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« 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十四 狸の怪と若者 | トップページ | 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十六 緋の衣を纏つた狸 »

2020/04/08

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十五 塔婆に生首

 

     十五 塔 婆 に 生 首

 狸の出たといふ場所が、申合せたやうに、村端れや境で、 塞の神や道陸神を祀つた跡であるのも少し氣になり出した。この話もさうした場所での事である。

[やぶちゃん注:「塞の神」「さえのかみ」と読む。「ブリタニカ国際大百科事典」には(コンマを読点に代えた)、『村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神。邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。境の神の一つで』、「道祖神」・「道陸神(どうろくじん)」・「たむけの神」・「くなどの神」などとも『いう。村落を中心に考えたとき、村境は異郷や他界との通路であり、遠くから来臨する神や霊もここを通り、また外敵や流行病もそこから入ってくる。それらを祀り、また防ぐために設けられた神であるが、種々の信仰が習合し、その性格は必ずしも明らかでない。一般には神来臨の場所として、伝説と結びついた樹木や岩石があり、七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところとなり、また流行病のときには道切りの注連縄 (しめなわ) を張ったりする。小正月に左義長などの火祭をここで行う場合もある。神祠、神体としては、「塞の神」「道祖神」などの字を刻んだ石を建てたものが多いが、山梨県には丸石を祀ったものもあり、人の姿を刻んだ石や、男根形の石を建てるものも少くない。行路や旅の神と考える地方ではわらじを供え、また子供の神としてよだれ掛けを下げたり、耳の神として穴あきの石を供えたりするところもある』とあるが、私は「塞の神」は、本来は村境に祀られて運命共同体としての村に悪疫悪神の侵入を防ぐ神として、道祖神とは別個にあったものが道祖神と集合したものと考えている。道祖神は村境だけでなく、村外のもっと広義の地理的民俗社会的境界や、道の辻・街道の三叉路などにも散在し、中国で紀元前から祀られていた道の神としての「道祖」が起原であろう。ウィキの「道祖神」も参照されたいが、この集合体は広範囲なもので、庚申信仰や三猿信仰、猿田彦信仰や彼の妻とされる天宇受売命ととの男女一対の双体石像による豊穣・和合信仰、さらに神仏混合によって青面金剛や地蔵信仰とも習合している。これは明治の宗教政策で高域に散らばっていたそれらの石像・石塔が無暗に集められて配された結果、近現代人には十把一絡げの一緒くたのものとしてしか映らなくなったという弊害も助長している。但し、以上は私の普遍的な見解であって、実は早川氏は後の改訂版の方では、「塞の神や道陸神を祀つた跡」の部分を『道祖神や六地藏を祀つた跡』と改変している。ということは早川氏は本初版刊行時には、道祖神を「塞の神」、六地蔵のことを「道陸神」(六道の賽の河原にいる仏の謂いか)と誤認していたことが判るのである。

 長篠の醫王寺の近くにあるノツコシの山は、以前から古狸が棲むと言傳へた處だつた。水上(みづかみ)の部落と、長篠の本鄕とを境した、ちよつとした窪合の峠で、道が三ツ辻になつて居た。暮方其處を通ると、道に何やら汚ない袋のやうな物が落ちて居るが、うつかり拾つてはならぬ、狸のきんたまで、化かされるなどゝ聞かされたものである。道を挾んで古木が茂つて居て、辻には石地藏が立つて居た。

[やぶちゃん注:「長篠の醫王寺」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「ノツコシの山」この注の前後の比定から考えると、国土地理院地図のこの百十メートルの小山(現在は前者はグーグル・マップ・データでは「大通寺山」となっている)か、或いはグーグル・マップ・データ航空写真の「天神山陣地」跡、現在の長篠荏柄天神社のあるピークであろう。最後の「三ツ辻」をも読まれたい。

「水上(みづかみ)の部落」ここ。現在は長篠水上。

「長篠の本鄕」長篠城駅を含む宇連川右岸一帯(国土地理院図)。

「窪合」窪地の間に丘陵上になっていることを言うのであろう。

「三ツ辻」どうも困るのは、「峠」で、現行の地図では平地には幾等もあるが、峠の上の三叉路は見当たらないことである。まあ、この中に三叉路は複数見出せる(グーグル・マップ・データ航空写真)が、しかし、現在は十字路かも知れない。しかし拘った。最後にスタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見たところ、実は現在の地図類には認められない「醫王寺」の北の神社記号(長篠荏柄天神社)のあるピーク(現在の「天神山陣地」跡)の北直近を東西に越える細い人道があり、そこに医王寺に向かう人道(実線)がぶつかって三叉路になっているのを発見した。ここなら「峠」っぽい。私はここに比定したい。ここをグーグル・マップ・データ航空写真で拡大してみると、高圧線の鉄塔と奇妙に人工的に有意に抉れた感じが判る。そこでグーグル・ストリート・ビューで東端の道路から見上げてみると、今は墓となっていて、向こう側にも踏み分けて行けそうな感じなのである。しかし、「早川孝太郎研究会」にある本篇PDF)の写真には「ノッコシ」として本格的なちゃんとした山道の写真が二枚載り、これは前に挙げた墓の道ではない。これ以上はもう私には推理不能である。悪しからず。

