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2020/04/14

三州奇談卷之五 倶利伽羅

 

    倶利伽羅

 右にいふ倶利伽羅山長樂寺は、眞言の靈場國君の祈願所にして、靈異筆にて述べ難し。

[やぶちゃん注:このような前項(「縮地氣妖」)に直に続く書き出しは、本書ではかなり珍しい。

「倶利伽羅山長樂寺」明治の廃仏毀釈で廃寺となって現存しない。「加能郷土辞彙」に、

   *

チョウラクジ 長禦樂寺 河北郡倶利伽羅の手向神社の別當であつた。眞言宗に屬し、山號は倶利伽羅山。三州紀聞[やぶちゃん注:全五巻。成立年も作者も未詳]に、『長樂寺、百十一石五斗八升五合、外五石七斗山手米。倶利伽羅村。眞言。不動尊也。寺の向、村家の後に古池あり。是より不動尊出現といふ。』とある。

   *

として、手向神社への「見よ見出し」を附す。同書の当該神社の記載には、

   *

タムケジンジヤ 手向神社 河北側倶利伽羅山上の倶梨伽羅(部落名)に鎭座する。萬葉集に刀奈美山手向の神[やぶちゃん注:「となみやまたむけのかみ」。]といひ、三代實錄元慶二年[やぶちゃん注:八七二年。]五月八日越中國正六位上手向神に従五位下を授くとあつて、もとは越中礪波郡[やぶちゃん注:「となみのこほり」。]の式外の社であったが、國界の變遷によつて加賀に屬することになつた。前田氏の世に及び、慶長六年[やぶちゃん注:一六〇一年。]本殿以下の諸堂宇及び別當長樂寺を再營し、草高[やぶちゃん注:「くさだか」とは江戸時代の領内の土地から産出する米の収穫総高。]百十一石五斗八升八合を寄進し、事ある每に白山比咩神社[やぶちゃん注:「しらやまひめじんじや」。]と共に祈禱を命ぜられた。天保七年[やぶちゃん注:一八三五年。]十一月四日門前の民屋から出火して、長樂寺以外皆燒亡し、神體を假殿に遷座せしめ、明治元年[やぶちゃん注:一八六八年。]神佛混淆禁止の後、本地倶利伽羅不動明王を廢して素盞嗚社[やぶちゃん注:「すさのをしや」。]と號し、別當長樂寺を復飾奉仕せしめて社號を素盞嗚社と改め、五年七月更に手向社と呼ぶことにした。

   *

とある。「津端町役場」公式サイト内のこちらの解説によれば、『津幡町の倶利迦羅不動寺山頂本堂には、高さ1.1メートルの木像「阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)」が安置されています。作者は浄土真宗七高僧の第六番目に崇められている源信(げんしん)和尚(恵心僧都=えしんそうず)といわれています。この像は倶利伽羅の長楽寺(ちょうらくじ)が所蔵していましたが、明治の神仏分離によって廃寺となり、1877年(明治10年)ごろ当時の倉見の有力者が津幡町笠谷地区の倉見区の専修庵へ納めたと伝えられています』。『2013年(平成25年)96日、1865年(慶応元年)に建てられた専修庵の取り壊しが決まり、町文化財の阿弥陀如来像が、かつて安置されていた倶利伽羅山に約130年ぶりに戻りました』とある。この真言宗高野山倶利迦羅不動寺は昭和二四(一九四九)年に長楽寺の跡に堂宇を再建・復興したもので、新しいものなので注意されたい。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 本尊は則(すなはち)「くりから不動」にして、山燈(さんとう)・龍燈(りゆうとう)の靈驗あり。彼(かの)壽永の年、木曾の冠者爰に威を輝かして平家を谷に落しゝ「火牛の謀(はかりごと)」この所なり。「一騎打」は巨岩路(みち)を挾みて春風猶寒く、「埴生(はにふ)の八幡」は太夫坊覺明が自書の願書を留めて秋色依然たり。「日の宮林」の跡、「巴御前(ともゑごぜん)の塚」・「卯の花山」には、白(はく)・立(たつ)二山の雪に對し、「源氏が峰」には猶夏雲の奇峯立ちて、爰にては古俗「信濃太郞」といふ。此日の木曾の白旗を稱(たた)へそめたる勢ひあり。もと禹餘粮石(うよらうせき)を產す。其外も奇種の水晶多し。

