柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 一
其 角
一
蕪村の『新華摘(しんはなつみ)』の中に「其角は俳中の李青蓮と呼れたるもの也」ということがある。こういう譬喩的な言葉は、往々にして誤解を生じやすい。気の早い読者は「俳中」という肩書を離れて、直(ただち)に李白と其角との比較を試みるからである。「碧虚(へききょ)は子規門の顔曾(がんそう)なり」といったのは横山健堂氏だったかと思うが、これなども「子規門」ということに重きを置いて考えないと、比倫を失するとか何とかいう非難が起るであろう。近松を日本の沙翁(さおう)と称することは一時の通語であった。しかるに後年全集が出る時になると、黙阿弥も南北も皆日本の沙翁という看板になっていたから、正直な読者は真贋に迷わざるを得ない。其角の李青蓮は以上の例と全然同じではないにしても、多少この辺に留意して見る必要があろうと思う。
[やぶちゃん注:「其角」宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)の本名は竹下侃憲(ただのり)。別号に晋子(しんし)など。ウィキの「宝井其角」によれば、『江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた』。『はじめ、母方の榎下姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める。なお、姓を榎本とする表記が見られるが誤りとされる』とある。
「新華摘」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の俳書。月渓画・跋。一冊。寛政九 (一七九七) 年刊。蕪村は安永六(一七七七)年夏に其角の『花摘』に倣い、恐らくは亡母追善のために、一日十句を作る夏行 (げぎょう) を思い立ち、十六日間で百二十八句まで実行したが、後は所労のため、七句を追加しただけで中絶した。その後、落ち着いてから、これに京都定住以前の回想談、則ち其角の「五元集」に関する話及び骨董論と、五つの狐狸談、其角の手紙の話などを加えた。それは蕪村没の翌年天明四(一七八四)年、冊子であった自筆草稿を巻子本にする際、月渓の挿絵と跋文を加えて、さらに 十三年経ってから原本を模刻して出版したものである。発句と俳文とが調和した蕪村の傑作とされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「李青蓮」李白の号。青蓮は水蓮のこと。
「碧虚」正岡子規の二大高弟河東碧梧桐と高濱虚子。
「顔曾」孔子の高弟で孔門十哲の徳行第一の顔回(顔淵)と、曾子(曾参(そうしん))。後者は十哲には含まれないが、後代孟子を重んじた朱子学が正統とされると、顔回・曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。
「横山健堂」(明治四(一八七一)年~昭和一八(一九四三)年)は史論家・評論家・ジャーナリスト。山口県阿武郡萩(現在の萩市)生まれ。本名は達三。東京帝国大学文科大学国史科明治三一(一八九八)年卒。中学教諭・読売新聞社・大阪毎日新聞社を経て、国学院大学教授。その一方で「新人国記」を『読売新聞』に連載。同時に人物評論を『中央公論』に連載するなどして活躍、「人国記の黒頭巾」として知られた。著書は幅広く「日本教育史」「現代人物競」「新人国記」「旧藩と新人物」「人物研究と史論」「大将乃木」「大西郷」「高杉晋作」など多数(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。
「比倫」比類。同じような存在。]
其角がはじめて芭蕉の門に入ったのは、延宝二年だということになっている。時に芭蕉三十一歳、其角は十四歳であった。教育制度の固定せぬ昔にあっては、この程度の夙成(しゅくせい)は異とするに足らぬかも知れぬが、正風(しょうふう)確立以前の芭蕉の下に馳せ参じ、新風の興起に与(あずか)る振出しが、今日にしたら中学一、二年生の年齢であるのは、いささか注目に値する。芭蕉が
草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪有
両の手に桃とさくらや草の餅 芭蕉
と詠んだのが、元禄五年とすると、芭蕉四十九歳、其角三十二歳、その推重(すいちょう)の度を知るべきである。最も早い弟子の一人で逸脱性に富んでいた其角が終始一貫して芭蕉の傍を離れなかったこと、其角の如き逸材を久しきにわたって包容し得たことは、何よりも芭蕉の人物の大を語るものであるが、同時に両者契合(けいごう)の深かったことも認めなければならぬ。其角は芭蕉の下において、安んじてその才分を発揮し得たのである。
[やぶちゃん注:「延宝二年」一六七三年。
「夙成」幼時から学業などが既に出来上がり、大人びること。早熟。早成。
「正風」特に確立後の松尾芭蕉及びその門流の俳風を言う語。「蕉風」に掛けたものであるが。本来は戦国時代の伊勢神宮祠官で連歌師であった荒木田守武が、天文九(一五四〇)年の秋に俳諧式目の制定とともに初めて名付けた俳諧に於ける純正で中庸を得た風体という謂いとして示した概念である。
「両の手に桃とさくらや草の餅」元禄五(一六九二)年三月三日の作とされる。兀峰編の「桃の実」(元禄六年刊)に載り、前書には頭書があって、『富花月(くわげつにとむ)』とある。後の「未来記」(蓼太編・明和二(一七六五)年刊)には、この句を立句として、当日のももの節句に招いたとして嵐雪と其角の三吟歌仙を納める。そこでは、
兩の手に桃とさくらや草の餠 芭蕉
翁に馴(なれ)し蝶鳥(てふとり)の兒 嵐雪
野屋敷の火繩もゆるすかげろふに 其角
と脇句と第三を付けている。但し、この其角の第三は「火繩も許す陽炎に」であろうが、どうも句意が読めない。蝶よ鳥よとなずんでいた「兒」ちごも今は一人前の猟師となって、野中にある掘立小屋の中、今まさにそこに潜んで獣を撃たんとしている。彼の銃の火繩がめらめらと燃えている、そして猟師の照準の彼方には陽炎が、火繩の齎すゆらめきを許すかのように同じようにめらめらと立っている、とでも言うのであろうか?]
