早川孝太郎「猪・鹿・狸」 跋 + 目次 / 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 全電子化注~了
跋
えて冬に有がちな天候であつた。夏分にあるアブラ日と云ふのとも異つて、ドンヨリ落付いて、晴とも曇とも、境目の判らぬやうな空合である。かうした日に限つて、物の隈がはつきり浮いて、遠くの山の木の葉も、一枚一枚算へられる。大小樣々の恰好をした山のツルネに圍まれた中は、丸で水の底のやうな靜けさを保つて、次の瞬間に、何事か待ち受けてゞも居さうな一刻である。
[やぶちゃん注:「えて」「得て」。「得てして」の意。ある様態になりそうな傾向のあるさま。ややもすると。ともすると。
「アブラ日」油を流したように風のない日のことか。
「空合」「そらあひ」。空模様。
「ツルネ」所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」によれば、『連峰のこと。山』の脊梁『線が著しい高低なしに続いている地形』で、『峰、連峰、峰から峰へ続く脊梁、ツンネとも尾根ともいう』とあり、使用地域の中に愛知を挙げている。]
かうした折であつた。體中の血も暫く流れを止めたやうに、懶くて、肉體が表面から段々ぼかされて溶けて、まわりの空氣から土の中へ沁み込んででもゆくやうである。何處か斯う、地の果からでも湧いて來るらしい、幽かな喧燥が、次々に漂つて來た、それが一度、肉體の何處かに觸れたと思ふと、忽ち異常な緊張が蘇つて來る。それが何であるか說明は出來ぬが、アツ何處かで猪を追(ほ)つて居る、と口の端へはもう出て來たのである。凝と耳を澄すと、如何にも何處かでホイホイと掛聲がする、キヤンキヤンと細い犬の鳴聲も聽へる。成程猪追ひらしい、軈てそれ等の響が、次第に近づいてはつきりして來る。風が峯を渡つて來るやうだ。
[やぶちゃん注:「懶くて」「ものうくて」。
「まわり」ママ。
「猪」「しし」。以下でもそう読んで貰いたい。
「追(ほ)つて居る」「猪 一 狩人を尋ねて」に「猪追(しゝぼ)ひ」で既出既注であるが、再掲する。矢ヶ﨑孝雄氏の論文「岐阜県下白山東・南麓における猪害防除」(『石川県白山自然保護センター研究報告』第二十四集・PDF)を読むに、少なくとも中部地方では「猪」或いは「猪狩り」を「ししぼい」と呼んでいることが判る。サイト「横手/方言散歩」のこちらに拠れば、「広辞苑」には「ぼう」で「追ふ」として「追(お)う」に同じとし、「ぼいだす」(追ひ出す)で「追い出す」・「たたき出す」、「ぼいまくる」(追ひまくる)とある。しかも、角川書店版「古語辞典」には「ぼいだす」を「たたきだす」、「ぼいまくる」(ぼい捲くる)で「追いまくる・追い払う」として、「ぼふ」「ぼひ」は方言ではなく、ちゃんとした古語であること認定している。秋田県でも「ぼう」は全県で「おふ(追ふ)」の意であるという。]
狩人が猪を追つて、山を越えて近づきつゝあるのだ。鐵砲の音がした、矢聲が續けさまに響く、猪追ひは今まさに酣であつた。畑に働いて居る者も、路を步いて居た者も、もう昵として居られぬやうな氣がした。何處だらうと、仕事の手を休めただけでは濟まされない。思はず宛もなく走り出す者もあつた。人々の胸には、猪の走つてゆく姿が、明らかに眼に映つて居たのである。
[やぶちゃん注:「矢聲」射手が放った際に大声を揚げること。ここはでは鉄砲の射手の声。
「酣」「たけなは」。]
村の人々にとつては、猪追ひそのものが、單なる興味ばかりでなかつた。別に何物か劇しく心をひかれるものが、體の何れかに、未だひそんで居たのである。
かうした村の人々が、獸の話に興味を抱き、好んでそれを物語つたり聽かうとしたのも、實は由來が遠かつたのである。狩の話が面白くて忙しい仕事も忘れて、畑の隅に踞んだまゝ、半日潰してしまつたなどの事も、ちつとも無理ではなかつたのである。
