譚海 卷之三 應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事
應仁亂後公家衰微 紹巴住居の事
○應仁一亂後戰國に入(いり)て、京師住居數度兵火の災にかゝり、(住居(すみゐ)成(なり)がたきにより、)諸公卿大半緣に付(つき)て諸國へ寄食せられしかば、禁中參仕の人少く、朝廷衰微極り、殘り留(とどま)る公卿朝夕の煙を立(たて)かね、色紙短册等を書寫し、ついぢの上にかけて、行路の人に賣(うり)あたへ、漸々(やうやう)衣食せられける事也。和歌の道も亂世に隨(したがひ)て衰へ、ただ連歌のみ盛(さかん)にもて興ずる事とせしは、時勢のいそがはしきにつるゝ風俗成(なる)べし。依(より)て撰集の沙汰は止(やみ)て連歌の撰起り、「新つくば集」などと云(いふ)もの出來(いでき)たり。紹巴法橋(ぜうはほつきやう)など云もの、筑紫より連歌をもて京師に來り、終に志を得て名を傳ふる事に成たり。當時の諸將武人連歌を嗜(たしな)まざる人なく、松永彈正(だんじやう)人の許(もと)にて連歌せしに、「薄(すすき)にまじる蘆(あし)の一むら」と云(いふ)句に付(つけ)わづらひて、沈思(ちんし)したる折(をり)しも、二三度宿所(しゆくしよ)より來りて密事(みつじ)にさゝやく事ありしが、猶案じ入(いり)て「古池の淺きかたより野と成(なり)て」と付(つけ)て、やがて「火急の事出來(いでき)ぬ」とて立歸るに、「何事にや」と傍(かたはら)の人尋(たづね)しかば、「以前より宿所へ野伏蜂起してよせ來るよししらせ侍り、急ぎ罷向(まかりむかひ)て追(おひ)ちらし侍らん」とて歸りけるよし。さるにてもかくはげしき中(なか)にて、かくまで連歌をすけるも、一時の風俗なりけりと人のかたりし。
○紹巴法橋一とせ松島一見に仙臺へ下りし比(ころ)、紹巴が名を傳へ聞(きき)て、こゝかしこにて招き、數會の一座ありけり。政宗卿一日(いちじつ)城中にて片倉小十郞と閑話の序(ついで)申されけるは、「此比(このごろ)京都より紹巴下りて連歌殊に盛に翫(もてあそ)ぶと聞(きけ)り、紹巴をめして我も連歌して見ん」とて呼(よば)れければ、やがて紹巴來りて謁しける。折しもほととぎす鳴(なき)ければ、政宗卿、「なけきかふ身が領分の郭公(ほとぎす)」と發句(ほつく)せられけるに、小十郞傍にありてあぐらかきて居ながら、「脇(わき)仕(つか)ふまつりたり」とて、「なかずばだまつて行けほとゝぎす」といひければ、紹巴をかしくや思ひけん第三に、「どふ成(なれ)と御意(ぎよい)にしたがへ時烏(ほととぎす)」と付(つけ)たる由、誠に三句迄「ほとゝぎす」をつゞけたる、をかしき事に覺(おぼえ)れど、「身が領分の時鳥」とある詞(ことば)、誠に一國の主(あるじ)の句成(なる)べし。「だまつてゆけ時鳥」といへるも、社稷(しやしよく)の臣の心顯れて、主人たりとも放埒ならば其まゝにをくまじと覺ゆる志(こころざし)、句の上にあらはれたり。紹巴は此二句の「時鳥」を重ねたるを弄(ろう)して、「どふ成と御意に隨へ」といへる詞を付たるなれども、さすがに連歌に身をよせて食を人に乞ふ志、下(しも)に顯(あらはれ)て哀也(あはれなり)と人のかたりし。
[やぶちゃん注:今回は直接話法が多いので、読み易さを狙って、特異的に鍵括弧を施した。
「應仁亂後」「応仁の乱」は応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年に一応の決着を見た。ここでも津村が明言しているように、「応仁の乱」が室町幕府の権力が崩壊し、戦国時代が始まったという古くからの説が一般的であるが、近年では幕府の権威は「明応の政変」(明応二(一四九三)年四月に細川政元が管領となり、将軍が足利義材(よしき・後の義稙(よしたね))から足利義遐(よしとお。後の義澄)へと代えられ、以後、将軍家が義稙流と義澄流に二分された)頃まで一応保たれていたという見解もあり、「明応の政変」以降を戦国時代の始まりとする説もある。但し、「応仁の乱」以降、身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない(以上はウィキの「応仁の乱」他に拠った)。
