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« 柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 一 | トップページ | 三州奇談卷之五 靈神誤ㇾ音 »

2020/04/21

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 二

 

       

 半井卜養(なからいぼくよう)の狂歌は、狂歌としては大したものではないが、当時の流行物を取入れた歌が多いので、考証の材料としては一種の価値があるといわれている。貞門や談林の俳諧にしても、そういう意味においては固より閑却しがたいものがあるに相違ない。けれどもこれらの価値は、いずれも文学的標準を姑(しばら)く第二に置いた場合のものである。其角が人事的興味を縦横に駆使して、当時の事象を捉えたことは、已に述べた通りであるが、彼の句は時代考証の資料として重きをなすという程度のものではない。少くともその成功したものにあっては、時代的興味と文学的価値とを兼ね備えている。ただ其角の集中からこの種の句を列挙することは、その煩に堪えぬから、ここには少許(しょうきょ)の例を挙ぐるに止める。其角の面目ここに尽く、というようなわけでは勿論ない。

[やぶちゃん注:「半井卜養」(慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七九)年)は江戸前期の医師で狂歌作者にして俳人。本姓は和気(わけ)で名は慶友。堺出身。寛永一三(一六三六)年前後に幕府の医師として江戸に招かれて法眼となり、後に典薬頭(てんやくのかみ)となった。一方で文事を好み、若くして俳諧・狂歌に遊び、京では松永貞徳らと一座し、二十七歳の頃には、既に堺俳壇の第一人者となっていた。江戸では斎藤徳元・石田未得らと交わり、江戸俳壇の草分けとなり、貞門の五俳哲の一人に称された。慶安元(一六四八)年には姫路城主松平忠次の家医となった。承応二(一六五三)年、将軍に見参を許され、鉄砲洲に居宅を賜った。このころより狂歌活動が盛んになり、朽木稙綱・酒井忠能ら諸大名と贈答を行っている。その狂歌は「卜養狂歌集」に見られるように措辞・格調よりも即興性に妙がある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「貞門」俳諧の一派。松永貞徳を祖とし、寛永(一六二四年~一六四四年)初期から約半世紀にわたって盛行。安原貞室・山本西武・北村季吟(芭蕉の師)などを代表とし知識層を中心に普及。発句は言語遊戯を、付合は詞付を主とする。古風。

「談林」俳諧の一派。西山宗因を中心に、井原西鶴・岡西惟中(いちゅう)らが集まり、延宝年間(一六七三年~一六八一年)に隆盛をみた。言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化を図り、奇抜な着想や見立てと軽妙な言い回しを特色とした。蕉風の発生とともに衰退したが、宗因立机前後の芭蕉に強い影響を与えている。飛体(とびてい)。]

 桐の花新渡の鸚鵡不言  其角

 この句には「長崎屋源左衛門家に紅毛(こうもう)来貢の品々奇なりとして」という前言がついている。長崎屋は本町にあったオランダ宿だそうである。紅毛人来貢の珍しい品物がいろいろ並べてある中に、舶来の鸚鵡のいるのが目についた。遥々海を越えて東海の浜に著いた鸚鵡は、黙りこくって何もいわない。(「不言」は「モノイワズ」と読むのである)其角はその様子を直(ただち)に捉えて句中のものとしたので、桐の花は長崎屋の庭にでも咲いていたのであろう。当時における新渡の鸚鵡の珍しさは、今日のわれわれが熱帯魚やペンギン鳥を見るようなものではない。こういうハシリの材料を持って来るのは、其角の其角たる所以であるが、われわれがこの句に感心するのは、単にハシリの材料を捉えたというに止らず、句としても成功している点にある。桐の花に配された無言の鸚鵡は慥(たしか)に画中の趣である。われわれはこの句を誦する毎に、其角の抱いた新なる感興をまざまざと感じ得るような気がする。「新渡」の「新」にだけかかる新しさならば、そう長い生命を有するはずがない。

 其角は当時における新材料を捉えると共に、それ以外の何者かを把握し得たのである。

[やぶちゃん注:「桐の花新渡の鸚鵡不言」歴史的仮名遣で示すと、

 桐(きり)の花(はな)新渡(しんと)の鸚鵡(わうむ)不言(ものいはず)

と読む。句は「五元集」から。「桐」はシソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。夏の季題。四月中旬から五月にかけて円錐花序に淡い大きな紫色の花を円錐状に咲かせる。この花の色や形も、似たような形の鸚鵡の嘴(くちばし)とモンタージュされると、どこか奇体なる異国情緒を感じさせるから不思議である。人真似をするはずの鸚鵡が「もの言は」ぬというのも、今にも人間そのものの言葉を発するかも知れぬ不気味さを漂わせてよい。そう感じた時、まさに知らず知らずに読む者は其角の遊ぶ危所、宵曲の言う「新奇」「新機軸」の時空間(それはまさに映画的な画像上のモンタージュである)に立ち入っていると言えるのである。

「長崎屋源左衛門」とあるのは、江戸本石町三丁目(現在の中央区日本橋室町四丁目二番地)にあった薬種商・貿易商で外国人向けの宿泊施設を提供していた長崎屋であろう。ウィキの「長崎屋源右衛門」によれば、『江戸幕府御用達の薬種問屋で』、『幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた』。『この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた。カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の』一『つとなっていた。身分は町人であるため江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった』。『カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白』『などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている』。『幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢の訪問客と会うことができた。商館員たちはあまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、行動が大きく制限されていた彼らにとって、この商家は外部の人間と接触できる貴重な場の』一『つであった。商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる』。『カピタンの江戸参府は年』一『回行われるのが通例であった』とある。]

