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2020/04/11

早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十八 狸と印籠

 

     十八 狸 と 印 籠

 狸から福分を授かつたと謂ふ類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]話が、極く微か[やぶちゃん注:「かすか。]ではあつたが遺つて居た。長篠村大字富榮(とみさか)字富貴(ふうき)の某家には、昔、諸國行脚の狸から讓られたと謂ふ一個の印籠があつた。諸國行脚の狸はちと恠しいが、大方僧侶に化けた狸の事でもあつたらうか。その爲め家が永く富み榮えて、家數三四戶しかない僻村を、冨貴と呼んだのも、その家に依つて出來た名と謂うた。その印籠が轉々して今は近くの村の物持の家に祕藏されて居る。從つて代々の持主であつた家も、早昔の面影が無くなつて居るのは是非もない事だつた。その印籠は、仔細あつて自分も一度見た事がある。黑塗りの中は、粗末な梨地に塗つてあつた。惜しい事に蓋は久しい前に失つたとかで見當らなかつた。打見た[やぶちゃん注:「うちみた」。ちょっと見た。]處では、格別狸が吳れたらしい處もない、只の印籠である。妙な事にその印籠の由來について、別に柳生十兵衞が武術修行の折に、遺身に置いて行つたとも言うて居る事であつた。狸と柳生の劍術使ひと、何の緣故も無さゝうなのに、どうしてそんな說が出來たかは判らない。

[やぶちゃん注:「印籠」江戸時代、武士が裃(かみしも)を着た際に腰に下げた小さな容器状の装身具。左右両端に紐を通して、緒締(おじ)めで留め、根付(ねつけ)を帯に挟んで下げる。室町時代に印や印肉の器として明国から伝わり、後に薬を入れるようになった。三重・五重の円筒形・袋形・鞘形などがあり、蒔絵・堆朱(ついしゅ:朱漆を何回も厚く塗り重ねたものに花鳥・山水・人物などの文様を彫ったもの)・螺鈿などの精巧な細工が施されているものが多い。

「長篠村大字富榮(とみさか)字富貴(ふうき)」新城市富栄富貴(グーグル・マップ・データ)。

「梨地」梨の実の表面のようにザラザラした状態や印象を与える対象物に表面の感じを指す。伝統工芸では織物や蒔絵の加工の一つ。

「柳生十兵衞」江戸前期の旗本で剣豪として知られる柳生三厳(みつよし 慶長一二(一六〇七)年~慶安三(一六五〇)年)。十兵衞は通称。大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪柳生宗矩(むねのり)の子。初めは徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり(寛永三(一六二六)年二十歳の時。であるが、理由は不明)、後に許されて書院番を務めた(寛永一五(一六三八)年)。父の跡を継ぎ、家業の兵法(新陰流)の発展に努めたが、家督を継いでほどなく、鷹狩りのために出かけた先の弓淵(現在の京都府相楽郡南山城村)で急死した。死因は不明(脳卒中や狭心症説がある)。享年四十四。著書に流祖上泉信綱以来の新陰流の術理を纏め上げた「月之抄(つきのしょう)」寛永一九(一六四二)年完成)や、「武蔵野」(前半部は「月之抄」同様の口伝・目録の解説書であるが、後半部は難解な禅問答のようになっている)などがある。参照したウィキの「柳生三厳」によれば、『家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの』十二『年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。三厳の自著での記述と相反しているとはいえ』、宝暦三(一七五三)年に『成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の』百『年後には既に広く知られていたものと思われる。後にこの伝承が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている』とある。

「遺身」これはこれで「かたみ」と読める。改訂版では『遺品』となっている。]

 富貴の村から、谷一つ越えた長篠村内金には、文福茶釜を持傳へると言ふ家があつた。街道からは山寄りの、村人が入(い)りと呼ぶ家で、正福寺と謂ふ古い禪宗の寺の門前に屋敷があつた。つひ先代迄は村一番の物持で、兼て村の草分けでもあつた。文福茶釜の由來として言傳へて居る處では、先祖が正福寺のずつと以前の和尙から讓られたもので、その茶釜のある爲めに永く福運が續いて來たと言ふだけである。昔話にあるやうに、狸が化けた類の話は、自分は未だ聽いた事がない。從つて正福寺に狸の和尙が居たとも何とも言はぬ事である。どうも話が幾通りもあつて煩はしいが、別の話では、その茶釜は天正時代[やぶちゃん注:]、長篠の城にあつた物で、城主が國替への節遺して行つたもので、從つて此家は先祖が、武士であつたと言ふ。

