ブログ・アクセス1350000突破記念 梅崎春生 上里班長
[やぶちゃん注:本篇は昭和三〇(一九五五)年十二月発行の『別冊文芸春秋』(第四十九号)に発表され、後の単行本『侵入者』(昭和三二(一九五七)年四月角川書店刊)に所収された。「上里」は「うえざと」と読んでおく。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻を用いた。
作中出てくる、「第三乙」は徴兵検査での等級。戦前は甲種・乙種(第一乙種と第二乙種等級分けがあった)合格者でも抽籤(くじ)によって一部が常備兵役の現役兵に充てられて即時入営となったから、甲種合格でも現役兵を免れることもあったが、日中戦争のさ中の昭和一四(一九三九)年十一月に第三乙種が新設されて抽籤が廃止され、太平洋戦争末期には兵員不足から乙種・丙種でも徴兵されることとなった。丙種とは国民兵役(予備役・後備易相当の準備地位)には適するも現役には不適な者に当てられた。他に丁種(徴兵に不適格な身体・精神状態にある者)・戊種(病気療養中につき、翌年に再検査をする者)があった。また「徴募兵」という語が出てくるが、これは一緒に出てくる「志願兵」の反対語で、強制徴集兵のことである。
なお、本電子化注は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが1350000万アクセスを突破した記念として公開する。【2020年4月26日 藪野直史】]
上里班長
私たちはすべておなかをすかしていた。三度三度ちゃんと食べてはいたが、それでもおなかをすかしていた。食事前にはもちろん極度に空腹だったが、食事直後も依然として空腹であった。一食の量がすくなかったせいでもあるが、それよりももっと心理的なものが作用していたらしい。一食が少量だといっても、ふつうの見方では少量でない。ふつうの生活をするには、必要にして充分なだけは確実にあった。ただ私たちは毎日はげしい軍事訓練を受けており、その消耗(しょうもう)のために、あるいは消耗したような気分のために、食べても食べても足りないような気がしていたのだ。私たちは生理的に、そしてそれ以上に心理的に、がつがつしていた。それを上里教班長はちゃんと見抜いていた。おそらく自分の体験からして、ちゃんと見抜いていた。
私たちががつがつしていたからといって、班長の常時の食べ方がすくなく、ほとんどいつも食い余すからといって、上里班長は彼の食器の盛り方をおろそかにすることは絶対に許さなかった。
「教班長。食事用意よろしい!」
そして上里班長がのそのそとやってくる。へんに投げやりな歩き方でやってくる。自分の食器に視線を据える。細長い木卓の、班長の席はその片方の端にあった。
「食事当番出て来い」
食事のしつらえ方が気に食わないと、上里班長は無表情のまま、低い押えつけたような声を出す。食事当番が出て行く。私たちは緊張して眺めている。
「これで食事用意よろしいのか?」上里班長は自分の食器を指差す。「教班長というのはだな、班員の父親母親に当るんだぞ。お前たちは自分の両親に、こんなお粗末な盛り方をするのか?」
緊張した沈黙の中を、上里班長はくるりと背を向けて、のそのそと教員室に戻って行ってしまう。その広くがっしりした背中の感じを、私は今でも忘れない。忘れられないほどたびたび見せつけられたわけだ。そして私たちはがっかり、かつ腹を立てる。がっかりしたり腹を立てたりしないで、さっさと飯を食べたらいいではないか。そういうわけには行かない。教班長抜きで食事を済ましでもしたら、総員罰直で飛んでもない目にあうだろう。両親をほったらかして、子供たちばかりで食べていいと思っているのか!