 時鳥あかつき傘を買せけり  其角

 『五元集』には「傾廓」という前書がついている。其角というと直に紀文(きぶん)、吉原、というような連鎖を辿って一個の幇間(ほうかん)的人物を作り上げるのが最も簡単な一般的見解のようであるが、この句は慥に吉原風景の一である。当時の吉原には雨の時に傘や木履(ぼくり)を売歩くということがあったらしい。『類柑(るいこうじ)文集』にも「あかつき傘」という文章があって、この句を記した後に「傘うりの暁ばかり来るものかは」ということが書いてある。元禄時代にあっては容易にこの間(かん)の消息を解し得たのであろうが、時を隔てては解し得ぬ虞(おそれ)があるため、特に「傾廓」の二字を置いたものかも知れない。遊里にふさわしい洒脱な句風である。

[やぶちゃん注:「時鳥あかつき傘を買せけり」須賀川(福島)の等躬(とうきゅう)編の俳諧集「伊達衣」(元禄一二(一八七五)年自序)では、以下の前書がある。

   荵摺(しのぶづり)の追加撰(えらば)れしと
   聞(きき)て、深切の輩かたらひ、卽興の一卷
   を贈る

  時鳥(ほととぎす)曉傘を買(かは)せけり

「荵摺」は元禄二(一八六五)年刊の等躬(とうきゅう)編の俳諧集で、その「追加」が「伊達衣」なのである。「一卷」とは本句を発句とした其角以下からなる五吟歌仙を指す。

「類柑文集」其角の遺稿集。貴志沾洲(せんしゅう)らの編になり、其角の遺稿を整理・補訂したものに「晋子終焉記」や追悼句などを附す。没したその年(宝永四(一七〇七)年)に刊行している。]

 妹が子や薑とけて餅の番  其角

[やぶちゃん注:「薑」は「はじかみ」。生姜(しょうが)のこと。]

 この句はこれだけでは何の事かわからない。「震威流火しづまりて」という『五元集』の前書を見ても、なお十分にわからぬようであるが、林若樹氏の説によると、元禄十六年十一月十四日、江戸大震の時の句ではないかということである。地震のあとの火事が漸くしずまったので餅を焼いて食おうとする、寒さにかじかんで利かなくなっていた手が、餅を焼く番をしている間に、次第に暖まって動くようになったのだ、という解釈であるが、そう解するより外あるまいと思う。恐しく複雑なことを簡単にいってのけたもので、右の如き解釈によって僅に意味を髣髴出来るようなものの、漫然この十七字に対したのでは到底見当がつきそうもない。

 震災大火というような出来事が俳句になりにくいのは一半はその出来事の性質により、一半は俳句の性質によるのである。(どんな事柄でも正面から俳句になると考えるのは、伝統的な風雅以外に俳句の材料はないと考えると同じく、一種の謬見(びゅうけん)に過ぎない)其角は震災による火事がややしずまったところに、こういう小景を見出した。地震を逃れて戸外に夜を明すような場合であろう。方々に起った火の手も次第におさまって、今までの恐怖が薄らぐと同時に、俄(にわか)に寒さを感じ空腹を感ずる。そこであり合せの餅を焼いて食おうということになる。この句はそういうホッとした場合を現したので、餅の番をする手のかじかみが取れるにつれ、凍えたような心にも或寛(くつろ)ぎを覚えたに相違ない。

 われわれはこの句を以て直に成功したものと見るのに躊躇する。少くとも上来述べた如き解釈を下すには、文字の表現が不十分だと思われる。但(ただし)大震火災の漸くしずまらんとする空気の一角を鋭く摑んであるために、この十七字から右のような連想を起すことが出来るのである。これも名人は危所に遊ぶ一例と見るべきかも知れない。(この句の難解な一理由は、突如とし「薑」が出て来るところにある。手という字が上にあれば、生薑手(しょうがで)を想像することは比較的容易であろうと思う)

[やぶちゃん注:「林若樹」(はやしわかき 明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)はかなり名の知られた骨董収集家・考証家。本名は若吉。ウィキの「林若樹」によれば、東京市麹町区生まれ。早くに両親を失い、叔父に養われた。『祖父の林洞海から最初の教育を受け、病弱であったため』、『旧制第一高等学校を中退するが、その頃から遠戚にあたる東京帝国大学教授・坪井正五郎の研究所に出入りして考古学を修めた。遺産があったため』、『定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古し、狂歌・俳諧・書画をたしなみ、かたわら』、『古書に限らず雑多な考古物を蒐集した』。明治二九(一八九六)年には『同好の有志と「集古会」を結成し、幹事となり雑誌『集古』の編纂を担当した。次いで、人形や玩具の知識を交換し合うため』、明治四二(一九〇九)年には『「大供会」をも結成し、「集古会」「大供会」「其角研究」など、定期的ではあるが』、『自由な集まりを通じて、大槻如電・大槻文彦・西澤仙湖・根岸武香・山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・久留島武彦・清水晴風・竹内久一・三田村鳶魚・内田魯庵・岡田紫男(村雄)・寒川鼠骨・三村竹清・森銑三・柴田宵曲といった人々と交流を重ね、自らの収集品を展覧に任せた』。『死後、雑誌『集古』『彗星』『日本及日本人』『浮世絵』『新小説』『同方会報告』『ホトトギス』などに発表された論文を集めた』「集古随筆」(昭和一七(一九四二)年大東出版社刊)がある。

