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2020/04/06

三州奇談卷之四 和光不ㇾ一

 

     和光不ㇾ一

 長(ちやう)家の祖神信連の宮は、寶曆三年[やぶちゃん注:一七五三年。]に吉田の神名帳に入って武顯麗社(ぶけんれいしや)と云ふ。九月十八日を祭日として、長家一家中終日の酒宴・能狂言等あり。金澤の邸にも御社建てらる。本社は能州穴水村の來迎寺に社を建つる。

[やぶちゃん注:表題は「和光、一(いつ)ならず」と読んでおく。「和光」は「和光同塵」の略で、仏教用語で仏・菩薩が本来の威光を和らげて塵に穢れたこの世に仮の身を現し、衆生を救うことを指すことを指すが、以下を読んで貰うと判るが、最後の事例に至ってそれとなる内容であって、必ずしも適切な表題とは言い難い。しかも、最後の話は個人的には山上での仕儀に非常な厭な感じがあって私は好きでない。

「長(ちやう)家の祖神信連」平安末から鎌倉前期にかけての武将で長氏の祖である長谷部信連(はせべのぶつら ?~建保六(一二一八)年)。ウィキの「長谷部信連」によれば、『人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えたが』、治承四(一一八〇)年、『王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した』(「平家物語」巻第四「信連」)。『平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた』。『信連の子孫は能登国穴水』(現在の石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)附近)『の国人として存続していき、長氏を称して能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた』とある。

「信連の宮」「武顯麗社」現在の石川県鳳珠郡穴水町(あなみずまち)川島にある長谷部神社。「石川県観光連盟」のサイトのこちらの解説に『戦国武将長氏の祖である鎌倉武士・長谷部信連を祀(まつ)っています。1218(建保6)年の信連の死後、自作と伝えられる肖像を、祈願寺であった穴水大町の来迎寺に安置したことに始まるとされ、後年、信連の後裔にあたる加賀藩老臣の長連頼が同寺境内に信連社堂(御影堂)を建立しました。1873(明治6)年、長谷部神社と改称し、1935(昭和10)年には信連ゆかりの穴水城のふもとにある現在地に移転しました。7月の例祭は長谷部まつりでにぎわいます』とある(リンク先に地図あり)。来迎寺は穴水町大町にある真言宗勅定山来迎寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、九世紀に創建された真言宗の古刹で、十二世紀になって穴水地区の領主となった長谷部氏の祈祷寺とされた。長谷部神社の西方一・八キロ位置にある。

「吉田の神名帳」京都市左京区吉田神楽岡町にある吉田神社の作成した神名帳。同神社の神職吉田家は寛永五(一六六五)年に江戸幕府が発布した「諸社禰宜神主法度」により、全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられて、明治に至るまで神道界に大きな権威を持っていたとウィキの「吉田神社」にある。]

 然るに寶曆五年の秋、金澤より公役に付きて侍一人彼(かの)所を通られしが、爰に詣で、此社の神像を拜まん事を乞ふ。折節住持は留守故、[やぶちゃん注:底本は句点。特異的に訂した。]小僧を責めて理不盡に祠(やしろ)の錠(ぢやう)を開けさせ、已に戶・帳(とばり)を開かんとせしに、忽ち社内より一陣の淸風一聲に吹出(ふきい)で、彼(かの)人を二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]外へ吹倒しけるに、小僧も侍も大きにあきれ果て、早く戶を閉(とざ)して錠をおろし、

「穴賢(あなかしこ)、沙汰すな」

とて寺を走り出けるとぞ。

[やぶちゃん注:「ゆめゆめこのような畏れ多いことをしてはいけない!」。]

 又松雲相公の御代、神道者一人ありて、願ひて宮々の内探しけるに、寺中村佐那武(さなたけ)の社に至りて、二度迄眼くらみて入ること能はず。終に寶器を數ふること能はずして止めたりと云ふ事を聞けり。

[やぶちゃん注:加賀藩第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。彼は正保二(一六四五)年六月十三日で三歳で藩主となったが、小松に隠居していた祖父で第二代藩主利常が後見した(万治元(一六五八)年十月に利常は死去)。享保八(一七二三)年五月六日、家督を四男の吉徳(よしのり)に譲って隠居している。

「寺中村佐那武の社」金沢市寺中町にある猿田彦大神を祭神とする大野湊神社。詳しくはウィキの「大野湊神社」を読まれたいが、『神亀4年(727年)、陸奥の人、佐那(さな)が航海中に猿田彦大神を拾い上げ、大野庄真砂山竿林(おおのしょうまさごやまさおのはやし)に既にあった神明社(祭神・天照大神)の傍らに一祠を建立し勧請したのが始まりとされる。この合祀より大野郷(旧宮腰・現金石町)の湊の守護神として、大野湊神社と称されるようになった。天平元年(729年)に「佐那武大明神」(さなたけだいみょうじん)の称号を与えられる。延長5年(927年)成立の延喜式神名帳に記載を持つ加賀郡の式内社で』、二千百三十三社ある『国幣小社のひとつである。社号は佐那武大宮大明神または佐良嶽(さらだけ)明神。平安末期には大野湊神社という社号は消えかわって「佐那武社」の名が見えるようになる。このころの当社は加賀馬場白山宮の有力末社となっていた(『白山之記』)。 現在、境内末社として佐那武白山神社を祀るのは、その名残りである。神社は建長4年(1252年)火災により古大野から東八丁をへだてた寺中町の離宮八幡宮(現在地)に奉遷された。戦国時代には荒廃したが、前田利家により再興。慶長9年(1604年)からは、恒例となる神事能の奉納が前田利長によって始められた。社殿は寛永16年(1639年)前田利常によって造営された』。「佐那武」という古い社名は『最初に猿田彦大神を勧請したという、陸奥の人佐那の名に由来するとされる。民俗学的解釈では、佐那はさなぎ(鐸、類聚名義抄による)で製鉄との関連を意味し、奥州の金売によって製鉄技術が伝えられたことを示唆するという。また、白山信仰との関連から、佐那武が祭神の猿田彦を指すという説もある』。『また、佐那は佐良嶽という地名に由来するという説もある。佐良嶽とは、現在の金沢市金石町あたり、犀川河口南岸にあったとされる砂丘地である。大野湊神社はこの佐良嶽の麓、大野湊に元々鎮座していたが、度重なる嵐や大波で砂丘地が削られ、神社は海中へ没したといわれる。佐良嶽の名も近世には既に失われてしまった』とある。]

