三州奇談卷之四 怪異流行
怪異流行
材木町鹽屋何某、心易き友三人連立ち、元文元年仲秋の良夜月見がてらに、四更の頃紺屋坂の下堂形前の空地に至りしに、怪しや長(たけ)高き人三人裸になり、肌の帶許(ばかり)にて、衣類大小帶にてからげ、何れも頭の上に戴き、手を取組み、
「爰は淺し、彼所(かしこ)は深し」
と瀨を探り行く躰(てい)にて、草原を大事に運び行く。
「爰は水急にして渡り難し、歸らん」
といへば、又ひとり
「我等に任せよ」
と云ふもあり。
「最早水は肩に越ゆるよ」
と云ふ聲して、終に奥村氏の馬場の土堤(どて)に登り、身を拭ひ衣類を着し、馬場の中五六返往來し、小將町(こしやうまち)の方へ行きし。誠に希有の夜行なり。思ふに、是好事の者、野狐をして還つて疑はしむるの術と覺えたり。
[やぶちゃん注:「材木町」金沢市材木町(まち)。卯辰山と浅野川を隔てた左岸。
「元文元年」一七三六年。
「四更」丑の刻に同じい。
「紺屋坂」石川県金沢市兼六町で兼六園への北の登り坂である紺屋(こんや)坂(グーグル・マップ・データ)。加賀藩の初期に藩の御用染屋商であった森本舘(たち)紺屋孫十郎が坂の附近に住んでいたことに由来する。
「堂形前」通常、金沢で「堂形」というと、金沢市広坂のこの付近であるが、坂との位置関係が合わない。これは本来の堂形に城米を納める米蔵が以前からあったが、寛文一二(一六七二)年頃に新たに、この紺屋坂下にも米蔵が建造されたことから、旧を古堂形、新築を新堂形と呼んだことによる。
「奥村氏の馬場の土堤」ADEACの「延宝金沢図」を見ると、石川御門を出たところに「土居」とあり、薄墨で塗ってあり、道を隔てて「奥村伊豫」の下屋敷がある。この「土居」というのがそれか? 土居には水害対策等のための堤・土手の意がある。
「小將町」金沢市小将町(グーグル・マップ・データ)。]
猶又新しく聞えしは、彥三町(ひこそまち)内藤善太夫と云ふ人あり。此屋敷の腰元「たよ」と云ふ者、同じ傍輩と枕を並べ部屋に臥居たりしに、或夜の夢に、見馴れぬ女來りてさんざんに恨みかこち、後にはたぶさを摑みて組付きけるが、辛うじて目覺めければ、髮も打亂し、櫛も笄(かうがい)もあたりへ打散りてありき。夢とは云へども終に覺えざる難儀と、傍輩にも語りければ、ともども介抱して、
「ふしぎなること」
と、人々にも是を語り傳へしに、同じ端(はし)た者に「たま」といへる女、密(ひそか)にさゝやきて云ふ樣(やう)、
「恥しきざんげなれど、我ら此家のおとな何某殿と密通して居ること、本妻のもとへ洩れけるにや、いつの頃よりか每夜我夢に來て是を恨み、且(かつ)打擲(ちやうちやく)せらるゝこと凡(およそ)二月(ふたつき)許(ばかり)、一夜も缺かざるに、夕べ許(ばかり)は妻女夢に來らざりし故、心よく寢入たると思へば、偖(さて)は取違へてそなたの方へ來られしものならん」
と淚ながらに語りける。
[やぶちゃん注:「彥三町」金沢市彦三町(グーグル・マップ・データ)。]
生き靈の取違へも又一奇談なり。思ふに、古き本に云へる幽靈は、必ず「申し申し」と呼ぶ。是は慥(たしか)に夫(それ)とは知りながらも、古へは物事丁寧を專らとする故にぞ呼ぶならん。今の人の輕卒は人間界の事とのみ思ひしに、扨は幽冥へも此風(このふう)移りにけるかな。左(さ)あらば極樂にも日々音樂に新手を工夫し、いやみの地獄を拵へしと聞きしも、戯言(ざれごと)のみにはあらざりき。
[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 生靈」の注で私が電子化している。さて、これは最後の評言が、なかなかに諧謔的で面白い。ここもで読んできて初めて、表題の「流行」という謂いの滑稽にして皮肉な真意が明らかとなるのである。
「慥(たしか)に夫(それ)とは知りながらも」間違いなく恨んでいる相手と完全に認識し、それが正しいことが判っていても。
「いやみの地獄を拵へしと聞きし」「嫌味の地獄」。殊更に必要がないと判っていながら、新しい変った意味のない地獄の責め苦を案出しているらしいというのも。]

