三州奇談卷之四 陰陽幻術
陰陽幻術
寶曆の初め、淺野川博勞町に高田大林坊と云ふ幻術者あり。素性(すじやう)は越中關野の百姓の子なり。十一歲の時、「ぬけ參り」して、江州愛知川より異僧に同道し、幻術を覺えて、此頃は帶刀にて金澤へ來り、陰陽師となりて徘徊す。奧村家の家司武田兄弟など、同鄕の好(よし)みにて、渠(かれ)が近隣に居を占め、邊りの若き人々に妙術を見するに、何れも左慈管輅が思ひをなす。或は池に望みて鯉(こひ)鱸(すずき)を得、水を汲みて酒となす。草花時ならぬに開き、異鳥忽然として來(きた)る。或は馬を飮み、魚の荷を鼻へ入るゝなど、人の頤(おとがい)を解く。其外、失せ物・走り者を云ひあて、顏のいぼ・ほくろを拔くに、其人を隔つる事、三、四尺にて、必ず、手拍子に隨ひて脫す。
其頃、主計町(かずへまち)二俣屋喜兵衞が僕三助と云ふ者、銀五百目を取りて逃亡せしに、一術をなしぬれば、忽ち、三助、銀を携へて本家に歸る。人々鬼神の思ひをなす。然れども、貧窮なり。其中、公法に背く事ありて、越後へ追ひ放(はな)たる。
[やぶちゃん注:「寶曆」は十四年まで。一七五一年から一七六四年。
「淺野川博勞町」現在の金沢市博労町附近。近くを浅野川が流れる。
「高田大林坊」「加能郷土辞彙」の彼の項を見たが、ここに書かれている以外は不詳である。
「越中關野」旧射水郡関野郷であろう。現在の高岡市のこの付近か。高岡市末広町に高岡關野神社がある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「ぬけ參り」「拔け參り」。江戸初期に村役人の許可を得ずに伊勢参宮をすることを言ったが、後に主人や親の許しを得ないで奉公人や子がする伊勢参宮をいった。帰ってから罰せられない習わしであった。
「江州愛知川」地名。滋賀県愛知(えち)郡愛荘町(あいしょうちょう)愛知川(えちがわ)。
「奧村家」人持組頭の加賀八家に奥村河内守家(奥村宗家)とその分家の奥村内膳家がある。前者か。
「武田兄弟」不詳。
「魚の荷を鼻へ入るゝ」鼻の穴から手土産の大きな魚の荷を引き出すことをかく言ったものであろう。
「人の頤(おとがい)を解く」頤(あご)を外すほど大きな口を開けて笑う。大笑いをする。「漢書」の「匡衡伝」に拠る。
「走り者」出奔人・家出人・逃亡者。江戸時代は特に駆け落ちした男女を指すことが多かった。
「主計町」金沢市主計町(かずえまち)。江戸時代の茶屋街として知られた浅野川左岸の町。]
また貞享・元祿の頃[やぶちゃん注:一六八四年~一七〇四年。]、高岡瑞龍寺塔司(たつす)の内に天說と云ふ異僧あり。其素性を知らず。折々金澤へ來る。京・大坂の人氣を知る。相場の高下(かうげ)等、諸國の熟不熟を案ずる事、掌を指すが如し。故に道願屋木端(だうぐわんやもくたん)と云ふ人、此者を請じて幸(さいはひ)を得、多く金銀を儲けたり。
天說、或日、島屋久兵衞と云ふ家に遊ぶ。其席に富田氏・堀氏の人々一座せり。屛風の繪に「八島の戰(たたかひ)」の圖ありしに、何れも
、
「何と汝が妖術にて、此屛風の侍を生身(いきみ)にて見する事は、なるまじきや。」
と云ふ。
天說、
「甚だ心安し。」
と請合ひ、廿九日の月なき夜、泉野の六道林(ろくだうりん)と云ふ所へ同道して、夜半迄待たせ置きしに、丑の刻頃より泉野作食藏(さくしよくぐら)の森の上より、光、さして、東西、輝き、兵船數百艘出で、一尺計の人數百人甲冑を帶して東西に走り違ひ、只、八島の事跡を、悉く人形のごとく顯はせり。
七つ半頃[やぶちゃん注:午前五時頃。]に及びしかば、消(きえ)て、本の闇夜になりしと云ふ。
天說は、終(をは)る所を知らず。
[やぶちゃん注:「瑞龍寺」高岡市関本にある曹洞宗高岡山(たかおかさん)瑞龍寺。開基は加賀藩第二代藩主にして前田家第三代当主前田利常で、開山は広山恕陽。高岡城を築城して、この地で亡くなった初代藩主で前田家二代当主前田利長を弔うために建立された。私の好きな寺である。
「塔司」(たっす:現代仮名遣)塔頭の主管者である僧を指す。
