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2020/04/28

三州奇談卷之五 黑部の水源

 

     黑部の水源

 黑部川は水上一つにして、裾甚だ支流となる。里俗四十八ヶ瀨と云ふ。此川の奧測るべからず。甚しく探せば越後へ入る。思ふに黑姬山の水なり。越後は大國にして、しかも高山多し。其第一なるものは、妙高山・黑姬山なり。此二山は根もと一つにして、妙高山は高き事諸山能く及ぶ事なし。此嶺は鬼の會合する所にして、其地いづく迄連(つらな)れること測るべからず。一方は信州善光寺の上の山にして、後ろは又北陸道の親不知の上の山となる。卽ち是より此谷を出る水を姬川と云ひ、糸魚川の傍(かたはら)なり。然るに越中の地に來りても、猶此山の嶺續きにや、土人

「越中の黑姬山なり」

と敎ゆ。是終に一山なり。黑部川も其山より出づる水なり。もと黑姬川と云ふべきを、黑部川と云ふ事は、この三ヶ國の方言、「姬」を指して「べ」と云ふ。俗言爰(ここ)に起るか。爰を以て見れば、黑部は黑姬なり。

[やぶちゃん注:「黑部川」「川の名前を調べる地図」で示す。本流はこれ水系はこれウィキの「黒部川」によれば、総延長は八十五キロメートルで、『富山県と長野県の境、北アルプスの鷲羽岳(わしばだけ)に源を発し』(水源の標高は2,924 m)、『おおむね北へと流れる。川全体の8割は深い山地を穿ちながら流れ、黒部峡谷と呼ばれる。黒部峡谷中にはそのV字谷に混じって雲ノ平、高天原、薬師見平、タンボ平、内蔵助平、餓鬼ノ田圃といった平坦地が点在する。黒部市宇奈月町愛本橋付近で山地を抜け、広さ1.2haの黒部川扇状地』『を流れる。この扇状地は黒部市、入善町にかけて広がり、その地形は海中にまで広がっている。黒部川の豊富な水量でこの扇状地は湧き水が多く、黒部川扇状地湧水群として名水百選のひとつにも選ばれている。本流は河口付近では黒部市と入善町の境界となり、日本海へと注ぐ』とある。

「思ふに黑姬山の水なり」黒姫山は長野県上水内(かみみのうち)郡信濃町(しなのまち)にある標高2,053 メートルの成層火山の独立峰。長野県北信地方の主に長野盆地から望める北信五岳(妙高山・斑尾山・黒姫山・戸隠山・飯縄山)の一つとして古くから信仰の対象とされてきた。しかし……麦水、何を勘違いしている? 黒姫山は飛騨山脈の白馬連峰を越えた遙かなここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)だぜ? 全然、明後日の方向だよ~ん?

「妙高山」新潟県妙高市にある標高2,454mの成層火山。黒姫山の約九・五キロメートル北北西の直近。ウィキの「妙高山」によれば、『北部フォッサマグナの糸魚川静岡構造線のすぐ東側に位置し』、『黒姫山、飯縄山、斑尾山、新潟焼山と共に妙高火山群をな』す。『山体崩壊する以前の山頂は標高2,800 - 2,900m程度であったと推測され』、『単純なひとつの成層火山では無く、4つの独立した成層火山が積み重なっている多世代火山である』とある。また、古くは「越の中山(こしのなかやま)」と呼ばれていたが、所謂、「好字二字令(こうじにじれい)」で「名香山」(なかやま)とまず当て字され、それが「みょうこうざん」と読まれるようになり、「妙高山」の字がさらに宛てられたものである。「好字二字令」とは飛鳥・奈良の時代から朝廷が唐の制度や文化を積極的に取り入れたが、地名についても唐や朝鮮と同様に縁起の良い二字の漢字で表記することを推進、奈良初期の和銅六(七一三)年に出された法令「畿内七道諸國郡鄕着好字」に代表されるような国家による二字漢字表記への変換政策が採られたのである。

「一方は州善光寺の上の山にして、後ろは又北陸道の親不知の上の山」この一方は二峰全体の「一方」=南に善光寺、「後ろ」のそちら=南の陸の果ては「親不知の上の山」となるという意味。但し、親不知は寧ろ、一本南の飛騨山脈の端というべきだろう。……あれ?……おや?……親不知の直上の、こんなところに、別な黒姫山があるぞ!!

