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2020/04/24

三州奇談卷之五 邪宗殘ㇾ妖

 

    邪宗殘ㇾ妖

 蘆峅(あしくら)の姥堂(おんばだう)は、則(すなはち)立山禪定(ぜんじやう)の麓にして、諸人の知る所、衆の尊む所なり。佛說に依りていへば、事古きに似たり。暫く好事(かうず)の人のかたりしを聞くに、

「此姥堂の本尊の躰(てい)は、古への帝王のハウコと云ふ物なり。我れ南都興福寺の開帳をみるに、『神武天皇のハウコなり』とて拜ませたり。則ち此ものなり。傳へ云ふ、『皇后孕み給ふ事あれば、必ずハウコといふ物を作りて、是を祭り拜す。皇子御降誕ありて後、此物を捨つ。今小兒の翫(もてあそ)ぶ物多く是に始まる。之に依て見る時は、此(この)本尊又朝廷のもて遊び物なり』と。」

是れ實か非か、未だ尋ね沙汰することなし。今思ふに、北倭蝦夷(ほくわえぞ)の事を聞くに、必ず此事あり。「かもい」といふ像を作り、逆木(さかぎ)をけづり、是を病人の枕元に立てゝ祭り、其後病(やまひ)癒ゆる時は是を山に捨つ。日本も又上古は是にひとしき事も多かりし。像を立つること、南蠻多く是をなし、耶蘇天人華宗始めは壽像を造りて年壽を祈り、其後美人を畫(か)き愛敬(あいぎやう)を祈る。良々(やや)趣同じ。是文字等に依らざるの國は古へは皆斯くの如し。

[やぶちゃん注:表題は「邪宗(じやしゆう)、妖(えう)を殘(のこ)す」。

「蘆峅の姥堂(おんばだう)」現存しないが、現在の富山県中新川郡立山町(まち)芦峅寺(あしくらじ)のこちらに「姥堂跡」がある(グーグル・マップ・データ)。「おんばだう」の読みは、サイド・パネルにある解説版写真に従った。但し、そこでは「𪦮堂」と表記されてあり、「ウィクショナリー」の同字の解説には、『富山県中新川郡立山町の地名に用いた日本の国字。𪦮堂で「うばどう」と読む』とある。以下に画像から視認して電子化する。

   *

𪦮(おんば)堂

𪦮(おんば)堂は、江戸時代芦峅寺(あしくらじ)中宮寺の最も重要な行事である布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)の際の中心的な施設でした。布橋灌頂会とは、女性の極楽(ごくらく)往生の願望をかなえてくれる宗教儀式です。𪦮堂内には、中心となる𪦮尊像3躰を始め、全国66か国に因(ちな)んだ66躰の𪦮尊の合計69躰の𪦮尊が安置されていました。布橋を渡り、𪦮堂に導かれた女性たちは、いっとき籠(こ)もりを体験し、さらに立山の姿を仰ぐことで極楽浄土に生まれかわるというものでした。

𪦮堂は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により取り壊されました。

   *

次に、平成二八(二〇一六)年七月十四日に「とやま自遊館」で行われた、第百八十九回「河川文化を語る会」での北陸大学未来創造学部准教授福江充氏の講演「立山曼荼羅に表徴された常願寺川水系の水神信仰」という講演のレジュメPDF)を見て戴くのがよい。そこには、往時の面影を伝える「立山曼荼羅」(カラー画像)が掲げられ、その指示ナンバー「44」位置(屏風曼荼羅の最も右の最下方)に𪦮堂と𪦮尊像が描かれてある(後の「布橋灌頂会」の条以下に𪦮堂その他の美麗な拡大画像がある)。以下、「立山曼荼羅」の解説に続いて、「布橋灌頂会」の解説が載る。以下、「芦峅寺で行われた布橋潅頂会」から。

   《引用開始》

 江戸時代、越中立山は山中に地獄や浄土がある“あの世”と考えられていた。

 人々はあの世の立山に入山することで擬似的に死者となり、地獄の責め苦に見立てられた厳しい禅定登山を行うことで、自分の罪を滅ぼして下山する。こうして新たな人格・生命に再生し、現世の安穏や死後の浄土往生が約束された。

 しかし、当時の立山は女人禁制の霊場であった。そこで、江戸時代、毎年秋彼岸の中日に山麓の芦峅寺村(現、富山県中新川郡立山町)では、男性の禅定登山と同義の儀礼として、村の閻魔堂・布橋・姥堂の宗教施設を舞台に、女性の浄土往生を願って「布橋大灌頂」と称する法会が開催された。

   《引用終了》

続く「布橋濯頂会の内容」によれば、『全国から参集した女性参詣者(実際は男性参詣者も参加していた)は閻魔堂』(先の「曼荼羅図」の姥堂の左手上方に堂と閻魔像と左右に冥官(司令・司録)の像が見られる)『で懺悔の儀式を受け、次にこの世とあの世の境界の布橋』(姥堂の前に描かれてある)『を渡り、死後の世界に赴く』。『そこには立山山中に見立てられた姥堂(芦峅寺の人々の山の神を根源とする姥尊が祀られている)があり、堂内で天台系の儀式を受けた』。『こうして、すべての儀式に参加した女性は、受戒し血脈』(けちみゃく)『を授かり、男性のように死後の浄土往生が約束されたのである』とある。次に「布橋潅頂会と大蛇伝承」の条があり、『芦峅寺村の伝承では、布橋大灌頂の参加者は、白布が敷き渡された布橋を目隠しをして渡ったが、信心が薄く、邪心のある者は、布橋が細蟹(クモのこと。また、クモの細)の網糸より細く見えてうまく渡れず、橋から姥谷川に転落し、その川に棲む大蛇に巻かれて死んでしまうという』と続くのであるが、「曼荼羅図」を見ると、橋の下に川中には龍が描かれ、しかも姥堂の上方には地獄の奪衣婆が描かれており、男女の亡者の姿が描かれているのは、まさにその末路を指すであろう。以下、少し後に「芦峅寺の姥尊信仰」の条が出る。

   《引用開始》

 江戸時代、立山信仰の拠点村落である芦峅寺は加賀藩の支配下に置かれ、38軒の宿坊を構え、同藩の祈願所や立山禅定登山の基地としての役割を果たしていた。宿坊の主人は加賀藩の身分支配上は宗教者として扱われ、衆徒と称された。

