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2020/04/13

三州奇談卷之五 縮地氣妖

 

    縮地氣妖

 山は高きにあらざれども、佛あれば靈妙あり。此卯辰山觀音院の後ろの山には、初め縮地(しゆくち)の怪あり。縮地は「南島變(なんとうへん)」にも記すが如く、物の間(あひだ)近く見ゆる怪なり。

[やぶちゃん注:「縮地」本来は道教の仙術の名で、呪法によって土地を縮めて距離を短くすることを言う。後漢の費長房が地脈を縮めて千里先の土地を眼前に見せ現させたという「神仙伝」の巻五「壺公」などに見える故事に由る。

「卯辰山觀音院」前の「祭禮申樂」参照。

「南島變」「寬永南島變」。何のことはない、本書の筆者堀麦水の宝暦一四(一七六四)年成立と見られる「天草の乱」を中心とした実録物。]

 然る所に元祿十二年臘月下(しも)の三日、此山崩れ、泥水城下の町を漂(ただよ)はし、ほら貝ありて此泥水に乘じ、淺野川を下りに粟崎(あはがさき)・大野の大海(たいかい)に下り向ひ去る[やぶちゃん注:ここは何か衍字っぽい感じがする。寧ろ国書刊行会本では『浅野川をくだり大野・粟ヶ崎の大海に向ひ去る』となっていて、すんなり読める。]。此後は卯辰山を「崩れ山」と云ひ、又縮地の怪なし。

[やぶちゃん注:この部分の叙述に従うなら、少なくとも卯辰山の怪奇な縮地現象は、この妖怪ならぬ妖貝の法螺貝が生じさせていたものと結論づけていることが判る。

「元祿十二年臘月下(しも)の三日」元禄十二年十二月二十三日。グレゴリオ暦一七〇〇年二月十一日。

「ほら貝」あの海産の巨大な巻き貝である腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis である。民俗伝承を御存じない多くの読者は「何故ここに法螺貝?」とお思いになるであろうが、地震と鯰の関係と同じと考えて戴ければ判りがよい。地面の下に大鯰が隠れていて、それが地震(ない)を起すと考えたと同じく、山中や陸の土中に法螺貝がいて、それが時に動くことで山崩れや地割れが起こると考えたのである。これは鯰ほどでないにしても、各地に見られる結構、メジャーな伝承なのである。例えば、宝永七(一七〇九)年完成の貝原益軒の「大和本草」の「卷之十四 水蟲 介類 梵貝(ホラガイ)」(私の電子化注)には、

   *

○今、按ずるに、俗に「ほらの貝」と云ふ。大螺なり。佛書に法螺(ほうら)と云ふ、是なり。海中、或いは山土の内にあり。大雨ふり、山くづれて、出(いづ)る事あり。大に鳴れりと云ふ。本邦、昔より軍陣に用(もちひ)て之を吹く。「源平盛衰記」に見ゑたり。佛書「賢愚經」にも、軍に貝を吹(ふく)こと、あり。亦、本邦の山伏、これを、ふく。

○後土御門院明應八年六月十日、大風雨の夜、遠州橋本の陸地より、法螺の貝、多く出て、濵名の湖との間の陸地、俄(にはか)にきれて、湖水とつゞきて、入海(いりうみ)となる。今の荒江と前坂の間、「今切」の入海、是なり。故に今は濵名の湖は、なし。濱名の橋は、湖より海に流るゝ川にかけし橋なり。今は、川、なければ、橋、なし。「遠江(とほたふみ)」と名づけしも、此湖ありて都に遠きゆへ、「遠江」と名づく。「遠江」とは「とをつあはうみ」なり。「淡海(あはうみ)」とは「しほうみ」にあらず、「水海(みづうみ)」のこと也。「遠江」とは「近江(あふみ)」に對せる名也。

   *

とあり、正徳二(一七一二)年頃の完成した寺島良安の百科事典「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」(リンク先は私の古い電子化注)の「寶螺(ほらのかひ)」にも、

   *

凡そ、地震に非ずして、山岳、暴(にはか)に崩(くづ)れ裂(さ)くる者(こと)有り。相ひ傳へて云ふ、「寶螺、跳り出でて然り」と。遠州〔=遠江〕荒井の今切のごとき者の處處に、大小の之れ有り。龍か螺か、未だ其の實を知らず。