「元禄十六年十一月十四日、江戸大震」元禄大地震であるが、クレジットが誤り。元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)が正しい。同日未明の午前2時頃に関東地方を襲った巨大地震で、震源は相模トラフ沿いの房総半島南端千葉県野島崎付近と推定され、マグニチュードは7.98.5と推定されている。なお、ここで宵曲が「大震火災」と書いているのもやや語弊がある。実はこの「大震災」と「火災」は江戸に関して言えば、時期に六日ものズレがあり、直接の地震による類焼などではないからである。ウィキの「元禄地震」によれば、『江戸では』この地震による被害は『比較的』『軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは建物倒壊による被害が出た』程度であった。但し、『平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら』、『一面泥水が溜っていたなどの記録がある。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名』で、『東海道の諸宿場でも家屋が倒壊し、川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。元禄地震では、地震動は箱根を境に東国で甚だしく西側は緩くなり、宝永地震では逆に箱根を境に西側で甚だしく関東は緩かったという』。『上総国をはじめ、関東全体で12か所から出火、被災者約37,000人と推定される』。ところが江戸では、『地震7日後の1129日酉下刻(18-19時頃)、小石川の水戸宰相御殿屋敷内長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失した』。『この火災は地震後の悪環境下における二次災害とみられないこともないと』も『される』。ある記録では、『1129日の火災による被災者も併せて、地震火事による死者は』二十一万千七百十三人と『公儀之御帳に記されたとあり』、『他に地震火事による犠牲者数として』「鸚鵡籠中記」には二十二万六千人、「基熈公記」には二十六万三千七百人余のよし、『風聞に御座候とある』とある。

「生薑手」狭義には先天性の奇形や事故による怪我などで、指が欠損・損傷し、生薑のような形をした手を指すが(別に「字の下手なこと」をも指す)、ここはごつごつとした節くれ立った手のことである。]

 起てきけ此時鳥市兵衛記  其角

 当時の社会種を句にしたものである。『市兵衛記』というものは荻原(おぎわら)近江守が林信篤に命じて書かしめたというのであるが、その内容がどんなものであるかは、『其角研究』にも載っていない。『徂徠(そらい)文集』の記載によると、市兵衛なる者は上総の義奴である。その主人次郎兵衛が罪を得て大嶋に流された後、自己のあらゆる生活を犠牲にして、その老父と遺児とを奉養すること十一年、江戸に出ては官庁に訴え、身を以て主人の罪に代らんことを請うた。官遂にその忠誠に感じ、次郎兵衛の田宅を以て市兵衛に賜うの旨を伝えたが、市兵衛は肯(あえ)てその命を奉ぜず、旧主の子万五郎に賜わらんことを願って許された。宝永二年[やぶちゃん注:一七〇五年。]三月の事だというから、其角の歿する二年前の話で、「姉ケ崎の野夫忠功孝心をきこしめされて禄を給はりたる事世にきこえ侍るを」という『五元集』の前書は右の事実を指すのである。

 忠僕義奴の話は日本に少からずある。人情紙の如しという今の世の中でも、感心な雇人というものが時々肖像入(いり)で新聞に出ているように思う。が、世上流布するところの忠僕譚に比すると、徂徠の伝えた市兵衛の行状は、文章の簡潔なせいもあるかも知れぬが、頗る沈痛で、真(まこと)に懦夫(だふ)をして起(た)たしむるの概(がい)がある。其角が「起てきけ」と喝破(かっぱ)したのも、やはりその沈痛な意気に感じてのことであろう。吉原と紀文で其角を説こうとする標準では、どうしてもこういう句は割切れぬ勘定になる。

 明治以後の俳人の中には、新聞社などにいた関係から余儀なく時事俳句を作った人がいくらもあった。けれどもその多くはその場その場の責塞(せめふさ)ぎで、時の興味を離れて存在し得るものは極めて少い。其角のこの句はその場限りの時事俳句とも思われぬ。やはり自分の感興に基いて、この種の材料をも句中に取入れたのであろう。こういう試みもまた俳諧における易行道でないことは明(あきらか)である。

