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2020/04/15

三州奇談卷之五 井波松風

 

     井波松風

 越中井波の地は、加越の上流、里俗「川上」といふ。飛驒の境五箇(ごか)に接して水潔(きよ)く土淸(きよ)し。境内には高瀨の神社、八乙女山(やをとめやま)。庭鳥塚(にはとりづか)には元日に八聲(やごゑ)を告(つぐ)ると云ひ、「馬見井(むまみのゐ)」に井筒の胴に「臼浪水(きうらうすい)」の文字あり。元來此所「ムマミ」なるよし、今轉じて井波と云ふ。是より庄川に出(いづ)る間を「ぽんぽん野」と云ふ。蹈むに必ず皷(つづみ)の如き音あり。庄川は北陸第四の大川、水上(みなかみ)凡(およそ)四十里急流を下る。此所の境を靑島といふ。深峽の中を出で、初めて田野(でんや)に流れ、谷の氣此所に開く故、風の荒きこと他宿に十倍す。「井波の私風(わたくしかぜ)」と云ふは東南の暴風なり。時に非ずして起る故に、人家皆柱を堅くし、梁(うつばり)を太くす。屋の上には大なる石を置き、破風口(はふぐち)には皆網を懸けて巨木をまろばし橫たへ下(おろ)す。藁葺の家居(いへゐ)などは、猶更に用意逞しくして、見るもいぶせきに至る。只是れ人家のみにも非ず、天然の氣しかるにや、此地の草木も皆用意して生ず。必ず西北に枝をふり、根指し・樹莖甚だ逞まし。其上の半腹に「風穴(かざあな)」と云ふあり。大風は必ず此穴より出づると云ふ。試に石を落すに、忽ち吹返す。然共、是を考ふるに、此穴のみにも限らず、都(すべ)て岩の間・樹木の下、皆風を出ださゞるはなし。八乙女山は庄川を隔てゝ屛風の如し。故に土氣(どき)ぬけ、石只すはりて粕(かす)の如し。是れ爰にては、庄川の水氣(すゐき)ぬけ出(いづ)る所なるにや。「私風」の發する事、其謂れあり。されば夏のみにもあらざるにや、雨も又怪ありき。

[やぶちゃん注:「越中井波」現在の富山県南砺(なんと)市井波(グーグル・マップ・データ)附近の。

「五箇」富山県の南西端にある南砺市の旧平村・旧上平村・旧利賀村を合わせた地域を現在、「五箇山(ごかやま)」と呼んでいる。リンクは「歴史的行政区域データセット」のそれぞれの旧砺波郡内の村域で示した。全体としてはこの中央の南北に長い一帯(グーグル・マップ・データ)と考えて戴ければよろしい。隠田集落村で平家の落武者伝説がある。

「水潔(きよ)く土淸(きよ)し」「近世奇談全集」は前を『(いさぎよ)く』と訓じているが、私は採らない。寧ろ、漢字を変えてそれぞれの対象の質の違いを現わした以上、訓で変えるのは逆に対句にリズムを壊すと考えるからである。俳人である麦水は私の意見に肯じて呉れると思う。

「高瀨の神社」富山県南砺市高瀬にある高瀬神社(グーグル・マップ・データ)。越中国一宮。但し、越中国一宮を名乗る神社は他に気多神社(私の住んだ高岡市伏木にある)・射水神社(高岡市古城公園内にある)・雄山神社(立山を神体とする)がある。戦国時代には戦乱で荒廃したが、江戸時代になって加賀藩主前田氏の崇敬を受け、手厚く保護された。祭神は大己貴命(大国主命)。

「八乙女山」南砺市大谷にある八乙女山(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高七百五十六メートル。山頂近く(南へ約五百メートル入ったところ)に、大に風神堂(不吹(ふかん)堂)があり、その下に「風穴(かざあな)」があって(次の引用や後の注も必ず参照されたい)、里人はここからこの土地特有の「井波の私風」が噴き出ると信じていたのであった。毎年六月に、風を鎮め、豊作を祈願する「八乙女山風神堂祭典」が行われる。