芭蕉は晩年の弟子たる許六(きょりく)に俳諧を説いて、「名人は危所に遊ぶ」といった。仕損ずまじということに捉われるのは下手の心であって、上手の腸(はら)ではない、芭蕉自身も仕損じは毎句あるというのである。許六はこれによって忽ち大悟し、「人先(ひとさき)に医者の袷(あわせ)やころもがへ」の句を得た、と自ら『青根が峯』の中に記している。野球の投手でも名人といわれるほどの者は、真直にプレートの上を通す球ばかり投げるものではない。或年代以後の芭蕉は徒(いたずら)に奇を好むような弊はなかったげれども、よく名人の心理を解していたから、「当時諸門弟並他門ともに、俳諧慥(たしか)にして畳の上に坐し、釘鋸(くぎかすがい)をもつてかたくしめたるが如き」傾向に慊(あきた)らず、許六に授くるに危所に遊ぶことを以てしたのであろう。
[やぶちゃん注:「許六」(明暦二(一六五六)年~正徳五(一七一五)年)は名は百仲(ももなか)。彦根藩士。俳諧は初め、季吟の風体を学び、のち常矩(つねのり)に入門したというが,その間の俳歴は明らかではない。当初は漢詩や狩野派の絵画に心を専らにしていたが,元禄二(一六八九)年頃から俳諧に力を入れるようになった。蕉門では尚白らの指導を受けたが、撰集を通して芭蕉の精神を探り、入門を願いながら、官務のためになかなか機を得ず、数年を経、遂に元禄九(一六九二)年の出府の折りに芭蕉に対面し、本懐を果たした。宝永三(一七〇六)年に俳文集「風俗文選」(初版では「本朝文選」)は芭蕉の遺志を継ぐものとして優れる。
「青根が峯」元禄十年刊の許六の俳文集。]
けれども許六の句は大体において、危きに遊ぶことの甚しいものではなさそうである。第一大悟して得たという「人先に」の句にしても、尋常句案の徒のよくするところでないかも知れぬが、「おそらくは向後、予が句仕損じの場所ならでは一句も有るまじ」と高言を吐いたほどのものとは思われない。そこへ行くとそういう手前味噌を上げていないにかかわらず、危きに遊ぶ大家は其角である。辰野隆(たつのゆたか)氏の説によると、「凡そ詩歌の危きに遊ぶこと、近代仏蘭西の象徴詩人に如くものはない。就中(なかんずく)ステファアヌ・マラルメはその尤なるものである」というのであるが、其角を把ってマラルメに比するのは、少くともマラルメを知らざるわれわれにとって、危険の甚しきものであろう。われわれはそれほど危きに遊ぶ料簡はない。但マラルメには本当にわかる人が三人しかない、という面倒な詩があったはずである。其角の句集について、どの頁からどんな句を持出されても、必ずわかると答え得る人は、何人といったらいいか、あるいは絶無なのではないかとも思われる。
[やぶちゃん注:「辰野隆」(明治二一(一八八八)年~昭和三九(一九六四)年)はフランス文学者で随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。初めて本格的にフランス文学を日本に紹介した人物して知られる。以下の引用元は不詳。
「ステファアヌ・マラルメ」(Stéphane Mallarmé 一八四二年~一八九八年)はランボーと並ぶ十九世紀フランス象徴派の代表的詩人。]
其角の句が難解であるについては、いろいろな理由が挙げられている。彼は都会詩人の通有性として、悠久な自然よりも、うつろいやすい人事の上に興味を持っていたため、その句にも人事を材としたものが多い。当時なら容易にわかる事柄でも、時代を隔てればわからなくなる、というのもその一である。これは何時の時代でも免れぬところであろう。小説戯曲の如きものは、時代に沿うた人事の消長を叙することが多いから、後世になると部分的にわからぬところが出来て来る。一葉女史の小説などにも東京人でないとわからぬ箇所の少からずあるのは、早く斎藤緑雨が書いた通りである。但普通の散文では前後の関係でほぼ推測出来るものもあり、一々わからずとも大勢に関係ないものもあるが、俳句のような短いものになると、なかなかそう行かない。一の事柄がわからぬために全体の意味を捕捉し得ぬ虞(おそれ)がある。