[やぶちゃん注:ネットを調べたところ、この市兵衛の子孫である姉崎氏の篤志家で市議会議も務められた員斎藤孝三氏が書かれたものを、一九九六年に著者の奥さまが発行された第二版「姉崎郷土史 忠僕市兵衛物語」というパンフレットがあり、それがこちらで完全に電子化されており、そこに驚くべき細かい事件の詳細とその後の経緯が記されてあるのを発見した。それによれば、「深城村鉄砲事件」が元であるとある。以下、引用させて戴く。『今から約二百八十年前、元禄八年』(一六九五年)『と云えば彼の有名な赤穂義士の討入りが行われた数年前のことである』。この『年の九月、上総の国(今の千葉県市原市)姉崎村の出来ごとである』(千葉県市原市姉ヶ崎。グーグル・マップ・データ)。『当時の姉崎村は隣接小部落を入れて七ケ村各部落に小名主があって姉崎村総名主が統轄していた』。『姉崎村総名主、本名斎藤次郎兵衛(屋号内出)当時三十六才、極めて円満な人柄で知られる素封家の主だった』。『或る日、その次郎兵衛方に駆け込んで来たのが深城村の名主半兵衛であった』。『話の内容は斯うであった』。『深城村では当時猪が出没して畑の作物を荒らして困るので、お上からお預かりの鉄砲で猪退治をやって居たが、或る日猟師の惣兵衛と云う者が畑の中でゴソゴソ動いていた動物を見付けて一発ドカンとやった処、ギャッと云う声に驚いて近寄って見たら、猪かと思ったのが豈に計らんや同じ深城村の百姓久左衛門の女房お竹であった』。『傷ついたお竹を慌てゝ抱き起してみたものの、弾が急所に当ったと見えて、お竹は既に死んでいたと云う』。『惣兵衛の報告を聞いて半兵衛も一緒に相談したが、如何して良いやら判らない。それと云うのも当時は今と違って刑罰が極めて厳しかったから誤ちであろうとなかろうと人を殺した者は死罪と相場が決まっていた』。『いまから考えると無茶な話であるが、此がお上に知れれば死罪打ち首は免がれない。惣兵衛と云う人物がお人好しで真面目な人間だっただけに、深城村の名主半兵衛もさて如何したものかと迷った挙句、総名主次郎兵衛の所へ相談に駆け込んだというわけであった』。『責任上』、『次郎兵衛も一緒になって相談したが、何と云っても良い知恵が湧いてこない。代官所へ訴え出なければ後のお咎めは酷しいし、そうかと云って惣兵衛の命も助けてやりたいし、ホトホト困り抜いた次郎兵衛は姉崎村の名主全員を集めて協議した結果、次郎兵衛の裁決に依ってお上に内密にして事件を済ませようという事にした』。『惣兵衛とその女房が感涙に咽んだのは当然であった。被害者がお竹の亭主久左衛門には示談金として相当の金を与える事によって事件は一応』、『落着した。村人には極力口を封ずるよう厳命したので、お上には知れずに済むであろうと判断したのだったが』、『その考えはやゝ甘かった』。『秘密は意外な事からお上の知る所となったのである』。『お竹の亭主久左衛門が酒の上のことから、つい示談金の金が少ないなどと』、『近所の人に喋言った事が、ふとした事からお上の手先に聞こえてしまったのである』。『また、一説には旅館丁子屋』(ちょうじや)『の風呂たきが酒を呑んで、うっかり喋言ってしまったとも云われている』。『兎も角、驚いた代官所では早速取調べを開始した。その日のうちに次郎兵衛以下名主等は、芋づる式に代官所へ引き立てられて行った』。『簡単な調べのあと二、三日たって江戸の奉行所へ送られたが、ロクな裁判も行われず、判決は直に申し渡された』。『犯人の惣兵衛は打首になったのは仕方ないとしても、可哀想なのは被害者お竹の亭主久左衛門で、金を貰って内々に済ますとは、以ての外と云うかどでこれ又打首となってしまった』。『一方の名主等は』、『いづれも家屋敷、田地田畑悉ごとく没収、身柄は遠島という重刑に処せられる事になった。遠島と云えば』、終身、『島で過ごさねばならず、考えように依っては死刑以上に重い刑であった』。『何故斯んな重い刑を科せられたかを考えてみると、当時お上が一番恐れたのは民百姓たちが不平不満を爆発させはしないかという事であった』。『封建時代の日本では、武士階級だけが特権を持ち』、『安閑とした生活を営なみ、無知蒙昧な百姓町民は只黙々としてお上の命令に従うだけで、決してそれに批判や反発は許されていなかった。従って彼等が内密に集会を開くという事を極度に警戒して居たのである。而かも今回はお上を無いがしろにしたような行動を執ったという事で、誠に怪しからんというのが』、この『厳罰となった原因であった。当時の為政者が保身の為に作った苦肉の策であった』。『遠島は昔から鳥も通わぬ八丈島と相場が決っていたが、次郎兵衛だけは家』格を『認められて罪一等を減じ、一人だけ伊豆の大島へ流される事になった。時に元禄八年暮れの十二月のことである』。『昨日の栄華に変る今日次郎兵衛の姿、深編笠に両手を縛られて、流人船は波荒い大島へと走って行った』。『さて』、『本題の主人公市兵衛というのは』、この時、その『名主次郎兵衛の家に作男として住み込んでいた奉公人、所謂』、『身分卑しい下僕であった。地位も名誉も財産もなく只働くだけで他に何の取り柄もない愚直そのものゝような男、人呼んで姉崎市兵衛、当時三十三才の』男であった。『島流しになった次郎兵衛には遺族として父』『(七十三才)』、『妻おきい、娘お蝶(六才)』、『倅萬五郎(三才)があったが、臨月であった妻おきいは』、この『事件にショックを受けたと見え、早産すると同時に呆気なく頓死してしまった』。『悪い時には尚悪い事が続くもので、父』『は驚きと悲しみから、ばったり病の床に就くようになり、而も財産という財産は悉く没収された為に、住む家無く、食うに物無く、無一文の一家は乳呑児を抱えて只死を待つばかりの哀れな状態に放り出されたのである』。『悲哀のどん底に陥った一家の窮状を目の前にして下僕市兵衛は茲に奮起一番、主人一家を救うべく、一大決心を以って立ち上がった』。『先づ』、『女房のおのぶと相談し、娘(八才)を隣村の豪家に十年々期八両で子守奉公に出し、その金で田畑を買い、そこへ堀立小屋を建てゝ一家を住まわせる事とし、自分達は土間に藁を敷いて寝たと云う。しかも律儀な市兵衛はその後十年以上の長い間、依然として宛かも旧主人に仕える如く、朝に夕に上げ膳据え膳を以って仕え、自分は一歩退って座したと云う。