三州奇談卷之五 神通の巨川
神通の巨川
神通(じんつう)は舟橋川(ふなはしがは)にして、北陸第三の大川なり。急流驚濤、人をして見るに寒からしむ。一名は有磯川(ありそがは)。此水上は飛州に入りて、水源測るべからず。立山の劍峯(つるぎがみね)に對して流れ下る。此水源一ノ之宮と云ふ所に至りて、水なき所二里ばかりあり。流れ地中を行くにや。上は石のみ多くありて川原(かはら)の如し。傳へ云ふ、昔眞人(しんじん)ありて山中に經を讀み、水聲喧(かまびす)しきを惡(にく)みて、龍王をめして水聲(みづおと)を止めしむる故、水音なうして地中を行く。是に依りて神通の名ありと云ふ。
[やぶちゃん注:「神通(じんつう)」「じんづう」でもよい。ウィキの「神通川」によれば、『岐阜県高山市の川上岳(かおれだけ)』(ここ。グーグル・マップ・データ)『に源を発し、飛騨高地の中を北に流れる。富山県境付近の神通峡あたりで高原川を合わせ、富山市笹津付近で富山平野に出る。平野部では直線的に北流し、富山湾に注ぐ』。『上・中流部は急流で、支流の高原川の水源地域が多雨地帯であるため、昔から水害の生じやすい川として知られている』とある。総延長百二十キロメートル。
「舟橋川」「舟橋」とは富山城の北西に当たる七間町と当時の神通川対岸の船頭町(現在の舟橋北町内)に架かっていた、六十四艘を流れに平行に横へ並べ、舟を連結してその上に板を置いて橋としていたものを指す。しかもこれは常設の橋である。詳しい経緯はウィキの「舟橋(富山市)」を読まれたいが、そこにあるポイントだけを抜き出すと、『橋は両岸に鎖杭という太さ4尺(約1.21m)、地上部分の長さ1丈5尺(約4.55m)もある欅の柱をそれぞれ2本立て、太い鉄鎖(一つ長さ約25cm)を両岸より渡し、その鎖に長さ6間余(約10.91m)、幅6尺2寸(約1.88m)、深さ1尺7寸5分(約53.0cm)の舟を64艘浮かべ繋ぐ。鎖は中央で鍵で繋ぎ』、『碇をつけて川底に固定した。舟の上には長さ5間2尺(約9.45m)、幅1尺2寸以上(約36.4cm)、厚さ3寸(約9.1cm)の板を4列で32枚を掛け、大水のときには規定水位を超えると』、『鍵を外して橋を切り離し』、『流失を防いだ』。その間、『再び繋ぐまでは渡し船を出していた。なお後に、板は7列に、鎖は1649年(慶安2年)以降、雄雌2条の鎖に変更されている』とある。「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」の絶景をリンクさせておく。他にも、「富山市郷土博物館」公式サイト内の「博物館だより」のこちらと、こちらも豊富な画像を添えて詳しく書かれてある。それらを参考に探してみると、当時の神通川は現在の神通川河口付近の支流である松川の流域に大きく東に蛇行して富山城の北側直下に廻り込んでいたことが判り、その当時の右岸の、現在の(α)七間町の東の端の松川に架かる橋の南詰(舟橋南町交差点を南下して松川を渡ったところ(グーグル・マップ・データ。次も同じ)から、そこを(β)渡って右側を4ブロック行った「富山県森林水産会館」(富山県舟橋分庁舎)の手前の交差点までの、二百二十五メートル弱に架橋されていたことが判った。則ち、当時の(α)通川右岸の常夜灯と(β)左岸の常夜灯が、当時、あったままのほぼ同じ位置に何れもちゃんと保存されているからである(それぞれグーグル・ストリート・ビューで確認した常夜灯の画像をリンクしてある)。上記「博物館だより」によれば、一艘の舟の長さは「六間余」(約11メートル)、幅は「六尺二寸」(約1.9メートル)、船自体の内形の(推定)深さは「一尺七寸五分」(約53センチメートル)で、鎖で船の先を繋げ(錘(おもり)の役目もしていたと考えられる)、板は船の上に横へ並べた(一枚の長さは「五間二尺」(約10メートル)、幅は「一尺二寸以上」(約36センチメートル)、厚さは「三寸」(約10センチメートル。枚数は初期は3~4枚で後に7枚まで増やされた)とある。なお、言うまでもないが、舟橋では舟は舳先を川上に向けて配置する。
