三州奇談卷之四 吉田射術 / 三州奇談卷之四~了
吉田射術
寶曆のはじめつかた、彥三(ひこそ)五番丁(ちやう)・六番丁の間に古き狸有て、夜な夜な人の門戶をたゝき、
「物申(ものまうす)物申」
と人を起し、忽ち逃失せる事ありしを、家ごとに奴僕ども腹を立て、わなをかけ、犬を伏せ、樣々にせしかども、終に捕ふること能はず。
或時、吉田久兵衞是を聞きて、戯れに傍らなる的矢を取出し、弓おつ取、茶の間より遙の庭のかべを隔てゝ、彼(かの)聲を知るべに射付られしに、手ごたへして跡なくなりにけり。其後より絕えて來(きた)らざりけり。
夫より凡二十日斗過て、野田村の百姓、矢を持來りて、
「野田山の後ろに古狸の一疋此矢をかづき死し居たる間、取揚げて見るに、矢の根に御名あり。故に持參せり」
と云ひ置き歸るとなり。
「壁を隔てながら速迅の功、神變なる業(わざ)哉(かな)」
と、近所の人、此事を吉田氏に尋ぬれば、
「曾て左樣の事なし」
と答へられけるとぞ。是又奧ゆかし。
[やぶちゃん注:「寶曆のはじめつかた」宝暦は十四年までで、一七五一年から一七六四年まで。但し、元年は寛延四年十月二十七日(グレゴリオ暦一七五一年十二月十四日)改元。
「彥三五番丁・六番丁」旧「彥三町」は金沢市彦三町(ひこそまち)(グーグル・マップ・データ)と、その周辺の東(浅野川)を除く三方の瓢箪町・尾張町二丁目・安江町も含んだ。
「吉田久兵衞」吉田茂行(宝永五(一七〇八)年~安永五(一七七六)年)。「加能郷土辞彙」に『通稱久兵衞。平兵衞茂存』(しげのり)『の養嗣子として祿五百石を受けた。實は同姓茂陸』(しげみち)『の二子。御先弓頭・御持弓頭に歷任』した。『茂行最も家藝の射技に精しく、當時獨』(ひとり)『榮名を擅』(ほしいまま)『にした』とある。
「的矢」稽古用の矢。
「野田村」「野田山」南に四・五キロほど離れるが、前田利家の墓のある金沢市野田町(のだまち)であろう。拡大すると「野田山」という呼称も見える(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「曾て左樣の事なし」後日譚のそれは勿論、壁を隔てて妖狸を射たという事実をも否認したのであろう。そうあってこそ「是又奧ゆかし」の賞賛が冴える。しかし、末尾を参照されたい。そこにある言明も、また、然りである。]
抑(そもそも)此吉田氏は、昔關白秀次公に仕へ、吉田木及(もくきふ)の三子ありて左近・平兵衞・大藏と云ふ。加陽の利常公に仕へ、射藝の妙手を極め、普通に越えたる名人なり。今に吉田の三家とて、弓の足輕を預りて榮名隱れなし。
[やぶちゃん注:「吉田木及」吉田章一氏のサイトの真田増譽著「明良洪範」(第二十三巻より)とする文章は、『弓道の中興吉田家系を尋ぬるに』と始まるが、関白秀次に仕えた弓の名人としては吉田六左衛門、彼が婿養子として吉田姓を与えた葛巻源八郎がいるが、木及という名は見出せなかった。『吉田の傳を継』い『で名人なり』とする人物に中に、『淀の糟谷左近』と『加賀の吉田大蔵』の名を見出せるが、この左近と大蔵が兄弟とは述べられていない。そこで「加能郷土辞彙」でこの久兵衛を遡ってみると、彼の養父(但し、彼も同族である)吉田茂存の父は重張で、祖父は元茂、曽祖父は方本で彼は山城山科に住んだが、慶長一七(一六一二)年に前田利長に仕え三百石を賜り、「大坂夏の陣」では首級一つを獲ている。兄茂武、弟茂氏とともに射芸を究めたとある。ここでやっと加賀藩第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年)にこの三人の兄弟が仕えたことを確認出来、その父が吉田茂方で、彼が入道した後に木及を名乗ったことが判明した。「加能郷土辞彙」のこちらの「ヨシダシゲタケ 吉田茂武」(左ページ最下段冒頭)を読まれたい。]