 芦峅寺衆徒は実生活上は焼畑も行い半僧半俗のかたちをとっていた。同時代芦峅寺集落には、芦峅中宮寺の施設として姥堂・閻魔堂・帝釈堂・布橋・立山開山堂・講堂・拝殿・大宮・若宮・立山開山廟所などが建ち並んでいた。このうち姥堂は、江戸時代、姥谷川の左岸、閻魔堂の先の布橋を渡った所に、入母屋造、唐様の建築様式で立っていた。

 堂内には本尊3体の姥尊像が須弥壇上の厨子に祀られ、さらにその両脇壇上には、江戸時代の日本の国数にちなみ、66体の姥尊像が祀られていた。その姿は乳房を垂らした老婆で、片膝を立てて座す。容貌は髪が長く、目を見開き、中には目をカッと開けたものや般若相のものもあり、いかにも恐ろしげである。

 現存の像は、いずれも南北朝時代(現存最古の姥尊は永和元年〔1375〕に成立したものである)から江戸時代にかけて作られている。

 この異形の姥尊は、芦峅寺の人々にはもとより、越中国主佐々成政や加賀初代藩主前田利家らの武将たちにも、芦峅寺で最も重要な尊体と位置づけられ、信仰された。

 芦峅寺が立山信仰の宗教村落になる以前から、同村には猟師や柚・木挽などの山民や焼畑農民が存在しており、彼らは山の神に対する信仰をもっていたと推測される。それは縄文時代につながるものかもしれない。芦峅寺の姥尊は、まずこうした山の神を起源とするものであろう。

 姥尊は、その後、同村が宗教村落として展開していくなかで、鎌倉時代頃から日本で盛んになった外来の十王信仰の影響を受け、南北朝時代頃までには、三途の川の奪衣婆と習合した。

 江戸時代になると奪衣婆の信仰が庶民に広まり、ますます盛んになるにつれ、芦峅寺の姥尊も奪衣婆そのものになっていった。しかし、おそらく妖怪的な奪衣婆では、外部者に対して体裁が悪かったのだろう。そこで衆徒たちは姥尊の縁起を作り、それに仏教の尊格を当てた。

 まず姥尊を立山犬権現の親神とし、次に阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・不動明王などの本地を説き、それが垂述して、醜いけれども奪衣婆的な姥尊の姿で衆生を救済するのだとした。

   《引用終了》

以上が、恐らく現在知り得る最も信頼出来る𪦮堂(姥堂)の歴史的事実である。原始仏教以来、ずっと続く仏教の男尊女卑の思想である如何なる修行や布施を行っても一度男に生まれ変わらなければ極楽往生は出来ないという「変生男子(へんじょうなんし)説」については、いろいろな場面で私は指弾してきたので繰り返さないが、この𪦮堂(姥堂)信仰は女人禁制の山岳信仰の差別内ではあるものの、女性の直接の極楽往生を現世的に演出する稀有の信仰形態であることが判った。

「立山禪定」立山に籠って修行をすること。

「ハウコ」これはまず「這子(はふこ(ほうこ))」を想起させる。小学館「日本国語大辞典」の「這子(ほうこ)」(歴史的仮名遣「はふこ」)によれば、『①這うことのできる乳児』とした後、『②(「おとぎははこ」(御伽母子)の「ははこ」の変化した語か)子どものお守りの一つ。布を縫い合わせ、中に綿を入れて、幼児の這う姿に作った人形。もろもろの凶事をこれに負わして厄除けにする。天児(あまがつ)、御伽這子(おとぎぼうこ)、はいはい人形。這形人形』とする。以下、「皇后孕み給ふ事あれば、必ずハウコといふ物を作りて、是を祭り拜す。皇子御降誕ありて後、此物を捨つ。今小兒の翫(もてあそ)ぶ物多く是に始まる。之に依て見る時は、此(これ)本尊又朝廷のもて遊び物なり」という謂いからも、邪気の身代わりの依り代の人形(ひとがた)としての類感呪術的装置と私には採れる。

「南都興福寺の開帳をみるに、『神武天皇のハウコなり』とて拜ませたり」このもの自体は不詳。興福寺の宝物に神武天皇のものがあるというのは検索でも掛かってこない。御存じの方がおられれば、御教授を願う。

「かもい」「カムイ」の訛り。ウィキの「カムイ」によれば、『アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在』を指し、『カムイは、本来神々の世界であるカムイ・モシリ』『に所属しており、その本来の姿は人間と同じだという。例えば火のカムイであるアペ・フチ・カムイ』『なら赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そしてある一定の使命を帯びて人間の世界であるアイヌ・モシリ』『にやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えばキムン・カムイ』『が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば』、『我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる』。『また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば熱病をもたらす疫病神パヨカ・カムイなども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェン・カムイ』『と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカ・カムイ』『と同様に畏怖される。カムイという言葉は多くの場合にただ「神」と訳されるが、このような場合は「荒神」と訳すべき時もある。例えばカムイコタンとは「カムイの村」という意味だが、多くは地形上の難所などであり、「神の村」というより「恐ろしい荒神のいる場所」とした方が実際のイメージに近い』。『語源には説がある。江戸時代中期の国学者谷川士清が著わした国語辞典である和訓栞』(わくんのしおり)『には、古い時代に日本語の「かみ(神)」を借用したものらしいとか書かれている』とある。但し、ここでこの人物が『「かもい」といふ像を作り』と言っているのは甚だ怪しい。現在、アイヌがカムイをシンボル化するような形象像を日常的に作ったり、祭ったりすることは、私はないと思うし、過去においてもなかったと思うからである。その点に於いて、この話者の話は全体が怪しく信じ難い、と読んだ途端に感じたのである。