「姬川」「川の名前を調べる地図」で示す。長野県北安曇郡及び新潟県糸魚川市を流れ、日本海に注ぐ姫川である。水源は正しくは長野県北安曇郡白馬村の親海湿原の湧水である。

「越中の黑姬山なり」これこそ石灰岩の露天掘りで山容が変形してしまった糸魚川市の方の黒姫山(標高1,221m)と勘違いしてんじゃないの? 麦水さん!?!

「是終に一山なり」違います!

「黑部川も其山より出づる水」じゃありません!!

『もと黑姬川と云ふべきを、黑部川と云ふ事は、この三ヶ國の方言、「姬」を指して「べ」と云ふ。俗言爰(ここ)に起るか』私は富山に六年間いたが、「姫」のことを「べ」と呼称するというのは体験にない。「言海」にも小学館「日本国語大辞典」にもそのような方言としての「べ」は載らない。促音を伴って親愛の情を込める接尾語に「次郎っぺ」などの用法はあるが、これは「姫」の意ではないし、方言でもない。石川・富山・新潟と姫と「べ」で複数のフレーズで検索したが、それらしいものは見当たらない。記紀の女神の接尾辞である「ひめ」は「びめ」とも濁るケースはあるが、それが「べ」と変じたケースは聴かない。但し、訛り方によっては「びめ」は「べ」に転じないこともないかも知れない。しかし、そうした複数の事例が示されない限りは、これも安易にあり得るとは言えず、到底、「爰を以て見れば、黑部は黑姬なり」などとは口が裂けても言えない。なお、ウィキの「黒部川」の「名称の由来」によれば、大まかに三説あり、①『このあたりは古くはアイヌ民族の祖先の一部が住んでおり、縄文語(後のアイヌ語と類似)の「クンネ・ペッ」(kunne-pet、黒い川)という言葉が変化したものという説』、②『同じくアイヌ語の「クル・ペッ」(kur-pet、魔の川)という言葉が変化したものという説』、③『黒部の山奥にはネズコと呼ばれる木が生えており、それの別名は黒檜(クロヒ・クロベ)と言われていたためという説がある』そうである。]

 近事杉の材木を伐出(きいだ)す。多くは此黑部川又片貝川に流れ出づ。

[やぶちゃん注:「片貝川」黒部川の南、主に魚津市を流れる(黒部川とは河口で6.6キロ、中上流でも97キロほどで尾根を隔てて並走する)。ここ(国土地理院図)。富山県魚津市の南東にある毛勝三山の猫又山(標高2,378m)に源を発し(黒部川の中流の南から西)、東又谷・南又谷・別又谷の水を集め、北西に流れ、下流で布施川と合流して富山湾へ注ぐ。河口は魚津市と黒部市の境界。水源となる2,000m級の山々からわずか27kmほどで海に流れ込む日本屈指の急流(平均勾配8.5%)の一つ。名は「片峡」(かたかい)、片側だけの峡谷という意味からなるとされる。]

