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2020/04/28

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 嵐雪 一

 

     嵐  雪

         

 蕉門の高弟を談ずる者は、何人も先ず其角、嵐雪に指を屈する。後世の評価がそうなっているばかりではない。当時の相場もやはり同様であったらしい模様である。だから其角を書いた以上は嵐雪を書かなければならぬというわけもないが、ついでを以て少しく観察を試みることにしたい。

[やぶちゃん注:服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)本名は初め孫之丞、次いで彦兵衛と改めた。治助は名乗り。別号に嵐亭治助・雪中庵など。服部家は淡路出身の下級武士で、嵐雪は江戸湯島生まれ。元服後の凡そ三十年間は転々と主を替えながら、武家奉公を続けた。芭蕉への入門は延宝三(一六七五)年頃で、元禄元(一六八八)年一月には仕官をやめ、宗匠として立机、宝井其角(五歳年下)とともに江戸蕉門の重鎮となった。前章冒頭で宵曲が述べた通り、芭蕉は同五年三月三日、其角と嵐雪を、

 兩の手に桃と櫻や草の餅

と称えてはいるが、嵐雪は、芭蕉が晩年に説いた「軽(かる)み」の風体に共鳴せず、晩年の芭蕉とは殆んど一座していない。但し、師の訃報に接し、西上して義仲寺の墓前に跪き、一周忌には『芭蕉一周忌』を編んで追悼の意を表わすなど、師に対する敬慕の念は厚かった。青壮年期に放蕩生活を送り、最初は湯女を、後には遊女を妻としたが、晩年は俳諧に対して不即不離の態度を保ちつつ、専ら禅を修めたことからも窺われるように、内省的な人柄であり、それが句にも表われ、質実な作品が多い。嵐雪の門からは優れた俳人が輩出し、中でも大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)の時代になって嵐雪系(雪門)の勢力は著しく増大した(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 嵐雪はいろいろな意味において、其角と相似た径路を辿(たど)っているというべきであろう。蕉門に入る順序からいっても、其角におくるること数年に過ぎず、共に『延宝二十歌仙』に加わっているのを手はじめに、蕉門俳諧発達の過程たる『武蔵曲(むさしぶり)』『虚栗(みなしぐり)』『続虚栗』等の諸集、いずれも相率いて員に備っている。蕉門初期以来の作家としては、なお他に杉風(さんぷう)、嵐蘭(らんらん)その他の名を算え得るが、其角、嵐雪はその間にあって自ら重きをなしていたと見える。備前の兀峰(こっぽう)が「両の手に桃と桜や草の餅」の句を『桃の実』の巻首に置き、「かゝる翁の句にあへるは人々のほまれならずや」云々と附記したのも、二子の声望を羨んだのでなしに、むしろ当然の栄誉とした結果でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「延宝二十歌仙」正しくは「桃青門弟 独吟二十歌仙」。延宝八(一六八〇)年刊。

「武蔵曲」千春編。天和二(一六八二)年。

「虚栗」其角編。天和三年。

「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。

「員に備っている」「員(いん)に備(そな)わる」は「ある限定員数の人数の中に加わっている」ことを言う。

「杉風」杉山杉風(正保四(一六四七)年~享保一七(一七三二)年)。)、江戸日本橋小田原町の魚問屋杉山賢永の長男。家業は幕府御用を務めた富商で、屋号は鯉屋と称した。芭蕉のパトロン的存在で、多くの経済的援助や日常生活の世話をみている。門十哲の一人であるが、本書では採り上げられていない。元禄七(一六九四)年に芭蕉の発句「紫陽花や藪を小庭の別座舗」を巻頭にした、江戸蕉門の「軽み」の実践句を編んだ子珊編「別座鋪」の編集に協力したが、「軽み」を認めない嵐雪は「別座鋪」を批判、これによって嵐雪とは仲違いし、芭蕉没後、両派の対立は決定的となった。

「嵐蘭」松倉嵐蘭(正保四(一六四七)年~元禄六(一六九三)年)は芭蕉最古参の門人。名は盛教。板倉侯に仕えた三百石取りの武士であったが、晩年の元禄四(一六九一)年四十四歳の時には官を辞し、浅草に住んで俳諧一筋の生活に入った。延宝期(一六七三年~一六八一年)以来の蕉門俳人で(芭蕉が江戸で桃青を名乗って立机したのは延宝六(一六七八)年)、「桃青門弟独吟廿歌仙」以後諸書に入集、元禄五年に自ら判者となった句合せ「罌粟合(けしあわせ)」を刊行したが、翌年に没した。芭蕉は「悼嵐蘭詞」を書いて剛直清廉の士であったことを称し、これを悼んでいる(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「兀峰」桜井兀峯(寛文二(一六六二)年~享保七(一七二二)年)は近江生まれで、備前岡山藩士。旧姓は堀金、名は夫右衛門。元禄五(一六九二)年に江戸勤番となった折り、芭蕉に師事し、其角・服部嵐雪らと交わり、翌元禄六年、編著「桃の実」を出版した。]