だから私たちは、腹がぐうぐう鳴るのを押えながら、食事当番を追い立ててあやまりに行かせる。他の班ではもう食事が始まっているのだ。おいしそうにかっこんでいる。私たちだけが、班長がいないばかりに、席につくことも出来ない。
当番たちのあやまりが劾を奏して、上里班長が機嫌を直して卓に戻ってくることもあったが、戻って来ないこともしばしばあった。戻って来なければ、食事時間が過ぎて次の課業になるから、私たちは余儀なく食事を放棄し、残飯として捨てざるを得ない。のんびりした生活をしている時なら知らず、こんな状況で一食を抜くのは、まことに惨めな気分のものであった。食事を抜いたからといって、次の訓練に手加減があるわけではない。
上里斑長は沖縄県出身で、徴募兵上りの下士官で、色が黒くて割に口数もすくなく、二十五六の筈だが、それよりもいくらか老けて陰欝に見えた。その上里班の班員、つまり私たち二十名も、大体その位の年頃かすこし上で、学校出の応召兵ばかりが集っていた。学校出というのは、中卒以上という意味で、みんな第三乙というのだから、あまり体格のいいのはいなかった。ふつうか、ふつう以下の身体の者ばかりであった。体位も低く動作もにぶい、そして口だけは達者なその班員たちを、あるいは上里班長は憎んでいたのかも知れないと思う。
「一人前の仕事も出来ないで、メシはかり食いたがりやがって!」
くるりと背を向けて教員室に戻る。あやまってもあやまっても戻って来ない。その場合上里班長は、自分の空腹を辛抱してまで、意地を張っているのではなかった。意地を張る気持はあっても、彼はそれはど空腹を辛抱しているのではない。常住彼はさほど腹を減らしていなかったのだ。それは日頃の彼の食べっ振りを見れば判る。
当番がしつらえた食器に大盛りの飯、同じく別の食器にたっぷりと盛られたおかず、その量は私たちのにくらぺると、二倍やそこらはゆうにある。彼は左肱を卓につけ、箸でそれらをつつき始める。私たちのは猛然とかっこむのだが、里班長のはつつき廻すと言うのにふさわしい。いやいやながら口に運んでいるという感じなのだ。そして大盛り飯の上方一部分、おかずの中の最も旨そうなところをちょっぴり、それだけをつつき散らすと、茶をゆっくりと飲み、ぷいと立って教員室に戻って行く。
それならそれで、何故最初から少量をよそわせないのか、私たちには上里班長の心理が不可解であった。教班長には一番いい部分をたくさん盛る。それがしきたりにはなっていたが、それは班長が食慾旺盛な場合であって、そんなにつつき散らすだけなら、それを要求することはないだろう。現に他の卓の班長で、そんなにたくさん食べられないからすくなく盛るようにと、当番に命じているのもいたくらいだから。そしてその班長は、そのことだけでもって、もの判りのいい班長とされていた。つまり一般の班長的性格は、もの判りの悪さでもって構成されていると言ってよかった。
「あれはあれで結構たのしんでいるんだよ」私たちはかげで上里班長を批評した。「大盛りの飯の上をちょっぴり食べるのは、いい気分のもんだろうからなあ」
自分の食事だけ大盛りにさせるのは、その分だけ班員のを削るわけだから、俺たちを困らせる目的で彼はそうしているのではないか。そういう考え方をする班員もあったが、しかし班長に余計盛った分を二十人に等分しても、おそらく一口分のかけらに過ぎなかっただろう。でもそれが本気に考えられたほど、私たちは食事の分量ということに敏感になっていた。
だからたとえば食事当番にあたると、どうしても自分の食器だけにこっそりたくさん盛るということになる。露骨にはやれない。全員均等ということになっているのだから他人のにはふわりと盛り、自分のにはぎゅうぎゅう押しつける。見た目に体積は同じようだが、実質が違うごく初歩の手なのであるが、やはりある程度の心理的抵抗を感じるものなのだ。そしてその抵抗が減少してゆくところら、軍隊に慣れるということが始まる。
当番のそういうやり方を、上里班長は遠くから食器の中を眺めるけで、一目で見破った。彼は無表情に呟(つぶや)くように言う。
「総員立て」
私たち立つ。
「前後席を交替」
向い合っや同士で私たちは席を替える。そして腰をおろす。そこで当番は、ぎゅうぎゅう詰め込んだ自分の飯を他人に食べられ、他人のふわふわ飯を食べるという破目になる。
