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2020/04/16

三州奇談卷之五 妬氣成ㇾ靈

 

    妬氣成ㇾ靈

 越中婦負(ねひ)郡吳服村【今は五福村と云へり。】吳羽(くれは)の宮は、神名婦倉媛命(あねくらひめのみこと)と云ひ、能登の國の能登彥神の婦なり。一日(いちじつ)婦倉媛、織をなすとて、此「くれは村」に飛び給ふ。能登彥の神、其隙を窺ひて、能登媛の神を迎へて後妻となす。婦倉媛怒りて、越中新川郡上野村に出で、能登彥の社地に向て石を投げ、終に

「石を投げ盡せり」

とて、上野村一鄕今に石なし。其神今は同郡の内(うち)舟藏村に鎭(ちん)し給ふ。織を業(なりはひ)となす者、皆此社に詣するに、祈るに時に必(かならず)驗(しる)しあり。「さいみ布」を切りて團子を包みて祭禮をなす。土俗「ひへこ祭」と云ふ。「あんねん坊」の下吳服村にも此祭あり。兩社式相似たりとぞ。此等は神の妬氣(とき)なるべし。吳服村は則ち富山神通川の邊り、「あんねん坊」の麓なり。

[やぶちゃん注:表題は「妬氣(とき)、靈(れい)と成る」。

「越中婦負郡吳服村【今は五福村と云へり。】吳羽(くれは)の宮」「吳服村」富山県富山市呉羽姫本に姉倉比売神社(呉羽)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。富山市五福はその南東直近の神通川左岸である(但し、ここにある旧「吳服村」はこれで「くらはむら」と読んだという資料もある)。ウィキの「姉倉比売神社」によれば、富山市内には同名の神社が二社あり、今一つは富山市(旧大沢野町)舟倉であるが、こちらが後の「其神今は同郡の内(うち)舟藏村に鎭(ちん)し給ふ」というのと一致する。孰れも姉倉比売神(あねくらひめのかみ)を祀る。『両社の社伝を総合すると、姉倉比売神は一帯の賊を征伐して、船倉山に居を構えて統治し、地元民に農耕、養蚕、機織などを広めた。「泉達録」では、姉倉比売神は能登の伊須流伎比古神』(いするぎひこがみ:伊須流岐比古神社(石川県鹿島郡中能登町にある)の祭神)『と夫婦であったが、伊須流伎比古神は仙木山の能登比咩神』(のとひめのかみ)『(能登比咩神社の祭神)と契りを交わしてしまった。怒った姉倉比売神は船倉山の石を投げつくして能登比咩神を攻撃し、姉倉比売神の妹の布倉比売神』(ぬのくらひめがみ)『もそれに加勢し、高志国』(こしのくに:「古事記」の標字。「日本書紀」は「越」。本来は現在の福井県から新潟県・山形県の辺りまで広がる広大な地域の通称であったが、後に富山の呼称となった)『は大乱となった。出雲の大己貴命』(おおなむちのみこと:大国主の別名)『が高御産巣日神』(たかみむすびのかみ)『の命によって高志国に赴き、集まった五柱の神々と共にその乱を鎮圧した。姉倉比売神は混乱を引き起こした罰として、領地を没収されて呉羽小竹』(姉倉比売神社(呉羽)直近の旧地名)『に流され、土地の女性たちに機織を教えるよう命じられたという。布倉比売神も同様の罰を負った。また、大己貴命達は残った二神を攻め上げ、最後は伊須流伎比古神と能登比咩神を浜辺で処罰した』とあり、旧郡名『「婦負郡」』(ねいぐん)『という地名は姉倉比売神にちなむものであり、「呉羽」の地名も機織に関係のあるものである』とする。【2020年7月4日追記】「呉羽観光協会」の「呉羽丘陵とその周辺 ぶらりみどころ」(PDF)の『「呉羽」の地名の起こり』によれば(段落を繋げた)、『江戸時代に書かれた『越中志徴』には、呉羽山の山名は機織業を伝えた渡来人クレハトリに由来すると書かれている。呉羽駅(旧 JR 北陸本線呉羽駅、平成27年3月14日より北陸新幹線 長野・金沢間の開業に伴い「あいの風とやま鉄道」へ移行)の南方に姉倉比賣神社が鎮座するが、祭神の姉倉比賣は機織の神でクレハトリ伝承とかかわりがあるとされている。『源平盛衰記』巻28に、寿永2年(1183)木曽義仲の武将今井兼平の軍勢が「御服山」に陣取ったとある。この場合、クレハトリに呉服の字があてられ、これが音読されてゴフクとなり、さらに御服、五福などの字が宛てられるようになったと考えられる。天明3年(1783)以前に書かれた堀麦水の『三州奇談』に「くれはの宮」と記されているのがクレハでの文献初出である』とあった。