「庭鳥塚」八乙女山山頂から直線で約六百六十二メートル南の尾根の途中に八乙女山鶏塚として現存する(グーグル・マップ・データ地形図)。二つの塚から成っているらしいが、画像が見当たらない(複数の登攀記録を見たが、どうも雑草が伸び放題で塚が孰れも隠れてしまって見えないらしい)。その南砺市教育委員会の「八乙女山鶏塚(やおとめとりづか)と風穴(かざあな)」という解説版をグーグル・マップ・データのサイド・パネルの写真から起こす。

   *

 井波地区は風が強く、人々は風穴から大風が吹き出すものと信じ、風神堂(不吹堂(ふかんどう))を建てて風神を祀ってきました。

 奈良時代に越前の僧、泰澄大師が八乙女山山麓に止観寺を建立した時、大風に悩む人々のために、風神堂を建てて風神を鎮めました。しかし数百年後、福光城主の石黒氏が試しに祠のしめ縄を切ったところ、たちまち大風が吹き始め、それ以来、毎年暴風が吹いて人々を苦しめました。瑞泉寺を開いた綽如上人は、人々の懇願によりお堂を再建してお経を納め、風の神を鎮めました。しかし上人の死後、落雷でお堂が消失したので再び暴風が吹くようになったと言います。

 風穴の近くに、円形の塚があります。この塚は元旦の朝に鶏[やぶちゃん注:「にわとり」。]の鳴き声がすることから、鶏塚と呼ばれるようになったと伝えています。芭蕉の弟子でもあった瑞泉寺11代目住職の浪化上人は『鶏塚の記』に、八乙女山に登り、風穴と鶏塚を訪れ、俳句を詠んだことを記しています。

 「鶏塚に 耳あててきく いとどかな」 浪化

   *

最後の句は表示板では『いとど(コオロギ)』となっているが、あまりに無粋(教育委員会の仕儀とも思われない)なので、丸括弧のそれを除去した。ここに出る綽如(しゃくにょ)は、南北朝時代の浄土真宗の僧で浄土真宗本願寺派第五世宗主・真宗大谷派第五代門首である。また、サイト「南砺市郷土Wiki」の院瀬見(井波)の前川正夫氏の「八乙女山の風穴と鶏塚」PDF)が読めるので、それも参照されたいが、それによると、泰澄がここへ来たのは養老元(七一七)年とあるが、南砺市志観寺(グーグル・マップ・データ航空写真)という地名は山麓にあるものの、今は寺(「止」と「志」の異同がある)はない。また、並んである鶏塚の大きさが書かれてあり、高さは二十七・二七メートル、周囲二十三・六三メートルの『島形の土盛り』とあり、これは相当でかい。前川氏は『逸話』として『大晦日になると鶏の鳴き声を聞こうと里人が大勢登ったという。この鶏塚に』は『黄金の雄鶏と雌鶏が埋められていて、やがて十二時』(午前零時)『を告げる麓の寺の鐘が鳴ると、鶏塚の何処からともなく「コケコッコー」と三声きこえてきた』ものであったと言い、人々は『これで今年も家内安全、お金がまた』、『たまると喜んで帰路に着いたといわれている』とあった。

「八聲」「八聲(やごゑ)の鳥(とり)」のこと。「八」は単に「多い」ことで、これで既に夜の明け方にしばしば何度も鳴く鶏(にわとり)のことを指す。

『「馬見井(むまみのゐ)」に井筒の胴に「臼浪水」の文字あり。元來此所「ムマミ」なるよし、今轉じて井波と云ふ』南砺市松島にある井波八幡宮(グーグル・マップ・データ)。瑞泉寺の東隣り。ご夫妻のサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「井波八幡宮」によれば、『この神社は井波城本丸跡に鎮座しています。井波城は「礪波城」「瑞泉寺城」ともいい、八乙女山の裾(標高143m)に築かれた平山城です。普通のお城と異なるのは、ここが越中一向一揆の総本山・瑞泉寺が築いた一向一揆宗徒の拠点となった城郭伽藍だったという点です』。『瑞泉寺3代蓮乗(本願寺8世蓮如の次男)の時代は、土豪や武士団との抗争が激しく、文明16年(1484)頃、本願寺は護法のため瑞泉寺の旧地に塁濠を築き、越中一向一揆の拠点とする城廊を構え井波城と称しました。天正9年(1581)、瑞泉寺7代顕秀のときに富山城主・佐々成政と戦い、堂舎・町屋ことごとく兵火に罹り落城しました。佐々成政は、井波城を大改修して家臣・前野小兵衛勝長を守将としましたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による越中・佐々征伐のとき、金沢城主・前田利家に攻められ』、『落城しました。井波城は前田氏の持城となり、やがて廃城となりました』。『現在、再建された瑞泉寺の東側にある井波八幡宮が本丸跡、その東側庭園のある臼浪水があり、更にその東側の招魂社の社殿が建つ古城公園が二の丸跡で』あるとあって、下方に写真とともに、「臼浪水」(きゅうろうすい)について、『臼浪水は、明徳元年(1390)そのころ杉谷の山里に住んでいた綽如上人が、京都へ向かう途中、乗っていた馬が足で地面をかいたところ、そこから清水が湧きでた跡と伝えられています。綽如上人は、この不思議さに感激し』、『この場所にお寺を建てました。後の瑞泉寺です。臼浪水は「馬見井」ともいわれています』とある。そこにある説明板を電子化しておく(ルビは一部を除いて省略した)。