「逆木(さかぎ)」所謂、アイヌの祭具の一つとして知られる「イナウ」である。但し、これは神像では決してない。ウィキの「イナウ」によれば、『カムイや先祖と人間の間を取り持つもの(贈り物・メッセンジャー・神霊の依り代)とされる。強いて言えば神道における御幣に相当するが、それよりも供物としての性格が強い』。『イナウの形状は御幣に酷似しているが、一本の木の棒からすべて削り出している点が御幣との違いである。イナウの用途は、神への供物である。アイヌの人々はカムイに祈り、願う際にイナウを捧げる。それによって人間側の意図するところがカムイに伝わり、カムイの側も力や徳を増すと考えられていた。また、新しくカムイを作る際、その衣や刀や槍などの材料とするといった用途もあった』。『イナウはカムイ・モシリ (kamuy mosir 神の世界)には存在しないものとされる。このような細かい工芸品は手先の器用な人間のみが作成可能で、カムイは人間から捧げられる以外、入手方法が無いのである』。『イナウの多様性は、カムイの多様性を表している。カムイによっては定まった樹種を好む』。『典型的なイナウは、直径数センチ程度の樹木を素材とし、表面を薄く削り出した房状の「キケ」を持っている。キケは大別して長短2種があり、形や削り方でさらに細分できる』。『イナウには性別があり、キケを撚』(よ)『る(男)か散らす(女)か、根(男)と梢(女)のどちらに向かって削るか、軸の上端を水平(男)に切るか斜め(女)に切るか、など、形によって表される』。『北海道では、捧げる相手と異なる性別のイナウを捧げる方が良いとされる』。『イナウの材料は自然木である。材料となる木をイナウネニとよび、通常はスス(ヤナギ)が使われたが、ウトゥカンニ(ミズキ)やシケレペニ(キハダ)で作られたものが上等品とされていた。木肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、木肌が黄色いキハダのイナウは金に変ると信じられていたからである。イナウ作りはアイヌの男の大切な仕事のひとつとされ、重要な祭礼などを控えた日には祭礼の行われる場所に泊りがけで集い、イナウを作成したという。特にイオマンテ(熊送り)やチセノミ(新築祝い)など重要な儀式には大量のイナウが必要となるため、準備期間のかなりの時間がイナウ削りに費やされた』。『イナウをつくるには、直径が3cmほどの素性が良いヤナギやミズキの枝を採集し、大体70cmほどの長さに切る。そしてきれいに皮を剥ぎ、木肌をあらわにして乾燥させる。乾燥させるのは、木肌を薄く削る作業を容易にするためである。充分に原料の枝が乾燥したら、先に木片を刺した小刀を使い、木の端の方向に薄く削る。削る作業の繰り返しで、あたかも枝の先に木片の房が下がる形にするのである(完成)。イナウの種類によって造り方も異なるが、乾燥させた素材を小刀で削り、木片を下げさせる工程は変わりがない』。『イナウを作成する際にでた削り屑や余った材などはそのまま捨てたりせず、集めて火にくべて燃やし、カムイの世界に送る』。『削った際に出た破片一つ一つもすべてカムイになると考えられているためである』とある。私は個人的に、何故だかわからぬが、このイナウに非常に惹かれるものが、小さな頃からあるのである。

「其後病(やまひ)癒ゆる時は是を山に捨つ」誤り。上記引用の末尾にあるように、『火にくべて燃やし、カムイの世界に送る』か、或いは家の外の祭壇に祀るのであって、これは前の「ハウコ」のような一過性の依り代などではない、もっと神聖なものなのである。

「日本も又上古は是にひとしき事も多かりし」最も似て見えるものは、所謂、「削り掛け」である。木片を刃物で削りかけ(縮らせた形)の状態にした、呪術的又は信仰的な飾り物。材質にはヌルデ・ニワトコ・ヤナギなどの木質が柔らかで細工しやすく、白く美しいものを選ぶ。両手で持つ専用の「花掻き」という刃物を使う所もある。薄く長く作って垂れ下げたり、十六花(じゅうろくばな)のように一本の木の所々に削掛けを拵えたり、粟穂稗穂(あわぼひえぼ:「あぼへぼ」とも呼ぶ。小正月にヌルデの木を六本ずつ束ねて前庭や堆肥の上に立てて豊作を祈る呪法。東北地方に多い。グーグル画像検索「粟穂稗穂」をリンクさせておく)のように皮のまま削りかけたのを竹に刺したり、さまざまな形がある。一般には旧暦一月十五日前後の小正月に、農作物の豊作を予祝するためにつくる所が多く、神棚・仏壇・大黒柱・長押(なげし)・堆肥の上或いは墓などに飾る。アイヌが熊送りのときに立てるイナウと称する幣束(へいそく)も削掛けの一種である。削掛けは紙の幣束の代用若しくは古形と考えられる(私は古形説を採り、アイヌのイナウは本邦の削掛けや神道の御幣よりも恐らくは古くからあったもので、平行進化したものと考えている)。郷土玩具のなかにもこの技法を取り入れたものがある。山形県米沢市郊外の笹野彫(ささのぼり)、東京都亀戸天満宮や福岡県太宰府天満宮の「鷽(うそ)」などが著名である(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「耶蘇天人華宗」意味不明。「耶蘇・天神・法華宗」で、イエスやマリアの偶像を祀るキリスト教や、菅原道真を神格としてその偶像を祀る天神信仰、日蓮を偶像化する日蓮宗の謂いか。或いは、「南蠻多く是をなし、耶蘇・天人・華宗」とするからには、キリスト教や、ギリシャ・ローマの神話世界の「天」界の「神々」を拝するもの、及び中「華」の「宗」教の一つである老子を祀る道教のことか。よく判らぬ。

「壽像」一般には「生前に作っておくその人の像」のこと。生きているかのようにリアルな頂相(ちんそう)のことであろう。

「年壽」長生き。

「美人」尊い御姿。女性に限らない。

「愛敬」愛し敬うこと。]

 耶蘇宗は天正の頃日本に盛(さかん)になりしが、代々明主にうとまれて、悉く御禁制となり、其徒も皆追返(おひかへ)されて、國々此宗旨絕えけれども、猶所々に執着の宗門の者殘りしが、西國の方には「天草の陣」發り、北方には大久保十兵衞從類、高山南坊(なんばう)が一族、及び津田勘兵衞・豬子(ゐのこ)・橫田等の者、年々に滅せられ、事皆靜まりしが、猶魚津鈴木孫右衞門と云ふ者ありて、猶此像を隱し、密(ひそか)に邪宗を信仰す。其謂れを聞くに、孫右衞門元來は高山南坊が法弟なり。高山呂宋(るそん)國へ送らるゝ頃、密に此像ども隱し置き、「宗門ころびたり」と稱して、魚津の郡代の許(もと)にあり。

[やぶちゃん注:「天正」は二十年までで、ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から行用された)に相当する。言わずもがな、カトリック教会の修道会イエズス会のフランシスコ・ザビエルの来日した天文一八(一五四九)年が布教の始まりであるが、理解を示した織田信長(天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日没)のお蔭で、天正前中期までが最も信者が増えた時期であった。豊臣秀吉が筑前箱崎(現在の福岡県福岡市東区)において「伴天連追放令」を発したのは天正十五年六月十九日(一五八七年七月二十四日)であった。