 子規居士はかつて『日本人』に掲げた論文の中で、「高浜虚子は少にして碧梧桐と友たり、その郷里にあるも京都にあるも仙台にあるも学校を同うし学科を同うし下宿を同うす。その高等中学を退きて再び東京に来るもまた二人の共に謀り共に決行せし所なり。この間虚子は碧梧桐に誘はれて俳句を作る。その俳句もまた相似るなきを得んや。二人の句初よりやや似たる所あり。今日においてなほその然るを認む。しかしてその初に似たる所は必ずしも後に似たる所にあらざるなり。けだし初に似たるは虚子が碧梧桐を学びたる所少からず。後に似たるは共に琢磨し共に批評し共に進歩したるがためなり。しかれどもその相似たるは境遇を同うし修練をともにしたるの結果に外ならず。二人が天授の性質の相異は俳句の上にも相異なくして可ならんや」と述べたことがあった。今この説を藉り来って、直に元禄の其角、嵐雪の上に当嵌めようとするわけではない。ただ嵐雪が其角と同じく江戸に生活し、ややおくれて蕉門に入り、共に元禄俳諧の建設に与(あずか)った点からいえば、多少この説の如きものがありそうに思われる。

 嵐雪は宝永四年、其角と同じ年に五十四で亡くなった。其角より七歳の年長である。生前歿後にわたり比較的多くの門葉を有し、現にその形式的伝統を存すること、句集が殆ど同じ頃に旨原(しげん)の手によって刊行されたこと、菜窻荘丹(さいそうそうたん)なる者あってその句の撮解(さっかい)を作っていること、両者の相似点は本人の知らざる後代にまで及んでいる。その他小さな類似を算えたら、まだいくらも見つかることと思うが、其角、嵐雪が常に並称される所以のものは必ずしも両者相似の点にあるのではない。蕉門故参の弟子というためばかりでもなさそうである。他人の中に置けばよく似ているという兄弟でも、比較対照すると存外似ていないところの方が多い。其角、嵐雪の類似点を見るのも一の問題であり、相異点を見るのもまた一の問題であろう。

[やぶちゃん注:「旨原」小栗旨原(享保一〇(一七二五)年~安永七(一七七八)年)は江戸生まれで江戸座の清水超波の門人で、百万坊・伽羅庵などと号した。嵐雪の句を纏めた「玄峰集」や、其角の付句を集大成した「続五元集」などを編集している。句集に「風月集」(安永六年刊)。

「菜窻荘丹」鈴木荘丹(享保一七(一七三二)年~文化一二(一八一五)年)は江戸の商家の生まれで、名は伊良、俳号は菜窓・荘郎・能静・石菖など。門人二千人に及んだと伝えられる嵐雪門の雪中庵三世大島蓼太の高弟。和漢に通じ、蓼太も一目置くほどの人物であった。寛政年間(一七八九年~一八〇一年)初頭に与野(現在の埼玉県さいたま市内)へ移り住み、定住してからは、川田谷(桶川市)との間を往復する事が多くなり、中間地点の平方でも門人が多くおり、そこに滞在することも多かった、と「上尾(あげお)市」公式サイト内のこちらにあった。

「撮解」幾つかを選び取って解釈することか。能静荘丹述・菜牕菜英校(嵐雪門人)・西村源六板とある「嵐雪句解」(内題「嵐雪發句撮解」)(一冊)という文化三(一八〇六)年の版本を古本屋のサイトで現認出来た。これだろう。]

 『延宝二十歌仙』は単に独吟の歌仙を集めただけのものだから姑(しばら)く措(お)くとして、『武蔵曲』以下数種の書において両者の句を比較して見ると、『武蔵曲』は其角の七に対する嵐雪二、『虚栗』は其角の句四十を越ゆるに対し、嵐雪の句は二十に足らず、『続虚栗』に至っては其角の句六十に近く、嵐雪は僅に十三句を算うるに過ぎぬ。蕉門の句が平淡雅馴に帰した『曠野(あらの)』においても、其角の句十四、嵐雪の句三という勘定である。爾後『猿蓑』が二十五に対する四、『炭俵』が十五に対する十、『続猿蓑』が十三に対する三、いずれにおいても其角は全く嵐雪を圧倒している。このうち『虚栗』『続虚栗』の二集は、其角中心の撰集であるから、特に其角の句を収録することが多いので、嵐雪の撰集たる『其袋』を把って見れば、反対に嵐雪の句五十四、其角の句十七という数字を示している。これらは論外とすべきであろうが、そういう関係を離れた代表的撰集について見ても、両者の差は右の如く著しいのである。

[やぶちゃん注:「曠野」荷兮編。元禄二(一六八九)年刊。俳諧七部集の一つ。

「猿蓑」去来・凡兆編。芭蕉監修。元禄四(一六九一)年刊。俳諧七部集のみならず、蕉門の最高峰の句集とされる。

「炭俵」野坡・孤屋利牛編。元禄七(一六九四)年。俳諧七部集の一つ。

「続猿蓑」沾圃(せんぽ)撰。芭蕉・支考加筆。元禄一一(一六九八)年刊。俳諧七部集の掉尾。「炭俵」とともに、嵐雪の嫌った「軽み」を体現した撰集であるから、彼の句数が少ないのは当然と言えば当然。]

 けれども俳句はスポーツとは違う。単なる句数を以て優劣を争うわけには行かない。嵐雪の句が其角に比し、数において常に劣っているということは、直にその価値を決定する理由にはならぬであろう。ただここで注意したいのは『虚栗』や『続虚栗』における其角は、その集中においてめざましい活動を示しているのみならず、常に蕉門の主流に立っていることである。佶屈(きっくつ)なる漢語を縦横に駆使した「虚栗調」なるものは、談林の余習を脱して蕉門の新風を樹立する重要な過程であって、其角は実にその中心人物となっている。この場合における嵐雪は、所詮一箇のワキもしくはツレたる位置に甘んじなくてはなるまい。