「有磯川」現行では神通川にこの異名はない。一般には現在、私が住んだ富山県高岡市伏木地区より、北西の氷見に向かう海岸一帯を「有磯海」と称して歌枕とするので、ここに登場するには相応しくない。単に岩礁性海岸という意なら、文句はない。但し、後で「有裾川」の転訛とする本文が出る。しかし、これも後注で私が指摘するように神通川ではないので、当てにならぬ。
「飛州」飛驒国。
「劍峯」剱岳(つるぎだけ)。私は昔、夏に登攀したが、荒々しい山だが、好きである。
「一ノ之宮」神通川は上流の岐阜県内では支流である高原川との合流点より上流を宮川(みやがわ)と称する。分岐(もう一本は高原川)はここ。而して宮川を遡るならば、岐阜県高山市一之宮町で、この最南に位置する川上岳を公にも神通川の源流とするので正しい。
「水なき所二里ばかりあり。流れ地中を行くにや。上は石のみ多くありて川原(かはら)の如し」確認は出来ないが、あったとしても言う通り、時期によって伏流水となるのは全く不思議ではない。
「眞人」老荘思想や道教に於いて人間の理想像とされる存在をかく呼称するが、まあ、ここは単に仙人の意を強く含んだ道家的謂いである。「經」という語は必ずしも仏典とは限らないから問題ない。
「是に依りて神通の名ありと云ふ」ウィキの「神通川」によれば、『神通川という名前の由来については大まかに』二説あり、一つは『川を挟んで鵜坂神社(旧婦中町)の神と多久比禮志神社(塩宮、旧大沢野町)の神が交遊されていたので、「神が通られた川」という意味から神通川と呼ばれた』で、また、『太古の昔、神々が飛騨の船津(旧神岡町)から乗船し、越中の笹津(旧大沢野町)に着船されたことから神通川と呼ばれた』とあり、ここにあるような『神通力に由来するという説があるが、確実なものではない』とする。『一方、岐阜県内の「宮川」という名前はこの川の源流付近に飛騨国の一宮である水無神社があることに由来する』とある。]
此岨(そば)の上に人を行き難き一鄕あり。有峰といふ。此村は加州松雲相公の世、初めて此里あることを知ると云ふ。其里人、さかやきを剃らず、總髮(そうがみ)にして男女共に總模樣の縫(ぬひ)の服を着す。此者市に出で、物を賣買(うりか)ふ。初めの程は、越中富山にては飛驒の者と稱し、飛驒高山にては越中の者と稱す。十村(とむら)何某、其人がらを怪しみ、折々に考へて、終に其人の跡を慕ひ入りて、此有峰の里あること見出し、今加州侯の御領となり、熊の皮を貢(みつぎ)とす。其俗今に此風あり。里中(さとなか)の古老皆云ふ、
「我は平家の支族の後なり」
と。實(げ)にも左あるべきこと多し。
[やぶちゃん注:「岨」「そば」。岩が重畳して険しいことを指す。但し、「そば」と濁音化したのは近世以降で、それ以前は「そは」。
「有峰」地名としては神通川の東方の峰を越えた常願寺川上流の、黒部ダム南の飛驒山脈の幾つかの主峰を含む一帯としてある(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在、人口六十四名、世帯数四十戸。
「加州松雲相公」加賀藩の第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。法名は松雲院殿徳翁一斎大居士であり、彼は参議であったが、「相公」(しょうこう)は参議の唐名である。
「さかやき」「月代」。江戸時代、男子が額から頭の中ほどにかけて頭髪を剃ったその髪型を指す。
