石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) ほととぎす
ほととぎす
(甲辰六月九日、
夏の小雨の凉けき禪房の窓に、
白蘋の花など浮べたる水鉢を置きつつ、
岩野泡鳴兄へ文を認めぬ。 時に聲あり、
彷彿として愁心一味の調を傳へ來る。 屋
後の森に杜鵑の啼く也。 乃ち
匆々として文の中に記し送りける。)
若き身ひとり靜かに凭る窓の
細雨(ほそあめ)、夢の樹影(こかげ)の雫(しづく)やも。
雫にぬれて今啼(な)く、古(いにし)への
ながきほろびの夢呼(よ)ぶほととぎす。
おお我が小鳥、ひねもす汝(な)が歌ふ
哀歌(あいか)にこもれ、いのちの高き聲。──
そよ、我がわかき嘆きと矜(たか)ぶりの
つきぬ源、勇みとたたかひの
糧(かて)にしあれば、汝(な)が歌、我が叫び、
これよ、相似る『愁(うれい)』の兄弟(はらから)ぞ。
愁ひの力(ちから)、(おもへば、わがいのち)
黃金(こがね)の歌の鎖(くさり)とたえせねば、
ほろべる夢も詩人の嘆きには
あらたに生(い)きぬ。愁よ驕(ほこ)りなる。
*
ほととぎす
(甲辰六月九日、
夏の小雨の凉けき禪房の窓に、
白蘋の花など浮べたる水鉢を置きつつ、
岩野泡鳴兄へ文を認めぬ。 時に聲あり、
彷彿として愁心一味の調を傳へ來る。 屋
後の森に杜鵑の啼く也。 乃ち
匆々として文の中に記し送りける。)
若き身ひとり靜かに凭る窓の
細雨(ほそあめ)、夢の樹影(こかげ)の雫やも。
雫にぬれて今啼く、古への
ながきほろびの夢呼ぶほととぎす。
おお我が小鳥、ひねもす汝(な)が歌ふ
哀歌にこもれ、いのちの高き聲。──
そよ、我がわかき嘆きと矜(たか)ぶりの
つきぬ源、勇みとたたかひの
糧にしあれば、汝が歌、我が叫び、
これよ、相似る『愁(うれい)』の兄弟(はらから)ぞ。
愁ひの力、(おもへば、わがいのち)
黃金(こがね)の歌の鎖とたえせねば、
ほろべる夢も詩人の嘆きには
あらたに生きぬ。愁よ驕(ほこ)りなる。
[やぶちゃん注:添え書きは下まで続いて改行して二行であるが、ブラウザの不具合と、句点の後の字空けの見た目を再現することを考慮して、かく不揃いで改行した。「うれい」はママ。本篇は本詩集が初出である。
「甲辰」(きのえたつ)は明治三七(一九〇四)年。
「禪房」啄木が育った、父一禎が住職であった渋民村の曹洞宗宝徳寺(父が宗費百三十円余の滞納のために曹洞宗宗務院より住職罷免処分を受けるのはこの年の年末の十二月二十六日のことである)。
「白蘋」これは本来は池沼や水田などに生える多年草の水生シダ植物(水生のそれは非常に稀である)である田字草(でんじそう:シダ植物門シダ綱デンジソウ目デンジソウ科デンジソウ属デンジソウ Marsilea quadrifolia(マルシリア・クゥアドリフォリア))の異名である(和名は四枚の葉が放射状に広がる形を「田」の字に見立てたことに由り、英名は文字通りウォーター・クローバー(water clover)である)が、本種はシダ植物で花は咲かないから、啄木の言っている「白蘋」はデンジソウではない。近藤典彦氏のブログ「啄木の息」の『啄木の雅号「白蘋(はくひん)」』によれば、『石川一は「啄木」の前に「白蘋(はくひん)」という雅号を用いていました。盛岡中学四年生終わりの満十六歳から、天才詩人として鉄幹・晶子の雑誌「明星」(1903年12月)にデビューするまでの約一年八カ月です』。『さてこの「白蘋」がどんな花なのか。実はよく分かりません。手許の漢和辞典によると、「蘋」は浮き草・水草のたぐいです』。『しかし啄木は、宝徳寺近くの用水池の堤に咲く白い夏の花だと言います。それは「堤」に咲くのだから浮き草・水草のたぐいつまり「蘋」ではないでしょう』と述べておられる。六月初めに開花しており、しかも夏まで咲き続ける、水鉢に浮かべて賞翫するに足る相応に大きな花を咲かせる水生植物となると、限られてくる。私の好きな菱(フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica)は花は白いが、小さ過ぎて浮かべるに適さない。蓮(ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera)が真っ先に浮かぶが、時期が早過ぎるし、白色の蓮の花なら「白蓮」と書くだろう。とすれば、私は一種しかないと思う。則ち、本邦に自生するただ一種の「睡蓮」であるスイレン目スイレン科スイレン属ヒツジグサ Nymphaea tetragona である。花の大きさは3cmから4cmで、萼片は4枚、花弁が10枚ほどの白い花を咲かせる。花期は6月から11月までと啄木の語る条件を総てカバーする。『「睡蓮」なら「睡蓮」と呼ぶはずだ』とするなら、単子葉植物綱オモダカ目トチカガミ科トチカガミ属トチカガミ Hydrocharis dubia がある。実は中文サイトを見ると、本種を「白蘋」と記す記事が見られるのである。但し、本種の白花の開花期は8月から10月で、花も小さく、水鉢に浮かべるには私は難があると思う。近藤氏の「用水池の堤」という表現も「堤」を池の「堤」部分と採らず、屋上屋ではあるが「用水用の溜池」の意とすれば、何ら問題ない。私は「~の堤」と言うと、池沼の堤防部ではなく、池沼全体を指すのに用いるし、私が中高時代を過ごした富山では、誰もが中小型のそれは「池」と呼ばず、「~の堤」と呼んでいるからである。
「岩野泡鳴」(明治四(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)は兵庫の淡路島生まれの詩人・小説家・評論家。本名は美衛(よしえ)。浪漫詩人として詩集「悲恋悲歌」(明治三八(一九〇五)年)などを出したが、明治三九(一九〇六)年に代表的評論「神秘的半獣主義」を発表し、田山花袋の〈平面描写論〉に対して〈一元描写論〉を主張し、小説に転じ、明治四二(一九〇九)年の小説「耽溺」を以って自然主義作家として認められた。代表作は長編五部作「放浪」・「断橋」・「発展」・「毒薬を飲む女」・「憑物」。この当時は東京「の大倉商業学校で英語を教えつつ『明星』などに詩を発表、この後の明治三十七年十二月に第二詩集「夕潮」を刊行している。当時、三十一歲(啄木は十九)。 なお、この書簡は全集には所収せず、現存しないようである。]
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