「大久保十兵衞」大久保長安(ながやす 天文一四(一五四五)年~慶長一八(一六一三)年)は江戸初期の代官頭・財政・鉱山担当の奉行。出自は猿楽師の子であった。当初は甲斐武田氏の家臣で、同家滅亡後は徳川家康に仕えた。家康の関東入国後は伊奈忠次とともに関東領国支配の中心となり、武蔵国八王子に陣屋(小門陣屋)を構えて指揮した。彼の検地は石見検地・大久保縄などとよばれ,伊奈氏の備前縄とともに,のちの幕府検地の代表的仕法となった。「関ヶ原の戦い」以後の支配地は一説に百二十万石以上ともされ、また、石見銀山・伊豆銀山・佐渡金山を奉行して孰れに於いても採掘に成功し、初期江戸幕府の財政基盤を確立した。東海道・中山道などの宿駅制度の確立や脇街道の整備などにも尽力したが、死後、生前の不正を理由に遺子七名が切腹を命ぜられ、一族・縁故者なども多量に処罰されたが、その真相は今も不明である(ここまでは平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。本篇でここで彼が切支丹であったとする記載は、一説には彼が任された鉱業に於けるアマルガム精錬と南蛮渡来の鞴(ふいご)を用いたことがそうした風説を生んだとも言われ、謎の死後の大粛清もそうした噂に拍車を掛けたものであろうが、現在、彼が切支丹であったとか、洗礼を受けたというような事実は全く見つかっていない。

「高山南坊」キリシタン大名高山右近(天文二一(一五五二)年から翌年頃~慶長二〇(一六一五)年)の号。秀吉の「伴天連追放令」を受けて、彼は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を総て捨て、暫くは小西行長に庇護され、小豆島や肥後国などに住んだが、天正一六(一五八八)年に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで一万五千石の扶持を受けて暮らした。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも、建前上は追放処分の身のままでありながら、前田軍に属して従軍し、最も悲惨な戦いであったとされる「八王子城の戦い」にも参加した。また、金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内に於ける築城法についての知識が大きく役に立ったとも言われる。利家の嫡男前田利長からも引き続いて庇護を受け、政治・軍事など諸事に亙って相談役になったと思われる。慶長一四(一六〇九)年には利長が隠居所とした富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現在の富山県高岡市)に築かれた新城高岡城の縄張を担当したともされる。しかし、慶長一九(一六一四)年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「切支丹国外追放令」を受けて、人々が引き止める中、加賀を退去し、長崎からマニラ(現在のフィリピンの首都で北のルソン島に位置する)に向かった(同年十二月到着した)。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けたが、慣れない船旅の疲れや気候の違いから、老齢の右近はすぐに病を得、翌年一月六日(一六一五年二月三日)に逝去した。享年六十三、マニラ到着から僅か四十日後のことであった(以上はウィキの「高山右近」に拠った)。

「津田勘兵衞」前田家臣。津田重次(?~慶安二(一八五一)年)。「加能郷土辞彙」に、『大學・和泉・勘兵衞と稱した。重久の子。慶長二年前田利長に仕へて五百五十石を賜はり、次いで百石を加へ、大小將となり、八年二百石を加增され、御小將頭に陞り、十五年父の後を継ぐに及んで祿五千五百石を領し、大聖寺城の守將となり、又大坂兩役に出陣して、後役に岡山口で槍功があり、三千五百石を加へられ、後更に增して一萬石となつた。重次刑獄を理し[やぶちゃん注:整え。]、遂に家老に進んだが、寬永十八年[やぶちゃん注:一六四一年。]十月金澤城の大手に、軍次が高山南妨と共に外敎の信徒で、後に改宗したけれども内心之を放棄したものでないと書した高札を建てたものがある。是に於いて藩吏之を幕府に上申し、遂に江戶に護送したが、重次は固より禪宗の旦那で、告訴せられたる如き事實なきを以て、空しく歲月を經過し、慶安四年四月四日その地に客死した』とある。

「豬子」前田家臣。猪子九郎左衛門。「加能郷土辞彙」に、『大坂再役に祿千石を以て從軍し、街口に於いて鎗功があつた。寬永十八年[やぶちゃん注:一六三九年。]耶蘇宗門のことに就き江戶に赴いたが、その後は不明である。後加賀藩臣にこの姓の者は居ない』とある。

「橫田」不詳。

「鈴木孫右衞門」魚津郡代鈴木孫左衛門のことであろう。「加能郷土辞彙」に、『高山南坊の徒であつたが、慶長十八年[やぶちゃん注:一六一三年。]外敎禁止の際轉宗を誓うて處刑を免れた。後孫左衛門は越中魚津郡代に任ぜられ、尋いで[やぶちゃん注:「ついで」。]江戶に賦役したが、その内心眞に改悔した者でないことを密告したものがあつたから、加賀藩は之を召還し、一族上下七人を魚津に磔殺[やぶちゃん注:「たくさつ」。]した。この處刑は、三州奇談に、魚津郡代大音主馬の時にあると記されるが、主馬の郡代であったのは、寬永四年[やぶちゃん注:一六二七年。]乃至十三年[やぶちゃん注:一六三六年。]である』とある。]

 是又故あり。魚津は魚・鹽の利良く、魚の多く上る地なり。然るに天正の年、京都南蠻寺破却仰付けられし後、彼(か)の邪教の名士守紋北國に來り、此魚津に至りて手を打ちて驚き、

「此地唐の今浦、南洋のウン浦に似たり。必ず海中に蜃(おほはまぐり)ありて珠を產する所なるべし。久しく爰にありて魚腹(ぎよふく)を探さば、必ずテイカウの珠を得べし」

と云ふ。則ち其傳を密に鈴木孫右衞門に傳ふ。故、鈴木、靑山佐渡守以來、此魚津にありて、日々魚腹を探す。纔に二珠を得たり。一つを守紋が高弟大和の眼醫師へ送る。其後鈴木は妙を得て法を廣む。忽ち信心の者を得たり。澤市は(さはいち)座頭なり。此者元來魚津にありし者、十三の年魚のひれに突かれて盲となる。然るに鈴木が緣に依りて金滯武家方へ親しみ、泉町に家居(いへゐ)す。此者宗門に入る謂れは、澤市鈴木に親しみ、彼(か)の法を聞く。澤市曰く、

