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« 三州奇談卷之五 武家の怪例 | トップページ | 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 一 »

2020/04/20

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 電子化注始動 / はしがき・目次

 

[やぶちゃん注:私は既に本ブログのカテゴリ「柴田宵曲」で彼の「妖異博物館」・「續妖異博物館」・「虫の句若干」・「ねずみの句」・「俳諧漫筆 菊」・「俳諧漫筆其の七 蒲公英」・「俳諧漫筆(十)」(金魚に関わる俳諧随想)・「俳諧漫筆 コスモス」・「猫」・「俳諧博物誌」・「子規居士」(「評伝 正岡子規」原題)の電子化注をしてきた。二〇一八年にそれらを終えて後、ずっとどうしてもやっておきたいと感じたのは「蕉門の人々」である。そこでの柴田の九人の蕉門俳人に対する半端ない鋭い剔抉には非常な敬意を払い続けてきたからである。では、何故、この仕儀に躊躇してきたかと言えば、そこで宵曲が挙げるそれぞれの俳人の句意をお前は理解出来ているのかという反問が常に自分の中にあったからである。年齢を重ねてみて初めて腑に落ちた句の数も増えてはきた。未だ十全とは言えないが、しかし、ここでこれを行って宵曲には一区切りをつけたいと考えた。

 書誌学者で俳人・随筆家としても知られた柴田宵曲(明治三〇(一八九七)年~昭和四一(一九六六)年は、本名、泰助、東京生まれ。開成中学中退(家庭の自己都合)。新聞社の臨時校正係から、大正七(一九一八)年、俳句好きだったことから、『ホトトギス』社編集員となる。亡き子規の同郷の門弟俳人であった寒川鼠骨に好かれて師事し、第一次「子規全集」編纂に尽力、三田村鳶魚の口述筆記と著作編集にも従事した。昭和六(一九三一)年からは政教社に勤務、『日本及日本人』の編集に携わったりした、博覧強記の文人である。

 本篇の初出は冒頭の宵曲の「はしがき」にある通り、昭和一一(一九三六)年七月から昭和一五(一九四〇)年まで、雑誌『桐の葉』に「俳諧遠眼鏡」という表題で連載されたものである。底本は初版原本に従いたいところであったが、国立国会図書館デジタルコレクションその他の電子化もされておらず、遂に今まで入手出来ていない。されば、新字新仮名であるが、一九八六年岩波文庫刊の「俳諧随筆 蕉門の人々」を使用する(親本は昭和一五(一九四〇)年十二月三省堂刊「俳諧随筆蕉門の人々」)。読みは、岩波が勝手に附した可能性が高いこと、引用の発句や古文に対してさえ現代仮名遣で振っていることから、必要と判断したもののみ採用した。その表記に際しては拗音等の手を加えてある。句の読みは現代仮名遣では話にならないので、必要と思われる場合は、基本、句の直後に別に歴史的仮名遣で注した(私の注でのそれは中に入れ込んである)。引用される発句等は三字下げで字空けが施されてあるが、やはり不具合を考えて字空けせずに、一字下げで示した。前書もそれに合わせてある。底本ではそれら、句の前書はポイント落ちであるが、同ポイントとした。署名の位置もブラウザの不具合を考えて引き上げてあり、字空けも無視して詰めた。傍点「○」は太字下線とした。踊り字「〱」「〲」は注引用も含めて正字化した。

 注は私が若い読者を想定して必要と感じたもののみに禁欲的に附す。なお、私が判らない諸家の句には正直に句意の不詳の旨を記すこととする。識者の御教授を戴けれならば、恩幸これに過ぎたるはない。] 

 

     は し が き

 

 本書の内容は昭和十一年七月以来、野村泊月氏の主宰する雑誌『桐の葉』に連載したものである。もともと何の計画もなしに書きはじめた仕事なので、爾来漫然今日に及んでいるが、どこまで進行しなげればならぬという性質のものでもないから、さし当りこれだけを一冊として纏めることにした。

