早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十九 古茶釜の話
十九 古 茶 釜 の 話
文福茶釜の話の次手に、狸とは直接緣を引いて居ないかも知れぬが、在家の爐口に吊してあつた茶釜の話がある。話の端が、幾分でも狸の問題に觸れて來ればめつけものである。
近在で使用して居た茶釜は、もつとも多く寶飯[やぶちゃん注:「ほい」。]郡の金屋(かなや)で出來たものと謂ふ。棗形で底に疣が三つ出て居た。肩の處に蔓が附いて居た。別に丸形の中央が膨れて、腰鍔のある茶釜をば、文福茶釜と呼んだのである。文福茶釜を使つてゐる家は滅多になかつた。爐に掛けるに工合が惡かつたからである。
[やぶちゃん注:「寶飯郡」「ほいぐん」。
「金屋(かなや)」愛知県豊川市金屋町(かなやちょう)であろう。古くからの鋳物師の町である。
「棗形」「なつめがた」。
「疣」「いぼ」。
「腰鍔」「こしつば」。釜本体の中央部分円周に水平に飛び出している羽のこと。]
前にも度々話した追分の村の中根某の家は、家としても古かつたが、爐に掛かつて居る茶釜がおそろしく古い物だつた。形は普通で心持ち丸形だつた。天正時代、長篠城三茶釜の一ツで、大したものだなどゝ謂うた。近頃になつて、其家の老人が時々思ひ出したやうに、其の茶釜を流れに持出して磨いて居るといふ話を聞いた。今に三百兩位で何處からか買手が出て來るだらうなどゝ、一人極め[やぶちゃん注:「ひとりぎめ」。]して居たさうであるが、此頃でも矢張爐に掛かつて居るといふ。
[やぶちゃん注:「追分」現在の新城市横川追分(グーグル・マップ・データ)。
「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。後者は一五八二年十月十五日から行用されたが、日本では天正十年九月十九日に当たる。]
自分の家の近所にも一個古いと言うふ茶釜を持つて居る家があつた。爐に吊してある處を通りかゝつた棒手振が見て、これなら五兩迄買ふと保證したとかで、大切にして居た。格別見た處變つても居なかつたが、底に疣のないのが普通の茶釜と異つて居た。
[やぶちゃん注:「棒手振」「ぼてぶり」と読む。「振り売り」とも。近世までの日本で盛んに行われていた商業の一形態で、笊(ざる)・木桶・木箱・籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、種々の商品を売ったり、頼み仕事や物品買い取りなど多様なことを行った。]
長篠村西組の赤尾某の家は、大して立派な暮らしもして居なかつたが、長篠戰爭時代から續いた舊家と言うた。此家の爐に掛かつて居た茶釜は、戰爭當時用ひた陣茶釜であると謂ふ。極く小形のもので、如何にも只の茶釜でない事は肯かれた。然し永い間問題にもならずに來たが、家が不如意になつて、小さな處に住むやうになつてから、近くの醫王寺の和尙が目を附け出して、大變な執心で遂に主人を口說[やぶちゃん注:「くどき」。]落して、永代祠堂金の代に寺へ引取つて行つたと謂ふ。和尙はそれを、前からあつた長篠役の遺物の中に加へて、來客に茶を立てたりして珍重して居たが、明治三十幾年醫王寺の出火に遇つて、殆ど形ばかりに成つてしまつた。寺へ遣つたばかりにあんな事になつたと、元の持主の老人が澪して[やぶちゃん注:「こぼして」。]居るのを聞いた事がある。
[やぶちゃん注:「長篠村西組」まさに医王寺を中心にしたこの広域(グーグル・マップ・データ)であろう。
「長篠戰爭」「長篠の戦い」。天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)にこの三河国長篠城を巡って、三万八千の信長・家康の連合軍と、一万五千人の武田勝頼の軍勢が戦ったそれ。