 近所の若い衆が此處の山續きで狸の穴を見つけて、遊び日に掘つて居ると、其處へ醫王寺の和尙がやつて來て、皆の衆ご苦勞と言うて去つた。それが實は穴の主の狸が化けたので、何時か拔け穴から逃出して、若い衆をからかつたのだと言うた。或は又その折好い天氣だつたが、急に雨が降つて來て、皆が濡れしよぼれて掘つて居る處へ、和尙が傘を差して來て笑つたげな、村の某もその一人だつたげななどゝ、眞しやかに[やぶちゃん注:「まことしやかに」。]聞かされたものである。

 自分には祖父に當る人の事だつた。或時長篠の本鄕から日を暮して、此處へ差しかゝると、どう道を間違へたのか、醫王寺の方向へ降るのを、ドンドン脇へ外て[やぶちゃん注:「それて」。]行つて、氣が附いた時は、山續きの村の卵塔場へは入つて居た。前に新佛[やぶちゃん注:「にいぼとけ」。]の墓があつて、白張の提灯と新しい塔婆が立つて居る。見るとその塔婆の尖端に、男の生首が突通してあつて、目を開いたと思ふと、クスリと笑つたさうである。祖父は平素から剛膽な人だつたので、それを見ると、初めて狸の惡戯と氣がついた、何だ手前の相手などして居られるかと言置いて、其儘後も見ずにドンドン卵塔場を出て來たさうである。それから家へ歸り着く迄、もう何事も無かつたと云ふ。此話は祖父が若い頃幾度も物語つたさうであるが、自分は祖父の妹に當る人から聞いた話だつた。

[やぶちゃん注:「山續きの村の卵塔場」と言っている以上、「村」は自分の横山(現在の横川)の:「山續きの村」則ち、横山の東の峰を越えた吉村地区(国土地理院図)であろうか。しかし「醫王寺の方向へ降るのを」といっているのはちょっと不審で、吉村へは医王寺を回り込んで相当東北へ行かねばならない。或いはこの「山續きの村」とは山続きになっている自分の横山村の外れにあった「卵塔場」と読むことも出来る(寺がある必要はない。地方では村墓は村落の境界に当たる山蔭や谷奥などに設けられることが多かった)。しかしその場合でも、こことの間には先にも示したかなり深い谷があり、やはり同じく相当に東北に回り込んで行かないと駄目である。しかも道は旧地図にもないから、獣道という感じとなろう。まあ、狸に化かされたのなら、そうしたルートや距離の不審は無化されるとは言えようか。なお「卵塔場」は単に「墓地」の意で用いている。本来の「卵塔」は僧侶の墓や供養塔として用いられる丸い無縫塔を意味する。

「祖父が若い頃幾度も物語つた」とあるから、実体験時制は江戸末期である。]

 ノツコシの峠近くの家では、夕方狸に化かされて、此處の山へ連れ込まれる者が、度々あつたと言ふ。そして又夕方などに其處を通りかゝると、何處からともなく、負んでくれ負んでくれと呼ぶ聲がするとも言うた。内金(うちがね)の某の男は、或晚醫王寺の方へ向けて峠を越して來ると、突然闇の中から負んでくれといふ聲がして、何やら背中へ負さりかゝつた物があつた。男は怖ろしさに夢中で、其まゝ驅け出したが、醫王寺の明りが見える處迄來ると、フツと背中が輕くなつたやうに思つたという。内金の村の左官の某の話であつた。

[やぶちゃん注:「内金(うちがね)」現在のそれは長篠内金(グーグル・マップ・データ)であるが、スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、この辺り一帯の広域(グーグル・マップ・データ航空写真)を「内金」と呼んでいたことが判る。]

 此處の狸は、もうとくに狩人が擊殺してしまつて、其後出るのは、山續きの吉村から通つて來るのだとも言うた。さうかと思ふと、いや未だ居る、現に誰それが化かされたなどゝ言ふ。さうかそれぢや擊たれた奴は別の狸かなどゝ、話が又新しくなつて來た。すつかり噂が根を斷つて終ふのは、容易ではないのである。

[やぶちゃん注:「吉村」前の方の注の太字部参照。]

 長篠の本鄕と内金との境にある、施所橋(せしよばし)の上へは、晚方狸が化けて出ると專ら噂した。雨の降る晚、傘を差して先へ立つて行く男が、フイと後を振返つた顏を見たら、三ツ目の大入道だつたとか、又或男が夜更けて通りかゝると、橋の欄干に寄りかゝつて居た男が其儘下へ飛下りて行つたとも言うた。而も此橋などは、橋の袂に迄人家があつて、狸の出る噂の場所はほんの五間か七間の處だつた。狸が出るには、必ずしも人家を離れた場所といふ必要もなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「施所橋(せしよばし)」ここ「早川孝太郎研究会」にある本篇PDF)の「施所橋」の写真とグーグル・ストリート・ビューの写真が一致した。

「五間か七間」約九~十三メートル弱。]

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