○
猪・鹿・狸と、山の獸の名が麗々と竝んで居ながら、獸そのものゝ話が、至つて尠かつた事は、語る者としても誠に遺憾である。獸の話が尠い理由は、實は別にあつたのであるが、話の内容としては、此話の全部が、本來「三州橫山話」と一緖に語るべき性質であつた。從つて話の範圍も、橫山の村を中心とした、僅か數里に亘る地方より以外には、殆ど及んで居なかつた。悉く其處で生れて、成長したものである。そこで「橫山話」とは絕えず觸合つて居ながら、どちらか一方に纏めて、筋目立てる事の出來なんだのは、誠に齒痒い限りである。
[やぶちゃん注:「三州橫山話」早川孝太郎氏が大正一〇(一九二一)年に後発の本書と同じ郷土研究社の柳田國男監修になる『炉辺叢書』の一冊として刊行した、本書の先行姉妹篇との称すべき早川氏の郷里である愛知県の旧南設楽郡長篠村横山(現在の新城(しんしろ)市横川。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集。サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」でPDFで総てが読める。]
自分にとつては、橫山は祖先以來の地で、生まれて十數年間は、殆ど一步も外の地を踏まずに、育くまれて來た因緣の土地である。境遇も感情も、只の村人に成り切つて居たであらう、もともと普通の百姓家に生れて、村一般の仕來り[やぶちゃん注:「しきたり」。]の中で育つたのだから、これは當り前のことである。話にしても、村の人が興味を持つて語る事を、そのまゝ素直に享け入れたまでである。餘り村の人そのまゝである事に、今でも驚いて居る位である。然し假にこの物語の内容に、村の人らしくない、心持に隔りがあつたとすれば、それはこの話をする現在である。東京に十幾年暮らして居た爲である。その爲なまじい都會人らしい常識が混つて來たとしたら、話そのものゝ爲には、本意ない譯合である。然しその事はどうとも致方ない。どうやら橫山に咲いて、小さいながらも、實を結んだのが、東京だつたとするより詮ないことである。
○
獸の話が少なかつた理由は、第一には蒐集が未だ充分で無かつたことにも據るが、それよりも、本來を言ふと、橫山附近の土地が、渠等[やぶちゃん注:「かれら」。]獸にとつて、既に足跡の餘り濃い地方では無かつたかと考へられる。地勢から言うても、附近の狀況から見ても、さうではないかと思ふ。假に足跡が濃厚だつたとしても、もう久しい以前のことで、近世では、渠等の爲に一箇所取遺された場所に過なかつた。そんな風に考へられるのである。斯う言ふと、話の内容と、大分矛盾する點もあるが、渠等が土地から姿を匿したのは、村の人々が信じて居た如く、三十年四十程度のもので無くて、その間に、もつと隔りがあるのではないか。實は話にしても、事實にしても、正に盡きんとする爐の榾火[やぶちゃん注:「ほだび」。]が、炭に變る時の、最後の輝きを見せられて居たので、例へば話の一ツ一ツを克明に辿つて見ても、どうもそれ以前に、大分影が淡くなつて居たらしい形蹟が認められる。
勿論程度の問題であるが、例へば明治三十年[やぶちゃん注:一八九七年。]頃の、段戶山中に現れた夥しい鹿の群なども、實は久しい言傳への幻影であつて、事實は嘗てある時代に、峯から峯を越えて、霧の如く消え去つたもののやうに考へられる。假に此判斷が誤つて居たとしても、四周[やぶちゃん注:「まはり」と当て訓しておく。]の狀況から見て、何處迄も話の儘を事實として言張れない氣がする。
今一つの理由は橫山の地勢であつた。山地とは言ひ條、一方外界との交涉がはげしくて、靜かに話を繰返して居るには、あまりに忙しすぎた。早くから汽車の笛を聞くやうになつた事が、獸以上に、早く話を亡びさせてしまつた原因の一つであつた。
○
