三州奇談卷之五 武家の怪例
武家の怪例
富山家中瀧川左膳屋敷には、燒味噌を禁ず。若(も)し下々の者にても失念して味噌を燒く事あれば、必(かならず)怪しき人出で座敷に座し、久しく去らず。其故如何なることゝ云ふを聞かず。
又古市伊織屋敷には、結直(ゆひなほ)す事のならざる竹垣あり。若し此垣に障(さは)る時は、屋敷の内忽ちあやまちする人あり。是例なり。其謂(いは)れを聞きしに、遠き事に非ず、享保の初年[やぶちゃん注:享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年に相当する。]、此家に變事あり。元來古市伊織といふ人は、俠士にて剛力を以て世に鳴る。されば好むには集るのならひにや、此家士に訴藏と云ふ者あり。是又無双の武術者なり。或夜、主人の命ありて、夜更て使(つかひ)に出づ。其頃、此近隣に椎(しい)の大樹ありて、此所を過ぐる者は必ず老婆に逢ふ。赤子を抱きて往來の人に投げ與へて是をおどす。人必ず赤子を切る。是れ石なり。終に老婆が爲に肝を失ひ逃歸る。故に其邊(そのあたり)夜更て通る者なし。此古市氏の家士にも、前に此老婆におどされし者ありて、則ち新藏に、
「心付け、用心して通れよ」
といふ。新藏あざ笑ひて出で行きけるに、案の如く此古樹の本にして妖婆に逢ふ。則ち恐しげなる赤子を投げ與ふ。新藏抱き付き、[やぶちゃん注:国書刊行会本では『新藏抱き付く』で読点なしで続く。その方がよい。]赤子を少しも構はず、跳り懸りて樹下の老婆を拔打に切るに、
「わつ」
と一聲して消え失せぬ。赤子も又なし。新藏刀を納めて使を務め、家に歸りて主人に申し、傍輩に語る。人々老婆を切留めざるは殘念と云ふ。新藏曰く、
「我が切込みし者如何ぞ遁(にがさ)ん」
諸人依りて其刀を拔き見るに、物打(ものうち)より切先迄朱になり、骨引疵(ほねひききず)付いて、心の儘に打込みたりと見えたり。主人も感じて、夜明けて其跡を求(もとむ)るに、則(すなはち)古市氏屋敷後ろの植込の中に大いなる穴あり。此所へ血つたひける程に、土をかへして見るに、彼の垣の下と覺しきに、古貉(ふるむじな)死して居たり。
[やぶちゃん注:「物打」実際に刀で斬りつける際に刃としてメインで使う部分のこと。刀身の刃の部分の中央から切先(きっさき)の手前まで。
「貉」ここは敢えて穴熊(ニホンアナグマ)に同定する必要はなく、狸と同義でとってよかろう。両種の違い(全然違います)や博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな)(アナグマ)」を参照されたい。]
是より新藏を諸人譽むる。此事國主へも聞えて、
「新藏を出(いだ)し候はゞ召抱へらるべき」
とありしかども、古市伊織おしみて出さず。
「譜代の者なり」
とて樣々に拵へて、公義へ召出されぬ樣に云ひなして家に置けり。新藏傳へ聞て大いに怒つて、是より心だけだけしくなりて、日頃の新藏にあらず。又外へ去る心あり。
其後、主人外に遊ぶ事あり。新藏、奴(やつこ)を具して迎(むかへ)に行く時、
「早し」
とて待つべき由なり。
「さらば暫く行き來(きた)るべし」
とて、奴を具して近隣の妓館(いろやど)に立入りて酒を吞む。終に沈醉して主人の歸りにはづれぬ。新藏奴に對して曰く、
「今は詮方なし、主人日頃の氣質を知れば必ず只置(ただおく)べしとは思はれず。我先づ屋敷に歸りて、汝が着類・雜具を出し與ふべし。汝は夜中に缺落(かけおち)すべし。我は獨り屋敷に殘らん」
と云ひて、七尺の高塀(たかべい)を苦もなく跳(おど)り越して入り、奴僕(ぬぼく)が雜具を塀を越して出(いだ)し與ふ。奴云ふ、
「君も必ず一所に缺落し給へ、夜明けなば命危し。」
新藏笑ひて、
「我が手の中(うち)百人の味方あり。主人一家を盡して取卷くとも、白晝に切拔けて立去ること大路の如くならん」
と云ふ。奴悲しんで去らず。
「君壯氣ありといへども、主從は天地なり。白晝に立去る時は、主人の家祿永く絕えん。我今君と主とを思ふ、又去べからず。」
新藏すかして
「我も跡よりさらん」
と云ひて、奴を先へ去らしめ、屋敷へ立歸りて、安然として高鼾(たかいびき)して臥せり。
夜明けて主人夜中の事を聞きて彌々(いよいよ)怒り、新藏を座敷へ廻して[やぶちゃん注:国書刊行会本では『新蔵を座敷の庭に廻して』とある。その方が躓かない。]手打にせんとす。新藏一言も詫(わび)ず。
「命(めい)の儘なるべし、然共(しかれども)主從の緣を切給へ、快く敵となりて術を盡さん」
と云ふ。主人免(ゆる)さずして、拔打に切るに、露地下駄を取りて刀を支へ、猶
「主從の緣を切らんことを」
求む。其後刀を拔きて切結びしが、主の威(い)敵(てき)すべからず、退き立つて地末(ぢすゑ)の垣のもとに至り、後ろざまに垣を飛ぶに、新藏が袴の裾(すそ)竹垣に懸りて逆樣になる。主人透かさず打込む太刀に、太股よりひばらに掛けて切込みたり。新藏大音上げて曰く、
「伊織伊織我が運既に盡ぬ、引上げてとゞめを剌すべし。此まゝ切らば武を汚すなるべし」
と云ひ、齒たゝきする音、雷の如し。さしも剛力の伊織近付くこと能はず、亂鎗に殺して事靜(ことしづま)る。是より伊織面目を家中に失へり。
[やぶちゃん注:「妓館(いろやど)」読みは国書刊行会本の原本カタカナ書き読みに従った。
「露地下駄」(ろぢげた)は雨天や雪の際に露地を歩くときに履く下駄。柾目の赤杉材に竹の皮を撚った鼻緒を付けたもの。
「ひばら」「脾腹」。脇腹。
「亂鎗」「らんさう(らんそう)」と読むしかあるまい。滅多矢鱈に闇雲に突き刺すこと。]
然るに新藏が飛び兼ねたりし竹垣、日頃はかばかりの高さのものゝ數ともせず。されども此時袴のすそ掛りて、いかに引破(ひきやぶ)れども離れず。又只(ただ)常事(つねのこと)に非ざるに似たり。則ち彼(か)の昔日(せきじつ)の古貉の穴の上なれば、世人
「古貉の氣、仇(あだ)を報ずる」
と云ふ。是より此垣彌々靈ありて、人猥(みだ)りに寄らずと。坑(あな)や垣を改(あらたむ)る時は、必ず凶事ありと聞えし。
« 甲子夜話卷之六 6-8 相州大山の怪異の事 | トップページ | 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 電子化注始動 / はしがき・目次 »