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2020/04/18

三州奇談卷之五 北條の舊地

 

    北條の舊地

 富山の城中に「舊集錄」といふ書あり。町に「先達錄」と云ふ者あり。何れも富山の事跡を書きたる書なりき。「此中にあり」とて或人の語られし。

[やぶちゃん注:「舊集錄」不詳。識者の御教授を乞う。

「先達錄」婦負郡若林家の伝本で享保一六(一七三一)年の成立と見られる、富山藩御前物書役野崎伝助が著わした越中の神代からの歴史・説話・伝承を扱った「喚起泉達録」があり(但し、原本は失われ、不完全な写本のみが残るという)、また、その八十年後の文化一二(一八一五)年に伝助の孫の野崎雅明が著した「肯搆泉達録」という書もあるそうである。本「三州奇談」の成立は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるから、前者を指すか。学術的な書籍から、この二書は富山ではタブー視される傾向があるとするネット記載までもある。]

 越中の次郞兵衞は五十嵐氏にして、其塚今に富山稻荷町の末にあり。又宥照寺といふ寺には、明智光秀が塚あり。宥照寺の世代の内に、明智左馬助が兄此寺を持ちしことあり。故に今爰に光秀が塚ありと云ふ。又北條早雲も元來越中の產なり。新川郡黑瀨村伊勢町に其家跡あり。

[やぶちゃん注:「越中の」「五十嵐」「次郞兵衞」「平家物語」で「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられた名将平盛嗣(?~建久五(一一九四)年)。平盛俊の次男で、父同様、平家の郎党として勇名を馳せた人物。ウィキの「平盛嗣」によれば、『源氏との数々の戦に参戦し』、「水島の戦い」では『源義清を討ち取り、「屋島の戦い」では『源義経の郎党である伊勢義盛との詞戦』(ことばだたかい:『嘲笑合戦)の逸話を残している』(「平家物語」巻第十一の「言葉だたかひ」。後掲する)。寿永四(一一八五)年の「壇ノ浦の戦い」で、『盛嗣は自害を快く思わず』、『京の都に落ち延び、その後』、『但馬国で潜伏生活へ入った。盛嗣は城崎郡気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われている。その後、盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っている。しかし鎌倉方は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が』「平家物語」(延慶本)にもある。建久五(一一九四)年、『盛嗣は源氏方に捕縛され、鎌倉に送られることとなった(捕縛された状況には諸説ある)。盛嗣は頼朝の面前に引き出された際に「今は運尽きてかように搦め召し候上は、力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と自説を述べ、ついに由比ヶ浜にて斬首された』。『京都府福知山市大江町北原には盛嗣ら平家の郎党らが落ち延びた伝説があり、盛嗣の末裔として現在でも福知山市や周辺市町村に「越中」姓が現存しているが』、『一部の子孫は改名している者もいる』とある。「平家物語」の「言葉だたかひ」は面白いので以下に引く(角川文庫・高橋禎一校注・昭和四七(一九七二)年刊を参考に漢字を恣意的に正字化した)。伊勢が、「大将軍は誰だ?」という盛嗣の呼びかけに「義経」と答えると、

   *

盛嗣、聞いて、

「さる事あり。去(いん)ぬる平治の合戰に、父討たれて孤子(みなしご)にてありしが、鞍馬の兒(ちご)して、後には金商人(こがねあきんど)の所從(しよじう」[やぶちゃん注:下男。]となり、粮料(らうれう)背負うて、奧の方へ落ち下りし、その小冠者(こくわんじや)めが事か」

とぞ言ひける。義盛、步ませ寄つて、

「舌の柔かなる儘に、君(きみ)の御事な申しそ。さ言ふわ人(ひと)どもこそ礪波山の軍(いくさ)に打負け、辛き命生きつつ、北陸道にさまよひ、乞食(こつじき)して上つたりし、その人か」

とぞ云ひける。盛嗣、重ねて、

「君の御恩に飽き滿ちて、何の不足さあつてか、乞食をばすべき。さいふわ人どもこそ、伊勢國鈴鹿山にて山だち[やぶちゃん注:山賊。]し、妻子をも育み、わが身も所從も、過ぎけるとは聞きしか」

といひければ、金子十郞、進み出でて、

「詮ない殿ばらの雜言(ざふごん)かな。われも人も虛言(そらごと)云ひけ、雜言せんに、誰(たれ)かは劣るべき。去年(こぞ)の春、攝津國一谷にて、武藏・相模の若殿ばらの、手なみの程をば見てんものを」