「總髮」月代を剃らず、前髪を後ろに撫でつけて、髪を後ろで引き結ぶか、髷(まげ)を作った髪型を指す。室町時代までは男性の一般的な髪型で、江戸前期からは男性の神官・学者・医師の髪型として結われ始め、江戸後期には武士の間でも流行した。
「總模樣の縫の服」着物全体に模様が施されてあること。当時の男子の衣服としては珍しい。
「十村何某」「十村」は江戸時代から明治の廃藩置県まで富山藩の十村役(とむらやく)を務めた旧家を指す。十村役は、数十ヵ村の農政実務を担当する農民身分の最高職で、新田開発や災害への対処、地域の治安維持などに主導的役割を果たした。十村制は加賀藩第三代藩主前田利常が制定した農政制度で、地方の有力な農民を「十村」として懐柔し、謂わば、現場監督としての権限を与える一方、それを利用して農民を末端までを掌握し、農村全体を中間管理で監督させ、徴税を円滑に進めるための制度であった。これは富山藩・大聖寺藩にも適用されて、十村制はその業務範囲を広げ、農政の実務機関としての役割を極めて効率的に果たした。富山藩領では特に知られたのは竹島家であった(ここはウィキの「十村制」等に拠った)。]
下つて麓の原を有原と云ふ。立山を開基せる佐伯有原右衞門と云ふは、此有原の人なればなり。
[やぶちゃん注:「有原」不詳。前の有峰を下ってということだと、位置的には立山登山のトバ口となる富山市原がそれらしくは見える。
「佐伯有原右衞門」飛鳥から奈良にかけての人物で「立山開山縁起」に登場する越中国司・佐伯(宿禰)有若の息子とされる佐伯有頼(さえきのありより 天武天皇五(六七六)年頃~天平宝字三(七五九)年?)という人物らしい。ウィキの「佐伯有頼」によれば、『霊示を受け、神仏習合の一大霊場である立山を開山したという。出家して慈興と号したと伝えられる』。『文武天皇の夢の中で「騒乱の越中国を佐伯宿禰(有若)に治めさせよ」との神のお告げがあ』り、その『越中国司に任ぜられた有若が加越国境の倶利伽羅山にさしかかったとき、一羽の美しい白鷹が舞い下り、有若はこれを国を治める象徴として善政を行った。有若にはなかなか子供ができず祈り続けていたところ、ようやく神のお告げの』通り、『男子が誕生したので、有頼と名付けた』。十六『歳になった有頼が父の大切な白鷹を無断で持ち出し狩をしに出かけたところ、白鷹は急に舞い上がり飛び去ってしまった。あちこち探し回り、道に迷いながらもさらに行くと、ようやく一本の大松に止まっている白鷹をみつけた。白鷹が有頼の手にとまろうとした一瞬』竹藪から『一頭の熊が現れた。鷹は驚いて再び大空に舞い上がってしまう。有頼が矢で熊を射ると、熊は血を流しながら逃げていった。血の跡を追って山に分け入ると、三人の老婆に出くわし、「白鷹は東峰の山上にいるが、川あり坂ありの至難の道であり、勇猛心と忍耐心が必要である。嫌なら早々に立ち去るがよい。」と諭された。それでも勇気をふりしぼって』、『さらに何日も進んでいくと、ようやくこの世のものとは思えない美しい山上の高原にたどり着いた。ふと見れば白鷹は天を翔け、熊は地を走り、ともにそろって岩屋へと入っていった。中に入ってみると、なんと』、『そこは光り輝き』、『極楽の雰囲気が漂っており、奥に不動明王と』、『矢を射立てられ』、『血を流している阿弥陀如来とが立ち並んでいた。有頼は驚き、己の罪の恐ろしさに嘆き悲しみ、腹をかき切ろうとしたところ、阿弥陀如来は、「乱れた世を救おうと、ずっと前からこの山で待っていた。お前の父をこの国の国司にしたのも、お前をこの世に生み出したのも、動物の姿となってお前をこの場所に導いたのも私である。切腹などせず、この山を開き、鎮護国家、衆生済度の霊山を築け」と告げた。立山の為に生涯を尽くすことを誓った有頼は』、『直ちに下山し』、『父にこの事を告げ、父とともに上京して朝廷に奏上した。文武天皇は深く感激し、勅命により立山を霊域とした。有頼は出家して名を慈興に改め、立山開山の為に尽力した』。『没後、雄山神社立山若宮に神として祀られる。古文書には立山町宮路に墓が記されたものもある』。『立山・剱岳方面の山小屋経営者や山岳ガイドには、有頼の末裔の家系伝承を持つ佐伯姓の人物が多い』ともある。]