「越中新川郡上野村」富山市上野。二社のほぼ中間点に当たる。

「上野村一鄕今に石なし」本当にそうかどうかは私の関知するところではない。

「さいみ布」「さよみぬの」の音変化。もとはシナノキ(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica。「科の木」「級の木」「榀の木」と表記する日本特産種。長野県の古名の信濃は、古くは「科野」と記したが、それはこのシナノキを多く産出したからだともされる)の皮を細く紡いで織った布を指し、古くは調として上納された。後に織り目の粗い麻布を指すようになり、夏衣や蚊帳などに用いた。

「ひへこ祭」不詳。国書刊行会本と「加越能三州奇談」では『ひへご祭』とする。両姉倉比売神社の公式サイトや記載を見ても、この名の祭りは記されていない。識者の御教授を乞う。

「あんねん坊」先に示した富山市五福の北西部は呉羽山丘陵で、そこを越えたところに呉羽の姉倉比売神社はあるが、よく見ると、五福地区から呉羽丘陵の東側一帯に「安養坊」(グーグル・マップ・データ航空写真)という地名が見出せる。]

 此邊りに、「ぶらり火」といふ燐火あり。此謂(いは)れを聞くに、是も妬氣の靈なりとかや。往昔佐々内藏助成政、此富山に守護たるの時、一人の愛妾あり、名を「さゆり」と云ふ[やぶちゃん注:国書刊行会本では「さゆり」を『さより』とし、ここに割注して『早百合(サユリ)成(なる)べし』とある。]。或年懷孕(くわいよう)す[やぶちゃん注:妊娠した。]。別妾の嫉妬より、

「小扈從(ここしやう)竹澤某と密通して產ましむる所なり」

と讒言する故に、内藏助成政大(おほい)に怒る。

 是又由緣あり。

 過ぎし年、佐々成政、織田信雄公に同意して、天下を謀らんと思ひ立ち、義氣盛んにして、北國雪風の烈しきを少しも恐れず、有合(ありあ)ふ所の近習五六十人を引いて、立山の傍を無理に押通り、道もなき山路を凌(しの)ぎて越ゆと云ふ[やぶちゃん注:国書刊行会本では『路もなき山路を凌(しの)ぎて駿河に至り、終(つひ)に志を物して帰る。世に是を「佐々がさらさら越」と云(いふ)。』とある。]。此時しも小扈從組の中(うち)竹澤某一人は

「病氣なり」

とて隨はず。故に詞には云ひ出さずといへども、佐々常に疑ふ。

 是に依りて此讒言を、

「大いに誠なり」

とし、其事實を匡(ただ)すにも至らず、竹澤某を庭前に呼出(よびい)だし、自ら佩(は)ける三尺二寸[やぶちゃん注:ほぼ九十七センチメートル。非常に長い。]の「靑江の刀」を取りて、一打(ひとうち)に切殺し、直(すぐ)に廣式(ひろしき)に駈け入り、「さゆり」が長(た)けなる髮を手に卷きて引さげ出で、此神通川の河側(かはぞひ)に駈け出で、「さゆり」が髮を逆手に取て、中(なか)に引さげ、さげ切りに切つて落し、川そばに柳の枝のたれ下(さが)りたりしに黑髮結びて首をくゝりさげ、其傍らに於て、「さゆり」が一類十八人を悉く獄門に爲す。一類皆無實の事を怒り、詈(ののし)りて死す。「さゆり」も又大に恨み、齒を嚙み碎きて終に死につく。