[やぶちゃん注:「山燈・龍燈」全国的に怪火の一種の名。一般には山中から飛来する怪火を前者、海から生じて陸へ飛来するそれを後者で呼ぶ。後者は海中の燐光が灯火のように連なって現れる現象、所謂、「不知火(しらぬい)」を指すが、その火が陸に上がって木に登って掛かるなどという伝説もある。水中から上がることから龍神が神仏に捧げる灯火とも言う。石川県では、羽咋郡気多(けた)神社や鳳至郡穴水町の一本木諏訪神社など、この伝承がかなり多い。

『壽永の年、木曾の冠者爰に威を輝かして平家を谷に落しゝ「火牛の謀(はかりごと)」この所なり』寿永二年五月十一日(ユリウス暦一一八三年六月二日)に木曽義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で起こった「倶利伽羅峠の戦い」(「砺波山の戦い」とも呼ぶ)。ウィキの「倶利伽羅峠の戦い」によれば、『平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った』。『この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた』のであった。「源平盛衰記」には、『この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである』とあり、私も後者のシークエンスは完全な創作と考えている。

「一騎打」これは倶梨伽羅合戦の戦跡というよりも、ここにある通り、「巨岩」が「路(みち)を挾」んで非常に狭くなっていて、正に一騎打ちをするしかないような狭隘な山道を指しているようである。「津端町役場」公式サイト内の、後の加賀藩が設置した「道番人屋敷跡」の解説によれば、『津幡町竹橋(たけのはし)から倶利伽羅峠に伸びる歴史国道「北陸道」を挟んで、龍ヶ峰(りゅうがみね)城址公園の向かい側に「道番人(みちばんにん)屋敷跡」が残っています。現在、2戸の屋敷跡は龍ヶ峰城址公園の駐車場となっていますが、ほぼ原型で保存されています』。『加賀藩は参勤交代(さんきんこうたい)の街道の整備、管理をする「道番人」という制度を設けました。1665(寛文5)年5月より道番人を1里(約4キロ)ごとに2人置き、給銀70目、居屋敷50坪を与えて、街道の掃き掃除、砂入れ、水落とし、雪割、並木の手入れなどをさせました。『河北郡史』には、1720(享保5)年に竹橋宿から倶利伽羅峠までの街道を、その途中「一騎討ち」と呼ばれる狭まった場所で二分し、龍ヶ峰(通称「城ヶ峰」)南麓の上藤又村から出た長助、茂兵衛の両家が担当したという記録が残っています』とあるからである。この付近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「埴生(はにふ)の八幡」富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)のこと。源義仲が戦勝を祈願したことで知られ、現在、馬上の人物像としては日本最大級の源義仲騎馬像が建立されてある。これ(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの同義仲騎馬像の画像)。

「太夫坊覺明」大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう・かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した。元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られる。木曽義仲の右筆で、寿永二年五月十一日、現在の先の埴生護国八幡宮(八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。

『「日の宮林」の跡』国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地名辞書 中巻 二版」の「礪波山」の条に、『按に盛衰記「平家は倶利加伽羅が峰を押越て、坂を下に東へ步せつつ、遙に東を見渡せば、日宮林に白旗四五十旒[やぶちゃん注:「りゆう」。「流」に同じい。]打立たり」、とあるをば長門本平語[やぶちゃん注:「平家物語」の略。]「礪波山の東の麓なる、大宮林の高木の末に、白旗一流ゆひたてたり」と綴りたり、この日宮又は大宮は埴生八幡に同じかるべし』とあるので、先の現在の埴生護国八幡宮の鎮守の森の跡のことである。