そんな時の上里班長の語調は投げやりで、なにか漠然たる嫌悪に満ちているように響いた。当番自身もやり切れないだろうし、私たちもやり切れなかった。まだその頃は入団して一箇月たらずで、自分のいやしい食い気を知られるのはつらかったわけだ。
それが席の交替だけで済んだのは、私たちの飯の盛りだけの問題で、上里班長の飯の盛りに関係がなかったからだろう。上里班長にはそういうところがあった。彼は外に向うより内に折れ曲っていた。そういう下士官のタイプがある。海軍においては徴募兵上りに多いのだ。志願兵上りの下士官は気分が外に開いて張り切っている。悪いこと、ずるいことも積極的にやる。徴募兵上りはそうでない。これはいやいやながら引っぱられ、自分より年少の志願兵と共にもまれているうちに、どうしても折れ曲ってくるものらしい。自分と同年の志願兵は、すでに兵長とか早いのは二等兵曹になっている。それがこちらは新兵だとくると、これは曲るまいと思っても折れ曲ってしまうものだろう。入団最初にそういう班長に当ったのは、私たちにとって幸運だったか不運だったかは判らない。もちろん軍隊に引っぱられたこと自体が最大の不運であったが、それはそれとして、その上でのことだ。
で、上里班長は飯を食い残す。大盛りを要求して、その大部分を食い残す。食い残してのそのそと教員室に戻ってしまう。残された飯やおかずはどうなるか。
初めのうち私たちは、それを残飯として捨てていた。残飯だから捨てるのは当然だが、その当然のことを各人ともいくらかずつ不本意な気持でおこなっていた。
やがてその不本意に耐えられなくなって、食べられるものを捨てるのはもったいないと称して、班長の残飯に手をつけようとする奴が出て来る。
かつて住んでいた社会の通念、学校出という見栄(みえ)、それが私たちの間にお互いのケンセイとして働いている。そういうケンセイを打ち破り、敢て残飯を食うという人間には、あるタイプがある。食事当番として先ず自分のにぎゅうぎゅう押し詰める方法を案出した奴、あるいは先ず敢行した奴と、それは同じタイプなのだ。そういうことをやることにおける自分の内部の心理的抵抗、人より早くそれに打ち勝てるという人間の型。生きて行くために、他と競争するために、ラクにずり落ちることが出来る人間の型。ずり落ちるより適応すると言った方がいいかも知れない。そいうタイプがそれを敢行すると、自分も耐えられなくなってそれに続く奴。追従者。そういうタイプもある。
普通の社会ではそれほどきわ立たないそんな人間の型の差が、軍隊という集団の中では、どうしてもくっきりときわ立ってくるのだ。そういうことも上里班長はちゃんと知っていたに違いない。若いくせに見抜いていたに違いない。しかしそういう眼や智慧(ちえ)は、軍隊の中だけで育ち、おおむね軍隊の中だけしか通用しない。ふつうの社会ではあまり役に立たぬものだろう。
自分の残した飯を班員の何人かが争って食うに至る時期を、上里班長は待っていたのか、また見抜いていたか。もちろん自分の暗い体験から得た智慧をもって。
「教班長。食事用意よろしい」
「教班長。食事用意よろしい」
各教班長は教員室を出てくる。上里班長はきまって最後からのそのそと出てくる。自分の食器の盛りを眺め、それからにぶい眼で班員の食器をひとわたり見渡す。異常がなかったらそのまま腰をおろし、もそもそと飯を食べ始める。馬のように下顎(あご)をこすり廻すようにして、ゆっくりゆっくりと咀嚼(そしゃく)する。いい加減のところで箸をとめる。今まではそのまますっと立ち上るのに、残った飯をおかずの食器にべたりとぶちまける。更に飲み残しの茶をそれにかけ、箸でぐちゃぐちゃにかき宿す。きたならしくて食べられないような状態にまで箸でかきまぜて、それから立ち上り、のそのそと教員室に戻ってゆく。その作業中彼は無表情だ。私たちは沈黙して、その上里班長のがっしりと広い背中を見送っている。
やがて私たちは次第に、内心ひそかに、上里班長という男を憎み始めた。残飯食いはそれが出来なくなったという故をもって、そうでないものはまた別の理由でもって、上里班長を憎み始めていた。
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