   *

と記している。そこで私は、『俗信として修験者の用いた法螺貝が長年、深山幽谷に埋もれ、それが精気を得て、再び海中に戻り入る時、山崩れが起きるという俗信があるようである』と述べた。また、かの柳田國男もこちら(私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47) 「光月の輪」(2)』)で、

   *

「ほら」と云ふ動物が地中に住むと云ふは、甚だ當てにならぬ話なり。法螺(ほら)と云ふはもと樂器なれど、之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔(ほらぬい)けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり。此くのごとき思想は疑ひも無く、蟄蟲(ちつちゆう)より起りしならんが、大鯰(おほなまづ)・白田螺(しろつぶ)の類ひの、元來、水底に在るべき物、地中に入りて住む、と云ひし例、少なからず。

   *

と述べている。そこで私は注して、

   *

ここに書かれた崩落や地震が法螺貝が起こすという話は、一般の方は非常に奇異に感じられるであろうが(地震と地下の「大鯰」伝承はご存じでも)、民俗伝承上ではかなり知られたものなのである。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や同書の「法螺貝の出しを見る事」を参照されたい。これはホラガイが熱帯性で生体のホラガイを見た日本人が殆んどいなかったこと、修験者・山伏がこれを持って深山を駆けたこと等から、法螺貝は山に住むと誤認し、その音の異様な轟きが、山崩れや地震と共感呪術的に共鳴したものとして古人に認識されたためと私は考えている。

   *

と記した。「佐渡怪談藻鹽草」は、驚くべきその具体的実例とするものである。ホラガイが数千年を経て龍となったとする話はウィキの「出世螺」にも詳しいが、以上は、皆、私のオリジナルな電子テクストで、しかも重なるものはないことからも、この怪奇な陸の法螺貝の妖異が、実は、かなりよく知られていたことの証しとなろう。学術論文でないと気の済まないアカデミズム妄信の面倒臭い読者向けには、斎藤純氏の論文「法螺抜け伝承の考察――法螺と呪宝――」PDF)がお薦めである。

「粟崎・大野」「今昔マップ」がよい。浅野川は古くは現在位置よりも遙か北で河北潟に流れ下り、そこから河北潟南端を大野川となって流れ、右カーブをして日本海に注いでいるのだが、その右岸一帯が旧粟ヶ崎村であり、カーブした左岸が大野町であったのである。]

 此山續きを東にゆけば「池が原」と云ふ山あり。尙加州河北郡なり。此池が原の池[やぶちゃん注:この「池」は国書刊行会本では『地』である。その方がいい。]、寶曆二年[やぶちゃん注:一七五二年。]の春の頃より地面音無くして上下する事やまず。或はかしこ高くなり、爰は低くなり、爰(ここ)落入ればかしこもり上るが如く、後には每日每日にして、地のうねうねする事、只波瀾の船中に座するが如く、何の業(わざ)と云ふことを知らず。人民皆

「只今にも泥海にやなりなん。傳へ聞く、越中礪波(となみ)木船(きふね)の城は、地境(ちさかひ)石動(いするぎ)に遠からず。土中へ落入りて上下人民皆死せしと。爰も左あらんにや」

と、家を明け寺を廢して、近鄕の知音(ちいん)知音に引退(ひきの)かし、其後(そののち)は多く見物に行く人ありしが、甚しく地の上下する時に至りては、人正しく眺むること能はず、逃走りては是を見る。斯くの如き事凡(およそ)七八十日にして、地靜(しづま)りて何の替りもなし。されども地の高低は大いに替り、家半分は高きあり半分は谷のごとき所もあり。二つの軒一つは嶺にあり一つは川に入るなどあり。誠に怪(あやし)むべし。是等地中に物ありて斯くの如くなるにや。

[やぶちゃん注:「池が原」「加能郷土辞彙」には『イケガハラ 池ヶ原 河北郡英田鄕に屬する部落』として、出典を本篇とするのだが、これは以前に出た旧石川県河北郡英田(あがた)村(歴史的行政区域データセット)内で、これは現在の河北郡津幡町字池ケ原(グーグル・マップ・データ)しかないのだ。しかしここは、逆立ちしても、卯辰山から「此山續きを東にゆけば」なんどとはゼッタイ! 言えない! 十八キロも東北で、途中で峰は切れてるっうの!!! 今、地区内に池は二つ現認出来る(如何にも農業用水地然とした新しいもの)が、池が上下するのではおかしいので、私はやはり「地」の誤りとしたい。

「越中礪波(となみ)木船の城」富山県高岡市福岡町木舟にあった木舟城。詳しい事跡はウィキの「木舟城」を見られたいが、この城、あった当時は三重の堀に囲まれていた上、周囲は湿地帯であったとあるから、そりゃ、ズブズブ! 沈んだり浮いたり、するわな! しかし、そんな怪異があったってどこに記載があるねん!?!