 『虚栗』に一年先んじて出た『武蔵曲』は大体において『虚栗』と同傾向の句を集めたものであるが、その中に次のような嵐雪の句がある。

  信濃催馬楽

 君こずば寐粉にせんしなのゝ真そば初真そば 嵐雪

[やぶちゃん注:「催馬楽」は「さいばら」、「寐粉」は「ねこ」。「初真そば」は「はつまそば」。催馬楽は平安時代に隆盛した古代歌謡で、各地の古くから存在していた民謡や風俗歌に、外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡を指し、多くの場合は遊宴・祝宴・娯楽の唄い物として演ぜられた。語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などがあるが、定かではない。されば、この「信濃催馬楽」という前書は、信濃の古い唄があったとして、それを催馬楽にしてみようという趣向であろう。「寐粉」(ねこ)は各種の実用・食用の粉粒物にあって古くなって使えなくなった粉の謂いである。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、『もしあなたが来ないのなら、あなたのために大事にとっておいた信濃名物の』蕎麦『粉も、寝粉になって食べられなくなってしまうことになりますよ、と信濃催馬楽風の文句で問いかけた句である』とされる。長(なが)のご無沙汰の相手を誘う相聞歌である。]

 こういう調子は『虚栗』よりも、むしろ延宝末年に出た『田舎句合』(其角)『常盤屋句合(ときわやのかわせ)』(杉風)などに接続するものであろう。ただ十七字を全く破却しているにかかわらず、内容にも調子にも、両句合の如き自由奔放な点が乏しい。妙に整っている。鬼貫(おにつら)が自ら旋頭句(せどうく)と称した「烏帽子(えぼし)の顔ほのほのと何の花そもとしの花」の句などと相通ずる点があるかと思う。

[やぶちゃん注:「田舎句合」「いなかのくあわせ」と読む。延宝八(一六八〇)年序。延宝は九年まで。

「常盤屋句合」同八年跋。

「鬼貫」上島鬼貫(うえじまおにつら 万治四(一六六一)年~元文三(一七三八)年)は摂津伊丹(兵庫県)の有数の酒造業者上島宗次(屋号は油谷)の三男として生まれた。十三歳で松江重頼に入門し、次いで西山宗因に学んだ。禅の影響を受けた素朴な俳風を特色とした。小西来山の他、蕉門の各務支考や広瀬惟然らとも交わりがあり、「東の芭蕉、西の鬼貫」と並び称せられた元禄期の俳人。著作「独りごと」の「まことの外に俳諧なし」の名言で知られる。芭蕉より十七年下。

「旋頭句」記紀や「万葉集」にすでに見られる旋頭歌(五・七・七・五・七・七の六句を定型とする歌で片歌(かたうた)の唱和から起こったとされる)に倣って鬼貫が新たに発案した新句体で、七・五・七・五の四句を定型とするもの。

「烏帽子(えぼし)の顔ほのほのと何の花そもとしの花」享保三(一七一八)年の鬼貫五十八歳の歳旦吟。前書きがあり、濁音化してよく、

  試筆 人麿の尊像にむかひて
   旋頭句

 烏帽子(えぼし)の顔ほのぼのと何の花ぞもとしの花

である。この「ほのぼのと」は「古今和歌集」の「巻第九 羇旅歌」で「題しらず よみ人しらず」で載りながら、後書で「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」とする(四〇九番歌)、

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隱れゆく舟をしぞ思ふ

を意識したもので、「何の花ぞも」は同じく「古今和歌集」の「巻第十九 雑躰」の「旋頭歌」で「題しらず よみ人しらず」で巻頭に載る(一〇〇七番歌)、

 うちわたす遠方人(をちかたびと)にもの申すわれ  そのそこに白く咲けるはなにの花ぞも

に拠る。而して則ち、「其角 四」で見た通り、全体は「源氏物語」の「夕顔」のかのシークエンスで、光が随身に訊ねるその景を再現して興趣を添えたものに過ぎないことが判る。]

 『虚栗』の中について見てもそうである。

 とゝははやす女は声若しなつみ哥   嵐雪

[やぶちゃん注:「女」は「め」、「哥」は「うた」。]

 柳にはふかでおのれあらしの夕燕   同

  女にかはりて

 なれも恋猫に伽羅焼てうかれけり   同

[やぶちゃん注:「伽羅」は「きやら(きゃら)」、「焼て」は「たいて」であろう。]

 汐干くれて蠏が裾引なごりかな    同

[やぶちゃん注:「汐干」は「しほひ」、「蠏」は「蟹」と同字で「かに」、「裾引」は「すそひく」。]

 殿は狩ツ妾餅うる桜茶屋       同

[やぶちゃん注:「殿」は「との」。「狩ツ」は「かりつ」。「妾」は「めかけ」。]

 錦帳の鶉世を草の戸や郭公      同

[やぶちゃん注:「錦帳」は「きんちやう(きんちょう)」。「鶉」は「うづら」、「郭公」は「ほととぎす」。]

  時鳥の二声三声おとづれければ

 五月雨の端居古き平家ヲうなりけり  同

[やぶちゃん注:「時鳥」は「ほととぎす」。「五月雨」は「さみだれ」。「端居」は「はしゐ」。]

 山茱萸のかざしや重きふじ颪     同

[やぶちゃん注:「山茱萸」は「やまぐみ」。「ふじ颪」は「ふじおろし」。]

  竹婦はなれて抱よけれ共
  こと人やねたまん涼しく
  てひとりねんには

 汗に朽ば風すゝぐべし竹襦袢     同

[やぶちゃん注:「竹婦」は「ちくふ」。「抱よけれ共」は「だきよけれども」。「朽ば」は「くちば」、「竹襦袢」は「たけじゆばん(たけじゅばん)」。]