常人の到底為し得ない忠義そのものであった』。『また主家族一同の悲嘆を見るにつけても、心に深く期する所がある如く、市兵衛は暇さへあれば』、『五井の代官所へ出頭して遺族の窮状を述べると共に、主人次郎兵衛の赦免を再三再四に亘って願い出たのである。然し何度行っても代官所では、軽いあしらい程度で追い返されるばかり、市兵衛の顔は次第に憂鬱に打ち沈んでいった』。明くる『翌元禄九年の春、市兵衛は遂に意を決して単身江戸奉行所へ訴え出る覚悟を決めた。訴状には具(つぶ)さに家族の窮状を認め、主人を慕う者の切々たる情が文面に溢れ出ていた』。『江戸と云っても今なら電車でほんの一時間余りの所、然し当時としては草鞋を履いてテクテク歩いて十六里(六十キロ)、ラクな旅路ではなかった。然し』、『市兵衛の一心にとってはそんな事は問題ではなかった。背中に赤ん坊を背負い』、『道中差を差し、取替えのわらじと握り飯を持って市兵衛は黙々と歩いて行った』。『朝(あした)に星を戴いて姉崎村を出発したものの、江戸に到着するのは』、はや『陽もとっぷり暮れた夜おそくであった。途中で何度か狼に襲われた事もあったほどひどい道中だった』。『江戸に着くと豫ねてから知り合いの日本橋小網町の米問屋、姉崎屋四郎右衛門宅に身を寄せてその世話になった。四郎右衛門は姉崎出身者なので市兵衛の来訪を快く迎え、その話を聞いて非常に感激し、涙を流し乍ら市兵衛の手を握って出来る限りの協力を誓った』。『意を強くした市兵衛は喜び勇んで、早速四郎右衛門に連れられて江戸町奉行所へ出向いて訴状を差し出し、願い筋を申し入れた』。『時の奉行は萩原』(「荻原」の誤字)『近江守重秀だった。重秀は訴状に目を通すと非常に感銘した様子だったが然し、国法の手前如何とも致し難し、という理由で市兵衛には目通り』さえ『許されず』、『引き払いを命ぜられたのである』。『諦めるに諦め切れぬき持ちで、再び十六里の道を故郷に帰る市兵衛の足はさすがに重かった。口惜しさに涙が溢れて、眠れぬ日が幾日も続いた』。『やがて半年がたった同年九月、もう一度と云う希望に燃えて市兵衛は、再び江戸の土を踏んだ。然し奉行所の返事は前と何の変りも無いものだった』。『けれど市兵衛の決心はそんな事で決して砕けるものではなかった。不倒不屈の精神の持主、市兵衛の心には次第に執念の鬼と化して行った。爾来毎年二回乃至三回、足繁く江戸に通って奉行所へ執拗に訴え出たのである』。『或る時は次郎兵衛の娘お蝶を背負って行き、泣き落としの手を使った事もあれば、又或る時は白洲に座り込んで、役人を手古ずらす作戦も取った。四年五年と之が続く内、役人とも次第に顔馴染みとなり、時には弁当や茶を出される事も有るようになった。奉行も内心市兵衛に好感を持っていたので、次第に向き合って話すようになり、出来る事なら何とかしてやりたいという気になって来た』。『十年という歳月がその間に流れ去って行った。いつの間にか市兵衛の頭も真白になっていた。今や市兵衛は最後の手段を取る外ないと覚悟を決めた』。訴状には「市兵衛一身を抛打(うっちゃ)って主人次郎兵衛の身に代らせて頂き度く」と『記して白洲に平(へい)』『つく張った。そうして』「今度という今度ばかりは、お願いの筋が通らなきゃ、わしは二度と姉崎の土は踏まねえ決心をして参りました」と述べたという。『そう云う市兵衛の目から涙が放り落ちるのを近江守は見落さなかった。着物の下着に白装束を用意している市兵衛を見て、近江守は遂に意を決して、幕府への直言を心に決めたので』あった。『当時としては幕府が一旦決めた事に対して、減刑して欲しいと意見を申し出る事は、奉行といえども余程の覚悟が無ければ出来ない事であった』。『星移り、年替って宝永二年』(一七〇五年)『正月十八日、遂に市兵衛積年の苦労が報われる日がやって来た』。『幕府老中方は、奉行萩原』(「萩原」の誤り)『近江守の報告を聞いて大いに動揺した。老中筆頭本多』(ほんだ)『伯耆守正永を始め、秋元喬朝』(たかとも:秋知の書名)、『土屋正直、小笠原長重、稲葉正通』(正往とも書き「まさみち」と読む)『孰れも、市兵衛の忠節は武士以上の所業なりと判断した。当時』、『幕府御用頭として老中以上の実力を持っていた柳沢吉保に到っては、訴状を読み終えるや否や』、『暫し無言の儘』、首を『うなだれていたが、ハラハラと落ちる涙拭いもあえず、バッタとばかり膝を叩いて『でかした市兵衛とやら。一身を顧みる事なく主人次郎兵衛に代って罪に服したいとはよくよく健気な者である。人は、斯くありたいもの、市兵衛に褒美を与えよ。』と云われた。早速』、『奉行所から市兵衛のもとに田畑六町歩お下げ渡しのお墨付きが手渡された』。『然し市兵衛は自己の褒美などは眼中に無かったので』、『之を堅く固辞して受けず、飽く迄、主人次郎兵衛の赦免を願って止まなかった』。『翌十九日、更に幕府評定所に出頭して只管』(ひたすら)『嘆願を続けたのである』。『至誠天に通ずとでも云おうか、鬼神も哭かしむる市兵衛の超人的努力は、遂に幕府老中方を完全に納得させる事となった。お上と雖ども』、『人情に変りは無い。老中に異存が無かったので』、『時の将軍綱吉公の決裁する所となり、遂に市兵衛の願意は悉ごとく許されることになった』。『市兵衛の喜びは如何ばかりであったろうか、察するに余りあるであろう』。『市兵衛の善行に感激した幕府の至命は、ただ次郎兵衛一人に止まらず、同じく罪人として八丈島に流された者達迄、悉ごとく赦免されて故郷に帰る身となったのである』とある。そうして、その終りの方にも『時の儒者荻生徂徠は『上総義民 市兵衛記』の撰文を将軍家に献上してその偉業を讃えた。また林大学守信篤も』、『市兵衛礼讃の一文を草して世の識者に啓蒙した。人生の喜びも悲しみも、そのどん底から頂上迄』、『すべてを味わいつくして来た市兵衛は、晩年は倖せそのものに過ごしたと云われ、享保十九年』(一七三四年)『春七十二才を以ってその波乱多き生涯を終わった』と記されてある。長々と引いてしまった。しかし、宵曲が事件の経緯は判らないと言い、其角が意気に感じたというそれは、どうしてもここに具体に示さずにはいられぬものと考えたことを、ご理解頂きたい。