   *

 この臼浪水は、瑞泉寺発祥の機縁となった霊水で、 本願寺五世綽如上人の勧進状に「此地に霊水あり、故に瑞泉寺と称す」とある。

 南北朝の頃、越中に真宗の拠点を求めて、この地を訪れていた綽如(しゃくにょ)上人に朝廷から上洛の要請があった。その上洛の途中、乗っていた馬の蹄先(ひづめさき)から清水がわき出した。これを寺院建立の趣意とした上人は、勧進状をしたため、人々の寄進で、この地に瑞泉寺を建立されたという。

 一向一揆の頃には、寺域一帯に土塁が築かれて要害の地となった。天保年間には、小庵と庭園が整えられた。

 ゆかりの臼浪水と、周辺の四季を通じての風情を尋ねて、多くの文人墨客が足跡を残した。安永の頃に訪れた伊勢の俳人三浦樗良(みうらちちょら)もその一人である。

  世に古りし すすきが中の 泉かな 樗良

   *

現在、井戸はあるが、井筒はない。

『是より庄川に出(いづ)る間を「ぽんぽん野」と云ふ。蹈むに必ず皷(つづみ)の如き音あり』井波八幡宮から庄川に出るには、砺波市庄川町(しょうがわまち)金屋(かなや)を通る(グーグル・マップ・データ)。サイト「砺波正倉」(となみしょうそう)のブログ「正倉日記」の「ぶらり庄川散歩シリーズ1」に、「ポンポン野」とあり、『庄川町から井波町へ続く道沿いに水田が広がっているところを「ポンポン野」といいます。瓜裂清水の眼下に広がる水田地帯のことです。なんとも可愛い響きの地名ですね』。『ポンポン野という地名は珍しいですし、その由来が知りたくなったので榎木淳一著『村々のおこりと地名』を紐解きました』。『ポンポン野は「鼓野」とも書くそうです』。『由来については「宝暦14年(1764)の『調書』に、「ぽんぽん野、金屋岩黒村領なり。何故に呼候や知れ申さず。」とあ』るされ、以下、「三州奇談」の本篇のこの部分を引かれておられる。『また、『東山見村史料』には「このところを一つに鼓野ともいわれ、もと川原であった。石などを落すと、ポンポンと鼓のような音を出すので、俗にポンポン野と呼ばれたものである。」と、かなり断定的に書かれています』。『はたして今、石を落してポンポンと鳴るでしょうか』? と擱筆されておられる。また、驚くべきことに、ごく最近まで正式な字名として生きていたことが判った! 平成 二五(二〇一三)年一月二十二日号外の『富山県報』PDF)の「都市計画の変更案の縦覧」の「2 都市計画を変更する土地の区域」の「変更する部分」に、『庄川町示野字ポンポン野』とあるのである。加賀藩治要資料にも、ここのことが『金屋岩黒村「ほんほん野」』と記されてあることが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらで判った。そうしてこれは私は「以前にTVで見た四国の太鼓坂と同じような現象ではないか?」と思ったのである。太鼓坂は四国の遍路道の一つで、かなり知られたもので、「阿波市観光協会」公式サイトの「太鼓坂」に、『地面をたたきつけるように踏むと「ドンドン」という太鼓をたたくような音がする太鼓坂。降り積もった火山灰と粘土層の間に水の通るすき間(空洞)があり、振動によって音がします』とあり、『【太鼓坂をうまく鳴らすコツ!】』として、『なるべく落ち葉がない場所を選ぶ』こと、『スニーカーなどの運動靴をはく』こと、『そして何より大事なのが』、『太鼓坂と共鳴すること』とある(地図もあり)。画像選択で地質学的な説明板も読めるので参照されたい。