「巴御前の塚」義仲の愛妾で女丈夫として知られた彼女の墓。富山の方の個人ブログ「山いろいろ」の「源平古戦場・倶梨伽羅むかし道」(山歩き 50代以上のblog 登山倶梨伽羅峠)「倶利伽羅峠散策案内マップ」があるので、それを見られたいが(但し、南北が反転している地図なので注意)、富山県小矢部市石坂のここ(グーグル・マップ・データ)である。サイド・パネルの画像もいい。なお、彼女はここで亡くなったのではなく、後に埋葬されたと伝承するものである。また、グーグル・マップで判る通り、この周辺は古墳群(一号古墳は富山県内最大にして最古級の前方後円墳である)がある場所でもある。さて、ウィキの「巴午前」によれば、『最も古態を示すと言われる『延慶本』では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされる。京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという。粟津の戦いにて粟津に着いたときには義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなくなったとされている』。『『源平盛衰記』では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされている(『長門本』にも同様の記述がある)。宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ』。『和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られる』とあり、また、個人サイト「北村さんちの遺跡めぐり」のことらには、碑文を電子化され、『巴は義仲に従い源平砺波山の戦の武将となる。晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」』とあり、その「由来」として、『源平合戦の後、和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが、その後未亡人となり、後生を福光城主の石黒氏に託した。石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平軍を攻めた親しい間柄であった。尼となり』、『兼生』(けんしょう)『と称し』、『宝治元年十月二十二日没し、石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている』とある。すぐ奥には義仲のやはり愛妾で、この「倶梨伽羅合戦」で亡くなった葵の塚もあり、碑文は『葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す。屍を此の地に埋め墳を築かしむ』とあり、「由来」は『葵は義仲の武将となり、倶利伽羅の戦に討死したので屍をこの地に埋め、弔ったと伝えられている』とある。巴は葵のそばに自らの墓を建てることを自ら望んだのであろう。私はこの巴御前や平家方の城資国の娘板額御前(はんがくごぜん)の大ファンである。私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」なども是非、読まれたい。

「卯の花山」本来は卯の花の咲いている山の意で、固有名詞ではないが、後世、漠然とした越中の歌枕となった。但し、私は旧富山県西砺波郡砺中(とちゅう)町(現在は小矢部市)にある標高二百六十三メートルの砺波山(となみやま)(グーグル・マップ・データ航空写真)の異称ととってよいと考えている(旧称を源氏山とも称するが、後の「源氏が峰」とは別である)。倶利伽羅峠直近にある。木曽義仲の倶利伽羅合戦に於ける陣所であった。芭蕉の偏愛する義仲であるから、「奥の細道」にもしっかり登場する。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を見られたい。芭蕉の「卯の花山」は明らかに砺波山を指している。

「白・立二山」白山と立山。

「源氏が峰」富山県小矢部市松永の標高二百四十五メートルの源氏ヶ峰(グーグル・マップ・データ航空写真)。砺波山の五百六十五メートル南南東のピークである。

『夏雲の奇峯立ちて、爰にては古俗「信濃太郞」といふ』注意深く読めば判るが、これは源氏ヶ峰の異名ではなく、積乱雲のここらでの俗称である。ブログ「Project Works 知恵袋」の「雲の峰」に『「積乱雲」は、雷の多い地方では、別名があり、雷の男性的なイメージに重ね合わせて、地名に太郎などの男子の名前が付けられ、例えば、江戸では「坂東太郎」、大阪では、「丹波太郎」、越前では「信濃太郎」、九州では「比古太郎」、讃岐地方では、「阿波太郎」などと呼ばれております』とある。

「禹餘粮石」「鈴石(すずいし)」或いは「鳴石(なるいし/なりいし)」のこと。鉱物標本名では「針鉄鉱」「褐鉄鉱」と呼ぶ。サイト「奇石博物館」のこちらの解説(現物写真あり)によれば、『日本では、中の乾燥した粘土が遊離し、 耳元で振るとコトコト音がするので「鳴石」もしくは「鈴石」などと呼ばれています』。『一方、中国では古代中国の伝説から「禹余粮」という名称が付きました。それはこんな伝説です』。『古代中国伝説の国「夏」の国王で仁政の王として伝わってい』る禹が、『治水工事を行った時』、『余った食糧(粮)を会稽山(かいけいざん)に残したものが』、『後にこの石になったと云われ、禹余粮の名称が付きました』。『後漢末3世紀頃の「神農本草経」という中国で一番古い薬の本にこの名が出てきます』とあり、標本画像の産地として、『奈良県生駒郡平群町産(割れ口の見える2個)』、『京都府相良郡和束町産(割れてない1個)』とある。]

