三州奇談卷之四 宗替の變異
宗替の變異
善凝れば惡となり、藥も積れば毒となるにこそ。宗に信心過ぎて害になりし人々を聞くに、元祿の頃、石川郡相河村八兵衞娘十三歲にて、金澤岩本九兵衞と云ふに奉公す。此九兵衞母妙智、日蓮宗の信者にて、一季居(いつきすはり)の婢も百日法華と號して終に我(わが)宗に勸む。又同じ村より出でたる仁兵衞と云ふ商人、犀川の下水車に油商せしが、此八兵衞娘と在所より云ひ名付なれば、迎へて夫婦となる。仁兵衞は門徒にて、布市村照臺寺旦那なれども、妻は岩本の尼公の爲に勸められ、法華宗歸依なり。然るに仁兵衞姊娘十歲の時、死去せしかば、布市照臺寺葬(はうむり)に見えしに死骸なし。是は密(ひそか)に妻女のわざにて、宵の内法華寺へ遣はし葬送して仕廻ひしなり[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]。照臺寺腹立(はらだて)して公場へ訴へ、段々詮義ありしかば、事(こと)法華寺の誤りにならんとす。爰に於て岩本の尼公も、仁兵衞妻兩人共に、法華寺の卵塔にて自害ありし。公儀前亂心に決して、尼公は寺に葬り、仁兵衞妻は布市に送り葬り、十一屋の末に墓を築きぬ。娘が事も此二人が不調法になりて、死骸は母と一所に埋めけるが、夫(それ)より此親子塚より二つの火出で、法華寺の卵塔に行き、此寺よりも火一ツ出て寺内を廻り廻りしこと初秋より冬に至る。法華寺は其後惡行のことあり、禁牢し、寺は破却になり、されば法に執着深くして、かく迷ひの本(もと)となる。心に任せての宗旨こそと思ふに、併(あはせて)近年切支丹と云ふ法ありて、事の害になりしより、斯く宗旨吟味委(くは)しかりけり。
[やぶちゃん注:ここに書かれた宗旨替えに伴う事件に於いて問題となる檀家制度については、ウィキの「檀家制度」の以下の部分が参考になる。『江戸幕府は、1612年(慶長17年)にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。元は棄教した者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証として広く民衆に寺請が行われるようになる』。『武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである。これを寺請制度という。寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がった。また、後に仏教の中でも江戸幕府に従う事を拒否した不施不受派も寺請制度から外され、信徒は仏教徒でありながら弾圧の対象にされることになる』。『これら寺請の任を背負ったのは、本末制度における末寺である。1659年(万治2年)や1662年(寛文2年)の幕法では、幕府はキリシタン改の役割の責任を檀那寺と定めている。後にはキリシタンと発覚した人物の親族の監視も、檀那寺の役割と定められた。これら禁教政策にともなって、より檀那寺の権限は強化されていくことになった』。『もっとも、寺請制度は世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で受け入れられた制度であったとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域に江戸時代存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として定着していったとみられている』。『寺請制度や本末制度』、寛永8年(1631年)の『寺院の新寺建立禁止令などを通して、檀那寺は檀家を強く固定化することに成功する。檀家になるとは、すなわち経済的支援を強いられるということであり、寺院伽羅新築・改築費用、講金・祠堂金・本山上納金など、様々な名目で経済的負担を背負った』。