橫山は東三河を縱貫した豐川の上流で、遠江國境には、三四里の路程にある一寒村である。村から言ふと、西南方卽ち豐川の下流地方と、北東山地との境界に當つて居た。東海道筋からは入つて、豐川の流れに沿つた七里の路は、稍平坦な丘陵を縫うて走つて居たが、此處から急に山が高くなつて、路は山又山の間を、信濃に向つて辿つて居たのである。其間は所謂北三河の山地で、現今の北設樂郡で、昔の振草の里であつた。段戶山を初め、月(つき)の御殿山(ごてんやま)、三ツ瀨の明神山など、代表的深山で、其處は未だ文明の光も透さぬ、天狗山男の世界の如く永い事信じられて來たのである。山稼ぎを職とする杣木樵[やぶちゃん注:「そま・きこり」。]の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]も多く入り込んでいた。その連中が、珍しい物語を運んで來て流布したのである。自分などもそれを好んで聽いて信じたものであつた。猪鹿[やぶちゃん注:「しし・しか」。]を初め多くの獸の本據も又其處にあつて、村が山續きに續いて居る如く、獸も又其處と連絡して居ると信じて居た。恰度表口と背戶のやうに、一方東海道筋の明るい交涉を受けながら、背戶口は依然として、昔の儘の山の影響が深かつたと云ふのが、橫山の實際だつたのである。
[やぶちゃん注:「振草の里」愛知県北設楽(きたしたら)郡東栄町(とうえいちょう)大字振草(ふるくさ)(グーグル・マップ・データ)。
「段戶山」「だんどざん」。北設楽郡設楽町田峯の鷹ノ巣山(標高千百五十二・三メートル)の旧称・別称(グーグル・マップ・データ)。
「月(つき)の御殿山(ごてんやま)」北設楽郡東栄町大字中設楽にある御殿山(ごてんざん)。標高七百八十九メートル(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「三ツ瀨の明神山」北設楽郡東栄町大字本郷にある明神山(国土地理院図)。標高千十六・三メートル。「三ツ瀨」の集落は東の谷間にある。]
然しながら、村の者が、獸の本據の如く考へて居た山の實際も、今日では話その物と大分の隔りが出來た。今年の正月、北から南へ振草の里を越して見ると、自分が步いた範圍では、猪鹿の類もとくに姿を消して了つて、もう二十年も經つて居た。猪などは反つて、吾が在所の方が本據のやうに思はれた。實は以前から信じて居た、山續きの交涉は、いつか斷たれて居たのである。して見れば橫山の猪なども全く孤立した山陰に取遺された集團の一つに過ぎなかつた。それも、僅かな數であつた。一個の猪の影を、地を代へ人を代へて、幾つにも見た程度のものである。
[やぶちゃん注:「今年の正月」本書は大正一五(一九二六)年十一月刊。]
こゝに集まつた話が恰度それであつた。山陰に取遺されたもので、とくに消えて居た筈のものである。それだけに、内容の無い、影の淡い話ばかりだつた。其上にも話の一つ一つが、何年前の事、何處の出來事と、その折々に孤々の聲を擧げたものばかりでなく、話が生れると同時に、もう久しい傳承の衣を着けて居たらしいのである。
○
獸ばかりでない、猪鹿狸に絡んだ人間のことや家の物語もさうであつた。一々正確な事實の記錄とばかり極められなかつた。例へば鳳來寺行者越の一ツ家である。そんなに古くも無いことが、幾通りにも語られて居た、劍術使ひの又藏老人が、死んだのは明治になつてらしいが、相貌の說明にも二通りあつた。一眼であつたと言ふ一方に、いやさうで無いと言張る者があつた。いやたしかに一ツだつた、現に一ツは弓術の遺恨から、大野町の某に、欺討ちにされたと言ふのである。然し斯うした問題は、年次に據つて、どうとも解釋せられたから文句は無いが、四尺幾寸の小男であつた事は確らしいのに、立派な體格だつたなどゝ、途方も無いことを語る者のあつた事である。斯うなると、話も何を的に聽いて宜いか判らなかつた。