 不動堂・大門の額は佐々木志津摩(しづま)が一生の筆意を殘し、門前の餅は來世閻魔王の咎めを塞(ふさ)ぐ。都(すべ)て死する者必ず此坂を越ざるなしと聞けり。故に金城にも何某の玄蕃(げんば)なる人、

「此所にて鬼に逢ひし」

とて物語人口にあり。其後、「鬼玄蕃」と云ふとぞ聞えけり。されば思ふに怪異も其平日の躰(てい)に依りて發す。是も彼(かの)「魚鱗は波に似て、鳥の毛は葉のごとく、獸毛は草に等し」と云へる造化の中を、鬼といへども遁(のが)るゝ事なしや。

[やぶちゃん注:「佐々木志津摩」「加能郷土辞彙」に、

   *

ササキシズマ 佐々木志頭磨 一に志頭摩に作る。初名七兵衞。書を加茂祠令藤木甲斐敦直

に學び、松竹堂と號した。加賀藩に仕へて二十人扶持を受け、組外御書物役に班したが、晩年致仕して京に歸り、剃髮して専念翁と稱した。元祿八年[やぶちゃん注:一六九五年。]正月十九日歿する時年七十三。

   *

とある。

「門前の兵餅」同一物かどうかは判らないが、現在の「倶梨伽羅不動寺」公式サイトの「念仏赤餅つき」に、『念仏赤餅は、お不動さまの霊験あらたかな「厄除けのお餅」とされ』、『今日に受継がれています。このお餅には、次のようなお話が伝えられています』。『昔、倶利伽羅山頂で悪さをする猿たちにそこを通る旅人達はほとほと困っていました。ある日、和尚さんにお不動さまからのお告げがあり、赤く塗った餅を猿たちに与えたところ、それをおいしそうに食べ、それからというもの二度と悪さをしなくなったそうです』とある。……しかし……お不動さまも閻魔大王も……Coronavirus disease 2019(COVID-19)には勝てず……『今年は、念仏赤餅つき・赤餅の販売は、中止になりました』とある……宗教も政治も科学技術も……遂には人を救うことは……ないのである…………

「何某の玄蕃なる人」「鬼玄蕃」筆者は姓を伏せて匿名にしているが、これは「大乘垂ㇾ戒」で既出既注の佐久間盛政のことであろう。織田氏の家臣にして大聖寺城主・初代金沢城主であった彼は官途及び通称が「玄蕃允」で、その勇猛さから「鬼玄蕃」と称された。その凄絶な最期はウィキの「佐久間盛政」を読まれたいが、それは鬼をも黙らせるものである。]

 一日(いちじつ)細雨の空くらく、林葉(りんえふ)霧こめてくらかりし日、此峠を越中の方より越え來りしに、峠にすさまじき男二人、生木(なまき)の棒なるをつきて立はだかり、山の下を見おろして立ちたり。我れ是が前を通るに、すさまじげなる男ども聲懸けて、

「此麓より二十歲(はたち)許りなる女房來るべし。『早く來(きた)れよ』と云ひてたべ」

と云ふほどに、

『昔語りにも聞ける面影なるもの哉(かな)』

と、麓の方(かた)へ下りけるが、道十町[やぶちゃん注:約一・〇九一キロメートル。]許を過ぎて、果して一人の女に逢ひたり。其色靑ざめ、物思へること深しと覺えて打ちかたぶき、猶又足さへ蹈損(ふみそこな)ひぬらん、細き杖に縋りてよろよろと來(きた)る。