「我をして眼(まなこ)元の如く明らかに、本尊を拜むことを得ば宗に歸せん。」

鈴木云く、

「信を得れぱ難からず。」

終に彼祕文を敎へ、又テイカウの珠を眼上に置く。

 澤市忽ち明(あか)りを得たり。

 翌日は又本(もと)の盲(めしひ)なり。是より深く感じて此宗となる。

 四十年の間に十四度目を明くることありしなり。是れテイカウの珠の力なり。

 且つ珠吉凶を告ぐるに妙なり。然るに守紋大阪に刑せられ、大和の眼醫師其後江戶に召され、苦刑重(かさな)つて鈴木孫右衞門を指す故に、郡代大音主馬(おほねしゆめ)に命じて鈴木を捕ふ。大音則ち鈴木を呼ぶの時、鈴木家を出(いで)んとして妻に向ひて曰く、

「我今運盡(つき)ぬ。今朝テイカウ墨(すみ)の如く見ゆ。大凶なり。老母にも覺悟を進め候ヘ」

と云ふ。

 終に禁牢(きんらう)す。

 妻老母に向ひ、

「此法(はう)元(もと)法度(はつと)を知りて侵す。上(か)みを恨むべからず。然共武士の娘如何(いかん)ぞ逃走りて捕はるべき。武器を嚴(げん)にして後(のち)死につかん。」

老母

「然り」

とす。

 老母は白絹二つ重ね、膝に長刀(なぎなた)を置く。女房は夫の鎧を床に飾り、其次に鎧を着て、大小を帶して座す。

 談笑常の如く、

「大音の討手は如何にして遲きや」

と云ふ。

 暫くして捕手(とりて)來る。

 女房曰く、

「我れ自殺を禁ぜるが故に斯(かく)のごとし、無禮すべからず」

と云ひ、淚を靜めて後(のち)皆捕はる。終に川畑川東に磔(はりつけ)となる。其塚をヲテイテイカウと云ふ。是れ唱への文と云ふ。一說には、ヲテイ・テイカウと云ふは二人の妾(めかけ)なりと云ふ。

 澤市も金澤にて捕はれ、妻出生(しゆつしやう)能美郡の者と云ふにより、我(わが)野にて夫歸磔に懸る。其後北の方には此宗旨絕えたりとぞ。耶蘇終に愛着執心の事を重うして、其毒深入(ふかくいり)し、久しうして殘る。

[やぶちゃん注:「守紋」シモン(Simon)への当て字であろう。但し、本邦に来た知られた宣教師の中にその名は見出せない。後文に「守紋」は「大阪」で「刑せられ」たとは出る。ところがここにきて、「名古屋カトリック教区」公式サイト内の殉教に係わる「七 資料編」PDF)に以下を見出すことが出来た。

   《引用開始》

□資料 20 鈴木孫左衛門の処刑

 「このころ魚津に、鈴木孫左衛門(一説には孫右衛門)という役人かいた。ひそかにマリアの像を隠し、耶蘇教を信仰していた。孫左衛門は慈門の弟子で、慈門は高山南坊の高弟である。慈門は大和国に、孫左衛門は魚津郡代のもとで役人を勤めていた。魚津の浦は漁獲の利がよく、当時南蛮寺破却後は、耶蘇教徒や名士らは、北国から魚津へ)ぞくぞくやってきた。そして手を打って驚き、『ここは唐の【今浦】南洋の【ウン浦】に似ている。必ず海中に蜃あって珠を産するだろう。永住して珠を探せば必ず得られるであろう。』と鈴木孫左衛門に伝えた。孫左衛門は日夜その珠を探すとともに、法を広めることに努力したので、たちまち多くの信者を得た。しかるに慈門が捕えられて処刑される時、孫左衛門が魚津にいることを自白したので、幕府はときの魚津郡代大音主馬厚用に命じてこれを捕えさせ、江戸に召しだして成敗した。孫左衛門の家族七人は、大音主馬の討手につかまり、吟味のうえ、ついに魚津のまちはずれ、諏訪明神の後ろ、田畑川の東の地で、悲惨な刑に処せられた。その遺骸を一つの穴に埋めて、キリシタン塚、または『オテイテイカラの塚』(妻の名をオテイテイカラといった)と称し、そこに一寺を建立したが、今は跡かたもない。」(『魚津市史』 吉野旧記)

 

□資料 21 『三壷聞書』

 『三壷聞書』には、「然るに寛永の初、鈴木孫左衛門は江戸定詰にて金沢より引越し罷越し、重ねて切支丹御吟味の時、孫左衛門内心はころばざる由加州にて訴人有之、江戸より被召寄、魚津にて上下七人御成敗仰付らる。金沢に沢都と云う座頭夫婦、鈴木左衛門懇意也。其の外十人計処々より吉利支丹とて来り、泉野に座頭夫婦磔にかけ、残る者共首をはねて獄門に掛けさせられ、夫より此の宗旨の種は加州に絶えにけり。」という記述がある。中村松太郎はこれらの文書について注意すべき読み取り方を述べている。「鈴木孫左衛門の事件の記述は、わずか数行です。具体的な事実を知るには、読む人にとって不十分です。そこで恐らく半ば無意識的に、意訳(字句にこだわらないで意のあるところを訳す)や、江戸期の文語体に翻訳も加わることでしょう。また特に伝説的記述や聞き書きなどにあっては、ことさら必然的に粉飾される事もあり得るでしょう」。伝説的なものを他の史実と付き合わせて検証し、各史料の記述の違いを読み解く必要性がある。(中村松太郎『越中魚津キリシタン塚秘話』)

   《引用終了》

この「21」の記載を見ていると、そこでの名は「守紋」ではなく「慈門」で、これは宣教師(伴天連)ではなく、洗礼名を貰った日本人のようにも見えてくる(豊臣秀吉の右筆に洗礼名「志門」(シモン)を称した安威了佐(あい りょうさ 生没年未詳:天正一四(一五八六)年の大坂城でのイエズス会準管区長コエリョと秀吉との会見の仲立ちをした)がいる)。しかし、幾ら当時の日本の名士でも、中国の「今浦」や「南洋のウン浦」に行って見たことがある人物、妖怪ならぬ妖貝である蜃気楼を起す不思議な珠を体内に作る「蜃」(大蛤)をよく知っている奴がいようはずはない。ということは、この「守紋」とは一種の三百代言のカタリ者であった可能性が高いということであろうと私は踏む。なお、「守紋」は別に多くのキリシタン大名や隠れキリシタンらが、その家紋や礼拝物等に隠し込んだ十字架紋(模様・形象)をも指す語である。