「荻原近江守」旗本で勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られる荻原重秀(万治元(一六五八)年~正徳三(一七一三)年)。官位は従五位下・近江守。参照したウィキの「荻原重秀」を読まれたいが、彼の経済政策は当時としては画期的で概ね正当なものであったが、対立した新井白石に激しく憎まれ、遂には勘定奉行を罷免されるに至った。重秀追い落に成功した新井白石は「折たく柴の記」でも「荻原は二十六万両の賄賂を受けていた」などと繰り返し記した結果、一方的な悪評が定着してしまったとある。なお、上記電子化では「萩原」と誤っているので注意されたい。

「林信篤」号を林鳳岡(はやしほうこう 正保元(一六四四)年~享保一七(一七三二)年)と称した幕府儒官。林鵞峰の子。信篤は名。幕府儒官林家 (りんけ) を継ぎ、元禄四(一六九一)年に林家の家塾が湯島に移って昌平黌となると、その大学頭となった。また儒者が士籍に入ることを主張して、これを成功させている。将軍綱吉・吉宗の信頼が厚く、門下からは幕府及び諸藩に仕える者が輩出した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。将軍家宣は二人の側用人を解任し、大学頭であった信篤をも抑えさせて、新井白石にその職責の大半を代行させたため、信篤は反白石派であった。

「其角研究」寒川鼠骨・林若樹(既注)編。昭和二(一九二七)年アルス刊。

「徂徠文集」成立年未詳だが、荻生徂徠が徳川綱吉の死去と柳沢吉保の失脚に遭って、柳沢邸を出、現在の茅場町内に蘐園塾(けんえんじゅく)を開いたが、そこには隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句を残しており、其角とも縁があったのである。其角の当時の旧居はここ(グーグル・マップ・データ)。

「義奴」「ぎど」。義侠心を持った下僕。]

 其角の一身を繞(めぐ)る逸話の中で、最も人口に膾炙しているのは、三囲(みめぐり)で雨乞する者に代って詠んだ

 夕立や田を見めぐりの神ならば  其角

の句と、赤穂義士関係の話であろう。雨乞の方は其角自身「翌日雨ふる」と書いているのだから、本人のいうところに従うより仕方がないが、赤穂義士に至っては、講談、浪花節をはじめ、大分いい加減な材料が行渡っているので、どうしても其角の書いたものを見る必要がある。

[やぶちゃん注:「夕立や」の句は、淡々編の「其角十七回」(享保八(一七二三)年奥書)には、

   *

一、晋子船遊びに出て、人々暑をはらひかね「宗匠の句にて雨ふらせたまへ」とたはぶれければ、其角ふと肝にこたへ、「一大事の申事哉(まうしごとかな)」と正色赤眼心をとぢて、「ゆふだちや田も三巡りの神ならば」いひもはてず、雲墨(すみ)を飛(とば)し、雨聲盆をくつがへす計(ばかり)、船をかたぶけける事まのあたりにありけり。一氣の請(うく)るところ、真の發(おこ)るところ、欺くまじきは此道の感なり。

