三州奇談卷之五 鹿熊の鐵龜 /「三州奇談」(正篇)~全電子化注完遂
鹿熊の鐵龜
鹿熊(しかくま)の城跡は、魚津を去ること三里、北陸中の名城の聞えあり。今年久しうしても、城跡の山猶顯然として、道羊膓(やうちやう)と曲れり。是(これ)昔(むかし)椎名・土肥・神保等の籠(こも)る所。後は皆、越後長尾景虎に隨ひて幕下となる。其後富山城主佐々内藏助成政、爰を責めて勝負互にあり。佐々は奇代の勇者、太閤秀吉も朝鮮御征伐中々はかゆかざる時、佐々が事を思し召し出され、
「彼(か)の大氣者を殺して殘念、今事を缺くぞや。此ほど生きてあらば、かくまで手間入りさせじものを」
と仰せありしとなり。能く見所の有る勇將にや有けん。されば成政に對するなれば、椎名・土肥・神保終に勝つ事を得ず。或は明(あ)け退(しりぞ)き歸降(きかう)して忽ち此城破却にぞ及びける。
[やぶちゃん注:「鹿熊の城跡」サイト「城郭放浪記」のこちらによれば、鹿熊城殿砦(じょうでんとりで)で、富山県魚津市鹿熊にある城跡であるが、詳しいことは不明。現在、山腹にある春日社の境内となっている平段一帯に築かれていたとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト主は同じ鹿熊の東にあった本篇にも後で出る松倉城と関係性があるとする。そこで松倉城の記載を見ると、『築城年代は定かではないが南北朝時代に井上俊清によって築かれたと云われる』。『戦国時代には守護畠山氏の守護代椎名氏の居城であった。椎名氏は上杉氏が越中に侵攻するとそれに降ったが、後に武田信玄と結び上杉氏に背いた。永禄12年(1569年)上杉謙信によって攻められ落城、椎名康胤は逃亡した。上杉氏は後に金山城にいた河田長親を移し拠点として重要視するが、天正10』(1582年)『年織田氏に攻められ落城した』とある。さても麦水は「城跡の山猶顯然として、道羊膓と曲れり」と書いているのだが、どう見てもそれは「鹿熊城」ではなく、うねくねっているのは松倉城の方である。位置認識に誤謬があるとしか思われない。
「椎名」前注の引用に出た。
「土肥」ウィキの「土肥氏」によれば、『建長年間(1249年 - 1255年)に土肥氏の一族である土肥頼平が越中国(現・富山県)に地頭として入ったとされるが、不明な点が多い。その後、同地で勢力を伸ばし、南北朝時代から戦国時代には越中国の代表的な国人として勢威を振るった。越中国守護であった畠山氏の傘下に入り、畠山氏の家督争いでも活躍している』とある。
「神保」ウィキの「神保氏」によれば、『神保氏は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で、畠山氏の領国越中、能登、紀伊などの守護代を務め、越中国射水郡放生津に本拠を構えた』。『応仁の乱では東軍畠山政長の腹心として神保長誠が活躍、明応の政変で幽閉された将軍・足利義稙を救出し、放生津館に迎えるなど最盛期を迎えたが、長誠の後継者慶宗は主家畠山氏からの独立を目指し、一向一揆と手を結んで長尾能景を討つなどの行動をとったために主君畠山尚順(尚長)の怒りを買い、長尾・畠山連合軍による討伐を受け、永正17年(1520年)新庄の戦いで能景の子・長尾為景の軍に敗れて敗走中に慶宗が自刃し、壊滅状態となった』。『しかし天文期になり、慶宗の遺児とみられる長職が新川郡に富山城を築いて神保氏を再興し、新川郡守護代の椎名氏との抗争を経て越中一国を席巻する勢いとなったが、椎名氏の援軍要請を受けた上杉謙信(長尾為景の実子)』(本篇の「長尾景虎」に同じい)『に敗北し、上杉氏に従属する。しかしやがて武田・一向宗派と上杉派に家中が分裂し、内紛状態となって衰退し、家中の実権は親上杉派の家老小島職鎮に握られた。長職の嫡子長住は武田派であったとみられ、越中を出奔して京に上り織田信長に仕え、越中帰還の機会を待った』。『やがて天正6年(1578年)3月13日に越後で上杉謙信が急死すると、信長は長住に兵を与えて越中へ侵攻させ、長住は富山城に入城して神保氏の実権を取り戻した。しかし天正10年(1582年)3月、小島職鎮らが甲斐国の武田勝頼の流した虚報(武田領内に押し寄せた織田・徳川両軍を勝頼が悉く討ち果たしたとのもの)をうけて一揆を起こし、長住は富山城を奪われ幽閉された。織田勢により富山城は奪還されたが、信長はこれに怒って長住を越中から追放し、越中守護代神保氏は滅びた』とある。