 是より成政が威風又振はず。總(すべ)て神通川を越え、アンネン坊を越ゆる軍(いくさ)には一度も利あることなし。末森の城責(しろぜめ)などは、佐々久しく練りたる謀(はかりごと)なれば、城の二つ三つはいかなりとも落すべきことなるに、何の仕出したることもなく、加州の先君利家公並に村井・奥村が鉾先(ほこさき)に追ひ崩され、すごすごと歸城す。

 是れ全く彼(かの)「さゆり」が一念障碍をなすが爲なりと云ふ。

 佐々なすこと皆時を得ず、終に家亡ぶ。

 佐々聚樂[やぶちゃん注:聚楽第。]にて黑百合が爲に讒(ざん)を請け、尼ヶ崎に死す。皆此靈なり。

 其後年久しうして、富山は加州侯の屬地となりて、猶「さゆり」が執念此川の邊(あた)りに殘る。

 時として天氣朦々(まうまう)たる[やぶちゃん注:霧・煙・埃などが立ちこめるさま。]の時は、此あたりに獄門の首多く並ぶを見ると云ふ。

 又暗夜に此地にて、

「さゆりさゆり」

と呼ぶ時は、必ず女の首顯(あらは)れ出づと云ふ。

 今は年久しうして、其事甚だ少なしといへども、「ぶらり火」に至りては今も夜々に出づ。其形(かた)ち女の首を髮を取りて引さげたる有樣に似たり。

 此川下を百塚と云ふ。上古墳墓の地なり。故に妖怪も又多かりしが、今は國君の菩提所となりて、千萬の石燈籠光り赫々(かくかく)として空・山に滿ち、朝暮讀經の聲絕えず、上求菩提(じやうぐぼだい)の道明らかなれば、妖怪の事は頓(と)みに去りて、淸淨の靈場と變じたりしとぞ。

[やぶちゃん注:『「ぶらり火」といふ燐火』ウィキの「ぶらり火」の「類話」パートは本話の伝承をメインにして記されてある。『ふらり火の類話として、富山県富山市磯部町の神通川流域の磯部堤で明治初期まで現れていた「ぶらり火」の伝説がある』。『天正年間』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年)、『富山城主の佐々成政に早百合という妾がいた。早百合は大変美しく、成政から寵愛をうけていたため、奥女中たちから疎まれていた。あるとき、奥女中たちは早百合が成政以外の男と密通していると讒言した。成政はこれを真に受け、愛憎のあまり早百合を殺し、磯部堤で木に吊り下げてバラバラに切り裂いた。さらには早百合の一族までも同罪として処刑されることになった。無実の罪で殺されることになった一族計』十八『人は、成政を呪いつつ死んでいった』。『以来、毎晩のようにこの地には「ぶらり火」または「早百合火」と呼ばれる怪火が現れ、「早百合、早百合」と声をかけると、女の生首が髪を振り乱しながら怨めしそうに現れたという』。『また佐々氏は後に豊臣秀吉に敗れるが、これも早百合の怨霊の仕業と伝えられている』とある。ここに出る富山市磯部町はここで、先の五福地区に近い(対岸の少し上流)。