  梶の葉に小うたかくとて

 我や来ぬひと夜よし原天川      同

[やぶちゃん注:「来ぬ」は「きぬ」、「天川」は「あまのがは」。]

  定家

 舟炙るとま屋の秋の夕かな      同

[やぶちゃん注:「炙る」は「あぶる」。]

 松風の里は籾するしぐれかな     同

 はぜつるや水村山郭酒旗風      同

  十月ノ蟋

 きりぎりす鼠の巣にて鳴終リヌ    同

[やぶちゃん注:「蟋」は「きりぎりす」と読む。「鳴終リヌ」は「なきをはりぬ」。]

 軒の柊梅を探るにおぼつかなし    同

[やぶちゃん注:「柊」は「ひひらぎ(ひいらぎ)」。]

 神楽舟澪の灯の御火白くたけ     同

[やぶちゃん注:「かぐらぶね みをのあかりの ぎよか(ぎょか)しろくたけ」。]

後の句に比すればいずれも多少佶屈であり、生硬でもある。ただ『虚栗』の顕著なる特色と見るべき漢語癖はあまり甚しくない。勿論「十月ノ蟋」の『詩経』によっているが如き、「はぜつるや」の句が杜牧の「千里鶯啼緑映ㇾ紅。水村山廓酒旗風。南朝四百八十寺。多少楼台煙雨中」の一句をそのまま用いているが如き例はある。けれども杜牧の詩句は俳諧一流の転化が行われているために、他のいわゆる虚栗調の如く、漢語がさまで眼に入って来ない。同じく『虚栗』にある其角の「酒ノ瀑布(たき)冷麦の九天ヨリ落ルナラン」も、李白の「飛流直下三千丈。疑フラクハ銀河ルカト九天ヨリ」を俳諧化したものであるが、この方は『虚栗』的色彩が著しく感ぜられる。

[やぶちゃん注:「とゝははやす女は声若しなつみ哥」一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、「とゝ」は『夫。一説に父』、「女」(め)は『妻。一説に娘』とし、『夫の囃子によって妻が菜摘歌をうたう。その妻の声が思わずはっとするほど若々しく花やいで聞こえるというのである。やや年の入った妻の声も明るい春の日ざしの中で、いかにも若やいで聞こえるというところに興がある』と評しておられる。

「柳にはふかでおのれあらしの夕燕」「柳にはふかで/おのれあらしの/夕燕(ゆふつばめ)」で、燕に呼びかける中七は面白いと思うが、同前で堀切氏は『柳には全く風が吹かないで』葉も枝も、一向、動かずに『いるのに、燕よ、お前はまるで嵐のような勢いで飛んでいることよ、といった意味であろう。柳の〝静〟に燕の激しい〝動〟を対比したところに着眼があるが、『虚栗』調らしくやや理にはまってしまっている』とされる。

「なれも恋猫に伽羅焼てうかれけり」意味としては、「戀猫」であろうが、「なれも戀(こひ)/猫に伽羅(きやら)燒(たい)て/うかれけり」と切って詠んでおく。「伽羅」は香木の一種(伽羅はサンスクリット語の「黒」の漢訳。一説には香気のすぐれたものは黒色であるということからこの名がつけられたともいう)で、別に催淫効果があるともされた。「女にかはりて」とあるから、「なれ」は好いた男への誘いの呼びかけであるが、「なれ」は「馴れ」を掛けてあって、『あんたもさんざん「戀」に「馴れ」たと思うておいでだったけれど、あたいが嗅がせた色香にやられて、すっかりさかりのついた牡猫と同じで、めろめろね』といった謂いか。

「汐干くれて蠏が裾引なごりかな」潮干狩りで一日遊び通して、もう、日が暮れた。さても帰ろう、と、あたかも蟹が「あら! もうお帰り?」と私の衣の裾を鋏で挟む、かのような、そんな名残を惜しみつつ帰るのであった――という意であろう。

「殿は狩ツ妾餅うる桜茶屋」堀切氏は前掲書で、『大名などの庭遊びのさまであろう。殿様は桜狩の方に熱中し、妾の方は』この桜の遊園のために特に呼び迎えて、しつらえさせた『茶店で餅を売っているのである。「殿」「桜」といった〝雅〟なるものに、「妾」「餅」といった〝俗〟なるものを対比したところにおかしみがある。一説には、「殿」は女の方からその関係ある男』(=殿方)『を呼ぶ称』で、『「妾」は卑下した女の自称であり、「山村の民の分れ分れ業[やぶちゃん注:「なりはひ(なりわい)」と訓じておく。]を営んで居るさまを、女の口から云ふ風に擬したものか」(寒川鼠骨『芭蕉十哲俳句評釈』に付記されや内藤鳴雪の解)とする』とある。しかし鳴雪のそれなら「メカケ」(「虚栗」のはかくルビがある)ではなく、「わらは」でないとおかしい気がするし、嵐雪なら前の句のように前書に「女にかはりて」と附すであろうとも思う。