話し手の精神狀態から硏究して掛る必要も生じて來る。然しそれは到底不可能な事である。せめて話手の姓名年齡から、出來れば性質も少しは擧げる必要がある。性質は未だしも、姓名と年齡は是非共言はねばならぬ。それが多くの場合不充分であつた。實は大抵判つて居るのであるが、いろいろの筋合から、わざと省いた事である。それには話の煩はしさを考へた結果もあるが、もつと大きな理由は、その人々への遠慮であるが、讀者には誠に相濟まぬ次第であるが、かうした類の話の種になつた事を、何か馬鹿にでもされた如く、思込んで居る人が、未だあるらしいのである。勿論その人々とて、それが眞の心持ではないと思ふが、さうした心遣ひから、話に迄手加減した點も又あつたであらう。
[やぶちゃん注:「鹿 十一 一ツ家の末路」を参照。「大野町」もそこで注しておいた。]
○
この話が世に出るについて、第一に思出さねばならぬことがある。東京の山の手の、樫の木立に圍まれた家であつた、其處は外濠に近い高臺の屋敷町で、東京の町中で居ながら電車の響も大分遠かつた。西向に庭を控へた部屋の、片隅に置かれた椅子に腰を下すと、硝子戶越に、うつすりと靑苔を被つた庭土が見えた。恰度その中央あたりに、櫻桃が不調和に枝を伸して居て、それと向ひ合つて、古いドウダンの株があつた。庭の行詰りは、高く伸た[やぶちゃん注:ママ。「のびた」。]カナメの株が竝んで居た。今思ふと、もう幾年かになつた。その部屋を訪れる度、次から次へ、きまりもなく語つた話が、いつとなしに溜まつてしまつた。たとひ塵埃にしても、これだけになつて見れば、此儘更に谷や川へ持出して捨てゝ了ふのは惜しい、何とか成らぬかと言はれるまゝ、思ひ切つて似よりの物だけづゝ、又小分けに拾ひ上げて見る事になつた。それが此處に集めたものだつたのである。考へると、可成り永い間だつた。或時は櫻桃の花がもう散りかけて居た。それが實を結んで、幾度か花を持つたのだ。カナメの葉が、一枚一枚日に輝いて、ハツキリ讀まれた事もあつた。寒いみぞれの來さうな日に、虎鶫が一羽何處からか迷ひ込んで、頻りに苔をついばんで居た、暑い夏の日盛りを、白い猫が、靜かに飛石の間を步いて行つた事もあつた。今思ひ出して恐縮する程、よくも臆面もなく、橫山の村の爐緣を持出したやうな話を續けたものだ、さう言へば、あの椅子の前に在つた四角な火鉢臺が、その爐緣の役目をしたのである。してみると語手の自分は橫座に向つて坐つた木尻の客だつたのである。假に火鉢臺に心があれば、そんな吞氣話を、此處でされてたまるかと、さう言うたかも知れぬ、その間に、部屋の長押に掛つて居た、六つかしい維新の元勳の書が、いつか橫山の山を描いた額に變つて居たのも偶然だつた。
[やぶちゃん注:「櫻桃」「あうたう(おうとう)」。サクランボの木。恐らくはバラ亜綱バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属セイヨウミザクラ Prunus avium であろう。
「ドウダン」ツツジ目ツツジ科ドウダンツツジ亜科ドウダンツツジ属ドウダンツツジ Enkianthus perulatus。漢字表記は「灯台躑躅」「満天星」。
「カナメ」バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra。要黐。
「虎鶫」スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma。
「木尻」「きじり」と読む。炉端の末席に当たる。横座(主人の座)の対面で、使用人などが座る座を指す。薪をここからくべるので、薪の尻が向くことから生じた名称(デジタル「大辞泉」のこちらの画像で位置関係を確認出来る)。]