川の岸に至りては有裾(ありそ)と云ふ。故に有裾川なること故實なり。此川の流れ出づるは、岩瀨の海へ落つる故に、「有そ海」と云ふは此(この)略語なり。
[やぶちゃん注:「有裾(ありそ)」不詳。しかしこれ、先の「原」の上流、富山市粟巣野(あわすの)という地名と発音が似通っている(「ありすそ」≒「あはすの」)。だが、さっきから言っている通り、ここは常願寺川上流で、神通川ではないから、私がそう推理しても結果は無効なのである。
「岩瀨」神通川の話なら正しい。神通川河口の両岸の地名は現在も極めて広域で「岩瀬」の名を含む(グーグル・マップ・データのこの全面の各地名や施設名を見られたい)。]
此川の水怪、一二を以て語るべからず。
此地鮎(あゆ)大(おほき)にして味又美なり。時として鵜の千羽狩(せんばがり)といふことあり。鵜夥しく川下より群(むらが)りて鮎を追ふ。鮎皆水を離れて川原へ跳(おど)り上り、里人只拾ふに、荷(にな)ひ餘りて捨ること多しと云ふ。
[やぶちゃん注:「鵜の千羽狩」不詳。私の父は鮎釣りのプロフェッショナルだが、聴いたことがない。なおこの記述からでは、本種が鳥綱カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus であるか、ウ属カワウ Phalacrocorax carbo であるかは識別出来ない。本邦で鵜飼に使用されるのは大型のウミウ(中国はカワウ)であるが、ここは鵜自身の自立的な摂餌行動だからである。但し、神通川河口付近の古地図の地形を見るに、砂浜海岸であるから、カワウである可能性が極めて高い。ウミウは断崖に営巣するからである。]
舟橋の上に淵あり。淵の主は川鰈(かはがれひ)と云ひ、一たび此鰈表を飜(ひるがへ)せば、水中の白光天目に輝き、舟橋の上の人目眩(くらめ)き、水へ落ちて惡魚の爲に喰はる。此淵富山の城中本丸の下迄廻り入ると云ふ。
[やぶちゃん注:「川鰈」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科ヌマガレイ属ヌマガレイ Platichthys stellatus。主に東北・北海道の沿岸や汽水域に生息するが、時に河川の中流域まで遡上することから、「川鰈」の別名がある。ウィキの「ヌマガレイ」によれば、『体長は40cm。大きい物は90㎝になる。一般的にカレイ類は体の右側に眼をもつ右側眼であるが、本種は目の向きの奇形が多く、カリフォルニア沿岸で約50%、アラスカ沿岸で約70%、日本近海はほぼ100%が左に目があり、正常型のほうが少ないという状況になっている(視神経の走り方からするとヌマガレイも通常のカレイ同様に右に目があるのが正規である)』。『背びれ、しりびれ、尾びれには黒色の帯模様がある』。『湖沼や河川の中流域など汽水・淡水に生息する。河川の上流域などでも稀に見る事ができるが、一生淡水で過ごすわけではなく、一時的に淡水へ侵入する。産卵期になると海へ下る』産卵時期は二~三月とある。「富山県民生涯学習カレッジ」公式サイトの廣瀬誠氏の「川は暮らしを支える 越中の川と文化」の「川にまつわる伝承」に、『神通川舟橋の下に大カレイが生息していて、体をひるがえして日光を反射させ』、『目のくらんで川に落ちる人を食ったという。富山城主前田正甫』(まさとし:富山藩第二代藩主。初代藩主前田利次の次男。富山藩繁栄の名君とされ、地場産業である製薬業の興隆の祖ともされる。ここに出る武勇伝は以下、次の段の本文にも出る)『が短刀をくわえて川に躍りこみ妖怪を退治したともいう。黒部川愛本の渕の主もカレイで、愛本の茶店の娘は代々渕の主のカレイに嫁ぐしきたりであったと『稿本越の下草』(天明頃、1718頃)に記されている』とある。カレイの妖怪というのはなかなか珍しい。