「石動」小矢部市城山町白馬山(標高百八十六メートル)にあった今石動(いまいするぎ)城(グーグル・マップ・データ)。実際の石動山(同前)とは全く位置が異なるので注意されたい。ウィキの「今石動城」によれば、『白馬山頂には元々能登・越中国境にある石動山(せきどうさん)山頂に在った伊須流岐比古(いするぎひこ)神社から勧請した伊須流伎比古神社があり、白馬山に築城するに』当たって、その神社名に因み、『「新しい石動(いするぎ)」=「今石動」と名付けたと云われているが』、一方で天正一〇(一五八二)年、『前田利家が石動山天平寺を攻めた折、天平寺の衆徒は和睦の人質として本地仏の木造虚空蔵菩薩像を差し出し、その後城を築くにあたり、これを城の守護尊として愛宕神社に祀ったため、石動山から多くの衆徒が集まり「今石動」と呼ばれるようになったという話もある(ただし、利家は石動山を焼き尽くし、宗徒らにも撫で斬りに近い対応をもって臨んでいる)』というのが名前の由来とする。木船城からここは西に五キロほど、池ヶ原はここから直線で七・六キロほどで、足すと十三キロ近くあって、地続きとするに足るものではない気がするが? これもわざわざ今石動城を挟んで言わなきゃならないところに、何か妙なものを感ずる。『「石動」という地名に、この怪奇の地面の変動を掛けたかっただけじゃないの?』と勘繰りたくなった。

 此續は地妖も又多し。此末加賀・越中の境、倶利加羅山には、嶺に靈驗の不動堂あり。是を下れば「猿ケ馬場」と云ふ。此邊は嶺傳ひ、只馬の背上の如くなる道を廻りて下る。諸山を見下し、向ふ雲烟の間(かん)には立山の劍峰(つるぎのみね)突々と立てり。右に顧れば、飛驒境五箇の山々羅列し、左に顧れば能州地堺の山々畦(あぜ)の如く見下す。只倶利伽羅の道、兩方谷にして上に立てば鞍上(くらのうへ)の心地するなり。是に依りて思へば、「くりから」の梵音(ぼんおん)其謂(いはれ)ありといへども、和名に依て起る所は、「鞍」によるなるべし。昔は「からくら」「くりくら」など「鞍」の古名なれば、此轉語(てんご)とぞ思はる。山少し下りて三廻り下る所を「天池」と云ふ。茶店三つ四つあり。此上の山を「三つ子山」と云ふ。此邊より山へ入る道の間に、彼(かの)縮地の怪今猶顯然とあり。年ごとに必ず一兩度逢ふ者ありと云ふ。

[やぶちゃん注:「倶利加羅山」この中央が倶利伽羅峠(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。今までのロケーションが画面内に入るように選んだ。

「不動堂」倶利迦羅不動寺

「猿ケ馬場」峠の東側。倶利伽羅峠古戦場にして平家軍本陣跡。富山県小矢部市石坂のここ

「立山の劍峰」剱岳。真東位置

「飛驒境五箇の山々」富山県南砺市相倉五箇山

「能州地堺の山々」この上部附近が旧国境

「梵音其謂(いはれ)ありといへども」「一聴、梵語(サンスクリット語)の深遠なるありがたい意味があるように思われるかも知れぬが」の意。あるネット記載によれば、「くりから」の語源はサンスクリット語で「黒い龍」を意味し、不動明王の化身の一つでもあるとされる。「倶利伽羅剣」「利迦羅剣」は不動明王の立像が右手に持つ剣の名とされ、三昧耶形では不動明王の象徴そのものであり、貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣とされる。剣は倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって巻き纏っていることからこの名がある、とウィキの「倶利伽羅剣」にはある。