「水上凡四十里」百五十七キロメートル。現在の庄川の延長距離は百十五キロメートル。

「靑島」富山県砺波市庄川町青島(グーグル・マップ・データ航空写真)。先の金屋の北西隣りで、まさに庄川が砺波平野にかかるトバ口に当たる。

「井波の私風(わたくしかぜ)」「わたしかぜ」でもよい。「井波風」「八乙女颪(おろし)」とも称されるという。二〇〇〇年一月発行の『歴史地理学』に載った大浦瑞代氏の論文「富山県南砺地域の不吹堂(ふかんどう)祭祀にみる局地風の認知」PDF)が素晴らしい。本篇も資料の一つとして紹介されてある。それによれば、「井波風」は局地性を持ったこの土地特有のものであること、それが「私風」という呼称に表わされてあるということが判り(コンマを読点に代えた)、「井波町史」では、『井波町を中心に八乙女山地の山麓沿い約6km・幅約3kmの範囲で特に「井波風」が強いとしており、駒澤大学による聞き取り調査』『でも、ほぼ同様の結果が示されている。「井波風」は「八乙女颪」とも称される。これは、井波町の住民が、町の南にそびえる八乙女山の方向から風が吹き下ろすと共通に認知したことにより付けられたものであろう』とあり、『「井波風」発生のメカニズムは、現在でこそ』地形や気象現象としての局地風発生として『明らかだが、かつては八乙女山山頂近くにある風穴から吹き出すとされていた』。『元禄期(1688~1704)に記されたという』「鶏塚の記」には『「八乙女山にのほりかつ風穴にいたる」とあり、この時期には既に風穴の存在が知られていたことがわかる』とあって、以下、「不吹堂(ふかんどう)」の祭祀が実に広範囲に行われていたことが立証されてゆくのである。

「破風口(はふぐち)には皆網を懸けて巨木をまろばし橫たへ下(おろ)す」ここは破風口(「梁(うつばり)」=棟木を風雨から守り、柱が露出して見えるのを隠すために普通はここに破風板という板をつけるが、その最も風雨の要めとなる部分に防護用の大きな網を掛け、それをずっと下まで垂らして、それがまた煽られてしまわないようにするため、下の地面に巨木を転がしてきて横たえ、それに網の下方の端を乗せて結わえて頑丈に固定することを言っているのであろう。

「根指し」根の生え方。

「土氣」「水氣」これは五行のそれを言っているように初めは思ったが、五行相克では「土剋水(どこくすい)」だから、合わない。ここは文字通り、庄川の「水(みず)」の気が、一気に狭い谷から、平地へと力強く噴き出すところであるが故に、「土」石が摩耗し、石は糟のようにつるつるにされ、粉にされてしまうのだと言っているように読める。]

 寶曆甲子の年七月下の七日[やぶちゃん注:七月二十七日。]、此地忽ち大雨ありて、盆を傾くる類ひには非ず、空に鳴戶(なると)の波を下(くだ)すが如し。其强き事譬ふるに物なし。板屋も薄き所は打破り、傘笠の類(たぐひ)只一打に破らる。此日は外々(ほかほか)は殊に晴天にして、空瑠璃の如し。井波のみ大雨なり。又大水出づ。此事近村へ告ぐるといへども、只(ただ)誠(まこと)とする所なし。福野・中田の邊(あたり)より是を望み見れば、此(この)八乙女山眞白にして、卯の花の暮、雪後のあしたの如く、此中に行通(ゆきかよ)ふ人音(ひとおと)・風聲、只「吳門(ごもん)の匹練(ひつれん)」とも云ひつべし。井波には俄に大水出で奔流となり、家は多く流れ、藏廩(ざうりん)はあばけ倒れ、溺沒する人數を知らず。然れども、數町流れ出づれば、靑天の所へ出で、田の疇(うね)・道の土手に流留(ながれとど)まり、皆々陸地に立つて、死に至る人は一人(いちにん)もなし。兒女は只黃泉(くわうせん)の思ひをなすが故に、近鄕の水難を訪(おとな)ふ人一笑せずといふ事なし。是等は谷氣(こくき)の含む所にや、其變(そのへん)計るべからざるもの多し。