貞享4年(1687年)の『幕法は、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届けも義務とされている』。元禄13(1700)年『頃には寺院側も檀家に対してその責務を説くようになり、常時の参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌・釈迦の誕生日・釈迦涅槃日・盆・春秋の彼岸の寺参り(墓参り)を挙げている』。『もし檀家がこれら責務を拒否すれば、寺は寺請を行うことを拒否し、檀家は社会的地位を失う。遠方に移住するというような場合を除いて、別の寺院の檀家になるということもできなかった。よって一般民衆には生まれた家(あるいは地域)の檀那寺の檀家となってその責務を履行する以外の術はなく、寺と檀家には圧倒的な力関係が生じることとなる。江戸時代における檀家とは、寺の経営を支える組織として、完全に寺院に組み込まれたものであった』。『これらは、寺院の安定的な経営を可能にしたが、逆に信仰・修行よりも寺門経営に勤しむようになり、僧侶の乱行や僧階を金銭で売買するということにも繋がっていった。新規寺院建立の禁止も、廃寺の復興といった名目で行なわれ、末寺を増やしていった。また、「家」「祖先崇拝」の側面が先鋭化し、本来の仏教の教えは形骸化して、今日に言われる葬式仏教に陥った』。『檀那寺は、檀家制度によって極めて安定的な収入源を得ることに成功した。他方、檀家のいない寺院は現世利益を旨として信徒を集めるようになり、寺院は寺檀関係を持つ回向寺(えこうでら)と現世利益を旨とする祈祷寺(きとうでら)に分かれていくこととなる』。『檀家は一方的な負担を強いられることになったが、先祖の供養といった祖先崇拝の側面を強く持つことで、檀家制度は受け入れられていった。日本において、死後一定の段階経るとホトケになる(ご先祖様=ホトケ様)という元来の仏教にないことがあるのは、その代表例である。檀那寺に墓を作るということも半ば義務化されていたが、一般庶民でも墓に石塔を立てる習慣ができたのはこの頃である。檀家は、先祖の追善供養を行い、家の繁栄(守護)を願った』。『祈祷寺は、無病息災、恋愛成就といった個人レベルの願い、五穀豊穣、商売繁盛といった家の繁栄の願いなどを寺院参拝の御利益とし、他に祈祷などを行なった。流行仏という言葉も生まれた。また、定期的な開帳を行なったり、縁日を行なうことで布施を集めようとした。ただ、回向寺も檀信徒の信仰心が離れないよう苦心はしていた。祈祷寺と同じく、定期的な開帳を行なったり、檀家の義務と説いた年中行事も祭事や縁日のような興行的な側面を強くする。布教の一環として説教も盛んに行なった』。『江戸時代、人々は回向寺で先祖の追善供養を行なって「家」の現在・将来の加護を願い、祈祷寺で自身の現世利益を願った』のであったとある。
「元祿」一六八八年~一七〇四年。
「石川郡相河村」白山市相川町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。
「一季居」替わり奉公人で、出替わり季から翌年の出替わり季までの一年の間だけ雇用される者を指す。戦国時代から見られ、江戸時代に一般化した。「年季奉公」(一年を越える年数を決めての奉公)や「譜代奉公」(主家に終身隷属する奉公)と区別された。
「犀川の下水車」不詳。犀川ではなく、現在の浅野川の右岸の金沢市小橋町内には旧「水車町」(読み不詳。「みづぐるまち」か)があったことが、「旧町名をさがす会(金澤編)」のこちらで判った。また、「金沢市」公式サイトのこちらによれば、金沢市油車という地名が現存し、『藩政初期、油屋与助という油屋が、この地に水車をつくり、灯油などの製造をしていたことからこの名がついた』とあるのも見つけた。ここは現在の犀川右岸を少し入ったところであり、「水車」と、それから仁兵衛が「油商」であることと類似性が認められる。