「錦帳の鶉世を草の戸や郭公」堀切氏は前掲書で、「郭公」が季題で夏、「錦帳」は『ここ』で『は錦帳』(錦 (にしき) で織った垂れ布)『を用いた美しい』鳥『籠のこと』とされる。則ち、鶉(キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica)を飼っている籠なのである。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見て戴きたいが、そこでもウィキの「ウズラ」から引用したように、日本では古くから鳴き声を楽しむペットとして飼育されてきた。室町時代には既に籠を用いて本種を飼育されていたとされ、「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)に記載があり、『江戸時代には武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長』(一五九六年~一六一五年)『から寛永』(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)『をピークに大正時代まで行われた』。『一方で』、『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「御吉兆」などがあり、珍重されることもあった』とある。ダウン・ロード再生方式であるが、自然にいる独特のウズラの声を採った、「サントリー世界愛鳥基金」公式サイト内のウズラをリンクさせておく。堀切氏も『グワックルルル』と高くひびくその鳴き声がよろこばれ』、『江戸時代には各藩の「鳴き鶉」が競われ、金銀をちりばめた豪華な籠に入れて飼うことが流行した』。但し、『「鶉」そのものは秋の季語』であると語注されておられ、『きらびやかな鳥籠の中に飼われる鶉には所詮』、『自由がない。それにひきかえ、わびしい住処(すみか)に生息する郭公』(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)『は思うままにふるまって、好きなときに鳴くというのである。郭公の境涯には嵐雪自身の投影があろう。なお、「錦帳――、草の戸――」は白楽天の「蘭省の花の時の錦帳の下(もと)、廬山の雨の夜の草庵の中(うち)」(「廬山草堂雨独宿牛二李七庾三十二員外」)(『白氏文集』巻十七・『和漢朗詠集』巻下)をふまえたものである』とある。白居易の七律は以下。

 廬山草堂夜雨獨宿寄牛二李七庾三十二員外

丹霄攜手三君子

白髮垂頭一病翁

蘭省花時錦帳下

廬山雨夜草庵中

終身膠漆心應在

半路雲泥迹不同

唯有無生三昧觀

榮枯一照兩成空

  廬山草堂に、夜雨、獨り宿し、牛二(ぎうじ)・
  李七・庾(ゆ)三十二員外(いんがい)に寄す

 丹霄(たんせう)に手を攜(たづさ)ふ 三君子

 白髪 頭(かうべ)に垂る 一病翁

 蘭省(らんしやう)の花の時 錦帳の下(もと)

 廬山の雨の夜(よ) 草庵の中(うち)

 終身 膠漆(かうしつ) 心 應(まさ)に在るべし

 半路 雲泥 迹(あと) 同じからず

 唯(ただ) 無生三昧(むしやうざんまい)の觀 有り

 榮枯 一照(いつせう)にして 兩(ふた)つながら 空(くう)と成る 

江州司馬に左遷させられていた八一七年から翌年にかけて、作者四十六、七歳頃の作で、かの知られた七律「香爐峯下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」(香爐峰下、新たに山居を卜し、草堂初めて成り、偶(たまたま)東壁に題す」と同時期の作。廬山の草堂に雨の一夜の感懐を長安の旧友に寄せたもの。「員外」は「員外郎」の略で役職の一つ。「蘭省」は尚書省のこと。少府(皇帝の私的財産を扱う部署)に属し、上奏を取り扱った。本邦の太政官相当。「膠漆」膠(にかわ)と漆(うるし)。両者を混ぜると強靭な接着力を示す。そこから転じて変らぬ友情の喩えに用いる。水垣久氏のブログ「雁の玉梓―やまとうたblog―」の「白氏文集卷十七 廬山草堂、夜雨獨宿、寄牛二・李七・庾三十二員外」で語釈や現代語訳が読める。「和漢朗詠集」では。下巻の「山家(さんか)」の二条目にあり(古活字本で五五五番、通行本で五四五番。それぞれの末尾にある白居易を意味する「白」の前に「同」じの「同」は除去した)、

   *

蘭省(らんせい)の花の時の錦帳の下(もと) 廬山の雨の夜(よ)の草庵の中(うち) 白

 蘭省花時錦帳下 廬山雨夜草庵中

   *

「五月雨の端居」(はしゐ)「古き平家ヲうなりけり」無論、ホトトギスの声に興じて平曲を口ずさんだのは嵐雪自身である。堀切氏は前掲書で、『「時鳥」は黄泉の国からくる鳥ともいわれるので、そこから生者必滅の平家哀史を想ひ起したものか』とされる。「八洲学園大学」公式ブログの中田雅敏氏の「研究室便り」の「ホトトギスと郭公」によれば、

   《引用開始》

 このように明るい夏の鳥として好まれるホトトギスであるが、一方では「冥途の鳥」「魂迎えの鳥」などとも呼ばれ、あの世とこの世を行き来する鳥、死者の便りをもたらす鳥ともみなされている。江戸時代に日本各地を遊歴した菅江真澄は「はかない子供の物語」が多いとして、話を書き残している。

 ある日五、六歳の子供がホトトギスの鳴き声を聞いて「父へ母へ」と鳴いていると言ったので皆で笑ったが、間もなくその子は麻疹を患って亡くなった。その子はホトトギスの声であの世から「早く来い、早く来い」と父母を呼ぶ、ホトトギスは口から血の涙を流して呼ぶので、その子の父母は悲しみに耳をふさいだということがある。

 こうした民話からホトトギスは死者の魂、あの世からの死者の声を伝える鳥とされてきた。ホトトギスを便所で聞くと不吉で便座からあの世に呼び込まれるという言い伝えもある。

 弟が自分は芋の蔓ばかり食べながら、盲目の兄に芋のうまいところを食べされるのだが兄は弟が自分の盲目をよいことに、いいものうまいものばかり食べているのではないかと疑う。兄の疑いを知った弟が自分の腹を裂いて見せ、兄がその腹を調べると芋の蔓ばかり出てくる。兄は弟を死なせたことを後悔するうちにホトトギスの姿になり「弟恋し」「おとうと来たか」と鳴き続けているのだそうだ。