 此木を伐りの人語りしは、

「川道岨(そば)の絕壁甚だ過ぎ難し。立山の室堂(むらだう)迄六里、雪中といへども常に過ぐ。絕壁雪に埋(うず)んで寒中は立山登りよし。故に室堂に泊る日を一の上宿(じやうやど)とすと云ふ。其餘の艱難(かんなん)察すべし。凡そ切樹の谷迄は二十里に及ぶ。多くは斷岸の、一步石を辷る時は千仭の底に落つる故に、通例の人は行到るべからず。强ひて用有りて行く人には、繩を以て結はへて、前後三十人許連ねて後(のち)進むべし。深淵の上を過ぐる所などは、目眩(くら)めき股(もも)震ひ、正しく立つ者は稀なり。滑川(なめりかは)河瀨屋何某、此伐木のことを司(つかさど)る。故に我そこにありて、よく伐木の事を聞けり。山怪多は獸に依ることを聞き得たり。常に言ふ、先(まづ)一(ひとつ)山向ひて初めて斧を入るゝ時は、俄に山谷鳴動して風雲忽ちに起り、又怪しき風吹落(ふきお)ちてすさまじ。然共、斧を揃へて切入(きりい)れば、此風雲止む谷もあり。又剛(つよ)き獸の居る谷は、風雲の起るのみか、人を取つて空中を投出(なげいだ)し、木を登る人を摑みて大地へ投下(なげおろ)し、甚だしく防ぎて谷へ入れず。此時は、其人數(にんず)の中(うち)、頭(かしら)立ちたる者十露盤(そろばん)[やぶちゃん注:算盤(そろばん)。]を以て此谷に向ひ、

『今年每に金何百兩を公納とす、山を切出(きりいだ)す人夫の雜用是々なり。若し此谷を切ずして、此公用濟むべき道やある。此谷を切盡しても猶足らざることかくかく』

と、大いに十露盤を鳴らし利害を說けば、其夜愁々として聲あり、風の初めて起るが如く、雨のしぐれて來るが如く、曉に至りて寂然たり。其翌日、斧を入るゝに、何の別條なし。凡そ山谷(さんこく)風を起し雲を起すは、皆古獸(こじう)のなす所なり。神靈・山神(やまのかみ)には非ず、狒々(ひひ)と云ふ。」

「狒々は猿に似て能く笑ふ。口びるそりて人の血を吸ふと聞く。」

是を以て尋ぬるに、皆合はず。此人の云ふ狒々はさるものにあらず。

「只狸(たぬき)に似て大なり。熊に似て黑からず。風雲を起すを以て見れば、虎の氣(き)あるものにや。曾て聞、去年正月【寶曆十四年の事なり。】松倉村の者、座主坊(ざしゆうばう)【里俗「座(ざ)すん坊(ばう)」と云ふ。】と云ふ所にて此狒々を捕へぬ。毛色茶にして斑紋あり。毛甚だ長く、尾(を)又(また)長うして身と等し。殺して長さを量るに一丈七尺あり。只風雲を覆ふが如き勢(いきほひ)あり。其頃繪に寫して其邊を賣り步行(あり)きしことあり、此ものなり。輙(たやす)くは殺すこと能はず。早くして電(いなづま)の如し」

と語りぬ。

[やぶちゃん注:「川道岨(そば)」川沿いの断崖。この場合は、表題に従うなら、黒部川に戻って、その上流となるが、しかし、黒部川沿いに室堂となると、上流から回り込んで、現在の雲切新道、或いはその先の現在の下廊下(しものろうか)から西に剱沢を詰める過酷なルートしか考えられない。しかしそれでは恐らく初日のアプローチで室堂には到底つけないし、黒部下流から測定すると「六里」どころか、八里は有にある。さすれば、この「川道岨」を「片側が崖になっている」という意で捉えて、後者の片貝川沿いだと考えると、水源である猫又山まで詰めてから、尾根伝いにブラクラ谷を下って馬場島(ばんばじま)に下り、そこから早月尾根を登って劔岳の直下を過ぎ、南西に室堂へ下ればよい(このコースの南半分は私も一度やっている)。このコースなら一日かければ室堂に着けるし、片貝川の下流付近から計測して「六里」は腑に落ちる距離である。サイト「YAMAKEI ONLINE」のこちらの地図でルートとコースが視認出来る。

「雪中といへども常に過ぐ」雪の季節であっても常にこのルートを採る。何故なら、寧ろ「絕壁」が「雪」で「埋んで」寧ろ「寒中」の方が「立山」は「登り」易いからだ、というのである。ここを伐採作業へ出発する際の基点としているらしい。