「門徒」この語は特に浄土真宗の檀徒・信者を指す場合に用いられる。寧ろ、他宗には使われることが少ない。
「布市村照臺寺」石川県野々市市本町にある浄土真宗照台寺と思われる。地名の齟齬が不審な方は「宮塚の鰻鱺」の「布市」私の注を参照されたい。
「法華宗」日蓮宗。
「法華寺」これは固有名詞ではなく、その岩本九兵衛の母妙智の信仰している日蓮宗の某寺を指す。後に見るように、この寺の僧は悪行を行い、果てに廃寺となっているから、既に名が忘れられていたか、或いはお情けで名を伏せたものかも知れない。
「仕廻ひしなり」諸本は皆『仕廻し』であるが、私は孰れにも納得出来ない。ここは「仕廻(しまは)ししなり」とあるべきところではなかろうか。
「事(こと)法華寺の誤りにならんとす」事件は法華寺側に重大な誤りがあると認定されそうになった。
「卵塔」ここは墓地の意。
「公儀前」「こうぎまへ」で一語。「前」は「御前」と同じく、尊敬対象を直接指すのは憚れるので、その前の空間を指してその対象を尊敬することに代えた敬語としての接尾語であろう。
「十一屋の末に墓を築きぬ」犀川左岸に金沢市十一屋町(じゅういちやまち)があり、そこの東端に浄土真宗の共同墓地が現存するが、ここか。
「禁牢」牢獄にとじこめておくこと。禁獄。]
本朝に宗旨の數々は、法相(ほつさう)宗【有相宗といふ】・三論宗[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに割注があって『無相宗といふ』とある。]・華嚴宗・法華宗【天台宗といふ】・眞言宗・倶舍(くしや)宗・成實宗(じやうじつ)・戒律宗[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに割注があって『已上』とある。]八宗と云ふ。後に佛心宗【禪宗】渡りて九宗となる。其後日本に於て淨土宗・日蓮宗・一向宗等起り、淨土は時宗・西山(せいざん)・鎭西(ちんぜい)等に分(わか)り、[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『日蓮宗は一致・勝劣等に分り、』とある。]其外諸宗かぞへ難し。故に家々宗の諍論(じやうろん)あり。本藩の太守は代々禪宗にて、家士譜代の衆中は皆同宗なり。されども新參又は輕き家は、眞言・日蓮等の他宗も又多し。
[やぶちゃん注:「法相宗」有相宗・唯識宗・慈恩宗とも呼ぶ。「瑜伽師地論(ゆがしじろん))・「成唯識論(じょうゆいしきろん)」などを根本典籍として、「万有は識すなわち心の働きによるもの」として、「存在するものの相」を究明する宗派(但し、この「宗」は教学・修学の僧集団の意で我々の用いる狭義の仏教宗派とは異なり、優れた学僧は一度は孰れをも兼学した)。玄奘の弟子基(き)が初祖。本邦には白雉四(六五三)年に道昭が初めて伝え、平安時代までは貴族の支持を受けた。現在、奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。南都六宗(法相宗・華厳宗・倶舎(くしゃ)宗・三論宗・成実(じょうじつ)宗・律宗)の一つ(ここではそれに真言宗と天台宗(法華宗)を加えて「八宗」としている。以下、注は複数の辞書の記載を結合して示してある。また、現行、知られている宗派は宗内派を除いて原則、注さない)。
「三論宗」無相宗・中観宗・無相大乗宗とも呼ぶ。インド中観派の龍樹の「中論」と「十二門論」、及びその弟子提婆の「百論」を合わせた「三論」に依拠して立宗したのでこの名がある。高祖を文殊菩薩とし、次祖を馬鳴(めみょう)、三祖を龍樹とする。龍樹に二人の弟子があって二派に分れた。鳩摩羅什(くまらじゅう)によって中国に伝えられ、隋末・唐初のころ、僧吉蔵が中国十三宗の一として完成させ、本邦には推古天皇三三(六二五)年、慧灌(えかん)によって伝えられ、法孫智蔵が入唐を経て法隆寺で布教に努めた。以後、大安寺・西大寺・東大寺南院を中心に栄え、南都六宗の一つとなった。江戸時代までは法相宗の一部に命脈を保っていたが、現在は衰滅してしまった。