「唐の今浦」不詳。最初に想起したのは、「今」を誤字とするなら、古くから真珠の名産地である広西チワン族自治区北海市合浦(がっぽ)県である。

「南洋のウン浦」不詳。識者の御教授を乞う。

「テイカウの珠」不詳。漢字も想起出来ない。至高の聖主で「帝公」なんて真珠好きの私には厭だね。識者の御教授を乞う。

「靑山佐渡守」前田氏家臣で加賀藩青山家の祖青山吉次(よしつぐ 天文一一(一五四二)年~慶長一七(一六一二)年)。ウィキの「青山吉次」によれば、尾張国生まれで、十五歳の時に『織田信長に仕えた。その後は前田利家に仕え、寺西九兵衛と前田利昌息女との子である長寿院』『を正室に迎えた』天正三(一五七五)年、『越前府中二十一人衆の一員として功績を称えられ』千石を受け、天正一一(一五八三)年の『賤ヶ岳の戦いでは前田利長に従い功績を挙げ』、二千石を『加増された。その後も末森城の戦いや八王子合戦などに利家に従軍』、天正一三(一五八五)年、『佐々氏とそれに与力した飛騨の姉小路氏(三木氏)が富山の役で秀吉に降伏し、前田家に越中国三郡(砺波・射水・婦負)が与えられると』、城生(じょうのう)城(現在の富山市八尾町内)『の守将となる』。文禄四(一五九五)年には『利長に残る新川郡が加増され、上杉家の越中衆(土肥氏・柿崎氏・舟見氏など)から郡内の諸城を子の長正らと共に受け取る』。『文禄・慶長の役では利家に従い肥前国に行き』、慶長三(一五九八)年に『従五位下佐渡守となる』。慶長五(一六〇〇)年に『起こった大聖寺城の戦いの時』には『金沢城の守備にまわっ』ている。彼は魚津で死去しているが、それが鈴木が魚津郡代になる前のことのようにも読めるのでしっくりくるとは言えない。

「守紋が高弟大和の眼醫師」不詳。後文に「大和の眼醫師」は「其後」、「江戶に召され」て、激しい「苦刑」が「重」なって耐えきれずに、「鈴木孫右衞門を指」した(彼を名指してキリシタンであることを吐いた)とはある。転びキリシタンであったということであろう。

「澤市」先の注で引用した、彼の名が出ているのと同じ「名古屋カトリック教区」公式サイト内の「北陸地方のキリシタン史跡案内」PDF)の「5 殉教した越前・若狭・越中出身者たち」に、「魚津の座頭沢市と妻の処刑地」が、現在の金沢市泉野町三丁目十五番地十四号の泉野桜木神社(グーグル・マップ・データ)附近に同定されている。以下、解説を引用させて頂く。

   《引用開始》

 『越中魚津のキリシタン塚』に記載されている加賀藩唯一のキリシタン殉教事件である、鈴木孫佐衛門とその家族等七名の処刑とほぼ同じ時期に金沢で処刑された人たちについて記す。加賀藩の禁教政策は、寛永期の一六二四~一六四四年を通して厳しさを増していった。『三州奇談』及び『三壷聞書』によれば、一六三〇年(寛永七)に、高山右近の法弟の加賀藩士鈴木孫左衛門(知行千石)が江戸城詰として出府中に領内では宗門改めがあった。孫左衛門は内心信仰を維持しているとの訴人が出たために江戸で捕えられ、 江戸神田川のほとりで処刑され、魚津(現在の富山県魚津市)在住の孫左衛門の家族は魚津で処刑された。金沢では孫左衛門と懇意の沢市という座頭夫妻とその他十名ほどのキリシタンが捕えられ、沢市夫妻は金沢の泉野で磔刑、他の者は斬首、獄門に処せられたという。この事件は加賀藩領内での唯一の殉教事件であり、沢市夫妻が処刑された「泉野」は、藩制時代「泉野新村」と呼ばれた広大な孟宗竹の竹林に囲まれた所で、 『金沢古蹟志』によると、一六〇七年(慶長十二)頃、藩の刑場が現在の泉野町三丁目から泉村(泉野新村)の村地へ移ったとあり、その中心は泉野桜木神社辺りであった[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

とある。さても、この泉野の処刑地は「赤蛇入ㇾ亭」に出たそれである。

「郡代大音主馬(おほねしゆめ)」読みは私の根拠のない推定。彼については既注の「鈴木孫右衞門」の「加能郷土辞彙」の記載にある通り、事実にそぐわないので、注する必要を感じない。

「此法(はう)元(もと)法度(はつと)を知りて侵す」このキリストの教えを信ずること、もとより、お上の禁教令を知りながら、正しき教えと信じ、その法を犯したのであります。

「武器を嚴(げん)にして」しっかりと武具で身を固め、待ち迎えて。

「我れ自殺を禁ぜるが故に」キリスト教徒であるから、自殺は神に背く行為となるのである。

「川畑川」当然、魚津に流れる川でなくてはならないが、見当たらない。後段に再度出るので、そちらの私の注を参照されたい。

「ヲテイテイカウと云ふ。是れ唱への文と云ふ。一說には、ヲテイ・テイカウと云ふは二人の妾(めかけ)なりと云ふ」「唱への文」ならラテン語か? 妾の名というのは「ヲテイ」は「お貞」で判るが、「テイコウ」はちょっと字が浮かばぬし、女性名としては変である。

「我(わが)野」自分の生地である加賀の野という意味で採ったが、私はこれは「泉野」の誤判読ではないかと疑っている。「泉」の字は崩しようによって「我」とよく似ているものがあるからである。

 切支丹は慶長の末年皆々追返されけれども、西國には猶二十五年を過ぎて「天草・島の亂」ありしなり。人多く死して事落着す。

[やぶちゃん注:「慶長の末年」慶長は二十年の七月十三日(グレゴリオ暦一六一五年九月五日)に元和(げんな)に改元されている。

「天草・島の亂」ママ。「島原」の脱字。「島原の乱」は「島原・天草の乱」とも呼ぶ。寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発し、翌寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)を終結とする。ウィキの「島原の乱」によれば、従来は『信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面を再評価する説が出ている』とする。『鎮圧の』一『年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった』とある。]

 北國にては高山南坊を皆々慶長に追放の後、加州の宗徒絕えたりと思ふ故に、鈴木孫右衞門と云ひ初(はじめ)は「ころび衆」の中なる所、内心中々變ぜざるよし。御吟味ありて鈴木孫右衞門は江戸在番の間に捕ヘられ、終に神田の邊(あたり)にて御成敗なり。其妻子一族越中魚津に住せしを、其頃魚津郡代大音主馬仰(おほせ)を受(うけ)て、孫右衞門老母・妻妾を捕へて、田畑の邊にて磔になす。其妻妾の名にや、ヲテイテイカウと云ふ。