[やぶちゃん注:「寶曆甲子のとし」おかしい。宝暦年間に甲子(きのえね)の年はない。宝暦四年甲戌(きのといぬ)(一七五四年)か、宝暦六年丙子(ひのえね)(一七五六年)か、或いは最後の宝暦十四年甲申(きのとさる)(一七六四年)か。但し、最後のそれは限りなくあり得ないと私は思う。何故なら、宝暦十四年六月二日(グレゴリオ暦一七六四年六月三十日)に――則ちこの日付以前に――既に明和に改元されてしまっているからである。孰れにせよ、干支を誤るのは致命的で、信憑性を台無しにし、実録怪談を成す筆者麦水としては、至って痛い誤謬である。

「福野」南砺市福野(グーグル・マップ・データ)。

「中田」高岡市中田か(同前)。八乙女山からは北北東に十五キロメートルほど離れるが、地図上を見ると、庄川沿いに遠望することは可能と思われる。

「行通ふ人音」四方八方へ逃げ惑う人々の立てる音。

「あした」翌朝。

「吳門の匹練」「匹練」は「一疋(布の二反分の長さ)の練(ね)り絹」というところまでは判ったが、不学にして全体が判らず、あれこれ検索して、やっとそれらしい意味を迂遠に見出した。まずは「國譯漢文大成 續 文學部第六册」(国民文庫刊行会編・昭和三年~同六年(一九二八年~一九三一年)刊・国立国会図書館デジタルコレクション)の「李太白集」の五言古詩「贈武十七諤幷序」(武十七諤(がく)に贈る 幷びに 序)の最初の二句を見て貰おう(久保天随氏の訳解)。

 馬如一匹練

 明日過吳門

  馬は一匹練(いつひつれん)のごとく

  明日は吳門を過ぐ

次のページをめくると、語釈と訳が出るが、『君の乘れる馬は、一匹の練絹(ねりぎぬ)の如く、その馳せて行く樣は、目に留まらぬ位で、明日は、吳門の地を過ぎ、次第に、北に向かって行く。』と訳されてあり、子を救って連れて帰ってほしい李白の意を汲んだ武諤が意気に感じていっさんに北に向けて馬を走らせることへの、恐るべきスピード感(想像であるが)をこの二句は現わしていることが判る。而して語釈では「馬如一匹練」に注して、『藝文類聚に「韓詩外傳に曰く顏囘、吳門を望み、一匹練を見る。孔子曰く、馬なりと。然らば、馬の光景は一匹の長さのみ、故に後人馬を呼んで一匹となす」とある』ことから完全に氷解した。――駿馬の走るのは恰も一条に延びた練り絹のように見せるほどの速さだ――というのである。されば、ここは、人々の騒ぎ立てる音声や風の音は、驚くべき旋風の中、稲光りのように奔(はし)ってはあっという間に消えてゆくというのであろう。

「藏廩」土蔵や米蔵(こめぐら)。

「あばけ倒れ」手のつけようがないほどに潰れたり、倒れたりし。

「數町」一町は百九メートルだから、六掛けで六百五十五メートル前後。

「黃泉の思ひ」あの世に行って帰ってきたような思いの意か。

「訪ふ人」井波地区外の近隣の者で見舞いに来た人々。

「谷氣」ここは谷間の潜む妖しい気、或いは魑魅(すだま)の類い。]

 金谷村より庄川に遡り行けば、マキと云ふ所に出づ。怪巖流れに橫はりて、水勢「巴(は)」の字をなす。是より上にも小マキと云ふあり。皆飛州[やぶちゃん注:飛驒國。]より伐下(きりおろ)す杉・檜の類(たぐひ)を爰にて留(とど)め、是より數(かず)を改め、筏(いかだ)に作りて、川口・六渡寺(ろくとじ)と云ふ迄九里の道を下す。猶此上には仙納原(せんなふはら)といふ「はね橋」あり。此上の山は則ち城端(じやうはな)の里に對し、赤治山と云ふ。此谷樹葉を結はへて打ちこめば、久しからずして石と變ず。

「是れ妙なり」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「金谷村」既出の砺波市庄川町金屋(かなや)