 純然たる研究でもなければ考証でもない。近頃よく耳にする評伝とか、鑑賞とかいう言葉もぴったり当嵌らぬようである。ただ作品を通して直接その人の面目を窺おうという、おぼつかない試の一に過ぎぬ。『桐の葉』に連載するに当って「俳諧遠眼鏡」という標題を用いたのも、奇を好んだのでも何でもない、何と名づくべきかに窮した結果であった。いずれにせよ、話は「蕉門の人々」の上を離れぬのだから、これを本書の名としても、格別差支はあるまいと思う。

 本書に取上げた人々は、皆俳諧史上にいわゆる元禄期の作家である。従って本文中に用いた元禄という言葉は、必ずしも厳密な意味における元禄年間という意味ではない。時に天和、貞享(じょうきょう)に遡ることがあるかと思うと、宝永、正徳(しょうとく)を降ることもある。在来の慣例に従い、芭蕉を中心とする俳諧大成期を一括して、元禄時代と称するまでの話である。その点は予め読者の諒察を乞わなければならぬ。

 野村泊月氏からは『桐の葉』連載中、絶えず鞭撻を受けた。同氏の鞭撻がなかったら、自分のような無精者は疾(とっ)くに中途で筆を抛(なげう)っていたかも知れない。本書がともかくも一部を成すに至ったのは、全く同氏の御蔭である。また本書の補訂を行うに当り、安井小洒(しょうしゃ)氏の『蕉門名家句集』によって少からざる便宜を得た。併せ附記して感謝の意を表する。

  昭和十五年九月

               著   者

[やぶちゃん注:最後の「著者」という署名は下インデント三字上げポイント上げであるが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。

「野村泊月」(明治一五(一八八二)年~昭和三六(一九六一)年)兵庫県生まれ。本名、野村勇(旧姓西山)。明治三八(一九〇五)年東京専門学校(早稲田大学の前身)英文科卒。上海に渡って東亜同文書院に学び、また、アメリカに渡った。帰国後、大阪にて日英学館を経営する一方、出版社花鳥堂を創建した。高浜虚子に俳句を学び、大正一一(一九二二)年に仲間と立ち上げた俳誌『山茶花』の雑詠選者となり、昭和四(一九二九)年には『ホトトギス』同人となった。昭和一一(一九三六)年、『山茶花』を辞し、俳誌『桐の葉』を創刊して主宰となった。豪放磊落にして酒豪であった。句集に「比叡」「旅」「雪溪」など(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠った)。泊月の句は単一句集からのものであるが、岸本尚毅氏の「野村泊月『比叡』」PDF)で読める。また、俳句ウェブマガジン「スピカ」の泊月の妻くに女の句「塵捨てに出て山吹を手折りたる  野村くに女」の解説に彼のことが非常に詳しく載る。

「差支」「さしつかえ」。

「元禄」年号としては一六八八年から一七〇四年まで。

「天和」一六八一年~一六八四年。松尾芭蕉が江戸で桃青を名乗って立机(りっき:宗匠となって職業的俳諧師となること)したのは天和の前の延宝六(一六七八)年のことである。

「貞享」一六八四年~一六八八年。

「宝永」一七〇四年~一七一一年。

「正徳」一七一一年~一七一六年。

「安井小洒」(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年)は俳人で蕉門を中心とした俳文学研究家にして兵庫の「なつめや書荘」店主。本名、知之。「蕉門名家句集」は昭和一一(一九三六)年に自社から刊行したもの。

 以下、目次。リーダとページ数は排除した。なお、最後に掲げられる恐らく三省堂親本に付随する森銑三氏の解説「『蕉門の人々』を読む」は森氏の著作権が継続しているので電子化しない。

 

    目  次

 

 はしがき

其  角

嵐  雪

惟  然

凡  兆

去  来

丈  辨

史  邦

木  導

一  笑

『蕉門の人々』を読む(森銑三)

 

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