といふ所に、弟の與一、傍(そば)にありけるが、謂はせも果てず、十二束三(じふにそくみつ)ぶせ取つて番(つが)ひ、よつぴいて、ひやうど放つ。次郞兵衞が鎧の胸板に裏かく程にぞ立つたりける。さてこそ互(たがひ)の詞戰(ことばだたかひ)は止みにけれ。

   *

「富山稻荷町」現在の富山市稲荷町はここ(グーグル・マップ・データ)。南町域外に接して越中稲荷神社があるが、公式サイトを見ても、越中次郎兵衛盛嗣とは関係がないようである。

「宥照寺」現存しない。しかし、富山の「桂書房」公式サイト内のこちらに(改行を除去した)、『桂書房では『越中怪談紀行』を編纂中です。ベースになっているのが大正の頃の「高岡新報」の越中怪談という連載記事。富山県内の色々な話が纏められています。その記事の中に富山市辰巳町にあった宥照寺に明智光秀の塚があったと書いてありました。出典は『越中奇談集』。光秀の兄が宥照寺住職であったとあります。光厳寺の東側、鼬川に沿って寺がありました。今は、寺はありませんが気になりますね』とあって、明治四三(一九一〇)年の二万分一地図にある寺のあった場所が示されてある(クリックで拡大出来る)。現在の辰巳町一丁目三である。見たかったなあ! 「明智光秀が塚」!

「北條早雲も元來越中の產なり」これは聞いたことがない。ウィキの「北条早雲」(康正二(一四五六)年~永正一六(一五一九)年 伊勢宗瑞(いせそうずい):北条早雲は後代の呼称で、彼自身はこう名乗ったことはない)を見られたいが、そんな説はカケラも載らない。彼は備中国(現在の岡山県西部)生まれとされる。

「新川郡黑瀨村伊勢町」富山市黒瀬(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、「富山県立図書館」公式サイト内の「御領分新川郡神通川ヨリ東ノ分村絵図」(江戸末期)で調べたが(3ページ目の83/108図)、村内に「伊勢」の地名は見当たらないし、そもそもが「村」の中に「町」というのはちょっと解せぬ気がした。しかし、ここでハタ! と膝を打ったのだ! なるほど! それでか?! 現在、北条早雲の出自としては室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流なのである。但し、富山県内には「伊勢領」という地名が複数あるが(例えば、旧新川郡内では富山市水橋伊勢領がある)、では、そこでさえも伊勢氏の領地だったかどうかは定かではないらしいのである。「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『室町幕府の「政所伊勢氏」と越中砺波郡の「伊勢領」・「小伊勢領」⇒「伊勢神宮領」か、「伊勢氏領」か?』を見られたい。まんず、私の力ではここまでだ。]

 此里に鄕士三人ありしが、皆々大志あり。三人は所謂日置逸角・伊奈三十郞・伊勢新九郞なり。是等同道して、關東へかせぎに出づる。則ち蜷川新左衞門が狀を持ちて、先づ品川東海寺七世一休和尙の許へ行く。蜷川新左衞門は新川郡の人にて、越中にて終る。今蜷川最勝寺は新左衞門開基にして、遺寶品々あり。當時江戶御旗本蜷川八右衞門より、年每に使者來ると云ふ。されば蜷川は一休の知己なれば、彼三人の者先づ東海寺に至りて、其後方々へ身の上ありつきに出づる。伊勢新九郞は太田道灌に奉公して、武術能く熟すと云ふ。此伊勢新九郞、北條を名乘りしことは、初め鎌倉の代の時、最明寺時賴入道天下を修行して越中に來(きた)る時、新川郡法相宗の寺に安養寺と云ふありしに一宿し給ふ。其夜安養寺へ盜賊入りて、寺寶を多く奪ひ、最明寺殿の頭陀をも取去りし。此頭陀の中に鱗形(いろこがた)の系圖ありしが、不思議多かりし程に、盜人共驚き安養寺へ返し入れける。年久しうして、伊勢町新九郞此寺の和尙に念頃にして、終に其鱗形の系圖を得たり。故に事思ふ儘にして、後に關東を領する事を得たるも、此系圖の奇特なり。去るに依りて後に北條早雲とは名乘りけると云ふ。是は里人の話の儘なれば、其眞僞を知らず。今の安養寺は地昔の所に非ず。最明寺の宿りし安養寺の跡は、今田となりて、常願寺川の支流來(きた)る所なり。此寺跡の川にすむ杜父魚(かじか)、必ず頭(かしら)に三つの鱗紋あり。其色黑うして兩眼の間に顯然と斑紋すわる。此杜父魚を懷孕(くわいよう)の人好みて喰(く)へば、產(うま)るゝ子必ず英雄の志あり。又或は變じて大惡の盜賊ともなる。女子を產めば、多淫にして必ず罪を負ふの人となる。故に今は人此寺跡の川魚を食せず。若(もし)戰國ならんには、斯(かく)の如き英雄の志ある者を求めても可なるべし。琉球の所謂「中山花敎」に云ふ、『英雄を育つる法ありと云ふ』とは、かゝる物を喰はせて人を求むることあるにそ、其道なきにはあらじと覺えたり。