「華嚴宗」「華厳経」を根本として唐代の法順が立て、法蔵が組織づけた大乗仏教の宗派であるが、その起源は、供養することによって霊験を求める民俗信仰に基づく。天平一二(七四〇)年、唐僧道璿(どうせん)が本邦に伝えたとされるが、法蔵の弟子新羅の審祥(しんじょう)が同年、東大寺(現在、大本山)で「華厳経」を講じたのを以って始祖とする。天台宗の「実相論」に対して『一即一切、一切即一』の縁起を説き、『縁来たれば生ず、縁去れば滅す』という従来の縁起に対して『縁来たるも生ぜず、縁去るも滅せず』という絶対実在の性起を主張する。良弁(ろうべん)が跡を継ぎ、鎌倉時代には二派に分かれ、明恵が実践面で、凝然が理論面で華厳教学の復興を図った。
「倶舍宗」インド僧世親 (三二〇年頃~四〇〇年頃) の著わした「阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)」の研究を専らとする一学派。中国では真諦又は玄奘によるこの論書の翻訳に始まり、神泰などが多くの注釈を著わして研究した。本邦に於いても道昭を始め、行基・玄昉らが研究を行ったが、独立の一宗派の形態をとるには至らなかった。
「成實宗」鳩摩羅什が訳出した「成実論」に基づく中国仏教の一学派。一切皆空と観じることによって涅槃に到達しようとする。羅什の弟子僧叡らが逸早くこれを講じ、後の南北朝時代に最も盛んとなって法雲・智蔵などの傑僧を輩出した。しかし三論の研究が次第に盛んになり、吉蔵によって部派仏教であることを決定されてからは、次第に「成実論」の研究は衰えた。日本では「三論」とともに東大寺・法隆寺などで研究されたものの、「成実論」研究自体は次第に衰えてしまった。
「戒律宗」律宗のこと。仏の定めた戒律の実践を宗旨とするもので、特に「四分律」による律の三宗のうち、唐の南山道宣によって大成をみたもので、日本では天平勝宝六(七五四)年に来朝した唐僧鑑真を律宗の祖としている。
「西山」法然の弟子証空によって始められた浄土宗の一派。源空から奥伝を受け、その没後に山城の西山三鈷 (さんこ) 寺に住して宗義をあげたのでこの名がある。証空の門下に浄音 (西谷流) ,円空 (深草流) ,証人 (東山流) ,道観 (嵯峨派) の四哲があって,それぞれ一派を開いた。
「鎭西」法然の弟子弁長によって始められ、九州で広められた浄土宗の一派。念仏往生のほか、念仏以外の善行による諸行往生をも認めるもので、江戸時代、知恩院や増上寺を中心に強い勢力を持つに至り、現在の浄土宗の主流を成すものである。
「一致」日蓮宗の一派。「法華経」二十八品の後半の本門と前半の迹門(しゃくもん)に説かれる理は一致したもので、勝劣はないと説く。現行、単に日蓮宗を標榜するものはこの流れに属する。
「勝劣」日蓮宗の一派。「法華経」の後半の本門が優れ、前半の迹門は劣ると説く。現行では「法華宗本門流」・「法華宗陣門流」・「顕本法華宗」・「本門法華宗」・「法華宗真門流」・「日蓮正宗」などがある。
「本藩の太守は代々禪宗にて」前田家は曹洞宗である。
「諍論」論争。]
爰に寶曆の初め、本多(ほんだ)房州の家士何某が母病死して、日蓮宗本因寺(ほんにんじ)に葬りぬ。夫は禪宗大乘寺の塔司(たつす)高安軒(こうあんけん)の旦那也。
「其寺へ葬送すべき事を」
と咎めけれども、早(はや)葬送も過ぎて數月(すげつ)を經たりしかば、高安軒の落度(おちど)となり、其一派より追院せり。