 この民話は青森から鹿児島まで広く伝承されている。「時鳥の兄弟」という小鳥前生譚である。

   《引用終了》

とある。私はホトトギスと冥界は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で引用で示した、中国古代の伝承である古蜀の王望帝杜宇が死んで霊魂となった話や(「杜宇」はホトトギスの別称でもある)、その霊が化身となったホトトギスは、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知って嘆き悲しみ、「不如歸去」(歸り去(ゆ)くにしかず:何よりも帰るのが一番いい)と鳴きながら、血を吐くまで鳴いた、だからホトトギスの口の中は赤いという伝承辺りが根っこにあるように思っている。

[やぶちゃん注:「時鳥」は「ほととぎす」。「五月雨」は「さみだれ」。「端居」は「はしゐ」。]

「山茱萸のかざしや重きふじ颪」「山茱萸」(やまぐみ)はミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis。「かざし」は「挿頭(かざし)」で上古の日本人が神事に際し、髪や冠に挿した草花のことで、「ふじ颪」は冬晴れの日に富士山から吹き下ろす寒く乾いた北寄りの空っ風のことととれるが、巷間の可憐な娘が山茱萸の赤い実(これ自体は秋の季題)の生った枝を折り取って、慰みに髪に挿しているところを嘱目した一句か。

「竹婦」竹夫人(ちくふじん)。籐(とう)や竹製の筒状の「抱き枕」の称。夏の暑い夜にこれを抱いたり、或いは腕や足をこれに乗せて寝ることで涼をとるもので、アジアに広く見られ、嘗ては本邦でも広く使われていた。夏の季題。

「竹婦はなれて」「竹婦は馴れて」。すっかりお気入りとなって。

「こと人」「異人」。別なある人。妻のこと。

「涼しくてひとりねんには」前の「ねたまん」で一回、切れている。妻が妬むと諧謔した上で、「涼しくてひとりねんには」「汗に朽(くち)ば風すゝぐべし竹襦袢(たけじゆばん)」と句に直接に続くのである。「竹襦袢」(「じゅばん」はポルトガル語の「肌着・シャツ」を意味する「gibão」(ジバゥン)に漢字を当てたもの) は汗が衣服にしみるのを防ぐために、シノダケやアシの類を薄く短く切って中に糸を通し、菱形などに編んで作った通気性がよく速乾性の肌ジュバンのこと。堀切氏は前掲書の本句の語注で『ひとりねんには』涼しくて『竹襦袢にしかじ、の意』とされ、句の通釈では、『汗にぐっしょり濡れたなら、水で洗う、までもなく、風に吹かせて乾かしておけば済(す)む竹襦袢(たけじゅばん)はなんとも気楽でいいものだ、という意である。「汗に朽ば」とか「風すゝぐべし」といった誇張したり、やや奇を衒』(てら)『ったような表現に特色がある』とされる。

「梶の葉に小うたかくとて」「梶」はバラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera。七夕にこの梶の葉に和歌を書いて手向けると願いが叶うとする風習が嘗てはあった。例えば、「後拾遺和歌集」(応徳三(一〇八六)年)のは上総乳母の一首(二四二番歌)、

  七月七日、梶の葉に書き付け侍りける

 天の川とわたる舟のかぢの葉に思ふ事ことをも書き付くるかな

がそれで、「梶」(かぢ)の音が舟の「楫」(かぢ)に音通することから、天の川に届くと信じられたようである。

「我や来ぬひと夜よし原天川」堀切氏は前掲書で、『天の川の冴えわたる七夕の夜、天上の二星と同じように、私も紋日』(もんび:花柳界用語で「物日(ものび)」の転。官許の遊郭で五節句などの特に定めた日を指す。この日遊女は客をとらねばならず、客も揚げ代を割増してはずむ習慣であった。普通は正月三ヶ日及び各種の一般祭日、月の朔日(ついたち)や十五日・晦日(つごもり)等が紋日に当てられたが、但しそれらの紋日には大・中・小の別があつて、花代の割増にも差などがあった)『で賑わう吉原にやって来て、一夜の逢う瀬を楽しむことになった、まことに結構な晩である、といったところであろう。若き日の嵐雪の放縦な享楽生活の一端を示しているが、名高い古歌二首の句調を巧みにふまえた洒落風の句でもある。『虚栗』所収歌仙の発句として詠まれたものであり、脇は其角の「名とりの衣のおもて見よ葛」であった』と通釈されている(ただ、この其角の脇の意味がよく判らない。まず、浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の「葛の葉子別れ」の段の和歌「戀しくば尋ね來て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」を裁ち入れたものではあろう。だから「うらみ」をひっくり返して「おもて見よ」となったのだ。さらに「葛」と「おもて見よ」とあるからには、襲(かさね)の色目と関係があるとするなら、「葛」は通年の襲の名でもあり、それは表が「青」(本邦のそれは濃い紺)で裏は「淡青」(同前で薄緑)を指すが、夏の襲で表が「青」いのは虫襖(むしあお)で表が青、裏が二藍である。何に転じて芸事の「名取」と出したかが判然とせぬのでそこから先が私の中では進まない)。堀切氏は『其角は青楼の遊女にでも墨をすらせて書いたのであろう』とされる。なお、ここで堀切氏が言っている『名高い古歌二首』というのは語注に従うと、上五「我や來ぬ」が、「伊勢物語」の六十九段及び「古今和歌集」の「巻第十三 恋」の「読み人知らず」で出る(六四五番歌。そちらのみ示す)、