 然るに延享三年[やぶちゃん注:一七四六年。]の秋、加州の大夫橫山大和守と申せし人、東武の歸路に信州戶隱山へ詣で給ふに、法印の坊案内して、拜殿に於て、

「此信州戶隱山と申すは、其かみ天の岩戶を引明け給ひし手力雄(てぢからのを)の神にして、扶桑鎭座の荒神なり。昔は此山上に安置せしなり。されば嶺頂(みねいただき)には、九頭龍權現靈驗いちじるく、荒神にて渡らせ給ふ。法施して下山あるべし」

と云ふに、橫山氏

「奧の院へ詣でん」

とありしに、法印大にとめて、

「この奧院と申は、住持さヘ一生に只一度百日齋戒して上り得申す事なり。是さへ多くはあやまちあり。自餘の人上る時は、忽ち山鳴り崩れ、怪我象あること疑ひなし。更に叶はざる事に候」

と云ふを、大和守聞かぬ顏して登らんとするに、法印袖にすがり押留むるを振放し、一さんに山上へ登られしに、平手武太夫と云へる小姓一人付きて登りけるに、法印あはて肝を潰し、

「古來より此山上へ登りし例(ためし)曾てなし。ひらに留り給へ」

と後より追付々々(おひつきおひつき)制せられしに、

「何ぞ神に詣で其奥院を望まで歸ること有るべきや」

とて、五十丁[やぶちゃん注:約五・四五五キロメートル。]を一走りに頂上の所迄往かれける。

[やぶちゃん注:「大夫橫山大和守」加賀八家横山家第六代当主で加賀藩年寄であった横山貴林(たかもと 元禄八(一六九五)年~延享五(一七四八)年)。官位は従五位下・大和守。

「戶隱山」長野県長野市にある現在の戸隠神社の御神体とされる戸隠山(とがくしやま)。標高千九百四メートル。ここにある通り、かの天手力雄命(あまのたじからのおのみこと)を主祭神とする。古くより天台密教や真言密教と神道とが習合した戸隠山勧修院顕光寺として知られ、修験道のメッカとして栄えていた。当時は東叡山寛永寺の末寺とされた。当神社の御神体である戸隠山という名は、天照大神が籠っていた天の岩戸を天手力雄命が力まかせに投げ飛ばした際、その一部が飛んで来て山になったという伝承による。

「九頭龍權現」伝承では、この地の地主神である九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)が天手力雄命を迎え入れたと伝える。「学門」という名の修行者の「法華経」の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じ込められたが、それが善神に転じ、水神として人々を助けたという伝承がある。

「奧の院」以上で参照したウィキの「戸隠神社」の「奥社」によれば、祭神は無論、『天手力雄命で』、『中社から車で2.5kmほど車道を登った後、まっすぐ続く約2kmの参道(車両進入禁止)を登りきった場所にある』(本文の距離が正しく記されてあることが判る)。『途中に赤い「随神門(山門)」があり、その奥は17世紀に植えられたとされる杉並木になっている。神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいた。旧奥院。廃仏毀釈までは聖観音菩薩(現在は長野県千曲市の長泉寺本尊、仁王尊像は長野市の寛慶寺)を祀っていた。戸隠三十三窟「本窟」「宝窟」と言われる中心となる窟が奥社本殿内部にあるが、非公開なので内部に何があるのかは秘密とされている』とある。但し、以下は実際の狭い山頂へ登ったものと思われる。山頂近くのグーグル・ストリート・ビューはこれ。サイト「ぶらり山旅」のこちらの方がよかろう。

「平手武太夫」不詳。]

 山上は堂宇もなく、まして佛像らしき物もあらず、長(た)け三尺許の巖石三ツ並びたりしのみなり。法印も詮方なく、震(ふる)ひ震ひ續き來(きたり)て、

「則(すなはち)其三つの石こそ御神體なれ」

と、うやうやしく申(まうし)ければ、和州公一笑して、

「此石を明神とは扨々聞へぬ事共なり。夫々(それぞれ)ふめ」

と仰せければ、小姓平手武太夫畏(かしこま)つて、

「草鞋(わらんぢ)ながらさんざんに踏みけるこそ心ちよけれ」

とて、主從山下して坊に歸り、食事など認(したた)め給ひけるに、法印は只あきれ、

「さるにても加州にては姓名をば誰とか申候や」

と問はれしかば、

「橫山大和守」

と名乘りて、參詣の法施として、每歲米十俵宛(づつ)寄附せしむべきの條を仰せて歸り給ふ。

 法印再び肝を潰しぬ。夫より春每に札を捧げて、金城へ來りて祈禱所と成りぬ。一はおどして一人を伏(ぶく)し、一つは和らぎて志を助く。何れか結緣の妙用ならん。深く味ふべき事にこそ。

[やぶちゃん注:「草鞋(わらんぢ)」の読みは国書刊行会本本文ひらがなによって振った。]

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