其角は俳人一流の雑学で、和歌といわず、漢詩といわず、物語といわず、謡曲狂言といわず、手に任せて自家薬籠中のものとしているから、その典拠を突止めないと解釈し得ぬものが多い。由来人の読んだ本の出所というものは見当のつけにくいものである。其角が縦横に駆使した材料を調べるには、どうしても其角以上の博識者に俟たなければならぬ。作者は一人、後世の読者は無数だから、各方面から次第に種が挙って来るようなものの、其角はその種を使用するに当って、必ずしも尋常一様の手段を用いていない。その種を巧に伏せて、すました顔をしているということも、彼の句を難解ならしむる一理由となっている。
以上の二点のみを以てするも、其角の句の解釈は容易でない。しかも更に難物なのは、彼が蕉門随一の名人として好んで危きに遊ぶことである。其角が天稟(てんぴん)の才を擅(ほしいまま)にして危きに遊ぶ時、当時の風俗も、書中の典拠も、一種の光を生じ来ることは事実であるが、同時にその句を益〻難解ならしむるのは、固(もと)より当然のところであろう。彼のピッチングは変化自在(へんげじざい)である。直球的写生句にのみ馴れた今の人々が、彼を向うに廻しては、その球に翻弄されて、打ちこなし得ないにきまっている。
[やぶちゃん注:「天稟」天から授かった資質。生まれつき備わっている優れた才能。天賦。
「生じ来る」「しょうじきたる」。]
其角の危きに遊ぶ消息については、どうしてもその句を挙げなければならぬ。一、二の例はこれを悉(つく)すべしとも思われぬが、さし当り先ず芭蕉の遺語に現れたところを挙げて置こう。
きられたる夢はまことか蚤の跡 其角
去来師に対して、其角は殊に作者にて侍る、わづかに蚤の喰付たることを誰か斯くは云ひ尽さんと云ふ。師曰しかり、かれは定家の卿なり、さしてもなき事をことごとしく云つらね侍ると聞えし評詳(つまびらか)なるに似たり。
この句は其角が母の喪に籠っていた元禄三年六月十六日の作で、「怖夢を見て」という前書がある。『五元集』の前書に「いきげさにずでんどうとうちはなされたるがさめて後」とあるのは、自らその夢の内容を詳にしたのであろう。実際のところは悪夢から覚めて後、身体に蚤の食った跡を見た、というまでで、生袈裟(いきげさ)に斬放(きりはな)された夢と、蚤の跡とは直接何の関係もあるわけではあるまい。ただ平凡に甘んぜざる具角は、悪夢を見、また蚤の跡を見るという小さな事実を、頭から打おろすような調子で、この一句に仕立てたのである。去来が「わづかに蚤の喰付たることを誰か斯くは云ひ尽さん」といい、芭蕉が「さしてもなき事をことぐしく云つらね侍る」と評したのは、いずれもこの点において其角の力量を認めたものと思われる。この句の危きに遊ぶ程度は、勿論人先に袷を著た許六の医者の如きものではない。
[やぶちゃん注:引用部の句の後の文章は底本では全体が二字下げ。踊り字「〲」は正字化した。以上は向井去来の「去来抄」の「先師評」からの引用。以下に原文(古梓堂文庫蔵古写本底本の岩波文庫版)を示す。
*
切れたるゆめハまことかのみのあと 其角
去來曰、其角ハ誠に作者にて侍る。わづかにのみの喰つきたる事、たれかかくハ謂つくさん。先師曰、しかり、かれハ定家の卿也。さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍るときこへし。評詳に似たり。
*
其角のこの句は彼が二十七の時に亡くなった母妙務尼四回忌の追善句日記である「花摘」(元禄三(一六九〇)年刊)に載るもので、前書に「十六日、怖(ヲソロシキ)夢を見て」(「ヲ」はママ)とある。彼の母は貞享四(一六八七)年四月八日に亡くなっている。季題は「蚤」で夏。
「五元集」其角自撰の句集。小栗旨原(しげん)が編して其角死から四十年後の延享四(一七四七)年刊。其角自撰の千余句の発句集「五元集」に、句合わせ「をのが音鶏合(ねとりあわせ)」を加え、最後に旨原編になる「五元集拾遺」が附されてある。表題の「五元集」とは延宝・天和・貞享・元禄・宝永の五つの元号期に亙る発句集の意。]
翁一とせ伊賀の西麓庵におはして、続猿みの撰集ありしに、武城の人々より発句を贈れり。其中に其角も三四章有りて、秋風辞(しゅうふうのじ)をたち入たる句に
しら雲に鳥の遠さよ飛(とぶ)は鴈(かり)