  業平朝臣の伊勢國にまかりたりけるとき、
  齋宮なりける人にいとみそかに逢ひて、
  又の朝(あした)に、人やるすべなくて
  思ひ居りける間(あひだ)に、女のもと
  より遣(お)こせたりける

 君や來し我やゆきけん思ほえず夢か現(うつつ)か寢てかさめてか

に拠るもので(但し、「伊勢物語」では逢ったものの、何も語り合わぬうちに女は帰ってしまってこの歌を贈ってくるのだが、こちらの前書は斎宮に密かに逢った女に後朝(きぬぎぬ)の文を渡すすべがなく悩んでいる所に、その女がよこした歌という流れでシチュエーションに微妙な異同がある)、今一つは、中七の頭の「ひと夜よし原」のところで、「夜よし」と「吉原」が掛詞になっているが、ここは同じく「古今和歌集」の「巻十四 恋」の「読み人知らず」の一首(六九二番歌)、

 月夜よし夜(よ)よしと人に告げやらばこてふに似たり待たずしもあらず

を踏まえるとする。「こてふに」はこの「來(こ)」は「來(こ)よ」の意であって、「てふ」は「といふ」の略であるから「來(こ)といふに」(「いらして下さい」と言いかけるのに)の意である。また、堀切氏は「天川」に語注され、これも「伊勢物語」の第八十二段の所謂、惟喬親王の水無瀬の〈渚の院〉訪問の際の、

 狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の川原に我は來にけり

を踏まえたものかとされる。「たなばたつめ」は織女星。「天の川」には地名の水無瀬と御殿の呼び名「渚の院」が掛けてある。]

 「舟灸る」の句はいわゆる三夕の歌の一、「見わたせば花も紅葉も無かりけり浦のとまやの秋の夕暮」の俳諧化である。宗因の「秋はこの法師すがたの夕かな」(西行)、其角の「和歌の骨(こつ)槙(まき)たつ山の夕かな」(寂蓮)と併せて三夕を成すのであるが、宗因は西行その人に即(つ)き過ぎて、鴫立沢(しぎたつさわ)の歌とは殆ど相関するところがない。其角は「和歌の骨(こつ)」という妙なところに力を入れたため、肝腎の「槙立つ山の秋の夕暮」は一向眼に浮んで来ない。ひとり嵐雪は不即不離の間に立って、定家の歌以外の景致を展開している。「舟灸る」の五字は、それによって浦の景色たることを現すと同時に、蕭条たる秋暮の浜辺に火を焚いて舟を灸る様がよく現れている。この句は固より三夕の歌を背景として存在すべきものであるが、強いて奇を弄せず、一幅の画景雲を点出している点においては、この場合嵐雪を推さなければならぬ。

[やぶちゃん注:「三夕の歌」知られた「新古今和歌集」に載る以下(三六一~三六三番歌)。

  第知らず

 さびしさはその色としもなかりけり

    槇立つ山の秋の夕暮   寂蓮法師

 こゝろなき身にも哀(あはれ)は知られけり

    鴫立つ澤の秋の夕暮   西行法師

  西行法師すゝめて百首歌よませ侍りけるに

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

    浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家

定家の浦辺の苫葺(とまぶき:菅(すげ)・茅(ちがや)などの草を編んで薦(こも)のように造ったもので雨露を防ぐために小屋の屋根を葺いたり、船の上部を覆ったりするのに用いた)の小屋の荒涼たる「静」の水墨画のような点景に、「舟灸る」(富士壺(甲殻亜門六幼生綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚下(フジツボ)綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha)・舟喰虫(斧足(二枚貝)綱異歯亜綱ニオガイ上科フナクイムシ科 Teredinidae。多く見られるのはテレド属 Teredo)・牡蠣類(斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目 Pectinina・イタボガキ亜目 Ostreina)及び海藻類などが船底に付着すると、船足が鈍るだけでなく、底材が腐蝕するため、それらを焼いてこそぎ落すのである。底材は水分を含んでいるため焼けない)という火炎の一色に、煙を加え、「動」の〈俗〉のリアリズムを添え、申し分なく見事である。]

 「松風の」の句はここに挙げた嵐雪の句のみならず、『虚栗』集中にあっても自然の趣を得たものの一であろう。その表現には多少この時代らしいところがあり、後のものほど敢然としてはおらぬが、この材料なり心持なりは元禄度の句とさして異っていない。『虚栗』における其角の句は、力量からいっても、才気からいっても、実にめざましいものがあるが、自然の一点にかけると、かえってこの句に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)せねばならぬかと思う。それは才気の崇(たたり)だといってもいいかも知れない。けれども『虚栗』は未だ元禄俳諧の萌芽に属するので、芭蕉をはじめ真の自然に対する眼は開けていないのである。『虚栗』の色彩が顕著であればあるだけ、自然の趣に遠ざかるのは当然の結果といわなければならぬ。『虚栗』の中心人物であり、この時代の代表作家たる其角よりも、嵐雪の方に自然の趣を得たものがあるということは、この意味において怪しむに足らぬ事実であろう。但これを以て嵐雪の方が一歩早く自然に近づいたものと解するのは早計である。嵐雪の句が必ずしも自然の趣を得たものでないことは、前に列記した句が明(あきらか)に証している。たまたま『虚栗』的色彩の稀薄な方角において、「松風」の句の如きものを得たに過ぎぬ。この種の句が後の雅馴な句風に繫(つなが)るのは事実であるが、それだからといって妄(みだり)に嵐雪の先著の功を称すべきではない。