「明治三十幾年醫王寺の出火」正確な回禄のデータを知り得なかった。]
長篠城の倉屋敷の跡に住んで居た林某の家の茶釜も、珍しく古い物で、此家で家財整理をした折に、買取つた者が意外な金儲けをした噂があつた。林某の家も舊家で、長篠合戰の勇士の後裔であつた。
[やぶちゃん注:「長篠城の倉屋敷の跡」「新城市」公式サイト内の「長篠城跡周辺案内図」(PDF)によって、長篠矢貝津(やがいつ)のこのT字路の東北角部分に蔵屋敷があったことが判る。]
八名郡山吉田村新戶(あらと)の某の家の茶釜も、古いものだつたさうである。珍らしく大きな茶釜だつたが、形は變つては居なかつた。湯が沸いて來ると、釜の肌色が赤味を帶んで[やぶちゃん注:「おんで」。帯びて。]來て、何とも言へぬ光澤が出て來るのが不思議であると言うた。後に主人が床の間に持込んで花を活けてあると云ふ話を聞いた。
[やぶちゃん注:「八名郡山吉田」(やまよしだ)「村新戶」現在の新城市下吉田南新戸(しもよしだみなみあらと)(グーグル・マップ・データ)附近かと思われる。]
斯うして竝べて見ると、古い茶釜の話の家が、どれも舊家であるが、何れも家運が以前程でなくなつて居たのである。勿論不如意になつてこそ、自在鍵に掛けられた茶釜も問題になるのであるが、別に茶釜と家の福分とを、結びつけた何物かがあつて、こんな話も出來て來るのでないかと思ふ。茶釜の中に福の神が居ると言うて、自分なども幼少の頃から八釜しく言はれたものであつた。三州橫山話に書いた村の長者の家は、主婦が誤つて茶釜に錘(つむ)を當てたゝめに、家の福の神が遁出して[やぶちゃん注:「にげだして」。]、忽ち沒落したと言うて居る。今一段と材料を集めて行つたら、福の神の正體が意外な姿を顯はして來さうにも思はれる。
[やぶちゃん注:「三州橫山話に書いた村の長者の家は、主婦が誤つて茶釜に錘(つむ)を當てたゝめに、家の福の神が遁出して、忽ち沒落したと言うて居る」サイト「笠網漁の鮎滝」内の「早川孝太郎研究会」による「三州民話の里」の先行する「三州橫山話」の「村の草分け」である。全文を引用させて頂く。
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村の草分けとも言うべき旧家は、字神田の山口と言う家だとも、宮貝津の早川孫三郎と言う家だとも言い、字神田の長者平は、昔長者の屋敷跡とも言いますが、近い頃まで栄えていたのはこの二軒だけでしたが、今はどちらも没落してありません。
山口と言う家は百年ほど前までは非常に栄えていたそうで、今でも立派な屋敷跡がありますが、ある時この家の召使が、過って茶釜に紡錘をあてたために、その夜座敷に住んでいた福の神が遁げ出したので、それからだんだん家運が衰えてしまったと言うことです。福の神の姿を見たとは言いませんが、翌朝裏口に、非常に巨きな足跡がたった一つ、後の山の方に向けてあったと言います。(茶釜や茶釜の蓋へ紡錘をあてることを厭む風習があって、蓋へあたったかしら、というぐらいでも早速修験者を招いて祈祷をして、その蓋は川へ流したなどの事実を微かに記憶しています。紡錘を当てるのは、ツム倒れといって厭むとも言います。)
早川孫三郎と言う家は、今から四〇年前に、一家を挙げて東京へ引き払ったそうで、今は屋敷跡は畑になっていますが、この家の没落は、村の鎮守が、昔は自分の家の地の神であったという理由で、その森を伐り払って、鎮守を自分の所有の芝刈山へ遷座した罰とも言います。家運の乱れるそもそもの最初は、ある朝、この家の家内が井戸で水を汲もうとすると、井戸車へ、ぱっと優曇華が咲いたといって、アレ優曇華が、と言って見返す間に消えてなくなったとも言いました。横山の御館と言えば、近郷に鳴り響いた家柄で、座敷の縁側に立って、眼に入る限りの山や畑が、全部この家の所有であったと言います。伝説には、先祖が横山の字コンニャクと言うところの岩山で金を掘って富を獲たとも言って、そこを現今でも金掘りと称えておりますが、別の話ではそこは後世掘りかけて中止した跡だとも言います。