と云を我も人も感吟して、これらの手づまの及びがたき事をいへば、翁は例のほめながら、普子が此ほどの俳諧をきけば、玉振金声の作をもとめて天下の人を驚さんとす。是より五年の変化をはからず二作をかさねば平話をうしなひ、三作を重ねば俳諧は尽きて、其時は自己をうしなふべしとなり。
『続猿蓑』にこの句は見えぬようであるが、『うら若葉』には下五字が「数は雁」とあり、『五元集』には「声の遠さよ数は雁」となっている。「秋風辞をたち入たる」というのは、漢武帝の「秋風辞」に「秋風起ツテ兮白雲飛ビ。草木黄落シテ兮雁南ニ帰ル」とあるのを指したものであろう。しかし白雲と雁の取合(とりあわせ)だけならば、必ずしも「秋風辞」に限ったわけではない。「数は雁」とあるのから考えると、『古今集』の「白雲にはねうちかはしとぶ雁の数さへみゆる秋の夜の月」なども利かしてあるかも知れぬ。いずれにせよ、そういう材料から脱化して、眼前別個の光景をなしている点に其角の「手づまの及びがたき」ところはあるので、芭蕉がこれを認めながら多少の危険を感じているのも、またその点に外ならぬのである。この句は表面に現れたところでは、前の「きられたる」の句ほど甚しくはないように見えるが、内面にはやはり一筋縄で行かぬ点がある。危きに遊ぶことは同じでも、その手段は常に一様ではない。其角のピッチングの変化自在を極める所以である。
[やぶちゃん注:以上の引用は底本では全体が二字下げ。各務支考の「十論為弁抄」(じゅうろんいべんしょう)の第八段からであるが、しかし、問題があって、今泉準一氏の論文「其角年譜試稿(七)」(PDF)によれば、『ただし、其角の発句「白雲に」の下五文字が誤って記載され、またその誤りに基づいての解釈が載り、従ってこれに基づく芭蕉の論評にも疑義があるが、これに近い事実があったであろう推測は可能である』と注されておられる。句は元禄七(一六九〇)年刊の泥足編「其便(そのたより)」では、
橫江舟中(わうこうしふちゆう)
白雲に鳥の遠さよ數は厂(かり)
で載る。他に「末若葉」・「伊達衣」及び其角の「五元集」所収。但し、「五元集」では、中七が異なり、
白雲に聲の遠さよ數は雁
である。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈によれば、下五に至って、遙かな「鳥」が「雁」であり、それが「数」多い列を成しているという『一句のイメージが明瞭となるといった構成が、この句の技巧であり、しかも「数は雁」といった破格の表現をとるところに思い切った作意が感じられる』とされ、宵曲が指摘するように、『この句は同時に、古歌「白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへみゆる秋の夜の月」』(「古今和歌集」「巻第四 秋上」・題知らず・詠み人知らず・一九一番)『をふんでいる。この歌の下の句については、古来「数さへみゆる」とよむ説と、「影さえへみゆる」とよむ説とがあったが、定家は『僻案抄』において「数」とすべきことを論定している。其角の句は、その定家の説に対し、「数」と決めて出てくる景は、このように遠く雁を見やった場合こそふさわしいのだとということを暗に示したものとも読めるのである、其角一流の洒落をこめた句ということになろう』と目から鱗の見解を示しておられる。
「秋風起ツテ兮白雲飛ビ。草木黄落シテ兮雁南ニ帰ル」は訓読を示すと、「秋風 起こつて 白雲 飛び 草木(さうもく)黄落(わうらく)して 雁南に帰る」。漢の武帝劉徹(紀元前一五六年~紀元前八七年)の知られた楽府「秋風辞」の第一句目。彼が現在の山西省万栄県に行幸し、后土(土地神)を祭って、群臣とともに汾河(ここ(グーグル・マップ・データ))に船を浮かべて行楽した折り、四十四歳の時の作。全文は碇豐長氏の漢詩サイトのこちらがよい。
「続猿蓑」芭蕉七部集の一つ。沾圃(せんぽ)が撰したものに芭蕉と支考が加筆したとされる。元禄一一(一六九八)年刊。蕉門の連句・発句が集められ、〈軽み〉」の作風が示されるものとされる。
「うら若葉」「末若葉(うらわかば)」。其角編で元禄四(一九九一)年の序。]
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