木尻の客は、話が濟んで腰を上げて、暇乞をして玄關を出るとホツとした。何かしら口に言現はせない、體中汗ばんだやうな興奮があつた。外には明るい都會らしい日が照つて居た。足を電車通りの方へ運ぶ間、名殘の夢でも惜しむやうに、暫くは村を思ひつゞけた。さうして、甞て自分に語つてくれた村の人々の顏が、何の屈託も忘れて居そうな目付が、しきりに胸に蘇るのを感じた。
その人々の中には、語り了つた時に、眼を眞赤に泣腫らして居た人もあつた。遇つたら話さうと、忙しい仕事の間にも、忘れまいと心掛けて居てくれた人もある。ほんの子供の頃聽いた話を、何十年か胸に藏つて置いて、問はれた爲に語つたといふ女もあつた。その人々の顏付だけ思ひ出してみても、語つた時は自分と同じ心持だつた事が判つた。よし明かに意識はしなくとも、尠くも話て居た間だけでも、話さぬより幸福だつたに異ひなかつた。
その人々の中には、もう死んでしまつた人もいる。一遍は語つても、仕事や境遇に追はれて、再び思ひ出さぬ人もあるであらう。このまゝ放つて置いたら、何れは何處とも無く消えてゆくに決つて居る。して見ればこの小篇は、それ等の人々の爲にも、或は又山陰で淋しく亡びて行つた猪や鹿や狸の爲にも、一基の供養塔であつた。形はよし拙なくとも、建てたその者は因緣が薄くとも、永く山口の草に埋もれつゝも殘るであらう。斯う考へれば、あの橫座の主に迷惑を掛た[やぶちゃん注:ママ。「かけた」。]のも、火鉢臺に退屈さした事も、この供養塔の建つ因緣だつた。どうしても吾一人の問題では無かつた。さう思へば、後から後から、多勢の人や獸が動いて居るやうだ、そうだその人々に代つても、先づ第一に溜息を吐く程の大きな感謝を、あの橫座の主に捧げねばならぬ。さうして今一人、この供養塔の爲に決して忘れてはならぬ恩人があつた事である。
大正十五年十月 早 川 孝 太 郎
[やぶちゃん注:以下に奥附があるが、国立国会図書館デジタルコレクションの底本画像のそこにリンクさせるだけで、省略する。]
[やぶちやん注:以下、目次を配する。リーダと「頁」とページ番号は省略した。章番号は半角漢数字二桁であるが、見難いので章のそのままに全角で採用した。そのため、字配を独自に揃えた。それぞれにリンクを張るほどには私はお目出度い人間ではない。カテゴリ『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』で開いて頂ければ、容易に見つかる。悪しからず。]
目 次
凡 例
猪
一 狩人を尋ねて
二 子猪を負んだ狩人
三 猪の禍ひ
四 猪垣の事
五 猪の案山子
六 村の變遷と猪
七 猪除けのお守
八 空想の猪
九 猪の跡
一〇 猪に遇つた話
一一 猪狩の笑話
一二 昔の狩人
一三 山の神と狩人
一四 猪買と狩人
一五 猪の膽
一六 手負猪に追はれて
一七 代々の猪擊
一八 不思議な狩人
一九 巨猪の話
鹿
一 淵に逃げこんだ鹿
二 鹿の跡を尋ねて
三 引き鹿の群
四 鹿の角の話
五 鹿皮のタつケ
六 鹿の毛祀り
七 山の不思議
八 鹿に見えた砥石
九 鹿擊つ狩人
一〇 十二歲の初狩
一一 一つ家の末路
一二 鹿の玉
一三 淨瑠璃御前と鹿
一四 親鹿の瞳
一五 鹿の胎兒
一六 鹿捕る罠
一七 大蛇と鹿
一八 木地屋と鹿の頭
一九 鹿の大群
狸
一 狸の怪
二 狸の死眞似
三 狸の穴
四 虎挾みと狸
五 狸を拾つた話
六 砂を振りかける
七 狸と物識り
八 狸の火
九 呼ばる狸
十 眞黑い提灯
十一 鍬に化けた狸
十二 狸か川獺か
十三 娘に化けた狸
十四 狸の怪と若者
十五 塔婆に生首
十六 緋の衣を纏つた狸
十七 狸寄せの話
十八 狸と印籠
十九 古茶釜の話
二十 古い家と昔話
二十一 狸の最後
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跋
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