 我、

「是ならん」

と知りて、則ち詞を懸けて、

「此嶺に二人の男あり、『早く來り給へ』と言傳(いひづて)ありし」

と云ひけるに、女は

「有難し」

とのみ答へて、又うつぶき去る。我(われ)立休(たちやす)らへども、其謂(いは)れを語るにも非ず。餘り求め兼て女を呼返し、

「若(も)し袖にてもなしや」

と尋ねければ、女いと打歎き、

「袖にさへ二番違ひにて侍りし」

と答へては去りし。

 此程富突(とみつき)の大(おほい)に流行せしかば、彼らにもあたらで力落したるものとは見えてけり。

 是もし幽靈ならんには、故人の糟粕(さうかう)なるべし。

 されば怪異も平日あることを以て、其儘其妖あり。是も思夢(しむ)の類ひならんか。

[やぶちゃん注:「昔語りにも聞ける面影なるもの哉」その二人の男の顔が昔物語に聴くような人間離れしたまさに「鬼」のような面構えであるよ、と思ったのである。「伊勢物語」の第六段の知られた「芥川の段」を洒落たのである。

「我立休らへども、其謂れを語るにも非ず。餘り求め兼て女を呼返し」私(筆者)はそこで立ち止まって暫く彼女の後姿を見守っていたが、かの女は何も――今の自分の病み衰えた様なさまや男たちとの関係について――語るわけでもなく、そのまま過ぎ行こうとしたので、余りに思い余って気に懸かり、女を呼び返して。

「若(も)し袖にてもなしや」「もしや……お女中……富突きの……袖さえも、これ、当たらなんだか?……」。江戸時代の富籤の当たり籤の前後の番号を「袖」と呼んだ。本籤(ほんくじ)に対して、これも当たりの今で言う「前後賞」として少額の賞金が出ることがあった。

「是もし幽靈ならんには、故人の糟粕(さうかう)なるべし」「……この女……「幽霊であろう」……と誰かが名指すなら……それは幽霊というよりは――死んだようになった者の哀れな魂(たましい)の滓(かす)のようなもの――とでも称すべきものであろう。」という謂いか。この部分のミソは、筆者が越中から倶利伽羅峠を越えて来たことにあろう。女は越中へ下って行くのである。そこに「鬼」(如何にも人間離れした顔であると言うのは牛頭・馬頭らしい)が遅しと待っているのである。その先には――立山の地獄谷の熱湯の中で煮られる現在地獄が待っているのである。この女は富籤に全財産を使い果たして自ら命を絶ったものでもあったのかも知れぬという匂わせである。但し、これは筆者堀麦水が実際に体験した事実に基づいて、創作を加えたものであろう。無論、女は生身の人間である。彼女は富籤に溺れて破産した結果、「鬼」のような「女衒(ぜげん)」に売られて、越中に身売りをする途中だったのではなかったか? いやさ、それもそれ――女郎の苦界(くがい)に墮ちる現在地獄――と謂うべきではあろう。そもそも本書は怪奇談を語ることを旨としている訳で、実際に麦水が地獄の鬼二人と霊の女に逢ったとなら、その恐怖を保存して描くだけの力量を彼は持っている。さればこそ、ここは特異的な諧謔によるコーダなのだと私は思うのである。なお、「そんな諧謔なんて」と鼻白む方は私の十返舎一九の「箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 芦の湯 木賀」を読まれるといい(天保四(一八三三)年板行)。そこで旅人はトンデモなく滑稽な諧謔を語るのだ。「この山にも地獄があるが、わしが前方(まへかた)、越中の立山へ參詣した時、立山の地獄では、しんだものにあふといふにちがひなく、わしがひさしくなじんだ女郞で、しんだのがあつたが、その女郞の幽靈に、立山であったから、『これはめづらしい。そなた今はどこにどうしてゐる』ときいたら、その女のいふには、『妾(わし)は今、畜生道(ちくせうどう)へおちてゐますが、妾(わし)が今の亭主は、顏は人間、體は馬(むま)でござりますが、人が世話(せわ)して、妾(わし)は今そこへかたづきました。世間の譬(たとへ)にも、馬にはのってみよ、人にはそふて見よといふ事がござりますが、わしはどうぞ馬にそふて見たいものだと思ひました。念がとどひて、とうとう馬の女房になつております。地獄の賽の河原町におりますから、御前(おまへ)も、はやふしんで、たづねてきてくださりませ』とぬかしたから、大笑ひだ。」……お後が宜しいようで……

「思夢の類ひ」泡沫(みなわ)のごとき如何にも儚い哀れなるものへの執心の末路の類い、といった意味か。]

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