早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 八 狸の火
八 狸 の 火
狸がやはり火を點すと謂ふ。靑いとも又赤い色をして居るとも謂つて、定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]居ないやうである。然し一方には、狸の火は赤く、狐の火は靑く、天狗の火は赤くて輝きがあるなどと尤もらしく語る者もあつた。山の陰に入つても、木立の下へかくれても、同じやうに見えて居たと言ふ者もある。
長篠の醫王寺から、橫山の方へ向かつて、山を越して來て、長篠の本街道へ出る辻のあたりは、よく狸が出て嚇す所と聞いたが、又其處で火を點すとも言うた。
[やぶちゃん注:「長篠の醫王寺」新城市長篠弥陀の前にある曹洞宗長篠山医王寺(グーグル・マップ・データ)。永正一一(一五一四)年創建された。天正三(一五七五)年の「長篠・設楽原の戦い」の際には武田勝頼が背後の医王寺山に本陣を置いたことで知られる。
「橫山の方へ向かつて、山を越して來て、長篠の本街道へ出る辻のあたり」山を越す道は現在認められないが、この直角三角形の頂点の孰れかか、或いはこの三角の域内であろう。以下の描写からは直角の角の現在の長篠橋南詰附近(グーグル・マップ・データ航空写真)と思う。]
山路をダラダラ降つて來て、本街道の辻へ出ると、前が寒峽川の廣い谿で、谿の彼方に、大海や出澤の村の灯がチラチラ見える。更に行く手には橫山の村の火も見えた。狸や狐の火でなくとも、寂しい感じのしたものである。又時とすると、遠くの鴈望山(かんぼうやま)のあたりへも、チラチラ見える事があつた。自分が小學校を卒業する年には、夜學に通つて每夜其道を通つたもので、坂を下つて來て向ふの火を見た時、ハツとした事はある。さうかと言うて一度もそれらしく思ふものを見た事はなかつた。
[やぶちゃん注:「鴈望山」標高六百二十八・六メートルの雁峰山(がんぽうさん)。新城市街の北側にあり、「長篠の戦い」で奥平貞昌家臣で自らを犠牲としたことで知られる鳥居強右衛門勝商(すねえもんかつあき:「鹿」の「二 鹿の跡を尋ねて」の私の注を参照)が烽火(のろし)を上げた山として知られる。ここ(国土地理院図)。
「早川孝太郎は明治三三(一九〇〇)年三月に長篠尋常小学校を卒業(当時は四年生)し、四月に同校高等科に入学し、明治三十五年同高等科を数え十四で卒業している。後者であろう。]
或は又、丁度その邊りから、怪しい人影が、後や先に隨いて來る事がある、こつちが止れば向ふも止り、急げば急いで、村の入口迄來て消えるなどゝも謂うた。現にさうした經驗をした者が、自分の訊いたゞけでも何人かあつた。某の男が遇つた時は、村の入口の橋迄來ると、ドンドン脇へそれて、川の中へは入つてしまつたと謂うた。
[やぶちゃん注:「村の入口の橋」恐らくこの中央附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在は暗渠水路化したものか、見られないが、スタンフォード大学の明治二三(一八九〇)年測図・大正六(一九一七)年修正版「國土地理院圖」の「三河大野」を見ると、橋のこの辺りに記号があり、現在の国土地理院図でも流れを認める。例の早川氏の手書き地図の右端にある「仙ノ澤」(これは現在の字地名の「世リノ沢」(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう)という流れに架かる橋である。]
自分が子供の頃だつた。其處で恠しい者に遇つたと言ふ男が、夜中に大戶を叩いた事がある。近所の村の物持の主人だつた。何でも其處へかゝつた頃から、前に立つて影のやうに步いて居る者があつた。村の入口へ來ても中中姿を消さないで、遂にお宅の前迄來たと言ふ。これから又山を越して歸る氣になれぬから、どうか泊めて貰ひ度いと言うて居た。それも矢張り狸の惡戯と言ふ。
或は又、さうした場合、狸ならば最後に姿を隱す時、えらい音をさせて消えるから判るともいふ。
[やぶちゃん注:ここに語られるそれの内、自分の前に現に人影が見えるというのは背後に月が出ていて、進行方向に薄い霧がかかった状態であれば、ブロッケン現象で説明がつく。]
« 早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 七 狸と物識り | トップページ | 石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) ひとりゆかむ »