 大音氏の捕手向ふ時、老母長刀を膝に置きて、

「恨むべし加州の討手(うつて)遲し。我々女子の輩(やから)に何の用意も入(い)るまじきものを、捕手の遲きは後れたるにや」

など云ひて、言語自若として平日の如し。皆刑せらるゝに至つて怨言口を留めず。相貌皆恐るべし。

[やぶちゃん注:以上の部分、明らかに繰り返しで前の部分の写本の作成者による衍文としか思われない。

 渠等(かれら)が骸(むくろ)を一つの穴に埋(うづ)め込み、「切支丹塚」と云ひ、「ヲテイテイカウの塚」とも云ふ。其地は魚津の町はづれ、諏訪明神の後ろにして、田畑川の東の方(かた)なり。

[やぶちゃん注:「其地は魚津の町はづれ、諏訪明神の後ろにして、田畑川の東の方(かた)なり」やはり先の「名古屋カトリック教区」公式サイト内の「北陸地方のキリシタン史跡案内」PDF)の「5 殉教した越前・若狭・越中出身者たち」に、「越中魚津のキリシタン塚を歩く」があり、当該地を魚津市釈迦堂八一四番の『「魚津埋没林博物館」敷地付近』とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下、引用させて頂く。

   《引用開始》

地元の知人の紹介で、魚津在住のキリシタン塚の歴史に詳しい中村松太郎氏から話を聞いたところ、田畑川は現在の河川名ではなく、日本カーバイド工場の南側外周を流れる河川ではないかといわれ、それに従って現地の様子を調査した。

 魚津市の歴史民族博物館に隣接する「吉田記念郷土館」で尋ねたところ、魚津の古絵図を調査された魚津在住の紙谷信雄氏の『魚津古今記・永鑑等史料』のなかに古絵図「鰤網等目当山御絵図浦役所」があり、図中に「田畑川」の名が記されているのを教えてもらった。

 魚津に田畑川はあったのである。現在の場所は明治以降の近代化により工場建設敷地となり、魚津港拡張や河川改修工事により、また最近は「魚津埋没林博物館」の建設により塚跡は海中に歿しているとも言われ江戸期の姿は見ることができない。

 しかし博物館の屋上からかつての海岸線を望んでみると、江戸時代鰤漁の舟から湊の方角を知るために松の木と塚を目印としたとされ、往古は「八殿の塚」が並んでいた田畑川があったその場所である。旧田畑川の手前の博物館敷地の海寄りの、工事以前の地盤と思われる位置に松林があり、その中の二本の松の根本に石を円環状に並べた塚跡らしきものを見つけた。あるいは鈴木孫左衛門一族の塚跡ではないかと想像し不思議な歴史の因縁を感じた。

 キリシタン殉教者鈴木孫左衛門のさらに詳しい情報については、中村松太郎著『越中魚津キリシタン塚秘話』を参考にされたい。

   《引用終了》

とあって「田畑川」は現存しないことが判った。なお、引用元の200ページの部分に「博物館中庭にある塚跡か」とキャプションする写真があるので、是非、見られたい。]

「此邊に一寺あり」現在、その附近に寺はない。しかしこの現在の地名「釈迦堂」からは、嘗ては確かにあったと考えた方が自然である。

 さて。この一篇、国書刊行会本では「耶蘇宗は天正の頃日本に盛になりしが、……」以下の語り部分から最後までが、内容は概ね同様であるものの、前の部分が極端にカット・圧縮され、反対に最後の話が膨らませてある。「加越能三州奇談」の当該部(右ページ四行目の下方から)は同じ系統の内容であるので、それと引き比べながら、正字で煩を厭わず全文を以下に示す。一部で字を国書刊行会本の補正に従い、補填した。読みは一部で私が推定で附した部分もある。記号と改行等も私が附したものがある。カタカナの丸括弧の読みは原本のもの。

   *

    邪宗殘ㇾ妖

 蘆峅(アシクラ)の姥堂は則(すなはち)立山禪定の麓にして、諸人の知所(しるところ)、衆の尊む所なり。佛說に依(より)て云(いは)ば、事古きに似たり。暫く好事の人のかたりしを聞くに、

「此姥堂の本尊の体(てい)は、いにしへの帝王のハウコといふ物也。我、南都興福寺の開帳をみるに、『神武天皇のハウコ成(なり)』とて拜せたりし、則(すなはち)此もの也。傳へ云(いふ)、皇后孕(はらみ)給ふ事あれば、必ずハウコといふ物を作つて是を祭り拜す。皇子御降誕有(あり)て後、此物を捨つ。今小兒の翫(もてあそ)ぶ物多く是に始まる。是に依て見る時は、此本尊又朝廷のもて遊び物也」

と。

 是(これ)其(その)實か非か、未(いまだ)尋(たづね)さたする事なし。今思ふに、北倭蝦夷の事を聞(きく)に、必ず此事あり。「かもゐ」といふ像をつくり、逆木をけづり、是を病人の枕もとに立て祭り、其後(そののち)病(やまひ)いゆるときは、是を山に捨つ。日本も又上古は是にひとしき事も多かりし。像を立る事は南蠻多く是をなし、耶蘇天人華宗始めは壽像を造りて年壽を祈り、其後美人を畫(かき)て愛敬を祈る。やや趣同じ。是文字等に依らざるの國はいにしへは皆かくのごとし。

[やぶちゃん注:以下からが異なる部分。]

 耶蘇終(つひ)に愛着執心の事を重ふして、其毒深く入(いり)、久しく殘る。切支丹は慶長の末年、皆々追返(おひかへ)されたれ共(ども)、西國には猶二十五年を去(さり)て「天草・島原の亂」有し。人多く死して事落着す。北國にては高山南房等、皆々慶長に追放の後、加州の宗徒たえたりと思ふ所に、堀孫右衞門といふもの、はじめはころび衆の中なる所、内心中々變ぜざるよし御吟味有て、堀孫右衞門は江戶にて在番の間にとらへられ、終に神田の邊にて御成敗也。其妻妾(さいしやう)・子族、越中魚津に住せしを、其比(そのころ)魚津の郡代・大音主馬、仰(おほせ)をうけて孫右衞門が老母・妻妾をとらへて、田畑川の邊にて傑になす。其妻妾の名にや、ヲテイテイカラと云(いふ)。大音氏の捕手向ふ時、老母長刀をひざに置(おき)て、

「うらむべし、加州の討手(うつて)すくなし。我々女子の輩に何の用意も入(いる)まじきものを、捕手(とりて)のおそきばをくれたるにや[やぶちゃん注:「おくれ」はママ。]」