而して禪宗一統より連判の訴訟を上りて[やぶちゃん注:「りて」はママ。「上(のぼ)せて」でないとおかしい。]、父・夫同宗同寺の國制古來よりの掟なれば、違背有るべからざるの所、近年祈禱に事よせ、親子夫婦異宗異寺の輩(やから)多くある條、急度御糺明可ㇾ被ㇾ下(くださるべき)旨(むね)願(ねがひ)の上(のぼ)る。
正德・享保兩度に關東より御觸(おふれ)の趣も甚嚴制なれば、願の通(とほり)公命ありてより、禪一統の諸旦那一統に是を正しける所、牧甚五左衞門と云ふ異風組の士あり。大乘寺の檀那なりしが、母は妾(めかけ)にて他宗なり。依りて妻女も母の緣に依りて、により日蓮宗妙典寺の旦那になり度き由、組支配へ願ひける。執政奧村丹州公より寺社奉行へ彼書付を以て尋ねられしかば、大乘寺納得仕るべき旨、[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『先達而(せんだつて)申談(まうしだんず)ると云共(いへども)、承知せざる上は、公儀より』と入っている。]牧甚五左衞門願(ねがひ)の通(とほり)仰付けられ、差支申儀(さしつかへまうすぎ)之なき條答へらる。依りて其通り仰出(おほせいだ)され落着せり。其時禪一統の寺院違亂に及び、江戶表へ直訴を企てけるにより、大守重熈(しげひろ)公具(つぶさ)に聞こし召屆けられ、寶曆三年の二月、東武より窪田主馬、河内山七左衞門を以て仰渡されけるは、
「牧甚五左衞門母幷妻宗旨寺替の儀に付き、各諸寺院より願の趣連印の書、曁(および)此一卷に付き各(おのおの)より指出(さしいだ)さるゝ紙面の趣、御聽に達し候所、牧甚五左衞門母幷妻女の儀、大乘寺旦那の證據無之(これなき)事に候へば、最初より大乘寺旦那の趣指圖致すべき所其儀なく、甚五左衞門願書(ねがひがき)指出し、丹後守より相尋候節も願の通(とほり)申渡し差支なき旨相答候。且又去年曹洞宗一統より相願候趣承り屆け、正德元年・享保八年觸の趣相違之無き樣致度候(いたしたくさふらふ)。右紙面對馬守等へ相達し候所、今般未熟の取捌き故、寺院違亂に及ぶ段、別して不心得の至(いたり)に候。之に依り遠慮仰付られ候旨、仰出され候事。其人々寺社奉行多賀宇兵衞・橫山木工、幷宗門奉行松原善右衞門・後藤瀨兵衞は退役遠慮、奧村丹州公にも指扣(さしひか)へ申すべき旨なり。且つ牧甚五左衞門頭笠間與左衞門・村杢右衞門(むらもくゑもん)も遠慮仰付けられぬ。」
是より以後父・夫同宗同寺の掟制法行はれて、離檀の紙面無しにては改宗停止となりにける。
[やぶちゃん注:「寶曆の初め」宝暦は一七五一年から一七六四年までで、十四年まで。次注参照。
「本多房州」本多政行(享保一三(一七二八)年~寛政九(一七九七)年)は加賀藩の年寄で加賀八家本多家第六代当主。金沢城代。官位は従五位下。ウィキの「本多政行」によれば、宝暦六(一七五六)年に『安房守を遠江守と改め』たが、宝暦一二(一七六二)年にはもとの『安房守に復』したとあるから、「寶曆の初め」はこの役名変更の宝暦六年以前となる。
「本因寺」法華宗本門流興冨山本因寺(ほんにんじ)。読みは武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『本因寺(ほんにんじ)因は“にん”と読む。』を参照した。
「大乘寺」石川県金沢市ルにある長坂町にある曹洞宗大乗寺。
「塔司」(たっす:現代仮名遣)塔頭の主管者である僧を指すが、ここは塔頭名である。
「高安軒」当時の大乗寺の塔頭。現存しない。「加能郷土辞彙」こちらを見られたい。
「其寺へ葬送すべき事を」これは大乗寺の塔頭の塔司が咎めたと考えるべきで、ここは「其寺」ではなく「此寺」の方がいい。国書刊行会本は『此(この)寺』となっている。
「其一派より追院せり」本山永平寺の命により大乗寺は、この塔司の僧を高安軒から追放したということであろう。