「マキ」『怪巖流れに橫はりて、水勢「巴(は)」の字をなす』「是より上にも小マキと云ふあり」現在の庄川町小牧地区内である(国土地理院図)。地形が叙述とよく一致する。

「川口」庄川右岸の射水市川口(グーグル・マップ・データ)であろう。

「六渡寺」射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称。現地の駅名標などでは「ろくどうじ」(現代仮名遣)が正しい。庄川河口である。昨年の春、私はここを訪れている。

「九里」庄川河口までは現在の庄川町小牧からは三十キロメートル以上は確かにある。

「仙納原といふはね橋あり」後身のそれが、利賀大橋(仙納原大橋)跡(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。「Stanford Digital Repository」の「八尾」の左下方に「仙納原」の地名が見える。現況写真や実地探査は個人サイト「山さ行かねが」のこちらがよい。往時の所謂「猿橋」型の古い画像は前に出した「砺波正倉」のこれがよい。なお、ここで言っている「刎橋」とは、両岸の岩盤に穴を開け、刎ね木を斜めに差込んで、中空に突き出させ、さらにその上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も繰り返し重ねて、中空に向けて遠くへ刎ね出し行って、足場に双方から連結した上部構造を組み上げた上で橋板を敷き、橋を冠せさせる、橋脚を立てずに架橋した橋を指す。ゴッホの刎ね橋とは違うのでご注意あれ。

「城端」南砺市城端(グーグル・マップ・データ)。

「赤治山」不詳。国書刊行会本では『赤渋山』。こちらの城端の「句碑巡り」PDF)に「城端十景」として「山」ではないが、「赤渋柴石(あかしぶしばいし)」が名数として挙げられおり、東西原赤祖父社(ひがしにしはらあかそぶしゃ)にそれがあるとある(グーグル・マップ・データ)。サイト「とやまの文化遺産」に「赤祖父石灰華生成地」があり、『東西原集落を流れる赤祖父川の上流に湧き出ている炭酸水のところにある。この水は、口に含むとすっぱく、湧き出ているところには灰白色または赤褐色の石灰華が沈んでいる。これは、白山火山に関係あると思われる炭酸ガスを含んだ地下水が、地中で石灰岩に出合って、少しずつ石灰を溶かし、やがて地表に湧き出ると、溶けていた炭酸ガスが逃げ出すために、溶けていた炭酸石灰が川底に沈んだものである。また、これが川に落ち、闊葉樹の葉やコケなどについて、その型を印したものは「木の葉石」と呼んでいる。近くには、この他に小さな洞窟や炭酸ガスが音をたてて、さかんに噴き出しているところもある。このような石灰華をつくる一連の現象を、貴重な資料として指定されたものである』とあった。これで奇怪な叙述である『此谷樹葉を結はへて打ちこめば、久しからずして石と變ず』という現象も科学的に理解出来た。さすれば、これは赤祖父山(グーグル・マップ・データ航空写真)の異名かも知れない。国書刊行会本の「赤渋山」を「あかしぶやま」と読むと、「あかそぶやま」と発音が酷似するからである。]

 山畔に繩池(なはがいけ)と云ふあり。指渡(さしわた)し二里許り。山は斜(ななめ)に登り坂なるに、此池二里が間、何れにても水は必ず岸をひたす。此(この)理(ことわり)解すべからず。人は云ふ、

「此地は俵藤太秀鄕近江より隨ひ來(きた)れる龍女を、此地に繩を圓(まる)く張り、其中に置かれしに、陷(おちい)りて池と成り、今猶龍女住みて、水渴することなし」

と云ふ。若(も)し鐵器の類(たぐひ)を池に投入るれば、忽ち國中黑闇(こくあん)となり、大風(たいふう)雨十餘日を經て止まず、田作・畑作微塵となる故に、里人大(おほい)に禁じて、猥(みだり)に池の邊(ほとり)へ人を入れず。强慾の商人は、米穀(べいこく)買置(かひおき)けるが爲に、此池にせんくづなど打込みて、大風雨を待つといふ。今猶靈驗顯然たり。是小矢部川(おやべがは)の水源なり。此地は五箇村の地に屬す。此村の中谷屋と云ふ人は、則ち俵藤太秀鄕の子孫と云ふ。此地へ下られしこと由緖あるにや。其證跡の眞實なる書き物、今に所持すと云ふ。