「佐々内藏助成政」(さっさ くらのすけ なりまさ 天文五(一五三六)年(天文八(一五三九)年説もあり)~天正一六(一五八八)年)は安土桃山時代の武将。成宗(盛政)の第五子。通称は与左衛門・内蔵助・陸奥守。尾張国出身で織田信長に仕えた。信長が弟信行を攻めた「稲生合戦」や「桶狭間の戦い」・「美濃経略」などに於いて戦功を挙げ、永禄一〇(一五六七)年には黒母衣(くろほろ)衆筆頭となる(馬廻衆から選抜された信長直属の使番(親衛隊)で「黒母衣衆」と「赤母衣衆」があった)。天正元(一五七三)年には朝倉義景攻めの先陣を務め、同三年五月の「長篠の戦い」ではかの鉄砲隊を指揮した。同八月、越前一向一揆平定の功により、越前府中上二郡を与えられる。同八年、越中に入国して守山城に拠る。翌九年越中新川・礪波両郡三万石を与えられ、同十年には神保長住を追放して富山城に入り、越中一国を支配するに至った。その頃には越前の柴田勝家の与力であったため、「本能寺の変」後は反豊臣秀吉陣営に組したが、同十一年の「賤ケ岳の戦い」の後、秀吉に降伏し、秀吉よりやはり越中一国を安堵され、同十二月には従五位下陸奥守に叙任された。しかし、間もなく織田信雄・徳川家康に接近して、同十二年の「小牧・長久手の戦い」に際しては、秀吉との和議を不満とし、家康に会うため、ここに出る通り、富山から立山連峰「更更越(さらさらごえ)」で浜松に赴いた(但し、ウィキの「佐々成政」の注によれば、「更々越え」の『ルートを巡っては、上杉景勝の家臣から密かに助力を得て越後を通過したことを示唆する書状も存在』し、『た、当時の成政が若くても』四十九『歳ほどの年齢であったことや、文献、史料などから、実際には立山連峰を超えたのではなく、別の安全な道を通ったとする意見を唱える者もいる』とある)。しかしその後、同十三年八月に秀吉の征討を受け、降伏、再び臣従を誓った。同十四年、従四位下侍従に叙任。同十五年には秀吉の九州征討に従軍し、戦後に肥後一国を与えられ、宇土城、次いで隈本城に入ったが、国人一揆の蜂起により、失政の咎を受け、翌年、摂津尼崎で切腹した(ここまでの主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「佐々成政」の「黒百合伝説」には、彼には『「早百合(さゆり)」と言う美しい側室がいたとされる。成政はこの早百合を深く寵愛してはばからず、早百合は懐妊する。それが嫉妬を呼んだか、ある時』、『成政が城を留守にした時に、「早百合が密通している。お腹の中にいる子どもは成政様の子ではない」と言う噂が流れた。帰城した成政はこれを聞いて烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿いまで引きずり、髪を逆手に取り宙に引き上げ、殺してしまった。それだけでなく、早百合の一族』十八『人全ての首をはね、獄門に磔にしてしまう。早百合は死ぬとき、「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」(『絵本太閤記』)と叫んだ。また、早百合姫は「立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡する」と呪いの言葉を残して死んだとも言う(黒百合伝説)。佐々瑞雄(成政の甥である佐々直勝の子孫)によると、母に「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません」と言われていたという』。『早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといい、それを「ぶらり火」と言った。その他にも無念の死を遂げた早百合にまつわる話は数多く残されている。この話以外にも、数多の真偽不明な逸話が残されている。また、成政失脚の一端となったと言われる黒ユリ伝説がある。秀吉の正室・北ノ政所は珍花とされる黒ユリを成政から贈られ、披露のため茶会を開くと、淀君は大量の黒ユリを急遽取り寄せ、珍しくもなんともないと言わ言わんばかりに飾ってみせ、北ノ政所は恥をかかされたと成政を憎んだという(司馬遼太郎は時代的に見て淀君の下りはのちに付け足されたものだろうとしている)』とある。同ウィキの『佐々成政の愛妾・早百合姫がその下で斬られたと伝わる「磯部の一本榎」跡(富山県富山市磯部町)』というキャプションの写真をリンクさせておく。

「靑江の刀」「靑江」は備中国青江(現在の岡山県倉敷市)の日本刀刀工一派。平安末期に始まり、鎌倉・南北朝時代に栄えたが、室町時代には衰退した。

「廣式」武家の奥向きの称。

「長(た)けなる」長い。

「黑髮結びて首をくゝりさげ」の時点で小百合の首は斬られている。されば、直後の『「さゆり」も又大に恨み、齒を嚙み碎きて終に死につく』というのは、斬った生首がそうしたということになる。事実としての不審よりも遙かに怪談として慄然としていい。