「からくら」は「唐鞍」で「からぐら」とも読み、飾り鞍の中でも朝儀の出行列の際に用いられた正式の馬具を指す。銀面・頸総(くびぶさ)・雲珠(うず)・杏葉(ぎょうよう)などの特殊な飾りがあり、外国使節の接待・御禊(ごけい)・供奉(ぐぶ)の公卿や賀茂の使いなどが使用した。

「くりから」一木から「刳り」抜いた一体の「鞍」の謂いか。

「轉語」訛(なまり)。

「天池」個人サイト「歴史街道旧北陸道」のこちらに、その「天池」(の名残か)が画像で見られる。また、「小矢部市歴史散策マップ」PDF)に「峠(天池)茶屋跡」を見出せる。恐らくこの中央附近である(グーグル・マップ・データ航空写真)。『昭和の初め頃まで茶屋のあったところ』とあるので、「茶店三つ四つあり」という叙述と一致する。国土地理地院図のこの附近である。

『此上の山を「三つ子山」と云ふ』前の国土地理院図の北の百六十四メートルのピークと、南の矢立山(二百五・六メートル)とその間にある無名の峰を合わせたものか?]

 其所謂(いはれ)を尋ぬるに、此邊の樵夫(きこり)ども山々に入りて木を伐り、枝を集めなどするに、各五七里も手を分て山に行く。常は煙霞打隔たりて見分くべくもなし。山さへ慥(たしか)には知得(しりう)べからず。然るに時ありては日光朗(ほがら)かにして、樹木ありありと近く、彼五七里も隔て分け入し友人も、目のあたり向ふの山にあり。然共(しかれども)聲をかくるに屆くことなし。只手を以て眞似する時は、彼も手を振りて答へ、手を以て告ぐ。されども怪妖何共(なんとも)分くべきかたもなく、心元なき故、多くは頭を振り、手を以て麓を指さして歸り去るべき殊を示すに、こなたも又うなづきて、多くは日中に業(ぎやう)を止めて、山を下り去る。偖(さて)麓に下れば、其山遠く成り、遙かの道を經て歸り合ひて、共にふしぎを語りあふこと年每なりといへども、山中心安からず、其日は必ず業を捨てゝ歸りしと云ふ。凡五七里[やぶちゃん注:二十弱から二十三半キロメートル。]許の所を二三町[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]程に縮めて見すること、此山の妙なり。多くは此天地「三つ子山」の上なり。地氣立つと覺えたり。是靈異か、是寶氣(はうき)か、又魔魅か知るべからず。

[やぶちゃん注:この条件は何かおかしい。「三つ子山」から「五七里」も離れた場所に、一緒な場所から山入りするということ自体があり得ないことだからだ! ここから北は氷見市の山中の熊無だぜ?(ここは私の旧友が住んでいたところだからよく知っている。とんでもない北方だぞ?) 南なら卯辰山の東の奥卯辰だぜ?!

 卯辰山觀音山の縮地の程は、斯くの如くなりしとはいへども、其事久しうして今は知者なし。倶利伽羅の縮地は、日を費し月を重ねて是を待てば、今日にても其怪には逢るゝ事なり。其證顯然たること斯くの如し。

 或人曰く、

「是法螺貝の氣なり。法螺は山鳥の卵より生ず。初め山鳥子を產む所、草間に置くときは山鳥となり、誤りて谷水へ落す物は化して法螺と成る。故にほら貝山鳥の斑(まだら)あり。聲又山を拔く響あり。夫(それ)山鳥の人を迷はすや、其形(かた)ち、手元にありて人を引く。是縮地の怪に理(ことはり)は同じ。雉海中に入る時は、化して蜃(しん/おほはまぐり)となり、蜃氣(しんき)を吐(はき)て城廓山林の形(かた)ちを現す。則ち此(この)向ひの那古(なご)の海尤も又一奇觀なり。蜃の玉を吐移(はきうつす)と云ふ」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「那古の海」「奈吳の海」。現在の富山県新湊市から高岡市伏木及び雨晴(あまはらし)の西部海岸広域一帯の古称。この地に赴任した大伴家持の歌で有名になった歌枕。私はここで中高時代を過ごした。]