[やぶちゃん注:「繩池」南砺市北野の山中にある池。標高が千メートルに満たないのに(ここは八百メートル)ミズバショウに自生地であることで富みに知られる。私は高校時代に理科部生物班の生物観察(特に両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ科サンショウウオ属クロサンショウウオ Hynobius nigrescens)のために行ったことがある(演劇部と掛け持ちであった)。ウィキの「縄ヶ池」によれば、『平安朝の昔、俵藤太秀郷という武勇の誉れ高い武将がいた。ある時、近江国、勢田の橋に60メートルほどもある大蛇が横たわり、往来を妨げていた。そこへ通りかかった藤太は少しも恐れずに、大蛇を踏んで橋を渡った』。『その日の夜、美しい女がやってきて、「私は琵琶湖に住む竜神の化身です。今日あなたにお目にかかり、その豪胆さを見込んで、お願いに伺いました。三上山のムカデが、私の仲間を次々に食べてしまうので困っています。どうか退治してください」と話した。藤太は竜神の頼みを快く引き受け、すぐさま山に赴いて、五人張りの弓でムカデを射殺した。お礼にどんな願いでも叶えるという竜神の申し出に、藤太は城端の里を水不足から救うため、竜の子を貰うことにした』。『里に戻った藤太が、山中に掘った小さな穴に竜の子を入れ、縄を張りめぐらして祈ったところ、一夜のうちに池が湧き出し、その池が縄ヶ池であるという』とある。

「若(も)し鐵器の類(たぐひ)を池に投入るれば、忽ち國中黑闇(こくあん)となり、大風(たいふう)雨十餘日を經て止まず、田作・畑作微塵となる故に、里人大(おほい)に禁じて、猥(みだり)に池の邊(ほとり)へ人を入れず。强慾の商人は、米穀買置けるが爲に、此池にせんくずなど打込みて、大風雨を待つといふ」「せんくづ」は「銑屑」で鉄の削り屑のこと。この話、先の「風穴」と絡めて「譚海 卷之二 越中風俗の事」(私の電子化注)に出る。……しかしこれ、どこかの政治家が、今、現に自分の国にやっていることと全く同じだという気が私はしてする。

 五箇村といふは、加賀藩の罪人を謫居(たくきよ)せらるゝの地にして、西方は白山の麓に迫り、地獄谷に境ひし、東北長き事二十里餘、地飛越(とびこし)に挾まれり。五十七ヶ村あり。里々の間、皆多く籠の渡しなり。何れも消魂(せうこん)せずといふことなし。往古は此地諸州に屬せず。中昔小松黃門利常公、初めて十村を置きて我が郡に屬隸(ぞくれい)す。飛驒高山を御預りし後、彌々(いよいよ)五箇庄(ごかのしやう)我が郡に屬せり。山中の怪巖・巨木、誠に胡地(こち)の看(かん)をなすこと多しと云ふ。

[やぶちゃん注:「五箇村といふは、加賀藩の罪人を謫居せらるゝの地」五箇山は第二代藩主利常の後の、第四代藩主前田綱紀の治世であった、元禄三(一六九〇)年から加賀藩の正式な流刑地となっている。「中日新聞」公式サイト内の「遺構 罪人の歴史語る 五箇山の流刑小屋」という記事に、『不正を働いた武士や政治犯など、一六六七年から廃藩となる明治維新までの約二百年間で計百五十人がいくつかの集落に流された。特に罪の重い者は、この田向の流刑小屋に投獄された』とあり、復元された流刑小屋の写真が見られる。なお、裏で加賀藩は、この五箇山で鉄砲用の塩硝や黒色火薬を精製し調達していた。これはあまり知られえていないと思われるので附記しておく。

「地獄谷」サイト「YamaReco」の「白山(地獄谷から)で位置が確認出来る。白水湖の西の谷である(但し、標高は千五百メートルもある)。

「籠の渡し」所謂、「野猿(やえん」」のこと。川の相応の高さの両岸から張られた繩にぶら下がり(ここにあるような「籠」や小屋型の乗り物の場合もある)、自力で引き綱を手繰り寄せて進み、川を渡る原始的で危険な渡渉装置。

「消魂(せうこん)せずといふことなし」(野猿の渡しの恐るべき危うさを初めて見る人は)魂消(たまげ)ることがないことはあり得ない。

「胡地」未開の地。野蛮な民の土地。]

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