「末森の城責」天正一二(一五八四)年の夏頃に佐々が秀吉を裏切り、徳川家康・織田信雄方に組して、秀吉方に立った利家の末森城を攻撃した「末森城の戦い」。ウィキの「末森城の戦い」によれば、天正十二年九月九日(一五八四年十月十二日)に発生した、能登国末森城(現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ほうだつしみずちょう))で行われた攻城戦。同年、『羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が小牧長久手の地で対峙した。それに呼応し、織田・徳川連合軍に味方した越中国の佐々成政は』、八月二十八日に『羽柴方の前田利家の朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)を急襲』したが、『前田家家臣の』村井長頼が『これを撃退する』。九月九日、『成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断をはかるべく、宝達山を越えて坪山砦に布陣し、総勢』一万五千(或いは一万二千)の兵で『末森城を包囲』し、『利家の増援軍を警戒し、神保氏張を北川尻に置いて警戒にあたらせた』。九月十日、『戦闘が始まると城将』奥村永福(ながとみ)や『千秋範昌らの』千五百名の兵が籠城戦を展開した。当初、『戦況は佐々軍が有利であり、前田方の城代土肥次茂(土肥親真の弟)が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれ』た。『金沢城にて急報を聞いた前田利家は兵』二千五百を『率いて出陣。高松村(かほく市)の農民桜井三郎左衛門の案内により、佐々軍の手薄な海岸路に沿いながら北川尻を越えて今浜まで進軍』、翌十一日の『明け方には末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃し、これを破った。両軍ともに』七百五十『人余りの死者が出たとされる』。『佐々成政は越中国に向けて退却するが、途中で無人であった鳥越城(石川県河北郡津幡町七黒)を占領し』たものの、『以降、成政は守備を固めて守勢に転じた。前田利家は領国の防衛に成功し』、「小牧・長久手の戦い」で『政治的勝利を収めた羽柴秀吉と協力し』、『攻勢を強めていく』ことになる。

「村井・奥村」前注の太字傍線参照。

「百塚」富山市百塚。縄文後期後半から晩期に栄えた集落で、発掘調査では縄文晩期(約二千七百年前)の遺構(土坑)が五基、弥生から古墳時代の墳墓を二十五基検出している。サイト「富山市の遺跡を訪ねてみませんか?」の「百塚遺跡」に拠った。実は、姉倉比売神社(呉羽)自体が古墳の上に建てられてあるのである。

「今は國君の菩提所」百塚の南西直近に曹洞宗長岡山御廟真国寺があり、この寺は延宝三(一六七五)年、富山藩主前田公の廟所である長岡御廟の「守り役」として建立されたものである。「真国寺」公式サイトの「長岡御廟」によれば、この御廟はその前年延宝二で、『反魂丹(はんごんたん)で有名な越中売薬の始祖、富山藩二代藩主前田正甫(まさとし)が父の初代藩主利次の霊をここに弔ったのが始まり』であったとして、以下、その詳しい経緯が記されてあり『富山藩は』『後、明治維新まで十三代二百二十一年間にわたって続いたが、廟所には初代利次公の墓を囲むようにして、正甫、利興、利隆、利幸、利與、利久、利謙、利幹、利保、利友、利聲、の十二人の藩主、それに子供や側室方ら一族の墓がつぎつぎつくられた。藩主の埋葬のつど、家老をはじめ藩の重役たちが、墓のまわりに』燈籠『を奉納』、『その数、実に五百三十七』基とある。

「上求菩提」菩薩が自身の完全な仏の境界を求めること。反対語は「下化衆生」(げけしゅじょう)で、生を受けたもの総てを教化(きょうげ)し、救済すること。菩薩が利他の行として行なうもので「下化冥暗」(げけめいあん)とも呼ぶ。

 なお、この話、本「三州奇談」続編の中の「龜祭の紀譚」と「靈社の御蟹」をカップリングしたものをアレンジした田中貢太郎の怪談小説「放生津物語」(「日本怪談全集」(昭和九(一九三四)年改造社刊)の第四巻所収)の冒頭に枕として使われている。私は一九九五年国書刊行会刊「日本怪談大全」第五巻(新字新仮名)で読んだが、幸い、「青空文庫」のこちらで電子化されている(底本は異なるが、親本は同一)ので是非、読まれたい。]

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