[やぶちゃん注:「松風の里は籾するしぐれかな」「籾する」は「籾擂る」で、籾殻と玄米を分けるために臼で擂ることを指す。これは秋の季題であるから、「しぐれ」(時雨)は秋の末のそれである。

「はぜつるや水村山郭酒旗の風」鯊釣りは江戸の秋の彼岸(旧暦では八月一日~八月三十日。新暦は九月二十三日頃)の風物詩であった。「鯊」は条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei に属する多様な種及び、それに体形や生態の似た魚を含み、海産・淡水産孰れもいる。東京湾で盛んに釣られたのは、内湾や汽水域に広く棲息するハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae マハゼ属マハゼ Acanthogobius flavimanus である。より詳しくは私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「彈塗魚 はぜ」の項の私の注を参照されたい。「水村山郭酒旗の風」は大胆に晩唐の杜牧の名詩「江南春」(表題は正確には「江南春絕句」であるが、この詩は平仄上では絶句としては転句に問題がある。しばしばお世話になるサイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の本詩の解説を読まれたい。「碇豊長」は「いかり とよなが」と読む)の承句をそのまま裁ち入れてあるのは凄く、その大胆さ故に少しも違和感を私は感じない。

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  江南春

 千里鶯啼綠映紅

 水村山郭酒旗風

 南朝四百八十寺

 多少樓臺煙雨中

  千里 鶯啼いて 綠 紅(くれなゐ)に映ず

  水村山郭 酒旗の風

  南朝四百八十寺(しひやくはつしんじ)

  多少の樓臺(ろうだい) 煙雨の中(うち)

   *

碇氏の語注を引く。「水村」は『水辺の村。水郷』、「山郭」は『山沿いの聚落の外周の建物。山沿いの村。山に囲まれた村』、「酒旗風」は『酒屋の看板になっている旗』『に吹く風』の意。……懐かしい詩だ。高校一年の時、授業中に蟹谷徹先生から訓読を指示されて、ひどく得意になって「水村山郭 酒旗の風」に力(りき)を入れて特に詠じたのを覚えている……

「十月ノ蟋」とあるから初冬の季題。この一句は「詩経」の「国風」(巻十五)の最後にある「豳風」(ひんぷう:「豳」は伝説上の周の姫姓の祖先で農業の神として信仰されている后稷(こうしょく)の曾孫の公劉のことを指す)の中の、農業を知らぬ若き成王のために一年の農事を周公旦が教えたとされる「七月」の第五パートの、

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五月斯螽動股 六月莎雞振羽

七月在野 八月在宇 九月在戶

十月蟋蟀 入我牀下

穹窒熏鼠 塞向墐戶

嗟我婦子 曰爲改歲 入此室處

 五月には斯螽(ししう)

 股(こ)を動かし

 六月には莎雞(さけい)

 羽を振るふ

 七月には野に在り

 八月には宇に在り

 九月には戶に在り

 十月には蟋蟀(しつしゆ)

 我が牀下(しやうか)に入る

 穹窒(きゆうちつ)して鼠を熏(いぶ)し

 向(まど)を塞ぎ戶を墐(ぬ)る

 嗟(ああ)我が婦子よ

 曰(ここ)に改歲を爲さんとす

 此の室に入りて處(を)れ

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をインスパイアしたことを示す。以下、乾一夫氏(私は先生の「詩経」の講義を受けた)の「中国の名詩鑑賞 1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年明治書院刊)を参考に注する。「斯螽」と「莎雞」は別種として出すが、ともに現在のキリギリス。「股(こ)を動かし」とあるのは古くはキリギリスの一種は両の股を擦り合わせて鳴くと考えられた。実際には鳴くキリギリス♂は「羽を振るふ」が正しく、前翅の部分に発音器を持っている。「宇」は軒(のき)。「蟋蟀」(しつしゅ)がコオロギで、これは前後の「七月在野 八月在宇 九月在戶」と「入我牀下」(私の寝台の下に入って来る)の主語となっており、これはコオロギが次第に野原から家屋内へと移って来て鳴くさまを描出しているのである。「穹窒して」(きゅうちつ)は穴を塞いで、の意。「向(まど)」家の北側の高い所にある窓。夏の通気をするためにものだから、冬に備えて寒気を防ぐために「塞」ぐのである。「戶を墐(ぬ)る」乾氏によれば、『庶民は柴竹を』編んで『戸(門戸)を作ったから、冬場は』これに『泥を無って風を通さないようにした』とある。最後の三句は家族に、もう直に新年となるから、この奥の部屋に入っていなさい、と言うのである。

「柊」シソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus。我々は垣根として比較的低いものを見慣れているが、樹高は四~八メートルにも達する。和名は、葉の縁(ふち)の棘に触ると「ヒリヒリと痛む」ことから、それを表わす動詞「疼(ひひら)く」「疼(ひいら)ぐ」の連用形「疼き・疼ぎ」を名詞化ものである。それが軒端を邪魔し、しかも棘で手が出せぬので、探梅が「おぼつかなし」(うまくゆかぬ)というのである。

「神楽舟澪の灯の御火白くたけ」詠対象の具体的情報が判らないので、謂く言い難いが、「神楽舟」は提灯舟・精霊舟のことではなかろうか。その精霊流しの遠ざかって行くその舟の火が、末期に高く「長(た)け」て、「澪」、航路の後の水の筋を照らし出した瞬間を捉えたものであろうか。]

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