   *

と記されている、と一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(上)」の評釈にある(記載を参考に漢字を正字化して示した)。その解説によれば、これは隅田川の東岸、現在の墨田区向島にある三囲神社(グーグル・マップ・データ)で詠まれたものである。ウィキの「三囲神社」によれば、『創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧』『が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを』三度、『回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという』とあり、元禄六(一六九三)年の旱魃の折り、『俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地[やぶちゃん注:「ゆふだちや」。]や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀した』と本句を出す。また、『三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の』「囲」『の文字に三井の』「井」の字が『入っているため、「三井を守る」と考えられたため』とあるから、この神社の「井」の字にあやかって雨乞いの場となったことも推察出来よう。また、堀切氏はこの各句の頭を拾うと「ゆ」「た」「か」となり、『折句仕立てにもなっている』と指摘される。目から鱗である。]

 『五元集』の中にある左の句は、其角と義士との交渉を尋ねる上において、最も簡明な資料であろう。

  故赤穂城主浅野少府監長矩之旧臣、
  大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ
  報亡君之讐今玆二月四日
  官裁下シム一時シテㇾ刃シク一ㇾ
  万世のさへづり黄舌をひるがへし
  肺肝をつらぬく

 うぐひすに此芥子酢はなみだかな  其角

  富森春帆、大高子葉、神崎竹平(ちくへい)
  これらが名は焦尾琴にも残り聞えける也

[やぶちゃん注:引用は底本では五時下げで、句の前後の添文は底本ではポイント落ち。]

 前書の文章も俳句に劣らず難解であるが、大体の意味はわかっている。其角は四十七士の中に大高、富森、神崎らの知人を有していたのだから、これを悼むの情も自ら他に異るものがあったのであろう。その人たちの句が自分の撰集たる『焦尾琴(しょうびきん)』に載っていると附記したのを見ると、あるいは多少得意に感ずるところがあったのかも知れぬ。

 更に『類柑文集』にある「松の塵」という文章を見ると、

文月(ふづき)十三日、上行寺の盆にまふでてかへるさに、いさらごの坂をくだり、泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとおもふより、子葉、春帆、竹平等が俤(おもかげ)、まのあたり来りむかへるやうに覚えて、そゞろに心頭にかゝれば、花水とりてとおもへど、墓所参詣をゆるさず。草の丈(た)ケおひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたる事を手向草(たむけぐさ)になして、亡魂聖霊、ゆゝしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。

[やぶちゃん注:以上の引用は底本では全体が二字下げ。]

 これは四十七士の新盆たる元禄十六年のことであろう。後には見物の名所になっている泉岳寺が、墓所の参詣を許さず、草が生い茂っているという有様も、当年の事実として面白いが、門を覗くにつけても子葉、春帆、竹平等の俤がまざまざと浮んで来るというのは、其角としては如何にもそうであったろうと思われる。われわれは疑問の余地ある有名な話よりも、こういう断片的な記載の中に多くの真実を感ずる。其角の扱った社会種の中でも、赤穂義士の一挙の如きは大きな出来事に属するが、以上のような関係から、客観的に離れて見るわけに行かなかったのであろう。俳諧手段として用いた芥子酢の裏に、其角の涙が裹(つつ)まれていることは勿論である。

[やぶちゃん注:「其角と義士との交渉」この話はかなり知られているが、水を差すようで悪いが、例えば、赤穂浪士四十七士の一人で、通称を源五・源吾(げんご)と称し、湖月堂子葉の号で俳諧にも熱心であった大高忠雄(おおたかただお 寛文一二(一六七二)年~元禄十六年二月四日(一七〇三年三月二十日)のとの邂逅については、ウィキの「大高忠雄」に、『忠雄は俳人宝井其角とも交流があったとされ、討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた忠雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした忠雄に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対し、忠雄は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残るが、それを裏付けるものがなく後世のフィクションである。明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられた』と一蹴しており、「義士新聞社」のサイト「忠臣蔵新聞」の元禄一五(一七〇二)年十二月十二日(第二百三号)「大高源五さんと宝井其角さん 両国橋の出会はフィクション?」には、其角の残した義士に係わる書状には不審や疑問点が多く、信じ難い旨の細かな考証が載る。但し、彼は宝井其角とともに当時の江戸俳壇の中心人物の一人で蕉風に属し、其角とも親しかった水間沾徳(みずませんとく)の門下であった(水間は其角没後に江戸の俳諧諸派を束ねる大宗匠となった)から、其角と知り合いであったことは確かであり生粋の江戸っ子の「危所」に遊ぶを旨とした其角にして、誰よりも義士への強い共感と思い入れがあると自負していたことも疑いようはない。

「少府監」「せうふのかん(しょうふのかみ)」は「内匠(たくみ)の頭(かみ)」の唐名。浅野長矩は従五位下・内匠頭であった。

「同志異体」「異體同心」(身体は別々でも心は同一であること)に掛けた謂い。

「報亡君之讐」「亡君の讐(かたき)に報ゆ」。

「今玆」「こんじ」と読む。今年。本年。

「二月四日」元禄十五年十二月十四日(一七〇三年一月三十日)寅の上刻(午前四時頃)に義士一行は討入に出立、吉良邸での闘争は二時間ほどであった。その後、各大名家にお預けとなった彼らに幕府が切腹の処分を決した(「官裁」)のが、元禄十六年二月四日 (一七〇三年三月二十日)で、同日、全員が切腹した。