[やぶちゃん注:……堀麦水よ、何で、こんなあり得ない馬鹿話を、真面目に書いたのかねえ?……

「日置逸角」不詳。読みも不詳。「日置」は「へき」と読むことがあるからである。

「伊奈三十郞」不詳。

「伊勢新九郞」これぞ北条早雲が伊勢宗瑞とともに実際に名乗っていた名である。

「蜷川新左衞門」先の黒瀬村は現在の広域地名である蜷川地区(旧蜷川郡)の中にある。ウィキの「蜷川氏」によれば、『元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏』(みやじし)で、越中国新川郡蜷川庄を所領として、そこの地名を名乗った。『祖は蜷川親直』。『室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて』三『代目の蜷川親当(後の智蘊)の頃より政所代を世襲することとなった。室町時代末期、主君である将軍足利義輝を失った蜷川親世は零落し、出羽国村山郡で没した。嫡子蜷川親長を始めとする一族の多くは、土佐国の長宗我部元親のもとへ落ちのびた(元親室石谷氏が親長の従兄弟。石谷氏は、明智光秀重臣の斎藤利三の妹)』。『足利義昭に仕えた蜷川親貞は、義昭が毛利氏を頼った後に家臣化し、蜷川秋秀、蜷川元親、蜷川元勝と続き、長州藩士として続いた』。『また、蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる』。『長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。その後蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る』。所領は『南丹市園部町高屋地区』の『寺谷口』。『室町・戦国時代の蜷川氏の所領』で『蜷川城(菩提寺である蟠根寺に因み蟠根寺城、地区に因み高屋城とも)があった』。また、『蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っている』とある。左じゃないのが怪しいとも思われるだろうが、実は草書の「左」「右」は下手な崩し方をされると、誤判読し易い。

先に紹介した「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『室町幕府の「政所伊勢氏」と越中砺波郡の「伊勢領」・「小伊勢領」⇒「伊勢神宮領」か、「伊勢氏領」か?』には、『「三代将軍足利義満」は、母方の縁者の「越中蜷川氏」を重用して、「蜷川氏」と「伊勢氏」は婚姻して 、「政所 伊勢氏」、「政所代 蜷川氏」として幕府の実権を握った』とあって、伊勢氏と蜷川氏が繋がり、さらにこの富山の地名ともリンクしてくるから、まんざら本篇も根拠のない空言でもない気がしてはくるのだが……

「品川東海寺七世一休和尙」なんじゃこりゃ?! やっぱ、駄目だ! 品川にある臨済宗万松山東海寺は寛永一六(一六三九)年に徳川家光が但馬国の沢庵宗彭を招聘して創建した寺だぜ? 一休(明徳五(一三九四)年~文明一三(一四八一)年)だあ? 注する気、全く失せたわ!

「蜷川最勝寺」富山市蜷川にある曹洞宗瑞龍山最勝寺公式サイトを見ると、建久八(一一九七)年に二代目蜷川親綱が父宮道(蜷川)親直を弔うために一寺を建立したのが始まりであるとあり、『以後、蜷川氏代々の菩提寺としてはじめは臨済宗で』、『幕府の要職を歴任していた蜷川氏と』親交の深かった一休禅師も当時をよく訪れたと伝わるとある。以下の歴史はリンク先を読まれたい。