など云(いひ)、言語自若として平日の如し。皆刑せらるゝに到つて、怨言口を留めず。相貌皆恐るべし。渠等(かれら)が骸(むくろ)を一つの穴に埋みて、「切支丹塚」と云(いひ)、「ヲテイテイカラの塚」とも云ふ。其地は魚津の町はづれ諏訪明神の後ろにして、田畑川の東の方也。

 年久しうして後、此邊に一寺あり。爰(こゝ)の下男、

「地にうづむもの有(あり)」

とて、其地を掘る時、はや星霜多く重(かさな)つて、「切支丹塚」くづれて常の地にかはらず。故に誤つて此塚跡を掘入る事、凡(およそ)六尺ばかり、一團の黑氣あり、突(つき)て地中を出づ。掘る者氣を絕(ぜつ)す。黑氣東方をさして飛行(ひぎやう)すといふ。則(すなはち)江戶の方也。

 此時、江戶神田にて堀孫右衞門が塚又崩れたり。此氣(このき)相感(あひかん)ずるにや。もとより東武は十金の地、此堀孫右副門が塚も、今は繁華の街となれば、いつの比(ころ)よりか人家となる。爰(こゝ)は則(すなはち)、一社地の中也(なり)。神主何某(なにがし)が宅地の垣外(かきのそと)也。此日(このひ)、

「黑氣北方より來り此土中に入(いる)」

とさたせし夜より、神主の内室孕(はら)む事を覺へて、一人の女子をうむ。其(その)相(さう)・美色、常人に非ず。成人の後、彌々(いよいよ)妖色(えうしよく)深ふして、終に加州侯護國院殿の妻妾となる。眞如院といふ是也。其行藏(かうざう)に及(および)ては世の人よく知所(しるところ)也。眞如院、名をヲテイといふ。「ヲテイテイカラの塚」、其所謂(いはれ)有(ある)に似たり。終に恩寵深ふして惡事多く、國家をそこのふ事多かりし。是皆(これみな)別書に有(あり)。其禁獄に入(いる)の内も、執心着念の深き事、世以て諸人の口にあり。是必ず此塚の怪妖(くわいえう)ならん。今其塚跡は人彌々(いよいよ)恐れてみだりに近付(ちかづか)ず、夏草をのづから深し[やぶちゃん注:ママ。]。

   *

「加州侯護國院殿の妻妾となる。眞如院といふ是也」加賀藩五代藩主前田吉徳(元禄三(一六九〇)年~延享二(一七四五)年:戒名「護國院殿佛鑑法性大居士」)の側室真如院(宝永四(一七〇七)年~寛延二(一七四八)年)。名は貞(てい)父は江戸芝神明宮の神主鏑木政幸(又は妹とも)。加賀騒動における浄珠院(六代藩主宗辰(むねとき)生母)毒殺未遂事件の主犯とされた人物であるウィキの「真如院」によれば、『江戸の芝神明宮の神職・鏑木政幸の娘、または妹で、同じく前田吉徳の側室心鏡院(次男・重熙の生母)とは姉妹、または叔母と姪の関係』『といわれている』。『前田吉徳の側室となり』、享保一八(一七三三)年に『総姫を産んだのはじめに、利和』、『楊姫、益姫、八十五郎』(やそごろう)の二男三女を『産んだ(うち益姫は夭折)』。『吉徳が没したため、落飾し』、『真如院と称した。吉徳の跡はその長男の宗辰が継いだが、在位』一『年余りで延享』三(一七四六)年に『死去し、続いて次男の重熙』(しげひろ)『が藩主となる。寛延元年(一七四八年)、『九歳の八十五郎が藩の重臣・村井長堅の養子と決まったため、真如院は』六月二十一日に『八十五郎とともに江戸を出発し』、七月十一日、『金沢に到着した。この間の』六月二十六日と七月四日の両日、『江戸藩邸(本郷上屋敷)において、浄珠院』『を毒殺しようとしたとみられる置毒事件があり、真如院が楊姫付きの中臈浅尾に命じ』、『実行させた疑いがかけられた』。七月十二日に『飛脚が発ち』、十七日に『金沢に到着。それによって、真如院は』『軟禁された。さらに真如院の江戸藩邸の居室から、前年失脚していた吉徳の寵臣・大槻伝蔵の手紙が見付かったとして、大槻との共謀と密通の疑いもかけられた。大槻と対立していた前田土佐守直躬は事件の処分を巡って、真如院と浅尾は死刑、八十五郎は村井家との養子を解消し、江戸の利和は金沢に引っ越させ』て『幽閉、富山藩主前田利幸に嫁いだ娘の総姫は病気と称して離縁させ、秋田藩主佐竹義真と婚約中の楊姫も病気と称して解消させるほかない、との意見を述べている。藩主重熙によって、真如院の処分は死刑ではなく』、『今井屋敷に終身禁固と決められたが、病気もあってそのまま』軟禁された御殿の一室で三年後に『没した。真如院の希望により、長瀬五郎右衛門が首を絞めた』『という。享年』四十三(その後の子らについてはリンク先に詳しい)。『毒殺未遂事件の動機は、真如院が藩主重熙の養育役も務めていた浄珠院を邪魔に思い、亡き者にしようとしたためであるとされている。だが、真如院は吉徳の側室の中でも寵愛され、所生の子女は』五『人と最も多く、また当時の藩主重熙の伯母であり、重熙のすぐ下の弟である利和の生母であった。こうしたことから嫉妬を受け、江戸藩邸を出立した後を見計らって陥れられたのではないかともされる。利和に代わって重熙の仮養子となった嘉三郎(重靖)の生母・善良院と、前田直躬』(なおみ:加賀八家筆頭前田土佐守家五代当主)『が互いの利害の一致から結託して仕組んだものである、という説もある』とある。藩内の、それも藩主の血脈の直接関係者に纏わる忌まわしい内紛・事件であったことから、写本製作者の中に、後代とは言え、それを憚るべきと考えた人間がおり、かく、この部分を除去した底本系の写本が別に出来たものと考えられる。

 なお、本篇の後半のキリシタン絡みの奇譚は、田中貢太郎が「魚津物語」としてかなり強いインスパイアを加えて怪談小説にしている(「日本怪談全集」(昭和九(一九三四)年改造社刊)の第二巻所収)。私は一九九五年国書刊行会刊「日本怪談大全」第五巻(新字新仮名)で読んだ。機会があれば是非、読まれたい。]

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