「道願屋木端」「加能郷土辞彙」の彼の項によれば、『金澤河南町道願屋主人で、後に河原町に隱居した。奇行があり、又蓄財に長じたが、中買鹽屋淸衞門の富貴となる法を尋ねた時。木端はそれに答へて、先づ一門一家或は懇意なる者の衰微したるを助けて後にこそ富貴となり得るというた。その他多く咄隨筆に載せられる。享保十一年』(一七二六年)『十一月歿』とあり、さらに「金沢市図書館」公式サイト内の「金沢古蹟志」のこことここに「道願屋木端伝話」が載るので是非、読まれたい(加賀藩士御馬廻組の中川長吉(重直)に仕えた森田盛昌が、親族や知人から聴いた、元禄から享保年間(一六八八年~一七三六年)頃までの話九十二話を記した「咄随筆(はなしずいひつ)」からの引用である)。非常に面白い。商人金貸として才覚もありながら、しかも鷹揚な性格であったことが窺われ、彼の持っていた富貴についての考え方の根底は仁に基づいた優れたものであることが判る。
「島屋久兵衞」不詳。同時代の酷似した名の文人商人に河島正卿(まさのり)、通称を「島屋與三兵衞(しまやよそべゑ)」と称した人物はいる。「加能郷土辞彙」のここを見られたい。この人物っぽい気はする。或いはその縁者か。
「富田氏」加賀藩人持組に富田治部左衛門家と富田織人家がある。
「堀氏」不詳。加賀藩藩士に堀姓は多い。
「泉野」金沢市泉野町(いずみのまち)周辺のこの広域と推定される。
「六道林」金沢市弥生公民館刊の弥生公民館新館十周年記念の文集「弥生の明日のために」(平成七(一九九五)年刊・PDF)の記載によれば、現在の金沢市弥生一丁目及びその北の野町三町目附近の旧呼称であることが判る。それによれば、約八百年前の平安末期に六動太郎光景という武士が住み、その付近に樹木が生い繁っていたので「六動林」と称され、それが、約四百年前の戦国時代に佐久間盛政が一向一揆を壊滅させた(天正九(一五八一)年)記録の中の「六道林」と出、元禄時代以降の公文書では「六斗林」となったとある(但し、江戸期の絵図にも「六道林」と記したものも残るとある)。
「作食藏」承応元(一六五二)年に加賀藩が各地に設置した米の貸出蔵。食米の不足する農民に米を貸し、秋の収穫後に返納させるもの。但し、参照した前掲の文集「弥生の明日のために」の記載によれば、『返納米に糠を混ぜたり、不作で蔵米が不足したりして運営に』は『困った』らしいとある。
「天說は終る所を知らず」天説が示寂したのは何処で何時であったか知られていない、の意。]
其外、金澤にも多く、如ㇾ此(かくのごとき)の人ありし。
若林信子(しんし)といふ醫者は、僕(しもべ)を仕(つか)はずと云へども、朝夕の戶の明(あけ)たて・門の掃除・勝手の賄ひ迄、皆、出來たり。
如ㇾ此(かくのごとき)人、猶、多し。
近頃、京都に「金聖散」と云ふ藥を賣る、兵部と云ふ人あり。
「あらはに幻術を敎へん。」
と云ふ。其習ふ所は陰陽五行を物に配當する事なり。「六」・「甲」・「山」とて、文字、別にあり。是を習へば、人に三官あり。これを上家とす。狐に三官を與ふ。「キヨセツロククハン」と云ふ。今人の招きに依りて、目(ま)のあたりに、氣狐(きこ)・金龍を遣ふ。一人を忽ち兩人となす。今猶、京都に在りて、ふしぎの名(な)、人口(じんこう)にあり。のちを聞きて書足(かきた)しぬべし。
[やぶちゃん注:「若林信子」不詳。
「金聖散」不詳。
「兵部」不詳。以下、呪法の「六」・「甲」・「山」(分離したが、本文は六甲山である)とか、「三官」とか、「上家」とか、「キヨセツロククハン」は総て無論、判らない。
「氣狐」あまりあてにならぬ感じだが、まあ、ちっとは、まともそうな書き方になっているのを参考にすると、上は千歲未満で下は五百歳より上で、一般に稲荷で祀られている神使で、白狐だそうな。
「一人を忽ち兩人となす」如何にもな分身術やら、言っいることの半可通で胡乱なさまや、怪しげな薬売りであることなどから、ある種の幻覚作用を持つ薬物を相手に飲ませるなどしているように私には思われるがね。]
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