横山の村のものなどは、二、三のものを除いては、対談の叶うものはなく、全部が召使のようで、この家の田植に出なかったため、村を追われるところを、詫びを入れてやっとゆるされたなどの話がありました。全盛の最後の人は、村の者が俗に今様と呼んだ人で、体格も勝れて立派であったと言うことですが、子供の頃は類い稀な美少年で、ある年の田植に、畔に立って苗を運んでいる姿を、通りすがりの道者が見て、こんな山深い土地に、かくまで美しい子供があるものかと見とれて行ったと言うような話もありました。
鎮守の森を伐り払った時は、今から九〇年前だそうですが、故老の話に、幾百年を経過したともはかり知れない古木が、鬱蒼と茂っていて、川を隔てて大海村の鎮守の森と、枝と枝とが相接した間に、無数の群猿が遊んでいた光景は見事なものであったと言います。
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・「字神田」これで「あざ」「じんでん」と読む。早川氏手書きの同書の「橫山略圖」(PDF)の右下方、寒狭川(早川氏はこの図だけでなく、本書でも一貫して「寒峽川」と表記しておられる。以前に述べた通り、峡谷の川であるから、この表記もありだと思う)の「猿橋」の左岸に「(字神田)」とある。横川(よこがわ)神田(じんでん)(グーグル・マップ・データ航空写真)。
・「宮貝津」神田の南東の横川宮貝津(みやかいづ)(グーグル・マップ・データ航空写真)。
・「長者平」先の地図の「(字神田)」と書かれた位置の左上方の道を隔てた直近に「長者址」とある。
・「茶釜や茶釜の蓋へ紡錘」(つむ)「をあてることを厭む風習」「その蓋は川へ流した」「紡錘を当てるのは、ツム倒れといって厭む」この禁忌は何かで読んだ記憶が確かにあるのだが、思い出せない。思い出したら、追記する。
・「優曇華」「うどんげ」。仏教伝承にある架空の花で、三千年に一度だけ花を咲かせるといい、その時に金輪王(こんりんおう:転輪王の一柱で、転輪王の中で一番最後に出現し、金の輪法を感得して四州全体を治めるとされる聖王)が現世に出現するという。
・「御館」「おやかた」と訓じておく。
・「横山の字コンニャク」「現今でも金掘りと称えております」先の地図の中央上部の山稜の、少し左手に行った谷に「(コンニヤク)」と「金掘址」とある。妙な地名とお思いだろうが、実は寒狭川を挟んだ向かい側の山中(かなり離れる)にも、新城市浅谷蒟蒻があるのである。
・「今様」「いまさま」か。
・「鎮守の森を伐り払った時は、今から九〇年前だそう」「三州横山話」は大正一〇(一九二一)年の刊行だから、一八三一年前後で文政十三年・天保元年・天保二年前後に相当する。先の地図の右下の寒狭川左岸一帯に「鎭守址」とあるのがそれであろう。
・「大海村」新城市大海(おおみ)(グーグル・マップ・データ)。そ「の鎮守の森と、枝と枝とが相接した間」はこの付近となる(グーグル・マップ・データ航空写真)。
さて本書の本文に戻ると、最後に「今一段と材料を集めて行つたら、福の神の正體が意外な姿を顯はして來さうにも思はれる」と早川氏が示唆するのは、以上に引用した「三州橫山話」で「裏口に、非常に巨きな足跡がたった一つ、後の山の方に向けて」残して去ってしまった、その「福の神の正體が」実は狸の化身であったという可能性があるのではないかと言うことであろうと私は読むのである。]
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