「此淵富山の城中本丸の下迄廻り入ると云ふ」これは富山城本丸を囲む堀割のことを指していよう。次段参照。]
曾て聞く。富山大内藏(おほくら)卿は剛力無双にして、水練を得給へり。苗加次郞左衞門と云(いふ)十村は、一日に六升の飯を喰ふ故に、此者を親しみ愛し給ひて、常に此川の水中に入りて、戶板を水底に突き立て、急流を遡ることをなして慰み給ふと云ふ。或日、大内藏卿、城中本丸の下ノ淵まで探し見給ふに、水怪皆逃れ散りて、只一つの米搗臼(こめつきうす)を殘すのみ。是又水妖なるものなり。
[やぶちゃん注:「富山大内藏卿」先の引用に私が注した前田正甫(慶安二(一六四九)年~宝永三(一七〇六)年)。彼の官位は従四位下・大蔵大輔(おおくらのたいふ)であった。
「水怪皆逃れ散りて、只一つの米搗臼(こめつきうす)を殘すのみ」怪異として丸投げ。或いは、水怪が引き込んだ人間をこの臼の下に挟み込んで食らったとか、臼で搗き殺して食ったとでも言うのであろうか。だったら、辺りに人骨累々とか添えればよいのにと思ったりした。]
此川水滿ちし時は、富山城下多くは水中に居(きよ)す。旅籠町(はたごまち)の遊女舟に乘(じやう)じて江口の君の思ひをなすこと、年每に一兩度なり。此川の水先き支ふるにも非ず。川岸高からざるにも非ず。只他の川とは水勢の變る所あるが故なり。斯(かか)る時は船橋の舟を切つて流す。眞中の數艘に取り乘つて、兩方の鎖を切つて流す。真中の數艘に取り乘りて、兩方の鎖を切流す。さしも大鎖(おほぐさり)なれども、水勢に打たれて只一打(ひとうち)に切れ離る。此時は中なる舟、鎖を切る勢ひにて依りて、急流を押分けて水上(すいじやう)ヘ押上ること一町[やぶちゃん注:百九メートル。]許り、一廻りして後流れに下る。此舟の上る理(ことわり)は、平日陸にありて量るとは大いに變れり。此舟を見ざれば知るべからず。此水に逢はざれば計るべからず。是を以て思ふに、座談の理(ことわり)は理の理なるものには非ず。皆人多く死理(しり)を理とおもへり。故に事に臨んで違(たが)ふこと多しとは思はる。
[やぶちゃん注:「水中に居(きよ)す」浸水して水浸しの中で生活せねばならなかった。
「旅籠町」一般名詞で町名ではないようである。
「江口の君」元来は、平安末期から鎌倉時代にかけて、摂津国江口にいた遊女の総称。後、謡曲「江口」による特定の遊女、妙(たえ)を指す。さらに「撰集抄」などの西行絡みの江口の尼の話とも混同された。
「一兩度」一度か二度。
「水先き支(ささ)ふるにも非ず」この「支ふる」は「妨げる」の意。流れが何かに邪魔されて溢れてしまうわけでもない、の意。
「此時は中なる舟、鎖を切る勢ひにて依りて、急流を押分けて水上ヘ押上ること一町許り、一廻りして後流れに下る」その切り離しを行った人の乗った中央の舟は、洪水に押し上げられて、その大きな波の上で上百メートル余りも持ち上げられ、そこで三百六十度回転した後に、川面に下る、の謂いか? もんどりうって一回転の方がシチュエーションとしてはアクロバティクでスリリングだが、それでは載っている者が振り落とされてしまう。しかし、以下で麦水が、「この舟が上に押し上げられられる理屈は、平常時、陸にあって推測出来るような生半可なものではない。この舟の有様を見ないものには判らない。この恐るべき洪水に実際に遭ったことがある者でなくては到底、理解できないものである」と言っているから、ここで私が説明することも容易には出来ぬ恐るべき常識では想像出来ない現象なのだ、と言っている限りは、これまでにしておこう。]