「蜃は龍に似て鱗逆につけり。其氣味・功能甚だ奇なり」

と聞く。

 或人、

「『中山花敎』にありて見たり」

とて語りしは、

「蜃の肉を取りて瓶に納め、地に埋(うづ)むること三年すれば、一變して白砂のごとし。是に米に交へて以て酒を造れば、十餘年にして白光(びやくかう)ありて香(か)うるはしき醇酒(じゆんしゆ)となる。味も甚だ美なり。一盃の酒一斗に當る。酌みて盡(つき)ざるがごとし。此酒を多く飮みて醉(ゑひ)に至れば、千日の内は醉(ゑひ)の醒(さむ)ることなし。其間又食を思はず。天地日月をして目前を徘徊せしめ、他の玉樓金殿を將(ま)つて我家の思ひをなさしめ、一身樂しみを盡し、志を恣(ほしい)まゝにするに足れり。若(も)し此醉を急に醒(さま)さんと欲する時は、靑竹を伐りて是に打またがり、其竹瀝(ちくれき)を吸ふ時は、忽ち醒めて元の如し」

とへ云へり。

 若し此事なし得て其實(じつ)を得るならば、壺公(ここう)が縮地は必ず此事にして、費長房は其術中にありて解せざるものゝごとし。是等(これら)理か非か、未だ分つべからず[やぶちゃん注:底本は「す」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]。蜃氣(しんき)は山鳥に同じくして、物を移し近かしむるの妙あること顯然たり。此螺貝(ほらがひ)多く海また蜃多し。是れ則(すなはち)寶氣を生ずるの地なること顯然たる物か。蜃氣樓の論に至りては、後卷に委しければ、爰には略す。

[やぶちゃん注:「中山花敎」書名としか思われないが、不詳。識者の御教授を乞う。

「竹瀝」節を抜いた生の淡竹(はちく)を火で炙り、切り口から出た液を集めたもの。生の生姜(生姜)とともに喘息・肺炎などに民間薬として用いられた。

「壺公」日蓮宗の関連サイトらしい「仏教説話」のこちらから引用する。『唐の長安に常に薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は薬を相手の言い値で売っていた。この老人がどういう人なのか、知る人はいなかった』。『そのとき、汝南(しょなん)の費長房』(前注した人物と同じ)『という人が町の奉行に就任した。彼が楼の上に立って町を見回していると、翁は一つの壺を持っていて、日暮れ時になると人に知られずにこの壺の中に躍り入った。長房はこれをたびたび目撃して、この翁はただ人でないと知り訪ねて行き、敬って食物などをすすめると翁は非常に喜んだ』。『かくして何年か経たって、翁が長房に「君には金骨の相がある。仙道を学ぶことができよう。日が暮れて人のいない時分に来なさい」と告げた。言われたとおり日暮れに行くと、翁は「我(われ)に続いて壺の中に躍り入れ」と言って、先に翁が躍り入り、長房がそれに続いた』。『壺の中には天地、日月があり、宮殿、楼閣は見事であった。侍者は数千人いて老翁を助け敬っていた。長房は快楽に浸ひたりながらも、なお故郷を忘れることができなかった。老翁はそのような長房の気持ちを察して「もし君が帰りたいと思っているなら、これに乗って行きなさい」と、一つの竹の竿(さお)を与えた。長房はこの竹の竿に乗って長安に帰ってきたのである』。『この竿を葛陂(かっぴ)という所の水の中に投げ捨てると、竿はすぐに青い竜となって天に登り去った』。『この話は『神仙伝』の「壺公」と題する中にあって、憂世うきよの命や名はただ夢の中にあるだけで、はかないものであるということを述べているのである』。『作者は深山に幽栖ゆうせいしていたので、壺中の世界を世上の無常の世界に充てたのである』とある。所謂、壺中天(こちゅうてん)伝承である。こういう現世利益を求めたが故に費長房は仙化するのに、最低の尸解仙(しかいせん:一度、人として死んで遺骸となって仙人になる最下級クラスの登仙法である)としてしか羽化登仙出来なかったのである。「費長房は其術中にありて解せざるものゝごとし」とは、それ(戦術としては不完全であること)を言っているものと私は思う。まあ、私は大凡夫仙人として費長房が大好きだがね…………

「蜃氣樓の論に至りては、後卷に委し」私は本書の続篇以降を読んでいない。電子化途中で、もし、あって判ったなら、追記する。]

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