「佐々内藏助成政」複数回既出既注。「妬氣成ㇾ靈」の私の注を見られたい。
「はかゆかざる」「はか」には「計」「量」「捗」の漢字を当てる。事態がどうにも上手く運ばない、はかどらない、の意。
「かくまで手間入りさせじものを」実は底本は「さぜしものを」。国書刊行会本・「加越能奇談」・「近世奇談全集」総て「させし」と清音であるが、どれも意味が通らないので、特異的に私がいじって打消・意志(推量)とした。]
其麓には角川(かどかは)といふ流れあり。其むかしは、此城を越中松倉の城といふ。其世より傳はる家の百姓、今猶此麓にすめり。一つの手取釜を持つ。三つ足あり。いづれも鐵の龜の鑄かたあり。
[やぶちゃん注:「角川」先の地図を今一度見てもらうと、早月川の右岸をほぼ並走して流れて鹿熊を松倉城をぐるりと回りこんで鹿熊城の東を貫通する角川が確認出来る。]
元文年中[やぶちゃん注:一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。]の事にや、此主人彼(かの)手取釜を角川へ持出で洗ひける。頃しも五月雨(さみだれ)の降り晴れて、水多く草をひたし、浮草の打交(うちまじは)る許りに流水廣がりける。
時しも何心なく此手取釜を水にひたして打忘れ、傍に蓴菜(ぬなは)の折々見えけるを、たぐり寄せたぐり寄せして、暫く立ちたりしが、此手取釜水底(みなそこ)にありながら動くやうに見へけるが儘、
「怪しや」
と引上げて見たりけるに、三つ足の鐵の龜とも動搖して這ひ步くなり。
其中にはや一つは釜より
「こくり」
ともげ落ちて、鐵龜心よげに見返り見返り逃去(にげさ)る。
「是は」
と騷ぎ驚き、水に入りて押(おさ)へんとするに、水草の葉隱れをあちこち逃廻り、終に深き方へ馳せ行きける。
主人大に驚き、跡をみるに、二つの龜どもゝ動搖すること止まず。
故につよく繩を以て結はへ、嚴しく抱へて走り歸りけり。
其後(そののち)は赤がねを以てうへを包み、「名物の釜」とて、人々深く懇望せざれば見せず。
誠に不思議なり。狩野(かのう)が下繪なるなど沙汰も高し。
[やぶちゃん注:この話、なんか、ヘンじゃねえか? 三つ足の手取釜の一つの亀が抜け出して、淵の底へ行っちまったのなら、亀の形をした足は二つしかないはずだろ? まてまて、三ヶ所ならまだしも、二ヶ所じゃ、その釜は土間には置けねえな?
「蓴菜(ぬなは)」読みは国書刊行会本の本文『ぬなわ』を参考にした。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。
「狩野」室町中期(十五世紀)から江戸時代末期(十九世紀)まで、約四百年に亙って活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である狩野派の画家。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫が織田信長・豊臣秀吉・歴代の徳川将軍などに絵師として仕えた。日本絵画史上最大の画派。但し、参照したウィキの「狩野派」を読まれると判るが、この時期には目立った画名人は残念ながら出ていない。]
或人曰く、
「慶長九年[やぶちゃん注:一六〇四年。]、前田利長公[やぶちゃん注:加賀藩初代藩主。]、此地巡見なされし時、早速鹿熊の城を壞(こぼ)ちて、富山の城へ引移らさせ給ひけり。其事を近臣御尋ね申上げ、
『昔より爰は名城と承り候に、如何(いかが)思召(おぼしめ)す』
と尋ね奉りしに、則ち仰られけるは、
『地は如何にも宜(よろ)しき所なれども、地中に磁石(じしやく)の氣多し。是(ここ)に城を建つる時は、刀・鎗の氣なまりて、快き合戰ならぬ地なり。捨つる方(はう)よし』
と仰せける」
と昔話しあり。是を以て思へば、元文年中の鐵釜の龜の動(うごき)し變も、是(ここ)らの磁石の氣に引(ひか)るゝ故にや。誠に名君の御眼力、數百歲の後といへども、驚く事多きものなり。
[やぶちゃん注:以上を以って「三州奇談卷之五」、いやさ、「三州奇談」正篇は総てを終わっている。]