「禪宗一統」永平寺であろうか。或いは臨済宗や黄檗宗(おうばくしゅう)も含めたものか。「正德」一七一一年~一七一六年。将軍は徳川家宣・徳川家継。
「享保」一七一六年~一七三六年。将軍は徳川吉宗。
「牧甚五左衞門」「石川県史 第二編」の「第四章 加賀藩治停頓期」の「第二節 財政逼迫」の「寳暦の大火災と財政難」(ADEAC)に、『寳暦九年金澤火事之一卷』が引かれてあるが、その終わりの方に『大村市介となり牧甚五左衞門やける』とあるのはまさに当人であろう。
「異風組」加賀藩にあって和銃を使う鉄砲衆の組織名。
「妙典寺」石川県金沢市寺町にある日蓮宗正栄山妙典寺。
「執政」家老。
「奧村丹州公」加賀藩老臣奥村宗家その奥村支家については「加能郷土辞彙」に多数載るが、生没年などから引き比べてみたものの、どうも納得出来る人物を特定出来なかった。悪しからず。
「重熈公」第七代藩主前田重煕(しげひろ 享保一四(一七二九)年~宝暦三(一七五三)年四月八日)。この直後に二十五歳の若さで亡くなっている。
「窪田主馬」以下、当時の多数の藩士や重役の名が出るが、いちいち調べなかった。悪しからず。
「仰渡されけるは、……」以下はやや鍵括弧で括るに無理があるが、読む際に展開を判り易くするため、かくした。]
然るに寶曆十三年正月、富永吟左衞門と云ふ士あり、七十九歲にて病死せり。此人幼稚の頃出家せんとて、寺町常榮寺と云ふ日蓮宗へ遣はし置きし内、同氏より養子に貰(もらは)れし故、寺より取返し、
「未落髮以前なれども、一度上人に遣はせし上は、假令(たとひ)末々いかなる家へ行きても、其身一代常榮寺檀那たるべし」
と堅く約束をなして、此家へ養子に來り、此家は代々禪宗希翁院旦那なれども、吟左衞門家督相續の折、由緖帳にも常榮旦那と書出し置きける由なり。今度死後常榮寺へ葬らんと云ひけるを、希翁院より相咎めける故、右のよしを一家とも語りけれども、最早六十年以來の事なれば、兩寺にも一門にも慥に存知たる者もなく、とかくは其節の證據なくては、兩寺諍論となりて、死骸を其儘捨置きて、一類中も是を爭ひけれ共、終に常榮寺方に離檀の證據無き故、希翁院旦那にて片付けける。此吟左衞門死去の跡、是等の事故持佛を改めけるに、本尊と覺しきは藥師如來也。されば
「常榮寺へ日頃歸依せしに、似合はざる本尊なり」
と希翁院尋ねられしに、一類の中より咄されしは、
「此本尊甚だ謂れあり。吟左衞門、昔家督を下され候砌(みぎり)、知行所の百姓祝儀として蕪(かぶ)をくれける。夫(それ)を切りけるに、一つの蕪の内より此一寸八分の金像藥師如來光り輝きてあり。人々奇異の思ひをなしぬ。佛は吟左衞門、
『因緣のある故なるべし』
と、
『我が本尊になさん』
とて佛間に請じ、一生是を尊みけり。其頃は蕪も佛像の跡の空虛ありて、持佛の傍に置きて人々に見せけるを、慥に聞きし」
よし云はれける。
抑(そもそも)富永の系譜は、猪俣小平六敎綱(ゐのまたこへいろくのりつな)が末葉となり、小平六「一の谷」戰功の後遁世して紀州大峰に入り、「役(えん)の行者(ぎやうじや)」の脇士「前鬼」・「後鬼(ごき)」に仕へて、長生不死の道人となり、折々其末葉を尋ねて形容を顯はさるゝ故、此富永一類の家今に影向(やうがう)絕る事なしと云へり。亦熊野八庄司の記に云ふ。伊奘冉尊(いさなきのみこと)の神靈を、出雲より紀州の熊野へ移す時、御先を拂ふ神躰を榊(さかき)に付けて捧持(ささげもた)せし家の子孫を鈴木と云ふ。御魂をこめたる榊を持ちし家柄を玉木と云ふ。【今の「玉置」是なり。】「役の行者」と諸共(もろとも)に彼(か)の山をかけぬけにする修驗者を敎導し給ふ故、前鬼・後鬼とは唱へけるとぞ。
[やぶちゃん注:「寶曆十三年」一七六三年。
「常榮寺」「金沢図書館」公式サイト内の「金沢墓誌」に常栄寺として笹下町(現在の寺町五丁目)としつつ、『現存せず』とする。国書刊行会本では『常円寺』とするが、筆写の誤りであろう。
「上人」日蓮。