「江戶御旗本蜷川八右衞門」親直の後裔で江戸幕府奥御右筆頭として実在する。

「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)は武蔵守護代で扇谷上杉家家宰。江戸城を築城したことで知られる。ウィキの「太田道灌」によれば、文明五(一四七三)年、『山内家家宰・長尾景信が死去し』、『跡を子・長尾景春が継いだが、山内顕定は家宰職を景春ではなく景信の弟・長尾忠景に与えてしまい、これを景春は深く恨んだ』。文明八(一四七六)年二月、『駿河守護・今川義忠が遠江国で討ち死にし、家督をめぐって遺児の龍王丸』(後の駿河今川家第九代当主。北条早雲の甥、今川義元の父)『と従兄の小鹿範満が争い』、『内紛状態となった。小鹿範満は堀越公方の執事・犬懸上杉政憲の娘を母としており、道灌は小鹿範満を家督とするべく、犬懸政憲とともに兵を率いて駿河に入った』。『この今川氏の家督争いは、龍王丸の叔父の伊勢新九郎(後の北条早雲)が仲介に入って、小鹿範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすることで和談を成立させ、駐留していた道灌と犬懸政憲も撤兵した。『別本今川記』によると、この際に道灌と伊勢新九郎が会談して、伊勢新九郎の提示する調停案を道灌が了承したとある。従来、伊勢新九郎は道灌と同じ』永享四(一四三二)年『生まれとされ、主家に尽くした忠臣道灌と下克上の梟雄早雲とのタイプの異なる同年齢の名将が会談したエピソードとして有名であるが、近年の研究によって伊勢新九郎は素浪人ではなく』、『将軍直臣の名門伊勢氏の一族であり、年齢も』二十四『歳若い』康正二(一四五六)年生まれとするのが定説であるとする。さて、道灌は主君扇谷定正によって定正の糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市)に招かれた折り、暗殺されたが(『道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である』)、『雑説だが』、『江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている』とあり、『道灌暗殺により、道灌の子・資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになり、翌長享元年』(一四八七年)、『山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになった。やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭』し、『早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになり、上杉の家系は駆逐される』こととなり、道灌の死に際の予言は的中したのであった。無論、北条早雲は「太田道灌に奉公」などしていない

「最明寺時賴入道天下を修行して越中に來る時」「鉢の木」伝承で知られる北条時頼廻国伝説であるが、「吾妻鏡」を丁寧に読み解けば、狸爺時頼がそんなことをしている事実は微塵も見つからない。この徹底的な作話がお好きな向きには私の「北條九代記 卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵」を読まれたい。

「新川郡法相宗の寺に安養寺」富山市に安養寺という地名はあるが、寺はない。富山県富山市犬島(神通川河口右岸)に浄土真宗の安養寺はある(サイト「葬儀本.com」)が、以下の叙述から違う。「今の安養寺は地昔の所に非ず」というのは前者の地名を指しているか。後で本文でも既に「寺跡」としており、早くに廃寺となったようだ。まあ、トンデモ話だから、どうでもええわ!

「安養寺へ盜賊入りて、寺寶を多く奪ひ、最明寺殿の頭陀をも取去りし。此頭陀の中に鱗形(いろこがた)の系圖ありしが、不思議多かりし程に、盜人共驚き安養寺へ返し入れける」「いろこがた」の読みは国書刊行会本に拠った。「鱗形」は北条氏の家紋である「三つ鱗」の家紋。後北条も使用した(但し、早雲ではなく、二代目氏綱以降)。だらんま! 今度は「十訓抄」の「安養の尼の小袖」の変形譚け? もう、何でもありやがね! たまらんちゃ!(富山弁)

「去るに依りて後に北條早雲とは名乘りけると云ふ」本人は名乗ってないっつうの!

「是は里人の話の儘なれば、其眞僞を知らず」ハイハイ!!! 馬鹿でも判りますて!!!

「最明寺の宿りし安養寺の跡は、今田となりて、常願寺川の支流來(きた)る所なり」常願寺川はここ。支流と言われてもねえ……絶滅危惧種のカジカの棲息地だから知りたいけど……

「杜父魚(かじか)」読みは国書刊行会本の原本のカタカナ読みに従った。条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux。書きたいことはさわにあるが、「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の私の注を読んでいただければ、それでよい。

「必ず頭(かしら)に三つの鱗紋あり。其色黑うして兩眼の間に顯然と斑紋すわる」シミュラクラですね。

「懷孕(くわいよう)の人」妊婦。

『琉球の所謂「中山花敎」』「ちゆうざんくわきやう」と読んでおくが、不詳。琉球最初の正式な歴史書で、和文で書かれた「中山世鑑」(ちゅうざんせいかん)か、それに続く正史で、漢文で書かれた「中山世譜」(せいふ)のことか?]

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