の葉を手より流すや冬の海」元禄七(一六九四)年十月の吟。]

 以下の「(附記)」は底本では、本文一行空けで、表題を含めて全体が各上初行を除いて二字下げ(それぞれ各条の本文一行目は最初の『一』のみが二字目に飛び上って出ている)。]

 

    (附記)

一、其角の句を説くに当って、難解なる句の解釈に及ばぬのは、頗(すこぶ)る当を得ぬようであるが、この点に関しては往年の『其角研究』がほぼこれを尽しており、其角の手品も大方種明しが済んでいる。今『五元集』中難解の句を挙げて説こうとすれば、『其角研究』における諸先輩の説を請売するより仕方がない。これまで述べ来ったところといえども、勿論『其角研究』の御蔭を蒙っている点が多いのだから、この上難解な句を掲げて、物議めかしい解釈にわたることは差控えたいのである。多面的な其角の句は、この種の文章を以て容易に尽すべしとも思われぬ。其角の句を以て一概に奇を弄した難解なものとする以外に、多少その面目を伝え得れば本文の目的は足るのである。

一、蕪村をはじめ天明の諸作家には、明に其角の影響が認められる。蕪村が『華摘』に倣って『新華摘』を書き、几董(きとう)が『雑談集(ぞうだんしゅう)』に倣って『新雑談集』を著したというような、見やすい点ばかりではない。各家集中の作品について、其角の影響を受けた迹をいくらも指摘し得るような気がする。もう少し進んでいえば、天明諸作家の句は、本質的に芭蕉よりも其角に近いということになるかも知れない。しかしその点を明にするには、どうしても天明時代の句を改めて検討してかからねばならぬ。敢てその煩を厭うわけではないが、同一題目の下に筆を行(や)ることが存外長くなったし、其角と天明との交渉はまた出直しても遅くない問題だから、更に他日を期したいと思う。

[やぶちゃん注:『其角研究』昭和二(一九二七)年アルス刊の寒川鼠骨・林若樹編のそれであろう。

「雑談集」其角著。元禄五(一九九二)年刊。]

« 三州奇談卷之五 邪宗殘ㇾ妖 | トップページ | ブログ・アクセス1350000突破記念 梅崎春生 上里班長 »