「令シム一時シテㇾ刃シク一ㇾ」「一時(いちじ)に刃(やいば)に伏(ふく)して屍(かばね)を斉(ひと)しくせしむ」。

「万世のさへづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく」ここは「文選」にある三国時代の魏の文学者曹植の「三良詩」の以下の末尾の二句に基づく。

   *

 黃鳥爲悲鳴

 哀哉傷肺肝

  黃鳥(くわうてう) 爲(ため)に悲鳴し

  哀しきかな 肺肝(はいかん)を傷ましむ

   *

詩全篇及び訓読・評釈・現代語訳は強力な紀頌之氏のブログ「漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩・唐詩・詩詞 解釈」のこちらを見られたいが、それによれば、この詩は、『功名は天の差配によるもので自分だけで為せるものではない。忠義こそは私の心のよりどころとするところであるのだ。かつて秦の穆公が世を去るにあたって,三臣の良臣は皆自害して後を追ったのである。かれらは生きている時には主君と栄楽を共に等しくしていた,死んでからは憂患を同じものとしたのである』という内容であり、この二句は、『樹木で囀るウグイスは三人の良臣を悲しみの声で鳴いている。ああ、哀しいことか!』『心もこの身も傷つけてしまうばかりのことである』とある。其角はその悲嘆を「万世(ばんせい)」永遠に続くものと謂ふのである。堀切氏は前掲書では、実際に其角がその場で『食べている芥子酢が利き過ぎて、ぽろぽろ涙が流れ落ちる』という映像としつつ、勿論、その涙には『自刃の報らせが、あまりに衝撃的で、人心を強烈に刺戟したことが寓せられているわけであ』り、『またそうした幕府の処断が、あたかも鶯に芥子酢を与えるような残酷さであることの意を託しているようにもみられよう』と評釈された上で、『宗因の「からし酢にふるは泪(なみだ)か桜鯛」(『小町踊』)を踏まえ、またその句を介して「春さめのふるは涙かさくら花ちるを惜ししまぬ人しなければ」(『古今集』巻二・春、大伴黒主か)の歌の、下の句の心を生かした句作である』とされる。

「うぐひすに此芥子酢はなみだかな」サイト「詩あきんど」の「其角発句10」の本句を挙げられ、『一連の赤穂事件について、其角がどうのような考えを持っていたかというと、この発句にあるように、この顛末は、鶯に摺餌を与えるところを、間違えて芥子酢を食わせたような酷さだと云う意味になる』とされ、「三良詩」が前書のベースであるとされ、その『後註を読めば、赤穂事件により切腹させられた富森春帆、大高子葉、神崎竹平の三人を「三良」に擬しているのが分かるだろう。これら三人は其角の編集した俳諧集『焦尾琴』にも載る俳人だったわけであり、三良の詩や故事が載る『詩経』や『左伝』を読んだ事のある者なら、其角が、殉死、敵討ちといった行為そのものを哀しみ、義士、忠臣などの言葉を用いていない事に気づく』。『こうした其角の高度な考えは、世間一般のレベルには分かり難いものだったであろう。そこで、戯作作家らは其角の知名度を利用して俗なるエピソードを拵えあげて行った』のである、と評釈しておられる。

「富森春帆」「とみのもりしゅんぱん」は赤穂義士の一人富森正因(まさより)の俳号。通称、助右衛門(すけえもん)。ウィキの「富森正因」によれば、彼は俳諧をたしなみ』、『宝井其角に師事し、春帆と号した』とあり(太字下線は私が附した)、討入の際には、『母から贈られた女小袖を肌につけ、姓名を記した合符の裏に「寒しほに身はむしらる丶行衛哉」と書いていた』という。享年三十四。

「神崎竹平」「かんざきちくへい」は赤穂藩士神崎則休(のりやす)の俳号。通称、与五郎。ウィキの「神崎則休」によれば、『大高忠雄・萱野重実』(かやのしげざね:討入前に忠孝の狭間で苦悩の末に自刃した悲劇の人物としてよく知られる。ウィキの「萱野重実」を参照されたい)『と並んで浅野家中きっての俳人として知られた』。享年三十八。思文閣「美術人名辞」によれば、其角に学んだ桑岡貞佐(ていさ)の門人であり、宝井其角とも親しかったとある。

「焦尾琴」元禄一四(一七〇一)年自序。なお、この書名は琴の異称であるが、もとは後漢の蔡邕(さいよう)が、呉人の桐を焼く音を聴き、その良材であることを知って、その桐材で尾部の焦げたままの琴の名器を作ったという故事に基づき、本来は中国の琴(きん)の名器の名である。

「文月(ふづき)十三日」宵曲はこれを「四十七士の新盆たる元禄十六年のことであろう」としているので、元禄十六年七月十三日(グレゴリオ暦一六九九年八月八日)のこととなる。

「上行寺」芝高輪、現在の東京都港区高輪一丁目二十七番(グーグル・マップ・データ)にあった日蓮宗上行寺。泉岳寺の南西裏手直近に当たる。昭和三八(一九六三)年に上行寺は伊勢原市へ移転したため、現在、其角の墓は神奈川県伊勢原市上粕屋の上行寺(グーグル・マップ・データ)内にある。

「いさらごの坂」東京都港区三田四丁目と高輪二丁目の間に現存する伊皿子坂(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「伊皿子坂」によれば、『江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた』とあり、その名の由来は、凡そ一六〇〇(慶長五)年『頃に、来日した明人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる』とある。]

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