[やぶちゃん注:「長篠村内金」「内金」は「うちがね」と読む。現在の長篠内金(グーグル・マップ・データ)はここであるが、スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、この辺り一帯の広域(グーグル・マップ・データ航空写真)を「内金」と呼んでいたことが判り、「正福寺」は現在の新城市長篠杉下の曹洞宗正福寺(しょうふくじ)(グーグル・マップ・データ)で前の航空写真で見ると、この寺の東北はまさに山林で「入り」と呼ぶに相応しいことが判る。

「文福茶釜」詳しくはウィキの「文福茶釜」を見られたいが、それによれば、『おとぎ話では、和尚が手放した茶釜(狸の化身で、頭・足・尻尾が生える)が、綱渡りなどの芸をし、これを見世物商売に屑屋が財を築き、茶釜を元の寺(茂林寺)に返還する』。『茂林寺は群馬県館林市に実在する寺で、現在も文福茶釜を所蔵する』。但し、『寺の縁起は、狸の化けた釜とはせず、古狸(貉)の老僧守鶴愛用の「福を分ける」分福茶釜であるとする。千人の僧が集まる法会で茶をたてたが、一昼夜汲み続けても釜の湯はなくならなかったと記される』。『狸や狐が茶釜に変化(へんげ)する昔話(民話)は、全国に分布する。人間に恩あるか』、或いは『言いくるめられて』、『茶釜に化け、寺の和尚などに売りつけられる』ものの、『正体が発覚する、という粗筋の類話群である。狸が芸をする要素(モチーフ)は民話例に』は『少ない。民俗学・民話研究では、狐の恩返し系の動物の報恩譚が原形とされ』るという。『「分福」という名の由来については諸説ある。この茶釜には八つの功徳があり、「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と呼ばれるようになったという説明や』、『沸騰する音の擬声語という説がある』。『また「文武火の茶釜」とも表記されるが』、この『文火は弱い火、武火は強い火を指す』。『同じ語釈は、鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』「茂林寺釜(もりんじのかま)」の添え文でも述べられており、文武火の釜が正しい名であるとしている』とある。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。後者は一五八二年十月十五日から行用されたが、日本では天正十年九月十九日に当たる。

「城主が國替への節遺して行つた」ウィキの「長篠城」によれば、長篠城はまず、家康に攻められた第四代城主であった菅沼正貞(今川を見限って武田に組みしていた)が天正元(一五七三)年八月に開城して退去している(返り咲きはなし)。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により、城が拡張された(現在残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている)が、天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)に、父武田信玄の跡を継ぐこととなった四男武田勝頼が、持っていた兵力の大半に当たる一万五千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、「長篠の戦い」が始まった。翌年、長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城(しんしろ)城を築城して長篠城は廃城となっているから、「城主が國替への節遺して行つた」というフレーズからは、菅沼から奥平の間の二人を除いた城主ということになろうが、私はその間の城主を調べ得ない。悪しからず。

 もう十年ほど前になるが、その茶釜を見せて貰ふ爲め、わざわざ訪ねた事がある。以前の屋敷跡の傍に、今は小さな構へを結んで居た。五十恰好の、何處か暗い感じのする内儀が一人居て、詳しい話をしてくれた。二十年前迄は、此處の爐に掛けて使つて居たが、もうありませんとの事だつた。尤もその以前から、蓋と蔓手[やぶちゃん注:「つるで」。金属製の吊手であろう。]は別物だつた。或時鑄掛師に持たせてやると、蓋と蔓を失くして來たのださうである。それ以來蔓手は只の針金で間に合せて居た。その後引續く不運に、茶釜迄も幾何かの[やぶちゃん注:「いくばくかの」。]代に、親類の者に持つて行かれてしまつたのださうである。今は其處に藏つて[やぶちゃん注:「しまつて」。]ある筈だ、何なら其方[やぶちゃん注:そつち]。]へ行つて見てくれとの挨拶だつた。其折の話の模樣では、肌が赤味を帶んだ[やぶちゃん注:「おんだ」。帯びた。]鐵で、離れて見ると陶器のやうに見えたさうである。一方に鐵甁のやうな口があつて、口の附根から、鹿の角の恰好した三ツ又の脚が出て居たと言ふから、茶釜としては、風變りな物だつた。

 あの茶釜だけは家の寶だで、何としても手放すまいと思つたがと、そつと目を拭いたには、思はずつり込まれて悲しくなつた。未だ他に、系圖と立派な腰の物もあつたが、悉く失くしてしまつたと、散々情けない事を聽かされて歸つて來た。

 後で聞いた話だが、その茶釜は、實は昔話以上に、持つて行つた親類の男の手から、諸方を渡り步いたさうである。豐橋から名古屋東京と、實は思惑で持廻つたのだが、男の思ふやうには金にならなんだと言ふ。それで仕方なく家へ持歸つてあるのださうである。そんな事から、昔話の文福茶釜其儘に、再び元の家の爐口へ、還るやうな日が無いとも言へぬ。

 

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