「切樹の谷迄は二十里に及ぶ」室堂を拠点にするとすれば、現在の黒部湖を挟んだ東西及びその黒部川の西南上流(現在の上廊下(かみのろうか))南北の谷辺りが目指す伐採樹林帯であったと考えてよかろう。

「滑川」富山県滑川市(グーグル・マップ・データ)。

「山へ向ひて初めて斧を入るゝ時は、俄に山谷鳴動して風雲忽ちに起り、又怪しき風吹落(ふきお)ちてすさまじ。然共、斧を揃へて切入れば、此風雲止む谷もあり」前者は各人がめいめい勝手に斧を入れると、必ずという条件であり、後者はそれぞれが各人の伐採しようとする木に対して、皆で一斉に合わせて斧を揮う時はという謂いであろう。

「十露盤」算盤(そろばん)。

「山神(やまのかみ)」狭義のそれではなく、広い意味の山にまします神・鬼神。

「狒々」中日の想像上の人型妖獣。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「狒狒(ひゝ)」には明の博物学者李時珍の「本草綱目」から以下のように引いている。 

   * 

「本綱」に、『狒狒は西南夷に出づ。狀、人のごとく、髮を被(かぶ)り、迅(とく)走りて人を食ふ。黑身、毛有り。人面にして、長き唇びる、反踵(はんしよう)。人を見れば、則ち、笑ふ。其の笑ふに、則ち、上唇、目を掩ふ。其の大なる者は、長(た)け、丈餘。宋、獠人(らうひと)、雌雄二頭を進む。其の面、人に似たりて、紅赤色。毛は獮猴に似て、尾、有り。人言を能(よ)くす。鳥の聲のごとし。善(よ)く生死を知り、力、千鈞(きん)[やぶちゃん注:「鈞」は目方の単位。1鈞=30 斤で、明代の1斤≒596.8gであるから、実に約17.9t!]を負ふ。踵(きびす)を反(そ)らし、膝無く、睡むる時は、則ち、物に倚(よ)りかゝる。人を獲り、則ち、先づ笑ひて、後、之を食ふ。獵人、因つて、竹筒を以つて臂を貫き、之れを誘ひて、其の笑ふ時を候(うか)がひ、手を抽(ひ)きいだし、錐(きり)を以つて其の唇を釘(う)つ。額に著け、死を候(うか)がひて、之れを取る。髮、極めて長し。頭髮(かもじ)に爲(つく)るべし。血は、靴及び緋を染むるに堪へたり。之を飮めば、人をして鬼を見せしむ。帝、乃ち工に命じて之を圖す。

   *

とある。図もあるので見られたい。また、私の訳注「耳囊 卷之九 奇頭の事」の私の注「狒猅」(ひひ)も参照されたい。 後にその正真の捕獲された形態が記されるが、実在を肯定する余地はおろか、モデルを考える気も起らぬ。なお、ここでは以下の「皆合はず」とか「此人の云ふ」が話し手の台詞のままではおかしな言い回しになるので、「狒々は猿に似て能く笑ふ。口びるそりて人の血を吸ふと聞く。」を筆者麦水の問いかけのブレイクとして入れ、「是を以て尋ぬるに、狒々はさるものにあらず」を地の文とした。

「寶曆十四年」一七六四年。

「松倉村」現在の当該地名は富山県中新川郡立山町松倉(グーグル・マップ・データ)。

「座主坊【里俗「座すん坊」と云ふ。】」現在は松倉地区の西南に立山町座主坊(ざしゅうぼう)(グーグル・マップ・データ)と独立してある。

「毛甚だ長く、尾又長うして身と等し。殺して長さを量るに一丈七尺あり」「一丈七尺」は5.15m。国書刊行会本では『毛甚(はなは)だ長く、尾又長ふして身とひとし。殺して長さをはかるに、長き事九尺、尾をのべて惣尺をはかるに一丈七尺となる』とある。「九尺」は272mで、尾と身が等しいは、まあ、誤差の範囲内である。

「風雲を覆ふが如き勢あり」たあ、どんなもんじゃい? その絵とやらを添えて欲しかったねぇ。]

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