「希翁院」金沢市野町にある曹洞宗亀福山希翁院。地図を見れば判る通り、常栄寺があった位置は北直近である。流石にこれは怒るだろうねぇ。
「由緖帳」各藩で藩士の家系の由緒を略述した由緒書(ゆいしょがき)のこと。
「一家とも」国書刊行会本では『一家共』で、ここは「一家ども」の方が腑に落ちる。遺族の親族一同である。
「藥師如來」「常榮寺へ日頃歸依せしに、似合はざる本尊なり」薬師如来は一般には真言宗・天台宗の密教寺院に於いて本尊とするが、禅宗寺院などでも祀られることがある。日蓮宗は概ね本尊は「大曼荼羅」或いは日蓮上人像である。
「一寸八分」約五センチ五ミリ。
「猪俣小平六敎綱」猪俣範綱(いのまたのりつな ?~建久三(一一九二)年)は、鎌倉幕府御家人。武蔵七党の猪俣党の当主で、「保元の乱」では源義朝に仕え、「平治の乱」では源義平の下で軍功を挙げた十七騎の雄将として知られている。また、源頼朝・源義経にも仕え、「一ノ谷の戦い」でる伊勢平氏に連なる有力家人であった平盛俊を騙し討ちにしたとされている。ウィキの「平盛俊」によれば、二月七日の戦いで『平氏軍は全ての防衛線を突破された。盛俊はもう逃げてもかなわぬと馬を止めて敵を待っていると、源氏方で鹿の角の「一、二の枝」を簡単に引き裂くほどの剛の者猪俣範綱が駆けてくる。腕力に自信があった両者は組討をして地面に落ち、範綱が組み敷かれてしまう。首を斬られかかった範綱は、盛俊の名を尋ね聞いてさらに「命を助けてくれるなら、貴方の一族を自分の恩賞と引き換えに助けよう」と命乞いを始める。それに盛俊は怒り』、『「盛俊は不肖なりとも平家の一門、源氏を頼ろうとは思わない」と範綱の首に刃を立てようとしたところ、範綱に「降伏した者の首を掻くのか」と言われて、押さえ込んでいた範綱を放してやる。二人があぜ道に腰を下ろしていると、人見の四郎という源氏方の武者が駆け寄って来て、それに気をとられた盛俊は範綱に不意に胸を突かれて深い田んぼの中に倒されてしまう。泥濘で身体の自由が利かない盛俊は、このような騙し討ちによって範綱に首を取られてしまった』とある。
「役の行者」七世紀末に大和の葛木(かつらぎ)山にいたとされる呪術者。役小角(えんのおづぬ)とも呼ぶ。「続(しょく)日本紀」によれば、役君小角(えのきみおづぬ)とあり、秩序を乱したので六九九年に伊豆に流されたとする(それでも自在に空を行き来したという)。ここに出る鬼神「前鬼」・「後鬼」を使役して諸事を手伝わせたとされる。修験道の祖とされ、山岳仏教のある各山に役の行者の伝説が残る。
「前鬼」・「後鬼」夫婦の鬼で、前鬼が夫、後鬼が妻とされる。ウィキの「前鬼・後鬼」によれば、『役小角を表した彫像や絵画には、しばしば(必ずではないが)前鬼と後鬼が左右に従う形で表されている。役小角よりは一回り小さい小鬼の姿をしていることが多い』。『名は善童鬼(ぜんどうき)と妙童鬼(みょうどうき)とも称する。前鬼の名は義覚(ぎかく)または義学(ぎがく)、後鬼の名は義玄(ぎげん)または義賢(ぎけん)ともいう』。『役小角の式神であったともいい、役小角の弟子とされる(実在性および実際の関係は不明)義覚・義玄と同一視されることもある』。『夫の前鬼は陰陽の陽を表す赤鬼で鉄斧を手にし、その名の通り役小角の前を進み道を切り開く。笈を背負っていることが多い。現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされる』。『妻の後鬼は、陰を表す青鬼(青緑にも描かれる)で、理水(霊力のある水)が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多い。現在の奈良県吉野郡天川村出身とされる』。『前鬼と後鬼は阿吽の関係である。本来は、陰陽から考えても、前鬼が阿(口を開いている)で後鬼が吽(口を閉じている)だが、逆とされることもある』。