一年(ひととせ)松雲相公東武より御歸城の折から、旅館の脊戶の竹藪に怪しき物の鳴聲しけるにぞ、吉田忠左衞門を召して、闇夜に其聲をしるべに射させられしかば、左右(さう)なく射とめて鳴聲止みぬ。
夜明けて見れば、竹と竹のすれ合ひてきしる音にて、其竹の間へ矢を射付てありける。
[やぶちゃん注:「松雲相公」加賀藩第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。法名は松雲院殿徳翁一斎大居士であり、彼は参議であったが、「相公」(しょうこう)は参議の唐名である。なお、これは吉田茂行の生年と綱紀の没年から、茂行十代前半か、半ばの出来事であることになる。]
又同じ家中岡田喜六郞とて新參の侍ありて、武具を製せられし。其頃吉田左太夫へ賴み、鎧のさねをためし度き望を云へば、
「安きこと」
とて、吉田左太夫立越え、鎧を緣に釣置き射られしかば、能くかゝへて通らざりしに、左太夫鎧を譽めて歸りける。
岡田は我(わが)具足の全製(ぜんせい)を自贊し普(あまね)く吹聽して、
「吉田家の射術といへども、鎧によりて通らざりし」
と其事を人々に語りあへり。
其後吉田左太夫、岡田氏に逢ひて、
「以前試せし鎧は少々心懸かりのあれば、今一度試みたし」
とて、又緣に釣置かせて、今度は角根(かくね)矢を以て胴中を
「ずん」
と射通しける。
岡田氏興を醒まし、
「以前は能くかゝへたるに、此角根矢にて又能く通りしこといかなる故にや」
といへば、
「されば已前の一矢(いつし)にて、家名射藝の名折にも成べき程に評判ありしに、據(よんどこ)ろなく此事に及ぶなり」
と語られしかば、岡田氏深慮を感じ謝して、後其矢の跡を其儘置きて、
「何年何月吉田左太夫角根を以て射通すものなり」
と蒔繪して、銘を金粉を以て書き記し、我家の重寶とぞせられける。
是又一器量の見識にこそ。
されば是は金城の古き風說なり。此段を吉田の門人何某評して云(いは)く、
「岡田氏の鎧の事は實(まこと)なり。前條は虛なり。物を見ずして矢を放つこと吉田家には決してなし」
と云々。
其說色々ありといへども、言葉長きを以て、別本に留めて、爰には略す。
[やぶちゃん注:「岡田喜六郞」吉田久兵衛誕生以前の記録(天和二(一六八二)年)の藩士の中に同姓同名の人物がいるので、その子孫であろう。
「さね」「札(さね)」。甲冑の材料となる鉄・革の小板のこと。鱗のように数多く並べ重ねて糸や革で綴る。小札(こざね)。ここは完成品の鎧の強度のことに読み換えてよい。
「吉田左太夫」久兵衛の兄吉田茂実(元禄一四(一七〇一)年~暦一〇(一七六〇)年)は通称を左太夫と言った。やはり御先弓頭となっている。
「立越え」左太夫が岡田の屋敷へ出かけて行って。
「全製」完全なる出来具合い。鉄壁の鎧の強度。
「角根」とは矢柄に鏃を嵌め止める部分が四角くなっているものを指す。
「別本に留めて」筆者堀麦水には本書や俳諧書以外にも実録物の「慶長中外伝」・「慶安太平記」・「寛永南島変」等の著作があるが、他にこの話が別に載っているかどうかは知らない。
なお、本篇を以って「三州奇談卷之四」は終わっている。]