「紹巴」(大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)は室町末期の連歌師。奈良生まれ。父は松井姓で、興福寺一乗院の小者とも、湯屋を生業(なりわい)としていたともされる。後に師里村昌休(さとむらしょうきゅう)より姓を受けたので「里村紹巴」(さとむらじょうは)と呼ばれることが多い。号は臨江斎。十二歳で父を失い、興福寺明王院の喝食(かっしき:寺院に入って雑用を務めた少年)となり、その頃から連歌を学んだ。十九歳の時、奈良に来た連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は昌休に師事、三条西公条(きんえだ)に和歌や物語を学んだ。天文二〇(一五五一)年頃より、独立した連歌師として活動を始め、昌休の兄弟子であった宗養(そうよう)没後は第一人者としての地位を保った。三好長慶・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らの戦国武将をはじめ公家・高僧らとも交渉があり、ともに連歌を詠むと同時に政治的にも活躍し、「本能寺の変」直前に光秀と連歌を詠み(「愛宕(あたご)百韻」)、変の後には、秀吉に句の吟味を受けたことはよく知られる。秀吉の側近として外交・人事などにも関わったが、文禄四(一五九五)年の秀次の切腹事件に連座して失脚し、失意のうちに没した。彼は連歌の社会的機能を重視し、連歌会の円滑な運営を中心としたため、作風や理論に新しみが少なく、連歌をマンネリ化させたとする評価も一部でなされているが、連歌を広く普及させた功績も大きく、優れた句もまま見られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「ついぢ」築地。柱を立てて板を芯とし、両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀。公家方は屋敷の周囲にこれを巡らすのが通例であったことから、公卿方の代名詞ともなった。「新つくば集」室町後期の準勅撰連歌集「新撰菟玖波集」。南北朝時代の正平一一/文和五(一三五六)年に関白二条良基が救済(ぐさい)の協力を得て撰した堂上方の準勅撰連歌集「菟玖波集」(全二十巻)に擬して作られた。飯尾宗祇を中心に兼載・肖柏・宗長らが参加した。全二十巻。明応四(一四九五)年成立。一条冬良(ふゆら)の「仮名序」がある。永享以後約六十年間の二千句余を集め、作者は心敬・宗砌(そうぜい)・専順・大内政弘・智蘊(ちうん)・宗祇・兼載・宗伊・能阿・行助・三条西実隆・肖柏ら二百五十名余に及ぶ。宗祇時代の連歌を代表し、「菟玖波集」とともに連歌史上、重要な集である。大内政弘の奏請により、勅撰に準じた。
「法橋」法橋上人位の略。律師の僧綱(そうごう)に授けられる僧位で、法印・法眼とともに貞観六(八六四)年に制定された。後に一般の僧にも授けられるようになり、人数も次第に増加し、さらに仏師や絵師にも叙任されるに至った。
「筑紫より連歌をもて京師に來り」不審。出羽国の大名で最上氏第十一代当主にして出羽山形藩初代藩主で、伊達政宗の伯父に当たる最上義光(よしあき)の家臣の兵法家としてしられた堀喜吽(きうん ?~慶長五(一六〇〇)年)という御伽衆がおり、彼は筑前生まれで「筑紫喜吽」とも称し、連歌にも長じて、紹巴とも同座しているので、混同したものか? 彼は慶長の「出羽合戦」の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃したところを、上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死している。
「松永彈正」戦国大名松永久秀(永正五(一五〇八)年~天正五(一五七七)年)。連歌を好んだ。
「政宗」仙台藩藩祖伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。やはり連歌を好んだ。
「片倉小十郞」伊達家家臣で伊達政宗の近習であった片倉景綱(弘治三(一五五七)年~元和元(一六一五)年)の通称。後に軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏初代。
「社稷の臣」元来は古代中国で天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)で、そこから転じて「国」の意。
「をく」ママ。]