『元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。あるいは、彼らの』五『人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えた』。二『人は改心し、役小角に従うようになった。義覚(義学)・義玄(義賢)の名はこのとき役小角が与えた名である。彼らが捕らえられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にある』。『なお、静岡県小山町須走にも、役小角が前鬼と後鬼を調伏し従えたとする伝説がある。千葉県銚子市には、江戸時代に生駒の鬼取山鶴林寺に巡礼した渡邊郎衛門という人物が千葉高神村に帰郷後、前鬼を祀って信仰した山があり前鬼山(御前鬼山)と呼ばれた』。『修験道の霊峰である大峰山麓の、現在の下北山村前鬼に住んだとされ、この地には』二『人のものとされる墓もある。また、この地で(生駒山のエピソードと時間順序が矛盾するが)』、五『人の子を作ったという』。『さらに、前鬼は後に天狗となり、日本八大天狗や四十八天狗の一尊である大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)になったともされている』。『前鬼と後鬼の』五『人の子は、五鬼(ごき)または五坊(ごぼう)と呼ばれた。名は真義、義継、義上、義達、義元。彼らは役小角の五大弟子と言われる義覚、義玄、義真、寿玄、芳玄と同一視されることもある(ただし、義覚・義玄は前鬼・後鬼と同一視される弟子と同一人物)』。『彼らは下北山村前鬼に修行者のための宿坊を開き、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号とした。またそれぞれ、五鬼継(ごきつぐ)、五鬼熊(ごきくま)、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助(ごきじょ)、五鬼童(ごきどう)の』五『家の祖となった』。五『家は互いに婚姻関係を持ちながら宿坊を続け』、それぞれの『男子は代々名前に義の文字を持った』。『ただし、明治初めの廃仏毀釈、特』明治五(一八七二)年の『修験道禁止令により修験道が衰退すると、五鬼熊、五鬼上、五鬼童の』三『家は廃業し里を出、五鬼継家は』一九六〇年代に『廃業』し、五鬼継の第六十一代目当主義文氏は『和歌山県で社会福祉協議会向けの会計ソフトウエア会社を経営』している。『五鬼上の子孫は首都圏や関西、海外に分散しており、五鬼上堅磐は最高裁判事を務めた。小仲坊の五鬼助家のみが今も宿坊を開』いており、二〇一八年現在は六十一代目『の五鬼助義之が当主となっている』とある。
「形容を顯はさるゝ」以下の「影向」に同じ。
「影向(やうがう)」歴史的仮名遣「ようごう」。神仏が時に応じて仮にその姿を現すこと。
「熊野八庄司の記」「熊野八庄司」は紀伊熊野の八つの庄の庄司。荘園領主の命によって雑務を掌ったが、多くは土豪として部族化した。代々「鈴木庄司」を称した藤白鈴木氏(ふじしろすずきし)、「湯河庄司」を称した湯川氏、「野長瀬庄司」を称した野長瀬氏らが記録に見える。そうした一族の由来を綴った文書であろう。
「伊奘冉尊(いさなきのみこと)の神靈を、出雲より紀州の熊野へ移す時、御先を拂ふ神躰を榊(さかき)に付けて捧持(ささげもた)せし家の子孫を鈴木と云ふ。御魂をこめたる榊を持ちし家柄を玉木と云ふ。【今の「玉置」是なり。】」こういう姓由来には私は興味がない。面白いとは思うが、如何にもな話で事実は「藪野」中だ。
『「役の行者」と諸共(もろとも)に彼(か)の山をかけぬけにする修驗者を敎導し給ふ故、前鬼・後鬼とは唱へけるとぞ』判り易さを狙った後付け。引用にある通り、陰陽道由来であろう。]